銭形平次の碑と『銭形平次捕物控』

野村胡堂(1882~1963)の『銭形平次捕物控』の主人公、平次親分が神田明神下台所町の長屋に恋女房お静と2人で住み明神界隈を舞台に活躍していたことから、昭和45年に日本作家クラブが発起人となり碑を建立しました。
明神下を見守る場所に建てられ、隣には子分・八五郎の小さな碑もあります。

野村胡堂 『銭形平次捕物控 赤い紐』の書き出しです。
■「神田祭は9月15日。14日の宵宮(よいみや)は、江戸半分煮えくり返るような騒ぎでした。
御城内に牛に牽かれた山車(だし)が練り込んで、将軍の上覧に供えたのは、少し後の事、銭形の平次が活躍した頃は、まだそれはありませんが、天下祭または御用祭と言って、江戸ッ児らしい贅(ぜい)を尽したことに何の変りもありません。
銭形の平次も、御多分に漏れぬ神田ッ子でした。一と風呂埃を流してサッと夕飯を掻込むと、それから祭の渦の中へ繰り出そうという矢先、――
「親分、た、大変」
鉄砲玉のように飛込んで来たのは、例のガラッ八の八五郎です。
「ああ驚いた。お前と付き合っていると、寿命の毒だよ。また按摩(あんま)が犬と喧嘩しているとか何とか言うんだろう」
そう言いながらも平次は、大して驚いた様子もなく、ニヤリニヤリとこの秘蔵の子分の顔を眺めやりました。」
ですます調の入った、それで江戸っ子のセルは意気で、リズムカルに胸に響く名文章です。

▼「錢高組」のHPに、『銭形平次』逸話が載っています。
「ご存知『銭形平次捕物帳』。野村胡堂氏の傑作小説であるが、これほど大衆に愛され、長く親しまれた小説は日本でも珍しい。
実はこの平次親分、一番最初に文芸春秋の月刊誌「オール読物」に登場した際の命名のヒントは当社の社名と社章だった。
胡堂は文芸春秋から「岡本綺堂の半七捕物帳のようなものを」と依頼され構想を練る時に大変悩んだ。半七と同じでは能がない。 「水滸伝」の中に登場する小石投げの名人のようなワザがほしい・・・・。 そうこうするうちに、平次という名が先に決まった。 姓とワザ・・・と思案なげ首のある日、ふと窓外のビル建設現場が目に入る。 『設計 施工 錢高組』の看板と社章の『錢』。 ポン、と膝をたた いて投げ銭がまず決定。 名前の方は、「錢高」では商標もあるしと、「錢安」「錢○」「錢○」・・・とあてはめていくがうまくいかない。 そこで「錢高」の「タカ」を逆にして「ゼニカタ」。 ついにこれに決まったという。以上は胡堂氏の随筆集からも明らかで、昭和6年誕生以来27年間で383編におよぶという膨大なもの。 ところで昭和6年というのは当社が株式会社として発足した、まさにその年。因縁浅からぬものを感じる。
また当社は、平成7年6月に胡堂氏の出身地である岩手県紫波町に音楽評論家『野村あらえびす』としても著名な胡堂氏の業績を同町が顕彰しようと建設した『野村胡堂・あらえびす記念館』の施工を担当している。」
いきさつが詳しく書かれているので、全文引用しました。
『銭形平次捕物帳』は27年間で383編にもおよんでいます。こななに長いと、もう、心の中に生きてきます。実在の神撫になります。
▼平次の住んでいたところは『神田明神下御台所町』とされていて、現在の外神田2丁目付近、神田明神より秋葉原方面に少し下ったところ、JR中央線御茶ノ水駅から神田川・聖橋と湯島聖堂から北北西へ400mくらいのところにあたるようです。鰻の『神田川』の近所と設定されていています。
ガラッ八こと八五郎の住まいは向柳原で、浅草橋駅の近くで、平次の家との距離は、徒歩で20分程度というところです。
平次の家は、6畳2た間に入口が2畳、それにお勝手という狭い家だが、ピカピカに磨かれています。
▼平次の歳は、何時いつまで経っても31、お静は、23です。
平次の女房のお静は、両国の水茶屋の茶汲女をしたこともあります。その両国の水茶屋時分、平次と親しくいい交わすようになって、二人は結ばれます。そして、永遠に歳をとりません。
▼映画は、大映で、長谷川一夫が演じ、テレビドラマでは、大川橋蔵(上の写真)が当たり役でした.。

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