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銭形平次の碑と『銭形平次捕物控』

銭形平次の碑
野村胡堂(1882~1963)の『銭形平次捕物控』の主人公、平次親分が神田明神下台所町の長屋に恋女房お静と2人で住み明神界隈を舞台に活躍していたことから、昭和45年に日本作家クラブが発起人となり碑を建立しました。
明神下を見守る場所に建てられ、隣には子分・八五郎の小さな碑もあります。
銭形平治の銭の碑 八五郎の碑
野村胡堂 『銭形平次捕物控 赤い紐』の書き出しです。
■「神田祭は9月15日。14日の宵宮(よいみや)は、江戸半分煮えくり返るような騒ぎでした。
御城内に牛に牽かれた山車(だし)が練り込んで、将軍の上覧に供えたのは、少し後の事、銭形の平次が活躍した頃は、まだそれはありませんが、天下祭または御用祭と言って、江戸ッ児らしい贅(ぜい)を尽したことに何の変りもありません。
銭形の平次も、御多分に漏れぬ神田ッ子でした。一と風呂埃を流してサッと夕飯を掻込むと、それから祭の渦の中へ繰り出そうという矢先、――
「親分、た、大変」
鉄砲玉のように飛込んで来たのは、例のガラッ八の八五郎です。
「ああ驚いた。お前と付き合っていると、寿命の毒だよ。また按摩(あんま)が犬と喧嘩しているとか何とか言うんだろう」
そう言いながらも平次は、大して驚いた様子もなく、ニヤリニヤリとこの秘蔵の子分の顔を眺めやりました。」
ですます調の入った、それで江戸っ子のセルは意気で、リズムカルに胸に響く名文章です。
大川橋蔵
▼「錢高組」のHPに、『銭形平次』逸話が載っています。
「ご存知『銭形平次捕物帳』。野村胡堂氏の傑作小説であるが、これほど大衆に愛され、長く親しまれた小説は日本でも珍しい。
実はこの平次親分、一番最初に文芸春秋の月刊誌「オール読物」に登場した際の命名のヒントは当社の社名と社章だった。
胡堂は文芸春秋から「岡本綺堂の半七捕物帳のようなものを」と依頼され構想を練る時に大変悩んだ。半七と同じでは能がない。 「水滸伝」の中に登場する小石投げの名人のようなワザがほしい・・・・。 そうこうするうちに、平次という名が先に決まった。 姓とワザ・・・と思案なげ首のある日、ふと窓外のビル建設現場が目に入る。 『設計 施工 錢高組』の看板と社章の『錢』。 ポン、と膝をたた いて投げ銭がまず決定。 名前の方は、「錢高」では商標もあるしと、「錢安」「錢○」「錢○」・・・とあてはめていくがうまくいかない。 そこで「錢高」の「タカ」を逆にして「ゼニカタ」。 ついにこれに決まったという。以上は胡堂氏の随筆集からも明らかで、昭和6年誕生以来27年間で383編におよぶという膨大なもの。 ところで昭和6年というのは当社が株式会社として発足した、まさにその年。因縁浅からぬものを感じる。
また当社は、平成7年6月に胡堂氏の出身地である岩手県紫波町に音楽評論家『野村あらえびす』としても著名な胡堂氏の業績を同町が顕彰しようと建設した『野村胡堂・あらえびす記念館』の施工を担当している。」
いきさつが詳しく書かれているので、全文引用しました。
『銭形平次捕物帳』は27年間で383編にもおよんでいます。こななに長いと、もう、心の中に生きてきます。実在の神撫になります。
▼平次の住んでいたところは『神田明神下御台所町』とされていて、現在の外神田2丁目付近、神田明神より秋葉原方面に少し下ったところ、JR中央線御茶ノ水駅から神田川・聖橋と湯島聖堂から北北西へ400mくらいのところにあたるようです。鰻の『神田川』の近所と設定されていています。
ガラッ八こと八五郎の住まいは向柳原で、浅草橋駅の近くで、平次の家との距離は、徒歩で20分程度というところです。
平次の家は、6畳2た間に入口が2畳、それにお勝手という狭い家だが、ピカピカに磨かれています。
▼平次の歳は、何時いつまで経っても31、お静は、23です。
平次の女房のお静は、両国の水茶屋の茶汲女をしたこともあります。その両国の水茶屋時分、平次と親しくいい交わすようになって、二人は結ばれます。そして、永遠に歳をとりません。
▼映画は、大映で、長谷川一夫が演じ、テレビドラマでは、大川橋蔵(上の写真)が当たり役でした.。
映画 銭形平次
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「大久保彦左衛門居住跡」で

大久保彦左衛門の屋敷跡の碑
御茶の水駅の近く杏雲堂病院の所に「大久保彦左衛門屋敷跡」というりっぱな石碑があります。
昔、学生のころ、よくこの通りを歩いたのですが、そのときは、細長い1本の杭に「大久保彦左衛門屋敷跡」とありました。
そのころも、大久保彦左衛門の名前はよく知っていました。東映の映画で見ました。物語は覚えていませんが、「天下のご意見番」として、月形龍之介が大久保彦左衛門、そして、コンビで出ていたのが、中村錦之助が演じた魚屋の一心太助でした。
馴染み深かったです。ですから、「大久保彦左衛門多識跡」の木の碑を見ると心が躍ったものです。
大久保彦左衛門について、史実的に言えば次のようになります。
「江戸前期の旗本。大久保忠員の子で、名は忠教。三河国生まれ。徳川譜代として、一族とともに幼少から家康に仕えました。天正4年(1576)の遠江国乾の戦が初陣でしたが、その後、戦のたびに戦功をあげたと言われます。
家康から家光までの3代の将軍に仕えた石高2000石の旗本でした。
晩年になって、『三河物語』3巻を書き残しました。これによって、彦左衛門の名は後世に伝えられることとなりました。
『三河物語』は、三河武士の棟梁(とうりょう)たる徳川氏の来歴と、家康の一代記を描いた「徳川創業史」とも呼べる書物です。
もちろん、そこへ至るには大久保一族ら譜代の臣の身を捨てての貢献があったというのが、彦左衛門の主張でした。80歳の天寿を全うしました。」
80年の一生の、そのちょうど真中に関ヶ原の戦いがあり、その後半生は、江戸太平の世の中だったのです。天下泰平の世になると武勇一筋の家臣は冷遇され、処世術に長けた人間が優遇されるようになる、その反発心が、「天下のご意見番」に現れているのでしょう。
天下のご意見番
将軍・家光にことあるごとに諫言したなどの逸話は後世の講談や講釈の中での創作です。
大久保彦左衛門と一心太助の物語はひと昔前は、時代劇の華でした。
現在では「天下のご意見番」として水戸黄門はまだ記憶にあるでしょうが、大久保彦左衛門は消えてきているように思います。
そういえば、「天下のご意見番」として、テーマ的には水戸黄門よく似ています。だいたい、映画でも彦左衛門を演じた月形龍之介の一番の持ち役は、「黄門さま」です。テレビの黄門様で有名な東野英二郎も、大久保彦左衛門を演じています。世間も、黄門さまでイイやになっていって行ったのですか、彦左衛門の影は薄れていったのかもしれません。
だいたい、映画も、彦左より魚屋の一心太助のほうが活きがいいということで、人気が上昇。しだいに中村錦之助の一心太助が主役で彦左はわきに廻ってしまします。
一心太助は、旗本大久保彦左衛門のもとで活躍したと伝えられる漁商で、腕に「一心如鏡、一心白道」の入れ墨があって、名前はそこから来ています。
大久保彦左衛門と歌舞伎や講談でも人気を博しました。ただ、江戸の初め、大名に出入りできる魚屋はいませんでしたし、架空の人物と思われますが、実在したとの説もあり、大久保彦左衛門の墓がある立行寺には、彦左衛門の墓の脇に、小振りな太助の墓があります。
それにしても、とてもりっぱになった「大久保彦左衛門居住跡」の碑。その大久保彦左衛門の名前に、感動を覚える人は、いなくなってしまうだろうな、と思ってしまいます。

アガバンサス

乃木神社から、ミッドタウンの方へ歩いていくと、檜町公園があり、アガパンサスの花がいっぱい咲いていました。こんなたくさんのアガパンサスを見たのは初めてです。
白と紫のアガパンサス
ミッドタウン・ガーデンの日本庭園については、またきちんと書きたいと思っているので、今回は檜町公園のアガパンサスの写真を載せます。
少しアップのアガパンサス
花の形は先端の大きく開いたラッパ型で横向きに咲くものが多いですが、下向きや上向きに花が開いているものもあります。草丈は30cmくらいのコンパクトなものから1mを越す大型種まであります。1本の花茎から20~30輪の花を咲かせています。
色は紫、青紫、白などがあります。紫や青紫色は品種によって濃淡の違いがあり、それなりに色彩のバラエティーはあります。
大株では花茎を何本も伸ばし、派手さと違った、賑やかな雰囲気です。
いっぱいのアガパンサス
アガパンサスはギリシア語のアガベ(愛)とアンサス(花)の2語からなり、「愛の花」という意味だそうです。
日本には明治時代に入ってきたようです。
少し行くと、檜町公園の名前のゆかりの檜がありました。
檜もあった

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ

ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、敬虔なクリスチャンで、YMCAの活動を通じて、キリスト教の伝道師になりました。ちなみに、伝道師は他に仕事を持ちながら布教活動をする人です。
24歳になったヴォーリズは、その伝道師として、明治38(1905)年に、滋賀県立八幡商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)の英語科教師として来日しました。
近江八幡に落ち着いて6日目には、早々と下宿で、聖書を教える教室を開いています。
ヴォーリズは、生徒から慕われ、教師の場は、八幡商高以外にも、広がりました。
ところが、仏教徒の多い近江八幡で、保守的な人たち反発をうけます。そして、わずか2年で教師の職を解かれてしまいます。
しかし彼の人格や活動に共感する声があがり、解雇に異を唱える記事も、新聞に取り上げられました。
もともとヴォーリズは、米国で建築家を志していました。しかし宗教活動に従事することを選択した彼は、建築家の夢を捨て、キリスト教の伝道しとなる道を選んでいました。仕事がなければ、生活できません。それに、なんとかして日本に残りたいと考えました。
ヴォーリスは、解雇された翌年(1908)、京都で建築設計監督事務所(後のヴォーリズ建築事務所)を開業します。
彼は、日本各地で西洋建築の設計を数多く手懸けました。
関西学院大学、同志社大学、神戸女学院、神戸ユニオン教会、大丸心斎橋店等々、1600もの建築物を設計したと言われます。
ヴォーリズは人との出会いにも恵まれていた人でしたが、なかでも38歳のとき結婚した一柳満喜子は華族出身で、アメリカに9年間も留学していました。満喜子はキリスト教信仰にも理解があり、ヴォーリズにとってこれ以上ない
良縁でした。
そして、ヴォーリズと満喜子の結婚を強く後押ししたのが、(朝ドラのモデルにもなった)広岡浅子でした、
しかし、広岡浅子は、大正8年(1919)1月14日にこの世を去ります。
ヴォーリズと満喜子
ヴォーリズと満喜子は、その大正8年の6月、ヴォーリズが設計した明治学院のチャペルで盛大な結婚式を挙げます。結婚披露宴は、東京・麻布の広岡家別邸でしたが、これもまた、ヴォーリズが設計したものでした。
一柳子爵家の3女として生まれた満喜子は、大同生命第2代社長・広岡恵三の妹にあたります。満喜子は19歳から大阪の広岡家で、恵三と亀子との間に生まれた娘たちの世話をしながら、浅子とも家族同然に暮らしていました。
さて、建築だけでなく、いろいろな事業を手がけていましたが、特に健康面に関心を持っていて、メンソレータムの販売権を取得します。
メンソレータムは、もともとは米国のメンソレータム社 (The Mentholatum Company, Inc.) が19世紀に開発した製品で、米国メンソレータムの開発者ハイド氏から、日本でのメンソレータム販売権を、大正9年(1920)に、ヴォーリズの作った「近江兄弟社」が取得して、国内で製造・販売をはじめたのです。
近江兄弟社という社名は、設立した場所が滋賀県近江八幡市で、これに「人類は皆兄弟」の「兄弟」を合わせることで、つけたでした。
メンソレータムは、あっというまに大ヒット商品に成長します。
ヴォーリズは、こうして事業で得た利益を、キリスト教の伝道や医療、教育、福祉のためにあてました。
そんなヴォーリズの姿勢に、内村鑑三は、次のように記しています。
「ヴォーリズ君は、世にまれに見る建築術の天才であり、また深く正しく日本を解し、これを愛する米国人の一人であります。」
母国の米国と日本が戦争に突入した昭和16年(1941)年、ヴォーリズは日本に帰化します。日本名は「一柳米来留ひとつやなぎめれる」。「米国から来て留まる」、これはヴォーリズの決意でした。
戦後の話ですが、近衛文麿は、ヴォーリズと接触し、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーに、天皇には戦争責任がないこと、天皇は自分が神と考えていないことなどを伝える役を託したと伝わります。
昭和39年(1964)、ヴォーリズは83歳で亡くなります。
彼は、人生のほとんどすべてを日本のためにささげました。そして、生涯愛し続けた近江八幡市で、永眠しました。墓も近江八幡にあります。

現在の山の上ホテルは昭和11年(1936)に、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計により「佐藤新興生活館」として作られたものです。
元主婦の友の建物
駿河台には、もう一つ、ウィリアム・メレル・ヴォーリズゆかりの建物があります。
明治大学の前の建物、現在、日本大学の工学部と法学部の教室になっている建物の一部が、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計です。
この建物、元は、大正14年(1925)竣工の「主婦の友社」の社屋でした。
昭和62年(1987)、ヴォーリズ設計による「主婦の友社」は解体されますが、建築家磯崎新氏のデザインによりその外部が復元され、そうした歴史的建築物の保存しながら高層棟をたちあげました。
日本大学が買い取って、これからの、方針はわかりません。
魚見兄弟社看板
もう一つ、御茶の水駅に向かうと。「近江兄弟社」「「メンターム」」のビルがあります。
創業者ヴォーリズの亡きあと、「近江兄弟社」の事業の中心だった「メンソレータム」が、原材料費の高騰に加えて競合品との市場競争が熾烈を極めます。
また不動産部門の採算悪化と昭和48年(1973)の第一次オイルショックの影響もあって経営が苦しくなり、メンソレータムの販売権を失うこととなります。
メンソレータムの販売権はロート製薬が取得、さらに1988年にはメンソレータム社本体もロート製薬に買収されてしまします。
しかし、「近江兄弟社」昭和50年(1975)9月12日より、新たに主力商品として「メンターム」の製造を始め、自主再建の足がかりをつかみます。
近江兄弟社の案内板
この「メンターム」を自社主力ブランドとして育て、その他にもメンタームの効能効果を派生させたリップクリームやスキンケアクリームのほか、日焼け止めや虫よけ・かゆみ止めを製造販売する医薬品メーカーとして活動を続けています。

山の上ホテル

外観全景 山の上ホテル
元々は、昭和11年(1936)、佐藤新興生活館が戦前に建てたものです。
明治大学OBで、若松(現在の北九州市)の石炭商だった佐藤慶太郎の寄付を基にアメリカ出身の建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計により「佐藤新興生活館」として完成しました。
当初は財団法人日本生活協会の管理下に置かれ、第2次世界大戦中には海軍に徴用され、日本の敗戦後には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収されて陸軍婦人部隊の宿舎として用いられていました。
ホテルとしての開業は昭和29年(1954)1月20日で、GHQの接収解除を機に、実業家・吉田俊男(1913-1992)が佐藤家から建物を借り入れる形で創業しました。
ホテル名は、GHQ接収時代にアメリカの女性兵士・軍属の間で建物の愛称になっていた「Hilltop」(ヒルトップ)が起源で、これを吉田が「丘の上」でなく敢えて「山の上」と意訳したことによります。
吉田は長く旭硝子の営業部門につとめていた人で、この前年に独立して個人事務所を設立、知人から旧・佐藤新興生活館の接収解除を伝えられたことを機にホテル業に参入した。
吉田は、ホテル経営の素人であることを逆手に取った懇切な接客体制に務めるなど、その後半生を費やしてこのホテル独特のアットホームなサービス文化を築きました。小規模ながら、瀟洒なしつらえと行き届いたサービスによって知られ、レストラン・バーなどの付属供食部門が充実していることでも評価を受けています。
また、山の上ホテルは、川端康成、三島由紀夫、池波正太郎、山口瞳をはじめ、数多くの作家に愛され、定宿として利用されたことでも知られています。
それは、出版社の多い神田・神保町が近い立地ということも大きい。当時はインターネットやメールはもちろん、ファックスもなかった時代。締め切り前になると、原稿を待つ出版社の人々がロビーにあふれかえったとい言われます。
もちろん、あか抜けしたしつらえと行き届いたサービスも愛される秘密だ。現代でも著名な作家に利用されているといわれます。
三島由紀夫は昭和30年(1955)当時、「東京の真中にかういふ静かな宿があるとは思はなかつた。設備も清潔を極め、サービスもまだ少し素人つぽい処が実にいい。ねがはくは、ここが有名になりすぎたり、はやりすぎたりしませんやうに」と使い心地の感想を語っています
山口瞳は『男性自身』に、次のように書いています。
「ホテルでは山の上ホテルが一番だ。一番というのは一番上等だという意味ではない。一番好きだと言ったほうがいいかもしれない。その『好き』の内容は、『気持が安らぐ』もしくは『自分の家に帰ってきたようだ』ということになろうか。」

明大通り付近の坂

▼甲賀坂(こうがざか)
高ヶ坂 碑
「東京名所図会」には「南北甲賀町の間に坂あり、甲賀坂という。甲賀の名称の起源とするところは往昔、甲賀組の者多く居住せし故とも、又光感寺の旧地をも記されるが云々」とかかれています。どちらにしてもこのたり甲賀町と呼ばれていたことから名がつけられました。甲賀町の名は、昭和8年(1933)から駿河台一丁目、三丁目となりました。
この坂道のある通りを「甲賀通り」といいます。坂を上りさらに明大通りを越えたところに吉郎坂があります。
甲賀通り碑
▼甲賀町
現在の駿河台三丁目と四丁目にあたるこの地域は、明治時代は3つの町で、駿河台北甲賀町、駿河台南甲賀町、駿河台東紅梅町と名付けられていました。
甲賀という町名は、忍者で有名な甲賀者が多く住んだからとも、また甲賀者が勤める火消役屋敷があったからともいいます。
紅梅町は、紅梅の大樹があった紅梅坂の名称とともに誕生した町名といわれています。
▼文坂
明治通り(文坂)
明治大学前の明大通りを南から北へ緩やかに上る坂道です。
神田三省堂前の駿河台下交差点(靖国通りと明大通りが交差)から来ています、
坂名の由来等は不明のようです。
▼吉郎坂(きちろうざか)
吉郎坂 石碑
坂上に山の上ホテルが見えます。坂名は、明治大学総長を務めた商学博士 佐々木吉郎氏にちなんでつけられた。「胸突坂」という別名もあります。

YWCAビルの一帯は、小栗上野介 の屋敷跡 

小栗上野介の屋敷があった。
YWCAビルの一帯は、江戸末期に活躍した旗本小栗上野介の屋敷でした。
小栗上野介は、安政6年(1859)目付となり翌、万延元年(1860)日米修好通商条約批准書交換のため新見正興、村垣範正に従って渡米しています。
帰国後、外国奉行など要職につき、また幕府の財政たて直しや薩長打倒を策し戊辰戦争徹底抗戦を唱え、下野、のち新政府に捕らえられ生涯を閉じました。
YWCA

▼小栗上野介については、最近テレビなどで、見直しがされていますが、殆ど知りません。
『小栗上野介-忘れられた悲劇の幕臣』 (平凡社新書) の 村上 泰賢氏の解説からのその大筋を引用させてもらいます。
駿河台 小栗切り絵図

ペリーが安政元年(1853)に日本にやってきて開国を要求し、幕府が開国に踏み切りました。その7年後、安政7年(1860)に遣米使節(目付)として小栗上野介は34歳でアメリカへ渡ります。
3人の使節に大勢のお供が付いて全部で77人が出かけます。
アメリカの軍艦が迎えに来てくれてこの船で太平洋を渡り、汽車で大西洋側へ出て、待っていた軍艦でワシントンへ行きます。
ワシントンで公式な用事がすむと今度は汽車で移動し、ニューヨークから軍艦で大西洋を渡り世界一周するかたちで、帰国しました。(世界一周といってもヨーロッパには行っていません)。
小栗上野介の像
こうして日本に帰国した後、小栗上野介はその見聞を活かして日本の近代化に取り組みます。
殺されるまでわずか8年間の業績を村上泰賢氏の解説から引用します。
1、横須賀造船所建設(フランスの技術指導)
2、洋式陸軍制度の採用、訓練(フランス人教官の指導)
3、フランス語学校設立(横浜)
4、鉄鉱山の開発 中小坂鉄山(下仁田町)など
5、日本最初の株式会社組織を設立「兵庫商社」「船会社」「築地ホテル」
6、滝野川大砲製造所開設
7、ガス灯・郵便・電信制度設置、鉄道の開設、新聞発行の提唱
8、中央銀行・商工会議所設立、金札発行など金融経済の立て直し提唱
9、郡県制度の提唱
10、森林保護の提唱    
フランスが多いですが、それには、いろいろ事情があります。アメリカは間もなく南北戦争に入って国を二分する戦争状態でした。イギリスはインド、中国で手を汚して日本へ来ていますから危なくてとても頼めない。
古い付き合いのオランダは国力が落ちて、手伝ってくれるゆとりがない。
ロシアは個人的には人柄は朴訥(ぼくとつ)だが、欲しいとなるといきなり熊のように爪を出してくる。
そこへ行くとフランスは紳士的なところもあって、消去法で残ったフランスがいくらかマシ、というのが小栗上野介の評価でした。

慶喜の江戸城帰還後に行なわれた慶応4年(1868年)1月12日の評定で、小栗は徹底抗戦を主張しました。「このまま、旧幕府側が賊徒とされ、260年間の治世も否定されたあげく、黙って新政府軍に討たれるなど、全く筋目の通らぬ話。武士の心も踏みにじる汚い者たちに、近代国家の何たるかなどわかるまい。無理は押して通せぬことを、我らが知らしむべきであろう」。
しかし、前将軍慶喜は首を縦に振ることはなく、そそくさと評定の場を立ち去ろうとします。小栗は慶喜の袴のすそをつかみ、「上様、お待ちくだされ。ご決断を」と訴えると、「無礼者」と慶喜は小栗の手を払い、奥へ消えました。ほどなく小栗は御役御免となります。
免職となった上野介は、彰義隊や会津藩への協力を誘われますが、領地の上野国権田村に退いてしまいます。
生まれ育った江戸を離れ、小栗とその家族・家臣が権田村(現在の倉渕村)の東善寺に入ったのは3月1日のことでした。
小栗は村の若者たちを教育して、新時代に役立てたいと考えていました。
しかし、小栗が所有する莫大な財産を奪おうと、博徒らがたきつけて近在の村の者を集め、その数が1000人近くに達しました。
もちろん小栗にめぼしい財産などなく、おそらく小栗の権田村退去を軍事作戦の一環と疑った新政府軍の何者かが、背後にいた可能性が高いと見られています。
それだけ、新政府軍にとって小栗は、怖ろしい存在でした。しかし、小栗らは家臣全員で僅か20人。そこへ暴徒と化した1000人が、襲いかかってきたのです。
小栗は村の若者たちの応援を得たうえで、フランス式調練を受けさせていた家臣らに鉄砲で先制攻撃をさせます。正確な射撃で暴徒らが次々と撃たれると、彼らはクモの子を散らすように逃げ去りました。窮地を免れた小栗らでしたが、これが新政府軍の口実となります。
その後、小栗らは自分たちが暮らす屋敷を建て始め、年老いた母や身重の妻らも、少しずつ山村の生活に慣れていきました。しかし屋敷の建て前も間近という閏4月1日、突如、高崎、安中、吉井三藩の使者が小栗を訪れ、新政府軍の回文を見せます。
そこには東山道総督府の名で、三藩の藩主に、小栗が陣屋や砲台を築いて容易ならぬ企てを抱いているので、その追捕、手に余る場合は討ち取るべしという命令が記されていました。小栗は使者に身の潔白を訴えます。
しかし、小栗は東善寺を囲んだ東山道総督府指揮の三藩の兵に有無をいわさず捕縛されました
そして翌6日朝、小栗は家臣3名と共に取調べもないまま水沼の烏川河原に引き出され、「小栗上野介 右の者朝廷に対してたてまつり大逆企て候明白につき 天誅をこうむらしめしものなり」という無実の罪を着せられて、斬首されたのです。享年42。

大隈重信は小栗について「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と語っています。大隈は時流を先読みして行動する小栗の姿勢について感化を受けていたといえます。
▼明治38年(1905)の日本海海戦で勝利した連合艦隊司令長官東郷平八郎は、自宅に小栗の子孫を招き、「日本海軍が勝利できたのは、小栗さんが横須賀造船所を建設してくれていたおかげ」と言って、感謝したといいます。小栗へのせめてものはなむけかもしれません

三井住友海上火災保険株式会社の駿河台ビル

前庭と 奥に見えるが屋上庭園
元中央大学の敷地に誕生したのがMS&ADインシュアランス グループの三井住友海上火災保険株式会社の駿河台ビルです。
三井住友海上火災保険株式会社の駿河台での「エコロジカル・ネットワーク」「ECOM駿河台」の取り組みについて、そのHPなどから、まとめてみます。
前庭
駿河台ビルは、昭和59年(1984)、旧大正海上の本社ビルとして竣工。地元からの「まちに緑を増やしてほしい」との声を受け、既存樹の活用や屋上庭園の築造などを行い、当時としては画期的な、緑化率4割を超えるビルが誕生しました。
平成24年(2012)の駿河台新館竣工に当たっては、駿河台ビルの理念や歴史を引き継ぎ、さらに都市における生物多様性の問題に積極的に取り組んでいくため、“「いきもの」と「まち」と共生する緑地”をコンセプトに、在来種、実がなり蜜の出る木などを取り入れた緑地を新たに増設しました。
また、地域に開かれた緑地とするべく、駿河台ビル屋上庭園への直通エレベーター、地域との環境コミュニケーションスペース「ECOM駿河台」などが新たにつくられました。
平成24年(2012のリニューアル、新築のポイントがあげられています。
(1)自然を楽しみ、自然に親しむ
開花時期の異なるさまざまな種類の桜など、多彩な植物が植えられており、四季折々の花々を楽しむことができます。遊歩道をバリアフリー化し、どなたでも散策しやすくなりました。
(2)生態系ネットワークの形成
エコロジカルネットワーク 図解
植栽には、在来種を中心に鳥や蝶が好む樹種を採用しました。神田駿河台地区における緑の拠点として、皇居と上野公園をつなぐエコロジカル・ネットワークの形成を目指します。
(3)地域とのコミュニケーション
一般開放する駿河台ビルの屋上庭園と、昨春オープンした環境コミュニケーションスペース「ECOM駿河台」を核として、地域住民の皆さまとの交流を深めていきます。
街路樹との一帯

建設の概要を記します。
太陽光発電、水の再利用、自動調光・点滅制御、DHC(地域冷暖房)施設、ダブルスキン外装システム・自然換気システムなどの環境技術を取り入れた。 2棟のビル敷地の40%強を緑化している
竣工年:2012年
高さ:23階
延べ床面積:65,475㎡
建築主:三井住友海上火災保険
設計:日建設計
施工:鹿島建設
所在地:東京都千代田区神田駿河台3-11-1

「緑の拠点」として、皇居と上野公園をつなぎ、野鳥等の生息域を広げる「エコロジカル・ネットワーク」の形成。をめざしてといいうことですが、子子に記した「ワテラス」「ソラシティ」「祖田尾堀(神田川)」「湯島聖堂」「神田明神」と緑がみごとに繫がっています。まさに「エコロジカル・ネットワーク」の具体的な見本です。
レインガーデン モデル
新館の緑地には、緑化庇やレインガーデンを設置。
鳥や蝶が好む樹種を選定し、ヤマガラ等の野鳥が見られるようになりました。
昨年秋にリニュアルオープンした駿河台ビルの屋上庭園。落葉広葉樹の自生種を配置したゾーンを設け、鳥類や昆虫類等の多様な生物を呼びこむ計画です
「ECOM駿河台」 看板
「ECOM駿河台」の名称は、コンセプトである環境(ECO)+コミュニケーション(COMMUNICATION)を表現しているそうです。
ECOMの「O」に環境をイメージできる葉っぱをつけることでテレビのアンテナのようなイメージを表現しています。人とコミュニケーションをとりながら情報をキャッチする施設でもあることを意味しています。
「ECOM駿河台」
1階は美味しくてカジュアルな洋食とこだわりのビールやワインが楽しめるダイニングレストラン、2階は、展示や講座、ワークショップが開催できるスペースになっています。
資料展示もあり、三井住友海上火災保険株式会社の社員のひとがいて、いろいろ説明をしてくださいました。
3階屋上庭園へ行ってみました。エレベータで上がって、「ECOM駿河台」の方を見てみました。
屋上庭園から前の「ECOM駿河台」を見る
屋上庭園は、1984年の竣工当初に築造されました。2001年には地域の生態系に配慮した緑地管理を目指し、繁茂した常緑樹の緑量を一部減らすなど改修を行い、その結果、鳥や昆虫などいきものが多く見られるようになりました。
下はニュートンの生家にあったリンゴの木の枝を移植したニュートンのリンゴ木です。
ニュートンのリンゴの木
屋上庭園は、平均約1メートルの厚さの土壌を入れています。この土壌を支えるために建物側は、平均耐荷重2,000kg/㎡に設計されています。したがって、多くの高木の生育が可能となり、木々が繁茂しています。現在は約220本が生育しており、十分な土壌の厚さがあるため、雨水だけで育っています。また、区が撮影した熱画像システムによる地表面温度分布調査では、当ビル緑地が幹線道路や周辺ビルの屋上より表面温度が約20℃以上低くなっていることが明らかになりました。このように、近年の首都圏のヒートアイランド現象の緩和、にも一役かっています。
下の庭の大きな彫刻{朱龍」が見えます。周りはみごとな緑の屋上庭園です。
屋上庭園

受賞歴
平成23年(2011)に、都心のビル緑地として初めて「社会・環境貢献緑地評価システム」(以下、SEGES)の最高ランクである『Superlative Stage』(スパラティブステージ)の認定を取得しました。
地域との交流

生物多様性とは、
①一種類の生きもののなかで遺伝子が多様にあること
②生きものの種類が多いこと
③そうした生きものが支えあって生息する安定した生態系が、熱帯林、干潟、サバンナなどバラエティーに富んでいることを指します。
多様であることは、一見無駄で非効率に見えますが、想定外の環境変化が起きたとき、生きものや遺伝子が多様であればあるほど、そのうちのいずれかが生き延びる可能性が高くなります。
生物多様性とは、私たちにさまざまな自然の恵みをもたらすと同時に、私たちの未来をリスクから守る大いなる戦略なのです。

池田坂/中央大学駿河台記念館/「護法の像」/

池田坂(いけだざか) 別名:  唐犬坂、仲坂
【標 識】
池田坂の碑
説 明: この坂を池田坂といいます。「東京名所図会」には「池田坂は北甲賀町の中央にあり。駿河台より小川町に通ずる坂路なり。その昔、坂の際に池田氏の邸宅ありしより以って名とす。一名唐犬坂というこそ」。「新編江戸志」には「唐犬坂とありて、むかし池田市之丞屋敷に唐犬ありし故坂名とす」とかかれています。元禄(一六八八~一七〇三)の図には「池田市之丞」、文化(一八〇四~一八一七)の図には「池田吉十郎」という旗本の名がみえます 
設置者: 千代田区  設置日: 昭和五十年三月

駿河台一丁目と同三丁目の境界を南から北上する坂道です。西側は日大の病院です。坂上で雁木坂、坂下で甲賀坂と交わっています。
標識は、千代田区設置の標識が坂の中ほどに設置されていました。

池田坂の脇に、中央大学駿河台記念館がります。
記念簡天井
中に入るとドームになっています。ここも説明板を写します。
「駿河台記念館は中央大学の創立百周年を記念し、教育・研究の場として、また学生・卒業生(学員)・教職員間の交流並びに一般市民の学習等にも利用できるよう、多目的な施設として設置されました。
この記念館は、地下2階、地上7階建で360名を収容する会議室から、10名程度の少人数にも適した小会議室まで、22の教室・会議室があります。
さらに当館内には、レストラン「プリオール」、喫茶室「ポンヌフ」があり、懇親会・パーティ等の憩いの場として利用されています。
また、教室・会議室における飲食ケータリングについては、業者を指定しておりますので事前にご相談ください。
中央大学駿河台記念館の中にありますが、一般の人も利用できます。ダイイチホテルが運営しています」

司馬遼太郎が「街道をゆく⑯」で『神田界隈』に、この中央大学駿河台記念館の喫茶店に寄っていることを書いています。喫茶店で考えていたのは、長谷川如是閑のことですが、ここを利用するのは日本大学の学生が多いらしいということなども書いています。当時まだ新しかったと思います。
(今度ゆっくり、喫茶店でコーヒーを飲みたいと考えています)。

中に彫刻あります。
「護法の像」
山下恒雄の「護法の像」です。
中央大学創立百周年記念に作られました。(山下恒雄の彫刻は千代田区でよくみかけます。)
護法とは人間生活によって守ること、いわゆるすべて人間は社会において集団の一員として法に従って生きていかなければならないことを意味しています。この彫刻はそんな人間の姿を蟻に見たて、素銅のもっているやわらかさと張りのある可塑性を取り上げ造型したモニュメントです。
作者山下恒雄の言葉: 「蟻の世界はあたかも法を守り整然と行動をしている様に感じられます。大いにそのことに感動した少年時代を思い出し、制作のイメージとした作品です。」
(中央大学駿河台記念館 入口ドーム横設置 平成元年四月十四日除幕式)

少し先に行ってですが、三井住友海上駿河台ビルの一郭に「中央大学駿河台校舎跡之碑」があります。
中央大学の設立について詳しいので引用しておきます。
「中央大学の創立者は増島六一郎ら新進の法曹を中心とした18人の思想家達であった。これら先覚は穏健な民主主義を基盤に実務と実証を重んじるイギリス法の理解と普及こそがわが国の近代化に不可欠であるとして明治18年(1885)9月10日東京市神田区神田錦町の地に英吉利法律学校を開校した。その後校名は東京法学院 東京法学院大学と改められ明治38年(1905)8月中央大学と改称し今日に至っている。この校名の由来は学術の中枢たるべきを期したものであり同時に所在地の神田が東京の中央 日本の中央であるとの意を含むものであった。その後大正12年(1923)の関東大震災により錦町校舎が消失したのを契機として大正15年(1926)8月31日ここ神田区駿河台南甲賀町に移った。
爾来54年間の長きに亘ってこの地において着実な発展を遂げてきた本学は昭和55年(1980)3月八王子市東中野の校地に研究教育の近代的な殿堂を整えて移転を完了しあらたな飛躍に向けての努力を続けている。中央大学創立100周年にあたりこの地に繰り広げられた本学の歴史を偲び記念の碑を建てる。
                 昭和60年(1985)7月8日 中央大学 」

ニコライ堂

ニコライ堂 塔の先まで
ニコライ堂は、正式には東京復活大聖堂と言い、日本ハリストス正教会の聖堂です。
ギリシャカトリックの大主教カサーツキン・ニコライが明治24年(1891)に建立したもので,以来,ニコライ堂の名で呼ばれてきました。
建物はロシアの美術家シチュルポフが設計,J・コンドルが施工して完成したもので,平面はギリシャ十字形のビザンチン式,煉瓦造の建築です。
明治の日本においてビザンチン様式の建築物は当時大変珍しかったに違いありません。
中央ドームは八角形、鐘楼は中央ドームよりも高くそびえていました。
八角形の上にドームを乗せた形は、ジョサイア・コンドルの考えによるもので、日本人の職人が施工しやすいように尺貫法を用いて図面に起こしたとのいことです。竣工当時の写真です。
竣工当時のニコライ堂
中央ドームの高さは約38m,ほかに尖塔状の鐘楼がついています。
ニコライは、ロシアの神学校で、「日本幽囚記」読み、そこに書かれていた高田屋嘉兵衛の人柄にうたれ、日本に行くことを志しました。そして、日本の箱館(後の函館)領事館付司祭を募る文書を目にし、応募します。そして、日本の函館に渡来して来ました。それは、領事館内だけの司祭としての役目でしたが、日本人への伝道を志していただけに、日本語を熱心に学び、日本人へ布教活動を積極的に行っていきます。
そして、東京での布教に取り組みます。
明治5年(1872)に神田駿河台の土地2300坪を購入します。そして、明治24年(1891)に東京復活大聖堂(通称・ニコライ堂)が竣工しました。
ニコライ堂が建った後、日露戦争が起き、迫害を受けますが、ニコライは帰国せず、その後生涯ロシアに帰ることなく、明治45年(1912)、明治最後の年に76歳で永眠しました。
亡くなる1年前に、ニコライは大主教に昇叙され、当時のカトリック教会につぐ規模へと信仰者を増やしていました。
ニコライ堂 本堂と小堂
ニコライ堂は大正12年(1923年)関東大震災によって倒壊しますが、昭和4年(1929年)岡田信一郎氏によって復興しました。
外観はその際、一部変更されていますが、装飾や窓廻りには当初の意匠が忠実に再現されています。
さらに、平成4年(1992)に修復工事が行われ、平成12年(2000)から一般公開されています。この修復工事は、昭和4年(1929)の再建当時の復原を目指したもので、ピザンチン様式の美しい姿を蘇らせました。
昭和37年(1962)に国の重要文化財に指定されています。
ニコライ堂 十字架
▼ニコライ堂の鐘楼上に立つ八端十字です。
8箇所の先端部分があることから、八端十字(はったんじゅうじ)と呼ばれます。キリストが処刑される時に、ゴルゴダの丘に背負って行った十字架がこの八端十字架であったといわれています。
ニコライ堂 玄関上 ステンドグラスと十字架
ニコライ堂 門の上
▼夏目漱石も、このニコライ堂にキナっていたのか、訪れています。
『それから』に登場します。
「代助は面白そうに、二三日前自分の観に行った、ニコライの復活祭の話をした。
御祭が夜の十二時を相図に、世の中の寝鎮まる頃を見計って始る。参詣人が長い廊下を廻って本堂へ帰ってくると、何時の間にか幾千本の蝋燭が一度に点いている。・・・」
聖堂の中に入るといたる所にイコンが掲げられているようです。
イコンは「天国の窓」と呼ばれイコンを通じて神や聖人に祈るのだそうです。
近くに住んでいた、与謝野晶子の歌です。
「隣り住む 南蛮寺(なんばんでら)の 鐘の音(ね)に 涙のおつる 春の夕暮れ」
ニコライ堂 本堂入り口

紅梅坂(こうばいざか)

紅梅坂(こうばいざか)
i井上眼科とニコライ堂の間の坂を紅梅坂(こうばいざか)といいます。
以前は、幽霊坂と繫がっていたようですが、今は廻って来なければ、この坂に来られません。
「 このあたりは紅梅町とよんでいたので、この坂名がつきました。 淡路町に下る幽霊坂(ゆうれいざか)とつながっていましたが、大正13年(1924)の区画整理の際本郷通りができたため、二つに分かれた形になりました。 『東京名所図絵』には 「東紅梅町の中間より淡路町2丁目に下る坂あり、もと埃坂(ごみざか)と唱えしに、 維新以後、 淡路町の幽霊坂と併せて紅梅坂と改称せり」と書れています。昭和50年(1975)3月 千代田区
紅葉坂

夏目漱石と井上眼科の女

明治17年(1884)に、夏目漱石は、神田錦町3丁目の大学予備門(のちの東大)に入学しました。(大学予備門が本郷に移されたその跡地には、現在旧7帝大の同窓会の会館である学士会館が建てられています)。
入学時、夏目漱石は、猿楽町に下宿していました。
ちなみに、『坊っちゃん』の主人公は、当時猿楽町近くの小川町に間借りしていて、近くにあった東京物理学校(現東京理科大)に入学する設定になっています。
なお、正岡子規と知り合ったのは、この大学予備門です。
大学予備門を卒業した夏目漱石は、帝国大学文科大学英文科に入学します。
入学後、漱石は眼病を患い、井上眼科病院に通います。その病院の待合室で、背のすらっとした細面の美しい女性と出会いました。
子規宛て書簡にそのことが記されています。書簡は、明治24年7月18日です。

「ゑゑともう何か書くことはないかしら。ああそうそう、昨日眼医者へいった所が、いつか君に話した可愛らしい女の子をみたね。ー銀杏返しに竹はなをかけてー天気予報なしの突然の邂逅だからひやつと驚いて思はず顔に紅葉を散らしたね。丸で夕日に映ずる嵐山の大火の如し。」

「井上眼科病院」は、今でも、神田駿河台のニコライ堂の御茶ノ水駅側道向にあります。眼鏡も売っている煉瓦造りの大きなお店があります。
井上眼科病院
「井上眼科病院」は明治14年(1881)に東京大学医学部助教授を務めていた井上達也により創設されました。ニコライ堂が建立されるより前の事です。
明治23年(1890)に煉瓦造り4階建てで、最新設備を備えた病院を建設しました。当時、夏目漱石など著名人も多く通っていたといいます。
夏目漱石はトラホームの治療で井上眼科病院に通っていたようです。
仲の良かった子規に、今のメールに近い出し方でしょうか、ユーモアあふれる手紙です。漱石は書簡が一番面白いと言う人がいますが、これだけを見てもそうかもしれないと思えます。

新坂(しんざか)

ワテラスの庭園を出たところの坂を新坂といいます。
「東京名所絵図」には「新坂は維新の後,新たに開かれたる道路なり。昔は観音坂と紅梅坂の間,阿部主計頭(かずえのかみ)の屋敷にして,此処より駿河台に登る道路なかりし,崖の上には今も旧形を存せる後の外囲ありしなり,此の練塀を道幅だけ取毀ちて通路を開きたり。故に俗呼んで坂えおいえり」と書かれています。維新の後とのみかかれ その年月は不明です。(千代田区の案内より)
新坂

緑がいっぱいのWATERRAS(ワテラス)

看板
「ワテラス」は、周辺の秋葉原電気街・御茶の水学生街・神田小川町 スポーツ用品街・須田町老舗街を結ぶ交点に、2013年2月、「淡路町二丁目西部地 区第一種市街地再開発事業」により誕生しました。  
行って見てそのみごとさに驚嘆しましたが。
詳しいコンセプトは、HPの記事などでしるしかないで、それを見て、下記メモしてみました。
隣接のソラシティでは歴史の継承の紹介だったので、こちらだは、緑を中心に写真を掲載します。写真の多くは文章と関係ありません。
▼建物のコンセプト
ワテラスの特徴は、ハードとしては、コミュニティの担い手として位置 づけた学生のための学生用住宅を整備したことや、このまちで生活する こととなる新旧住民・就労者・学生など様々な価値観を持つ人々の交 流の場となる「コミュニティ施設・広場・公園」を一体整備したことです。
ソフトとしては地域交流を促す「まちづくり法人」:「一般社団法人淡路 エリアマネジメント」を組成したことにあります
▼WATERRAS(ワテラス)の名称
庭へ
ワテラスは、漢字の 「輪」「和」「環」の持つ意味を込めて ネーミングされました。 3つの想いを込めたネーミング
輪:輪(コミュニティ) 住まう人、働く人、学ぶ人の新しい コミュニティ「輪」を創造していく街 を表現。
和:WA(和)+TERRACE(段丘)  段丘(テラス)状の敷地に創造される 「和」をテーマにした庭とタワーを表現。
環:WATER(水)+TERRA(大地)  緑に包まれた敷地に清らかな水が 「循環」している、潤いのある豊かな 自然の表現
▼ロゴマーク
ワテラス ロゴマーク
ワテラス建築のプロジェクトの特徴的な地形である「段丘」をモチーフにしたロゴマークは、流れ落ちていく豊かな「水」と、その潤いにもたらされた豊かな「緑」を表現しています。水の軌跡には、ワテラス(WATERRAS)の頭文字「W」を描いています。カラーは、ワテラスブルーと名付けた紺色(こんいろ)をはじめ、瑠璃色(るりいろ)・常盤緑(ときわみどり)・鶸色(ひわいろ)といった日本の伝統色を採用。守り続けてきた伝統を受け継ぎながら、新たな街・新しい未来を創造していくワテラスの想いが込められています。
▼「ワテラス」
2つのタワーを結ぶ
ワテラスは、周辺の歴史的及び地理 的な特色を活かしつつ、回遊性のある 空間を新たに創出するべく、街路と一 体となる歩行者空間の整備や、外堀通 りレベルの南側広場と3階レベルの人工地盤を結ぶアトリウムと大階段を整備しています。
そして、隣接する「御 茶ノ水ソラシティ」と協同し、街区間を結ぶ歩行者専用ブリッジを整備する ことで、千代田線新御茶ノ水駅~ワテラス~丸ノ内線淡路町駅をつなぐ、新たな動線を創り出しています。
外観は、タワー棟の低層部と高層部、アネックス棟の3つの主要なボリュー ムにより構成し、対角軸に特徴をもたせた「縦障子」と「簾」のデザインによるガラスカーテンウォールで統一化しました。
▼「神田花暦園」
彫刻と段丘と
ランドスケープは、「神田花暦園」 として、四季を感じる特徴のある樹木配置を行い、石垣等の和の要素による 庭園としてのつくり込みを行っています。また、南側広場を淡路公園と一体整備し、特徴のあるアートを配し、高低差を利用した変化のある豊かな水と緑のオープンスペースを創出していま す。
花の棚と庭園
水辺もあります。
水辺もあります_edited-1
淡路小学校や淡路広場に植えられ、長年親しまれていた懐かしい花木も再び植樹され、人々の想い出を引き継ぎながら新たな想い出を重ねていく憩いの場を創出しています,
かわいい彫刻も点在



幽霊坂(ゆうれいざか)

幽霊坂ソラシティこの坂ソラシティとワテラスの間にある坂を幽霊坂といいます。(写真は2つのビリの陸橋から)
もとは紅梅坂と続いていましたが、大正13年(1924)の区画整理の際、本郷通りができたため2つに分かれた形になりました。『東京名所図会』には、”紅梅坂は””往時樹木陰鬱にして、昼尚凄寂たりしを以って俗に幽霊坂と唱えたりしを、今は改めて紅梅坂と称す。”とかかれています。また古くは光感寺坂とも埃坂などとも呼ばれていたこともあるようですが、一般には幽霊坂の名でとおっています。
作家の早乙女貢さんが『江戸歩き西ひがし』という本を出しています。
その中で、ここの幽霊坂を取り上げています。
「江戸八百八町にはおかしな地名が多い。おかしいというよりぴったりとそのふさわしい名前がついている。
辻番も何もなくて暗いからくらやみ坂、幽霊が出そうだというので幽霊坂刑場に曳かれて行く途中なので涙坂、遊郭へ遊びに行こうか、いや、やめて戻ろうか、と思案橋。照っても、降っても道がぬかるんでいるので照り降り町。」
本当に昔の名前はしゃれています。誰が作ったか、わからない、自然と生まれて出た名前です。
でもちゃんと切り絵図にもこの名前出ています。ここが幽霊坂と呼ばれたのは、裏通りで幽霊が出て来そうなぐらい暗かったのでしょう。
早乙女貢さんが、町会で「幽霊坂」の名前を変えようという動きがあったことを紹介しています。埃坂もいやだったでしょうね。そこで提案されたのが、「軍艦山坂」だっということです。「軍艦山」という子どもが遊ぶ場所があったことは、前回書きました。それに因んでということでしょうが、軍国主義の時代の言葉で、どうも軍艦がいただかない、と書いています。
じっさい、「軍艦山坂」は通らす、今も「幽霊坂」で、上記の案内が、案内塔に表記されています。
今は幽霊など出そうにはないですが、名前の記憶は昔を偲ばれて楽しいです。
幽霊坂下から

「御茶ノ水ソラシティ」地域の歴史文化の承継

「御茶ノ水ソラシティ」では、地域の歴史文化の承継を観てみてみたいと思います。
明治中期には三菱社2代目社長・ 岩崎彌之助の邸宅があった場所です。敷地内には当時の石垣や煉瓦擁壁が残っていました。「御茶ノ水ソラシティ」の建築でもそれらの一部 を擁壁やベンチ、歴史案内サインとして再生保存利用しています。
また、開発前 に敷地内にあった高木10本を現地保存、移植保存したとあります。さらに地下の奥には、淡路町にあった大正時代の蔵を復元再生して、ギャラリーとして貸し出すようになっています。
主たる歴史文化の承継を箇条書きにすると次のようになります。
1. 岩崎邸・三菱社の煉瓦の保存と活用
2、淡路町再開発エリアにあった蔵の 復元再生(外観)
3. 明治時代の石垣の保存再生

■岩崎邸・三菱社の煉瓦
2017070521241868a.jpg" target="_blank">岩崎邸の煉瓦
この煉瓦擁壁は、この場所にあった岩崎彌之助邸・三菱社の擁壁を再利用して造られたものです。岩崎邸・三菱社の煉瓦擁壁は明治時代に築造されたもので、煉瓦の裏面にサクラ印の刻印があることから、小菅集治監で製造されたものであることがわかりました。
煉瓦の製法は、型造りではなく、鉄線などで切り取って製作されたもので、1枚1枚微妙に大きさが異なるものです。積み方はイギリス積みと呼ばれ、長手だけの段と小口だけの段を一段おきに積む方法です。
そして、歴史案内板の煉瓦も、岩崎彌之助邸擁壁の煉瓦の保存・再利用したものです。
■松山堂の蔵の煉瓦 
神田淡路町二丁目にあった「松山堂」の蔵から切り出した煉瓦壁をその記憶を継承する目的で展示されています。
目地は覆輪目地という凸型の丸面で、煉瓦面と同じ高さに仕上げています。煉瓦にはカタカナの「サ」とひらがなの「さ」の2種類の刻印が見つかりました。(現地歴史案内板より)。
煉瓦の印
■蔵 書籍商の蔵として大正6年(1917)に上棟した蔵の復元したものです。
「松山堂」の蔵
ギャラリーに使われる松山堂の蔵
中の天井部分です。
藏の中の天井
■石垣については、場所がよくわからないのですが「軍艦艦山」と呼ばれた場所との関連で記録しておきます。
昭和のはじめごろ、「軍艦山」と呼ばれ、子供たちの絶好の遊び場となっていた場所がありました。
本郷通りにより削られて出来た三角地帯の景観からいつしか「軍艦山」と呼ばれるようになりました。
積み上げられた石垣とその頂上は子供たちにはまさに大きな軍艦。木登りや草の上で相撲を取ったり、冬は屋敷内の竹を切り、即席のスキー板をこしらえて「竹スキー」で遊び、夏にはセミやトンボを採って遊んでいたといいます。
その場所を残した、とあるので、石垣と一緒にしてみると、この写真のところかなと思いました。
明治時代の石垣

「御茶ノ水ソラシティ」蜀山人終焉の地・岩崎弥之助邸跡

淡路坂の道路を挟んでこのムクノキの向かい側は、日立製作所本社ビルがあったところが再開発され、平成25年(2013)に竣工複合施設「御茶ノ水ソラシティ」となり高さ110mの高層ビルが建っています。
御茶の水 ソラシティ
茶ノ水ソラシティのコンセプトは「都心の高台にそびえ立ちどこまでも見晴らせる、どこへでも繋がる、まるで大きな宙(ソラ)」ということで、ソラシティというネーミングになったようです。
して同じ時期に隣接に「ワテラス」が出来ています。そして御茶ノ水駅~茶ノ水ソラシティ~ワテ ラス~淡路町駅をつなぐ、新 たな動線を創り出しました。
そして、「地域の活性化」や「歴史の継承・保全」、「新しいまちなみの創造とコミュニティの充実」をテーマとして、地域の意見を反映した開発が行われました。そうして、地域全体が一丸となって魅力的なまちづくりに取り組んでいるようです。
まず、茶ノ水ソラシティを観ていきます。
ソラシティから望むニコライ堂
地上・地下の2層からなる広場ができています。
建築時のコンセプトをみるとだいたい次のようになっています。
地上広場のテラスは明治期の石垣や擁壁を残しながら、ニコライ堂や湯島聖堂といった歴史ある景観が望める場所に(上野写真のように)。
地下広場は地下鉄新御茶ノ水駅に直通させ、バリアフリー化を推進しました。
また建物内には、最大624名を収容できる大ホールや会議室からなるカンファレンスセンターや、大学教育関連施設を整備することで、多くの人、地域文化の交流拠点となることを目指しました。
加えて設備面では太陽光発電やLED照明の導入のほか、地下湧水の活用、屋上緑化などで環境負荷の低減をはかった。
茶ノ水ソラシティでは、「歴史の継承・保全」をどのように形にしたかを観てみます。
この場所は江戸時代には大田蜀山人、明治時代には岩崎彌之助の屋敷があったところです。歴史案内板が建っています。
この歴史案内板の煉瓦は、岩崎彌之助邸擁壁の煉瓦の保存・再利用したものです。
岩崎邸の煉瓦を使った案内板
その説明板から引用します。
蜀山人終焉の地
太田蜀山人は名はふかし、通称直次郎・七左衛門、南畝・四方山人などの号を称しました。寛延2年(1749)に江戸の牛込に生まれ、勘定所の役人として支配勘定まで登用され、大阪銅座、長崎奉行所への赴任などの役目を歴任しました。
明治4年(1767)に狂詩集「寝惚先生文集」が評判となり、寛政初年までは「万載狂歌集」、洒落本「甲駅新話」を発表し、のちに随筆「半日閑話」、
「一話一言」を執筆しました。
文化9年(1812)に当地に移り住み、文政6年(1823)に没するまで過ごしています。 〔説明板より〕
岩崎弥之助邸跡
岩崎弥之助は嘉永4年(1851)土佐国の生まれ、明治7年(1874)後藤象二郎の長女早苗との結婚を機に、当地の洋館に住みました。
明治18年(1885)に三菱第二代社長に就任し、三菱社を設立して本社を当地に置きました。
弥之助は、鉱業、造船を中心に、銀行、保険、倉庫業にも力を注ぎ、経営の多角化を行いました。
また丸の内や三崎町の官有地を買い取り、それぞれにオフィス街や繁華街を計画しました。
弥之助は文化、芸術を好み、収集した図書を母体とした静嘉堂文庫を当地で設立し、東洋固有の文化財の収集を行いました。 〔説明板より〕
明治20年、建設中のニコライ堂の足場から
明治20年(1887)、ニコライ堂はまだ建築中でしたが、その足場のから撮った写真です。
左下隅に写っているのが、三菱三代目社長「岩崎弥之助」邸で、中央真下の洋館が「三菱社」です。
この駿河台の地は、明治の初め。後藤象二郎邸でした。
明治7年11月、岩崎弥之助23歳、後藤象二郎の娘早苗との結婚します
当時、借金を抱えていた後藤象二郎を兄弥太郎が援助していたので、後藤象二郎は結婚する2人のために、屋敷の一部を新居として与えました。
その後、この敷地はすべて岩崎家が譲り受けることになり、これを機に、長男弥太郎一家も湯島からここに越してきます。
こうして駿河台邸は東(弥之助)と、西(弥太郎)、敷地内に兄弟の屋敷が並び立つことになりました。
まさに、三菱財閥の拠点は、この駿河台から始まったと言えるのです。
そして、その時期は、明治10年に起った西南戦争で三菱が資産を大きく伸ばし始めた頃にあたり、その後汽船61隻を所有し、日本全国の汽船の70パーセント近くを手中に、海運界の王者に躍り出た時期と重なります。
そして、兄弥太郎は上野不忍池の高台(下谷芳町)に独立した新居を構えることとなるのです。それは、今に残るコンドル設計の洋館(明治29年(1896)竣工)が建てられ、これが岩崎本家となります。その館は現存し、公開されています。

太田姫神社元宮と淡路坂

御茶の水駅の聖橋口を出て左に雪、道を横切ると、濠側に紙垂のついた古木が目に入ります。
太田姫神社元宮
▼太田姫神社元宮です。
社伝によると
「室町時代中期に太田道灌の娘が天然痘(疱瘡)に罹って生死の境をさまよい、京都の一口稲荷神社(いもあらいいなり)が小野篁にまつわる縁起により天然痘に霊験があると聞いた道灌が一口稲荷神社に娘の回復を祈願したところ、天然痘が治癒したという。道灌はこのことに感謝し、長禄元年(1457年)に一口稲荷神社を勧請して旧江戸城内に稲荷神社を築いたとされる。後に城内鬼門に祀られた」
太田姫神社は江戸城外濠(神田川)を作るにあたり伊達家と徳川家が神田山を開削した時、江戸城の結界、また鬼門の護り神として江戸城内よりこの地に移されました。
明治5年(1872)、村社に定められ、名も太田姫稲荷神社と改められました。
大正12年(1923)の関東大震災では社殿が焼失、湯島天神に避難しましたが、昭和3年(1928)に再建されました。昭和6年(1931年)に、御茶ノ水駅の総武線拡張により、現在地に遷座した。淡路坂上の旧社所在地で御茶ノ水駅臨時改札口脇に残された椋の木には元宮を示す木札と神札が貼られています。
太田姫神社元宮 札のアップ
なお、鉄道(「甲武線」中央線の前身)は堀の中にあり、開通時天皇家との間に堀幅を減じない中で、また商業を営まない環境を守るという約束がありました。(明治期鉄道史より)
この元宮の木は椋の木です。
淡路坂
▼淡路坂(あわじざか)
太田姫神社元宮の間の坂を淡路坂(あわじざか)といいます。この坂には、相生坂(あいおいざか) 大坂(おおさか) 一口坂(いもあらいざか)などの名称がつけられています。この坂の上に太田姫稲荷(おおたひめいなり)、道をはさんで鈴木淡路守(すずきあわじのかみ)の屋敷があり、それにもとづき町名、坂名がついたといわれます。
別名の「相生坂」は、神田川を挟んで対岸にある相生坂(外堀通り)と並んでいることから名づけられたものと思われます。
風俗画報臨時増刊 新撰東京名所図会 第195号 明治32年8月(東陽堂)に「淡路坂上の景」があります、
明治30年頃の淡路坂上
この絵の左側に太田姫神社が、右側に岩崎邸が描かれています。淡路坂の神田川側にも建物があったのです。

御茶の水界隈 神田山 神田川、

お茶の水駅から神田駿河台界隈を歩いてみることにしました。
この数年で、特に聖口前、ニコライ堂あたりの風景がすっかり変わりました。
聖橋は、平成25年(2013)から「将来に貴重な遺産として残すべき重要な橋梁」ということで丁寧に「長寿命化工事」が行われています。いつになったら、終わるのだろうと思ったら、これまた2020年、オリンピックの年です。
駅もバリアフリーにするということなので、なかなか大変な工事です。
考えてみると、江戸時代、神田山を切り崩して造ったまちでした。
江戸普請 日比谷入り江_edited-1
御茶の水の向かい、聖橋の下を流れる川は神田川です。実はこの神田川も自然の河川ではなく、人工的に掘られた川です。
高台である「駿河台」は元来、本郷・湯島台と地続きで、その南端に位置し、「神田山」と呼ばれていました。
江戸に幕府を開いた徳川家康は、新たな町づくりのため、この神田山を切り崩し、江戸城の南に広がる日比谷入江(現在の日比谷公園、新橋周辺)を埋め立てました。
しかし、埋め立てによって、それまで日比谷入江の方に流れ込んでいた平川(神田川のもとになった川)の流れがとどこおることになり、洪水が頻発するようになります。
そこで現在の飯田橋付近から隅田川まで、分流としての水路を確保し、あわせて江戸城の外濠の役目も果たす「神田川」が開削されたのです。こうしてこの界隈は、本郷・湯島台から切り離され、現在の駿河台が形成されました。
外濠としての神田川は、江戸城の外濠を作る際に、自然河川だった「平川」のを活かして造られました。もともと平川の自然な流れは、飯田橋を過ぎて、九段下(俎板橋近辺)、平川門あたりを通り日比谷入り江に注ぐというものであったようです。
この流れは、日本橋川という名の内濠として残されますが、新たに、飯田橋あたりから左右にこの水を流す外濠を掘削したのです。
東側へは、今の水道橋、御茶の水橋、昌平橋を越え、外神田、内神田を貫いて隅田川へ流し込みました。 西南側は、今の飯田橋から市ヶ谷、四谷、赤坂、溜池を経て、汐留で江戸湾に入る流れに繋いでいきました。
それで、現在神田川と呼ばれている川は、江戸川橋から飯田橋に来て、そこから人口の川になり、東にまわる外濠の役目を果たして、隅田川へ流れます。
こうしてこの界隈は、本郷・湯島台から切り離され、現在の駿河台が形成されました。
プラットホームから見る神田川は、都心に残された小さな渓谷のような風情を持っています。江戸時代、安政4年(1857)の広重の「江戸名所百景」第47景の「昌平橋聖堂神田川」にはその雰囲気がもっと残っています。
広重 「昌平橋聖堂神田川]
それは、ここらあたりが、神田山を切り崩しての造成工事でした人口のもので、その名残が感じられるのでしょう。
その後、家康が隠居して移り住んでいた駿府で没すると、旗本(駿河衆)たちは、江戸城に近くて、富士山が望めるこの地に居を構えていきました。それが、この町のはじまりで「神田駿河台」の地名の由来になりました
ついでながら、この駿河台に屋敷を構えた旗本たちは、神田川の上水でなく、自前の井戸を持っていたようです。神田川の岸辺からは先の大戦後も湧水が見られたそうで、こうした地下水脈が水源となっていたようです。
お茶の水、湯島 切り絵図

夢二の日本橋呉服町2番地 「港屋絵草紙店」

切り絵図 呉服橋付近
呉服橋門は寛永6年(1629)に築かれました。外濠通りと交差する永代通りを少し入った所にありました。呉服橋門の「呉服」は濠の外域に幕府御用達の呉服商が多く住んだことで名付けられました。
現在は永代通りを進むと内濠の大手門前に出ますが、この道筋に江戸の入った德川家康が真っ先に道三濠を築き、日本橋川から隅田川へと結び、大量の物資を和田倉門に隣接した辰ノ口まで搬入していました。
昭和26年頃から外濠が埋め立てられますが、呉服橋はそのゥ埋め立ての筆頭でした。
夢二 呉服橋港屋
さて、大正3年(1914)10月1日 竹久夢二が、呉服町2番地に、間口1間2階建ての店舗を借り、「港屋絵草紙店」を開きました。
「港屋」は夢二が離婚後も同棲していた他万喜(たまき)の自活を考慮して開いた店です。
案内状のサインは「岸たまき」で、店を取り仕切っていたのも岸他万喜でした。
港屋 表
店頭に吊るされた1mほどもある赤い長ちょうちんの横でポーズをとる着物姿の他万喜の写真が残されています。
若い女性が好む人気画家の夢二がデザインする木版画、絵本、詩集、千代紙、風呂敷、浴衣などが販売された。同年に開業した東京駅にも近く、若い女性が連日詰めかける人気店となったようです。
現在、その港屋があった場所に碑が建てられています。
港屋の標識
なお、大正3年(1914)という年は、
東京・日本橋に「三越百貨店新館」がオープンした年でもありました。
鉄筋コンクリート五階建てで、日本初のエスカレーターやエレベーターを取り入れ、ルネッサンス様式の正面入口には、青銅の2頭のライオンがお出迎え。新聞では“スエズ運河以東最大の建物”と讃えられたとか。
「港屋」は、有名だったようです。ちなみに2階はギャラリーで、詩人の萩原朔太郎、随筆家の森田たま、画家の東郷青児をはじめ、夢二を慕う芸術家や文化人などが出入りしていました。
ところで、夢二は、なぜ日本橋で「港屋」を開店したのでしょう?
それは日本橋には銀座同様、東京の最先端をゆくモダンな街並みがあり、しかも江戸庶民の暮らしの賑わいを伝えてきた「お江戸日本橋」の風情をもつこと。つまり江戸と近代とが交差する地ということで、彼は日本橋をとても愛していたそうです。
開店していた期間は、はっきりしませんが、せいぜい2年ばかりとみられています。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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