FC2ブログ

上野公園で桜散歩

博物館の正面から上野公園を望みました。
博物館から上野公園を望む
上野公園を歩きました。まだまだ、桜見物の人は多いです。今回も写真で。
博物館の中から黒門を入れて桜の写真。
黒門の桜
名前の札がイチョウザクラとなっていました。珍しい名前なので、案内にある花も撮影しました。手持ちの図鑑で探したのですが出ていなかったです。
 案内板 イチョウサクラ
イチョウサクラ
上野公園の花見のメインストリートです。
上野の桜のメインストリート
上野東照宮の鳥居の所の桜です。
上野東照宮の鳥居
清水観音堂と桜です。
月の松 清水観音堂 さくら
不忍池と弁天様と桜とビル群です。
不忍池の弁天様と桜
金曜日の午前でした。
スポンサーサイト



東京国立博物館の庭園の桜

東京国立博物館の庭園に行きました。
上野公園の敷地は江戸時代、寛永寺の敷地でした。博物館のあるところは寛永寺の本坊があった所で、
このお庭も寛永寺の庭園だった所です。ただ、何度も改修が行われて、当時の様子を伝えるのは、池と築山の一部と言われています。
茶室があり、ここで茶会が開かれると入ることができますが、一般には、桜の春と、紅葉の秋の2回だけです。
今回花見に行きました。満開が過ぎていましたが、まだまだきれいでした。
写真を載せます。
東洋館側の入り口前の桜、ミカドヨシノと書いてありました。
ミカドヨシノ
少し歩くと、池です。花びらが浮かんで、桜もあって、庭園の雰囲気をいっぱい醸し出しています。
入り口側からのお池
池の前、博物館の本館と、オオシマサクラ、そしてシダレサクラ。大木です。
本館 オオシマサクラ シダレサクラ
灯籠がありました。
大灯籠
5棟の茶室の一つ九条館の前の桜です。元赤坂の九条邸にあった茶室で、昭和9年ここに移されました。紫のモクレンも咲いていました。
九条館とさくら モクレン
5棟の茶室の一つ転合庵。京都伏見あったようです。昭和38年にここに移されました。屋根に花びらが落ちています。
転合庵 花びらが散っています。
池を通して博物館の本館を望みました。
池の向こうから博物館本堂
5棟の茶室の一つ春草廬です。茅葺きの屋根がどっしりしています。大阪、横浜、所沢と転々として、昭和34年にここに収まりました。
茶室 春草廬
5代将軍綱吉が法隆寺に奉納した旨の銘文が線刻されています。もうここは新緑です。
五重塔

新宿グランドタワー 公開空地の桜

グランドタワーのさくら群
新宿グランドタワーの公開空地の桜がとてもきれいです。
真っ赤なハナモモもありますが、桜も赤あり、白あり、みごとなコントラストを魅せています。
ビルをバックにして撮りました。
ビルをバックのさくら
真ん中の赤い点がポイントになっています。
赤くきれいなサクラ
山桜です。葉の緑が柔らかく、好きです。
山サクラ
枝が2本になっているようでした。ソメイヨシノでしょうか。
幹が二本に見えるサクラ




新宿区の地域文化財 「有隣園跡」

西新宿の成子天神社の裏側、住友のグランドタワーの所に「有隣園跡」の碑があります。
何かよく分からなくて、通り過ごしていたいのですが、昨年、新宿区の地域文化財(都市・産業、歴史分野)に登録されていました。
その案内を見ると次のようにあります。
「有隣園跡」 新宿区西新宿八丁目16番
 有隣園は、明治44年(1911)に設立された総合福祉施設です。設立者の大森安仁子(アニー・バローズ・シェプリー、1856~1941、米ミネソタ州生まれ)は、夫の大森兵蔵(1876~1913、現在の岡山県岡山市生まれ)と共に、日本人の体位向上のために体育の啓蒙と指導を行いました。またセツルメント(地域社会奉仕)による社会事業を行うため、有隣園を設けました。
 有隣園は、授産所・幼稚園・図書館などを兼ねた、当時としては珍しい施設でした。当初は子どもを対象とした遊び場・クラブが中心でしたが、事業の拡大に伴い、勤労青少年のための徒弟夜学校、診療所などを開設しました。関東大震災の時には、職業紹介所や託児所、簡易宿泊所の設置、救助活動も行いました。
 昭和20年(1945)5月の空襲で全焼し、再建はされませんでしたが、跡地には一般財団法人生涯学習開発財団によって「有隣園記念の碑」が設置されています。
地域文化財「有隣園跡」
そして、びっくりしたのは、来年のNHK大河ドラマは「いだてん(韋駄天 )〜東京オリムピック噺(ばなし)〜」に登場するということです。
脚本は宮藤官九郎さんで、日本がオリンピックに初めて参加することが決定した明治42年(1909)から、初の日本開催となる昭和39年(1964)までが描かれます。
前編に明治45年(1912)のオリンピックストックホルム大会に監督として参加した大森兵蔵が登場します。演じるのは、竹野内豊さん。そしてその妻の大森安仁子役は、以前朝ドラの出ていたシャーロット・ケイト・フォックスさんです。
これは、知っておかなくてはと、いろいろ探してみました。
有隣圓のあったあたり
大森兵蔵氏・大森兵蔵は、岡山県出身。東京高等商業学校を卒業後渡米し、スタンフォード大学で経済学、国際YMCAトレーニングスクールで体育学を学びました。
留学時に知り合ったアニー・バローズ・シェプリー、日本名 大森安仁子と明治42年(1909)に結婚します。
実は、大森兵蔵は大森安仁子より19歳も年下でした。結婚をしたとき、大森安仁子が50歳、大森兵蔵31歳でした。2人とも初婚です。
帰国して、明治44年(1911)、2人は恵まれない子供のための教育施設「有隣園」を設立し、セツルメント事業の第1歩を踏み出します。セツルメント事業は、貧困層や貧困地域を支援する社会事業のことです。
階段があり、桜が咲いていた
(今は高層ビルが建ち、周りもきれいに整備され、階段と満開の桜がきれいでした)。
「有隣園」という名前の由来は論語の「子曰徳不孤必有隣(子曰く、徳は孤ならず。必ず隣有り)」です。
児童福祉施設「有隣園」は、成子天神で遊んでいた子供に遊びを指導したりする施設で、裏手にあった成子天神の境内で遊んでいる子供を指導することから始まり、後に保育園も加えられて行きます。
大森兵蔵は、日本に初めてバスケットボールとバレーボールを紹介するなど、スポーツの楽しみや価値を伝えることにも熱心でした。
素封家出身で語学にも秀でていた兵蔵は、東京高等師範学校の校長だった嘉納治五郎とともに、日本のオリンピック初参加を目指して、明治44年(1911年)大日本体育協会を設立、理事に就任します。
その後、嘉納会長と日本オリンピック委員会(JOC)を設立し、1912年のストックホルム大会に向けて、予選会と代表選手派遣の事業に取り組みました。
こうして団長を嘉納、監督が大森兵蔵、陸上競技の三島弥彦選手と金栗四三選手、総勢4人の日本代表選手団は、明治45年(1912)5月、スウェーデンのストックホルム大会にシベリア鉄道を利用して参加します。
ストックホルムのオリンピック
しかし大森兵蔵は、結核を患っていて、やっと開会式に出られる程度の身体の状況でした。上の写真、左から嘉納治五郎、大森兵蔵、旗手は三島弥彦選手です。プラカードは、「JAPAN」でなくて、「NIPPON」というローマ字表記になっています。

ストックホルムのオリンピックが終了して、大森兵蔵は身体の養生をしながら帰国の途につきますが、途中、アメリカのパサデナで亡くなってしまいます。大正2年(1913)のことでした。
大森安仁子は、大森兵蔵死後も、日本に留まって福祉事業を続け、大正11年(1922)には日本国籍を取得。大正12年(1923)の関東大震災の後はさらに事業を拡大し、託児所や職業紹介所・簡易宿泊所も経営しました。
画は文展に入選するほどの腕前を持ち、また、「更級日記」や「聖徳太子」などの英訳を手がけるなど多芸で知られました。昭和16年の春ことから体が弱り初めたため、河口湖の別荘へと移り、第一線を退いて静養した。
河口湖は、故郷アメリカに似ていたのか、旅行に来た時に気に入って別荘を購入していたのもで、大森安仁子が書いた夫・大森兵蔵の肖像画を飾っており、大森安仁子は昭和16年(1941年)8月3日に、夫の肖像画や親族に見守られ死去しました。享年85でした。
大森安仁子の死から4ヶ月後の昭和16年12月8日未明に、日本は真珠湾攻撃を行い、アメリカとの戦争に突入し、「有隣園」は空襲を受け手焼失してしまう。
「有隣園」は、運営母体が無く、後継者を育てていなかったため、戦後も再開されることはありませんでした。
モクレンが咲いていた
成子天神の鳥居の横で、モクレンが咲いたいました。

柏木の「一本桜」

今年は桜の開花が早かったです。いろいろな桜が満開になっています。
新宿区の北新宿、かつての柏木地域の桜を愛での行きました。
一般庶民が、桜見物をするようになった、江戸時代の人はまず「一本桜」を楽しみました。
それからしだいにたくさんの桜を愛でるようになっていきます。
三田村鳶魚(みたむら えんぎょ)の『江戸の春秋』には、次のように書かれています。
「一本桜といとは大きい桜の樹であって、江戸には33の名木があったが、今は殆どなくなってしまった。一本桜で古いところ、人のよく集まったのは、柏木の右衛門桜と、同じく柏木の常圓寺の糸桜であった。これらの名木は皆周囲が3間以上もある老樹大木であった。そこへ人々がよく集まって賞翫したのである。ところがそれが文化の末、文政の初めころから、一本桜の賞翫が衰えてしまって、上野や飛鳥山の方へ移って行った。」
江戸時代、柏木にあった圓照寺と常圓寺の「一本桜」がとても有名だったのです。

●圓照寺
右衛門桜は今はありませんが、現在入るとすぐ目に入る枝垂桜があります。その場所が右衛門桜ゆかりの地のようです。
現在の枝垂桜は、三春滝桜の三春で探した若木をここに移植したということです。
縦長で本堂前 圓常寺桜

桜全景 圓常寺

枝垂れの部分 常圓寺

●常圓寺
 ここの枝垂れ桜は、3代目として、昭和45年に植えられたものです。
常圓寺桜満開

ビルとのコントラスト 常圓寺

常圓寺 枝垂れ全景

常圓寺の桜 枝垂れとソメイヨシノ


オーストラリア大使館

綱町三井倶楽部を日向坂の方へ少し行くとオーストラリア大使館です。
切り絵図では、綱町三井倶楽部と同じく日向国佐土原藩(宮崎)「島津淡路守」の屋敷ですが、その後「徳島藩蜂須賀家」に、そして明治には「蜂須賀侯爵家」になっていた場所がオーストラリア大使館になっています。
オーストラリア大使館 縦正面
建物はモダンなメタリックなつくりで、正面上方にはカンガルーなどの動物が姿を見せています。
大使公邸として使われていた以前の蜂須賀公爵邸は改築により失われていますが、ここの庭園にも渡辺綱の産湯の井といわれるものが残されています。
以前の公爵邸は、蜂須賀正韶、正親子は共に、イギリスのケンブリッジ大学で学んだこともあり、西洋風のカントリーハウスの邸宅を作っています。
昭和15年(1940)、オーストラリア政府はそのカントリーハウスを借用し、その後の昭和27年(1952)年、敷地と屋敷を購入して、初代のオーストラリア大使館としました。
それから オーストラリアの建設設計会社、デントン・コーカー・マーシャル社の設計により、伝統に則りながらも建物の外壁をPVF2コーティングのアルミ仕上げで装うモダンな建物が平成2年(1990)年に完成しました。
オーストラリア大使館 横サイズ写真

綱町三井倶楽部 綱の坂

現在慶応大学が建っている伊予松山藩の屋敷の西側には、薩摩藩の支藩であった日向国砂土原藩島津家の上屋敷がありました。
綱町三井倶楽部
そこが、現在は三井グループ企業による会員制倶楽部「綱町三井倶楽部」です。
この建物を手掛けたのは、ジョサイア・コンドルです。大正2年(1913)に建てられました。
綱町三井倶楽部少し中
ルネサンス様式を基調とした宮殿造りの館は、ベランダの張り出しはバロック、中央ドームの吹き抜けはピザンチンと様々な建築様式が見事に調和した建物になっています。また、本館前に広がるお庭は、コンドルが外観とのバランスを考えて設計した、純英国風の西洋庭園です。
鹿鳴館を設計したことで知られるイギリス人のジョサイア・コンドル博士は明治政府の招きで西洋建築を指導するために明治10年(1877)に来日しました。以後、日本に永住し辰野金吾、曾禰達蔵等建築界指導者を育てると共に自らも数々の名建築を残しました。
 当初、この建物は、三井家の賓客接待用として、三井八郎右衛門高棟(たかみね)が、「綱町三井別邸」として建設しました。現在は、三井各社の賓客接待や親睦、婚礼会場に利用されています。
綱町三井倶楽部右の門から
綱町三井倶楽部の「綱町」の綱は、羅生門の鬼退治の逸話で知られる平安中期の武将、渡辺綱(953~1025)がこの地で生まれたということで「三田綱町」という地名が付けられました(一般的な説では、渡辺綱は、武蔵国足立郡箕田郷(埼玉県鴻巣市)に生まれたことになっています)。
現在周辺は三田2丁目で、綱町の地名は使われていません。
綱町三井倶楽部の庭園には、渡辺綱の産湯の井戸と言われている井戸があるそうですが、公開されていません。
源頼光に仕えた渡辺綱は「大江山の酒呑 童子退治」で有名で、「頼光の四天王」の一人 です。「羅生門の鬼退治」で知られる剣術の腕前は、四天王の中でも一番だったと伝わっています。
三田の坂
綱は、「綱坂」、「綱の手引坂」と坂の名前に残っています。(上の地図、「港区の坂」の地図を借用)
「綱坂(つなざか)は」、三田2丁目の慶應義塾大学西門の道に沿ったところにあります。「三田綱坂」、「渡辺坂」とも呼ばれます。
綱の手引き坂
「綱の手引坂」(写真)は姥坂などとも呼ばれ、都立三田高校、赤羽小学校に面し、(綱町三井倶楽部の斜め向かい側の坂)坂を上った高い台 地には樹木が多く、大木が茂っています。幼少時代、姥が手を引いて上ったり下ったりしたことに由来して、“綱が手引坂”と呼び、“姥坂” 、あるいは「馬場坂」とも言われます。
江戸後期、女子高から中等部の敷地だけでなく、西は綱町グラウンドを含んで古川の河岸まで、東は三井倶楽部の南半分を含んで綱坂までの旧綱町一帯は、陸奥会津藩松平肥後守23万石の下屋敷でした。
明治新政府になり、それまで諸国の大名が持っていた上屋敷、中屋敷、下屋敷の三つの内一つを残してあとは上地させる旨の取決めがなされ、多くの大名屋敷が華族や軍人、官吏、実業家に払い下げられました。会津藩下屋敷も、徳川伯爵家(旧御三卿)や鍋島子爵家(旧肥前鹿島藩)、蜂須賀侯爵家(旧徳島藩)などの邸宅となりました。
綱町三井倶楽部の前の建物は、逓信省簡易保険局(現・東京簡易保険事務センター)です。
逓信省簡易保険局
この建物は昭和4年(1929年)に逓信省の設計、大林組の施工により建てられたものです。現在は使われていないようです。

イタリア大使館

イタリア大使館です。
門側 イタリア大使館
イタリアと日本の正式な関係は、慶応2年(1866)5月27日、イタリア海軍コルヴェット蒸気船が横浜港に着いたときに始まっています。そして同年8月25日、日伊修好通商条約が締結されました。
初期のイタリア外交代表部がどこに設置されていたかは、確かな記録がない。
明治5年(1872)になって、東京の虎ノ門の南西部分の2310坪の敷地に定着しました。その後30年にわたって建物は拡充されたが、火災や台風の大きな被害も被っています。
大正8年(1919)に紀尾井町へ移ったこともありますが、関東大震災で破壊してしまい、昭和4年(1929)に三田の地の土地所有権を取得して、昭和7年(1932)、移転してきました。
江戸時代、ここは、伊予松山藩久松家・松平隠岐守の中屋敷跡で、風雅で由緒ある名園を持っていました。
この屋敷は、ある有名な歴史的事件の舞台の一つとなりました。元禄16年(1703)2月4日、大石主税良金ら赤穂義士10名がこの庭で切腹しました。現在ある池の一部は切腹が行なわれた場所を掘り起こして作られ、池の裏手にある築山はその土を盛り上げたものと言われます。そこには昭和14年(1939)この事件について日伊両国語で刻まれた記念碑が建立されています。
ときどきテレビで紹介されています。
明治時代は、この松平隠岐守の中屋敷は、内閣総理大臣を2度つとめた松方正義の屋敷がありました。松方正義に子どもには、十五銀行頭取の松方巌、松方コレクションの松方幸次郎、日本山岳界のパイオニア松方三郎などが、各分野で名声を残した子供達がいて、みんなこの邸で育ちました。
現在のイタリア大使館官邸は昭和40年(1965)4月に竣工したものです。
イタリア大使館

三田の慶応大学の建物

慶応大学は、安政5年(1858)10月開塾です。
福澤諭吉が、藩命により、江戸築地鉄砲洲の中津藩中屋敷内(現在の東京都中央区明石町、聖路加国際病院のあたり)に蘭学塾を開きました。これが慶應義塾の起源です。築地の聖路加国際病院のあたりを歩くと、その記念碑があります。
そのとき、諭吉は25歳でした。維新の頃は、若い人がすごいですね。
慶應義塾が、三田に移ったのは、明治4年(1871)です。その地は、島原藩の中屋敷があったところで、明治3年に邸地約1万2千坪を貸し下げられ、翌5年には払い下げを受けています。それから、三田は慶応大学のシンボルになります。
今回は、建物を見学しました。
あと、建築物の案内から、ほぼ引用になりますが、写真と共に紹介します。
最も古い建物は、明治8年(1875) 5月1日に竣工、開館した「三田演説館」が現存しています。
●三田演説館
三田演説館
日本最初の演説会堂として建造された演説館です。創建当初は現在の図書館旧館と塾監局との間に位置していましたが、関東大震災後の大正13年(1924)に現在地(三田キャンパス南西の稲荷山)へ移築しました。
昭和22年(1947)に修復が施されました。また、平成7(1995)年より約1年半かけて解体修復が行われています。
そして、昭和42年(1967)に国の重要文化財に指定されています。
木造瓦葺、洋風、なまこ壁の建物は、わが国最初の演説会堂として大正4年に東京府史跡、昭和35年には都の重宝、同42年6月さらに国の重要文化財に指定されています。ちなみに「演説」という言葉は福澤諭吉およびその門下の人々によって創始されたものです。
三田演説館前には、福沢諭吉の像があります。この像は最初、昭和29年(1954)福澤諭吉119回目の誕生日図書館旧館前に設置されたものです。平成29年(2017)からの図書館旧館の改修工事に伴い、三田演説館前へ移設されています。早稲田のように、創設者の像大きくはないですでね。
●第1校舎
慶応大学第1校舎
門から入って大きく見える校舎です。
曾禰達蔵と中條精一郎(曽禰中條建築事務所)の設計で竣工は昭和12年(1937)。
旧図書館や塾監局に比べると、機能重視のシンプルな意匠になっていますが、壁に外付けされた柱や上下開閉窓など、旧図書館や塾監局との調和が図られています。
3層吹き抜けの階段ホール
昭和40年(1965)に屋上に1フロアが増築されるまでは、周囲と同じ3階建てだったとのこと。
第一校舎内部の中央部分には3層吹き抜けの階段ホールが設けられています。「災害避難時」のことが考えられていて、日本で最初のものです。
●塾監局(じゅくかんきょく)
塾監局(じゅくかんきょく)
1926年竣工。これも設計は曽禰中條建築事務所。
塾監局の南面。同じ設計者によってその14年前(1912年)に造られた旧図書館に較べると少し地味にはなりますが、外壁にはスクラッチタイルとテラコッタ、さらに上下開閉窓や2階窓のアーチ、壁に外付けされた柱、屋根のラインなど、装飾は凝っています。
塾監局玄関
旧図書館側に面する広場が正面で、堂々とした玄関ポーチがあります。
玄関の右側、建物の北側部分が、かつて演説館が建っていた場所です。
旧塾監局は関東大震災の被害を受けて取り壊されましたが、その際に演説館は南側の稲荷山に移築されました。
●図書館旧館
工事中の旧図書館
図書館旧館は、現在改修工事中でした。
慶應義塾創立50年記念事業の一環として建設が計画され、約3年の歳月を費やし明治45年(1912)に竣工しました。設計・監督は曾禰・中條建築事務所。
(曾禰達蔵は、同郷だった辰野金吾とともにジョサイア・コンドルに学んだ日本人建築家の第1期生でした。丸の内の三菱オフィス街の基礎を築き、のち後輩の中條精一郎(1868年 - 1936年)とともに設計事務所を開設。曽禰中條建築事務所は都市を飾る数多くのオフィスビルを送り出しています。
再現された三菱一号館、新宿でレストランとして使われている小笠原伯爵邸などが見られます。)
旧図書館案内板
赤煉瓦と花崗岩による壮麗な外観を有するゴシック式洋風建築であり、本館(地階・地上3階)、書庫(地上6階)、東南隅にある八角塔(地上4階)を合わせて建坪200坪(660平方メートル)。蔵書数・閲覧席の規模も当時の大学図書館としては画期的なものでした。
高く掲げられた時計の文字盤には、「TEMPUS FUGIT」(「時は過ぎゆく」の意のラテン語)が刻まれています。また、入口ホールの階段上を飾る「Calamvs Gladio Fortior」(「ペンは剣よりも強し」の意のラテン語)が記されたステンドグラスは、権力に屈しない慶應義塾の精神を表しています。
●東館:ホール、G-Lab
東館
東館アーケード入り口
東館東西両側のアーケード入口上部のペンマークの下には、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」を意味するラテン語「HOMO NEC VLLVS CVIQVAM PRAEPOSITVS NEC SVBDITVS CREATVR」が記されています。このラテン語を直訳すると、「いかなる人もある者の上につくられてはいないし、いかなる人もある者の下につくられてはいない」となり、日本語の「天」がもつ語感を表すため、受身の形かつ否定により表現されています。
東館アーケード入り口
東館はキャンパスへの出入り口(東門)にもなっています。開校当初はこちら側が正門だったそうです。

港区の三田地域を歩くにあたって。大名屋敷と大使館・学校。

「三田」の地名の由来は、古く神領に寄進された土地を神田あるいは御田と称したところから転じたという説があります。御田=三田ですね。
江戸切り絵図「芝三田二本榎高輪」
しかし、港区の「三田」あたりの江戸切り絵図をみても「田」という面影はありません。しかも多く台地です。
確かに田町駅から桜田通りにかけては低い場所もありますが、慶應義塾大学の三田キャンパスは外から見ても分かる高台立地。また、綱町三井倶楽部やオーストラリア大使館なども田町駅、三田駅からはもちろん、麻布十番駅からも坂を上る地形です。
桜田通りを渡って坂を上ると大学、大使館や高額なマンションが並ぶエリアに。その多くはかつてこの地に点在していた大名屋敷を転用したもので、鬱蒼とした緑、クラシカルな建物、長く続く石積みの塀など、ところどころに歴史を感じさせる風物も残されています。
特に綱町三井倶楽部周辺は俗説ではあるものの、平安時代の武将渡辺綱の出身地とされています。源頼光に仕えた渡辺綱は「大江山の酒呑 童子退治」で有名で、「頼光の四天王」の一人です。
ちなみにその三田駅周辺エリアに多いものといえば、なんといっても学校です。地名がイコール大学を意味すると言っても過言ではない慶應義塾大学と慶應義塾中学校、慶應義塾女子高はもちろん、芝には東京女子学園高校、戸板女子短大があり、それ以外にも都立高校、専門学校などが点在しています。
そして、学校と並んで多いのが大使館です。オーストラリア大使館、イタリア大使館、ハンガリー大使館、クウェート大使館などなど。
それらの地域を江戸切り絵図でみるとほとんどが大名屋敷です。
(人文社の『もち歩き 江戸東京散歩』の古地図でみてみましょう。番号はその本のまま使用)
慶應義塾大学は肥前島原藩の松平主殿頭(とのものかみ)の中屋敷(8)です。現在の慶應仲通りの飲食店街の一画は赤穂浪士を預かった三河岡崎藩水野家の水野監物の中屋敷(13)がありました。
オーストラリア大使館はかつての会津藩松平肥後守の下屋敷(7)で、イタリア大使館は松平隠岐守の中屋敷(9)。この辺りは大名屋敷銀座とも言えるようなエリアだったようです。
この地区において大使館が多く置かれた理由には、多人数の外国人一団を招く際に必要な設備を整えることが可能だったので、ある程度の広さが必要だったことにあります。また、江戸の南端に位置し、海に近く上陸地点に近かったこと、
も要所としての価値があったといえます。
ついでながら、先日記した(14の)薩摩屋敷は松平修理大夫です。(12の)薩摩クラヤシキは、薩摩藩の蔵屋敷で、西郷隆盛と勝海舟が江戸開城の最終交渉が行われた場所です。

町名で芝、三田というあたりは古くから開発されてきた場所です。そのため大使館、学校などがあり、なかんか新しく住宅を建てことは難しく、そういうことで、大きなビルは、田町駅の海側に立地していると言えるでしょう。しかし、少し残っていた古い町並みが、オリンピック開催に向けて、開発されていく予定になっています。
その地域を少し歩いてみます。

至上の印象派展 ビュールレ・コレクション

六本木の国立新美術館で「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」展を観ました。
ドイツに生まれ、スイスに移住した実業家エミール=ゲオルク・ビュールレ(1890~1956)が生涯をかけて収集したプライベート・コレクションの展覧会です。作品は、スイスのビュールレの私邸を改装した美術館で展示されていましたが2015年に閉館しました。そうした時「チューリヒ美術館」の拡張計画があり、そちらに美術品を寄託することになったようです。そして、2020年にチューリヒ美術館がオープンされるまでの間に(世界各地で展覧会が開かれているのか)今回の日本での展示が可能になったようです。
展示美術品、約60点の作品のうち、半数が「日本初公開」ということもあり話題になっています。
可愛いイレーヌ
中でも、話題は、ルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(可愛いイレーヌ)」(1880 年)です。ルノワールがまだ駆け出しのころに描いた8歳の少女の像です。
この絵について、NHKの日曜美術館でもその数奇な運命が紹介されていました。
モデルの少女、イレーヌは、パリに住む裕福なユダヤ人銀行家の長女でした。
ルノワールが描いたこの作品は、イレーヌ本人も、注文した両親もこの絵が気に入らなかったとのことで、長く使用人の部屋に密かに掛けられていたそうです。
この絵が歴史の舞台に登場するのは、1942年、第二次世界大戦の時でした。
ナチスにより当時この絵を所有していたイレーヌの長女ベアトリスのもとから略奪されて、ヘルマン・ゲーリングの個人所有となったのです。 
かつて画家志望だったヒトラーは巨大美術館建設の野望を秘め、各地でユダヤ人が所蔵する美術品を収奪しました。その数、実に60万点。この絵もその中の一点でした。ヒトラーは古典的な作品を好み、印象派のような当時の新しい表現は「退廃芸術」と呼んで迫害していました。しかし、ゲーリングは印象派の作品が好きだったのです。そのおかげか、作品は無事でした。
1945年に、世界大戦が終結。1946年、パリ・オランジュリー美術館で開催された「ドイツで発見されたフランスの個人所蔵コレクション傑作展」に出品されました。それを知ったイレーヌは自己の相続権を主張、絵はイレーヌに返還されます。
描かれて66年。可愛いイレーヌも74歳になっていました。
しかし、返還されて3年後、1949年に絵は売却されます。そして、仲介者を経て、ビュールレ・コレクションに入ったのです。
イレーヌは1963年に91歳で亡くなっています。
どうして、そんなに早く、手放したのか、いろいろ推察されていますが、はっきりした理由は分かっていないようです。
この美しい絵が持つ過酷な運命。確かに感慨深いものがあります。
ほかにも、セザンヌの『赤いチョッキの少年』、モネの『ヴェトゥイユ近郊のケシ畑』、ファン・ゴッホの『花咲くマロニエの枝』の4点が、2008年、セルビア人の武装強盗団によって盗まれるという事件があったようです。
この盗難事件のせいで、美術館の一般公開を規制されています。
ちなみに盗まれた絵は、モネとファン・ゴッホの2点は、盗難事件のあった直後に美術館近くの駐車場で、セザンヌとドガの2点は4年後の2012年にセルビア・ベオグラードで見つかっています。
ゴッホの『花咲くマロニエの枝』は、どこか日本的でもあり心引かれる作品でした。
ゴッホ『花咲くマロニエの枝』
そのほか私が好きな作品2点。
トゥールーズ・ロートレック『コンフェッティ』
《コンフェッティ》
コンフェッティとは、カーニバルの時に使用される紙吹雪を意味しています。画家が長年描き続けていた女優のジャンヌ・グラニエをモデルとしています。( 日本初公開)

そして、エドガー・ドガ『待合室の踊子たち』
ドガ 踊り子  ビュールレ・コレクション

新宿中央公園の花便り

このところ、5月ごろの暖かさだそうで、今年の桜の開花はとても早いと思われます。
新宿中央公園へ行って花を見ました。
ハクモクレンがとても鮮やかです。
ハクモクレン
「銀世界」という梅の花は、老境に入っています。
銀世界_edited-1
タカトオコヒガンサクラは、5分咲きといった所でしょうか。今度来たときは満開でしょうね。
タカトウコヒガンザクラ

将門ゆかりの「鎧神社」と「兜神社」

鎧神社
「鎧神社」
この「鎧」については諸説あります。
日本武命(やまとたけるのみこと)が御東征の折、この地に甲冑を埋めたという伝承。
そして、天暦(947)の始めに平将門が亡くなった後に将門を偲んでこの地に将門の鎧を埋めたと言う伝承。
いやいや、将門を討伐した藤原秀卿が重病に罹った際に祟りを恐れ将門公の鎧を埋め篤く祀ったところ病が治った、ことから生まれたという伝承。
醍醐帝の御代(898-929)、円照寺が創建され、寺の鬼門鎮護の神祀として鎧大明神が創建されたのだという説もあります。
と、いろいろ伝えられています。
圓照寺 鎧神社 江戸名所図会
江戸名所図会には「相伝ふ、藤原秀郷将門を誅戮し凱旋の後、将門の鎧をこの地に埋蔵し、上に禿倉を建てて鎧明神と称すというふ。社前に兜松と称する古松あり。これも兜を埋めたる印と云ふ。」と記されています。
その松があったのは、鳥居の方でしょう。
狛犬後ろ 鎧神社
とにかく今回は、平将門ゆかりの神社としてお参りしました。
敷地内にある天神社(菅公を祀る神社)は明治時代中期にこの地に移設されたものです。。
ご祭神:
日本武命(やまとたけるのみこと) 大己貴命(おおなむちのみこと) 少彦名命(すくなひこなのみこと)
平将門(たいらのまさかどこう)
摂社:
天神社  祭神:菅原道真(すがわらのみちざねこう)
末社:
稲荷神社  祭神:宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)
三峯神社  祭神:伊弊諾命、伊芽冊命
子の権現  祭神:大国主命(おおくにぬしのみこと)
住所:東京都新宿区北新宿3-16-18
高速下の兜神社
こちらは兜です。
「兜神社」
日本の証券ビジネスの中心地、「兜町」という街の名前の由来にもなっているというのが「兜神社」です。
ここには平将門がかつて使用していたという兜が埋まると伝えられています。
ここでも、この“将門の兜”以外に、源義家が後三年の役(永保3年(1083)~寛治元年(1087)まで)から凱旋してきた際、東夷鎮定のため、兜を楓川の辺のほとりに埋めたとか、または出兵する際に、兜を兜岩(現在境内にある)にかけて勝利を祈願したという伝説が残っています。
兜神社
由来によると、この近辺にあった兜塚が兜神社(源義家が祀られている)となり、鎧稲荷(平将門が祀られている)が合祀されて兜神社となったと記されています。しかし、合祀後の明治初期に祭神の源義家を廃して倉稲魂命を勧請し、現在に至っているようです。
この神社には、伝説の2人の武人とは無関係になってしましっています。
しかし、「兜」にまつわるものは境内に残されています。兜岩です。
兜岩 全景
この兜岩についても二人の武人が同じく絡んできます。
平将門の関連で言うと、藤原秀郷が将門の首を、兜を添えて持ってきたが、この地で兜だけを埋めて塚をなした、というもの。
源義家の関連で言うと、東北凱旋後の義家が鎮定のために兜を埋めて塚をなした、あるいは義家が東北遠征のおりに兜を岩に掛けて必勝祈願をした。
というものです。
「東京名所図会」には次のように記されています。
兜神社は、兜町二、四番地に鎮座せり。境内凡五十坪。正面素木造の門あり。左右の扉に「兜」の文字を彫れり。門内花崗石の鳥居あり、扁額に兜神社、従一位藤原實徳謹書と題せり。石階あり、境内清新にして、近年修復する所、丘上に祠あり、銅瓦を葺きて、檜木造の拝殿、翠簾垂籠めて幣束を捧げぬ。本社は土蔵造なり。祭神宇迦御魂命、大國主命、事代主命の三座にて、例年十月一日祭典を執行す、氏子は兜町一ヶ町なり。神前にぬかつきて、左側に古塚あり、即ち兜塚にて、地上六尺を擢きたる自然石なり、注連縄を施せり。社後は日本橋川に面し、対岸思案橋を望み、末廣河岸、鎧河岸の土蔵は、ただ一とつらに見えて、舟筏朝夕に輻湊せり。(東京名所図会より)
平将門の記載はありませんが、「兜塚」が丁寧に書かれています。
岩は黒光りしていました。
兜岩
ご祭神 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
相殿  大国主神、事代主命
住所 中央区日本橋兜町1-12

平将門の乱と将門ゆかりの東京の神社

将門の絵図
大蘇(月岡)芳年の『芳年武者无類 相模次郎平将門』(明治8年)です。
平将門の乱について少し。
東国を本拠とする桓武平氏の出身である「平将門(たいらのまさかど)」は平安京に出て出仕しましたが、935年に父の良将(よしまさ)が急死すると領地の下総国猿島郡(現在の茨城県)に戻ります。
しかし、相続をめぐって争いが起こり、一族の抗争へと発展してしまいました。
抗争を続ける中で、国司とも対立してしまい、天慶2年(939)には朝廷に反旗を翻す事になってしまいます。
秀でた武力を持っていた将門は、常陸、下野、上野、の国府を攻め落とす事に成功し、またたくまに関東一円を支配下に収め、自身を「新皇(しんのう)」と称し、天皇の権威に対抗する事を決意します
この頃、民衆は多くの徴税と徴兵に苦しんでいました。承平7年(937)には富士山が大噴火。民衆の困窮がいよいよ深刻化していました。将門は領民を救うため関東一帯を支配しようとしたのだとも言われます。
とにかく、この将門率いる武士団の行動に危機感を抱いた朝廷は、藤原忠文(ただふみ)を征東大将軍に任命し、鎮圧のために派遣しました。
しかし、朝廷軍が到着する前に、将門は地元の武士であった藤原秀郷(ひでさと)、平貞盛(さだもり)の軍勢によって討たれてしまったのです。
平貞盛は将門がかつて殺した伯父・国香の息子で平清盛の祖先。また、俵藤太の別名で知られる藤原秀郷はこの後出世していきます。
天慶3年(940)2月14日、風が吹き荒れる中、将門軍勢は奮闘しましたが、額に流れ矢が命中し将門は絶命。38歳だったと伝わります。将門が新皇として関東を支配したのは、わずか2ヶ月余りでした。
平安京へ運ばれた将門の首は都大路で晒し首にされました。
東国の天皇になることを夢見て駆け抜け、最期は晒し首となった平将門。さぞ無念であったろうと、後世の人々は彼の祟りを恐れたと言います。呪いや怨霊伝説は、こうしたところから生まれたのでしょう。
平将門
関東一円には平将門の伝説が残っています。平将門公にゆかりがある東京都内神社もたくさんありますが、どういうわけか新宿区が多いです。
【1】平将門の鎧が眠るという「鎧神社」(新宿区北新宿)
 平安時代の武将、平将門が平貞盛・藤原秀郷連合軍との戦いにおいて戦死したときに身に纏っていた鎧を埋蔵し、鎧明神と称したのが、現在北新宿三丁目にある鎧神社の起こりとされています。
【2】稲荷鬼王神社(いなりきおうじんじゃ)(新宿区歌舞伎町)
「鬼王」の名は平将門の幼名である「鬼王丸(外都鬼王とも)」から名前を取ったという伝承もあるそうです。
そのため、将門ゆかりの神社としても知られています。
【3】平将門調伏のための神社と伝わる「水稲荷神社」(新宿区西早稲田)
平将門を倒した藤原秀郷が勧請した神社で、平将門の怨霊封じの神社と言われます。
【4】平将門の足が祀られたという風説が残る「筑土八幡神社」(新宿区筑土八幡町)
筑土八幡神社には、江戸時代初期に黒衣の宰相と呼ばれた天海僧正が、平将門の遺体の一部(足)を祀ったという説があります。
以上が新宿。あと東京には、次のような将門ゆかりの神社があります。
【5】将門の飛翔した首が落ちた場所とされる「将門の首塚」(千代田区大手町)
この首塚が一番有名で、将門ゆかりの中でも最も大事です。
京の五条河原に曝されていた将門の首が胴体をもとめて自ら空を飛び、そして力尽きて落ちたのが現在、三井物産ビルの隣にある首塚がある場所だったと伝わっています。
【6】平将門が神として祀られる「神田明神」(千代田区外神田)
この神田明神、もともとは首塚の場所にありました。。嘉元年間(14世紀初頭)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)に当社の相殿神とされました。
明治7年(1874)、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門が祭神から外されましたが、昭和59年(1984)に本社祭神に復帰しました。
【7】平将門の兜が埋まると伝わる「兜神社」(中央区日本橋兜町)
【8】首が飛び越えた伝説がある「鳥越神社」(台東区鳥越)
平将門の首が空を飛んだ際、この地を飛び越して行ったために「飛び越え」つまり「鳥越」という地名がついたという逸話があります。

鐵砲洲稲荷神社 富士塚

名所江戸百景「鉄砲洲稲荷橋湊神社」
名所江戸百景「鉄砲洲稲荷橋湊神社」歌川広重・安政4年
アーチの木橋は八丁堀に架かる稲荷橋。 左の赤い板塀が移転前の鉄砲洲稲荷神社です。
鉄砲洲稲荷神社は、中央区湊にある稲荷神社です。
移転する前の場所は現在車が走る道になっています。右側に小さく写っていますが、稲荷橋の橋の石碑が残されています。
かつて鉄砲州の橋があった場所
八丁堀の船入堀口、諸国からの船が出入りする港(=湊)にあったことから湊稲荷と呼ばれた鉄砲洲稲荷神社。
中央区教育委員会の由緒書きを引用します。
鐵砲洲稲荷神社
所在地:中央区湊1-6-7
鐵砲洲稲荷神社は、江戸湊の入口に鎮座する神社として、地域の人々の信仰を集めてきました。神社は、寛永元年(1624)頃、稲荷橋南東詰に遷りましたが、明治元年(1866)現在地に移転しました。
関東大震災により被害をうけた境内は昭和10年(1935)より復興、整備され、正面中央奥に社殿、左手に神楽殿と摂社八幡宮、右手に社務所と手水舎が向かい合うように配置され、境内西南隅に神楽庫が設けられています。
また、西北隅には富士山の溶岩で築いた富士塚があり、そこを富士信仰の場としていました。むかしの富士塚は「江戸名所図会」にも描かれた有名なものでした。
境内は昭和初期の神社建築とその配置の有様をよく伝えており、また、富士塚も区内唯一の富士信仰の名残りをとどめている点から、共に中央区民文化財に登録されています。
平成5年3月 中央区教育委員会
明治元年(1868)鉄砲洲が外国人居留地となったことから現在地に遷座されて来ています。
鉄砲洲の名前は、地形が鉄砲の形をしていたからという説と、寛永の頃に幕府が大砲の射撃訓練としていたからという説が紹介されています。
鉄砲洲稲荷神社 狛犬
りっぱな神社です。
もう1枚浮世絵です。
江戸自慢三十六興 鉄砲洲いなり富士詣
江戸自慢三十六興 鉄砲洲いなり富士詣(えどじまんさんじゅうろっきょう てっぽうずいなりふじもうで)
歌川豊国(うたがわとよくに)(三代)画、歌川広重(うたがわひろしげ)(二代)画 
鐵砲洲稲荷神社に富士塚があります。
説明によると。
当神社境内に在る富士山は始め寛政二年九月稲荷橋南詰の元社地内に築造されしものなり江戸名所図絵巻之一湊稲荷神社の図のうちにあり 明治二年二月社地の移転ありて明治七年四月に至り現在の大島居より東南十二三間の処に再築さる 明治十八年社殿御造営に際し現在の大島居の西北約八間を距りたる処に移されしが、更に大正大震後の区画整理に因る社地移転に当りて昭和三年十二月此処へ移す
昭和三年十二月

鉄砲洲稲荷神社 富士塚
寛政2年(1790)築造され、明治3年(1870)の神社移築に伴い明治7年(1874)に再設。そして昭和3年(1928)、さらに昭和11年(1936)にもと、3度の移築をしてきています。
周りをビルに囲まれていますが、鉄砲洲富士は高さ5.4メートルあり、富士山の溶岩に覆われ、山道、お胎内、たくさんの講碑が建つ立派な造りになっています。時に胎内は目立ちます。
富士塚 全景


富士塚 鐵砲洲稲荷神社

富士塚の碑

丸藤講

奥の宮

大原稲荷神社 富士塚

中央区の兜町に大原稲荷神社という小さな稲荷社があります。
大原稲荷神社
由緒書きによると、
大原稲荷神社(おおはらいなりじんじゃ)は、東京都中央区日本橋兜町の大原会館に隣接している神社。創建年代は不詳。幕末の文久2年(1862年)刊行の絵図に「天一位大原稲荷大明神」と記載されている。明治6年(1873年)1月17日、日枝神社神職の兼務となった。
御祭神は、倉稲魂命。
銀行のお札が多い
この地は古く日本橋川より、楓川(もみじがわ/かえでがわ)に通ずる運河の要衝の地であり、藤間・杵家両宗家在住の地で、海運・芸能の神として信仰されました。
大正12年(1923年)の関東大震災後、かつて海運橋以南の広大な境内は、区画整理などで縮小されています。この稲荷も、昭和20年(1945年)の戦災により焼失し、後に仮社殿が造営されました。
楓川は現在、当社の後背を流れていましたが、現在は掘り下げられて首都高速の一部が通っています。
社殿の裏に廻ると、少し焼けて焦げて黒くなったイチョウがあって、その後ろに富士塚があります。お稲荷さんなので、狐塚とも言われているようです。
銀杏と富士塚
この富士塚の頂上には、「天一位大原稲荷神社」とある石碑が建立されています。「正一位」だと、特に稲荷社で見かけます。この「天一位」の神階は珍しいです。
「正一位」は、①諸王および諸臣に与えられる最高位の位階。②明治以前、神社に与えられた最高位の神位に付けられています。
調べていると、京都府の南丹市美山町樫原の大原神社、同じく福知山市三和町の大原神社も「天一位」と称しており、当社号との共通性から、何らかの関わりがあるものと指摘されています。

西新宿「成子天神社の富士塚」登頂

湯殿山の碑と成子富士全景
成子天神社の富士塚に登りました。東日本大震災で、頂上の木花咲耶姫命の像が倒れ、そのほか、一部崩れたとかで修復されてから、まだ一度も登っていませんでした。以前参道にあった、七福神の像もみな境内に並べられています。木花咲耶姫命も下に降りて来られています。
成子天神社の富士塚は、「成子富士」とも呼ばれます。
もともとは「天神山」と呼ばれる小山を、大正9年(1920)に、この年が富士山の御縁年といわれる庚申の年であったことから、記念して丸藤成子元同行が富士塚にしたということです。
大正12年(1923)の関東大震災でも山が崩たようで、翌年に大修築竣成式が行われています。
竣立記念碑
富士塚の登山口に立てられている「成子富士浅間神社竣立記念碑」です。
大正9年4月1日に起工して百二十有余日の日子と千五百人の人工を費やし、8月1日竣立。7日に盛大なる遷宮山開き大祭を挙行した旨の碑文が刻まれているそうです。
新宿区教育委員会による説明板
新宿区教育委員会による「成子天神社の富士塚」の説明板には次のように書かれています。
新宿区登録文化財 史跡 成子天神社の富士塚
         所 在 地:新宿区西新宿八丁目十四番十号
         登録年月日:平成ニ年六月一日
大正九年(一九二〇)八月に、成子天神社境内にあった天神山という小山に富士山の溶岩を配して築かれたもので、区内で最後に築かれた富士塚です。高さは約十二メートルあり、区内では最大規模となっています。塚の北側には浅間神社の小祠があります。
富士塚は、江戸時代中期より、江戸庶民の間で盛んになった富士信仰の遺跡です。同業者を中心に富士講が組織され、神社の境内に模造富士を築いて崇拝しました。
成子天神社の富士塚は、柏木・角筈地域(現在の北新宿・西新宿)の人々を中心に組織された丸藤成子講が奉祀していたもので、最盛期には約二〇〇名の講員がいましたが、現在は活動していません。
                     平成二十六年十ニ月 新宿区教育委員会

日本大震災までは山頂に建っていた木花咲耶姫命の像の後ろ姿です。
後ろ向きのコノハナ
講碑
登山道
参道
ボク石(溶岩)も多く使われています。
富士山より取り寄せた溶岩で黒ボク
烏帽子岩かな
烏帽子岩かな
到着です。山頂の祠、お参りします。
奥宮
周りの風景がとても新宿らしい、都会の富士塚という感じですね。
木花咲耶姫命と、ふもとの浅間神社も望めます。
山頂から浅間神社とコノハナサクヤヒメ
南東側には成子天神社の社殿が見られます。
山頂から成子天神社を

公開空地で咲いていた河津桜

ビルと河津桜
西新宿の新宿グランドタワーの公開空地の河津桜です。
1本だけでしたが、とてもきれいだったので、写真に撮りました。
公開空地の河津桜
「公開空地」、私は「こうかいくうち」と言っていたのですが、別の所で、「こうかいあきうち」と言っていました。
そうか、空き地の方がわかり安いかなと思ったのですが、「空き地」ではないなという気もしています。
今、この「公開空地」をどんな風に利用するか、どこも真剣に取り組んでいます。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR