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玉川上水通船・「巴河岸」

 玉川上水に船が通ったことがありました。
 明治3年4月15日のことです。舟には荷物や人が乗って青梅から多摩川を下り、羽村の堰を通って、四谷大木戸(新宿)まで、1日がかりでした。
帰りは、舟に綱をつけて、船子が上水の両側の堤の上から引っ張ったようです。
だが、この玉川上水の通舟は、玉川上水の汚濁が問題になって、明治5年5月30日で終わりになります。
再会運動が続けられましたが、受け入れられませんでした。
巴河岸のあったあたり
しかし、それが廻りに巡って、甲武馬車鉄道~甲武鉄道~JR・中央線につながっていきます。
18世紀の初め、江戸市中には人口があふれましたが、江戸への主要な交通路としては甲州道中(街道)、青梅道(街道)、五日市道(街道)が通っていました。
 江戸市中の生活物資の需要は高まる一方で、村々からの人と馬と大八車による輸送手段では追いつかなくなってきていました。また、街道筋の宿駅に整備された問屋や伝馬から、それぞれの権益の主張がされて、運送料が次第に高値を付けてきました。一方で、送る側の村では、人口も少なく、送りきれない生鮮食料は、滞留して腐敗する状況になっていました。
巴河岸

 一般的に、舟による運送の方がはるかに安価だと、物流は街道から河川へと変わろうとしていました。
武蔵野では舟を浮かべる川がなく、玉川上水そのものを利用して舟運を開きたいとのぞみましたが。幕府は、当然許可をおろしません。そういういきさつがありました。
やがて、維新の組織変更を迎えると、そのどさくさに紛れたのでしょうか、玉川上水利用の舟運が実現したわけです。
「玉川上水通船」と呼ばれました。当然、反対もあり、石や土塊が投げつけられたりしましたが、事業が繁盛した時には、舟の折り返し地である「新宿」界隈の盛り場は、一時、船頭が大もてになったとも言われています。
しかし、飲料水の水源である用水を利用しての事業です。水質汚濁の問題が指摘され、明治5年5月30日、廃止されました。約2年1ヶ月の運行でした。
 そこを走ったのが「甲武鉄道」でした。こうして現在のJR・中央線になりましたが、その過程は、武蔵野の歴史の面白さを堪能するのに十分です。
 「巴河岸」(ともえかし)があります。船溜場(ふなだまりば)の跡で、通船廃止によって埋め戻されたので、痕跡は何も残っていません。(写真は現在の巴河岸があったであろう場所あたりです)
  曳舟のため船子が苦労したであろう「足場」は、現在散歩道として、我々が歩いています。
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プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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