FC2ブログ

一石橋 そして銭瓶橋

いちこくばし
銘板 いちこくばし
一石橋は日本橋川と外堀、道三堀が交差する場所にあり、「八見橋」の通称のとおり、一石橋自身を含めて八つの橋を見ることができたといいいます。
それは、外濠の常磐橋・呉服橋・鍛冶橋、日本橋川の一石橋・日本橋・江戸橋、道三堀の銭瓶橋・道三橋が見渡せたのです。江戸の名所のひとつで、一石橋は、「八つ見橋」や「八橋」とも呼ばれていました。
広重 名所江戸百景「八ツ見のはし」
広重の絵(名所江戸百景「八ツ見のはし」) にも、一石橋の先には外堀が左右(南北)に交差し、奥は道三堀が続いています。江戸城内に物資を運送する際に使用したという道三堀に架かる手前が銭瓶橋です。その左側(南岸)には、大名小路に面する熊本藩細川家上屋敷などがあります。江戸城と大名屋敷、行き交う舟、水都といわれた江戸の様子を見ることができます。
一石橋の名前の由来としては次の2つがあげられます。
ひとつは、北岸にある後藤庄三郎の金座と南岸の後藤縫殿助(ごとうぬいのすけ)の呉服所との中間にあったことから、二つの後藤(五斗)を合わせて一石橋という橋名になったというものです。
後藤縫殿助(ごとうぬいのすけ)は、江戸時代に代々呉服師を手がけた後藤家の当主が名乗った名称です。江戸幕府の御用達呉服師として仕え、彫金師の彫物後藤および小判鋳造を手がけた金座後藤庄三郎家と区別するため呉服後藤(ごふくごとう)とも呼ばれました。
もう一つは永楽銭一貫文を米一石と交換したため橋名としたというものです。
永楽銭一貫文は、幕府が通用禁止の発令を出して、このあたりで米1石と交換したのでしょうか。

一石橋と銭瓶橋では、江戸時代の「水」のことが大事です。そのっことが、学研の『お江戸の科学』にわかり安く図解されていあるので、お借ります。
学研の『お江戸の科学』
水道の水で産湯を使い…」は江戸っ子自慢の台詞でしたが、この水道(神田上水、玉川上水)が直接届かなかった所があります。それは、本所や深川など隅田川の対岸地域でした。そこに水を運んだのが「水屋」と「水船」です。玉川上水の余り水は、銭瓶橋から放出されたものです。神田上水は一石橋の所で受けました。幕府の許可を得て、2つの橋の所で水を受け、その水を、水船で受け、日本橋川を通って隅田川の対岸まで運びました。
この水を桶に汲み、天秤棒で担いで各家庭に売り歩いたのが、水屋です。一荷(いっか)(=二桶)で四文。かけそば一杯十六文の時代、責任が重いわりに利益は薄かったようです。

一石橋夕景
明治時代の版画家 最後の浮世絵師と言われる小林清親に「一石橋夕景 」があります。のどかな風景です。明治時代の木橋の一石橋でしょうか。
一石橋は大正11年(1922年)に東京市道路局によって鉄骨コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱4基をすえた白亜の橋となったのです
また、昭和39年(1964)の首都高速道路の建設で改修され、同年48年(1973)に鋼鉄橋梁となり、平成9年(1997)に、大正11年の橋本体は全て撤去されましたが。この堂々とした花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿をしのばせています
一石橋親柱

スポンサーサイト



日本銀行と金座

日本銀行は最初、明治15年(1882)に永代橋のほとりに設立されました。
しかし、そこは都心からやや遠かったこともあり、開業の翌年には早くも店舗の移転が決定されました。
明治22年(1889)に三菱財閥の基礎を築いた川田小一郎第3代日銀総裁は手狭になった日銀本店を日本橋本石町「金座」の跡地に建設を始めました。
切り絵図 金座
設計はのちに東京駅を設計した辰野金吾、日銀の建設担当は高橋是清で、ベルギーの中央銀行を手本にしたネオバロック様式にルネッサンス的意匠をほどこした地上3階地下1階(大金庫)の建物でした。
7年の歳月をかけて明治29年(1896)に竣工しました。
日本銀行
当初は総石造りとする予定でしたが、明治24年(1891年)の濃尾大地震の被害状況から、地震が多い日本では、欧米のような総石造りは無理であると判断し、摘みあげたレンガの外側に、外装材として石を積み上げる方法に変更し、建物の軽量化を図りました。
エレベーター、水洗便所など当時としてはめずらしい設備を取り入れ、防火シャッターやスチールサッシなどにも同様に外国製品が採用されました。(上の日銀は改修工事中で、写真は常盤橋からです)
実は、本館を上空から見ると「円」の形に見えます。
日銀 上空から
金座だった場所に建築設計をした際、幣単位の「円」を設計に導入したと考えられないことはないと思われています。はっきりはしていないようですが。
<金座>
元禄11年(1698)管理の厳格化と小判師の分散化を防止するために後藤宗家の屋敷内に鋳造施設を設置し、以後江戸での金貨鋳造はこの金座役宅のみで行われました。
慶長小判です。
慶長小判
一両小判の刻印、上から扇枠五三桐・壱両・光次(後藤庄三郎)花押・扇枠五三桐
後藤 庄三郎は、近世日本の金座の当主、すなわち御金改役に与えられた名称です。
初代の後藤庄三郎光次に始まり、以後世襲制の家職となりました。
のちに後藤家は不正や贅を尽くしたとして流罪や死罪となり断絶しています。
明治2年に造幣局が設置されると金座は廃止されました。

常磐橋 常盤橋

常磐橋見附門
常磐橋は天正18年(1590)の架橋といわれ、東京では最も古い橋の一つです。
寛永6年(1629)常磐橋の前に常盤橋門が設置され、江戸城の大手門から浅草方面に向かう浅草口と呼ばれていました。
3代将軍家光の頃までは大橋とも浅草口橋とも呼ばれていました。
常磐橋の名前については、次のような逸話があります。
改名の上意を受けた町年寄奈良屋市右衛門は、寄宿の浪人から「常磐」の名を得て、これを献上したというのです。
それは『金葉和歌集』の「色かえぬ松によそえて東路の常磐の橋にかかる藤浪(ふじなみ)」の意であるといわれています。
現在の石橋は、廃止された常磐橋門の石垣に使われていた石を流用して、明治10年(1877)に架けられました。神田川の眼鏡橋がなくなりましたから、区内では皇居の「石橋」とともに貴重な石橋ですが車は通れません。
銘板には「常磐橋」と刻んであります。別名として、「大橋」・「浅草口橋」・「常盤橋」があります。
この旧常磐橋自体は現在、東日本大震災以降の改修中で近づけません
工事中の常磐橋
平成19年(2007)年3月28日に千代田区景観まちづくり重要物件に指定されています。
「ときわばし」 3橋
「ときわばし」は3つあります。
『新常盤橋(しん ときわ ばし)』
日本橋川の本来の『常磐橋』より上流にかかる橋で大手町と本石町(にほんばしほんごくちょう)を結ぶ 「江戸通り」 が 「日本橋川」 を渡る橋で、最初の架橋は大正9年(1920)、 路面電車の開通に合わせて架けられたものです。当時は、コンクリート製の3連アーチ橋でした。
本来の『常磐橋』 が、路面電車を通すには小さ過ぎたのと、電車の路線からも外れていたために、新たに 『新常盤橋』 が架設されたのです。
『新常盤橋』 が完成した 6年後の昭和元年(1926)に、今度は下流に石張りアーチ橋の 『常盤橋』 が完成しました。
古い常磐橋写真
昭和の初め頃の写真です。写真の橋の向こうは、紙幣印刷所で、常盤橋の皇居側に、明治9年(1876)に竣工しています。赤レンガ造りの建築で、ここに欧米製の製版・印刷機械がすえ付けられ、お札や切手など日本の近代的な証券印刷物の製造されていました。
当時、この3橋は、全て石造叉は石張りのアーチ橋で、しかも高速の高架もなかったので、その景観はもっと素晴らしかったと思われます。
現在 『新常盤橋』 は昭和63年(1988)、東北新幹線の高架建設に合わせて架け替えられ、鋼製のシンプルな桁橋になってしまいま常磐橋遠景
なお、最初のときわばしは常磐橋、「磐」と下が石です。後からの橋は、常盤橋、「盤」と皿になっています。江戸時代のものは、・皿は壊れるので、石にしたと伝わります。
常磐橋
銘板「常磐橋」

下落合の「薬王院」から「おとめ山公園」までの「坂」

NHKの「ブラタモリ」で楽しいまち歩きのコツを披露しているタモリの『タモリのTOKYO坂道美学入門』に
坂道の魅力について4つのポイントをあげています。
タモリが考える「よい坂」とは
1. 勾配が急である 2. 湾曲している 3. まわりに江戸の風情がある 4. 名前にいわれがある。
の4ポイントです。
それを頭において、下落合を薬王院からおとめ山までの「坂」を歩いてみます。
落合薬王院.ーオバケ坂.ー七曲坂.ー大倉坂ー相馬坂.ーおとめ山公園.です。
■瑠璃山 薬王院
薬王院の前
薬王院の山門です。西武新宿線・下落合駅・北口から徒歩約5分の場所にあります。開山は鎌倉時代で、相模国・大山寺を中興とした願行上人といわれ、牡丹の寺として有名です。
野鳥の森公園
■オバケ坂
野鳥の森公園の脇の急坂です。ここは昔から、地元では「オバケ坂」と呼ばれていました。オバケ坂
この坂、昔はもっと狭く、樹木を多かったので、暗く、それこそオバケや幽霊がでそうな感じだったようです。
したがって幽霊坂とも言われます。
ただ、「バッケ坂」が「バケ坂」と呼ばれ「オバケ坂」になったという説もあります
国分寺の崖線や野川流域の河岸段丘を「ハケ」と呼ぶのに対し、神田川や妙正寺川流域の河岸段丘は「バッケ」と呼んでいました。
野鳥の森公園は、農家の一部だったとのことで、既存の良好な樹林地を取得し、公園として整備しまたものです。
ツグミ、シジュウカラ、メジロ、ヒヨドリなど季節の野鳥も訪れるようです。
●石地蔵
七曲坂下の2体(と+小さな1体)の石地蔵は、単なる「お地蔵さま」であります。鎌倉古道沿い、なんらかの伝説やいわれがあったのかもしれません。
七曲坂の下のお地蔵さま
■七曲坂
七曲坂下から
七曲坂(ななまがりざか)は、落合では最も古い坂道のひとつであり、かつて 七ヶ所曲がっていたためこの名称となりました。江戸時代には周囲の高台が紅葉の名所として知られていたというわれます。
現在は緩やかなカーブとなって、七曲がりの趣はいささか損なわれていますづが、タモリの4ポイントすべてを揃えるすてきな坂です。
七曲坂
『豊多摩群誌』には「七囲(めぐ)り坂 馬場下通 御禁止(おとめ)山の麓にあり,大字下落合字丸山と同本村の中間にあり。曲折七ヶ所より成れる坂道にして昔より本名称を得たるが,明治37年開窄して交通に便せり」とあります。
●頼朝公の伝承
「七曲坂」頼朝が開いたという伝承です。
「若葉の梢」の作者、金子直徳には「富士見茶屋」という小文がありますが、以下はその中の七曲坂の由来についての記述です。
「頼朝公和田戸山に御在陣の時、敵の軍勢をはかり給はんとて、七まがりに坂を開かせ給へりと也。上は鼠山、西は玉川と猪の頭の落合に行、柏木ゑもん桜へも近し」
●七曲署
七曲署 『太陽にほえろ!』
石原裕次郎没後30年とかで、NHKBSで特別番組が組まれていましたが、『太陽にほえろ!』の警察署名が
七曲署でした。警視庁の架空の警察署名ですが、この七曲坂から名前がとられたと言われます。
七曲署は新宿区矢追町1-5-1(架空の住所)にある事になっています。
■大倉坂
大倉坂
こちらの急な坂ですが、権べえ山とか大倉山(所有者名から)と呼ばれていた丘陵があっちょうで、坂名はいろいろあるようです。「大倉坂」「大倉山の坂」とか「権べえ坂」とか「十返坂」。どの名前が好きかになりますか。
勾配は高いです。
■庚申塔
庚申塔
氷川神社の方に少し行くと、登録有形民俗文化財の庚申塔があります。
文化13年(1816)に立てられたものです。
邪鬼を踏みつけた青面金剛像を主尊とし、邪鬼の下には三猿が刻まれています。
そして石塔の右側面には「左ぞうしがや道」、左側面には「右ばば下道」と刻まれていて、道標も兼ねた石塔であったことがわかります。高さ68㎝。道標を兼ねた庚申塔は、新宿区内では唯一のものです。
■相馬坂
相馬坂の下から
標識<新宿区教育委員会設置>の説明には次のようにあります。
「この坂に隣接する「おとめ山公園は、江戸時代には将軍家御鷹場として一般人の立入りを禁止した御禁止山(おとめやま)であった。この一帯を明治時代末に相馬家が買い取って屋敷を建てた。この坂は新井薬師道から相馬邸に向け新たに通された坂道であるため、こう呼ばれた」
この説明の「新井薬師道から」は、庚申塔にもあるように、雑司ヶ谷道が正しいように思います。
相馬坂 上から
「おとめ山公園」のそばで、緑もきれいで、カーブもすてきな坂です。
落合のブログで一番有名な落合道人さんが、NTVで放映されていた。題名は『さよなら・今日は』(1973~74年/25回)にこの坂が出てくること記されています。。
「そのドラマのしょっぱなに登場した風景が、下落合の高台から眺める富士女子短期大学(当時)の時計台、その向こうに見える新宿高層ビル群、そして写真左の相馬坂だった。ドラマでは、この坂の上に屋敷のアトリエを改造した喫茶店「鉄の馬」があるという想定。
落合第四小学校のチャイムが響く相馬坂を、夏子(浅丘ルリ子)とみどり(中野良子)、愛子(栗田ひろみ)の3人が下りてくるのが初回のシーン」ということで、この写真が掲載されています。
『さよなら・今日は』
おとめ山公園を背景に相馬坂を下る、右から中野良子、浅丘ルリ子、栗田ひろみの3人。
残念ながら、私はこのドラマ観ていませんが、この坂、そんな風景だっただったのだ、とごく感銘しました。
●おとめ山公園
おとめ山公園の池
江戸時代、おとめ山公園の敷地周辺は、将軍家の鷹狩や猪狩などの狩猟場でした。一帯を立ち入り禁止としていたので「おとめ山(御留山、御禁止山)」と呼ばれていました。
大正期に入り、相馬家が広大な庭園をもつ屋敷を造成しましたが、のちに売却され、森林の喪失を憂えた地元の人たちが保存する運動を起こし、昭和44年(1969)にその一部が公園として開園しました。
湧水・流れ・池・斜面樹林地からなる自然豊かな風致公園となっています。

寄木神社 カッパ狛犬(江戸尾立狛犬)

南品川で記憶に残った神社として「寄木明神社」があります。
『江戸名所図会』より寄木明神社
天保年間(1834ー1836)の『江戸名所図会』の「寄木明神社」をまず観てましょう。
挿し絵では、海がすぐそばにあります。海岸に漁師の舟のほか、魚を取る網や海苔養殖に使う「粗朶(そだ)ひび」という木の枝も描かれ、漁師町の様子がわかります。
『江戸名所図会』には寄木明神社の由来が次のように記されています。
「南品川の洲崎にあり。相伝ふ、神代の昔、弟橘媛、日本武尊とともに王船(みふね)に乗じ、この海上を渡りたまふ頃、覆りたりしその船材、所々の浦に漂滔(ひょうとう漂泊?)し、このところにも流れよりたりしかば、土人一社に奉じて弟橘媛の霊を祭りて、寄木明神と号し奉る。
遥かの後、船魂・西宮大神を相殿とす。往古、源義家朝臣(1039 -1106 )、奥州征伐のため東国発向のとき、このところに馬を止め、漁人に当社の由来を問はせたまふ。漁人、先の神伝を答へ奉りしかば、 義家朝臣、みづから奉幣ありて、軍の勝利あらんことを祈りたまふ。奥羽の逆乱平治の後、帰路の日、再び当社に詣でられ、兜を収めたまふ。ゆゑに、このところを兜島と号くると。」
土地の人たちが弟橘姫の霊を祀るために社を建て、寄木明神としたとあります。
南品川猟師町は、江戸時代の明暦年間(1655-1657)に成立したと云われています。
目黒川河口の砂洲にできた町で、洲崎(すさき)とも呼ばれた土地です。漁業を生業とした正に漁師町であり、幕府に魚介類を納める御菜肴八ヶ浦の一つとされていました。
現在の寄木神社では弟橘姫命と日本武尊が祀られています。日本神話の伝説にある神々をお祀りする事で、海上安全を願う信仰があったのでしょう。
お参りしました。
寄木明神社 鳥居と狛犬
規模としては小さな神社です。『江戸名所図会』の絵でも小規模です。
社殿前には狛犬が3対置かれています。
3種の狛犬
拝殿・幣殿・本殿の組み合わせが変わっています。
本殿が、拝殿の右に藏のような形で立てられています。
外壁には大谷石を使用しているようです。
寄木明神社 石造流れ造りの本殿
寄木明神社で特徴的なのが何と言っても、小さな狛犬です。
カッパ狛犬 吽形
カッパ狛犬の頭
カッパ狛犬 阿形
カッパ狛犬の頭の穴
しながわ観光協会 の説明には次のようにあります。
「この社には3対の狛犬があります。拝殿前の高い台座に載った大きな狛犬の前に、左右とも頭に窪み(凹)のあるカッパ狛犬(江戸尾立狛犬)は置かれています。小ぶりなのが目立ちますが、カッパ狛犬は、台座を入れても120㎝ぐらいの高さです。頭の窪みに火を灯して、暗いうちからの海苔採り作業の際、沖の船からの目印としたとされます。 奉納 文政十一年戊子年(1828)五月吉日 」
頭天に窪み(凹)のある狛犬があり、「カッパ狛犬」と呼ばれています。 河童(かっぱ)は、頭に水を溜めておく皿(さら・窪み)があり、 皿の水が乾くと生きていられない想像上の動物(妖怪)とされます。 そこで、河童と同様に「頭に水が溜まるような窪み(凹状)のある狛犬」は、その像容から、河童に縁が有る無しに拘わらず、一般に「カッパ狛犬」と呼ばれているようです
『江戸名所図会』にあるように、神社の前には、海が広がっていました。
その時代には、この狛犬の皿の部分にロウソクを立てて火を灯し、灯台の代わりにしたと伝えられているのです。
ただ、窪み(凹状)のあるカッパ狛犬 は、淺草神社境内、鳩森八幡神社、川越氷川神社などにもあります。それに、この寄木明神社のカッパ狛犬は小さな狛犬ですし、その灯台としての実用性はどうなのかなという気がしないでもありません。。
しかし、近くの品川神社にもあり、これも、小ぶりのカッパ狛犬で、ここも狛犬の頭の窪みにロウソクを灯して、夜の漁労(海苔採り作業)の際、沖合から方向・位置確認をする目印としていたと伝えられます。
そいうことで、あるいは、カッパ狛犬(江戸尾立)のすべてが灯台的な役割をしていたというのではないのかもしれません。
かつてはすぐ海だった寄木明神社
昔なら、この先に海が見えたのです。

かつて“洲崎弁天”と呼ばれた「利田神社(かがたじんじゃ)」

高輪辺絵図
安政の古地図「芝 三田 二本榎 高輪邉絵図」です、
細い出島になっている先端に「弁財天」と書いてあります。
今ではこのあたり、まったくの陸地で、利田(かがた)神社があります。
この神社は、歌川広重の江戸名所道外尽にも描かれています。神社も昔は洲崎弁天と呼ばれており、品川沖の海岸、しかも洲にあったことがわかります。
洲崎弁財天社
砂州は目黒川によってできました現在の目黒川はまっすぐ東京湾に流れ込みますが、江戸時代は、東海道を過ぎたあたりで北に流れを変え、砂州を作り海に流れ込んでいました。周辺の道路の形を見ると、当時の目黒川の流路がわかります。
「品川浦の船だまり」
利田(かただ)神社のすぐ近くには、しながわ百景「品川浦の船だまり」。東京湾と繋がる水路に釣り船や屋形船が浮かぶ、昔ながらの光景です。
広重 江都名所 洲崎弁天境内
広重の洲崎弁財天社の浮世絵です。
歌川広重の名所江戸百景の一つにも描かれています。
広重の洲崎弁天
洲崎弁財天社は、寛永3年(1626)に、東海寺の沢庵が弁財天を勧請したのが始まりとされます。
当地一帯は安永3年(1774)から天保5年(1834)にかけて、南品川宿名主利田吉左衛門により埋め立て、開墾が進められ、開墾に携わった利田氏にちなんで利田新地と呼ばれるようになりました。同時に洲崎弁天も利田神社と名を変えます。
利田(かがた)神社
祭神は、かつては弁才天だったようですが、いまは市杆島姫命にかわっています。
神紋は、「波に三つ鱗」です。
「三つ鱗」の鱗は龍が大蛇となって海中に去る時に鱗を三つ落としたというところから来ているそうです。
江戸名所図会の洲崎弁財天社です。
江戸名所図会[洲崎弁財天社]
江戸名所図会の本文には「同所(富岡八幡宮のこと)の東の方、洲崎(すざき)にあり、別当を吉祥院(きちしょういん)と号す。云々」とあり、「此の地は海岸にして佳景なり。殊更弥生の潮昼(しおい)には都下の貴賎、袖を連ねて真砂の文蛤(はまぐり)を捜(さぐ)り、または、楼船(ろうせん)を浮かべて妓婦(きふ)の弦歌(げんか)に興(きょう)を催(もよお)すものありて、尤(もっと)も春色を添うるの一奇観たり。又、冬月(とうげつ)千鳥にも名を得たり」とあります。
江戸名所図絵には、鯨塚も描かれています。
鯨碑(鯨塚)
利田神社の横に鯨塚があります。
この鯨碑(鯨塚)は、寛政十年(1798)5月1日、前日からの暴風雨で、品川沖の浅瀬に打ち上げられた鯨を漁師たちが捕らえました。初めて見る鯨に江戸の人々は大騒ぎ。瓦版にも取り上げられ、江戸市中から見物客が詰めかけたそうです。
鯨の体長は9間1尺(約16.5メートル)高さ6尺8寸(約2メートル)の大鯨で、江戸中の評判になりました。
11代将軍家斉(いえなり)も浜御殿(現、浜離宮恩賜庭園)で上覧しました。
利田神社の隣にある、品川浦公園には、大きな鯨のモニュメントや、可愛らしくデフォルメされた鯨の遊具があります。
広場にある鯨のモニュメント
鯨のモニュメント

「石室」上のほたるぶくろ

皇居東御苑の花を書きもらしていました。石室のほたるぶくろです。[
本丸にある石室
i「石室」は、富士見多聞北側の蓮池濠沿いにある石作りの蔵です 。
入り口には扉を取り付けた穴があり、内部は20平方メートルほどの広さとなっています。
伊豆半島産の安山(伊豆石)の切石で、隙間もないほどキッチリと壁が造られています。
江戸城の抜け穴や御金蔵との説もありますが、場所柄から、火災などの際に貴重品などを避難させた蔵と考えられます。
斜めから見た石室のほたるぶくろ
石室の入り口上部では,ホタルブクロが咲いていました。 
ほたるぶくろ ( 蛍袋 ) 桔梗(ききょう)科
白いほたるぶくろ
まさに「袋」形の花。
日本に自生するキキョウ科の多年草で、冬の間は土から出ている地上部が枯れてしまっていますが、春になると芽を出し、初夏にはつりがね式の提灯のような花を咲かせます。
名前の由来は、「花の中に蛍を閉じ込めると、その明かりが外へ透けて見える」ところからきているらしい。
 また、提灯の古名を「火垂(ほたる)」といい、その提灯に似ているので「ほたる」、それが「蛍」になったとも。別名を釣鐘草(ツリガネソウ)。英語では「bellflower(鐘の花)」。

将門の首塚

皇居の大手門の近くに「将門の首塚」があります。現在周りはビルの工事中ですが、首塚の一郭は、保護されています。
正面から将門首塚
平安時代、朝廷に反逆し下総で討死した平将門の首は京都に送られ三条河原にさらされましたが、3日後、白光を放って東方に飛び去りここ(大手町)に落ちたと言います。
やがて首塚は荒廃し、将門の亡霊が江戸の民に祟り、徳治2年(1307)真教上人が将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔碑を建て、日輪寺に供養し、さらに傍の神田明神にその霊を合せ祀りました。そこでようやく将門の霊魂も鎮まり、この地の守護神になりました。
その後、徳川家康が、神田明神を「江戸総鎮守」として尊崇し、社殿を改めて大手町から外神田に移した際、首塚もあわせて移す予定でしたが「私の首を動かすな、動かせぱ徳川家に末代まで崇る」と夢枕に現れ、首塚だけは移さなかったそうです。
明治になって、この場所には大蔵省が建ち、大正12年(1923)の関東大震災で被害に遭い、仮庁舎を建設するにあたって、将門の首塚も撤去することして工事が始まりましたが、関係者の原因不明の事故や死亡が相次ぎ、撤去は中止されます。
かつての将門塚
さらに、将門没後1000年目にあたる昭和15年6月20日、大蔵省本庁舎が落雷により炎上。第二次世界大戦後、GHQがこの周辺の区画整理を行なう際にも事故が多発しました。
将門の首塚
そういうことで、現在では、東京都教育委員会が所有し、近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立されました。
そして、江戸時代より神田祭の時には必ず鳳輦神輿(ほうれんみこし)が渡御して神事が行われています。
将門と神田明神
神田明神は三人の神様がご祭神となっています。一之宮は大己貴命(オオムナチノミコト)、二之宮は少彦名命(スクナヒコナノミコト)、そして三之宮が平将門命です。
将門の首塚には、大きなガマの置物が祀られています。カエルの置物は将門の首が京から飛んで帰ってきたことに因むということで、再生の願いを叶えるカエルということです。

皇居東御苑で観た花

皇居東御苑で、6月の花を見ました。
■サンゴジュ(珊瑚樹)
サンゴジュ
果実が赤く、また果柄も赤くなる様子を(ベニ)サンゴに見立てた命名のようです。
■キョウチクトウ(夾竹桃)
キョウチクトウ
キョウチクトウという花名は、中国名の「夾竹桃」を音読みしたものです。
中国名の「夾竹桃」は「竹と梅を混ぜた」というような意味で、葉が竹に似ていて、花が桃に似ていることにちなみます。
■あじさい(紫陽花)
ガクアジサイ
あじさいは、古く「あづさヰ(あぢさヰ)」であった。 「あづ(あぢ)」は集まるさまを意味し、特に小さいものが集まることを表す語。 「さヰ」は「真藍(さあい)」の約、もしくは接頭語の「さ」と「藍(あい)」の約で、青い小花が集まって咲くことから、この名が付けられたとされる。
現在数百種以上あるとされるあじさい(紫陽花)の品種も、日本から中国に渡ったあと,18世紀後半頃にヨーロッパへ渡り、様々な品種改良が重ねられた後、日本へ逆輸入されたものなのだそうです。
■コアジサイ(小紫陽花)
コアジサイ
あまり高くならず、せいぜい1-2mほど。葉は両面毛が散生し、裏は脈上に毛が多い。花は、小さな散房状花序でかわいらしい印象の花を咲かせます。名前は、小型のアジサイであるため「小紫陽花」と呼ばれます。
■タイサンボク(泰山木)
タイサンボク
北米中南部原産で,1873年に渡来しました。高さ10~20m,葉は長さ12~15cmの長楕円形の革質で特徴があります。5~6月,直径12~15cmの芳香のある白い花が咲きます。花弁は6個,まれに9~12個あります。
泰山木

皇居東御苑の花菖蒲

桜の時期からなんとなく忙しくなって、ブログもお休みしていていました。でも、やはりその間に見た大事な所は少し記録しておこうと、振り返って書いています。皇居東御苑へ行ったのは6月7日のことです。
皇居東御苑 二の丸庭園
東御苑の花菖蒲は、「江戸花菖蒲」の系統で、江戸時代、もっとも盛んに改良が進められました。
昭和41年(1996)に明治神宮御苑の菖蒲田から株を譲り受けました。平成4年に明治神宮の菖蒲園が、病気の蔓延で絶滅の危機に陥陥った時、逆に株分けされました。
ちなみに、明治神宮御苑は病気がちだった昭憲皇太后を元気つけるために植えられた花菖蒲でした。
*サツキとハナショウブのコントラストも美しいです。
今回はNHK「美の壺」観賞のツボというのを観るポイントにしてみました。
花菖蒲鑑賞、最初のツボ。 「雌しべの立ち姿を見よ」
花菖蒲の場合、雌しべのことを芯(しん)と称しますが、それがきれいに花弁とマッチして立つことが、全体の姿を美しくする1つの要素になっています。 専門家が「芯」と呼ぶ、雌しべ。 その雌しべの立ち上がる姿が、花全体の美しさを一層際立たせます
弐のツボ 「微妙な濃淡が作る紫を味わう」
柔らかい紫の花勝負
微妙なグラデーションの紫。 花菖蒲が、梅雨に愛されてきたのは、穏やかな色ゆえなのです。
参のツボ 「配置が魅する群生の美」
東御苑の花勝負
全国に200近くあると言われる花菖蒲園。
それぞれに、群生する花を美しく見せるためのくふうが凝らされています。
花菖蒲園は大きなキャンバス。 画家が絵の隅々にまで気を配るかのように花が植えられています。
もう一つのツボ 言葉の響き
「菖蒲」という音が、武士が守るべき道=“武道”を重んじる言葉を指す、「尚武」と同音だったことから、武士たちはこの花を手塩にかけて育てたと言います。

菖蒲田への水源
花菖蒲の時期は、菖蒲田の水が豊富です。その菖蒲田へ流れ込んでいる水源に四角い石の枡があります。
ネットを見ると、この水源今や、井戸として最強のパワーを秘めているパワースポットになっています。
確かに水がかすかの白いです。湧き水ではないと思いますが、どんどん水が湧いてきている感じがします。
この石、実は玉川上水の石枡だと、かつて習いました。旧江戸城の所々で上水の石枡が置かれています。その一つということでした。
ちょっと隅の方にあって、不思議なムードを醸し出しています。

高輪大木戸

高輪大木戸 石垣
高輪大木戸は、宝永7年(1710)、東海道から江戸府内の入口として、また南の出入口として設けられました。
大木戸は始め、元和2年(1616)に芝口門が建てられ、高札場が置かれ札の辻に設けられましたが、700メートル南に移転し高札場として大木戸が設けられました。
高輪の大木戸の大きさは両脇に長さ五間(9メートル) 、幅四間(7.2メートル) 、高さ一丈(10尺=3メートル)の石垣であり、間に柵と門が設けられていました。
樹木のある高輪大木戸

石垣出見る 高輪大木戸

史跡案内 高輪大木戸

通り越して見た高輪大木戸
各町にある「町木戸」に対し、江戸全体を守る木戸であることから、「大木戸」と呼ばれ、旅人やその送迎客でにぎわいました。
江戸時代には、大木戸は甲州道中に四谷大木戸(1616年設置),中山道には、板橋宿にあったようで,街道交通の警備の要衝でした。いずれも柵門があり明六ツ、暮六ツに開閉していました。
街道沿いに見た高輪大木戸
四谷大木戸は、四谷見附の完成(1636年)により、寛政4(1792)大木戸は廃止されました。そして道の両側の石垣も明治になって撤去されました。
高輪大木戸も後に廃止され、浮世絵にも石垣のみが描かれています。そして、明治初年に西側の石垣は取り払われ、現在は国道15号線(第一京浜国道)沿いに東側の石垣だけが残されています。
四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、史跡として重要で、震災後「史跡名勝天然記念物保存法」により内務省(現文部省所管)から指定されています。
この大木戸がある高輪は、広重の浮世絵にも描かれています。
広重「高輪大木戸」
本当に海岸線沿いだったことがよくわかります。
浮世絵「東都高輪大木戸」
別の浮世絵でも、海がすぐそばです。
こちらは、広重の江戸名所百景 82景 高輪うしまちです。
82景 高輪うしまち
高輪大木戸を出た丘側に、車町、俗称「牛町」という町がありました。
江戸における牛車利用は、寛永11年(1634)、増上寺安国殿を普請するにあたり京都から牛持ち人足を呼び、木材や石材の運搬にあたらせたことに始まります。この牛は江戸城の拡張にも用いられ、これらの工事が完了すると、牛持ち人足は江戸に定住し、車町(牛町)が作られていきました。それ以来、江戸では牛車による荷物の運搬が行われ、牛は山王祭や神田祭にも使われるようになります。
遠く海上に島のように見えるものが台場です。
1853年、ペリーの来航を機に、品川沖に6基の大砲台が築かれました。この辺りは海に面した街道でしたので、海上の台場まで見渡すことができたようです。
こちらは、「江戸名所図会」の高輪大木戸です
江戸名所図会 高輪大木戸
やはり右上には石垣、そして右下には高札場があります。
茶店などにも大勢のお客さんで賑わっています。

太田道灌像と江戸城(寛永期の天守閣)の模型

東京国際フォーラムへ行ってみると、「太田道灌と江戸城(寛永期の天守閣)」が飾られていまいました。
今年(2017 年)の 3 月 28 日から常設設置 されてようです。
前向き太田道灌像
次の説明がありました。
「NPO法人江戸城 天守を再建する会との連携企画として、1457年江戸城を築城した太田道灌公の銅像設置箇所に、同公のプロフィ ール、関東戦国史と太田道灌の足跡の解説パネル、城模型作家・長谷川進氏制作の江戸城模型、城の解説パネルを設 置いたします。
この取組みは、2017 年1月東京国際フォーラム開館20 周年記念事業として開催した、日本の伝統文化を楽しみ、体 感するイベント「J-CULTURE FEST/にっぽん・和心・初詣」の展示企画が好評だったことから、より多くの方に東京国際フォ ーラムが立地するこの地と太田道灌、江戸城のゆかりを知っていただくために企画いたしました。」
太田道灌の像が関東のどのあたりにあるかの展示もあって、とても参考になります。
横から太田道灌像
さて、ここの銅像の制作者は朝倉文夫です。さすがに迫力があります。
昭和32年(1957)、開都500年を記念して造られました。そして、旧東京都庁第一庁舎前に飾られていましたが、都庁が平成3年に新宿区へ移転したことに伴い、その後は、跡地に平成9年に建てられた東京国際フォーラムの中に移設されました。太田道灌像だけが残されたのです。
実は、この太田道灌像は、2代目でした。
その初代銅像を造ったのは、朝倉文夫の実兄渡辺長男でした。
その道灌像は、大正9年(1920)に、旧東京府庁舎の正面玄関前に設置されましたが、昭和18年(1943)に供出されてしまいました。
昭和18年4月8日の読売新聞にこんな記事がでています。
「東京府庁の正面玄関で決戦下の大東京を睨んでいた太田道灌と徳川家康の銅像が、こんど銅像仲間に率先して勇ましく出陣した。両銅像とも約170貫である」
いかにも勇ましいです。時代を感じます。
それに、当時は、徳川家康の銅像の銅像もあったのにも、少し驚きです。
昭和32年(1957)に朝倉文夫が太田道灌像を制作しました。
天守閣は、家光が建てた、寛永の天守閣を城模型作家・長谷川進氏が制作したものです。
江戸城天守閣模型

「KITTE」屋上庭園からの丸の内界隈

保存すべきだ、とおおいに騒がれた東京中央郵便局。一部保存しての構造ビルが出来て、もう4年になります。、時間の早さにただ驚かされてしまいます。
東京中央郵便局、今は、JPタワーというのですか、地上38階、地下4階、高さ約200mの超高層ビルです。
そして、その地下1階から地上6階が商業施設になっていて、名称は、「KITTE」です。
「切手」と「来て」の意味合いを込めて「KITTE(キッテ)」ということです。
オープンしたのは、2013年3月21日です。
皇居東御苑を散策して、その帰り、その「KITTE」の6階の屋上庭園に行ってきました。
6階にある屋上庭園は高層ビルの谷間に約1500平方メートルの開放的な空間になっています。
なかなか見事な風景でした。なにせ、東京駅が目の前あります。夜景スポットとして人気なのだそうです、納得できます。
間近にみえる東京駅丸の内駅舎。
東京駅が間近に
駅舎の中の線路も、新幹線もしっかり見えます。
新幹線とグランルーフがみえる
丸の内駅前も、手前の横断歩道から奥のほうの道路に描かれた白線まで、デザインした文様のようにきれいにみえます。写真にすると雪景色のようでもあります。
丸の内駅前
丸ビルと新丸ビルもしっかり望めます。
丸ビルと新丸ビル
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR