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ほおずき市

飾られたほおずき
25日のお昼、神楽坂へ行きました。
47回神楽坂まつり2018 の開催ということでしたが、神楽坂まつりは夜で、まだ準備中でした。
看板
昔は、7月になると浅草寺にお参りに行きました、は四万六千日の縁日です。
浅草寺境内を彩るほおずき市の屋台、風情がありました。ほおずきも買いましたが、釣り忍を選んでよく買って来ました。
7月の9日、10日ですね。
神楽坂まつりでもほおずき市が出るのを知っていましたが、来たことがありません。一度来て見ようと思っています。
ほおずきはもともと、薬草として、愛宕(あたご)神社の千日参りの縁日で売られていました。
ほおずきを煎(せん)じてのむと、子どものかんの虫や女性の癪(しゃく)によく効くと言われていて、これを参拝土産に持ち帰るのが通例でした。
やがてこれが浅草寺に波及し、愛宕神社をしのぐ活況を呈するようになったのがいまのほおずき市だ。
ほおずきの名前の由来には諸説がいくつかあり、実が赤く染まった頬を連想させ鳴らして遊ぶ子供たちの様子から「頬突き」と呼ばれていたことがなどが言われます。
漢字で「鬼灯」と書きます。赤い実があやしげな提灯のようだという印象から来ているようですが、「鬼灯」でいきなり「ほおずき」とは読めないです。
毘沙門の虎とほうずき市
毘沙門さまの石虎の後ろにほおずきの鉢がたくさん置いてありました。
番をしているようです。
夜、来たいのですが、最近、夜なかなか出かけられません。
ほおずき 1鉢1500円
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宮田橋から高田馬場分水路のある新堀橋まで

宮田橋の構想図
宮田橋(みやたばし) 下流の右岸側にある小公園「新宿区立宮田橋公園」は雨水浸透・貯留施設になっています。将来的には川と直結した親水空間に整備する計画があると記された案内図がありました。
宮田橋
「宮田橋」は、昭和初期の河川改修の際に、現在の位置に架けられましたが、南側を流れていた旧神田上水に架かっていた宮田橋が、その前身です。
橋の名は地名(字)に由来します。橋から下流を眺めると、「田島橋」の手前に橋が架かっているのが見えます。
上流に見えるのは落合橋です。
宮田橋から落合橋を望む
神田川(神田上水)と妙正寺川がかつて「落ち合っていた地点」に近いのでこの名前がついたのでしょう。この落合橋が、「落ち合っていた地点」ではありません。
この先、川沿いの道は無いので、新目白通りに出ます。
氷川神社
新目白通りに出ると目の前は、氷川神社。
サッサと歩いて、落合橋は外してしまい、妙正寺川の辰巳橋に来てしまいました。
辰巳橋から妙正寺川の道路下への水路を望む
辰巳橋は、妙正寺川で最下流に架かる橋です。この橋のすぐ先で妙正寺川は暗渠となり神田川高田馬場分水路と共に新目白通りの下へと吸い込まれます。
妙正寺川の辰巳橋
妙正寺川の延長は9.7km。この先暗渠となり、豊島区高田3丁目の高戸橋付近で再び開渠となって神田川の本流と合流します。つまり神田川のバイパス路(分水路)と先に合流し、さらに下流で本線(本流)と合流しているのです。
手前で合流して1本の川になっているが、入口が2つあって中は「2車線」。神田川高田馬場分水路と妙正寺川の合流点です。
正面向こうの暗渠から出てくるのが分水路の水です。手前右から妙正寺川が流れてくる。ここで一旦合流してまた二手に分かれます。
神田川高田馬場分水路ができる以前、この付近で妙正寺川はやや右に曲がり、右側の西武新宿線の線路を越えて、その奥方向に流れている神田川と合流していました。
高田馬場分水路の完成は、昭和57年(1982)とのことです。
滝澤橋
瀧澤橋に出ます。
この瀧澤橋のあたりに、昭和初期の河川改修によって変えられた妙正寺川と神田川の合流点がありました。今はその跡もよくわかりません。
滝澤橋から
この河川改修では、線路北側の妙正寺川も直線の多い流路に変わり、下落合駅の南側にあった旧神田上水との合流点は、一枚岩の名勝もろとも埋め立てられて消滅したと言われます。
1枚岩
妙正寺川は「西ノ橋」から東に流れるよう改修され、旧神田上水の橋だった「千代久保橋」の下を流れ、斜め右方に直進して旧神田上水と合流するよう改修されました。この時、合流点の上流部に架けられたのが「瀧澤橋」です。
新堀はしから滝澤橋
現在の神田川と妙正寺川との合流点は、ずっと下流の高田橋付近に移っています。
上流に少し行くと新堀橋に出ます。そこに「高田馬場分水路」という板が目に入ります。
新堀橋から分水路
高田馬場分水路は、この日のように雨で神田川の増水したときここから分流して洪水を防ぐ役割を持っています。分水路の間にはコンクリートの仕切りがあり、増水でこの仕切り板を越えた水だけが分流する仕組です。つまり、平常時は神田川の水はこの分水路には流れていません。
しかし、ここでは、落合水再生センターで再生した(処理された)水がここでこの分水路に流れ込んでいます。それが先の辰巳橋まで行きます。
もう一度整理すると、妙正寺川は、辰巳橋の所で高田馬場分水路と合流し、暗渠部分を流れた後、さらに下流で神田川と合流することになるのです。
妙正寺川と神田川出会いは、今でも落合のここと、先の高田の2度あることになります。

清水川橋から田島橋へ

神高橋から、神田川を遡行しようとすると、道がわかりにくいです。神高橋を渡ってまっすぐに進むと、新目白通りに出ます。左が清水川橋公園です。この公園のトイレの屋根には、太陽光発電が乗っています。
清水川橋公園のトイレ
清水川橋公園を過ぎて少し行くと左に曲がる道があります。
その道を行くと、神田川があり、清水川橋が掛かっています。
清水川橋橋脚
清水川という名前は、もともと清水川という地名だったことにあります。
下落合ですから、高台からの流れ出た湧水が近くにあったのかもしれません。 、このあたり新目白通りから、「日本外国語専門学校」、「東京教育専門学校」、「中央理美容専門学校」、「東京美容専門学校」、「東京アニメ―ジョンカレッジ」など、専門学校がたくさんあります。そこの学生も多くいて賑やかです。
清水川橋は昭和50年(1975)の完成です。神田川には全部で140の橋がありますは、この清水川橋は上流から数えて、ちょうど100個目の橋にあたります。
橋を渡ると、庶民的な居酒屋などが密集する飲食街「さかえ通り」に入ります。「さかえ通り」に沿ってそのまま歩いき、再度神奈川に出会ったところにかかる橋が田島橋です。
田島橋の上には、両岸にわたって東京富士大学の塔のような建物が2つあり、その2つの建物をつなぐ、連絡橋がかかっています。
清水川橋から田島橋を望む
こちら「さかえ通り」。
さかえ通り
田島橋は、江戸時代に橋の北方に、安藤但馬守の屋敷があり、その「但馬」を「田島」に変えて橋名としたことになっています。 
つまり、江戸時代からここには橋が架けられていました。
というより、江戸名所図会にも紹介されていて、江戸時代は、このあたり屈指の歴史を持つ橋でした。この田島橋より下流には、面影橋まで橋は見当たりません。
落合惣図
金子直徳(かねこなおのり)が寛政年間に著した『和佳場の小図絵(わかばのこずえ)』には、「御公儀普請にて板ばし成しを、寛政三年より四年の春までに土橋になし給う。 昔、安藤対馬守さまの鼠山御屋敷より大久保原の辺に野屋敷という御遊地ありて、狩場を有した時、たじまの守さまの通路に懸給ふ故、今にその名を成也」とあります。但馬守(たじまのかみ)が狩にいくときの通路につくったので田島橋となったということです。
江戸名所図会no「落合蛍」
そして、田島橋から上流の落合の土地にかけては、「落合蛍」の名所でした。
太田南畝(おおたなんぽ)は
「大江戸には王子のふもと石神井川又谷中の蛍沢に多くありといへども、此所(下落合村)にくらぶれば及びがたかるべし。あるは若き女の川辺を団扇にて飛行光を遂ひうち、はらふけしき、瑶階の夜のすずしきにひとしく、かかる川辺にさまよひて詩をも歌をもつらねたらんはまことに命ものぶる心地やせん。」
「江戸自慢三十六興」 「落合ほたる」
田島橋付近が蛍で特にすばらしいという評判だったようです。
また、明治時代になりますが、三遊亭円朝の怪談噺「怪談乳房榎」では、 美しい妻を持つ絵師・菱川重信を、妻と姦通した浪人・磯貝浪江が、落合のホタル見物に誘い出して暗殺する現場としてこの田島橋が登場します。
「来てみると大きな蛍が飛び交う様は見事であった。飲めない重信に酒を飲ませて、雨が来るのを警戒して早めに切り上げ、帰り路にかかった。田島橋のそばまで来ると、浪江は竹槍で重信を刺し、ひるんだところを正介の助太刀で隙を作り、一太刀で命を奪った。」
「怪談乳房榎」
江戸の名所もすっかり姿を変えました。
でも学生は多いです。もう一度、賑やかなさかえ通り。
賑やかなさかい通り

田島橋から清水川橋。
田島橋から見た清水川橋
田島橋と東京富士大学
田島橋と東京富士大学の橋
正面に見えるあずき色の建物は、東京富士大学の本館です。左手には壊しかけた建物がありました。後で調べると変電所でした。
東京富士大学の本館屋上に、日本テレビ系列の人気番組「ザ!鉄腕!DASH!!」に出てくる ダッシュ村があるようです。「新宿DASH!」は、大都会に人と生き物たちが一緒に暮らせる未来の街をつくれるかがコンセプトで、取り組んでいて、人気の番組です。

「神田川親水テラス」からの神田川

髙田馬場駅から神田川の方に歩くと戸塚地域センターがあります。その1階に神田川の魚が泳いでいる水槽があります。そしてそばに神田川が流れています。
この界隈「神田川親水テラス」といって、市民のために夏場は開放して、神田川に親しんでもらおうということで、数年前よりオープンしていて、川にも入れます。
川に入ってみました。
裸足で入ることは禁止されているので、長靴を履いて水に浸かる。流れの身を置くと、なかなかいいものです。
今の都会の子どもは、川に入って遊ぶことができなくなっています。私の時代は裸足で、時にケガしながらも、川で遊びました。こうして川に入っていると思いだし、あのころは良かったなという思いが自然と湧いてきます。せめて、こうした川でも子どもたちに体験してもらった方が良いとおもいます。
東京富士大学まで見える
さて、川の上流を見ると、河床勾配が急で渓谷のような神田川の上を、埼京線に乗り入れをしているりんかい線と、西武線が走っています。谷間の向こうに、清水川橋とその先には田島橋と東京富士大学と建物が見えます。
鉄橋で、橋の長さは「40フィート」(約 12.2 m)です。線路の橋台は、明治18年(1885)ごろに出来ています。「橋台」は煉瓦積みです。つい最近まで神高橋から眺めると。その煉瓦が目立っていました。煉瓦積みは明治のものです。
神田川流域の下流部は、昭和初期にすでに市街地が形成されていました。東京の中でも比較的早い時期から市街化が進んできたゾーンです。
高度成長期には神田川全流域は汚染された水や下水の捨て場となりました。神田川は隅田川まで続く巨大などぶ水の排水溝と化したのです。
そして、水害対策として経済効率性が重視されたコンクリートの直立護岸が全域で採用され、そのほとんどが川床までもコンクリートで敷き詰められた三面張り、U字構護岸工事でした。
しかし、その水害対策も功を奏さず、大雨のたびに水が溢れ出ました。(写真は平成5年の洪水時のものです)。
その最たる地が「髙田馬場渓谷」と呼ばれるこの地域でした。
1993年(平成5)の洪水時における「高田馬場峡谷」
その対策工事で、きれいになり今や「神田川親水テラス」となり、いろいろなイベントも開かれるよになりました。
ここから、神田川を遡ります。
「神田川親水テラス」から上流を望む

新宿いきいきウォーク看板

新宿区が神田川沿いの道をウオーキングコースとして整備している「いきいきウォーク新宿」という案内があります。新宿区を流れる神田川沿いを全て歩いてみようというものですが、神高橋から瀧澤橋までは、「いきいきウォーク」から外れています。一般道路になって川沿いが歩きにくいのです。
あえてそのコースを歩いてみます。
「神田川親水テラス」から下流
こちらは神高橋から下流です。こちらは、「いきいきウォーク新宿」のコースに入ります。メインコースです。

慶応病院は、陸軍省所轄地の跡地に建てられた。

御焔烟蔵
切り絵図に御焔烟蔵(ごしょうえんぐら)とあります。
幕府の御焔烟蔵のことで、焔硝蔵とは火薬庫のことです。
この地に、現在、慶応病院と四谷第六小学校があります。
「すむいえ情報館」を見ていたら面白いことが書いてありました。
そのまま引用させてもらいます。
「この用地は旧陸軍の管轄にある軍馬補充部本部及び兵器庫敷地(四谷区大番町73番地1号)だった。大正6年陸軍省はこの土地と地続きの西信濃町の輜重兵第一大隊敷地とを払い下げて、2個師団増設の財源に充てたかった。
このことを知った慶応義塾大学は、逸早く関係筋との交渉に成功、陸軍省との間に覚書を交わした。これを知った四谷区民は激怒、猛烈な反対運動を展開した。当時四谷区には陸軍省・宮内省の用地が多く、税収入が少ないため、前記陸軍用地の払い下げを受けて、ここに浅草のような繁華街を作り、財政を豊かにしたいという計画で、慶応義塾大学と前後して払い下げの申請をしていたからだ。四谷区は市会議員・国会議員を動員して慶応進出反対総決起大会を開くに至った。その間数度に亘り慶応側と折衝、双方において覚書が交わされた。」
そして、慶応側は結果的に学校建設に1500坪を無償提供することになって落ち着いたとのことです。(「すむいえ情報館」より)
「輜重兵」とは、旧陸軍の兵種の一。軍需品の補給、陸上輸送に当たった兵ということです。
とにかく、信濃町には明治6年(1873)から軍馬補充部本部及び兵器庫敷地と陸軍輜重兵(物資輸送部隊)の部隊が設けられていたということです。
そして、大正時代に部隊は目黒に移り、その跡地を慶応大学が買収し、医学部と附属病院となったわけです。
実際に調べてないので、きちんとは分かりませんが、とにかく、慶応病院の地は、その前、陸軍の管轄にあった土地ということは確かです。
その名残が、慶応病院と隣の信濃町煉瓦館建物の敷地境界に“陸軍省所轄地”の境界石が埋められています。陸軍省所轄地境界石です。
陸軍省所轄地の境界石
そして、このあたりには、「医学部食養研究所」があった場所です。
境界石をもう少し先に行き、右を見ると「食研跡地記念の碑」があります。
食研跡地記念の碑
「塾祖福澤諭吉が唱えた食養の概念を具体化するため、大正15年(1926)益田孝ら財界人の厚意によりこの地に慶應義塾大学医学部食養研究所(食研)が設立された。
研究所主任に大森憲太が就任し、栄養増進、食事療法およびビタミン学の研究を行った。昭和2年(1927)臨床と基礎の共同研究を推進すべく、小林六造のもと臨床最近研究室が併設された。食研は第二次世界大戦の戦火を免れ、大学の研究の灯はここに守られた。また中央検査室も食研に始まった。
 その後も食研は、慶應医学はもとより日本の医学の発展に大きく貢献し、平成2年(1990)11月27日その幕を閉じた。」
大正15年(1926)に、医学部に設置された食養研究所は、当時の日本の人口および食糧問題の解決、また患者の食事療法の研究を目的としていました。
三井財閥の益田孝ら財界有力者の寄付によって病院正門北側に新築された鉄筋コンクリートの建物で開設された研究所では、栄養増進、食事療法、ビタミン学の研究が行われ、とくに脚気の原因究明と食事療法において業績を挙げました。
大戦の戦災を免れた食養研究所の建物には、基礎教室や臨床系教室が同居し、建物は「食研」の名で親しまれました。
「医学部食養研究所跡地記念碑」は、平成2年(1990)の研究所廃止とともに取り壊された建物の跡に建てられました。
信濃町煉瓦館
信濃町煉瓦館は、平成7年(1995)に、慶應義塾大学病院所有の敷地内(旧食養研究所跡地)に建てられた地上6階/地下1階建てのオフィスビルです。 清水建設の設計・施工で、建てられましたが、歴史的な雰囲気も醸し出す、なかなか見事な建物です。


「滝沢馬琴住居跡地」滝沢馬琴とお路。

現・信濃町の千日坂から外苑東通りを跨ぐ歩道橋を経て、外苑休憩所のレストラン「日高屋」の前に「滝沢馬琴住居跡地」の史跡案内板があります。
滝沢馬琴終焉の地
滝澤と言われたのは明治になってからということで、曲亭が正しいと言われますが、今や一般的な滝沢で行きます。
滝沢馬琴が信濃町(現霞ヶ丘町)に移ったきっかけは、息子(宗伯)の早逝でした。
宗伯が亡くなったのは38歳でした。そのとき、奥さんのお路は31歳。8歳の男の子と6歳と3歳の女の子の1男2女の子どもがいました。
馬琴は遺された孫の為、天保7年(1836)四谷鉄砲組の御家人株を手に入れます。資金は神田の屋敷と蔵書を手放し工面しました。心労もあって、既に片眼の視力を失っていましたが、信濃町に移った頃、天保10年(1839)より馬琴の眼疾が進み遂に明を失うに至るが、お路はその口述筆記を行い時に「琴童」の名で代作も行いました。
お路は、紀州藩家老三浦長門守の医師・土岐村元立(げんりゅう)の次女として神田佐久間町に生まれています。
鏑木清方 曲亭馬琴
馬琴は、筆一本で家計を支える必要がありました、お路が口述筆記を引き受けたのは31歳のときで、馬琴は69歳でした。
失明した馬琴は、亡き宗伯の嫁、お路に口述し『南総里見八犬伝』等を書かせたのです。
馬琴がお路に頼るので妻と喧嘩が絶えない状態だったと言われます。その妻お百も転居後2年で他界してしまいます。
馬琴は『八犬伝』の後書き『回外剰筆』で失明を告白、口述筆記の苦労を記しています。
お路は、特別な教育を受けたわけではなく、ひらがなしか書けませんでした。しかし、馬琴は容赦ありませんでした。
偏と旁を一言一言指導しながらの口述筆記でした。
口述筆記による執筆は、天保13(1842)年に『南総里見八犬伝』が完成するまで、5年あまり続きます。
それから6年後、嘉永元年(1848)8馬琴は、82歳で死去します。
馬琴の失明後は路が日記を代筆していましたが、馬琴の死後も書き継いで書き、それは、『路女日記』として、後に刊行されています。馬琴の墓所は東京都文京区深光寺にあります。
上の絵は、鏑木清方「曲亭馬琴」です。息子の嫁(お路)に口述筆記をしている絵です。
お路さんの着物の柄も非常にきめ細かく、よく見ると行灯に、コオロギがとまっていたりします。しかし、この作品、第1回文展で落選しています。

信濃町界隈

JR信濃町駅界隈を少し歩きました。
信濃町駅
東京2020オリンピック・パラリンピック開催時には、新国立競技場の玄関口として、信濃町駅周辺は、世界各国から多くの人の訪問が見られると思います。
信濃町界隈地図
周辺では、信濃町駅周辺地区まちづくり協議会(平成28年8月30日設立)を作り、オリンピック・パラリンピック開催時及びその後を見据えながら、まちの賑わいの創出や文化発信、観光促進等総合的なまちづくりに取り組んでいるようです。
信濃町の名前は、(飛騨)古川城の「永井信濃守」の屋敷があったことによるとあります。永井家当主は代々信濃守を名乗り、同地一帯の地名信濃町の由来になっています。
正保年間(1644年~1648年)の江戸図には、現在の信濃町駅周辺に永井信濃守の屋敷を確認することができるそうですが、幕末の地図では、「永井信濃守」の名前は見つかりません。
信濃町駅 周辺の切り絵図
切り絵図に「一行寺」とありますが、その創建は江戸時代の慶長年間(1596~1615)で、開基は、永井直勝です。
そして、一行院の開山は来誉故念(らいよこねん)和尚となっています。
この和尚は、元永井家の草履取りでしたが、一念発起、浄土宗の道心者となり、千日の念仏修行をしました。千日間の念仏から千日寺の名が生まれたそうです。
そして、永井直勝から屋敷の一部に寺を建ててもらったそうです。
延宝7年(1679年)の「江戸大絵図」では永井家一族に屋敷が分割され縮小しているようです。
したがって、現在よく見る切り絵図では、「永井信濃守」をみることはできません。
一行院「千日谷淨苑」
千日坂を下ると、一行院「千日谷淨苑」が目に入ります。隈研吾氏が設計した都市型立体墓地です。
設計の特徴としては、屋根を重要視したとのことです。坂の中腹にあるために見下ろされ、屋根が見えます。そこで、アルミの瓦を採用し、屋根を綺麗に見せる寺院となったということでした。

礼文島で見た花

●レブンアツモリソウ(礼文敦盛草)
「レブンアツモリソウ[礼文敦盛草]」
特定国内希少野生動植物種に指定されている礼文でしか見ることができない貴重な植物です。かつては礼文島内各地で咲き乱れていたレブンアツモリソウですが、盗掘に遭って数は激減し、現在では北鉄府地区の保護区「レブンアツモリソウ群生地」以外ではほとんど見られなくなっているそうです。礼文町の高山植物培養センターで見ました。

●レブンウスユキソウ(礼文薄雪草)
レブンウスユキソウ(礼文薄雪草)
欧州でエーデルワイスと呼ばれる花の仲間。全体が白い綿毛で覆われ、雪が薄く積もったように見えることからウスユキソウと呼ばれ、礼文町の町花に指定されています。花期の長い花としても知られ、秋になると星のカタチのまま乾いて、丘の上で雪の訪れを待っている姿が見られます。

●レブンソウ(礼文草)
レブンソウ(礼文草)
礼文島固有のマメ科の植物。島内には、数多くのマメ科の植物が自生し、そのほとんどが紫系統の花をつけます。レブンソウは、白い絹毛が目立つのが特徴。

●エゾスカシユリ(蝦夷透かし百合)
エゾスカシユリ
花びらと花びらの間に隙間があるために『透かし百合』の名があります。海岸近くの草原に多く、開いた花はあでやかな橙朱色です。

●センダイハギ(先代萩)
センダイハギ
『先代萩(センダイハギ)』の名は仙台を舞台にした歌舞伎の「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」からつけられたとされています。 紫系統の色の多いマメ科の花の中で澄んだ黄色の花を咲かせ、高さは大きいもので 80センチほどになります。

●エゾノシシウド(蝦夷の猪独活)
エゾノシシウド
和名はシシウドに似て北海道に産することによります。
茎は中空で太く、高さ0.6~1.5mになる多年草。
葉は1~2回3出複葉で、小葉は菱状卵形、時に3裂し長さ5~12cmになり、重鋸歯がある。葉柄の下部または全部が袋状に膨らみます。

礼文島の奇岩

礼文島北側の海岸線あたりの断崖に、高さ50mほどの「地蔵岩」があります。
看板と地蔵岩
海から見ると、地蔵が手を合わせて拝んでいる姿に似ていることから命名されたとか。断崖とは少し離れて立っている岩です。横から見ると板のように見えます。
地蔵岩
あいにく、落石の危険性があるため、地蔵岩のそばまで行くことはできませんでした。遠くから眺めた海岸では、かつてメノウ石がよく拾えたとかで「メノウ浜」と呼ばれています。きれいな形の石を拾って帰りました。

   イブキトラノオ
イブキトラノオ
  センダイハギ
センダイハギ

少し離れていますが、桃岩と呼ばれる小さな山があります。
少し広く桃岩
桃岩は、その名の通り、桃の姿に似ている球体状の岩です。岩と言われると、その大きさに圧倒される巨岩です。サイズは、高さ249.6m、幅最大300mほどあるといいます。
桃岩
学術的には、潜在円頂丘「桃岩ドーム」とも呼ばれ、岩自体は海底の柔らかい堆積物とマグマによって形成され、隆起したものとされています。
 
チシマフウロ
チシマフウロ
桃岩荘ユースホステルのある南方向の海に目を落とせば、「猫岩」を見ることができます。
ユースホステスと猫岩
桃岩と違って大きいわけではないですが、耳が二つあるように見え、しっぽもあり、猫が背を丸めて座り、海を見つめている姿の岩です。
猫岩

仙法志御崎公園(せんほうしみさきこうえん)

仙法志御崎公園碑
利尻島の最南端にある「仙法志御崎公園(せんほうしみさきこうえん)」へ立ち寄りました
「仙法志御崎公園」のかもめ
利尻島最南端に位置する岬にある仙法志御崎公園では、天気が良ければ、透明度の高い海の様子や利尻山のもっとも猛々しい姿を見ることができるようです。
「仙法志御崎公園」 あざらし
利尻山が噴火した際、海に流れ込んでできた奇岩・奇石が数多くあります。
ここでは、野生ではなく群れからはぐれて保護されたアザラシや、水族館から出張してきたアザラシを一時的に 飼育しています。野生のアザラシも利尻で見ることはできるようですが、時期が限らているようです。
ミヤマオダマキ(深山苧環)

ミヤマオダマキ(深山苧環)

利尻島 沓形岬

沓形岬公園は利尻島の西部にあり、沓形港と隣り合っています。
沓掛岬 時雨音頭の碑
利尻町出身の作詞家「時雨音羽(しぐれおとわ)」の詩碑があります。「出船の港」の歌詞に、「どんとどんとどんと波乗り越えて」とあることから、地元では沓形岬を「どんと岬」と呼んでいます
沓形岬
敷地は岩場になっていて、展望台、Miniビジターセンター、散策路が作られ、岩だらけの海辺、利尻富士や礼文島を臨むことが可能。散策路の脇に生えているのが高山植物で、雑草と見間違ってしまうほど生い茂っています。
   ハマナス
ハマナス
    エゾノシシウド
エゾノシシウド
   エゾカンゾウ
エゾカンゾウ
 

利尻島の絶景「姫沼」

看板
利尻島北東部、ちょうど利尻山山頂の真北、標高125mという高い位置にある小さな沼、姫沼へ行きました。「
姫沼は、標高130mに位置し、周囲約800m、深さ約2mの人造湖です。
淡水魚の漁業奨励のため、1917(大正6)年に堤防を建設。利尻山の湧き水をせき止めたことで、当時3つあった小さな沼がひとつになり、ヒメマスを放流したことから「姫沼」と名付けられました。
逆さ富士が水面に映る絶景スポットということですが、そのお薦めは、早朝。行ったのは午後2時20分。しかも曇り。
でもきれいに見るとことができました。
逆さ富士も見えた姫沼と利尻富士

なかなか見事 姫沼
この沼を一蹴する予定でしたが、5月30日にヒグマとみられる足跡が見つかったことで話題となった、そのヒグマの姿が、はっきりと監視ビデオに写されたとかで、「危険」で一周はできませんでした。
観光客も多い
感顧客も多く、熊の方が怖いかもしれません。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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