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哲学堂公園を巡る。

哲学堂の碑
哲学堂公園です。
何度か来ていますが、何か難しいと感じて、全体をじっくり見たことはありません。この地はかつて、和田山と呼ばれ、現在中野区松が丘の、平地と台地と川で出来た傾斜の土地です。
和田山というのは、哲学堂公園の地は、源頼朝の重臣である和田義盛の城址であったからと言われています。
哲学堂公園は、明治37年(1904)に哲学者で東洋大学の創立者井上円了によって、哲学世界を視覚的に表現し、哲学や社会教育の場として整備された特異な公園です。
井上の死後、昭和19年(1944)に東京都へ寄付されて都立公園となり、その後昭和50年(1975)に中野区へ移管されて、現在の中野区立公園となっています。
常識門
哲学堂公園に入るには「常識門」で、俗世の常識を振り払って園内に足を踏み入れることになります。
私たちが日常住み慣れている世界は、いろいろなものが入り交じった多元世界で、そうした多元世界で慣れ親しんでいる知識が常識で、その常識には、さまざまな偏見や思い込みや欲望が付着しています。そこで常識門から入って、まずは、髑髏庵で、これら常識に付着している塵や垢を取り払わなくてはいけません。
「時空岡(じくうこう)」
そして、その先には「時空岡(じくうこう)」という空間が広がります。そこには、お寺の本堂のような「四聖堂」、朱塗りの塔の「六賢台(ろっけんだい)」などが建っています。
▼四聖堂【明治37年4月建立】
四聖堂
[木造平屋建・方形・桟瓦葺・一重]
本堂に東洋哲学の孔子と釈迦、西洋哲学のソクラテスとカントの「四聖」を世界的四哲人として祀るために建立されました。
三間四面の小堂で四面とも正面。中央には哲学の起点、基礎となる2つの象徴として、心即ち精神は円形で光るものとして電球、物すなわち物質は心を汚すものとして香炉がおかれています。これは、心が物欲で汚されても修養を積めば清浄な心は失われないことを表していて、内部、天井中央に装飾額があり、釈迦涅槃像(和田嘉平作)が堂内に安置してあります。
▼六賢台【明治42年11月建立】
六賢台
[木造六角塔・外観2層・内部3層・相輪・一重・二重・桟瓦葺・外部板張] 
ここに東洋的哲学人として、日本の聖徳太子・菅原道真、中国の荘子・朱子、印度の龍樹・迦毘羅仙の六人を「六賢」として祀ってあります。
赤色塗り、六角形の周囲六間の建物で、四聖堂の西に建っています。六賢の肖像を各面に扁額として掛け、名称を鋳刻してありましたが現在は見ることはできません。屋根の上に相輪と九つの法輪(九輪)があり、最上部に宝珠を付け屋根の棟瓦の一端に天狗がついています。
▼宇宙館【大正2年10月建立】
宇宙館
[木造平屋建・方形・桟瓦葺・二重・出隅に切妻ポーチ] 
哲学が宇宙の真理を研究する学問であるとの観点からこの名がついています。内部に皇国殿という8畳敷の1室を哲学の講習の講義室が設けられています。また、堂内に聖徳太子立像(和田嘉平作)が安置され、屋根上部の棟部分に烏帽子がついています。
また、建物脇に幽霊梅(ゆうれいばい)があります。
元々は公園の創設者である井上円了博士の自宅の庭に植えられており、ある時、梅の木の下に幽霊がいると騒ぎになったことから、幽霊梅と呼ばれるようになったそうです。
幽霊梅(ゆうれいばい)
この「時空岡」の南の低地部は「唯物園」、「唯心庭」と呼ばれる庭園になっています。自然の立地や崖を巧みに利用して哲学的な空間や概念を表しています。
四聖堂脇の石造りのを下っていくと行かれるのですが、行った日は、雪で通行禁止でした。
しかたないので、少し周りを、雪を踏みしめながら散策していたら、間違って、「唯物園」を歩いていました。
哲学には万物の存在、あらゆる現象を物質を根拠に据える「唯物論」と、心の働きを基本に考える「唯心論」の大きく分けて2つの立場があるとのことです。
それを表現したのが、妙正寺川沿いにある「唯物園」と「唯心庭」です。
 唯物園で目につくのはタヌキの石像「狸灯(りとう)」です。
「狸灯(りとう)」
タヌキも人間もだまし、偽り、嘘をつくことが得意だが、そんな悪徳の中にも光り輝くものがあるという「人生観」を表わしているのだそうです。腹部に灯台が仕込まれています。
 川沿いにさらに進むと、「唯心庭」です。
「心字池(しんじいけ)」
明るく開放的な唯物園とは対照的に木の影に少し薄くらく覆われた場所に「心字池(しんじいけ)」があります。池の中心に浮かぶ「理性島(りせいじま)」は人間の心の奥底の本性は理性であると説いています。
「鬼灯(きとう)」
鬼灯の背中と頭です。
頭と背中 「鬼灯(きとう)」
その島上に立つ鬼の石像が「鬼灯(きとう)」です。鬼が灯籠に押さえつけられ苦しそうにしている様子が、良心で悪念を押さえるようにと願う人の心「人心観」を表していると説明されていました。
菖蒲池
菖蒲池を回って、四村橋の出入り口に出ようと思ったのですが、閉ざされていました。引き返して、かつては図書館だった「絶対城」へ。絶対城から理想橋をわたり宇宙館へ出ました。
「哲理門(てつりもん)」
そこで、「哲理門(てつりもん)」に行きました。哲学の森を行くとき、その入り口に当たるのがこの「哲理門」だということです。一般の人は常識門から、哲学を深く学ぶ人は、この「哲理門」から、になるのでしょうか。
通称・妖怪門です。屋根瓦に「哲」の文字が入っています。
幽霊

天狗
外に廻って見ると、門の両側には天狗と幽霊の彫刻物が置かれていて、右側は天狗で物質界の、左側には幽霊で精神界の、それぞれ不思議・不可解を表しています。
もと、この地に天狗松と幽霊梅があったことにちなんでいるとともに、物質界、精神界に存する不可思議の象徴とみなして、置かれているようです。
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葛谷御霊神社 参拝

葛谷御霊神社の全景
葛谷御霊神社です。
「くずがやごりょうじんじゃ」だと思うのですが、「くずのやごりょうじんじゃ」という呼び方もあるようです。
社伝によると、前9年の役(1051~1062)で、源義家が東北地方の豪族安倍頼時討伐に赴く際、京都の桂(葛)の里の一族が義家公に従って遠征し、安倍氏討伐後、京に戻らず当地に住みつきました。そのため当地付近は(桂の里がなまって)「葛ヶ谷」と呼ばれるようになり、また当地の鎮守として八幡社を勧請したのが当社のはじまりといわれています。
ご祭神は八幡神が基本となっています。ということで、ご祭神が、帯中日子命(おきなかつひこのみこと)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、内宿祢(たけうちのすくね)。
力石 葛谷御霊神社
境内の一隅に、昔、この日に村の若者が力比べに使った力石が5,6個あり、それぞれに奉納の文字と目方が刻まれ、区有形民俗文化財に指定されています。
また、この神社では昔から備射祭(「おびしゃまつり」御歩射、備射)が行われています。弓で的を射てその年の農作物の豊凶を占う、春の神事です。
かつては江戸近郊の農村で広く行われ、弓矢で的を射てその年の豊凶を占ったり悪霊を駆除して、その年の豊穣と安産を祈った行事です。
ここでは、的は鳥居に架けられます。下の写真は、本殿の扉に映った鳥居です。
本殿の扉に 鳥居が映る 葛谷御霊神社
弓を射る祭りでは流鏑馬(やぶさめ)が有名ですが、馬に乗らないで弓を射るものがあり、それが歩射です。歩射(ぶしゃ)がなまって、びしゃ(備射)になったと言われて言われます。
歩射は、もともとは宮中から始まり、淳和天皇の時に始められ明治維新まで続き正月17日には必ず宮中で歩射が行われていました。その風習が民間に伝わり行われていました。
ここから1キロほど離れた、中井御霊神社でも備射祭が行われますが、いずれもに新宿区無形民俗文化財に指定されています。こんな近くに2社も備射祭が残っているのは珍しいと思います。
▼赤坂大黒天が奉られてる祠があって前に一対のうさぎが置いてあります。
赤坂大黒天

うさぎ一対
祭神である大国主命は、傷ついた白兎を助けた「因幡の白うさぎ」で有名な神様。関連性がと思いますが、神社の関係者が 大黒天様の前に、自前のウサギの置物を置いたということです。
▼八幡社、稲荷社、浅間社、天神社、三峰社
疣天神など5社

境内社の五社
この五社の中の天神社が疣(イボ)天神社です。
疣天神はイボを取ってくれる神様です。祈願時、疣天神の小石を借り受け祈りながらイボをさするととれるそうです。願いが叶ったら借りた石を2つにして返します。
▼こちらは、厳島社です。
厳島社(境内末社)
お参りしても、各神社が何神社かわからないので、細かく記載してみました。

江古田川と妙正寺が合流する地点

江古田公園の所に江古田川と妙正寺が合流する地点がありました。
江古田川と妙正寺の合流地点
江古田川があまりに細いので、川は今は無いのかと思いましたが、細く流れているようです。降雨時には、増水するのだそうです。
「新編武蔵風土記稿」の江古田村の水利に関する記述は次のようになっています。
「多摩川上水の分水なり、・・・・此ほとりに至りては仙川用水と云、豊島郡中荒井村より引入、石神井村三宝寺の池水落合上鷺ノ宮村の北の方より流れ来り村内に入、処々の水田にそゝぎ、流末は豊島郡葛ヶ谷村へいたる、村にかゝること八町許」
「石神井村三宝寺の池水」は誤りで、「井草村妙正寺の池水」です。
妙正寺川は、妙正寺公園内妙正寺池(妙正寺に由来)に源を発し、途中中野区松が丘二丁目で江古田川を合わせ、新宿区下落合一丁目付近で神田川高田馬場分水路に合流しています。江古田川は玉川上水の分水だったのですね。そして、江古田川は千川上水の助水を得て、それが最大の水源となっていたようです。
現在水が少ないのも分かる気がします。

太田道灌の「江古田原・沼袋合戦」の伝承

平成30年1月22日、東京は、積雪23㎝という大雪でした。次の次の日、哲学堂公園へ、調べたいことがあってでかけました。行ってみると、大雪で奥には行かれませんでした。それで、哲学堂の周りを歩いていたら、江古田公園に出たので、江古田原の古戦場を見てみようかなと歩きました。
江古田原 古戦場跡
現在の江古田公園の風景です。妙正寺川の向こう滑り台のある側に「史蹟 江古田、沼袋古戦場跡」の碑があったようですが、今回気がつきませんでした。
そんな程度に認識ですが、新青梅街道沿いの、太田道灌の伝説を少し記しておこうと思います。
そもそも、新青梅街道とは何だろうかと思います。西落合一丁目交差点(新宿区西落合・起点)から井草三丁目交差点(杉並区井草)までの街道のようです。基本的に始点から東村山市と東久留米市の市境まで西武新宿線と並行しています。もともとは、青梅街道のバイパスとして道路が建設されましたが、始点~北原交差点その混雑さにより、とてもバイパスとは言えません。でもこの道路の道は、古くからあったのだろうと思われます。
新青梅街道の基点の近くに自性院があります。弘法大師が日光に参詣する途中で観音さまを供養したのが始まりと伝えられる寺院です。
ここに、『猫地蔵』があります。この猫地蔵には、太田道灌が豊島泰継を破った1477年の江古田の合戦の時の伝承があります。
 文明9年(1477)、豊嶋城主豊島左ヱ門尉と太田道灌とが合戦した有名な江古田原の戦いのおり、日暮れて、道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れて、道灌をこのお寺に案内しました。そこで道灌は一夜をあかし危難を免れ、その後兵を率いて勢いを取り戻し、大勝利を得ます。これひとえに猫のおかげと感激して、この猫を大切に養い、死後丁重に葬った上、一体の地蔵尊を造って盛大な供養をし、この地蔵尊を自性院に奉納したというものです。
「猫地蔵堂」
この自性院には、もう一つ、猫の地蔵があり、猫寺として有名です。この二つの猫地蔵は「猫地蔵堂」(上写真)に納められ、毎年2月3日の節分の日のみ開帳されています。なお、参道には、厳しい顔をした招き猫の像があります。
自性院 招き猫
そもそも江古田原の合戦とはどういうものか、江古田原・沼袋合戦ともいわれるそのいきさつを少し。
文明8年(1476)に、山内上杉の家宰をめぐる後継者争いに敗れた長尾景春(かげはる)は上杉氏に対して反乱の兵をあげます。これが長尾景春の乱です。
豊島氏は、上杉の支配に対する在地の伝統武士の不満から反乱に参加しました。
太田道灌は扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)の家宰として江戸城を中心に勢力を伸ばし豊島氏の豊島郡支配を脅かしていました。
そこで、豊島氏も長尾氏に呼応。扇谷上杉の家宰太田道潅がこもる江戸城と扇谷上杉家の居城・川越城の分断を図ろうとします。豊島氏の動きに対し道潅は4月13日、豊島泰明のこもる平塚城を攻略します。
これに対して豊島泰経は石神井城・練馬城から援軍派遣。翌14日、江古田原・沼袋原で太田道灌の軍と戦闘。これが「江古田原・沼袋合戦」です。泰明は戦死、豊島軍は大敗となります。
新青梅街道には、この江古田の合戦の跡の伝承が残されています。
「葛ケ谷御霊神社」
「葛ケ谷御霊神社」には、「豊島城との戦火において再三の焼打ちに逢い」とご由緒にあります。推定開戦地とされる「四ツ塚跡」。古くから「豊島塚」の1つといわれる「お経塚」「金塚」「古塚跡」「丸山塚・豊玉二百柱社」。道灌による江古田原合戦・戦勝祈願の伝説が残る「江古田氷川神社」、道灌の本陣になったと伝えられる「沼袋氷川神社・道灌杉跡」などなど。
北野天満宮
今回立ち寄った北野天満宮も道灌の道灌が江古田原の合戦の戦勝祈願の伝説が残る神社の一つですが、江古田原付近には、合戦以前に道灌が建立した、または戦勝祈願を行ったとされる寺社が多数存在しているようです。

階段のまち 伊香保温泉

伊香保温泉は、長さ300m、365段の石段が温泉のシンボルです。
万葉集にも登場する歴史ある温泉地。戦国時代に武田兵士のための療養場所として温泉街が形成されました。そして、明治以降は、多くの文人が通ったことでも知られます。
伊香保の案内図

階段下
石段は伊香保温泉関所跡から伊香保神社へ続きます。
はじまり

石段の歴史
この石段街の原型は、今から四百年以上前の天正年間に造られました。
かつて湯客は寺社に参拝するのが習わしだった江戸の伊香保の温泉絵図にも、伊香保神社を中心に石段街が描かれています。
●「黄金の湯」がどんどん流れています。
石段はじめに黄金の湯が流れています。階段途中にも小満口(こまぐち)と呼ばれる、温泉が流れる様子を覗けますが、石段入り口部分は、川のようです。黄金の湯は、鉄分が酸化したことによる茶褐色が特徴的。湯がぶつかる岩も鉄分の影響で、独特の色を放っています。
●石段をあがって行くと「石段の湯」があります。ここで湯につかるのも一興です。
石段の湯
●石段に十二支の碑の板がはめ込まれています。
石段に刻まれた干支
石段を登るときに注目したいのが、足元です。元々12の温泉宿があった石段街では、家紋のような役割で干支が使われていました。その年の当番の温泉宿となります。石段には12種類の干支が刻まれています。その干支の宿にあてて、はめられているので、順番も場所も不規則です。そのため、探しながら歩かなくてはなりません。12支すべて写真に撮りました。今年の干支戌を載せます。
●与謝野晶子の詩が刻まれた階段があります。
階段に刻まれた与謝野晶子の詩
「伊香保の街」  
榛名山の一角に、段また段を成して、
羅馬時代(ローマ時代)の野外劇場の如く(ごとく)、 
斜めに刻み附けられた 桟敷形(さじきがた)の伊香保の街、
屋根の上に屋根、部屋の上に部屋、
すべてが温泉宿である、そして榛(はり:ハンノキ)の若葉の光が
柔かい緑で 街全體を濡らしてゐる。 
街を縦に貫く本道は 雑多の店に縁どられて、
長い長い石の階段を作り、伊香保神社の前にまで、
Hの字を無数に積み上げて、
殊更に建築家と繪師とを喜ばせる。
●ゴールは伊香保神社!
階段の上伊香保神社へ
2つの鳥居をくぐると、ゴールの伊香保神社に到着です。自然に囲まれた神社の神聖な景色はもちろんですが、振り返って見る石段の景色もすばらしい。
上から望む階段
●石段を登ると伊香保神社が頂上にあります。
上野国三之宮とされる由緒ある神社です。御祭神は大己貴命です。温泉と医療の神様、縁結び、子授け、安産の神様としても有名です。
伊香保神社
●宿泊した宿から見た伊香保の町と山々。
伊香保温泉街


竹久夢二と伊香保


竹久夢二と伊香保との出会いは、少女からの一通の手紙がきっかけとなっています。明治17年(1884)邑久郡本庄村(現:瀬戸内市邑久町)に生まれた夢二は、18歳で上京後、挿絵の投稿を手始めに活動を始めた。自身の著作では画才のみならず文才も発揮し、人気を得ていました。その頃夢二のもとに、伊香保で夢二をみかけたという少女から一通の手紙が届きます
少女の手紙は
 「夢二先生 伊香保においでになったことがおありでしょう。たしか去年の秋、先生を伊香保でお見かけしました。でも、はずかしくてお声をかけられませんでした。私は先生のファンです。先生の絵をもっともっと見たいです。」といった内容の文面でした。
夢二はそれに対して、
 愛らしいお手紙うれしくうれしく拝見しました。
イカホとやらでお逢いになったのは 
私ではありません。
それが私であったろうならと心惜しく思はれます。
お逢いする日があったらその日を楽しみませう。
さらば春の花の世をすごさせたまへ    かしこ
                          夢二
 ミドリ様
夢二は少女に、こんなやさしい手紙を送りました。
それから8年後、大正8年6月(1919)東京で「女と子供に寄せる展覧会」を成功裏に終え、その疲れ休めのために、夢二は伊香保を初めて訪れます。
その後たびたび伊香保を訪れた夢二は、昭和5年(1930)47才の時、榛名湖畔の山荘建設に着手しました。
そこで、生活と美術を結ぶことを目指した運動を展開しようとしたのです。しかし、その完成を見ずに熱い想いだけを残し、昭和9年(1934)夢二は51才でこの世を去ってしまいました。
竹久夢二伊香保記念館
 それから約半世紀たって、夢二の残した熱い想いを形にしようと昭和56年(1981)5月23日に記念館が建設されました。
夢二の想いを受け継ぎ、形にしたのが、竹久夢二伊香保記念館です。 いくつかのすてきな建物からできています。
本館(大正ロマンの館・黒船館)では、16000点におよぶ収蔵品の中から、肉筆美人画、風景画、版画、書簡、デザイン画など様々なジャンルの夢二作品を紹介。
新館(義山楼)では、夢二の作品はありませんが、珍しい明治・大正期の和ガラスを展示。
新館(義山楼)
それに今回見学できませんでしたが、「子供絵の館」もあります。
「夢二好きの友人が家に作品を飾っているようなイメージ」の美術館という話がありましたが、建物から調度品、収集品、飾り、すべてで、「夢二」の雰囲気を堪能させる美術館です。
夢二ホールではピアノの生演奏を楽しむこともできるほか、喫茶店「港屋サロン」では大正ロマンにひたりながら休憩もできます。
本館の夢二の部屋です。
夢二記念館
『榛名山賦』(昭和6年)
『榛名山賦』(昭和6年)
昭和5年(1930)ごろ、夢二は伊香保温泉に1ヶ月の長滞在をしました。その頃、夢二は榛名湖の畔にアトリエを設け、代表作のひとつとされる『榛名山賦』を制作したのです。
『榛名山賦』では榛名山を背景に、春の女神佐保姫が描かれている。その画賛には「久方の 光たたえて 匂ふなり 榛名の湖(うみ)に 春たちにけり」と榛名湖を詠んでいます。

『青山河』(昭和7年)
表裏『青山河』(昭和7年)
画面からはみ出すほど大きく、大胆に描かれた裸婦。二重の目に高い鼻、そして肌の色も色白ではないなど、これまでの夢二式美人とは異なります。夕暮れ時の背景にそびえるのは榛名山です。
そして絵の裏には夢二の筆で、この絵のタイトル「青山河」と、「山は歩いて来ない。やがて私は帰るだろう。榛名山に寄す」という言葉が書かれています。
夢二は、彦乃が亡くなる前年に、『山へよする』という、2人の恋の思い出を綴った歌集を出版しました。そして彦乃が亡くなる半年前には、伊香保の榛名を訪れています。夢二は、榛名山に彦乃を照らし合わせていたのかもしれません。

▼夢二は、22歳で最初の結婚をしますが、30歳の頃、絵を教えていた18歳の彦乃と恋に落ちます。しかし、2人の中を知った彦乃の父は激怒。夢二と会うことを禁じました。失意の中、夢二は1人京都へ向かいます。
しかし、夢二と彦乃は、暗号を使って、気付かれぬよう手紙を交わしていたのです。「河」は夢二、「山」は彦乃を表していました。そして半年後、夢二と彦乃は京都で再会、一緒に暮らし始めるのです。ところが、それから1年も経たないうちに、彦乃は肺の病に倒れ、東京へ連れ戻されます。そして2度と夢二と会えないまま、その短い生涯を閉じたのでした。
その彦乃がモデルといわれる作品が『黒船屋』です。この作品も「竹久夢二伊香保記念館」収蔵です。
彦乃と引き離された夢二は、病院の近くにあった菊富士ホテルで彦乃の回復を待ちました。この『黒船屋』が描かれたのはまさにその頃です。
『黒船屋』
『黒船屋』

徳富蘆花と伊香保

伊香保温泉へ行きました。
「徳富蘆花記念文化館」が、伊香保の石段街の登り初めのあたりにあります。
徳富蘆花については、名前を知っていて、世田谷区、芦花公園駅から少し歩いての「蘆花恒春園」に行ったことがある程度です。
でもせっかく伊香保に来たので、と訪ねてみました。
入館すると、ビデオを見ることを勧められました。確かに、こういう記念館では、よくまとめられたビデオを見ると、概要が理解出来、展示に興味がわき、観賞ができます。
徳富蘆花記念文化館 
記念館の案内板
徳富蘆花は、伊香保が大のお気に入りで、何度か来ていたのですが、死が近くなった時にも身体が不自由だったのですが、わざわざ伊香保に来て、伊香保で亡くなっています。
その亡くなった時の部屋も、敷地内に移築して記念館とし、蘆花について資料などをまとめて展示しているのが「徳富蘆花記念文化館」です。
蘆花記念館
徳冨蘆花は明治元年10月(1868年12月)の生まれ。本名は徳富健次郎。幼児から秀才の兄・徳富蘇峰への劣等感に悩みますが、明治31年(1898)に発表した『不如帰(ほととぎす)』がベストセラーとなり、作家としての地位を確立します。
展示館には、蘆花の生涯や作品の紹介があり、「伊香保の歴史」を見るにも役立つ展示です。伊香保を訪れた数多くの文豪たちの、伊香保に対するコメントも、まとめて見ることができました。
隣接する記念館は、蘆花がなくなった建物を近隣の温泉旅館「千明仁泉亭」から移築したものです。ここには、亡くなった時のままにベッドやガウンが残されています。ガウンがすごく大きくて、体格よかったのねー、とびっくりしました。
「不如帰」という名前の喫茶室があります。窓から、周りの自然や山々が眺望できます。
喫茶室から山を見る
とにかく伊香保温泉階段街の旅館からは、周囲に広がる自然を一望することができます。千明仁泉亭に逗留していた徳富蘆花もこうした風景を目にし、部屋からの眺めを自分の作品に取り入れたようです
蘆花の『不如帰』は次のように幕を開けます。
 上州伊香保千明(ちぎら)の三階の障子開きて、夕景色をながむる婦人。年は十八九。品よき丸髷に結いて、草色の紐つけし小紋縮緬の被布(ひふ)を着たり。
 色白の細面、眉の間(あわい)ややせまりて、頬のあたりの肉寒げなるが、疵といわば疵なれど、瘠形(やさがた)のすらりとしおらしき人品(ひとがら)。これや北風(ほくふう)に一輪勁(つよき)を誇る梅花にあらず、また霞の春に蝴蝶と化けて飛ぶ桜の花にもあらで、夏の夕やみにほのかににおう月見草、と品定めもしつべき婦人。
 春の日脚(ひあし)の西に傾(かたぶ)きて、遠くは日光、足尾あしお、越後境(えちござかい)の山々、近くは、小野子、子持、赤城の峰々、入り日を浴びて花やかに夕ばえすれば、つい下の榎離れて唖々(ああ)と飛び行く烏の声までも金色に聞こゆる時、雲二片(ふたつ)蓬々然(ふらふら)と赤城の背(うしろ)より浮かび出いでたり。三階の婦人は、そぞろにその行方をうちまもりぬ。
 両手優(ゆたか)にかき抱(いだ)きつべきふっくりとかあいげなる雲は、おもむろに赤城の巓(いただき)を離れて、さえぎる物もなき大空を相並んで金の蝶のごとくひらめきつつ、優々として足尾の方へ流れしが、やがて日落ちて黄昏寒き風の立つままに、二片(ふたつ)の雲今は薔薇色に褪(うつろい)つつ、上下(うえしたに)吹き離され、しだいに暮るる夕空を別れ別れにたどると見しもしばし、下なるはいよいよ細りていつしか影も残らず消ゆれば、残れる一片(ひとつ)はさらに灰色に褪(うつろい)て朦乎(ぼいやり)と空にさまよいしが、果ては山も空もただ一色(ひといろ)「に暮れて、三階に立つ婦人の顔のみぞ夕やみに白かりける。
「上州伊香保千明(ちぎら)の三階の障子開きて・・・・・・。千明は、1502年創業の老舗旅館『千明仁泉亭』のことです。
『不如帰』は、陸軍中将・片岡毅の愛娘・浪子は、海軍少尉・川島武男(男爵)に嫁ぎます。姑との葛藤が続く中、それでも浪子は武男の愛に支えられて幸福な結婚生活を送っていました。しかし武男が日清戦争へ出征した後、浪子は結核に罹り離婚を強いられ、武男を慕いつつ死んでゆくという悲哀物語です。

昭和2年(1927)7月、病状がすすみ、歩行困難だった蘆花は、周囲の反対を押し切って伊香保にやって来ます。同行したのは、主治医(慶応大学病院・正木俊二博士)と3人の看護婦。
『千明仁泉亭』に到着すると主治医と一緒に入浴するなどして、病状はやや落ち着きを見せました。
ところが2,3日して突然、蘆花は「榛名湖に行きたい」と言い出します。これにはさすがの主治医も猛反対しますが、「ならば医者不要」と怒って主治医たちを東京に帰し、旅館のスタッフや近隣の若い衆を集め総勢31人の“大名行列”(駕籠かき隊)を組んで榛名湖観光を決行しました。しかし当然のことながら病状は悪化します。
蘆花臨終の部屋
弟(蘆花)の危篤を知った兄・徳富蘇峰が急遽見舞いに駆けつけ、長年のわだかまりを解消することができました。蘆花は安心したか、その夜、兄蘇峰、妻愛子に看取られ、安らかに58年の生涯を閉じます。昭和2年(1927)9月18日でした。
階段と千明仁泉亭の看板
伊香保温泉は風光明媚な石と坂の町です。中心街を貫くように作られた365段の石段には、古き良き時代の温泉街の雰囲気が漂っています。その石段の中程に千明仁泉亭があります。
千明仁泉亭
蘆花夫妻が初めて伊香保温泉を訪れたのは結婚5年目の明治31年(1898)5月の初旬。昭和2年(1927)9月に『千明仁泉亭』の離れで亡くなるまでの29年間に10回訪れています。逗留期間は(1回目こそ3週間でしたが)各回平均滞在は2、3カ月だったそうです。

「漱石山房記念館」

漱石山房外観
現在の東京都新宿区早稲田南町7番地にあった「漱石山房」は漱石が晩年の9年間、早稲田南町の元医院に移り住んだ。診察室だった洋間を書斎に改装し多く「三四郎」や「こゝろ」などの名作を執筆した場所です。
木曜会の絵
しかし、東京大空襲により焼失してしまい、昭和28年(1953)年にはその跡地に東京都が都営住宅を建設しました。
その後、昭和51年(1976)に新宿区が敷地の一部を「漱石公園」として整備し、昭和52年(1977)に東京都が都営住宅の土地建物を区に移管しました。
平成20年(2008)には漱石公園をリニューアル開園するなど、漱石山房復元への機運が高まり、平成24年(2012)に設置した整備検討会では、8回にわたり検討会を開き、平成25年(2013)3月に整備基本計画を策定しました。
「漱石山房記念館」はその跡地に建ったのです。
館内では「漱石山房」の書斎と客間、ベランダ式回廊を再現展示。
フォルムデザイン一央の入江正之代表(早稲田大学名誉教授)は「山房はこの建物の要で、庭や坂道との関係が大事だと考えた。かつて漱石が目にしていたように山房から庭や坂道が見え、かつ、坂道を行き交う人の目に映る山房の姿も漱石の生前と同じようにしたかった」と話しています。
当初、坂道側に山房の鑑賞スペースを設ける意向でしたが、議論の末に現在の配置が決まりました。
書斎と客間の図
そして、メインになるのは、「漱石山房」の書斎と客間です。どう当時の姿で「再現」するかです。
まず、漱石や家族、門下生が残した証言のもと、資料的な裏付けのある書斎、客間の一部、ベランダ式回廊を再現。そして、長男が疎開させていたおかげで難を逃れた遺品や写真類は、県立神奈川近代文学館に寄贈されているので、それを元に、再現されました。
これまでの漱石山房に関しては、書斎と客間の広さについて、8畳と10畳との説があり、はっきりしていませんでした。
今回の漱石山房記念館の建設にあたっては、一括寄贈された神奈川近代文学館に所蔵されている安井曾太郎の洋画「麓の町」が、昭和3年(1928)の写真に写っていたので、その絵の寸法から、部屋の広さを割り出しました。
それによると、書斎、客間どちらも10畳ということが判明しました。
安井曾太郎の絵
また壁紙は、昭和3年の写真でははっきりしているのですが、漱石は白と記していました。出入りしたいた経師屋の証言により「銀杏鶴」紋ということがあり、あまり気にしないで見ると、白くうつる紋なのでこれに間違いないということで、「銀杏鶴」になっています。(絵のまわりの壁紙参照)
また、書斎を飾る家具、調度品は、神奈川近代文学館の現物を複製製作されています。
書棚の書籍、洋書は、東北大学付属図書館にある漱石所蔵の書籍の背表紙を写真に撮り、一冊ずつ手作りで、つか見本に貼り付けて複製したようです。
和本については雰囲気的に似たものを集めているようです。
そのようにして、「再現」された漱石山房です。
再現された漱石山房の書斎

井の頭池の「かいぼり29」

かいぼりをしている井の頭公園の池を見に行きました。
井の頭公園のかいぼり取り組み図
かいぼり=「掻い掘り」とは元々、農業用水の溜池の水を、冬場など利用しない時に抜き、積ったヘドロなどを取り除く作業のことをいいます。ヘドロを取り除き池の底を空気にさらすことで、微生物による分解を活性化し、水質が浄化されるとのことです。
最近では、水質改善や外来魚駆除の為に、お濠や一般の公園の池などでも実施されるケースが増えています。
かいぼり案内図

生き物を捕っている
七井の橋には人がいっぱい。かいぼりの池を見ています。
七井橋に人人
いつも水を溢れさせている御茶の水の井、水がまったくありません。
御茶ノの水の井戸から水が出ていない。 
七井の池に「あおさぎ」がいました。
アオサギがいた。

文京区立森鴎外記念館と谷中銀座商店街

今年9月に新宿に「『漱石山房』記念館」が出来て、もう何度か行って見ています。
そうするとなんとなく5年前に開館した「文京区立森鷗外記念館」が気になってきます。
特に昨年から開催されている特別展「明治文壇観測―鴎外と慶応3年(1867)生まれの文人たち」は観に行きたいなと思っていましたが、その最終日、やっと行って来ました。
明治文壇観測―鴎外と慶応3年生まれの文人たち
漱石が生まれた慶応3年は、明治を代表する文人たちがそろって誕生した年として記憶されています。
夏目漱石、幸田露伴、尾崎紅葉、正岡子規、齋藤緑雨など一時代を築いた文豪たちです。
森鷗外は、5歳年上ですが、同時代に、日本の近代文学史に足跡を遺したと言えます。
鷗外記念館ということもあってか、鷗外の弟で、劇評の近代化に努めた三木竹二も入っています。三木竹二は、本名を森篤次郎と言い『森』は漢字で『木』が3つ。だから号を『三木』とし、篤の冠の竹、次を二として、三木竹二のペンネームにしたそうです。
この展示のポリシーとして下記のことが記されていました。
藪下通り側からの鷗外記念館
「本展では、鷗外が主宰した文芸雑誌『めさまし草』を座標軸にして、鷗外と彼らとの文学交流をたどります。1896年1月に創刊され、約6年間、発行されたこの文芸雑誌には、鴎外、露伴、緑雨、紅葉らによる合評形式の文芸評論や子規一門の数多くの俳句、竹二の劇評などが掲載されました。しかし、同時代を生きた者が歩み方を同じくするとは限りません。それぞれの業績を鴎外という定点から観測した時、何が見えてくるのか、文人たちの書簡や原稿、掲載誌、文芸雑誌などを通して展覧します。」
鷗外と漱石は直接には交流はなかったようですが、鷗外の方が漱石をかなり意識していたように思えます。漱石は子規との結びつきが深く、子規が鷗外と俳句・短歌で結びつき、漱石は鷗外とは間接的です。
新宿ということで、漱石と紅葉とが結びつきと面白いのですが、文学での結びつきはありません。漱石はどこかで、紅葉は長く続かないだろうといったことを書いていました。
所属新聞が「朝日」と「読売」、原稿用紙が同じ神楽坂の「相馬屋」紅葉の住んだ家の跡地は家主の方が残しているのですが、同い年生まれのスポットは当てづらいかもしれません。
帰りに「谷中銀座商店街」を見ながら、日暮里から帰りました。「谷中銀座商店街」は、あいかわらず人気のスポットです。雨が降ってきましたが、たくさんの人でした。
七福神の案内です。今年もたくさんの人が来たでしょう。
幕のある谷中ぎんざ
屋根に、猫のかざりが鎮座しています。
猫1谷中銀座
こちらにも。
猫2 谷中銀座

旧岩崎邸庭園に行きました。

旧岩崎邸庭園に行きました。
表側から旧岩崎邸庭園
三菱財閥岩崎家の茅町本邸だった建物とその庭園を公園として整備したもので、国の重要文化財に指定されています。
江戸時代、この敷地は、越後高田藩榊原家の中屋敷でした。明治初期に牧野弼成(旧舞鶴藩主)邸となり、明治11年(1878)に三菱財閥初代の岩崎弥太郎が牧野弼成から邸地を購入したものです。
現存する洋館、大広間(かつての和館の一部)などは、岩崎財閥3代の岩崎久彌によって建てられました。設計を手がけたのは、鹿鳴館やニコライ堂などを代表作にもつ英国人のジョサイア・コンドル氏(1852~1920)です。
岩崎邸は、明治29年(1896)に竣工しました。
大正12年(1923)の関東大震災の際には、屋敷地が避難所として地元住民に開放されました。
屋敷は西洋建築と日本家屋があります。
西洋建築の方では、17世紀初頭の英国のジャコビアン様式の装飾が随所に見られ、英国ルネサンス様式やイスラム風のモチーフなどを採り入れたデザインとなっています。また、壁紙も手先の器用な日本の職人が細かい絵柄を手で彩色し、絵柄に合わせて金箔を張った「金唐革紙」という、今では再現できる人がほとんどいないと言われるほどの技を凝らしたものです。
日本家屋の方も、1枚板で葺かれた天井や、橋本雅邦の襖絵など、贅を尽くした建物です。
また、庭の方には、撞球室(ビリヤード場)が当時の姿で現存しています。
旧岩崎邸庭園 お庭から
外観は白く重厚感があり、華麗な装飾が施されています。下見板張りのペンキ塗り仕上げだそうです。
窓のガラスや玄関のステンドグラスは、可愛らしい幾何学模様のデザインです。
西欧建築を日本に伝えた英国人建築家、ジョサイア・コンドルが設計した豪華な明治の洋館がこのように残っているのは大変貴重なことです。
旧岩崎邸庭園 正面
お庭に水仙が咲いていました。
水仙が咲いていました。

もともと深川にあった海福寺

目黒不動の近くというより、五百羅漢寺の隣に海福寺という黄檗宗のお寺があります。なんとなく、お寺の方に入って見ると、文化4年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑2基がありました。
永代橋崩落横死者供養塔
文化4年(1807)8月、江戸深川富岡八幡宮の大祭は11年ぶりに催されたため大変な賑わいで、みんな永代橋を渡って深川にやって来たのですが、永代橋が衆の重みで落下したというのです。
この海福寺の供養塔及び石碑は、その落橋事件の溺死者の100日忌、50回忌、77回忌、91回忌の折に、深川寺町通り(現江東区深川2丁目付近)にあった海福寺境内に建立されたものです。
海福寺は、もともと深川にあったのです。
明治43年(1910)下目黒3丁目の現在地に移転してきたのです。その時、これら供養塔も一緒に移設されたものでした。
昨年、深川富岡八幡宮の大祭に行きました。それが年末になって、悲惨な事件があり、今年の年始は、さすがに人出は少なかったようです。
この永代橋の事故は落語にも出て来ます。
「永代橋」です。
祭り好きな武兵衛が深川八幡の祭りに出かけます。祭りの最後の日というので永代橋の近くは大勢の人。武兵衛は人ごみの中で紙入れを掏られてしまいます。
翌日、大家・多兵衛の元に届けられたのが、店子(たなこ)の武兵衛が事故で死んだとの差し紙でした。
店子が死んだんじゃ放っておくわけにもいかない。遺体の引き取りに行こうとしていますと、当の武兵衛が帰ってきます。
「そうだったんだ、おいら死んでたんだ」
 そう武兵衛が言いますと、多兵衛も納得し、一緒に収容所に参ります。
当然、御役人が出っ張って来ています。武兵衛の死体が置かれている場所まで行きまして、かくかく云々(しかじか)と御役人に説明します。ですが、話がかみ合う訳がありません。
 多兵衛に差し紙を送りつけたのは、遺体が身に着けていた財布から、武兵衛の名札が出たからだと分かります。「そちの財布か。中には何が入っておる」、と尋ねられた武兵衛は一両一分と小銭が三百文と答えます。間違いありません。「てめえ、そんなに金があるのなら、なんで店賃払わねえんだ」
 家主が文句を言いますが、聴いていた御役人が家主の多兵衛を怒鳴りつけます。「町役がたわけたことを言うからこのような事態になっておるのだ。武兵衛その方、すりに財布を抜かれ、そのすりが水死した、これに間違いないか?」、やっとまともな話になってきました。そして、御役人をさしおいて、家主と店子の言い合いになります。
 「だがの、武兵衛、そちは大家には勝てぬ」、ふたりが訳を御役人に尋ねますと、
 「大家は多兵衛、店子は武兵衛。所詮、無兵(武兵衛)は多兵(多兵衛)にはかなわぬ」
落語で、悲惨な事件はお祓いしましょう。
海福寺四脚門
そして、海福寺の赤い門をくぐろうと思ったら、この門、目黒区指定有形文化財のい四脚門(しきゃくもん)だということです。
海福寺四脚門(昭和59年3月31日指定)
「海福寺四脚門は明治後期に新宿区上落合泰雲寺にあったものを移建したものであるが、その後の長い年月の間に海福寺境内や周辺の環境によく調和しており、落ち着きのある景観をうみだす重要な建物として定着している。 また、四脚門は中央にある親柱2本とその前後に2本ずつある4本の控柱からきた名称で日本建築の代表的な門の形式であり、当四脚門はその細部絵様の様式において、江戸時代中期の特質を備える貴重なものである。」
海福寺は、宗祖隠元禅師が万冶元年(1658)江戸深川に開創、上落合にあった廃寺の泰雲寺を合寺し、明治43年(1910)に目黒の当地へ移転してきたものでした。
海福寺四脚門 中から

目黒不動尊の江戸最古の狛犬

目黒不動尊は龍泉寺と言う名の天台宗の寺院ですが、たくさんの狛犬が鎮座しています。
その中から、承応3年(1654)に寄進された江戸最古の石造狛犬です。
江戸最古の狛犬 呍像

江戸最古の狛犬 阿像 
胸と足には銘が刻まれています。
狛犬の銘
  胸  奉献 不動尊霊前 唐獅子二匹
  右足 亀岡久兵衛正俊
  左足 承應三甲午三月廿二日(1654年3月22日承應3年(1654)奉納

目黒不動尊の狛犬「和犬」

目黒不動尊にお参りしました。今年は戌年、たくさんの犬の石像があります。
一対になっていているものが多いので、狛犬なのでしょうが、一般的なスタイルとして多い獅子でなく、まさに犬です。
そして、特に多いのが子連れの犬。
弘法大師空海が高野山を開山した際、白黒2匹の犬を連れた狩場明神が道案内したという伝承から、空海所縁の寺社では和犬型の狛犬を神使とした、ということです。
しかし、目黒不動尊は天台宗のお寺です。いろいろ調べてみると、「天台宗の開祖最澄は,
真言宗の開祖弘法大師とは密教で縁があり、境内にも犬の像がたくさん置かれている。」
という説明につきます。
とにかく、可愛いので、今回写真に撮れた和犬を載せておきます。
▼まず、不動さま本堂への階段前にある、見事な子連れ和犬。
階段前左の子連れ犬

階段右の子連れ犬

親犬 子犬

その子犬
▼独古の滝の池の後ろの斜面の犬たち
独古の滝の 犬2頭

滝の後ろの子連れ犬

斜面の子連れ犬

そして、ご不動さまに昇る階段わきにも。
階段脇の子連れ犬
今年いい年でありますように。



「博物館に初もうで」に今年も行ってきました

自分として、お正月恒例になった「博物館に初もうで」に今年も行ってきました。
今年の主役はもちろん犬。日本人に愛されてきたかわいらしい子犬や、珍しい異国犬の造形など多種多様な犬の作品が並んでいました。
染付子犬形香炉
染め付け子犬形香炉
江戸時代の作品です。三川内(みかわち)焼という焼き物です。場所は、長崎県佐世保市三川内町です。
かわいらしい表情です。
緑釉犬
緑釉犬
後漢時代の中国の陶器です。首輪と胴輪に子安貝がほどこされています、多産の象徴らしいということですが、この犬実は、墓を守る番犬とも、死者を冥土に導く犬ということです。なるほど、冥土の案内役というのも、犬にあっていいなと思いました。よく見ると厳しい顔つきです。
犬形置物
犬形置物
今風に可愛いと思ったら、ドイツのドレスデンの作品でした、K寝まいが陶土で細かく表現され、目にはガラスがはめ込まれ生きているようでした。
板彫狛犬
板彫狛犬
鎌倉時代のものだそうですが、狛犬に浮彫り風のものがあったのですね。驚きでした。説明に奥行きのない社殿で、神体の隣に立てられたものか、と記されていました、板はヒノキでした。
獅子と狛犬
獅子と狛犬
今では、「狛犬」と呼ばれますが、元は獅子と狛犬の一対でした。日本に仏教とともに伝わり、神社にも配されるようになります。狛犬には、多く、玉葱の形ををした宝冠、角が付けられてれました。この作品にないですが、穴があるので、元はあったのかなと思いました。小さな作品ですが、口の阿吽は表現されています。

最後にこれまた小さな水滴の犬です。同じ大きさに出すと大きくみえます。
水滴 犬

プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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