虚無僧の寺「鈴法寺(れいほうじ)」

新町の旧吉野家から少し先に「鈴法寺跡」が公園となってあります。鈴法寺は廓嶺山虚空院鈴法寺」という「普化宗括総派」の総本山で、全国に120のお寺の末寺を持つ普化宗諸派の触頭(ふれがしら)でした。千葉県の一月寺と並んで関東普化宗の総本寺格の扱いを受けるようになりました。
鈴法寺跡碑
鈴法寺の成り立ちは、新町村を開拓した吉野家の古文書に次のように書かれています、「慶長18年(1613)、吉野家の先祖が、この辺 一帯を新田開墾し、井戸堀人足を探しに川越に行った折、忍城落城の時討死にした同僚の秋山氏の倅に会い、彼のために、敷地内に鈴法寺を建ててやった」
吉野織部之助は、行田市の忍城主に仕えた武士でしたが、落城後、村の土豪として身を立て、名主となりました。新田開拓にあたり、井戸を掘る技術者を探すために行脚の旅に出たところ、川越で、かつて忍城での戦死した同士(秋山惣右衛門)の子(惣太郎)に出会います。惣太郎は「月山養風」と号して、現川越市の葦草村(いぐさむら)の「鈴法寺」の住職となっていました。惣太郎は、織部之助の新田計画に協力し、新町村にその寺が移設されることになるのです。
新町の鈴法寺跡は、いまは見る影もなく、跡の碑が建つだけの公園になっています。
明治4年(1871)10月28日の太政官布告で普化宗は廃宗となり、寺も廃寺になりました。そして、残された伽藍も明治28年(1895)の火災で焼失してしまい、現在は鈴法寺公園となり、公園の奥に歴代住持(住職)の石塔が10基並べられ、それが、唯一鈴法寺のありかを知らせます。
歴代住持の石塔
普化宗は、普化禅宗と呼ぶのが本来の呼び名で、禅宗から生まれた一派です。
唐の時代に普化禅師という人がいて、この人が、竹の切り口に風が当たって音を発する調べを聴いて悟りを開いたことから始まったと言われます。
また、普化禅師が入滅する際に、鈴を振り続けて昇天し、鈴の音色だけが虚空に残ったことから、寺の名称に鈴法とか虚空とかを用いたのだそうです。そして、竹の切り口に当たる風の音を再現するために尺八が生まれたのだと伝えられます。
日本に広まったのは、鎌倉時代に和歌山の興国寺の法灯円明国師という人が、宋に渡り、普化禅師から16代後の張参という坊さんから「虚鐸」という尺八の曲を授けられたことから始まり、江戸時代には隆盛を誇りました。
虚無僧になれるのは、武士で、浪人とか武者修行の武士関係が多かったようです。
かつての時代劇にはよく虚無僧が登場しました。テレビ創世記に人気のあった、「隠密剣士」、大瀬康一の虚無僧姿が目に浮かびます。
虚無僧は、必ず三印三具を身につけます。三具とは、尺八、天蓋、袈裟です。三印は、免許状、虚無僧証明書、諸国往来自由の通行手形です。「無檀無縁」の虚無僧は、これを持ちながら、家々を廻り布施を受けながら、尺八を吹く修行を重ね全国を放浪しました。
「虚無僧」を宗徒とし、無檀無縁の自力本願を旗印にした宗派です。彼らには、幕府の保護もあり、虚無僧が門前に立てば米かお金を喜捨しなければいけないとか、日が暮れれば泊めてやらなければいけないというようなお達しまで出ていたようです。
そうした幕府の保護が、明治になって廃宗となる一因であったかもしれません。
鈴法寺井戸跡の石碑
前の青梅街道に道には、「鈴法寺井戸跡」の石碑がありました。ここにも井戸が掘られていたのです。
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プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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