新宿探訪 西新宿篇11 ガスタンク・神田上水助水堀・水道道路
「梅屋敷銀世界」は、明治44年、東京ガス株式会社淀橋供給所の所有となり、梅樹は芝公園に移さます。そして、その「記憶」として、銀世界稲荷が祀られているのですが、そこには、東京ガスの大きなガスタンクがありました。
明治44年、当然のごとく、ガスタンク建設反対の住民運動が起こりましたが、翌45年5月、敷地1万3千216坪に容積約300万立方尺のガスタンクが竣工し、ガスは東京の外堀以西一帯の需要者に供給されることになります。
それから、平成2年(1990年)までガスタンクはありました。円筒形のタンクでガスの貯蔵量によって高くなったり、その量が低くなったりしていたのがよく見えたようです。
淀橋浄水場とガスタンクの、古い写真があるので、それを借ります。

ガスタンクのあった場所あたりで、もうひとつ、大切な記憶は、神田上水助水堀があったことです。
神田上水助水堀は、甲州街道脇の正春寺あたりから、十二社通りから熊野神社を抜け、青梅街道を越える淀橋へと走っていました。

神田上水助水堀は、通常の玉川上水の分水(主として農業用水、上水として分水された千川、三田上水も農業用水に転用)と、根本的に性格を異にしており、水量不足の神田川(神田上水)に、「上水」としての水を補給するためのものでした。
玉川上水の完成から10数年後の寛文7年(1667年)開設、明治31年(1898年)淀橋浄水場完成により、玉川、神田上水が上水としての機能を失うまで、一貫して維持されてきました。
その後も、昭和40年(1965年)浄水場廃止まで、その排水路として機能していました。
ただそれは、熊野神社を通り越しての水路で、そこまでの水路は、かなり以前に埋まられていたようです。
(地図は、大正7年ごろの様子を指名しています)
銀世界稲荷から十二社通りの方へ抜け、角筈区民センターへ向かいます。
その角筈区民センターの前の道は、水道道路と呼ばれています。
これは、明治31年(1898)、淀橋浄水場の新設に伴い現在の和泉給水所から淀橋浄水場まで開削された、一直線の水路の跡です。跡地のほとんどは都営住宅と道路に転用されましたが、道路の名前は淀橋浄水場への水路の記憶を残して、水道道路と呼ばれます。
明治44年、当然のごとく、ガスタンク建設反対の住民運動が起こりましたが、翌45年5月、敷地1万3千216坪に容積約300万立方尺のガスタンクが竣工し、ガスは東京の外堀以西一帯の需要者に供給されることになります。
それから、平成2年(1990年)までガスタンクはありました。円筒形のタンクでガスの貯蔵量によって高くなったり、その量が低くなったりしていたのがよく見えたようです。
淀橋浄水場とガスタンクの、古い写真があるので、それを借ります。

ガスタンクのあった場所あたりで、もうひとつ、大切な記憶は、神田上水助水堀があったことです。
神田上水助水堀は、甲州街道脇の正春寺あたりから、十二社通りから熊野神社を抜け、青梅街道を越える淀橋へと走っていました。

神田上水助水堀は、通常の玉川上水の分水(主として農業用水、上水として分水された千川、三田上水も農業用水に転用)と、根本的に性格を異にしており、水量不足の神田川(神田上水)に、「上水」としての水を補給するためのものでした。
玉川上水の完成から10数年後の寛文7年(1667年)開設、明治31年(1898年)淀橋浄水場完成により、玉川、神田上水が上水としての機能を失うまで、一貫して維持されてきました。
その後も、昭和40年(1965年)浄水場廃止まで、その排水路として機能していました。
ただそれは、熊野神社を通り越しての水路で、そこまでの水路は、かなり以前に埋まられていたようです。
(地図は、大正7年ごろの様子を指名しています)
銀世界稲荷から十二社通りの方へ抜け、角筈区民センターへ向かいます。
その角筈区民センターの前の道は、水道道路と呼ばれています。
これは、明治31年(1898)、淀橋浄水場の新設に伴い現在の和泉給水所から淀橋浄水場まで開削された、一直線の水路の跡です。跡地のほとんどは都営住宅と道路に転用されましたが、道路の名前は淀橋浄水場への水路の記憶を残して、水道道路と呼ばれます。




