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「鈴木三重吉終焉の地(「赤い鳥」社跡)」

鈴木三重吉・西条八十の本
鈴木三重吉は目白、四谷と転々とし、昭和4(1929)年11月、淀橋区西大久保1の461が終焉の地です。西大久保は、西大久保410番地からこの地に転居しました。昭和11年(1936)に死去するまで住み、その間、赤い鳥社もそこにありました。
西大久保1の461がどこか、長くはっきりしていませんでした。それが、平成29年9月に新宿区が、新宿区歌舞伎町2-23-12のチェックメイトビルに「鈴木三重吉の終焉の地」の銘板を付けました。
以前の想定していたのは、もっと、稲荷鬼王神社の近くで、現在グランドベルホテルがあるところあたりだと思っていました。稲荷鬼王神社の氏子で、結びつきが強いはずで、こんなには離れていなかったのではと思ってしまいます。
チェックメイト社のビル
チェックメイトのHPを見ると、
「株式会社チェックメイトは、日本一の歓楽街である歌舞伎町に於いて68年の歴史がございます。
昭和24年、この地に「藤や旅館」を開業したところから始まります。26年間旅館業を営み、昭和35年には法人化してまる57年となりました。昭和50年に旅館業を廃業。
その跡地にチェックメイトビルを建設。チェックメイトとは将棋で言う王手詰めと言う意味で、これ以上の物はないと言う思いを込めて命名いたしました。館内はチェスのモチーフで統一され、1階のロビーより2階へ上がる階段の壁面には、エジプトのネフェルティティ王女がチェスをしているレリーフが埋め込まれています。
(中略)
また、平成29年にはこの地が新宿区の史跡に指定されました。昭和4年から11年まで夏目漱石の弟子の一人であった「赤い鳥」と言う同人誌を主宰していた、鈴木三重吉氏終焉の地と言うことでございます。
日々変化している歌舞伎町の街ではございますが、歴史をたどると思わぬ事が発見されることがあり、歌舞伎町が益々面白く興味を引く街となる事を願っております。」
という丁寧な文章が載っていました。
オーナーも、この銘板が取り付けられる時に「赤い鳥社」跡と初めて知ったようです。
「赤い鳥」の表紙の展示
ついでに、新宿区が、新宿区指定史跡にする時の議事録を見てみました。あまりこのようなもの見たことがないので、興味深く、長くなりますが、引用してみます。
「鈴木三重吉終焉の地(「赤い鳥」社跡)」について御説明いたします。
平成27年8月28日に諮問し、平成29年2月10日の答申でございます。
種別でございます。指定文化財の史跡でございます。所在地は、新宿区歌舞伎町2丁目23
番12号、チェックメイトビル。所有者は、株式会社チェックメイト、代表取締役、藤沢薫様でございます。
物件の説明でございます。小説家・児童文学作家の鈴木三重吉が昭和4年から昭和11年6
月27日に亡くなるまで暮らした住居跡で、同じ場所に児童文学雑誌「赤い鳥」の編集・出版を行った「赤い鳥」社と自宅とが位置したところでございます。
鈴木三重吉は、夏目漱石の門下の一員として、漱石宅での「木曜会」などにも参加をしておりました。そこで、漱石にも高く評価されたところをきっかけとしまして、児童文学作品も手がけるようになりました。大正7年に「赤い鳥」を創刊いたしました。「赤い鳥」には芥川龍之介、例えば「蜘蛛の糸」や「杜子春」などというところも有名かと思います。あるいは北原白秋、こちら童謡の「雨」などが代表作で残っております。島崎藤村ら、現代でも通じている著名人が作品を寄せたものでございます。
「赤い鳥」は18年間にわたり、計196冊を刊行し、学校や地方の青年会などで輪読され、多くの青年に影響を与えたものでございます。
それでは、指定の理由でございます。
三重吉の運動には、多くの子どもたちに芸術性と文学への親しみを植えつけました。また、児童文学・芸術に携わる多くの作家、児童文学者や芸術家を育成いたしました。「赤い鳥」は、日本の近代児童文学の出発点であり、その後の礎となる記念すべき雑誌でございます。
この地は、近代児童文学・童謡の発祥・発展の地といたしまして、文学史上あるいは教育史上の重要な史跡でございます。 」
つまりは、鈴木三重吉と「赤い鳥」の実績に対しての文化財指定です。
「赤い鳥」社跡地ということについてのここの地がどうだといった説明はありません。
鈴木三重吉の銘板
銘板の内容も、ここでの説明とほぼ同じです。
指定史跡とは、「文化財保護法または文化財保護条例によって、歴史上、学術上価値の高いものとして指定された遺跡」ということですから、もっと、この場所(遺跡)についての根拠、意味合い、あるいは価値のようなものが説明にあってもよいのではと思いました。
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『鬼と文士と映画の祭り』

鬼王神社の映画ポスターと内容案内展示看板
大久保というか、町名は歌舞伎町になっていますが、稲荷鬼王神社例大祭がこの土日に開かれます。『鬼と文士と映画の祭』と銘うって、境内では、かつての、映画全盛時代の映画のポスターや「赤い鳥」の雑誌の表紙が飾られています。
狛犬と映画のポスター
この稲荷鬼王神社の近くには、小泉八雲、島崎藤村が住んでいました。
小泉八雲は、最晩年の明治35年(1902)富久町20から、西大久保の地(鬼王神社の少し北あたりです)に転居して来て、明治37年(1904)の9月26日夜、心臓発作を起こし永眠(54歳)しています。
島崎藤村は、明治38年(1905)4月29日、小諸義塾を退職して、家族とともに上京し鬼王神社の少し東側の近所に、翌39年10月2日に浅草区新片町に転居するまで住まっていました。家は、植木職の坂本定吉の貸家でしたが新築でした。
この住まいで藤村は、『破戒』を完成し、夏目漱石その他の激賞を受け、作家として名声を不動のものとしましたが、一方で、転居そうそう三女を亡くし、続いて次女・長女も病死するなど、藤村にとっては辛い日々をおくった場所でもありました。
さらに、南のまさに歌舞伎町になりますが、そこに鈴木三重吉の終焉の地がありました。
鈴木三重吉は、夏目漱石の門下生で、「千鳥」(1906)を漱石の推薦で「ホトトギス」に発表し作家として踏み出しました。長編「小鳥の巣」、「桑の実」などの小説を残しましたが、大正5年(1916)以後、児童文学に転じ、大正7年(1918)7月、童話・童謡雑誌の「赤い鳥」を創刊しました。途中、休刊がありましたが、昭和11年(1936)年8月まで、18年間に196冊発発行されました。
赤い鳥は、現在「赤い鳥」にちなんだ「赤鳥庵」のある目白庭園の近くの自宅で第1号を発行しました。以後、日本橋、目白、そして四谷の須賀町と転々とし、昭和4(1929)年11月、「淀橋区西大久保1の461」に転居してきました。そして、昭和11年(1936)に死去するまで住み、その間、赤い鳥社もこの地にありました。
「赤い鳥」の展示
そうした縁で、稲荷鬼王神の境内では、「赤い鳥」の雑誌の表紙が飾られています。また、「鎮守の杜まちかど博物館」と名付けた掲示板があり、そこでは、小泉八雲の、明治時代日本で刊行された5冊の英語本や通称ちりめん本をカラーコピーしたものを展示しています。朗読会も開かれています。
全景 まちかど展示
映画のポスターは、この稲荷鬼王神社すぐそばに「大久保館」という映画館があって、そのポスターが展示されています。もともと『鬼と文士と映画の祭』は、大祭開催時に、映画資料を展示したのが始まりだそうです。懐かしいスターや映画のポスターがたくさん並んでいます。

映画のポスター

プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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