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目黒雅叙園「和のあかり×百段階段2017」

ホテル雅叙園東京のアートイルミネーション「和のあかり×百段階段展2017 ~日本の色彩 日本の意匠~」に行ってみました。
まず、本館の廊下から。
柳井金魚ちょうちん祭り(山口県柳井市)
柳井金魚ちょうちん祭り
長崎ランタンフェスティバル(長崎市)
長崎ランタン

そして「和のあかり」の展示会場の「百段階段」へ。
「百段階段」は、昭和10年(1935)に建てられた当園で現存する唯一の木造建築です。平成21年(2009)、東京都の有形文化財に指定されています。
琉金
エレベーターを降りるとすぐ入り口近くに「すみだ水族館」。かわいらしい琉金が泳ぎます。
漁樵の間の大作。
相馬太郎良門
「ねぶた大賞」などの受賞歴を持つねぶた師・竹浪比呂央。
2014年青森ねぶた祭に出陣した作品「相馬太郎良門 妖術を修る」を、展示スペースとなる「漁樵の間」に合わせて一部オリジナルを加えて展示。
この作品は、平将門の嫡男・太郎が妖術を取得する様子を描いたものです。
「漁樵の間」の柱の彫刻です。
漁樵の間
切り絵作家 早川鉄兵 「清流の森」
「清流の森」
あかりマイスター橋田裕司 針金でフレームを作り、それに和紙を張った作品
鳥
川村忠晴氏。 自身で野山に入り、イメージとあう草木を見つけては作品に仕上げる作品
葉っぱ
江戸組子建松(東京都江戸川区/組子)
江戸組子
平安末期に始まり、欄間や障子などの建具の装飾品として発展してきた江戸組子。小さな木片だけで緻密な装飾を組み上げて作る組子工芸は、建具職人の最高の技とされています。
篠原風鈴本舗(東京都江戸川区/江戸風鈴)
天井画と風鈴
江戸風鈴の魅力を現代に伝える、創業100年を迎える風鈴づくりの老舗です。
風鈴
「石巻こけし」 林 貴俊(宮城県石巻市/こけし)
階段に一つずつ置いてありました。
階段にこけし
寝ているこけしもありました。
寝ているこけし

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富岡八幡宮

江戸名所図会の富岡八幡宮
江戸名所図会の富岡八幡宮(とみがおかはちまんぐう)と別当寺の永代寺(えいたいじ)描いた挿絵の3枚のうちの2枚目です。
富岡八幡宮や永代寺の辺りの町は門前仲町と呼ばれます。これは、富岡八幡宮の門前ではなく、実は、永代寺の門前という意味です。永代寺は江戸時代に広大な寺域を持っていました。
当時、富岡八幡宮と永代寺は川に囲まれており、ここは永代島と呼ばれていました。
富岡八幡宮 
祭神は誉田別命(ほむだわけのみこと)に天照大神(あまてらすおおみかみ)ほか三柱を配祀(はいし)します。
寛永4年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に長盛法師が、御神託により創建されました。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて60,508坪の社有地を得たのです。
長盛法師が神託により砂州であった当地を干拓した。その際工事が難航したため、「波除八幡」の別名を持ちます。
横浜市金沢区に、建久年間(1190年代)に源頼朝の勧請により創建された「富岡八幡宮」から分社して同じ社名を許されました。創建当時は「永代嶋八幡宮」と呼ばれ、砂州の埋め立てにより60,508坪の社有地がありました。
八幡大神を尊崇した徳川将軍家の保護を受け、庶民にも「深川の八幡様」として親しまれました。
鳥居から
8月15日、小雨まじりの日でしたが、大祭の最後「例祭祭典」に富岡八幡宮にお参りしてきました。
伊能忠敬の銅像
伊能忠敬の銅像
全国を歩いて日本地図を描いた伊能忠敬は、当時深川界隈に居住し、測量に出かける際は、安全祈願のため富岡八幡宮に必ず参拝に来ていたことから平成13年、(2001)に銅像が建立されました。
深川周辺には伊能忠敬隠宅跡、天文学を学んだ暦局跡、歩測訓練を行なった道、伊能終焉の地などが点在しているということです。
日本一の大神輿
全景 大神輿
富岡八幡宮にはもともと、元禄時代に紀伊国屋文左衛門が寄進した3基の神輿
がありました。しかし関東大震災の折に焼失してしまい、長い年月、宮神輿がありませんでした。
日本最大の神輿と言われている高さ4.4メートル重さ4.5トン、随所に純金・宝石が散りばめられた絢爛豪華な一宮神輿は、平成3年(1991)に奉納されました。
神輿の最上部の鳳凰や中段の狛犬のダイヤモンドの目は光り輝いており、非常に豪華な作りになっております。
鳳凰

神輿中段

右にある神輿
鳳凰の手水鉢もありました。
鳳凰の手水鉢
社殿
社殿 正面
社殿は、天和3年(1683)に焼失し、元禄16年(1703)には地震により損壊し、大正12年(1923)の関東大震災でも損壊し、さらに空襲でも被害を受けるなどし、再建や修復を繰り返しました。
現在の社殿は昭和31年(1956)に造営され、鉄筋コンクリートを使用した、「重層型準八幡造り」となっています。
近くに 社殿
例祭祭典
零細 祭典
相撲にまつわる碑
富岡八幡宮は、江戸勧進相撲の地としても知られ、しばしば境内で本場所も開催されました。特に明治維新以降、幕府や大名家の加護を失った相撲界が、神道との関わりを強調することで生き残りをはかったためもあり、富岡八幡宮と相撲との結びつきは強まりまた。境内には、相撲にまつわる数々の石碑が建っています。
巨人力士碑

手形の碑

富岡八幡宮の例祭 各町神輿連合渡御

富岡八幡宮の例祭は8月15日を中心に行われます。俗に「深川八幡祭り」とも呼ばれ、赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭とともに「江戸三大祭」の一つに数えられています。
8月13日、各町神輿連合渡御を観に、門前仲町へ行きました。駅の改札口から行列ができるほどの人でした。
今年は、3年に1度の八幡宮の御鳳輦が渡御を行う年は本祭りでした。
大小あわせて120数基の町神輿が担がれ、その内大神輿ばかり54基が勢揃いして連合渡御する様は「深川八幡祭り」ならではのものです。
冨岡八幡宮の祭 神輿台
さらに神輿の担ぎ手に清めの水を浴びせる、深川名物の「水掛け」があります。水飛沫とともに進む神輿は深川八幡祭りならではの光景です。
富岡八幡宮へは、なかなか歩けそうでなかったので、永代橋の方へ行き、町神輿を待ちました。
冨岡八幡宮の祭 準備
しばらく待って、お囃子も音高くなり、神輿がやって来ました。でもとにかく、大勢の人で前に出られません。無理をして前に行くとにらまれます。
そしたことで、水掛けの模様など写真に撮ることができませんでした。残念ですが、「深川八幡祭り」の各町神輿連合渡御を見に行ったという記録に写真を載せます。
冨岡八幡宮の祭 神輿1

冨岡八幡宮の祭 神輿3

冨岡八幡宮の祭 神輿2

冨岡八幡宮の祭 神輿4

東京ミッドタウン SUMMER LIGHT GARDEN

六本木の東京ミッドタウンで、東京ミッドタウン開業10周年を記念して、イルミネーションによる“ひかり花火”と約300発の本物の仕掛け花火が競演する
イベントが開かれるというので、行ってみました。
ミッドタウンの庭
ミッドタウンの芝生広場へ午後6時に着くと、もうたくさんの人。午後7時からなので、なんとか、座って待ちたいと、場所に行くと、もう満員です、と言われてしまいました。でも、係の人が親切で、探してくれて、なんとか、割り込ませていただきました。
正面には、「ひかり清流」が写されていました。
どんどん増える人人
日が落ち、7時ごろから、「ひかりの花火」が、写ります。「日本三大花火」の演出で次ぎ次ぎ花火が写ります。
いくらかテレビを観るようですが、野外というのが良いです。風も心地よいです。
光の花火 1

光の花火 2
7時50分になって、大きな花火の音とともに、本物の花火が上がりました。、、「ひかりの花火」と「本物の花火」とのコラボレーションです。
光の花火と生花火のコラボ

けっこう燃えるぜ 生花火

生花火の残像けむり
都会の夏の夜を彩る「花火」なかなか、すてきでした。

大山神社  方南神社

方南・大山(おおやま)神社
釜寺の西隣に神社があります。なんという神社かよくわからいません。
いろいろ調べてみたら、大山神社とか方南神社とか呼ばれているようです。
境内をよく観ると、「方南神社改修(昭和四十六年銘)」碑」と「社殿向かって左手前には「榛名山 御嶽山 大山 合祀記念碑」があります。鳥居は大正5年(1916)の建立です。
(左)オオカミ狛犬
狛犬が、変わっています。お稲荷さんかと最初思いましたが、お狐さんではありまえんでした。オオカミです。
牙があり、足のつめも鋭く、赤く塗ってあってあったようです。どうしたわけか、赤い毛糸の頭巾を被っています。
(右)狛犬 オオカミ
「榛名山 御嶽山 大山 合祀」が気になります。
かつて、富士山信仰に富士講があったように、御嶽(みたけ)講、榛名(はるな)講、大山(おおやま)講がありました。
修験者は「御師(おし)」と呼ばれ、江戸時代には御師が信者拡大のため、農村や町を回り「講」を組織しました。部落毎に作られた講では、毎年、代表に選ばれた者たちが御師の集落に宿泊して、富士山や伊勢神宮、さらには、榛名山 御嶽山 大山などに詣でたのです。参拝後はお楽しみの娯楽もありました。
大山神社合併の碑
榛名講は、群馬県の榛名山にある榛名神社に参拝する講です。
この榛名神社の神様は、農家の神様で、特に雹(ひょう)よけ・嵐よけの神として信仰を集めました。
御嶽講は、青梅の御嶽神社にかかわる講で、作神様として、さらに盗難よけの神として信仰されてきました。
大山講は、丹沢の大山の阿夫利神社かかわる講です。
阿夫利は「あぶり」と読みますが、「雨降」の意味で、大山は「雨降山」とも呼ばれていました。雨乞いや五穀豊穣の祈願をする農民たちや大漁祈願の漁師たちが訪れます。雨乞いは「榛名講」「妙義講」「赤城講」「御嶽講」などでも行われています。
大山は古くから霊山として篤く信仰をされていました。隆盛を極めた江戸期には年間二十万の人々が来山したと記録されています。
江戸の町から二、三日の距離にある大山は気軽に参拝できることから、絶好の行楽地としても愛されたのです。大山に参拝した後には江の島などへ行楽する事が人気の行程とされていました。
そして、大山と富士山の両山を参拝する事を「両詣り」と言いました。大山と富士山の御祭神は、父娘の関係にあたるため、古来より「大山に登らば富士山に登れ」「富士山に登らば大山に登れ」と言われたようです。
ところで、御嶽神社は、盗難除け・魔除けの神「大口真神(おおぐちまがみ)」をお祭りしています。大口真神はオオカミの姿で、別名「おいぬさま」です。
                           オオカミの護符
この「おいぬ様」は、「犬」ではなく、「ニホンオオカミ」です。
今は絶滅したと言われていますが、御岳山にも一昔前までは、オオカミがいました。オオカミは怖い存在でありながら、畑を荒らす害獣を食べてくれる、つまり農作物を守ってくれる山の守り神でした。
「武蔵国御嶽山大口真神」として、山犬の姿を刷ったお犬様と呼ぶ盗難よけのお札があります。
ニホンオオカミを信仰する神社が関東を中心に数多くありました。御嶽山の他、御岳山、武甲山、宝登山、三峯山などもオオカミ信仰の山です。
農民たちはオオカミを「お犬様」と読んで祀り、赤めし、栗、稗などをお供えする「お炊上げ」などをしてお参りしていました。
オオカミ信仰の神社では、眷属(けんぞく)としてのオオカミの像が狛犬として鎮座しています。
関東に多いようなので、指揮して探してみてください。あんがい近くにいらしゃるかもしれません。

「釜寺」と森鷗外の『山椒大夫』と説教節「さんせう大夫」

東運寺については、杉並区の釜寺の案内を記載します。
釜寺石碑
「釜寺」の通称で親しまれている念仏山東運寺は阿弥陀如来像を本尊とする浄土宗寺で、「釜寺」という通称の由来となった「身代り地蔵尊」も安置されています。
戦国のころ、天正元年(1573)備前(岡山県)の僧一安上人が、安寿と厨子王の守り本尊「身代り地蔵尊」を奉じてこの地に来ました。これに帰依した方南の大地主鈴木伊兵衛が屋敷を寄進して念仏堂としたのが、当寺の開創と、元禄14年(1701)ごろ住職であった祐梵上人筆の由緒書は伝えています。
この「身代り地蔵尊」は、山椒太夫に釜ゆでにされそうになった厨子王を、お坊さんの姿になって助けたという言い伝えがあり、それにちなんで当寺本堂の屋根に釜を置いたといわれます。現在の大釜は、昭和20年の戦災で本堂焼失後、当地の信者が寄進したもので、米1俵(60キログラム)を炊くことができるといいます。
釜寺の屋根の釜
文化財としては、元禄2年(1689)の刻銘のある半鐘や江戸初・中期の庚申塔・石仏などが保存されています。また、山門はもと田村右京太夫江戸屋敷の脇門(浅野内匠頭が通ったと伝えられる)であったのが、そのゆかりの人々の冥福を祈って寄進保存されたものです。そのほか、中国山東省の孔子家より頂いた銘木「楷樹」が数株植えてあるのも珍しいです。
なお、大正11年、下谷入谷町にあった東運寺(慶安4年=1651茂山上人開山)と合併し、改めて念仏山東運寺となりました。
昭和55年2月20日
屋根の瓦と釜

「安寿と厨子王」は、森鷗外の『山椒大夫』で有名です。
この小説は中世の芸能であった説経節の「五説経」と呼ばれた有名な演目の一つ「さんせう太夫」を原話として執筆され、大正4年(1915)、森鴎外53歳の時に「中央公論」に掲載されました
あらすじとしては、
平安時代の末期、陸奥国、岩城の判官であった平正氏は、上役の罪に連座して筑紫国へ左遷されます。正氏の御台所とその子安寿と厨子王は、筑紫に居る正氏を尋ねる旅に出ます。そして、春日(新潟県上越市)を経て今津(直江津)へ向かう途中、人買いに騙され、母親は佐渡の農家に売られ、安寿と厨子王は、丹後国の苛烈な荘園領主・山椒大夫に売られ、奴隷としてこき使われます。
やがて、成長したふたりは、荘園から脱走することを考えます。
ある日、安寿は厨子王に脱走をすすめます。

「木立ちの所まで降りて、二人は籠と鎌とを落ち葉の上に置いた。姉は守本尊を取り出して、それを弟の手に渡した。『これは大事なお守だが、こんど逢うまでお前に預けます。この地蔵様をわたしだと思って、護り刀と一しょにして、大事に持っていておくれ』」(鷗外『山椒大夫』)

弟が遠ざかっていくのを確認すると、安寿は自ら命を断ちました。
厨子王は都への上洛を果たし、関白藤原師実の知遇を得て丹後に国司として赴任、厨子王の脱走とともに入水した姉の菩提をとむらうとともに、丹後一帯での人買いを禁止します。
山椒大夫はやむなく、奴隷を解放し賃金労働者として雇うようになります。
その後、母が佐渡国にいると聞きつけ、厨子王は佐渡にむかい、盲人となった母親に再会しました。

「安寿恋しや、ほうやれほ。
厨子王恋しや、ほうやれほ。
鳥も生(しょう)あるものなれば、
疾疾(とうとう)逃げよ、逐(お)わずとも。」(鷗外『山椒大夫』)

「そしていつもの詞を唱えやめて、見えぬ目でじっと前を見た。そのとき干した貝が水にほとびるように、両方の目に潤うるおいが出た。女は目があいた。
「厨子王」という叫びが女の口から出た。二人はぴったり抱き合った。」
(鷗外『山椒大夫』)

鷗外は小説化にあたり、安寿の拷問や山椒大夫が処刑される場面など、原話で聴かせ所として具体的に描写される残酷な場面はほとんど切り捨てています。
また、賃金を支払うよう命じられた一家が、その後むしろ一層富み栄えたというのも森鴎外のオリジナルです。

一方説経は、転々と売られた挙句たどり着いたさんせう太夫の下で、安寿とつし王の姉弟が蒙る悲惨な運命について、綿々と語ります。
例えば、安寿は自決でなく、なぶり殺されます。
安寿の死の部分は、説経「さんせう太夫」の最大の泣かせ場です。
「邪険なる三郎が、承り候とて、十二格の登り階に絡みつけ、湯攻め水攻めにて問ふ、それにも更に落ちざれば、三つ目錐を取り出だし、膝の皿を、からりからりと揉うで問ふ」 
それでも安寿は落ちないので、
「邪険なる三郎が、天井よりもからこの炭を取り出だし、大庭にずっぱと移し、大団扇をもってあふぎ立てて、あなたへ引いては、熱くば落ちよ、落ちよ落ちよ、と責めければ、責めては強し、身は弱し、何かはもってこらふべきと、正月十六日日ころ四つの終わりと申すには、十六歳を一期となされ、姉をばそこにて責め殺す」
また、説経節では、皮籠に潜んでいた厨子王は、三郎によって見つけられてしまうのですが、身に着けていた地蔵菩薩が黄金に光り輝いて、三郎の目をくらまし、なんとか窮地を脱します。
説教節「さんせう大夫」と鷗外の『山椒大夫』との大きな違いは下記の通りです。
(1)安寿と厨子王が、山椒大夫から額に焼きごてを当てられるという罰を与えられています。
   そして、守り本尊の地蔵菩薩が身代わりになり、額にできた傷をその身に受けます。
   (残念ながら、釜ゆでについての具体的な話はみつかりませんでした) 
(2)前述のように、厨子王を逃がした安寿は、自決でなく殺されてしまった、
(3)正道になった厨子王は山椒大夫を挽き殺させます。、
(4)姉弟を虐げた三郎も殺されています。
鷗外「山椒大夫」ではそ残虐性が弱められています。
また、山椒大夫に奴婢を解放し給料を払うようにさせることになっているのに注目されます。
ただ働きをさせていた奴隷を「労働者」にして、その労働に見合った給料を支払う。最初、給料を支払う事をためらった山椒大夫でしたが、解放された奴隷たちが給料を目的により働くようになり結局自分の儲けも増えたので喜んだとあります。新しい時代の反映でしょうか。

東運寺の山門

方南町にある東運寺については、以前書きました。
東慶寺本堂
何年かぶりに、神田川・環状7号線地下調整池の見学をすることになり、神田川沿いにある、東運寺に寄ってみました。 
本堂屋根に大釜をのせ、釜寺と呼ばれる由来は、天正元年(1573)備前(岡山県)の僧一安上人が「安寿と厨子王」の守り本尊といわれる「身代り地蔵」をもって当地に寄り、大地主鈴木伊兵衛がこれに帰依して念仏堂を建立し、厨子王を釜ゆでから救ったという地蔵の伝説に因んで屋根に釜を置いたと伝わります。
入り口、東運寺の山門
東運寺の山門は、浅野内匠頭が切腹した芝田村町(現在の西新橋)にあった奥州一関城主田村右京大夫の屋敷の脇門だということです。
門の由来
内匠頭の遺体を運び出した不浄門でしたが、所縁の人によって昭和28年(1953)に当山に寄進されたといいます。
赤穂事件で、一関藩田村右京太夫が浅野内匠頭の御預りに選ばれたかですが、当時、田村右京太夫は奏者番(大名, 旗本が将軍に謁見するとき,姓名や進物を披露し,下賜物を伝達する取次ぎの役)で、たまたまその時、江戸城にいて、浅野内匠頭とは縁故がなかったため、御預りに選ばれたようです。
とんだところで、忠臣蔵ゆかりのものに出会います。
出口 東運寺の山門

武田神社は、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)

鳥居と赤い橋
武田神社は、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)と呼ばれた武田氏の居館跡です。
信玄公の父君信虎公が永正16年(1519年)に石和より移したのが始まりです。
その館跡の中心部に武田神社が造営されたのは大正8年(1919)のことです。
明治時代より代々の山梨県知事が何度も国に神社造営を申請してきましたが、大正天皇御即位の記念として武田信玄に従三位が贈られたことがきっかけとなって 、ようやくその願いがかなったのです。
看板 武田神社全図
武田神社全体の案内図です。武田神社の全景。中世の城郭として、敷地は広いほうだそうです。
現在参拝するのに、赤い橋が架けられていますが、古絵図にはありません。当時の大手門は東側に架かる橋でした。
この館には信虎・信玄・勝頼の三代が60年余りにわたって居住し、昭和13年(1938)には国の史跡として指定されました。
躑躅ケ崎館は、武田神社がある境内が本郭ですが、その外側にたくさんの遺構があり、甲府市は発掘調査し、公園化を進めています。
大手門跡
武田神社の宝物殿から更に右手に進んで「大手口」から出た辺りの大手門東史跡公園です。
まず、その大手門ですが、高さがある土塁に囲まれた通路となっており、戦国時代には武田神社へ入る際の橋はなく、この大手が入口となっていました。
石塁
石垣は『大手石塁』と呼ばれる石垣を復元したものです。
石塁の横にある武田氏館跡大手の 説明板。
大手門案内
発掘調査により、大手門の前に大手門守備用の「大手石塁」と、その下層から武田氏時代の三日月堀跡が出てきた、大手石塁は武田氏滅亡後の秀吉家臣によって築かれたものと想定される、三日月堀は武田氏特有の「丸馬出」の一部といったことが記されていました。
『厩跡』。柱の場所が丸い石で平面復元されています。
厩跡
厩跡案内
『惣堀・土塁跡』。躑躅ヶ崎館の東側を囲うように張り巡らせていた防塁跡の復元だそうです。
武田信玄使用の井戸
拝殿まで戻ると、傍に井戸があります。武田信玄が使っていたといわれる井戸と書かれています。武田水琴窟の前には、「姫の井戸」というのもありました。
姫の井戸
一説によると、信玄公の御息女誕生の際に産湯に使用したのでこの名が付いているとか。
また、茶を点てる時にこの井戸の水を使っていたとも伝えられているようです。
武田神社西側『お館様の散歩道』と呼ばれるあたり。ここにも土塁や石垣が残されています。
館跡の門の跡か
西曲輪は信玄長男により新造された居館があった場所のようですが、長男は、自害しています。その後の西曲輪の利用は不明とのことです。
躑躅ヶ崎館跡案内
今残る石垣は武田氏滅亡後に積み上げられたもので、枡形虎口自体は武田氏の土ベースの築城技術を代表する構造になっています。
堀側から
「南門」に関する説明によると、石垣のあるあたりに石垣より古い礎石が6つ見つかり、武田氏時代にここ南門には櫓構造の立派な門が建っていたのではと思われると記されていました。
堀
堀に水が満たされているのは西側と南側との一部のみですが、かつての外観が十分に偲ばれる光景となっています。
中世の城郭跡として、なかなか興味深い神社で、もっとじっくり見てみたい思いながら武田神社を後にしました。

甲斐 武田神社

武田神社本殿
山梨へ行き、武田信玄公ゆかりの武田神社へお参りしました。団体行動だったので、その場の雰囲気を味わうだけになり、帰ってから。もっとしっかり観ておけおけば良かったと思いました。
以下、拝観メモになります。
手水鉢の所に絵馬ではないのか、和算の額がありました。
算木が奉納
解る人には面白いのでしょう。
おもくじ
おみくじなのかな、大きいです。「男」「女」は何なのでしょう。
命名の札
こちらは命名とあります。
お七夜とという行事があります、。
赤ちゃんとその子につけた名前をお披露目し、家族や地域の人々、その土地の産神(うぶがみ)に報告する日とされている日本の風習です。「命名式」「名付けの祝い」とも呼ばれています。
現代のように医療が発達していなかった時代は赤ちゃんの生存率が低く、特に誕生直後の1週間を無事に過ごせることはとてもおめでたいこととされていたため、生後7日目の夜に行われるようになったといわれています。
こうして、命名の用紙が飾られているのを観るのは初めてでした。
武田水琴窟
武田水琴窟(すいきんくつ)がありました。
竹筒に耳を近づけると水滴の落ちる音が聞こえました
「江戸期、文化文政の時代に庭師によって考案されたこの技術」とか書かれていたので、信玄公の時代よりずっと後につくられたもののようです。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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