FC2ブログ

藤沢周平と大泉学園

藤沢周平の誕生90年ということで、石神井子上ふるさと文化館分室主催の「藤沢周平の大泉を歩く」に参加しました。
西武池袋線の大泉学園は、駅付近から都会でした。駅からも新しい家が並んでいます。開発が進んだ町だなと思いました。
集合は<藤沢がよく調べものをし、「藤沢周平コーナー」のある大泉図書館。でした。
藤沢周平は、平成9年1月に亡くなるまでの約20年間大泉学園町(バス停北出張所と風致地区のほぼ中間、キャベツ畑のあたり)に住んでいました。藤沢作品の多くはこの大泉学園町から生まれたものです。
藤沢周平は、この大泉での散歩のことを『冬の散歩道』というエッセーに書いています。
「雨さえ降らなければ、なるべく朝の間に散歩に出る。私はゴルフもやらずジョギングの出来ず、たいていは机の前に坐って何か書くか本を読むか、またはテープの音楽を聞くかしているので、一日三十分ほどのその散歩が唯一の運動ということになる。」
亡くなって20年を越えたので、その風景はすっかり変わってしまったでしょうが、藤沢周平ファンとしては、歩いて見たくなるものです。
250名を越える応募が有り、抽選で参加できたのは、25名、すごい幸運でした。
「町内を抜けて中学校の横の道をまっすぐ南に歩いて行くと、やがて小公園に着く。雑木林と広場にほんの少し子供のための遊具があるだけの公園で、林の中身はクヌギ、ナラ、マツ、アカシデ、ケヤキ、サクラなどである。奇怪な形をしたニワトコの木もある。
落葉を掃いたあとの冬の公園は、林のずっと奥まで見通せるようになる。そこには寒い風が吹き抜けているのだが、天気のいい日は隈なく日がさしこんで、冬の雑木林は夏にくらべるととても明るい。その明るさにさそわれて雑木林の奥まで入りこむことになる。」
『冬の散歩道』
畑と雑木林は、それでもいくらか残っていました。今年は寒さでいくらか開花が遅い、梅もところどころで見られました。
かつてのキャベツ畑

梅が咲いている
藤沢周平ゆかりの場所として、現在、多くはなくなっているようですが、鰻の「みや川」と、本屋さんを案内してもらいました。
鰻の「みや川」で藤沢周平が愛したのは「とり重」だったとか。お客さんと一緒の時には、お客さんには鰻、自分は好きな「とり重」だったとか。
うなぎのみや川
本屋さんは、高齢のご夫婦が経営されている「マイブック」という本屋さんでした。よく早川書店のミステリーを注文されたとか。藤沢
周平さんが書いた注文書を見せてもらいました。
近くの本屋マイブック

藤沢周平が住んでいた家のあった場所にも案内してもらいました。現在は新しい家が建っています。
藤沢周平の家があった
長女遠藤展子さんが、家のことを書いています。
「父が最後まで住んだ家を手放すのは、とても寂しいことでした。しかし、その頃、鶴岡市に藤沢周平記念館をつくり仕事部屋も再現する計画が持ち上がりました。そのおかげで、父の思い出がつまった家は、解体されて鶴岡に運ばれ、今は大切に保管されています。」(遠藤展子『父・藤沢周平との暮らし』より)
最後に寄ったのは、こぐれの森緑地。雑木林の公園でした。
こぐれの森
藤沢周平が亡くなって出版された短編集に『静かな木』があります。
孫佐衛門が川釣りの行き帰りに目にする古刹の境内に立つ欅の大木に心惹かれる場面が描かれます。
「福泉寺の欅も、この間吹いた強い西風であらかた葉を落としたと見えて、空にのび上がって見える幹も、こまかな枝もすがすがしい裸である。その木に残る夕映えがさしかけていた。遠い西空からとどくかすかな赤味をとどめて、欅は静かに立っていた。---あのような最後を迎えられればいい。ふと、孫佐衛門はそう思った」。
主人公の孫左衛門は58歳です。自分の晩年が、この冬の欅のように静かで凛としたものであったらいい、と願っています。5年前に妻が死に、自身は隠居の身です。欅が全ての葉を落とし尽くして、裸で立っている姿を潔くてすがすがしい、と見るのは、孫左衛門が老境に入ったことからきているのでしょう。
私も老境で、雑木林に感慨を覚えました。
そして、もう一つ、最近、肝に銘ずる藤沢周平言葉があります。
62歳のとき、ある雑誌のインタビューに答えた言葉です。
「格好よく年をとりたいとかは全然思わなくて、年をとるごとに非常に醜くなっていく、それで結構だと思っています。」
スポンサーサイト



三越日本橋店のライオン像

三越の前を通ったら、ライオンが花で飾られたシルクハットを被りバラをくわえていましたバレンタインバージョンだったようです。
右側の三越ライオン
三越のライオンは、大正3年(1914)、本格的なビルの百貨店ができて時に玄関に設置されたようです。
このライオンは、関東大震災や戦火を逃れ、ずっと、日本橋本店正面玄関に設置されています。
左側のライオン
モデルは、ロンドンのトラファルガー広場にあるホレーショ・ネルソン提督像を囲むライオン像だそうです。
ライオン像設置は、当時の支配人で三越百貨店の基礎をつくった日比翁助(ひびおうすけ)のアイデアで、三越を商売の王者にしようと、二頭のライオン像が設置したのが始まりだそうです。
日比翁助は元三井銀行の本店副支配人で、三井呉服店の支配人になってから呉服店を立て直し、百貨店となる基礎を築きました。
自分の息子に「雷音」と名づけたほどのライオン好きでもありましたが、ライオン像には商いの王者の象徴としての意気が込められています。
本店のライオンは太平洋戦争中に金属回収されたそうですよ。。溶解を免れて、東郷神社に奉納されているのを、社員が発見し、昭和21年に本店に戻ったという逸話があります。。
このライオン像は関東大震災の際も焼け残っており、震災と戦争を乗り越えてきたことで「日本橋の生き証人」とも呼ばれ、三越の守り神として現在も愛され続けています。
このライオンにはげんかつぎのようなものがあります。
それは「誰にも見られずライオンの背にまたがると願いが叶う」というものです。
場所が場所だけに、誰にも見られずにまたがるのは非常に難しいのですが、特に受験生の間では合格祈願のスポットとして親しまれているようです。
このげんかつぎの逸話は、ライオン像の脇のプレートにも書いてあります。
バラをくわえるライオン

日本橋 江戸時代の駿河町から今の三越、三井へ

現在の駿河町界隈
日本橋の本通りから、三越本店と三井住友銀行の間を常盤橋の方へ向う道路を眺めると、日本銀行が右にありその向こうもビルです。
ここは、江戸時代駿河町と呼ばれていました。
駿河町からはその名の通り、駿河国(静岡県)の富士山が正面に見えたそうです。
◆歌川名所江戸百景「『名所江戸百景 』する賀てふ(駿河町)」です。
名所江戸百景「駿河町」歌川廣重
正面に富士山が描かれています。「駿河町」の名は、富士山がよく見えたところからつけられました。
よく見ると、左右の店の暖簾には同じ紋が染め抜かれています。これは天下の豪商・三井越後屋呉服店の暖簾です。
伊勢松坂の商人・三井高利が日本橋に呉服店を開いたのは延宝元年(1673)のことです。
駿河町の三井越後屋は、広重の「江戸百」に描かれるほどの江戸の名所でしたが、現在も同じ場所で呉服店は日本橋室町の三越本店、両替店は三井住友銀行などとして営業しています。
明和8年(1622)伊勢国(三重県松阪市)の商家の四男に生まれた三井高利は、伊勢松阪から江戸に出た翌年の延宝元年(1673)52歳のとき、日本橋本町1丁目(現日銀新館)に間口9尺(2.7m)の三井越後屋呉服店を創業しました。
10年後、天和3年(1683)に三井高利は駿河町に店舗を移し、次々と新商法を生み出して成功を収めます。三井越後屋の屋号は、武家であった祖父三井高安の官位「越後守」に由来します。
錦絵では、越後屋は道路の両側にありますが、現在この道路は三越本店と三井住友銀行の間を常盤橋の方へ向う道路で、手前の左右へ通じる道路が中央通りで、左の方へ行くと「日本橋」です。
駿河町通りの左は三井越後屋(綿麻売場)で現在の日本橋三越本店となります。右は三井越後屋(絹売場)で、後に、為替バンク三井組となり、三井本館となります。
駿河町の通りには、馬に乗った旗本、頭巾をかぶった忍びの武士、買い物に来た大名屋敷の奥女中の一行、魚河岸帰りの棒手振り、いろいろな人物が詳細に描かれています。日本橋には魚市場があったので、駿河町辺も魚売りが多かったようです。 越後屋はまさに、江戸商業のシンボル的存在だったのでしょう。
広重には「東都名所 駿河町之図」があります。
main123.jpg
ここにも半台を下げた天秤棒をかついで魚を売り歩く棒手振(ぼてふり)が描かれています。
左側の越後屋の手前、よしずを立てた小さな店は自身番の番小屋です。自身番は各町内の警備のために設けられていた番所で、町方によって維持されていました。 軒先に駄菓子・荒物・雑貨・わらじなどを並べて日銭を得ることもしていたのです。
▼葛飾北斎にも「富嶽三六景 江都駿河町三井見世略図」があります。
ここには、越後屋の商法で、有名な「現金 無掛直 呉服物品 組物 糸類」の看板が大きく描かれています。
富嶽36景 江戸駿河町
▼「駿河町越後屋呉服店」 奥村政信画 延享2年(1745)
『駿河町越後屋呉服店』拡大
繁盛振りが伺えます。載せた図では見えにくいのですが「定 現金掛値なし・・・・」の貼り紙が鴨居に下がっています。
▼越後屋の新商法「現金掛け値なし」
越後屋は、これまでの御屋敷売り(訪問販売)から立ち寄りやすい「店先売り」という店頭販売を行いました。さらに従来の盆暮半年先の節気払いをその場の支払いで安価に販売しました。
「現金掛け値なし」、商品別に専門の手代(販売員)を置き、高価な舶来絹織物でも布地の切り売り、さらに反物の仕立てまで請け負うなど、当時の画期的な商法で庶民の人気を得て、江戸を代表する大店となったのです。
明治になっても、越後屋は健在でした。
▼駿河衛国立銀行繁栄図 三代歌川広重画 明治6年 
東京駅国立銀行繁栄図
画面右の三階建ての和洋折衷建築は、明治7年(1874)竣工の二代清水喜助の建築による為替バンク三井組の建物です。明治初期の代表的な民間建築物でした。
▼「東京駿河町三ツ井正写之図 三枚続」芳虎画 明治7年
東京駿河町三井の図
▼三井呉服店の陳列販売
明治33年10月5日三井呉服店は、これまでの座売りを廃止、全館を展示陳列販売としてリニュアルオープンした時の入店待ち行列ができたほどです。座売りとは、店舗内の畳敷きの広間で番頭が接客して注文により小僧や丁稚に奥の土蔵に品物を取に行かせて、吟味し販売する古くからの商法です。
●日本最初の百貨店「株式会社三越」
三井本館と三越の写真
明治37年(1903)に商号を三井家の「三井」と創業時の「越後屋」から「三越」と命名、日本最初の百貨店「株式会社三越」として出発します。三井家はその株を一切取得せず三井家から分離独立したのです。
大正3年の三越日本橋店
大正3年(1914)に建てられたルネッサンス様式の6階建ての新館は建築史に残る傑作と言われました。
正面玄関にはロンドンのトラファルガー広場のライオン像を模して鋳造した二頭が据えられた。ライオン像は守護神、「気品と勇気と度量」の象徴であり、本館ライオン口は待ち合わせ場所となったのです。しかし、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で焼失、外壁の煉瓦が剥げ落ちる惨状となりました。三越はすぐに仮売り場を設営するとともに「西館」の建設と「東館」の修築を進め、昭和2 年新本店として開店します。
◆三井本館の歴史
三井家は明治になると三井組ハウスを建て、明治35年(1901)には耐震耐火・鉄骨構造4階建ての三井本館を竣工しました。ところが関東大震災で本館も甚大な被害を受けたため、三井勝八郎社長は「震災の二倍のものが来ても壊れないものを造れ」と命じ、三井物産創業社長でもあった益田孝の後任として三井合名会社理事長に就任した團琢磨が指揮して、昭和4年(1929)に米国の設計施工で竣工しました。この三井本館ビルは三井財閥を象徴する建物で、現在は国の重要文化財に指定されています。
昭和7 年(1932 )3月6日、昭和金融恐慌の時代で三井財閥のドル買占め批判の矢面に立っていた團琢磨が三井本館正面玄関の入口階段で、血盟団員の菱沼五郎に狙撃され非業の死を遂げた。この事件が満州事変の前夜であり、その後の大日本帝国滅亡の端緒でした。
三井本館と旧館
平成17年(2005)39階建ての三井タワーが完成しました。
三井記念美術館
国の重要文化財にも指定されている三井本館には、江戸時代以来300年に渡り三井家が収集してきた貴重な美術品を展観する美術館があります。茶道具を中心に、日本や東洋の美術品など約4000点を所蔵します。三井記念美術館の入り口は三井タワー側から入りますが三井本館の7階にあります。

「日本橋」

広重 日本橋
「日本橋」という橋は、徳川家康が江戸幕府を開くのと前後して、おそらく1603年に架けられただろうといわれています。
日本の道路網は、江戸幕府が参勤交替の制を定め、諸大名を領国と江戸との間で行き来させた官道、見方を変えれば外様大名などに叛意があった際には幕府により動員された軍勢が使う軍道が今の道路網の直接の原点と言えます。その根幹となったのが「五街道」で、東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道という基本となる五つの街道は総てこの日本橋を起点にして駅逓の制度が定められていました。
ここでは、明治に入っての日本橋を少しみてみたいと思います。
明治時代の日本橋
明治3年(1870)に営業許可を得た人力車の、日本橋の高札場横における営業開始をはじめ、明治6年(1873)の西洋型木橋への架け替え、明治15年(1882)の馬車鉄道の敷設と繫がりました。こうして明治初期の日本橋は、文明開化の最先端をいく名所のひとつとして、華やかな錦絵にもたくさん登場しています。 上は明治時代の日本橋です。下は錦絵。
歌川芳虎「東京日本橋風景」 明治3 年(1870)_edited-1
この背景には、日本橋の南側に位置する新橋が、明治5年(1872)横浜と鉄道で結ばれたことも理由にあげられます。そして明治15年(1882)には、新橋と日本橋の間に鉄道が走り、同年のうちに上野、さらには浅草まで鉄道は伸びていきました。
現在の橋は、明治44年(1911)に完成し、国の重要文化財になっています。
現在もこの橋の中央には日本の道路元標が置かれ日本の道路網の始点となっているなど、歌川広重の浮世絵に描かれた当時から、今も変わらず日本の中心地です。
石造二連アーチ橋で橋の長さは49m、幅27 m、設計は米本晋一です。
全身 獅子と日本橋の揮毫
日本橋の四隅にある親柱の銘板に刻まれた「日本橋」及び「にほんはし」の文字は最後の将軍徳川慶喜公の筆によるものです。
路面電車を通すことが決まっていた路面はわずかにアーチを描いています。
東京の日本橋の下には「日本橋川」が流れ、橋の上には首都高速が走っています。
日本橋川は、かつての神田川の本流でしたが、神田川は、江戸城北側の防衛線として飯田橋付近から駿河台を切り通して流し、柳橋で隅田川に合流するように付け替えられました。
この日本橋川に内堀、外堀をはじめとする水路や溜池に代表される沼沢地、さらに築地川など様々な小河川が江戸城の防衛線になると同時に、生活・産業用の水路として機能していました。
江戸開府に伴い、大名の江戸屋敷が建ち、街造りが進み、人足、職人等の流入で江戸の人口は急激に増加していきました。それに伴い、大量の生活物資が必要となります。このため家康は「地代免除」の特典を設け、江戸城下への出店を奨励しました。この制度は「権現様御遺訓」と呼ばれ江戸末期まで続きます。これにより京・大阪などから商人たちが続々と集まり、日本橋を中心に商業地域が出来上がりました。
日本橋が架かる日本橋川の北岸には、魚河岸五町(長浜町、室町など)と呼ばれた魚河岸がありました。
その起源は、江戸初期、佃島の漁師が幕府や大名に納めた御用魚の残りを売り出したからだそう。
1日に千両もの取引があるといわれ、江戸でもっとも活気ある場所だったそうですが、関東大震災で被害を受けたことをきっかけに築地に移転することになります。
日本橋のたもとには「日本橋魚市場発祥の地」の石碑と乙姫の像が建てられ、その由来を今に伝えています。乙姫の像が建てられている理由は「タイやヒラメが舞い踊る」からだとか。
この辺りの地名も「日本橋」ですが、それはこの橋に由来しています。
ちなみに、大阪にある「日本橋」は「にっぽんばし」と読みます。
●日本橋の橋の上にあるのが日本国道路元標(Kilometer Zero)。
レプリカ 「道路元標」
その名の通り、道路の起点となるポイントを示したものです。日本橋にあるのは、徳川幕府が定めた五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の起点を明治政府が踏襲したものです。
明治6年12月20日、明治政府は太政官達第413号で、各府県ごと「里程元標」(りていげんぴょう)を設けることを定めます。
明治44年(1911)、現在の日本橋の架橋時に当時の道路法施行令第八条によって橋の中央に「東京市道路元標」が設置されました。
日本橋の中央にあった「東京市道路元標」は、東京市電・本通線の架線柱として使用されていましたが、昭和47年(1972)の道路改修で日本橋の北西詰にある「元標の広場」に移設されました。横に延びている線が市電の線でした。
北西詰に移設されている「東京市道路元標」は、日本橋とともに国の重要文化財に指定されています。
史跡の「東京市道路元標」
▼東京市道路元標があった場所には新たに50cm四方の「日本国道路元標」が埋め込まれました。文字は時(昭和47年)の総理大臣・佐藤栄作の書です。
その「日本国道路元標」上には、元東京市道路元標のレプリカが、高速の壁にはめ込まれていますつり下げられています。
橋の中央日本国道路元標
●麒麟像と獅子像
日本橋には、その四隅に獅子がいます。
奈良県手向山八幡宮の狛犬やヨーロッパのライオン像などを参考にした獅子像は東京市の紋章を手にしています。太陽を中心にして6方に光が放たれている形で、日本の中心としての東京を象徴するデザインになっているとのことです。
中央に麒麟像があります。
麒麟像と松榎の図案
麒麟とは、いわゆるあの首の長いキリンを指すわけではなく、神獣である想像上の生き物のことだそうです。中国の陰陽五行説と言うものでは、四方を護るのが青竜・玄武・白虎・朱雀の四神で、中央を護るのが麒麟とされているそうです
麒麟像には日本の道路の起点となる日本橋から飛び立つというイメージから翼が付けられ、「獅子像」は守護を、「麒麟像」は繁栄を表しています。どちらも阿吽の形で作られています。
獅子像と麒麟像の原型製作は、彫刻家の渡辺長男(おさお)が、その鋳造は彫刻家で渡辺の義父の岡崎雪聲が担当しました。

「鈴降稲荷神社」

もう終わって久しいですが、NHK朝ドラ「ひよっこ」のヒロイン、谷田部みね子が働く赤坂の洋食屋が「すずふり亭」と言い、その裏にあるお稲荷さんが「鈴降稲荷神社」でした。
一ツ木通りを歩いて、赤坂サカスや赤坂BLITZの裏手にある細い路地を進んでいくと「鈴降稲荷神社」の矢印と看板が現れます。
鈴降稲荷神社は、もと四谷仲殿町(現若葉町)にあり、元禄8年(1695)社地が御用地となったので赤坂一ツ木に替地を給され、現在地に遷座奉安されました。
鈴降稲荷神社
神社のそばに記載されている案内によると、「鈴降」のいわれは2つあります。
「住吉からのいいつたえによると朱雀院天台の頃の創設なりとか。花園院正和年中、稲荷の神7歳の童女にのりうつり「我は鈴降宇賀三社の霊神なり、わが持つところの鈴は天降の鈴なり一たび拝する者には家門繁栄ならしめん」と神託あり、よって鈴降の神号とすと。」
もう一つは、
「天正10年(1582)織田信長本能寺の変に遭いし折、京阪にありし徳川家康急遽三河に帰らんとて、伊賀越えの際山中にて道に迷いし時、遥かに鈴の音が聞こえるので、その放校にたどりつくと観音堂あり堂主山名孝倫なる者がいて之を迎え厨子の中より三箇の鈴を取り出し家康に献じ、且つ付近の住民を集めて道案内と警護をしつつ伊賀の白子に出、舟にて海路浜松へ帰ることが出来たという。家康は、此の恩義を徳とし、江戸幕府を開くや、孝倫はじめその折の郷民を江戸に召して四谷に地を給し、これを伊賀同心組とした。よって彼等は一宇の祠を建て、さきの鈴を神鈴として鈴降稲荷と号し伊賀組の鎮守としたという。」
下の伊賀越えの説の方が面白いですね。
ただ、半蔵門 内外にあった伊賀組に、外濠が出来るための代地として四谷伊賀町として、四谷の2ヵ所へ給されたのは、寛永12年(1635)ですから、家康が「江戸幕府を開くや作った」という説とは相容れませんが。
「鈴降(すずふり)」とは良い名前です。
ドラマの「すずふり亭」も良かったですが、近所にそれらしきお店はありません。

薩摩屋敷跡

薩州の蔵屋敷は、海に面していますが、荷物の運搬がここに集まったのでしょう。
あちら側に薩摩邸
その屋敷跡に建つ「西郷・勝会見の地」の碑の北側にNECの本社ビルが建っています。その一帯が薩摩藩島津家の上屋敷です。
ぐるっと廻るとに手入れの行き届いた植え込みがあり、その植え込みに挟まれるように「薩摩屋敷跡」の碑が建っています。
薩摩邸跡の碑
嘉永6年(1853)、ペリーが来航したその年に薩摩本国から、島津斉彬(なりあきら)の娘として(実際は従妹を養女にした)・篤姫(あつひめ)が13代将軍家定に輿入れするために江戸入りしました。
篤姫はここの薩摩藩上屋敷に入り、江戸暮らしを始めますが、安政2年(1855年)10月に安政の大地震が起こって屋敷が倒壊したため、渋谷の下屋敷に移ります。
それでも、当時は、外様大名の女子が将軍正室となることに反対する声も多く、婚儀が行われたのは、安政3年(1856)のことです。それも右大臣・近衛忠煕(このえただひろ)の養女にしての婚姻で、12月18日のことです。
篤姫がはじめて薩摩藩上屋敷に足を踏み入れてから15年後、京の都では朝廷が日本の政治の主となることを宣言する王政復古の大号令が発せられました。
そして、慶応3年(1867)10月頃、三田の「御用盗」と言われた薩摩浪士が乱暴狼藉を働き、同年12月23日、ついに江戸城西の丸を炎上させてしまう事件が発生し、藩邸に逃げ帰るなど組織的で挑戦的なテロ活動が繰り返されます。
これは、西郷隆盛が、守旧派を一掃し徳川家を武力討伐に持ち込むため、江戸で浪士たちを集め、放火や略奪行為などをさせて旧幕府側を挑発したのです。
敵方から先に手を出させなければ討伐の大義名分が立たないからである。そしてこの西郷のもくろみは図に当たり、江戸市中の警備を担当していた庄内藩らは薩摩藩邸(当所)を取り囲み、焼き討ちにします。
この事件はすぐ京都に伝えられ、在京の旧幕勢力にも主戦論が広がり、軍を出動させることになりました。こうして鳥羽伏見の戦いの火ぶたが切られ、戊辰の戦いに通じていくのです。
江戸切り絵図 薩摩上屋敷
「薩摩屋敷跡」の石碑がNEC本社にあるので、NEC本社全体が薩摩藩邸の跡のように受け取られがちですが、NEC本社は、北側が薩摩藩上屋敷跡で、南側は、因幡鹿野藩上屋敷の跡に建っています。薩摩藩上屋敷の中心は、NEC本社の北側にあるセレスティンホテルと三井住友信託銀行の部分です。上の切り絵図の松平修理大夫が薩摩邸です。
NECの前の建築の基礎
NECは明治30年代からこの地にありました。明治44年ごろには煉瓦造りの2階建てというモダンなものでした。その基礎工事の煉瓦が飾られています。しかし、関東大震災で多くの犠牲者を出したことから、当時としては珍しい4階建のどんな地震にも耐えるビルを建てました。それは、太平洋戦争でも延焼することはありませんでした。その後、新しい高層ビルに作り直す時、敷地の一部を開放し、その一角に薩摩屋敷跡の碑を建てました。

「御穂鹿島神社」と芝浜

会見之地の碑の横の路地を入るとすぐ左手に「御穂鹿島神社」が現れます。(前回載せた切り絵図にも「鹿島明神」が出ています。)
「御穂鹿島神社」
もとはそれぞれ別の神社であった御穂神社と鹿嶋神社が平成16年(2004)8月合祀されて御穂鹿嶋神社となっています。
御穂神社は文明11年(1479)、鹿嶋神社は寛永年間(1624~44)の創祀と伝えられています。
JRや新幹線の走る高架橋の手前公園に突き当たりますので左に曲がります。この公園から数十m間が「芝浜」で、江戸時代「沙濱」と記され、この本芝公園が昔、浜になっていて、舟で魚を運んでここで魚河岸としての商いが行われていました。
寄席文字の橘右近書「芝浜囃子の碑」は鳥居の隣にあります。
「柴浜」の碑
この公園が埋め立てられた芝浜の入り江で、手前がその芝浜だった所です。古典落語の中でも人気の人情噺『芝浜』は、この芝浜が舞台であったとされています。
<鹿嶋神社 御由緒>
その昔、沖より芝浜に流れ着いた神殿がありました。波達海の中にあって、神殿の中に納められていた幣帛は少しも濡れることがなかったといいます。日を経て、常陸の国の人が神殿を探し求めて尋ねてきました。これは鹿嶋に鎮座するお社であるとして舟につないで漕ぎ帰りました。ところがこの神殿は再び芝浜の地に流れつき、「この浦に鎮まり坐すべし」との神託があったことから、この地でお祀りされるようになりました。

藤原藤房の伝説が残る御穂神社
「御穂神社」の創建は、大永5年(1525)と伝えられています。
後村上天皇年間(1339~1368)、都からやってきた老人が、芝浜の地に庵を構え、小さな漁村であった当地の村民に、忠孝の義を教え導いたということです。この老人は藤原藤房と言い、没した後に慕った村人たちが庵のあった場所に宮所を設け、祭祀が続けられてきたとされます。
また、駿河国三保から移住した人が、駿河国三宮「御穂神社」からの勧請という説もあります。
『江戸名所図会』「御穂神社」「鹿嶋神社」
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれています。
「御穂神社」「鹿嶋神社」と、両社が描かれています。江戸の海(東京湾)に面していたのが「鹿嶋神社」で、「御穂神社」はそれよりも東奥に鎮座していたという位置関係も分かります。
雑魚場跡を示す案内板もありました。
この付近は、芝の中でも、古川河口の三角州に、 江戸時代よりも昔から開けたところで本来の芝という意味で、本芝と呼ばれた。公園の位置は、東海道(現在の第一京浜国道)のうらあたりの海に面した砂浜で、江戸時代には、魚が水揚げされたので雑魚場(ざこば)と呼ばれた。明治5年に開通した鉄道は、軍部の意向で海上の堤防を走ったが、雑魚場はガード下から東京湾に通じていた。最後まで残っていた江戸時代の海岸線であったが、芝浦が明治の末から次第に埋め立てられ、漁業も行われなくなって海水が滞留したので、昭和43年に埋め立てて、本芝公園として開園した。 港区土木維持課の説明文より。
現在のガードです。
雑魚場架橋
右に「雑魚場の文字が入った「お願い」があります。

西郷隆盛・勝海舟会見の地

田町駅壁面絵画
JR田町駅西側の出口に向かうと、エスカレーターの前に巨大な絵画が掲示されています。すぐにはわかりにくい現代アート風の作品ですが、よく見ると慶応4年(1868)3月、薩摩藩邸でおこなわれた西郷隆盛と勝海舟の会見をモチーフにしたものだということが分かります。みなさん急いで前を通りますが。
西郷隆盛・勝海舟会見の地no
田町駅を降りて右に少し行くと、三菱自動車の社屋の前に江戸開城会見之地碑があります。
このあたりには、薩摩藩の蔵屋敷が在ったそうで、丸形の碑に「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見之地 西郷吉之助書」と骨太の行書が刻されています。
ここの吉之助 は、もちろん西郷隆盛、南洲ではありません。孫で、参議院議員、法相(第二次佐藤内閣)を務めた人の書です。
碑の下
台座左には「対座する西郷と勝のレリーフ」、右に「高輪 邉繪圖」が嵌め込まれています。昭和29年(1954)に本芝町會が建てたものです。
新政府軍の江戸城総攻撃は、慶応4年(1868)3月15日と予定されていた。
慶応4年(1868)3月9日、勝海舟の使者・山岡鉄舟が駿府在の東征軍参謀西郷隆盛と会見しています。
3月12日に勝海舟は池上本門寺に設けられた本営に西郷を訪れ、翌日高輪の薩摩下屋敷で会談した。そして、勝海舟は、徳川家が降伏する条件を西郷隆盛に提示した。会談の結果、西郷隆盛は江戸総攻撃を中止、勝の案を京都に持ち帰って討議することとなった。 そして4月4日には新政府側と徳川家の間で最終的な合意がなされ、4月11日に徳川慶喜は謹慎先の寛永寺を出て水戸へ出立し、江戸城は無血開城されました。
碑の裏
ちなみに、江戸時代まで京浜国道あるいはJRの線路より東側は、かつては海でした。
江戸切り絵図で見るとよく分かります。この図の薩州クラヤシキが会見の場所です。
江戸切り絵図 薩摩蔵屋敷

「初午」の日 茶ノ木稲荷神社

平成30年2月7日は初午の日でした。初午の日は、2月の最初の「午の日」です。
本来は旧暦の行事で、旧暦の2月の最初の午の日は3月27日です。
初午は、稲荷神社で行われますが、稲がなること(いなり)から五穀豊穣や商売繁盛、家内安全を祈願しての行事です。
旧暦では3月末、もう少し春めいてきた時期です。暖かく参詣に適した時期に、豊作を願って稲荷神社に参拝する習慣ができたようです。
稲荷神社は全国に約4万社。農業、漁業、商売、家庭円満にご利益があるとされ、京都市伏見区の伏見稲荷大社が総本社です。
伏見稲荷に和銅4年(711)の2月の最初の午の日に、祭神が稲荷山(伊奈利山)の三箇峰に降りたという故事があり、初午の日に、稲荷神の祭事が行われるようになったとされます。
亀ヶ岡 茶の木神社全景
市ヶ谷駅の近く、濠を越えたところの市谷亀岡八幡宮の摂社である茶ノ木稲荷神社へお参りしました。
市谷亀岡八幡宮の境内、石段左の方中段に御鎮座されています。
茶の木神社
ここらあたりの境内地は、1200年以上前に弘法大師 が開山し稲嶺山(いなりやま)と申していました。市谷亀岡八幡宮が、江戸の初期に遷座するまでは、この茶の木稲荷神社が約700年に渡りこの山の本社だったのです。
お稲荷さんは、町を歩くと、本当にたくさんあります。
御祭神は保食神(うけもちのかみ)。この神は、食物衣服のことを司るのが主なる御神徳ですが、その他、家内屋敷の安全を始め、農業、工業、商業の繁昌、諸技藝の上達、交通旅行の安全等を護り、幅広いご利益を持っています。
芸事で言えば、この初午の日から習い事を始めるという風習もあったようです。
茶ノ木稲荷神社は、商売繁昌、衣食住安泰、芸事向上、それに眼病の平癒といった御利益があります。特にここでは、眼病の平癒が有名です。
茶ノ木稲荷神社の眼病平癒伝説です。(下の写真は眼病平癒を祈っての絵馬です)。
茶の木の絵馬
茶ノ木稲荷神社に古くから伝わるところによれば、昔この山に稲荷大神の御神使の白狐が居ましたが、ある時あやまって茶の木で目をつき、それ以来崇敬者は茶を忌み、正月の3日間は茶を飲まない習俗がありました。特に眼病の人は17日、あるいは37日、77日の間茶をたって願えば霊験があらたかであったと言われています。
稲荷神社といえば稲荷神のお使いが狐です。狐は、油揚げが大好物。初午の日には、油揚げや油揚げにすし飯を詰めたものを奉納します。後者は、いなり寿司です。きつねの大好物の油揚げを人間もたくさん食べられるよう考案されました。
いなり寿司は、東日本では米俵に見立てた俵型ですが、西日本では三角が主流です。あの三角は、実はお狐さんの耳に見立てたのだそうです。
茶ノ木稲荷神社の神社の狐さまには油揚げが供えられていました。
おきつね様

「フランス宮廷の磁器セーヴル、創造の300年」

サントリー ガラス展
六本木のサントリー美術館で開かれていた「フランス宮廷の磁器セーヴル、創造の300年」を観ました。
セーヴルの歴史は、フランス国王ルイ15世(1710~1774)の時代に始まります。日本だと江戸時代、吉宗の時代ですね。1740年、パリ東端のヴァンセンヌに誕生した磁器製作所が、ルイ15世の庇護を受けてセーヴルに移転し、王立磁器製作所に発展しました。
宮廷お抱えの芸術家が生み出す優雅なデザインと卓越した技の名品。宮廷というところは贅沢ですね。少し前だと目にすることは出来なかったでしょう。
展示は、300年にもわたる最高級品の歴史を、華やかな名品で振り返っています。
そして、4つのテーマで分けられていました。
第1章 東洋やマイセンへの憧れから脱却した「18世紀のセーヴル」、第2章 装飾過剰かとも思われる「19世紀のセーヴル」、第3章 洗練が進んだ「20世紀のセーヴル」、第4章 自由な挑戦を続ける「現代のセーヴル」。
第3章の「20世紀のセーヴル 」では、撮影OKでした。
パリ万博で大きな評判を呼んだテーブルセンターピース「スカーフダンス」の1点です
「スカーフダンス」

中井御霊神社の節分祭

中井御霊神社の節分祭に行きました。
太鼓のドーンという音と共に拝殿で儀式が始まります。
祝詞
まず宮司さんによる祝詞が繰り返されます。拝殿の福男福女、そして参拝者も、要所要所で深々と神前にこうべを垂れます。
右向き「鳴弦の儀」
そして、宮司さんが弓と矢を持って出て来ました。「鳴弦の儀」です。
左向き「鳴弦の儀」
これは弓を打ち鳴らす音を響かせて、魔を祓う意味があります。
中井御霊神社は、節分の他に「御備射《おびしゃ》祭」いう神事を1月13日行っています。これは五穀豊穰を祈願して矢を打つ神事です。この「鳴弦の儀」の弓矢はそのお祭りに使われるものです。右で3回「えーい」、左で3回「おーぅ」と掛け声をかけて、弦をうちます。弓は飛ばしません。
木遣り奉納
福男の代表による「木遣り奉納」。福男福女による玉串奉納。名前を呼ばれ「おーぅ!」と答え、神前に出て玉串を奉納、枡を受け取ります。
(これが長くて、寒いし、少しつらかったです)。
鬼登場
福男福女に枡が行き渡ったところで、ドーンドーンと太鼓が鳴り、出て来ました赤鬼と青鬼。「鬼追いの儀」です。
「鬼追いの儀」 1
宮司さんと鬼が拝殿で問答をします。
四つ目の方相祇
中井御霊神社節分祭の特徴は、宮司さんが四つ目の方相祇(ほうそうぎと呼ぶ、一般的に方相氏)の面を持ちながら受け答えをします。
そして鬼にスルメとお酒を渡します。にがる「鬼追いの儀」2
お酒とスルメをもらった赤鬼青鬼。
みんなで「鬼追いの儀」
追儺式は、いきなり鬼を追い払うのではなく、まず鬼に食べ物を与えて饗応し、穏便にお引き取り願おうとしますが、なかなか鬼は、帰らないので、豆を撒きます。たまらず鬼は逃げていきます。
と入れ代わりに、恵比寿と大黒が登場。
恵比寿 大黒

恵比寿と大黒と2
まずは、恵比寿様が神前に進み、恵比寿の舞を舞い鯛を釣り上げます。続いて、大黒様が神前に進み大黒の舞を舞います。
年男の頭上で打出の小槌を振り、枡を待った福男福女たちに札を配ります。 
最後に参拝者に、豆まきと福分(ふくわか)ちを行い節分祭は終了です。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR