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穴八幡宮の境内の神武天皇遙拝所の狛犬

穴八幡宮にお参りしました。
頭に宝珠

畔像に角があ
穴八幡宮の境内の神武天皇遙拝所の狛犬を見て、頭の角(つの)と宝珠(ほうじゅ)がりっぱなのに驚きました。
宝珠を載せた狛犬は時にみかますが、このような見事な宝珠を載せたものは、あまりみかけません。吽形のほうの角も、大変立派な角です。
いわゆる「唐獅子」と呼ばれる派手な獅子像は、中国文化が生み出した独特のものです。
中国でも、皇帝の守護獣として獅子像が定着しましたが、それを見た遣唐使が、日本に帰ってきてから、宮中に獅子座思想を持ち込みました。
しかし、日本に持ち込まれた後、一対の獅子像はやがて日本独特の「獅子・狛犬」という形式に変わります。
向かって右側が獅子、左側が狛犬。獅子は黄色で口を開け角はなし。狛犬は白色で口を閉じ、角がある……というものです。
この「阿吽」形式は、恐らく寺の山門を守る仁王像の阿吽などと同じで仏教の影響を受けたものでしょう。
仁王像も狛犬も、神(君主)を守護するという役割は同じなので、守護獣としての獅子・狛犬も阿吽の形にしたと思われます。
江戸時代に入ると、狛犬の角に対して、獅子の頭上にも宝珠(ほうじゅ)をつけるものが出てきました。
宝珠とは、丸玉の上部だけが尖ったタマネギのような形のものです。別名、摩尼宝珠(まにほうじゅ)とも、如意宝珠(にょいほうじゅ)とも呼ばれます。 如意とは、意のままになるという意味です。宝珠には願いを叶える不思議なチカラが備わっているとされます。
宝珠・角型の狛犬は明治期になると姿を消します。
穴八幡宮の境内の神武天皇遙拝所の狛犬です。
向かって右側が口を開けて頭に宝珠を乗せた獅子。
宝珠
左側が口を閉じた角がある狛犬です。
角
年号は宝暦5年(1755)が刻まれています。
そして、平成11年(1999)に修復が行われています。
宝暦5年そのままではないようです。
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戸山交通公園

戦争が終わり、軍都としての役割を終えた戸山が原の(日本軍練兵場跡地)は、まず駐留軍が使用しました。その後、昭和33年(1958)になって接収は解除となり、そのほとんどが国有地となります。
動物園を作る計画もあったようですが、、動物園よりも戦災で家を失った人たちの住宅を造るべきであるという進駐軍の命令により、そこは現在の戸山ハイツとなりました。
そこで、旧射撃場は、昭和33年(1958)に取り壊され、東京都と新宿区と、早稲田大学で利用されることになります。
新宿区はスポーツセンターなどの施設。早稲田大学は広大な理工学部。東京都は「交通公園」を作りました。
「交通公園」とは何なのだろうと思いました。
いろいろ見ていたら、金子淳氏の『交通戦争の残影:交通公園の誕生と普及をめぐって』「静岡大学生涯学習教育研究」所収 2008)がありました。
他に良い資料がないので、そのまま引用させてもらいます。
「交通公園とは、公園内に通常の道路とともに信号機、横断歩道、道路標識などを設けて疑似的な交通環境を再現し、遊びながら交通ルールを学ぶための公園である。」ということで、建設省の肝煎りによって“モデル交通公園”として作られたのが、戸山交通公園(新宿区西大久保)だとありました。
そして、
「1962 年度から3 年計画で取り組んでいたもので、早稲田大学理工学部と新宿体育館(現・区立新宿スポーツセンター)に隣接する旧陸軍射撃場の一部約22,000 ㎡の国有地に建設する、大がかりな計画であった。
1964 年11 月25 日に開園し、開園日には新宿区立戸山小学校の学童がゴーカートを連ねてパレードするという式典も挙行された。開園を報じる新聞記事には、「毎日きたいけれど、入場料五十円は高いなあ」という子どもの感想も寄せられている。
ちなみに、ここで「入場料五十円」と言っているのは、ゴーカートの利用料のことであり、実際の入場料は設置運営要領で示されているように無料であった。
戸山交通公園マップ
                                      戸山交通公園の園内イラストマップ(『朝日新聞』1979年1月25日)
報じられた内容をもとに公園内のようすを記してみると、以下のとおりとなる。
長方形の敷地の南半分が市街地、北半分が郊外地という設定で、市街地はマス目の道路が平坦地に張りめぐらされ、
商・住・工の三地区に分けて、三角屋根の工場地帯や団地、商店街、ビルなどの模型が作られている。一方、郊外地には曲がりくねった高速道路が立体交差しながら丘や谷をめぐって走り回る構造となっており、市街地から小さな「郊外電車」が走り、各種の踏み切りも作られている。
これらの道路はすべて車道の設定で、道路には交通標識が備え付けられ、車道とは別に、歩行者が園内を散歩する歩道も作られている。車道は、料金を取って貸すゴーカートと、持ち込みの自転車が走り、曲がり角や交差点には指導員が立って整理にあたっている──。子どもたちにとっては、至れり尽くせりの贅沢な空間だったようだ。
建設省のモデル事業としての期待も高く、かなり大規模なものであったが、その一方で批判も存在していた。東京の公園数が絶対的に少なく、子どもの遊び場さえ満足にない現状の中で、「交通公園建設のコストは普通の児童公園などよりはるかに高くつく。まず児童公園の数をふやすのが先決ではないか」という声が都の内部にもあったという。
そして、「とにかく一つ作ってはみるが、今後このような交通公園を都内に作るということは都もいまのところ全く考えていない」とあわせて報じているとおり、その後、都立の交通公園は作られることがなかった。
現在は交通公園としての機能は失われ、跡地は戸山公園大久保地区の一部となっている。ただし、
交通公園のコースはそのまま残されており、戸山公園内の曲がりくねった園路が当時を偲ばせるのみとなっている。」

元交通公園
交通公園という名前の公園は、今でもいくつかあるようですが、戸山交通公園はごらんのように、今は一般的な公園です。
今度行った時、こまかく歩いてみたいと思っています

陸軍近衛師団 戸山ヶ原演習場

明治時代になり、新政府は幕藩体制をささえていた土地制度を解体し武家地は没収。寺社領は境内以外の土地は、すべて上地させました。
明治7年(1874)6月、尾張徳川家下屋敷の戸山荘庭園一帯の戸山ヶ原は、陸軍戸山学校・砲兵工学校・近衛騎兵連隊などの練兵場や射撃場などの軍事施設となりました。
尾張徳川家下屋敷の戸山荘は、静岡に退いた徳川荘家の窮状を救うため、尾張德川家は、戸山荘を宗家に譲ります。新静岡藩では江戸に残った数多い家士たちに、この広大な園地を開墾させたといいます。
しかし数年を経ずして、西郷隆盛が薩州兵を率いて上京した際、ここを駐屯地としました。
そうこうして、明治6年に戸山荘は陸軍用地になり、明治7年に戸山学校が置かれます。
さらに陸軍病院、近衛騎兵連隊、陸軍幼年学校などが次々に建てられました。
なお、市ヶ谷の尾張の上屋敷も陸軍士官学校が置かれ、東京有数の広い軍用地になっています。いずれも条件のよい土地だったのです。
地図 大久保射撃場
さて、明治15年(1882)に戸山ヶ原演習場は、射撃を行うために使用する近衛師団の演習場(近衛射的場)として、開設されます。
開設当時は、敷地南側に土塁を築き、これを標的にして射撃訓練が行われましたが、騒音や誤射によって周辺住居を破損するなどの問題が出たため、昭和3年(1928)に当時は東洋一といわれた長さ 300mに及ぶ鉄筋コンクリート製の射撃場を 7棟建築します。
空の上からの大久保射撃場 
空からみると7本の土管を並べた形で長さ300メートルあり、まさに「東洋一」だったでしょう。また、このとき、その西側に余った土地を盛り上げて造った、高さ約30メートル位の通称「三角山」などができています。
戸山ヶ原は高低起伏のある地形で、ナラ林、マツ、クヌギなどの雑木林、その他一面の草原で軍隊の使わない時には、学校の遠足や家族連れの散策地となり、子どもの遊び場でもありました。この戸山ヶ原の様子は文学作品にも多く描写されています。
昭和4年(1929)に生まれた加賀乙彦は、少年時代を大久保で過ごしており、ちょうど昭和11年(1936)に大久保小学校に入学しています。
自伝の中でも、当時の戸山が原について語っている。
「それから、戸山が原には通称『三角山』という小高い山がありました。射撃場と市街地とを遮るために造られた人工的な山なのですが、そこでもよく遊びました。江藤淳さんが新宿百人町の生まれで、彼は私より三つくらい下ですが、やはりあの辺りでよく遊んでいたんです。一度三角山の話をしたら、懐かしがっていました。当時、模型飛行機作りが流行っていて-模型といっても、設計図をきちんと描いて作るというけっこう精巧なものでした-、翼は竹ひごごと和紙で作り、真ん中にゴムを入れてプロペラを回す。みんな自分で作った飛行機を持ち寄って、三角山のてっぺんから戸山が原に向けて飛ばして競い合うんです。それから、三角山には大きな穴が開いていて、その穴の奥にはコウモリがいっぱい棲んでいる。夕方になると、コウモリが一斉にその穴に向かって帰ってくる、美しい風景として印象に残っています。それから、戸山が原にはカマボコ形の陸軍の射撃場があり、私たちはそこに忍び込んで落ちている薬莢を拾ったりしていました。たしか、江戸川乱歩がその射撃場のことをどこかに書いています。」(「加賀乙彦 自伝」ホーム社 2013)
現在そうした敷地は高校や、大学、区の施設、戸山公園などに変遷していますが、敷地の南端部に位置する戸山公園の南側、大久保道路沿いに、当時の遺構がかすかに残っています。
境界石
塀の片隅に「陸軍」と明朝体ではっきりと刻まれた文字、「陸軍 軍用地境界標」です。
そして、そのまわりに、大久保射撃場南端の射撃場土塁の一部がフェンスに囲まれて残っています。
射撃場土塁A
土塁の先に、最近建った高層ビルが見えます。
高層ビルが見える射撃場土塁

枡形道路

四ッ谷の駅そばに見附門の石垣が残っています。江戸時代、四ッ谷駅の麹町口には、枡形の門がありました。
枡形とは、城門の内側に L 字形の城壁を設け、あいている辺に城門を構え、曲輪(くるわ)内にはいるのに2つの門を通るようにしたものです。多くは、入る門は、高麗門、内側の門は、櫓門が設けられていました。
図で見ると、とこんな感じです。
枡形門の図形
この枡形が武家屋敷の道路にもあることを、知りました。
「枡形道路」は、一般的には城下町の特に武家の屋敷の土地で敵の隊列での進入や槍などを持って進撃することがしにくいように、道路を(直角に)曲げて攻撃を防御する手段として作られた道路です。
四谷を歩いていて、これが江戸時代の枡形道路です、と教えられました。
一つは、三栄道路の三栄公園の前の道です。
三栄通り
津の守坂から、三栄通りへ入って、まっすぐ進むと、道が突き当たります。今は三栄通りが広くなっているので、わかりにくいですが、江戸時代では突き当たって、右に行き進むようになっているのです。
切り絵図も入れておきます。荒木ヨコ丁から新堀江丁の所へ入り、「福寿院」がある前あたりです。四角に曲がっています。
枡形路を見るため四谷切り絵図
御持組や伊賀組の屋敷があった所で、防備の道が作られていました。
枡形道路
切り絵図の上の方、佐々木、内川の名前がある所、御先手組の屋敷のある場所の現在の写真です。
この道も大きく曲がっていますが、お先手組の屋敷があった場所の枡形道路です。
枡形は、城塞として外敵が侵入しにくいように、攻め込んで来ても先が見えないように、武家屋敷の中にも、こんな工夫がなされていたのです。

合羽坂

元甲州街道、現新宿通りから北に向かう新宿区荒木町と三栄町の境界にある坂道が津の守坂で「津の守坂通り」と言います。先が、合羽坂下交差点です。
つつじと合羽の像
そこに、合羽の石像があります。
どうどう合羽の像
それでは、合羽坂は、どこを言うのでしょう。
その合羽の石像の上にある、市谷本村町の自衛隊本部西に沿った坂の上部に、東京都が設置した合羽坂の標識があります。
<新撰東京名所図会によれば「合羽坂は四谷区市谷片町の前より本村町に沿うて、仲之町に上る坂路をいう。昔此坂の東南に蓮池と称する大池あり。雨夜など獺(かわうそ)しばしば出たりしを、里人誤りて河童と思いしより坂の呼名と…転じて合羽の文字を用い云々」、何れにしても、昔この辺りは湿地帯であったことを意味し、この坂名がつけられたものと思われる。昭和58年3月>
獺(かわうそ)が出たのですが、それを合羽と間違えて、合羽坂と呼ばれた、とあります。
合羽の首だけの像
問題は坂です。
「仲之町に上る坂路」とありますが、仲之町の方へ上らないで、今の曙橋の方へまっすぐ行った坂が合羽坂だったという、説もあるようです。
ただ、これは、現状で、曙橋という睦橋を架して道幅をひろげたので、その坂のイメージはまったくなくなってしまっています。
そういうことで、現状の坂に、合羽橋の名称をあたてものではないかな、と思っています。
合羽坂
周りは自動車が駆け抜ける、賑やかな道路ですが、交差点は草木が茂り、それなりに、池があって、獺が出た、雰囲気を残していないこともありません。
菖蒲も咲いてる合羽

下落合の薬王院(東長谷寺)のサクラ

薬王院
牡丹で有名な下落合の薬王院(東長谷寺)に行きました。このお寺は、牡丹で有名なのですが、枝垂れさくらもきれいと聞いているので、今回は桜見物です。
門を入ると、牡丹の道。奥に枝垂れサクラが見えます。
牡丹の薬王院
今年開花が早かったので、少し心配でしたが、まだ満開でした。
鎌倉時代に開山された、真言宗豊山派の寺院です。
牡丹は、昭和41年(1966)に本山の奈良・長谷寺から牡丹の株を100株ほど譲り受けて植えたのが、同院が牡丹寺と呼ばれるようになったきっかけで、現在では1000株ほどの牡丹が植えられています。、
桜も昭和41年(1966)に檀家の寄贈で植えたのが始まりで、その後、京都営林署より同樹種100本の寄贈を受け、境内や墓地に植えられています。
舞台造りの本堂とサクラです。
薬王院のシダレサクラ
一輪白い牡丹が咲いていました。赤いつぼみも膨らんでいます。
牡丹が一つ咲いていました
階段を上ると、石仏の上にサクラ。
石仏の上に桜
墓地のサクラ、満開でした。
墓地のしだれさくら

墓地に咲く枝垂れサクラ

墓地の桜




讃岐会館(東京さぬき倶楽部)と御田八幡古跡碑

讃岐会館
讃岐会館(東京さぬき倶楽部)は、昭和47(1972)年に、建ちました。
その入り口に蔵のような建物があります。何か事務所のようです。
讃岐会館にある蔵作りの事務所
讃岐会館が建つとき、元有った建築物からこの藏のような建物が、地元の要望でできたと聞きました。かなり古びていますが、後ろの高層ビルと、何か象徴的な存在感があります。
讃岐会館の後ろへ廻ると、緑の多い庭園になっています。そこに狛犬がいて碑がありました。
御田八幡古跡碑
これは、明治24(1891)年に建立された 「御田八幡古跡碑」です。
八幡古跡碑
御田八幡神社(みたはちまんじんじゃ)は、港区三田3丁目にある神社です。
現在の御田八幡神社の社殿によると、
「和銅2年(709)、牟佐志国牧岡(むさしのくにまきおか)というところに、東国鎮護の神様として鎮祀され、延喜式内稗田神社と伝えられた。
その後、寛弘8年(1011)武蔵野国御田郷久保三田(みたごうくぼみた)<つまり三田小山町>の地に遷座され、嵯峨源氏渡辺一党の氏神として尊崇された。俗に「綱八幡」と称する。
江戸開幕のみぎり、僧快尊が元和5年(1619)現社地を卜して造営を開始し、寛永5年(1628)8月に遷座した」とあります。
東京都神社名鑑による御田八幡神社の由緒には次のようにあります。
和銅2年(709)、牟佐志国牧岡に東国鎮護の神として鎮祀され、延喜式内稗田神社と伝えられた。その後、寛弘8年(1011)武蔵国御田郷久保三田の地に遷座され、嵯峨源氏渡辺一党の氏神として尊崇された。俗に「綱八幡」と称する。」
渡辺綱に関しては、『武蔵風土記』に御田八幡神社の什寶に「羅生門禁制一面」があると出ています。
「『羅生門の禁制』は、武蔵國三田の住人渡邊綱が鬼を退治して其腕を切取り、自邸に持歸ると、其跡を追って来た鬼が腕を奪ひ還して飛去ったので、羅生門で追ひついて大格闘を演じた甲斐もなく、遂に逃げられてしまつた時の記念に持歸つたものだと言ふ事になつてゐる。」
なかなか興味深いものがあります。
とにかく、この元三田小山町地域、現在は、地下鉄南北線や地下鉄大江戸線が開通して、南北線麻布十番駅や大江戸線赤羽橋駅が近くにあり交通の便も良いです。それ以前はどうだったかと言えば、都電が走っていたころは、赤羽橋という都電のターミナル駅があったので交通至便な町だったようですが、その後は山手線田町駅、浅草線&三田線三田駅まで遠く、渋谷や新宿までバスで、(渋滞がり)1時間かかっていたといいます。
そういったことで、ここの開発が遅れたのかもしれません。
しかし、今さかんに行われている開発とは、何だろうかと思います。2020に向けてなのでしょうか。
路地がある、木造建築が多い、それだけで古い、汚い、危ない。早く壊して街をきれいに安全にしなければ、ということになります。
そうして、どんどん高層のタワーマンションが建ち、まわりにとってつけたような公園が出来、下の階、あるいは周りにはどこでもみかけるお店が出店し、まったく個性の感じられない、同じような町があちらこちらにできているように思います。
住む人が、良いと思うから、イイね、なんでしょうが、その住む人はどこから来た人なのでしょうか。
そして、いつも皮肉におもうのは、マンションの広告はたいてい、壊して消してしまった歴史遺産をアピールして、歴史ある街として、緑の写真とともに、宣伝されています。

再開発の「旧三田小山町」の銭湯

小山町付近の地図
古川沿いに港区三田一丁目、二乃橋から一乃橋にかけて、江戸時代は、ほとんど寺社地、あるいは武家地でした。
江戸期に久保三田町、三田久保町、寺院門前町であった地域が明治2年(1869)に「三田小山町」になったということでした。付近に小さな山があったことが地名の由来ということですが、ここは古川沿いの低地です。
明治期になると大規模な製紙工場が開設されました。小山橋付近から現在の讃岐会館先まで日本でも有数の大規模な製紙工場 「三田製紙所」がありました。旧薩摩人で当時米穀取引所頭取であった林徳左衛門が、アメリカ人ドイルとの共同出資で 明治8(1875)年に三田小山町に設立しました。
その後、工場敷地の一部は、 元摂津尼崎城主 桜井(松平)子爵家、貴族院議員・農務省総務長官の藤田四郎氏本邸などを経て、昭和26(1951)年に香川県が購入します。昭和47年(1972)に讃岐会館(現・東京さぬき倶楽部)が建ちました。
実はこのあたり、再開発計画が決定していて、西側の方にはすでに2棟の高層住宅が建っています。
東京さぬき倶楽部も、まもなく壊される運命にあります。
小山橋 親柱
古川にかかる小山橋のあたりに来ると、高速道路や高層ビルに囲まれた住宅地となります。古建築はわずかに残っています。
小山橋から少し歩いて見ました。
「街こわし再開発反対」ののぼりも見られます。
街こわし反対の幕
町家風の銭湯が残っています。
出桁(だしげた)造りの銭湯
営業はしていませんが、看板はあります。小山湯と言います。
銭湯入り口
この小山湯の建物も、もうまもなく、消えてゆく運命にあります。
小山湯は狭い敷地に建てられているので、入口が飛び出しています。
出桁(だしげた)造りというのだそうです。
まもなく消える小山湯
小山湯の左面に細い階段を上がって行くと、踊り場に何故か「地蔵」が鎮座しています。
階段横のお地蔵さん
階段をあがると、小山湯の煙突が見えます。
煙突が見えます
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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