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新宿探訪 西新宿篇12 十二社の池の変遷

 十二社(じゅうにそう)の池は、慶長11年(1606)伊丹播磨守が田畑の用水溜として大小2つの池を開発したもので、現在の熊野神社西側、十二社通りを隔てて建つビル側にありました。
1947年(昭和22年)当時の西新宿.....いや、角筈十二社の姿
 十二社は、近くの熊野神社が紀州の熊野十二所の神を祀っていることから、十二社と呼ばれていて、それが、一帯の旧地名にもなっていました。
 現在でも地元ではその名で呼ぶことがまだあります。公にはバス停の名前で残っています。
 十二社の池は、新宿中央公園の西側を南北に通る十二社通りの西側、北側に開ける深い谷戸の底にありました。
 すぐそばに新宿一帯の鎮守社熊野神社があること、寛文7年(1667)に玉川上水から神田上水への助水堀が引かれ、その神田上水助水堀から滝が落とされたことなどから、江戸近郊の景勝地として知られるようにmなります。
 広重『名所江戸百景』[角筈熊野十二社 俗に十二そう]
池の周囲には享保年間(1716~35)より、茶屋が並び、明治以降は料亭や芸者置屋も数多く出来て、池の西側からそれに続く丘陵地にかけて、花街として賑わいました。
 下の溜井(小池、下池)は明治期には既にかなり小さくなっていましたが、上の溜井(大池、上池)は弁天池とも呼ばれ、明治~大正期の時期で南北300m、東西50mの規模があって、池ではボートや釣り、花火が楽しめたほか、屋形船まで浮かべられていたといいます。
 一帯は大正13年(1924)には二業地(料理屋、芸者置屋)、昭和2年(1927)には三業地(二業地+待合)として指定され、賑わいました。その最盛期には料亭・茶屋約100軒、芸妓約300名を擁したと言われています。
 その後、花街は戦争末期の経済統制と東京の空襲でいったん消滅しますが、戦後に復興します。もちろん戦前ほどの規模ではないですが、1950年代に戦後の最盛期を迎えています。
 昭和33年(1958)には弁天閣が温泉を掘削し、「十二社温泉」としてオープンする。 しかし、その頃をピークに料亭、待ち合いは減少。池を取り巻く環境も、淀橋浄水場の廃止と副都心の開発、近辺の宅地化などによって大きく変化していきます。
 下の溜井(小池、下池)は、上の溜井(大池、上池)の分水で、昭和初期より一部の埋め立てが行なわれ、戦時中にはほとんどが埋め立てられていました。
 そして、上の溜井(大池、上池)も、昭和43年(1968)7月にはすべて埋め立てられてしまいます。
 花街も昭和60年ごろにはほとんどの料亭が廃業し、終焉を迎えます。
 平成24年(2009)には十二社温泉も閉館してしまいました。
 十二社池と花街の痕跡はまだいくらか残っています。
 今回はその一つ。
 十二社の池のなごり。池から。
かつては下ノ池の池端に続いていたであろう階段と、途中にある、おそらく待合の名残であろうホテル「ニュー寿」。ここは、荒木経惟の写真で知られています。
十二社の池のなごり。上から池の跡を望む。
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作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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