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玉川上水原宿村分水と「藤倉電線」

JR新宿駅の南口から甲州街道を西に進むと, 南側 に 「新宿文化クイントビル」があります。その先は、文化学園です。
ビルの前の広場に、「玉川上水のモニュメント」があります。
玉川上水のモニュメント
「かつてこの地には、玉川上水が流れていました。」ということで、案内板もあります。
「このモニュメントは、明治時代に新宿駅構内の地下に設けられた、玉川上水の煉瓦造りの暗渠をモチーフとし、当時の煉瓦を一部使用して、ほぼ原寸大で再現したものです。平成15年1月 東京都水道局」
暗渠となった、玉川上水がここを流れていて、新宿駅地下の暗渠の模様をモニュメントにしたてたものです。
玉川上水のこのあたりから原宿分水という流れが南に流れ、明治時代のその流れに水車をかけて、工場で使っていた会社がありました。
「フジクラ千駄ヶ谷工場発祥の地」
「新宿文化クイントビル」の東側に入ると「フジクラ千駄ヶ谷工場発祥の地」と書かれている碑があります。
株式会社フジクラは、東京都江東区に本社を置く通信ケーブルや電線、ワイヤーハーネスを製造する非鉄金属メーカーです。
旧社名を「藤倉電線」といい, , 創業は明治18年(1889)で、神田淡路町で 裸電線を絹や綿の繊維で絶縁被覆した 絹(綿)巻線の製造を始めました。
明治23年(1890)、新宿南口、代々木駅寄りに土地を手に入れ、 初代の千駄ヶ谷工場を建設します。
明治29年(1896), ここから 現在の「新宿文化クイントビル」あたりに 千駄移転。 初めて蒸気機関を動力にして ゴムの製造と 電線製造を開始しました。
明治34年(1901)「藤倉電線護謨合名会社」を設立。明治43年(1910)年には 事業規模拡大により, ゴム事業と電線事業を分離して「藤倉電線株式会社」となります。
藤倉電線株式会社
1923(大正12)年 本社・工場を 深川の現在地に移転しました。
千駄ヶ谷工場では、動力に水車が使われていました。水車は直径7mもある大きなものだったそうです。
玉川上水原宿村分水は原宿村、穏田村、上渋谷村の灌漑を目的に明和2年(1774)開通した、玉川上水からの分水です。
現在文化学園のあるところから南に分水し、近くの湧水から発していた小川に引き込んで、小川沿いの浅い谷戸に拓かれた原宿村の水田を潤し、原宿橋下流側で渋谷川に合流していたようです。
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新宿センタービルの「Hand of Peace」

現在新宿駅周辺では、「クリエイターズ・フェスタ」という新宿の高層ビルや公開空地を利用してアートのイベントが開催されています。
新宿クリエイターズ・フェスタ開催趣旨を、新宿区HPから引用してみると次のようになっています。
1. アートを通して新宿の魅力づくり、イメージアップを図り、新たな賑わいと活力づくりに取り組む。
2. 新宿駅周辺の公共の空間・施設、民間施設等を活用し、様々なアートイベントを開催することで、区民及び来街者が文化・芸術に触れる機会を提供する。
3. イベントを通して、多くのアーティストに発表・発信の場を提供する。    
今年は、開催8回目となるようで、8月1日から10月8日までの約2か月間にわたって開催されます。
暑い時期であまり熱心に観ていませんでしたが、昨年、その作品の中から、「Hand of Peace」が、新宿センタービルの屋外に設置されました。
ここも、ときどき、そばを通るのですが、気が付きませんでした。
今年、「クリエイターズ・フェスタ」について少し調べていたら、この「Peace」作品のことがよく出て来ます。
それで探しながら見てきました。
新宿センタービルのピースの像全景
指でよくやるピースのサインです。
作品の解説には次のように出ています。
<平和を祈る「ピースサイン」が鮮やかな配色で彩られた「Hand of Peace」は、待ち合わせの目印や写真撮影のスポットとなる、西新宿の新しいシンボルです。フェスタ来場の記念撮影スポットとして、作品の親指に腰掛けたり、穴から顔を出したりして、お楽しみください。>
鎌田 恵務(かまた けいむ)さんという人の作品です。
こうした公開空地に飾られる作品は「パブリックアート」と呼ばれます。
「パブリックアート」は、「
広場や公園,ビルの前庭など公共の場に設置される作品のこと。ヨーロッパでは,公共の場に置かれる記念碑や記念的建造物などの歴史は古くからあるが,1960年代から同時代の美術作品を都市の公共空間に設置する動きが高まってきた。日本では1990年代に入って注目され始め,1994年立川市に〈ファーレ立川〉,1995年西新宿に〈新宿アイランド〉がオープンし話題となった」 出典 株式会社平凡社百科事典
新宿アイランドにはたくさんありますが、特に有名なのは、真っ赤な《LOVE》 です。LOVEの文字の間をうまく2人してくぐり抜けると結ばれるという都市伝説もあります。
センタービルからも近いです。まさに“ラブ&ピース” をねらったのでしょうか。
中央のガラス部分
ただ、このPeacの穴は、くぐることが出来ません。「危険ですので、作品の上には登らないでください。」の札が出ています。
「作品の親指に腰掛けたり、穴から顔を出したりして、お楽しみください」ということです。
ブルーな所が親指ですね。穴の中は鏡のようです。顔を映して見るといいのですかね。
ピースの像だけ

アンデルセンのモニュメント

新宿西口の超高層ビルのひとつ、KDDIビルの前に、変わったスタイルのレリーフのモニュメントがあります。
KDDIビル表のアンデルセン
調べてみると、アンデルセンのモニュメントということです。KDDIビルにアンデルセン、どういう関係性があるのだろうと気になって調べました。
これは1871年(明治4年)に長崎とウラジオストクを結ぶ日本初の海底電信線をデンマークのグレート・ノーザン電信会社(現GNストア・ノードA/S)が敷設したことを記念して、1974年(昭和49年)の同ビル竣工時に設置したものだということです。ちなみにアンデルセンはデンマークの人です。
モニュメントの正面には、5枚のレリーフが貼り付けてあります。
kddiアンデルセンのモニュメント
これは、アンデルセンが残した切り絵を基にしたもので、左から「おろか者」(A Fool)、「太陽」(The Sun)、「風車夫」(A Mill-man)、「風船」(A Balloon)、「魔女」(A Witch)を表しています。
また、このモニュメントの裏側にも、5枚の別のレリーフがあります。
KDDI 裏のアンデルセン
左から「道化師」(A Clowin Dancer)、「小さな宮殿」(A Small Palace)、「プリマドンナ」(A Prima Ballerina)、「中国の宮殿」(A Chinese Palace)、「踊り子」(A Dancing Girl)だそうです。
光が当たって、一番右の踊り子が、うすく写ってしまいました。
このレリーフは、デンマーク王立美術アカデミー教授で彫刻家のヤン・ブール氏が来日し、5カ月間かけて作ったものだと言います。
アンデルセンがここにあるのは、長崎とデンマークの関係だけでなく、アンデルセン自身の童話に、実は、世界最初の海底電信線が登場するお話があるということです。
それは「大きなうみへび」という作品です。これは何と、大西洋横断海底電信用ケーブルを題材にしているのです。
大西洋横断ケーブルが最初に敷設されたのは1857年のこと。日本で言えば安政3年、明治になる10年も前です。
アンデルセンが生きたのは1805年(文化2年)から1875年(明治8年)です。
「大きなうみへび」は、海の底でたくさんのきょうだいたちと一緒に生まれた小さな魚が、驚くほど大きなうみへびに出会い、うみへびをめぐるちょっとした冒険とも謎解きの旅ともいえる経験をします。実は海底に敷かれたケーブルを、海の魚たちは大きなうみへびだと思ったのです。
物語の結びに近い部分で、アンデルセンは「うみへび」、つまり電信用海底ケーブルのことをこう書いています。
「それは力をまし、広く広がって、年ねんのびていき、すべての大洋をわたり、地球をめぐります」そしてさらに、「思想をいっぱいにつめ、善悪にかかわらずあらゆる言葉で通知し、しかも無言である知恵のへび」であるとも。(アンデルセン作、高橋健二訳「大きなうみへび」より)
海底ケーブルや衛星による通信網が発達し、インターネットが普及、まさに情報化する現代を予言していたようです。
KDDIビルにふさわしい、夢とロマンあふれる、モニュメントだと思いました。

後日曇りの日に、裏面の写真を撮りに行きました。載せておきます。
KDDIビルモニュメント(裏)


新宿御苑前の「甲州街道」のサルスベリ

御苑大木土門
甲州街道は、甲斐国(山梨県)へつながる道。江戸幕府によって整備された五街道のひとつです。
起点は、日本橋すが、半蔵門からという人もいます。江戸の四谷大木戸、現在の四谷4丁目までの道筋も変わっていません。
しかし、どういうわけか、の四谷4丁目あたりから、南寄りに新宿御苑の大木戸門の方へ移っています。
そして、本来の甲州街道は「新宿通り」の名前になっています。
甲州街道(玉川上水暗渠)
いつ、どのような理由でそうなったのかは不明ですが、現在の甲州街道はもともとは玉川上水の流れでした。暗渠にして、名前を甲州街道にしています。
その甲州街道のサルスベリの街路樹が、今満開です。
御苑前のサルスベリ

御苑インホメーション前のサルスベリ
サルスベリの木とは元々中国南部を原産とする花木で、夏を代表する木です。
いつごろ中国から日本にこのサルスベリが渡ってきたのかははっきりしませんが、恐らくは18世紀初頭よりも前だと考えられまています。
サルスベリという名前ですが、所々はがれてくると白い肌が見えてきて、その部分はかなりツルツルしています。
そのため「猿も滑って落ちる」という発想になり「サルスベリ」という呼び名になったとされています。
ちなみに漢字では「百日紅」と書きます。これは、花が夏から秋まで次々と途切れなく咲き続ける(紅色の花が100日間咲く意)、開花期間の長い花という意味があります。
白から紅色、満開です。一面に広がって咲く花弁の様子が、あたかも笑っているように見えるため「笑いの木」とも言われるようです。
「百日紅」

渋谷川暗渠の道~信濃町から大木戸、天龍寺~

渋谷川を、信濃町駅の近く、線路の高架から、大木戸跡の玉川上水の余水吐けまで歩いてみます。
御苑と渋谷川関連地図
信濃町から線路に沿って歩くと、工事中の新国立競技場が見えます。
建設中の新国立競技場
▼信濃町駅から慶応病院の脇を、線路沿いに歩くと、四谷第六小学校があります。その向かいに、動物の遊具が目立つ小さな公園があります。「大番児童遊園」です。
公園の動物
その公園の先は総武線・中央線の線路が高架になっています。
新宿御苑近くからの渋谷川の水源は2つがありました。1つは玉川上水の四谷大木戸からの余水です(地元では余水川と呼ばれた)。
玉川上水は承応2年(1653)、江戸市街に多摩川の水を引くために作られました。そして新宿御苑の前身、内藤屋敷地の北にあった四谷大木戸の水番屋では、流れてきた浄水の水量を調節し、余った水を南に流していました。それが渋谷川になります。
もう1つは新宿御苑北西の天龍寺の池でした。内藤家の屋敷地と千駄ヶ谷村との境界付近の谷間の湧水を集めた流れになっていました。現在、その付近は新宿御苑の池として造成されていますが、かつてはその部分を水路が北西に向かってのびていました。
そのふたつの流れが合流するのが、この総武線とぶつかるあたりでした。
総武線の煉瓦
渋谷川はこのレンガ塀のあたりで総武線の下をくぐっていたのでしょう。
名前は分からない橋の跡
外苑西通りの大京町交番前の信号より少し先に橋があった痕跡、石柱があります。残念ながら橋の名前はわかりません。かつての川は交番横の池尻橋から流れて外苑西通りと交わってここに来ていたのです。
▼外苑西通りを渡ると、新宿御苑の正門があります。
新宿御苑の正面玄関
●池尻橋
橋 池尻橋の跡
暗渠の端にかつての橋らしき石があります。池尻橋です。
▼沖田総司逝去の地
沖田の逝去の案内
新撰組の沖田総司が、この池尻橋(新宿区大京町)にあった植木屋平五郎の宅で亡くなったと言われます。
池尻橋からの暗渠の道
橋から暗渠を除くと、トンネルの水門が閉じられています。
閉じられたトンネル
●玉川上水の余水吐けから流れていた渋谷川の草の茂った暗渠の道を造っています。

■鉛筆の碑(日本最初の鉛筆工場)
鉛筆の碑
『この地(多武峯内藤神社西方付近)は、明治20年(1887)に佐賀藩出身の眞崎仁六が眞崎鉛筆製造所(現・三菱鉛筆株式会社)を興し、鉛筆の製造を始めたところです。30年後の大正5年(1916)に品川区東大井に移転するまで、ここで鉛筆製造を行っていました。
創業時は玉川上水の分水であり、現在は暗渠となっている渋谷川を利用した水車を動力にして、ここで鉛筆が造られていました。 平成18年10月』
眞崎仁六は、明治11年(1878年)にパリで行われた万博で鉛筆を初めて見て、おおいに感動しました。そして様々な研究と努力を重ね、日本初の鉛筆工業生産に成功しました。
日本最初の鉛筆製造の案内
●玉川上水の余水吐けから流れていた渋谷川の暗渠の道です。
家の立て替え中か壊されていたので、奥に入れていただき、暗渠を見ました。
池尻橋の先の暗渠の道
●玉川上水余水吐き 水路跡
玉川上水は江戸に上水を供給するため多摩川羽村堰から四谷大木戸まで掘削した水路です。
また、玉川上水の余水を渋谷川(正確には上流の隠田川)に流すために四谷大木戸から渋谷川まで掘削し水路を造りました。現在、その水路は暗渠化し下水道の千駄ヶ谷幹線となっています。

暗渠に降りて、上流を見ました。先に四谷地域センターのビルが見えます。
上流を望む
途中の石段があります。どのように使っていたのでしょうか。
石段がある。
現在の余水吐けの暗峡の最初の所から見ました。
余水吐けから下流を望む
四谷地域センターのビルの裏側に行くと、囲いがあります。ここが、水番所の跡地です。
水門のバルブ
▼囲いの中にはこのような水門のバルブが2基。このバルブのある地点は、まさに玉川上水から、余水吐が分岐していた場所です。
現在は雨水路扱いとなっている玉川上水の暗渠が、下水幹線扱いとなっている余水吐の暗渠に接続する地点となっているとのことです。
ここには1991年に新宿御苑トンネルが開通するまで、玉川上水から余水へ水を落とす水門が残されていて、その前後のわずかな区間だけ、玉川上水の水路が開渠となって残っていました。

●玉川上水水番所跡
玉川上水は、多摩川の羽村の取水堰から武蔵野の尾根道を開削し、43キロ以上を導水してここまで来ました。
旧四谷大木戸地点には東京都水道局新宿営業所がありますが、江戸時代にはここに水番所があり、塵芥を除去した水を、地中の水道管を介して江戸市中へと配水していました。

もう少し、新宿御苑の横の玉川上水を偲ぶ流れと天龍寺にも立ち寄ってみます。
■内藤新宿分水散歩道
内藤新宿分水散歩道
(新宿区HPより)
よみがえる玉川上水の記憶 
平成22年(2010)4月22日
新宿区は、玉川上水の歴史的価値を次世代に継承していくため、かつての流れに沿って、新宿御苑内に「玉川上水・内藤新宿分水散歩道」を整備している。全長約540mのうち、中間部にあたる「大銀杏区間(約240m)」が完成し、平成22年4月22日通水記念式典を開催した。
江戸の飲料水を確保するため、承応3年(1654年)に開設された玉川上水の流路は、多摩川の羽村堰(羽村市)から四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)までの43㎞。四谷大木戸から江戸市中へは、石や木で造られた水道管を通じて水が供給され、淀橋浄水場が完成した明治31年(1898年)ころまで、江戸・東京の人々にとって貴重な水源だった。昭和初期までに地下化され、暗渠になっていたが、区では玉川上水を偲ぶ流れを復活させるため、平成17年に散歩道整備のための検討会を発足し、準備を進めてきた。
水路は水面幅1m、水深5~10cmで、
底は主に粘土で仕上げ、自然の流れに見えるよう配慮。水源には新宿御苑下の国道20号新宿御苑トンネル・共同構内の湧水を活用し、水を循環利用している。水辺には、四季の変化が楽しめるよう約60種類25,000株の草木を植え、訪れる方に潤いとやすらぎの空間を提供する。
その外に、玉川上水の暗渠の道があります。
●玉川上水の暗渠の道
玉川上水の暗渠道
■天龍寺
かつて、渋谷川の源泉となった池があった天龍寺です。現在はその痕跡はありません。
もとは遠江国にあり法泉寺と称した。家康の側室である西郷局の父の菩提寺であり、家康の江戸入府にともない牛込納戸町・細工町、御徒町あたりを寺域として拝領し、寺名も故郷の大河、天龍川にちなんで天竜寺と改名しました。
墓地に、水琴窟がありました。
天龍寺の墓地

渋谷川の復活

2020年の東京オリンピックに向けて、当初、いろいろなレガシーが言われました。
そのひとつに<水と緑の回廊」を再生する>がありました。
その「水と緑の回廊」の戦略として、「玉川上水に導水を行う」が提案されています。
暗渠になっている玉川上水の水路でもまだ、水の道が残っているようで、外濠まで流すと、外濠の水も浄化されるというものです。
そして、玉川上水には最盛期には33もの分水が引かれ、農業用水として、武蔵野台地の発達に大きな寄与をしてきました。
その一例に渋谷川があります。玉川上水は、現在の新宿御苑近くの四谷大木戸で暗渠となり流れていまましたが、その四谷大木戸あたりの水番所で余水が渋谷川方面へ分岐していました。現在は、水は全く流れていませんが、その跡地は残っています。
旧渋谷川水路
もともとのここからの渋谷川の流れは、国立競技場の方へ流れていました。これは、前回のオリンピック時に、下水道幹線となり、暗渠となってしましました。
2020の東京オリンピックでは、新国立競技場の建設にあたって、渋谷川を再現したせせらぎを造るとされています。
その計画案によると、
「渋谷川」のせせらぎも“復活”させたい。新宿御苑を水源に渋谷の方に至っていた川だそうです。循環式になりますが、市民が楽しめる空間になれば(競技場に設置する)太陽光パネルの電力で、水の循環、樹木の灌水システムなどをまかなう」というものです。
国立競技場と渋谷川
また、玉川上水を遡って、笹塚の方へ行くと、「春の小川(文部省唱歌)」の発祥の地であった河骨川も、玉川上水の流れを汲んでいます。
渋谷川は、国立競技場の脇を流れ、原宿、表参道あたりを流れていましたが、現在はファッショナブルな通りとなっています。
江戸時代の原宿あたりは、北斎の絵に「穏田(渋谷川)の水車」として描かれています。富士山も見えたのですね。
葛飾北斎「穏田の水車」
更に渋谷川は、宮下公園を通り、渋谷駅のデパートの地下を通過して、ようやく地上に現れます。その姿は、およそ、川とは言いがたいものだったですが、現在、渋谷駅の大改造が行われており、渋谷川の再生が計画されていて、「渋谷駅南街区に2018年秋オープン予定の「渋谷ストリーム」に、水景施設が整備され、建物横の広場から約600メートル続く緑豊かな遊歩道によって、代官山方面へにぎわいと潤いのある水辺空間が生まれる」と発表されていました。
2018年秋は今年です。どうなるのでしょうか。

渋谷駅の渋谷川復活
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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