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新宿探訪 西新宿3 策の井跡

 新宿エルタワーの西側の植木の影に、「策の井跡」の碑の頭がかすかに見られます。
道行く人の多くは気がつきません。
「策の井」の碑
「策の井」といわれるのは、徳川家康が鷹狩りの帰途、汚れた「策」を洗ったという伝承のある名水が湧いた故事によります(『江戸砂子』より)。
 天和年間(1681~83)に出版された『紫の一本』には「策の井は四谷伊賀の先にあり、今尾張摂津下屋敷内(美濃高須藩松平家)にあり、東照公鷹野に成らせられし時、爰に名水あるよしきこし召し、おたづねなされ、水を召し上げられ、御鷹の策によごれお洗はれたる故に、この名ありといふ」と書かれています。
 つまり新宿区には「策の井」は2ヶ所あります。
 その2ヵ所は、どちらも美濃の高須藩松平摂津守の屋敷があった所です。
 つまり、四谷伊賀の先というのは、今の荒木町で、そこには松平摂津守の上屋敷があり、新宿西口のこの場所には、下屋敷があったのです。
 荒木町の策の池
現在荒木町には、池があり、そこを策の池と言い、策の滝もあったと案内があります。
荒木町はまた別の機会に書くとして、新宿西口の高須藩松平家の下屋敷は、新宿駅西口広場から工学院大学辺りにかけてありました(1万坪)。
 弘化4年(1847)10代藩主義建(よしたつ)は隠居して、ここに庭園を築造し「魁翠園(かいすいえん)」またの名を「聚玉園」と名づけます。
当時書かれた漢詩や和歌などの記録によると、「広い園内には十二景が設けられ、春は梅、柳、若草の丘に登って霞む彼方に富士を眺め、夕暮れの鐘の音。初夏には竹林の筍を掘り、玉川の流れを引き入れた池で蛍狩り。秋は池を巡って観月、池中に浮かぶ島の茶室での点茶、紅葉の楓林を愛でながらの献酬。冬には庭内での鷹狩りが行なわれた」というように記されています。また、100間余の馬場があったようで、10代藩主義建は乗馬を得意としていたようです。
 明治になると角筈屋敷跡の西部、「策の井跡」の碑あたりには女子独立学校が建てられます(明治16年)。後の精華学園です。また、その南に杉浦重剛の日本中学校が麹町から移転してきます。
 なお、「策の井」はそのまま精華学園の中庭にあって、手押しポンプで使用されていました。どんな日照りでも枯れたことのない井戸だったようですが、ビルの建設で水が出なくなってしまいました。
東側、今の駅寄り、かつての魁翠園は岩倉公爵の所有となり、「華竜園」と名づけられました。そこには、大正天皇が東宮の頃にしばしば訪ねられたという「隣雲軒」もありました。
明治期、小田急百貨店のあるあたりに<津之守(つのかみ)山>という子どもの遊び場があったという記録もあります。津之守とは摂津守のことで、荒木町の方には、津之守坂があります。津之守山は、松平家の築山の名残でしょう
その後、新宿駅の拡張に伴って廃園になり、明治38年には専売局の煙草工場として買収され、先に書いたように。明治43年に工場が竣工します。
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ちょっと気づいたこと

角筈屋敷に策の井があったことは俚俗江戸切繪圖(内藤新宿辺)でも確認できるのですが、「紫の一本}は国会図書館デジタルライブラリーで2種類の写本と大正4年発刊の「戸田茂睡全集」所載で読むことができますが、どこにも「下屋敷」とは書いていません。ちなみに塙保己一の和学講談所所蔵本はこうです。

策の井、四ツ谷伊賀町の先にあり、今尾張の摂津守殿屋敷の内にあり、東照宮御鷹野へ成らせられし時、爰に名水あるよし聞し召。御尋なされ水をめし上られ、御鷹の策よごれたるを、御あらはせなされ候故といふ。
(戸田茂睡全集「紫の一本」)

うがった見方をすれば、角筈の策の井にハクをつけるためにこのモニュメントを立てた都教育委員会(?)が史料を改竄したのではと疑ってしまいます。「紫の一本」を「一木」と誤記したのも何やら含みがあるのかも(笑)。下屋敷の記載のある「紫の一本」底本はあるのでしょうか。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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