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利尻島 鴛泊ペシ岬広場の 会津藩士の墓

利尻島を散策の時、会津藩士の墓という記載があって、気になりました。
会津藩は最後まで旧幕府軍として戦いぬきましたが、破れ廃藩になります。
戊辰戦争が終ると新政府は、蝦夷地に開拓使を設置、北海道と名前を改めます。 9月~10月、東京で謹慎中だった旧会津藩士の一部が北海道・小樽に移されています。そのことと利尻島の会津藩士の墓は、関係ありませんでした。
ペシ岬展望台へ向かうことで、判明しました。ペシ岬全景
案内板 ペジ岬
時代は明治維新より少し前になます。
鎖国政策の中で、ロシア通商使節のニコライ・レザノフが実力での通商を図ろうと、ロシア皇帝のエカチェリーナ2世とその跡を継いだパーヴェル1世の許しを得ずに、樺太や北海道の漁村で略奪を行いました。
そのため幕府は襲撃に備えるよう文化4年(1807)などに蝦夷地への出兵と防備を命じています。会津藩は1633名で、樺太・宗谷・利尻・松前を警固しました。
ロシア兵は、ナポレオン戦争のため撤退し、実際の交戦はありませんでしたが、このとき多くの日本兵は、寒さと野菜不足のせいで、体がむくみ、腹がふくれ、呼吸困難に陥りました。これを水腫病(すいしゅびょう)といいます。
「アイヌは魚と昆布を食べているから、病気にならずに冬を越せるのだ」と教えられ、実際に食べてみると、たしかに体調は回復したのです。
また、当時水腫病に効果があるとされたコーヒーを、幕府が出兵隊に送ったという記録もあります。
会津藩は文化5年(1808)10月から翌年にかけて帰還します。しかし、帰路の途中に嵐に遭い船が難破、51名の死者を出しました。
そして、利尻島には3ヶ所8基の墓が残されました。
利尻島を去る時、ペシ岬に行きました。風が強く、帽子がとばされそうになりながら、登りました。
ペシ岬展望台の途中の開けた場所に会津藩士の墓がありました。
花壇と会津藩士の墓
花壇もあって、利尻山の眺めもよくベンチもあるので、展望台の頂上までいかなくても、ここからの眺めでの十分だと思い、墓参りをしました。
会津藩士の墓
なお、会津藩士8名のうち、4名が樺太警備に従事し、観勢丸の漂着事故で亡くなった藩士たちです。
残りの4名は、利尻島警備に就いた藩士たちで病死したと考えられます。
利尻島内の墓碑は、ペシ岬(以前は本浄寺境内)、本泊慈教寺境内、種富町の3カ所、計8基が安置されています。

ペシ岬からの利尻富士を見てもらいましょう。
まず、会津藩士の墓と利尻富士。
会津藩士の墓と利尻富士
港と利尻富士です。

港と利尻富士
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礼文厳島神社

6月の末、北海道の利尻島、礼文島へ旅行をしました。うっとうしい空模様でしたが、なんとか雨に合わず、楽しい旅行になりました。花の探索をしたので、そうしたことも、載せられればと思っていますが、礼文島で、朝の散歩がてら拝観した礼文厳島神社のことを、載せます。
ここでは、神社の方に拝殿を開けていただき、案内までしていただきました。大変ありがたい思い出になっています。
礼文町香深村にある礼文厳島神社、高い階段の上にありました。
第一の赤い鳥居 礼文厳島神社

階段 礼文厳島神社
赤い第1鳥居、石段。上ると白い第2鳥居。右に手水舎、左に社務所がありまいた。
石段は続き、赤い第3鳥居。
階段を登って 礼文厳島神社
奥に青黒屋根の社殿。右に焼却場、左に忠霊塔、日食観測記念碑、神輿庫。獅子狛犬は社殿前にガッチリした体型で並んでいました。奉納年は昭和34年(1959)でした。
拝殿 礼文厳島神社
礼文厳島神社の由緒は次の通りです。
「文化5年(1808)宗谷場所の請負人藤野喜兵衛が松前福山から海産繁殖捕魚円満祈願のため祭神市杵島姫命を奉遷、現在の町役場庁舎裏手斜面に祠を建て弁天社と崇めたのが創祀といわれる。
明治9年、村社に列せられ同19年春日造りの社殿を建立したが、同22年大豪雨による土砂崩れで埋没し、同年田中伊三郎・渡辺茂兵衛所有地の寄付をうけ明治28年現位置に社殿を建立奉遷、同39年神饌幣帛供進神社に指定された。
昭和21年宗教法人となり、現在に至る。」ということです。
御祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で、宮島の厳島神社(広島県)が総本山です。
創祀した藤野喜兵と言う人は、宗谷場所請負人ということですが、請負人とは「幕府が、有力商人にアイヌとの交易や商場の経営を請負わせ、税金を納めさせる場所請負制度のこと」だそうです。
拝殿を開けていただき中に入りました。
祭壇 
天井には、礼文の花をモチーフにした画が描かれています。京都の画家に描いてもらったとのことでした。すべて、礼文島に自生するはなだそうです。38種類ありました。
天井画
絵馬も、大きな絵馬が7名ありましたが、その中の1枚、「弁才船住吉丸」です。
江戸時代の北前船を描いていますが、航海の安全を祈願したものです。
絵馬 弁財船住吉丸
拝殿からの境内の風景。
境内 礼文厳島神社
拝殿からまだ坂があり、そこを上がっていくと、利尻富士が見えました。あいにく雲が立ちこめていましたが、とても勇壮な雰囲気でした。
利尻富士が見えた
もう1枚は、港の所のある泊まったホテルの建物も見え、利尻富士といっしょに撮りました。とても感じの良い、料理も美味しいホテルでした。
泊まった宿と、利尻富士

生麦事件

NHKの大河ドラマ「西郷どん」は「寺田屋事件」でした。
島津久光という人は、兄の斉彬と比較され、その評価はかなり低いです。
島津久光は、実は一度も藩主になったことはありません。しかし藩主の実父として薩摩藩の最高権力の座にあり、幕末にあって薩摩藩の影響力を強めるため、何度も上京しています。文久2年4月、文久3年3月、文久3年10月、慶応3年4月の4度です。
その最初の上京が、文久2年(1862)4月16日で、薩摩藩兵一千名を率いて、京都にのぼります。その上京の際、久光は有馬新七ら自藩の薩摩藩尊王派による倒幕の挙兵を聞き、粛正を命じます。その場所が、伏見の寺田屋でした。この事件を寺田屋事件と言います。
この4年後の慶応2年(1866)1月23日、薩長同盟の締結直後に寺田屋へ宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行所の捕り方が包囲、坂本龍馬を捕縛しようとした事件も寺田屋事件です
寺田屋は、坂本龍馬の常宿で彼の妻となるお龍が働いていた船宿でした。(龍馬の方は別称「寺田屋遭難」と区別して呼ばれています)。
この寺田屋は2度も、歴史的に大きな事件の舞台となったのです。
さて、ここから、歴史の流れか見てもっと大きな事件、生麦事件が、生麦村で起こります。
事件当時の生麦村
<事件当時の生麦村。東海道にそった集落の神奈川宿寄りのはずれ、リチャードソン遺体発見現場(落馬地点)近辺と見られています。F.ベアト撮影>

島津久光は、ここから、朝廷の勅使・大原重徳(おおはらしげとみ)に随従する形で江戸に下り、幕政改革を要求します。そこで、幕府は一橋慶喜を「将軍後見役」に、前越前藩主・松平春嶽を「政治総裁職」に任じさせることに成功しました。
成功に、意気揚々と江戸からの帰途、文久2年(1862年)8月21日に久光一行が神奈川宿の手前の生麦村に差し掛かったときに事件は起こりました。
横浜在住のイギリス人商人・ウィリアム・マーシャルと友人のウッドソープ・クラーク、チャールズ・リチャードソン、それに香港から旅行に来ていたマーガレット・ボロデール夫人の4人は、騎馬で東海道を東へ向かっていました。
当時、横浜には多くの外国人が集まって、許されていた横浜から川崎までの見学は流行していました。
生麦村で久光の行列に出会った彼らは、「馬から下りて道端によけよ」という随行者たちの言葉や手振りで、引き返した方がよいと判断したものの、緊張し、また慌ててもいて、馬を引き回すことが出来ず、行列の方へと進んでいってします。おそらく藩士たちが激しく騒ぎ立てたため馬も興奮したのでしょう。馬は横向きになって行列を妨げます。
生麦事件現場
                                                           刃傷発生現場
これを久光に対する無礼暴挙とみなした薩摩藩士たちが切りつけてきます 。一番切りつけられたのは、チャールズ・リチャードソンでした。
『生麦之発殺』早川松山画
                                                       『生麦之発殺』(早川松山画)
とにかく4人は神奈川(横浜)方面へ騎乗のまま逃げすが、ボロデール夫人以外の3人はいずれも切りつけられていました。
そしてリチャードソンは現場から700メートルほど走ったところで力尽きて落馬し、追ってきた薩摩藩士たちに切りつけられ、海江田信義(かいえだのぶよし) によって、とどめを刺されます。
リチャードソンが殺された場所 記念碑

生麦事件碑 
碑には、事件当時の世情とこの地で非業の死を遂げた英国商人リチャードソンの死を悼む歌が記されています。橘樹郡区制の第三大区四小区の副戸長をしていた黒川荘三によって、明治16年(1885) に建てられたものです。

マーシャルとクラークはアメリカ領事館(本覚寺)へ逃げ込んで治療を受け、ボロデール夫人は横浜の居留地まで帰り着いて一部始終を報告しました。
これが、生麦事件の大まかな状況です。
そして、薩摩藩は生麦事件に対するイギリスの賠償要求を拒否したため、翌文久3年(1863年)7月に薩英戦争が起きます。薩摩藩はその戦いで、近代化の必要性を痛感し、攘夷(じょうい)論から開国論に転じ、これを機に開国、明治維新の流れができたと言われています。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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