井の頭恩賜公園の井の頭弁財天
もう一度、井の頭恩賜公園へ行きました。先般書いていた井の頭の続きです。
井の頭公園の池畔にある弁財天は、関東源氏の祖と言われる源経基の創建で、伝教太師が延歴8年(789)の作という天女神を本尊に祀ったことに始まると伝えられています。
その後、源頼朝が東国平定を祈願し、その大願成就ののちに改築されたことが伝えられます。ところが鎌倉時代末期の元弘の乱の際に、新田義貞と北条泰家との対戦の兵火で弁財天は焼失していまいました。
それから数百年の間は、放置されたままでしたが、3代将軍徳川家光が、寛永13年(1636)に再建したと伝えられます。

現在の社殿は、大正12年の関東大震災で損壊、翌年に焼失後、昭和3年(1928)に再建されたものです。
井の頭弁財天のご本尊は8本の手を持った八臂像で、頭上に宇賀神を載せ、鳥居を冠しているそうです。秘仏で、12年に一度、巳年にご開帳されているので、来年は、お会いできるかもしれません。
井の頭弁財天は、神田上水源の水神で、音楽や芸能の守護神としての弁才天として、また商売繁盛の弁財天としても、江戸町人に盛んに信仰されていたようです。

参道から、階段を降りて来ると、弁財天入口には、天保4(1833)年建立の一対の灯籠があります。その台座には「日本橋」と大きく刻まれて、その下には奉納者の名が列記されています。おそらく、日本橋の人たちが寄進したものでしょう。

そこを入ると太鼓石橋がありますが、文化14年(1817)造築のものです。参道側から見た欄干柱には「神田御上水」「井の頭辨財天」とあり、社殿側から見ると「湯屋講」「壱番組」といった文字が刻まれています。江戸の一番組・湯屋講中が寄進したものだと思います。


社殿の前には、素朴で下半身のどっしりした狛犬がいます。左側、口を「吽=うん」と結んだ狛犬です。
提灯は三枚の鱗と波をデザインした弁天様ならではの紋です。これは弁天様が龍となって空に昇ったときに残ったものだそうです。

境内裏には龍の形の銭荒い弁天があります。
横は七井不動尊という小堂です。そのお堂の左に前に、弁財天坐像があります。よく見ると、とぐろを巻いた宇賀神を乗せた美しい弁財天の石像です。延宝4(1676)年に作られたとか、元禄12(1699)年に作られたとかいろいろな説があります。

ここのご本尊も宇賀神を乗せているようなので何かいわれがあるのかもしれません。
井の頭池には次のような言い伝えがあります。
「江戸の昔(あるいは鎌倉時代初期のこと)、北澤の松原(現・世田谷)に、子宝に恵まれない長者(「さんねんさん」という)夫婦がいました。
そこで井の頭の弁財天に願をかけたところ、時満ちて女の子が生まれました。
首筋に生えた3枚の鱗を怪しみつつも、これを育てるうちに、娘は美しく成長して『弁天様の生まれ変り』と評判になるほどの器量よしとなります。
やがて娘が16を迎え、親子3人打ち揃って、弁天様へお礼参りに出かけたところ、娘は池の前にじっとたたずんだまま動きません。両親がわけを問うと、娘は自分が池の主の化身であることを打ち明けます。
『今まで育てて頂いたご恩は、決して忘れません』
娘は池に身を躍らせると、その姿は大きな白蛇に変り、水底へと消えていきました。残された夫婦は娘をしのび、宇賀神を石に刻んで供養したといいます。」
この像が夫婦が寄進したそれにあたるかどうかは分かりません。

井の頭公園の池畔にある弁財天は、関東源氏の祖と言われる源経基の創建で、伝教太師が延歴8年(789)の作という天女神を本尊に祀ったことに始まると伝えられています。
その後、源頼朝が東国平定を祈願し、その大願成就ののちに改築されたことが伝えられます。ところが鎌倉時代末期の元弘の乱の際に、新田義貞と北条泰家との対戦の兵火で弁財天は焼失していまいました。
それから数百年の間は、放置されたままでしたが、3代将軍徳川家光が、寛永13年(1636)に再建したと伝えられます。

現在の社殿は、大正12年の関東大震災で損壊、翌年に焼失後、昭和3年(1928)に再建されたものです。
井の頭弁財天のご本尊は8本の手を持った八臂像で、頭上に宇賀神を載せ、鳥居を冠しているそうです。秘仏で、12年に一度、巳年にご開帳されているので、来年は、お会いできるかもしれません。
井の頭弁財天は、神田上水源の水神で、音楽や芸能の守護神としての弁才天として、また商売繁盛の弁財天としても、江戸町人に盛んに信仰されていたようです。

参道から、階段を降りて来ると、弁財天入口には、天保4(1833)年建立の一対の灯籠があります。その台座には「日本橋」と大きく刻まれて、その下には奉納者の名が列記されています。おそらく、日本橋の人たちが寄進したものでしょう。

そこを入ると太鼓石橋がありますが、文化14年(1817)造築のものです。参道側から見た欄干柱には「神田御上水」「井の頭辨財天」とあり、社殿側から見ると「湯屋講」「壱番組」といった文字が刻まれています。江戸の一番組・湯屋講中が寄進したものだと思います。


社殿の前には、素朴で下半身のどっしりした狛犬がいます。左側、口を「吽=うん」と結んだ狛犬です。
提灯は三枚の鱗と波をデザインした弁天様ならではの紋です。これは弁天様が龍となって空に昇ったときに残ったものだそうです。

境内裏には龍の形の銭荒い弁天があります。
横は七井不動尊という小堂です。そのお堂の左に前に、弁財天坐像があります。よく見ると、とぐろを巻いた宇賀神を乗せた美しい弁財天の石像です。延宝4(1676)年に作られたとか、元禄12(1699)年に作られたとかいろいろな説があります。

ここのご本尊も宇賀神を乗せているようなので何かいわれがあるのかもしれません。
井の頭池には次のような言い伝えがあります。
「江戸の昔(あるいは鎌倉時代初期のこと)、北澤の松原(現・世田谷)に、子宝に恵まれない長者(「さんねんさん」という)夫婦がいました。
そこで井の頭の弁財天に願をかけたところ、時満ちて女の子が生まれました。
首筋に生えた3枚の鱗を怪しみつつも、これを育てるうちに、娘は美しく成長して『弁天様の生まれ変り』と評判になるほどの器量よしとなります。
やがて娘が16を迎え、親子3人打ち揃って、弁天様へお礼参りに出かけたところ、娘は池の前にじっとたたずんだまま動きません。両親がわけを問うと、娘は自分が池の主の化身であることを打ち明けます。
『今まで育てて頂いたご恩は、決して忘れません』
娘は池に身を躍らせると、その姿は大きな白蛇に変り、水底へと消えていきました。残された夫婦は娘をしのび、宇賀神を石に刻んで供養したといいます。」
この像が夫婦が寄進したそれにあたるかどうかは分かりません。

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