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鶴ヶ城の塩蔵と天守閣からの風景

天守閣に入ります。まず塩蔵です。
塩蔵案内板

塩蔵石垣

石蔵模型

天守に登って、東西南北見渡しました。
<縄張>
内濠を隔てて東側に二ノ丸、三ノ丸と続き、台地下の北側に北出丸、西側に西出丸があります。
三ノ丸以外の各門は枡形石垣門になっていました。主郭は、天守とそこから南と東に伸びる走長屋(多聞櫓)により区分けされていて、南東側の御殿等を配置した区域が本丸です。その北から西側をL字に取り囲む区域が帯郭となっています。
主郭の虎口は全て帯郭に接続しており、天守の下にある鉄門を経て本丸に至ります。
現在の縄張は、主郭の東、北、西の三方の虎口(桝形)の外側を馬出で防御し、その馬出の虎口も桝形とする防御プランであり、郭の構成はシンプルですが、相当に厳重な縄張りです。

天守閣から北面。 走長屋が見えます。
天守閣から北面 走り石垣

天守閣から北面 縦の写真
"天守閣から東側、本丸です。「会津絵ろうそくまつりり~ゆきほたる~」のしかけも見えます。
天守閣から本丸(東)側

天守閣から本丸全体

天守閣から南側 赤瓦の屋根
天守閣から南側 赤瓦の屋根
2011年3月、再建された天守閣の屋根を45年ぶりに葺き替え、それまでの黒瓦を赤にしました。赤瓦は会津松平藩の藩祖保科正之公時代の慶安元年(1648)頃に葺き替えられたことが記録されています。表面に釉薬を施して焼いた赤瓦は強度があり、会津の冬の厳しい寒さ、凍結にも耐えることができたようです。
天守閣から南全体
天守閣から西側
天守閣から西側
天守閣から夕日
天守閣から西 夕日



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会津鶴ヶ城

大内宿へ向かうバスの中から見た鶴ヶ城の濠と石垣です。
濠と石垣1

続石垣と濠

バスから観た濠と石垣
大内宿で雪まつりを見て、鶴ヶ城へ向かいました。今回は夕方に鶴ヶ城に入ったので、「城」はあまり観られませんでしたが、石垣と、天守閣からの見晴らしを残しておきます。
鶴ヶ城 天守

若松城案内図
まず、鶴ヶ城の歴史から。
会津鶴ヶ城は至徳元年(1384)葦名直盛(あしな なおもり)が造った『東黒川館』が始まりとされます。後に会津領主の葦名盛氏が改築し、現在の城郭の原型を築きました。
当時の名前は『黒川城』でした。
文禄2年(1593)に、蒲生氏郷が本格的な天守閣を築城し、名前も『鶴ヶ城』と改められました。この時に積まれた石垣が400年以上経った今でも朽ちることなく、往時の姿を忍ばせています。
慶長16年(1611)に会津地方を大地震が襲い、石垣や天守閣は大きく傾いてしまいました。
その時に天守閣を改修し、西出丸・北出丸といった出丸を築き、ほぼ現在の姿の鶴ヶ城ができたのです。
その後寛永20年(1643)、保科正之が入り、以後会津松平家の居城となりました。
戊辰戦争で新政府軍の砲撃により外壁が破壊されましたが、天守そのものはなんとか倒壊しませんでしたが、明治7年(1874)建物はすべて解体されてしまいました。
現在の天守は昭和40年(1965)鉄筋コンクリートで外観復元されました。復元にあたっては当時の構図や資料をもとに造られたので、より本格的なものとなっています。
平成23年(2011)には、瓦が黒瓦から赤瓦に葺き替えされています。

駐車場から鶴ヶ城会館を抜け、北出丸を通って本丸へ向かいました。
鶴ヶ城濠

石垣 枡形案内
石垣は、はり込接でしょうか、前の案内板は、枡形の説明でした。
はり込み石垣
天守閣が見えました。
天守閣がみえた

野ずら積み石垣
歴史を眺めてきた石垣を見て歩くのが楽しいです。
城に石垣は付きものですが、築き方が時代によって違います。鶴ヶ城の石垣を年代的に見ると、一番古いのが天守閣の石垣で、蒲生氏郷が築いたものです。専門的には「野面(のづら)積み」という石の積み方で、自然石を組み合わせて積み上げます。傾斜が緩やかで、裾野が広いのが特徴で
さて、慶長16年(1611年)8月21日、会津盆地の西縁を震源とするマグニチュード6.9、震度6以上と推定される大地震が発生しました。民家2万戸が倒壊し、多数の死者も出る大惨事でした。七層の天守閣も傾きましたが、天守閣の石垣は持ちこたえたそうです。こんな粗い積み方で大丈夫だったのだろうかと思えますが、野面積は、地震に強いのです。
雪の天守閣
天守閣の入り口があります。この日は、左のお店のある所から入るようになっていました。
天守入り口

第20回会津絵ろうそくまつり~ゆきほたる~|2019|

大内宿の「雪まつり」は夕方からは雪灯籠に照らし出される幻想的な雪まつりに花火もあるのですが、開会式の時しか滞在できませんでした。
会津・鶴ヶ城の「会津絵ろうそくまつり~ゆきほたる~」へ来ました。
鶴ヶ城では、会津慶山焼の起き上がり小法師型瓦燈、会津本郷焼の瓦燈、銅筒など燭台に絵ろうそくを灯します。1本、1本に職人技が感じられる「会津えろうそく」は、会津の伝統工芸品のひとつです。
いくつか写真で紹介します。
ろうそくまつり

雪景色に浮かぶ会津幻影

会津本郷焼の瓦燈「会津絵ろうそく」2_edited-1

会津本郷焼の瓦燈「会津絵ろうそく」

銅の筒に絵ロウソク


日が暮れて小法師型瓦燈

日が暮れて「会津絵ろうそくまつり」


照らされる天守閣



大内宿の「高倉神社」

大内宿のメインストリートの途中に、立派な鳥居が立っています。
メイン道路の第一鳥居
この鳥居は、大内宿の守り神である『高倉神社』の第一の鳥居です。
高倉神社の歴史は古く、平清盛の全盛期に反平氏の挙兵をしたが、戦いに敗れてこの村に潜行したとされる高倉以仁王(たかくら もちひとおう)を祀ったもので、大内宿の鎮守になっております。
第二鳥居
第一鳥居から5分ほどのところに、第二鳥居が目印の森があります。この途中には美しい田園風景が広がり、大内宿のメイン通りとはまた違う自然の風景を楽しむことができます。
第二鳥居の前


杉の林の中から

雪の参道 石碑
三の鳥居をくぐれば、目の前にあの平清盛に反旗をひるがえしたとされる後白河天皇の第2皇子(高倉以仁王)を祀る高倉神社に到着です。
第三鳥居
第三の鳥居。
雪の石段
雪に埋もれた階段。滑ります。
高倉神社 拝殿
拝殿
拝殿です。
神社から大内宿を望む
下に降りて、大内宿を望みました。
大内宿の向こうの山々
大内宿の向こうの山々が雄大です。

<山本村から大内と改められた経緯>
高倉以仁王は、後白河天皇の第三皇子ですが、『平家物語』では兄の守覚法親王が仏門に入ったため第二皇子とされています。治承4年(1180)、源頼政の勧めで平家を倒すため令旨を発し、兵を挙げましたが宇治平等院での戦いで敗れ、渡部唱等と越後国小国の頼之を頼って逃亡しました。
その途中、当時の山本村(現在の大内宿)に逗留され、「高峰の風吹き戻す山本にこころとどめし道しるべして」と詠い、この里が宮中の大内(だいり)によく似ているため大内と改めたと伝わります。
高倉以仁王を高倉大明神として観請し、明治3年5月18日高倉神社と改めて、村の鎮守として祭られています。
以前は、高倉以仁王を敬い5月に祭礼を行っていましたが、田植えに時期と重なり大変忙しいため、一年の半分である半夏に祭りが移されて現在の「半夏祭り」となりました。
この辺りでは、雪が多いため田植えの時期が遅く、「半夏祭り」までは田植えを済ませる様にとなったということです。

福島県の観光スポット「大内宿」の雪まつり

雪祭りポスター_edited-1
2月9日、10日開催の「大内宿雪まつり」へ行きました。
大内宿は、会津城下と下野の国(しもつけのくに)(栃木県日光市今市)を結ぶ全長130キロメートル(32里の区間)の中で会津城下から3番目の宿駅として1640年ごろに整備された宿場町です。
会津西街道は関東側からの呼称で、会津側からは下野街道(しもつけかいどう)あるいは南山通り(みなみやまどおり)とも称されていました。
会津藩主の18回に及ぶ江戸参勤と江戸廻米の輸送と、当時会津藩と友好関係にあった米沢藩・新発田藩なども頻繁に利用した重要路線です。
また、以前の記録では天正18年(1590)伊達政宗の小田原参陣、同年の豊臣秀吉の奥羽仕置きに当宿場を通行した記録があるようです。
現在は国選定重要伝統的建築物群保存地区に選定されており、その美しい町並みが保存されています。40軒以上の茅葺き屋根の家が立ち並んでいます。
雪灯籠1

雪が降っています。
雪が降っています。
美人専用かまくら 5
美人専用のかまくら。
おそばやさん
りっぱな建物のおそばやさん。つららも見事。
ねぎそばの絵の旗
大内宿の名物と言えば高遠そば(ねぎそば)です。その絵の入った旗と干し大根。
たまやさん
玉屋。きんつばを売っているようです。
開会式
本陣跡地は下郷町・町並み展示館です。そこで雪まつり開会式。
大内宿の一番先のお店
大内宿の一番先のお店と、湯殿山の石碑。
この先の小高い丘が、大内宿のフォトスポットです。見晴らしが良いので大内宿を見下ろす形で写真が撮れます。
雪で滑って、一度転びましたが、登りました。
高台から 1

全景 高台から

望遠高台から 2
国選定重要伝統的建造物群保存地区に指定されるまでの経緯
昭和42年(1967)会津茅職人の調査に訪れた武蔵野美術大学の相沢教授(当時学生)が強く保存の必要を村に訴えました。しかし、村は賛成と反対との意見に2分されました。
相沢教授と当時の大塚実町長が時間をかけて熱心な説得に当たり、昭和50年(1975)文化財保護法の改正を経て、昭和56年4月、重要伝統的建造物群の指定を受けました。
通年を通し100万人を越える観光客が訪れるようになった今は、家でお土産店または蕎麦屋等の店へと変わり、農業から観光産業へと完全に切り替わってきました。
この大切な村・宿場の景観を未来の子供たちに引き継いで行くために、住民憲章を作り「売らない・貸さない・壊さない」の3原則を守り景観の保存にと伝統的な屋根葺きの技術習得、継承に全員で取り組んでいます。(大内宿観光協会の案内より)
雪灯籠の道道

王子の「名主の滝公園」

「王子七滝」のうち、現在唯一残るのが、「名主の滝公園」の男滝です。
名主の滝公園案内図
名主の滝公園背後の高台には、日光御成道(岩槻街道=赤羽岩淵宿で荒川を渡船で渡河)が通っています。
安政年間(1854~1860年)、王子村の名主・畑野孫八が自らの屋敷地に滝を築き、茶を栽培し、一般に開放したのが、名主の滝公園です。
名主の滝公園男滝全景
落差8mの男滝、女滝をはじめ、独鈷の滝、湧玉の滝という、4つの滝が配された池泉回遊式庭園ですが、現在は男滝のみに水が落ちています(写真は男滝)。
名主の滝公園が、現在のように整備・開発されたのは、明治の中頃です。
明治時代の半ばに貿易商・垣内徳三郎の所有となり、塩原(栃木県)の風景を模して庭石を入れ、ヤマモミジなどを植栽、渓流を配した庭へと整備公開しました。
昭和13年(1938)には精養軒が食堂やプールなどもつくり、「王子名園 名主の瀧遊園地」として一般に公開しましたが戦災で焼失し、戦後は荒廃してしまいました。
昭和35年(1960)に東京都が購入し都立公園となり、現在は北区が所管しています。
庭園には、100本ものヤマモミジとスダジイ、ムクノキ、80本ほどのイチョウ、50本ほどのケヤキなどの木々が生い茂り、ヘイケボタルも棲息しているとか。
「名主の滝公園」を散策しました。

名主の滝公園の薬王門
薬医門
名主の滝公園の中の橋
名主の滝公園の中の橋
名主の滝公園 女滝
名主の滝公園 女滝
名主の滝公園 男滝
名主の滝公園 男滝


王子七滝 絵図関連

王子・飛鳥山周辺は、江戸時代中期、徳川吉宗により行楽地として開発されました。
飛鳥山と言えば、桜が有名ですが、飛鳥山の花見を筆頭に、音無川流域の紅葉、台地からの見晴らしもよく、風光明媚な王子は月見や雪見も楽しめました。
加えて有名寺社も多く、なかでも王子の地名の由来となった「王子権現(現王子神社)」や、今回、初午に訪れた関東稲荷総社の格式をもつ「王子稲荷」があります。
そして、有名なのが、俗に「王子七滝」と呼ばれた滝でした。
音無川(石神井川・滝野川)を中心に武蔵野台地の崖線には滝があり、滝が多く、音無川に滔々と流れ落ち水量も豊富でした。
そうして、音無川の流域には、行楽客目当ての茶屋や料理屋も数多くあり、八代将軍吉宗が飛鳥山を整備した頃には、一大観光地になったのです。
この七滝うち、現在唯一残るのが、名主の滝。滝周辺は名主の滝公園として整備されています。
絵図で、かつての王子の滝の様子を観てみましょう。
『江戸名所図会』巻之五 玉衡之部
『江戸名所図会』巻之五 玉衡之部
泉流の滝ともいふ。正受院の本堂の後ろ坂路(はんろ)を巡り下ること数十歩にして飛泉あり。滔々(とうとう)として峭壁に趨(はし) る。この境(ち)はつねに蒼樹(そうじゅ)蓊鬱(おううつ)として白日ささへ、青苔(せいたい)露なめらかにして、人跡稀なり。

『名所江戸百景 王子不動之滝』
『名所江戸百景 王子不動之滝』
名所江戸百景 王子不動之滝 大判竪 歌川広重 安政4年(1857)
不動の滝は溪谷の窪みにあり、鬱蒼と茂った樹木に囲まれています。
しかしこの滝は、昭和33年(1958)の狩野川台風をきっかけに行なわれた石神井川の直線化と護岸工事によって、すっかり姿を消しました。

王子稲荷の東側にあった石神井川の堰 
『名所江戸百景 王子音無川堰埭 世俗大滝と唱』
『名所江戸百景 王子音無川堰埭 世俗大滝と唱]
堰を越えて落ちてくる水を世俗では大滝と呼んでいたというわけです。春の桜のころですが、よくみると何人かの人が組になって川に入っています。まだ水浴するには寒いと思うのですが、あるいは何らかの方法で魚を獲っているのでしょうか。

歌川広重(初代) 『絵本江戸土産 -王子の滝 其二 同所滝岩屋の弁天 十條の里女滝男滝』
『絵本江戸土産 -王子の滝 其二 同所滝岩屋の弁天 十條の里女滝男滝』
滝岩屋の弁天は、金剛寺裏手にあったという弁天の滝。
崖下にある洞窟(現在は石神井川護岸の裏側)に祀られていた弁財天が岩屋弁天です。
王子権現付近絵図_edited-1
江戸時代から滝遊びや紅葉の見物さらに岩屋弁天の参拝客で賑わったと言われます。

王子稲荷神社 初午 2

初午(はつうま)とは、2月最初の午の日の事です。
この日、稲荷信仰の総本社である「伏見稲荷神社」の御祭神・宇迦御霊神が伊奈利山へ降臨した日が2月11日で、この日が初午であった事から、稲荷信仰の祭の日となりました。
関八州の総元締め王子稲荷神社の境内には、凧を売る店が立ち、社務所では火防(ひぶせ)の凧や守り札が出されます。これは、火事が度々起こった江戸の庶民が、「凧は風を切る」として火事除けの縁起を担いだものです。
露店が出ている
JR王寺駅から歩いていくと旧参道の権現坂の交差点のところから露店が連なっています。
門に行列
並ぶこと20分、山門まで来ました。
本殿までの急階段
本殿まで急階段を上るので4列になり16名ぐらいずつの階段規制になります。
やっと参拝できました。
王子稲荷本殿
拝殿は極彩色の彫刻や金色の彫刻など美しく立派です。
文政5年(1822)に、11代将軍・徳川家斉が造営した拝殿が修復されながら現存してきたと言われます。
社務所では人気の「火防凧(ひぶせのたこ)」はじめ多くのお守りなども売られています。
火防凧購入しました。(1500円でした)
火防の凧
社殿の右奥には本宮や御石様と御穴様があり、社殿の右手が境内社などに繋がる参道となります。江戸時代に描かれた絵図にも社殿の右手に「本宮」が置かれていて、配置は変わりません。右手に奉納鳥居が連なります。
本宮前のお狐様
神狐像 本宮
その奥に稲荷社が三社。
並んで奉納鳥居の間から御穴様を望みました。
鳥居から御穴様
その下に「御石様」いわゆる「おもかる石」と呼ばれる石が祀ってあります。石を持ち上げた際に重く感じた場合は叶わず、軽く感じた場合は叶うと伝えられます。けっこう重かったです。
「おもかる石」
この横に石段。奉納鳥居を見ます。
奉納鳥居
その石段の上が「御穴様」と称される「狐穴」が祀られます。
お穴さま
かつてはこんもりと茂った杉の大木に包まれて昼でも暗く、山中にはたくさんの狐が住み、神使として大切にされていて、その跡がこの「御穴様」と称される「狐穴」です。
神楽殿
こちらは神楽殿。子どもの奉納の舞が披露されていました。
神狐像
裏側の鳥居に鎮座する神狐像です。

王子稲荷 初午 1

2月2日初午の日に王子稲荷社へ行きました。
王子稲荷神社は、東国三十三国稲荷総司との伝承を持ち、平安時代から信仰を集めて来て、徳川将軍の祈願所でもあったと言われます。それは、徳川家康が王子稲荷、王子権現、両社の別当寺であった金輪寺に宥養上人を招いて以降、江戸北域にあって存在を大きくしたことによります。
『江戸砂子』王子稲荷の段に以下のとおり記されています。
『狐火おびただし、この火にしたがひて、田畑のよしあしを所の民うらなふことありといふ。狐火にわうじ田畑のよしあしを知らんとここに金輪寺かな。年毎に刻限おなじからず、一時ほどのうちなり。宵にあり、あかつきにありなどして、これを見んために遠方より来るもの空しく帰ること多し、一夜とどまれば必ず見るといへり』
「 狐火の現れる時刻は年によって違うが、1~2時間ほどのことだという。晩に現れることもあれば明け方に現れることもあり、遠方からわざわざ見に来た人も見ずに終わることが多いが、一晩中待機していれば必ず見られるとのこと。」
毎年大晦日の夜、諸国のキツネ、社地の東、古榎のあたりにあつまり、装束をあらためるといい、江戸時代、狐火で有名でした。
江戸時代には王子稲荷は江戸の名所として絵画に描かれ、歌川広重は『名所江戸百景』で「王子装束ゑの木大晦日の狐火」を描いています。
名所江戸百景 王子装束ゑの木大晦日の狐火 歌川広重 安政4年(1857)
歌川広重 安政4年(1857)
二代歌川広重も『東都三十六景』に王子稲荷を描いています。神門、鳥居、石段、社殿といった構成で、こちらは現在の境内にかなり近い状態です。
二代歌川広重による『東都三十六景』
毎月午の日が縁日で、2月初午の日、二の午、三の午には賑わう。 社務所にて火防(ひぶせ)の凧、守札がだされ、境内にも凧を売る店が立ちます。そして、 毎年大晦日、除夜とともに「大晦日狐の行列」が王子稲荷へ向かって賑わいを見せています。
王子稲荷初午祭ノ図 豊国三代 やや縮小版
王子稲荷初午祭ノ図 豊国三代 弘化期−嘉永期(1847-52)
凧市風景

プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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