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かくれんぼ横丁の特別なピンコロ石

神楽坂の大きな魅力の一は、路地裏の石畳の横丁です。
好きな路地は、「ホン書き旅館」と言われる「和可菜」がある、兵庫横丁。最近は人が多く、昔のようにいささか薄暗い雰囲気の静かさではありませんが。
その次は、「かくれんぼ横丁」です。
かくれんぼ横丁 星マーク
細い道に、黒い塀。よく三味線の音が聞こえてくるのもたまわないです。
この路地裏が「かくれんぼ横丁」という名前になったのは、大きく言えば2つあります。
一つは、渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』に出ていますが、この路地内に都で初の五つ子の母の実家があり、実家の路地でこの五つ子がかくれんぼ遊びをしていたので祖父、森川安男さんが「かくれんぼ横丁」と呼んだ、というものです。
もう1つは、お忍びで遊びに来たような人を後ろからつけていても、横にちょっと入るといきなり目の前から消えてしまうからというものです。
一般社団法人新宿観光振興協会の解説では、「お忍びで遊びに来た人を後ろからつけて来ても、横に入られるとわからなくなる」ところから名付けられたと言われる横丁です、とあり、後者そのものです。
いろいろ調べた人がいて、どうも五つ子のかくれんぼの方が本当のようですが、花街の跡としては、後者の方が、雰囲気が出るのでしょう。最近は、テレビなのでも、「お忍びで遊びに来た人を」で説明しています。
ここの石畳ですが、ピンコロ石と言うようです。
「この石はヨーロッパの都市で車道や歩道や広場にごく一般的に使われている舗装材だ。90 x 90 x 90mmのサイコロ状の石で値段は比較的に安価で、日本では主にガーデニングや門扉、玄関脇に使われている。」
このピンコロ石が神楽坂の花柳界の路地に敷きつめられたのは、昭和30年代後半から40年代初頭にかけてで、それまでの御影石の踏み石に替えたものでした。
このかくれんぼ横丁には、わりと最近ですが、平成28年5月、かくれんぼ横丁の石畳が下水管工事のため新しくなった時、粋な計らいをする職人がいて、特別な石畳3個、はめ込みました。
それは、❤型の石と、◇や☆を彫った石です。
若い連中と歩いた時、それが話題になり、なかなか探せないと聞きました。こっそり調べに行ったのですが、一つも見つかりませんでした。
ハート型と星型とダイヤ型で、探し当てることができると願いが成就するということです。自分で探さなくては御利益はありません。
ちなみに、ハート型は恋愛成就星、星型は出世運向上、ダイヤ型は商売繁盛だそうです。
気になって、また探していたら、横丁に住んでいる人が、教えましょうか、と言うので教えてもらいました。
小さいです。これ探し当てるのは、無理でした。
でも分かって、誰かに話ができる楽しみが増えました。
ピンコロ石 ハート型

ピンコロ石 星マーク
不覚にも、影が入っています。人が多て、つい恥ずかしく急いで撮影したからです。
ピンコロ石 ダイヤマーク
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大隈庭園

大隈庭園は早稲田大学のキャンパス内にある大学附属の庭園で、大隈重信の邸宅跡に残された数少ない明治期に作庭された庭園です。
大隈庭園も大名庭園でした。江戸時代には彦根藩井伊家や高松藩松平家の下屋敷の大名庭園だったのです。
その最初は、天保年間(1830~44)に高松潘の下屋敷であった時に作庭された庭で、近江八景を写した庭であったようです。
大隈重信が買い取って別邸としたのは明治7年(1874)です。
この当時、大隈重信は神田錦町に屋敷を構えていました。明治9年(1876)雉子橋外(現在の九段南)に転居しました。
大隈重信が早稲田の別邸に移転し、本邸としたのは明治17年(1884)です。
明治17年当時、大隈邸の周辺は、水田が広がり、西側の台地にかかったところに、早稲田大学の前身の東京専門学校の校舎が建っていました。
早稲田田圃と学校
東京専門学校の設立は、明治15年(1882)でした。
転居と同時に本邸としての建物の建設を開始しています。早稲田本邸の竣工は明治20年(1887)ですが、庭園もこの時同時に完成しています。
庭園は、広い芝生と池のある和洋折衷式です。旧来からあったものを改造したのであるが、芝生を広く取り入れ、遠景に築山と池を配していたようです。
大正11年(1922)1月10日、大隈重信は早稲田の自邸で死去しました。85歳でした。
大隈重信の没後、大隈家から邸宅・庭園およそ9000余坪が早稲田大学へ寄付されました。大学は旧宅を大隈会館として、大正12年4月1日に開館。一般にも公開されました。
昭和に入り、先の大戦の戦時中は食糧難で、大隈会館の庭園はサツマイモが植えつけられた畑になったりしたとい言われます。
やがて、昭和20年5月25日夜の大空襲によって大学も大隈庭園も含めて、早稲田一帯は壊滅的被害を受けました。
現在の大隈庭園は、中央が広い芝生になっていて、東に流れと築山、南に韓国風の小堂、そしてその背景の樹林の上に大隈講堂が見えます。北西方には高層の大隈会館がそびえ、北側にはこれも高層のリーガロイヤルホテルが建っているという新旧の建築物に囲まれている庭園となっています。
●中華民国獅子像 
中華民国獅子像
早稲田大学創立100周年を記念して、台湾校友会から寄贈されたものです。
獅子像は、もともとは力の象徴である百獣の王ライオンがオリエント、インドを経て中国にも伝わり、 麒麟や青竜など中国古来の霊獣観と融合して唐獅子となり、日本の狛犬となっていきます。
●「孔子像」。
孔子像
2008年6月に中華人民共和国政府から早稲 田大学に寄贈されたもので、中国政府が日本 の大学に孔子像を寄贈するのは初めてのことでした。
この孔子像の設計・製作は、山東 省政府がおこなっています。
●エミレの鐘・韓鐘閣 
エミレの鐘・韓鐘閣
韓国・慶州国立博物館に国宝32号として指定・展示されている新羅の聖徳大王 神鐘(通称:「エミレの鐘」)の1/2の複製品で、早稲田大学創立100周年記念として、 1983年に韓国校友会から寄贈されたものです。
●沓脱石
学生が憩う大書院の沓脱石
大隈庭園に入るとまず目に入るのがこの石。学生が腰を下ろしてベンチのようになっています。
大隈邸の沓脱石
実は、この大きな延べ板みたいな長細い石は、大隈邸の大書院の沓脱石でした。
大書院は邸宅を訪れた貴賓を通した部屋、沓脱石は、庭と建物の段差を和らげるために置く踏み台です。大隈邸の沓脱石はかなり大きな物です。
●完之荘 ”
完之荘の門あたり
この完之荘は、校友の小倉房蔵が、飛騨の山村に残っていた600~700年前と推定される古民家の一部を自宅に移していたもので、焼失した茶室のかわりに、昭和27年(1952)小倉房蔵から早稲田大学へ寄贈された建物です。名称は氏の雅号「完之」に因んだものです。
●大隈重信手植えの楠 
大隈重信手植えの楠 
早稲田大学の創設者である大隈重信が熱海より実を持ち帰り伝播し、本邸を雉 子橋から早稲田に移転したときに移植したものです。
●大隈庭園の奥に大隈重信夫人の銅像があります。大隈重信像と同じく、彫刻家の朝倉文夫の制作です。
大隈重信夫人・綾子像(大隈重信像と同じく、朝倉文夫の作)
●そのほか、十三重の層塔と五重の層塔、雪見灯篭も見られます

猫都(ニャンと)の国宝展 at 百段階段 ~猫の都の国宝アート~

目黒の ホテル雅叙園東京に「猫都(ニャンと)の国宝展 at 百段階段 ~猫の都の国宝アート~」を見に行きました。
昨今の猫ブームで、最近「猫」の展覧会が多いです。この雅叙園でも昨年に続き二回目です。今年は、総展示数も増やし、猫アート作家40名による絵画や彫刻などの作品を、猫にちなんで222(ニャンニャンニャン)点展示しているとおkpとでした。
東京都指定文化財の「百段階段」には、階段に沿って7つの部屋があり、それぞれテーマをもって展示されていました。
どれもおもしろのですが、なんとかスマホで撮れた作品の一部を紹介します。
どうどうと寝転んで「招寝子」。
寝た猫
おんせん、いっしょにはいらんかえ?
湯浴び猫
文庫張子「夏目漱石」古本によって創られた張子です
古文庫本で作った漱石と猫
"歌川国芳をオマージュした作品。"祭りだワッショイ!
祭だわっしょい
国芳の弟子の歌川芳藤「五拾三次之内猫の怪」を立体化した猫絵
まずはその原図となった芳藤の浮世絵。
「五拾三次之内・猫の怪」
芳藤の「五拾三次之内猫之怪」は、「尾上梅寿一代噺」の中に登場する化け猫をモチーフとした大判錦絵です。
タイトルにある「五拾三次」とは「独道中五十三駅」のことで、「東海道五十三次」を舞台に取り入れた先駆的な作品です。
1847年7月より市村座で上演されたこの歌舞伎舞台では、簾(すだれ)を破って巨大な顔の猫が登場する場面が大評判となりました。
この場面に着想を得て芳藤が手がけた絵の中では、大小の猫合計9匹が化け猫の顔を作っています。三毛の模様が微妙な陰影を浮かび上がらせ、目は鈴、口の中から見える赤い舌は猫の首紐です。
そして、これが会場の作品です。
猫で顔作り
少し横から。
猫顔横から
さらに、会場に展示してあった横尾忠則の招き猫のポスター。ここにも歌川芳藤「五拾三次之内・猫の怪」は入っています。
横尾忠則の猫のポスター_edited-1

松本良順と早稲田界隈

病院の名前は、「蘭畴舎(らんちゅうしゃ)」です。「蘭畴」は松本良順の号名です。安政4年(1857)に海軍伝修生御用医として長崎へ赴いてまもなくから「蘭疇」を使っています。
それでは、病院、「蘭畴舎」は、いったいどこにあったのだろうといろいろ調べてみましたが、書かれたものも少ないのではっきりしません。
地下鉄早稲田駅の大学寄りの出口に出て、早稲田小学校・中学校から早大研究開発センター、そして大隈講堂あたりまでが、かつての松本良順邸と、医学校を備えた蘭畴舎の病院だったようです。
元一橋家(徳川慶喜の出身家)の下屋敷のあった3万坪という広い土地を借りて建築しました。
約50人のベッド付き病室のある洋式2階建ての病院本館を軸に、北寄りの建物には30人が入る三方ガラス張りの畳敷きの病室がありました。
当時は、このあたり、まだあたりは田圃だったようで、夜になると、当時では珍しいランプが灯されたそうです。
松本良順はその田圃の風景が気に入っていたようです。とにかく明治3年(1870)に「蘭畴舎」を開設。このとき、良順は、38歳でした。
当時、陸軍幹部だった山県有朋が兵士の健康増進のために軍医関係をどう充実したらいいかと、西周に相談したところ、松本良順を推挙しました。これにより山県有朋は良順を訪ねて軍医頭への就任を懇請しました。西郷隆盛も良順を訪れた、といわれます。
そして翌明治4年(1871)には、良順が陸軍最初の軍医頭に就任します。早稲田の松本邸から軍医部まで馬で通いました。
そして、明治6年(1873)に、松本良順は初代陸軍軍医総監になります。そこで名を良順から「順」に 改めました。
兵部省に軍医寮が設けられてからは多忙を極め、蘭疇医院の院長として勤務することが難しくなり、 山県有朋に相談。山県は蘭疇医院を軍医寮が借り受け、仮軍事病院とすることを提案、松本順も同意して軍医の職務に専念することになります。
そこで、病院の建物は清水徳川家の家臣だった山瀬正己に譲渡しました。山瀬は、蘭畴舎跡に富山の売薬合資会社の「資生堂」を設立します。
これを、医師の道を諦めて大学東校調薬所に勤めていた福原有信が引き継ぐのですが。これが今日の資生堂に結びつきます。
福原有信は、松本良順(松本順)と三井の資金援助を受けて銀座に進出し、現在の化粧品の「資生堂」が誕生することになるのです。
早稲田で忘れてならない人の一人として、大隈重信(1838-1922)がいます。
大隈重信は、明治14年(1881)の政変で下野し、翌明治15年(1882)に立憲改進党を結成する一方、この早稲田の田圃の地に「東京専門学校」を設立しました。東京専門学校は明治35年(1902)に改称して今の「早稲田大学」になります。
この東京専門学校の土地は蘭畴舎の土地に隣接していた、今の大隈講堂あたりは重なるような場所にありました。
明治42年測量図 犬養邸もある
一方で蘭畴舎の跡地と立派な庭園は、犬養毅(木堂1855-1932)の居宅になります。
ここに住んでいたのは、明治29年(1896)から、麹町に移る大正8年(1919)までの20年余でした。
もともとは、良順のころに集めた銘石類、戸山の尾張徳川家から持ち込まれた庭石などがあり、また樹齢百年の椎の木が残るなど、明治の名園のひとつに数えられていたと言われます。(羽原清雅氏の「落穂拾記―新聞記者の後始末」を参考にしています)
犬養毅は大隈重信の関係で言えば、明治16年(1882)大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、大同団結運動などで活躍し、また大隈のブレーンとして、東京専門学校の第1回議員に選出されています。
最後にもう一度松本良順です。
▼松本良順は、明治35年(1902)の退役後大磯に居を構えて、海水浴の奨励などの指導を行いました。日本で最初の海水浴場として紹介された「照ケ崎海水浴場」には、松本良順の功績を世に永く伝えるため「松本先生謝恩碑」(昭和4年8月)が建立されています。
▼さかのぼりますが、また、板橋駅の近くの広場には、明治9年(1876)松本良順の協力で、新選組隊員だった永倉(長倉)新八が発起人となって建てられた「近藤勇と新撰組隊士供養塔」があります。
▼もう一つ、日本医薬品製造株式会社の「征露丸」のパッケージには、松本順(松本良順)の顔写真が掲載されていました。
制露丸のパッケージ

松本良順の話

前の道から穴八幡
早稲田に、冬至の「一陽来復」のお守りでも知られる「穴八幡神社」があります。
赤い鳥居が目立ちますが、階段の前に石の鳥居があります。
穴八幡石の鳥居
その石の鳥居の柱に「正四位勲二等 松本順 拝書」とありました。
松本順の彫り
松本順は、松本良順と言いました。 
略歴を、辞書に則って、紹介すれば、次ぎのようになります。
「順天堂の創始者である佐藤泰然の子として生まれる。松本良甫へ婿養子として入る。幕命にて長崎に行き、師匠のポンペとともに日本で最初の洋式病院である「長崎養生所」を創設する。その後江戸に戻り、神田泉橋にある幕府の医学所の頭取に就任。このころには家茂や慶喜の侍医も勤めた。
戊辰戦争で野戦病院の指揮官となるが、官軍に逮捕され、のち赦免される。
維新後は帝国陸軍の軍医総監となり、名を順と改め、男爵に叙される。」
鳥居の柱は、松本順、軍医総監になってからです。
医学所頭取になって2年ぐらいして、医学所に新撰組の近藤勇が訪ねてきます。目的は、松本良順に外国というものがどういうものなのかを聴きに来たのです。新選組としても外国の事情を知る必要があったのです。
翌年、松本良順は、将軍の侍医として京都に帯同します。滞在中に再び近藤勇が訪れ、松本良順も新撰組屯所の京都 西本願寺に行き、新撰組の健康管理の指導をしています。
やがて、鳥羽伏見の戦いがあり、幕府側は大敗します。その頃、松本良順は、神田泉橋の医学所では官軍が攻め入ることが予想できていたため、療養中だった沖田総司らを連れて、より安全な浅草今戸の祥福寺や私邸の今戸八幡(現在の今戸神社)で治療を続けていたと言われます。
沖田総司は、新撰組一番隊組長として重要な任務をまかせられていました。池田屋事件では近藤勇とともに最初に池田屋に踏み込んでいきました。しかし、その後、肺結核を患い、鳥羽伏見の戦いにも参戦できず、鳥羽伏見の戦いに敗れたあと、他の隊員とともに幕府の艦船「富士山丸」で江戸に戻り幕府医学所に入院していたのです。
今戸神社は、浅草寺から隅田川沿いに1キロほど離れた場所にある静かな佇まいの神社です。
そこには、「沖田総司の終焉の地碑」とあります。石碑の裏には「慶応四年三月三十日没」と刻まれています。この境内にかつて松本良順寓居があったということです。
これは、永倉新八が晩年に残した「同志連名記」に、総司は「浅草今戸の松本良順先生宿にて病死」とあることからきています。
しかし、子母澤寛著「新選組遺聞」の中に、近藤勇の娘婿、近藤勇五郎の談話として、総司は千駄ヶ谷池尻橋の植木屋「植甚」の柴田平五郎宅、川のそばの離れに匿われていたとあります。ここは今の住所で言うと新宿区大京町29です。
その場所には現在「伝・沖田総司逝去の地」という説明板があります。
「総司、慶応四年・明治元年5月30日(1868年7月19日)死去」
諸説有りです。私は、池尻橋の説をとっています。
さて、松本良順です。江戸の無血開城が行われると松本良順は「幕府の医者として幕府に殉じる」と言って、江戸を脱し、会津に行き、負傷者の手当などをします。会津の陥落を機に、さらに北上して庄内に行きます。その頃、仙台に来ていた幕府海軍の指揮官 榎本武揚から蝦夷(北海道)に新政府を樹立すため同行を求められます。しかし、土方歳三の助言を受け、江戸に戻ることになります。
そして、明治維新となり、良順は「賊軍」に与したかどで逮捕され、のち赦免されます。
明治3年(1870)釈放されると、自分で病院を作ります。
「蘭疇医院」という名の、西洋式病院と教育機能有するその病院は、穴八幡の近くに設けられました。「蘭畴舎」は私立の西洋式病院としての第一号でした。
その後、山県有朋が彼に目をつけ陸軍の医療体制の整備を任せることになる。そこで再び世に知られる存在になり、ついには軍医総監になっていきます。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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