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上野動物園のパンダ

平成29年3月20日春分の日。
上野動物園が明治15年(1882)に開園してから135周年の節目の年でした。(それを記念し、上野動物園は入園無料になっていました)
初めて、パンダに会ってきました。
多くの人の列に入り、並びました。入り口の案内です。
上野動物園 パンダの檻へ
パンダ ハウス 逆立ちをしています。表札の意味になるかな。
モザイク パンダの部屋
本物に会えました。
並んで入りパンダに会えた
目の前を歩いて行きます。
目の前を歩くパンダ
オスで、名前はシンシン。
看板 シンシンの案内
こちらは食事中。
リーリーの部屋
やっと前に行かれました。
食べているリーリー
水を飲んでいるのか、リーリーの後ろ姿。
後ろ姿のリーリー
メスのリーリーの案内とリーリーの家。
向こうに りーりーが
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台東区東上野にある法善寺  斉藤長秋三代墓

最後にもうひとり、法善寺に江戸のまち歩きにとってとても大事な人のお墓にお参りしました。
法善寺は、本願寺第十三世宣如上人の法弟中山浄賢が寛永10年(1633)神田に創建、明和9年(1772)の火災に罹災し、浅草本願寺へ移転。文化3年(1806)の火災により当地へ移転したといいます
斉藤長秋三代墓
神田の名主で、江戸名所図会、東都歳時記や武江年表を刊行した齋藤家の三代墓(東京都旧跡)墓(東京都旧跡)があります。
齋藤家は美濃国の出身といわれ、家康入府の時から江戸神田に住んで、雉子 ( きじ ) 町の草分け名主として六ヶ町を支配していました。また、神田果物市場を監督して野菜上納のことを掌ってもいました。
齋藤長秋(幸雄)は、京都の地誌である『都名所図会』に刺激を受け、寛政年間に、江戸の名所図会の編纂を開始します。8冊本として刊行予定で、寛政11年(1798)に出版許可も得ていましたが、寛政11年(1799)63歳で病死してしまいます。
後を継いだ婿養子の 齋藤莞斎(幸孝)は郊外分などの追補に努め、また、なかなか決まらなかった、挿絵を、長谷川雪旦に依頼しました。
しかし、莞斎(幸孝)は文化15年(1818)に47歳で急死してしまいます。
その子の月岑(幸成)は15歳で斎藤家を継ぎました。月岑(幸成)も先代からの遺志を継ぎ、先代からの友人などにも支えられて出版事業を成就させます。
挿絵は長谷川雪旦(および子の雪堤も一部を描いたとされます)が描きました。雪旦は、安永7年(1778)江戸で生まれ、天保14年(1843)に亡くなっています。
『江戸名所図絵』7巻20冊は、斎藤家祖父・親・子3代が35年かけて完成
出版した7巻20冊の江戸の町と近郊に関する一級地誌資料です。江戸の風俗・行事・名所等を、絵入りで解説したもので、前編が天保5年(1834)に、後編が天保7年(1836)に出版されました。
文・絵ともに実地踏査に基づいており、江戸の都市景観を知る上で貴重な史料です。
ただ、月岑(幸成)は、文化、文政時代にかけて祖父・父2代の原稿整理や最終点検、校正など編集一切のことをしていたのですが、祖父の「寛政」時代を強調するため、それ以後の「享和・文化・文政・天保」の年号は一切 出てきません。つまり、「江戸名所図会」の企画者たる祖父幸雄の顕彰の気持ちを汲み取れます。 
月岑(幸成)の「附言」には次のようなことが書かれています。
「この書は、祖父が寛政の頃編み、父がそれを補ったのは、文化時代末であった。それが、文政の今になって やっと出版できた。30有余年が経過し、江戸が、隆盛となるとともに、神社や寺の境界も変化することが多い。全く小さい嗣(ほこら)も僅かな時間で壮麗な大社になったり、小さい庵(いおり)も荘厳な邸宅となっていたりすることも少なくない。あるいは、立派な門構えや回廊のある邸宅も消失し、基礎の石のみになってしまう興廃の事例の枚挙にいとまがない。
とはいえ、時々現状に合わせて改訂しようと思ってもなかなかできることではない。このため、いまの目で観ると、異なっているごとが多い。どうか事情を察して不審に思わないで欲しい。」
なお、月岑(幸成)は江戸年中行事を『東都歳時記』、江戸関係事項を『武江年表』と題し、出版しました。そして、明治11年に亡くなりましたが、その後子孫が絶えてしましました。その、今現在観にも大きな貢献をしてくれている事業に対して、少し寂しい思いがする墓です。
斉藤家3代の墓

源空寺 谷文晁・幡随院長兵衛・高橋至時・伊能忠敬の墓

東上野にある源空寺は、浄土宗の寺院ですが、家康が江戸に入った天正18年(1590)に創建されました。当初は湯島にありましたが、明暦の大火により浅草の地に移転します。
源空寺 墓所
源空寺には、画家として知られる谷文晃や歌舞伎でも御馴染みの侠客幡随院長
そして、日本地図を制作するため全国各地を踏破した伊能忠敬と、その忠敬の年下の師匠、高橋至時の墓が並んであります。 
伊能忠敬は、寛政7年(1795)に、幕府の天文方に勤める高橋至時の弟子になり、測量技術を学びましました。既に50才に達していた伊能忠敬よりも、高橋至時は19才年下でした。ところが、文化元年(1804)に師に先立たれてしまいます。
伊能忠敬が死去したのは文政元年(1818)のことですが、死に臨んで年下の師である高橋至時の傍らに葬って欲しいと遺言します。
こうして、高橋の墓所の横に忠敬は葬られたのです。
i入り口に近い順にお参りしてみましょう。

▼谷文晁(たにぶんちょう)宝暦13~天保11年(1763~1840)
谷文晃の墓
江戸後期の画家。江戸下谷根岸に生まれました。26歳で田安家に奥詰見習として仕え、近習番頭取次席、奥詰絵師と出世しました。
30歳のとき 田安宗武の子で白河藩主松平定邦の養子となった松平定信に認められ、その近習となり定信が隠居する文化9年(1812)まで定信付として仕えました。寛政5年(1793)には定信の江戸湾巡航に随行し『公余探勝図』を制作しています。
また、白河だるま市のだるまは文晁が描いた図案をモデルにしたとされています。

▼幡随院長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ)元和8年~慶安3年(1614~1650)
源空寺 幡随院長兵衛の墓
町奴の頭領で、日本の侠客の元祖ともいわれます。
旗本奴と男伊達を競いあう町奴の頭領として名を売り、『武江年表』やその墓碑
若い者の揉め事の手打ちを口実に、旗本奴の頭領・水野十郎左衛門(水野成之)に呼び出され殺害されたとされます
芝居『極付幡随長兵衛』の筋書きでは、「長兵衛はこれが罠であることを勘づいていましたが、引きとめる周囲の者たちを『怖がって逃げたとあっちゃあ名折れになる、人は一代、名は末代』の啖呵を切って振り切り、殺されるのを承知で、一人で水野の屋敷に乗り込む。果たして酒宴でわざと衣服を汚されて入浴を勧められ、湯殿で裸でいるところを水野に襲われ殺された」となっています。
夫婦で墓は並んでいます。妻は、口入れ屋の娘で名前は「きん」でした。

▼高橋至時(たかはしよしとき)明和1年~文化1年(1764‐1804)
源空寺 高橋至時の墓
高橋至時は大阪の生まれで、作左衛門とも呼ばれていました。天文学で知られていた麻田剛立(あさだごうりゅう)の塾で学び、1795年に間重富(はざましげとみ)と江戸の暦局(れききょく)に出て、天文方となり、暦を作る仕事をしました。至時は、暦ができたあとも江戸に残って、天文学についての研究を続けました。
高橋至時は19歳年上の忠敬に暦学や天文学を教えした。高橋至時は毎日天体観測に熱を入れる伊能忠敬を「推歩先生」と呼んだようです。
伊能忠敬の墓

▼伊能忠敬( いのう-ただたか)延享2年~文政1年(1745‐1818)上総国小関村,現在の千葉県九十九里浜沿岸の村に生まれました。宝暦12年(1762)(に佐原の伊能家の養子となり,名を忠敬と改めます。酒造,米穀取引などの家業にいそしむ一方,村政にも尽くして名主を命ぜられ,苗字帯刀を許されます。
早くから暦学を好み,天体観測も行っていました。
寛政7年(1795)に家を長男に譲り,江戸へ出て深川黒江町に住み,高橋至時(よしとき)に師事して52歳のときから西洋天文学の本格的な勉学を始めました。
伊能忠敬は深川の自宅から浅草の天文台までの距離を歩いて測量しその値をもとに大まかな値を求めましたが、至時は、そのような短い距離で求めても意味がないと応じ、正確な値を求めるならば、江戸から蝦夷ぐらいまでの距離が必要だと述べました。
この事がきっかけとなり、伊能忠敬の蝦夷測量が行われ、さらにその後の日本全国の測量へとつながっていきます。高橋至時は蝦夷地測量に当たって幕府に許可を得たり、測量中に問題が起こった時には伊能忠敬に助言を与えたりするなど、測量事業を支援しました。墓石には「東河伊能先生之墓」と刻まれています。

聖徳寺 「玉川庄右衛門と清右衛の門墓 (都指定旧跡)

曹源寺の近くに、聖徳寺があります。聖徳寺は、台東区松が谷にある浄土宗寺院で、この寺には、玉川上水を開削したことで知られる玉川兄弟の墓所があります。
『玉川庄右衛門と清右衛門の墓』
江戸時代、神田上水と玉川上水を飲み水にしていました。多摩川の羽村を取水源とする玉川上水の場合、その水路は江戸大木戸まで43キロもの長さがありました。その開削工事を請け負ったのが、庄右衛門・清右衛門兄弟でした。
『上水記』(1791年)や『玉川上水起元』(1803年)によれば、承応元年(1652)11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画されます。
工事の総奉行に老中で川越藩主の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治(没後は忠克)が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟が工事を請負いました。資金として公儀6000両が拠出されました。
幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは承応2年(1653)の正月で、着工が同年4月、四谷大木戸までの本線開通がわずか8か月後の11月15日でした(この年は閏年で6月が2度あるため8か月となります)。
羽村から四谷までの標高差が約90メートルしかなかったこともあり、引水工事は困難を極めました。当初は日野から取水しようとしましたが、開削途中に試験通水を行ったところ“水喰土”(みずくらいど)に水が吸い込まれてしまいました。2度目は福生を取水口としますが、今度は、岩盤に当たり失敗しました。
こうした事情を受けて、総奉行・松平信綱は家臣の川越藩士安松金右衛門を設計技師に起用します。
安松は第1案として「羽村地内尾作より五ノ神村懸り川崎村へ堀込み-」、第2案として「羽村地内阿蘇官より渡込み-」、第3案として「羽村前丸山裾より水を反させ、今水神の社を祀れる処に堰入、川縁通り堤築立-」を立案しました。
この第3案に従って工事を再開しました。しかし、工費が嵩み、高井戸まで掘ったところでついに幕府から渡された資金が底をつき、庄右衛門・清右衛門兄弟は家を売って費用に充てます(自己資金二千両と、所有の家屋敷3ヵ所を売り払った千両)。
そして、承応2年(1653年)11月、羽村・四谷大木戸間を開通しました。
それから、翌承応3年(1654年)6月から江戸市中への通水が開始されました。庄右衛門・清右衛門は、この功績により、玉川の姓を賜り、200石の扶持米と永代水役を命ぜられました。

墓の前に大きな石碑が建てられています。
玉川氏兄弟墓碣復興記念碑
碑面には下記のように刻まれています。
「玉川氏兄弟墓碣復興記念碑
東京市水道玉川上水ノ創設者贈従五位玉川庄右衛門同玉川清右衛門兄弟両氏ハ距今二百八十餘年承應元年幕府ノ命ヲ承ケテ水道開設ノ事ヲ督セル江戸町奉行神尾備前守ノ推挙ニ依リ江戸府中ニ上水導引ノ計晝ヲ命セラルルヤ全力ヲ盡シテ其ノ堪能ナル水理ヲ究明シ鋭意調査ノ結果武州羽村ヨリ多摩川ノ水ヲ取入レ江戸四谷大木戸迄導水スヘキ計ヲ樹テタリ幕府ハ大ニ之ヲ喜ヒ両氏ニ其ノ工事ヲ掌ラシメ翌二年四月四日水路疏鑿ノ工ヲ起シ同年十一月十五日完成ス是レ即チ玉川上水路ナリ而シテ文化未タ進マサリシ當時ニ在リテハ測量器械ナカリシ為路線ノ位置高低等ハ線香ト提燈ノ火光ヲ利用シテ専ラ夜間ニ測定し又工事ハ高井戸村附近近ニ至リ工費ニ不足ヲ來シタルヲ以テ遂ニ家産ヲ投シテ之ヲ続行シタリト云フガ如キ其ノ献身的ノ努力ト犠牲的ノ苦心ハ蓋シ想像ノ及ハサル所ナルヘシ宣ナル哉幕府ハ深ク両氏ノ功ヲ賞シ各禄二百石ト玉川ノ姓ヲ賜ハリ上水役ヲ命シタリ 爾来多摩ノ清水ハ凛々トシテ市中ニ脈流シ五郡八十四箇町村ヲ併合シテ大東京ノ殷賑ヲ見ルニ至リタル今日ニ於テモ尚大部分ノ地域ニ封シ給水能力ヲ発揮スル多摩川水系隨一ノ淵源トシテ依然活用セラレ帝都ノ繁栄ヲ養フテ其ノ惠千載ニ亡ヒス
畏クモ明治四十四年六月一日兄弟ノ勲功ヲ思召サレ特ニ従五位ヲ追贈セラル両氏ノ餘榮亦大ナリト賜フヘシ今茲玉川兄弟墓碑復興後援會ハ塋域ノ改築竝墓碣ノ復興成ルト共ニ墓側ニ記念碑ヲ建テ以テ兄弟両氏ノ功績ヲ不朽ニ傳ヘムトス寔ニ近代ノ美舉ナリ乃チ其ノ請ヲ諾シ略叙スルコト此ノ如シ
 昭和十二年丁丑春三月
                    水道研究會理事長 井上秀二 題額
                    水道研究會理事   大堀佐内 撰書」

ただ、玉川上水の建設については記録が少なく、実は分かっていないことが多いのです。
庄右衛門・清右衛門はいったい何者だったか、本当に兄弟だったのか。8ヶ月で開削できたのだろうか(1653年2月10日着工、翌年8月2日本線開通とする史料もあります)。どのように水路を決定していったか、などなど。
そして、玉川上水が完成して90年が経った元文4年(1739)の、三代目玉川庄右衛門と二代目玉川清右衛門の頃のことです。武家や町人から賄賂を受け取り、賄賂の額によって分水の加減を調整しているという訴えがあり、両家の永代水元役の職も解かれてしまいます。江戸払いにもなります。
これも、永代水元役の玉川家の独占に対する、幕府の策略という説もあります。
とにかく、後の玉川家が水元役を罷免されたにせよ、初代の玉川兄弟の功績がゆらぐというものではありません。
明治44年(1911) 6月には、政府から「従五位」追贈されました。
庄右衛門 墓
2基の墓石のうち、向かって右側が庄右衛門の墓。笠付きの角石墓塔で、梵寺の下に楷書で[玉川本家先祖代々の墓]とあり、さらに次の戒名が刻んであります。 「隆宗院殿贈従五位正誉了覚大居士」
笠には、丸に根笹の家紋が刻まれています
墓の傘

清右衛門の墓
向かって左側が清右衛門の墓。先の尖った角石墓塔で、梵寺の下に楷書で次の戒名が刻んであります。
「摂取院殿贈従五位光誉照山大居士」
大正12年(1923)の関東大震災で破損したましが、昭和12年(1937)、有志によって修復されました。

合羽橋、かっぱ寺のカッパ

浅草寺
外国の人で賑わう浅草寺から、上野まで歩きました。
浅草通りを西の方に歩くと、合羽橋道具街に出会います。最近は、外国の人がお土産に買いに来るとか、テレビでよく紹介されています。
合羽橋という名前の由来については2つの説があります。
1つ目は、雨合羽に由来します。このあたりにあった橋に雨合羽が並べられていたからというものです。ある大名の屋敷の下級藩士たちが内職で雨合羽を作っていたのですが、天気の良い日に橋の上で干していました。その光景が橋の名前の由来となり、地名にもなったというわけです。
2つ目は、生き物の河童です。
この地域は水はけがたいへん悪く、少しの雨で洪水になっていました。そのため、文化年間(1804-18)に合羽川太郎という人が私財を投げ出し、排水工事に取り掛かりました。しかし、作業は、なかなか進みません。それを見かねた隅田川の河童たちが、夜な夜な排水工事を手伝ったのだそうです。
これがきっかけとなり、この地域に架かっていた橋の名前を河童とし、その河童を合羽に改めて付けられるようになったといいます。
合羽橋道具街の近くには、「かっぱ寺」の異名を持つ曹源寺という寺があります。境内には河童大明神を祀る社もあります。
そこので見かけたカッパの像を掲載します。
かっぱのぎゅーちゃん

かっぱの石像

特別展「春日大社 千年の至宝」

全国に約1000社ある春日神社の総本社である奈良・春日大社。奈良時代(768年)に藤原氏により奉られた神社です。常陸国鹿島の神または、下総国香取の神の他2柱(計4柱)の神を主祭神としてお奉りしています。
春日大社展のポスター

上野の国立博物館、特別展「春日大社 千年の至宝」に行きました。
”平安の正倉院”と呼ばれる王朝工芸の名宝とともに、貴重な中世の刀剣類、武器武具、春日信仰にかかわる絵画・彫刻などの名品の数々を一堂に展示してありました。
春日大社の草創は、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が鹿に乗り、常陸国鹿島(ひたちのくにかしま)から春日の地に降り立たれたことに始まります。
まず展示室に入ると迎えてくれるのは、かわいらしい鹿たちでした。
立体鹿島立神影図
春日神鹿御正体
南北朝時代14世紀京都・細見美術館蔵
神が春日大社に降り立ったエピソードを伝える「鹿島立神影図」を立体的に表現したもので、平安時代以降さかんに制作されたのだそうです。
刀剣の螺鈿の猫
国宝 金地螺鈿毛抜形太刀(きんじらでんけぬきがたたち)平安時代・12世紀
 春日大社蔵
柄(つか)や鍔(つば)などの多くの金具は金無垢に文様を彫り出し、鞘(さや)は金粉を蒔き、螺鈿で雀を追う竹林の猫を表現しています。特に猫が注目されていたので、気になりました。
獅子・狛犬
春日大社の第一殿から第四殿までを守っていたもの4対8体の獅子・狛犬が展示されていました。こちらは第一殿を守っていた獅子・狛犬です。
日曜日の午後だったのですが、そんなに混雑して無くて、じっくり観ることができました。
カンヒサクラ
帰り、公園の噴水の横で、カンヒザクラ(寒緋桜)が満開でした。
つり鐘状の花が特徴で、だいたい園芸品種とされていますが、沖縄県で野生化し、沖縄で「桜」と言えばこのカンヒザクラです。
沖縄県や鹿児島県奄美地方でのサクラの開花予想及び開花宣言はこのカンヒザクラで、発表されるとか。
春ですね。

尾形光琳の「紅白梅図屏風」

展示室の「紅白梅図屏風」
尾形光琳の実家は「雁金屋」という京都の代表的な呉服商で、修学院離宮も造営した御水尾上皇の中宮東福門院がパトロンだったという、とても裕福な家柄でした。
光琳は、万治元年(1658)「雁金屋」尾形宗謙(そうけん)の次男として生まれました。
宗謙が世を去った時、光琳が受け継いだ遺産は、山里町や西ノ京の家屋敷など多額にのぼり、彼はこの遺産で遊蕩生活を始めます。そのため受け継いだ財産もさすがに次第に減ってしまし,本格的に絵を描き始めるようになったのです。
画家としての名声と富を得た光琳は、正徳元年(1711)新町通二条下ルに土地を購入し、自ら設計した(先に見た)屋敷を新築。そこで次々と大作を描いきました。
宗達の「風神雷神図屏風」を模写したのもこの頃で、やがて晩年の傑作「紅白梅図屏風」に到達します。
「紅白梅図屏風」は、光琳の代表作として名高く、二曲一双の金地を背景に、老成した枯淡な白梅は樹幹の大部を画面外に隠し、紅梅は青々とした若さが画面一杯に描かれています。中央には、図案化した水流を置いて末広がりの微妙な曲面をつくり上げています。
屏風 白梅の幹

水紋

屏風右紅梅
この画面構成には、金地と波の黒地にみられる明と暗の対比、梅の静に対して流水の動、また写実的な梅樹に対してデザイン化された波紋の意匠など様々な要素を対峙させているのです。
向かって右隻に「清々光琳」、左隻に「法橋光琳」と落款があり、それぞれ「方祝」の朱文円印が捺されています。
そして、この屏風は、津軽家に伝来しました。
平成23年、デジタル顕微鏡、ポータブル蛍光X線分析装置、ポータブル粉末X線解析計による科学調査が行われました。
その結果、屏風全体を占める金地には、最近の先端科学の分析によって金箔を貼ったと思われた部分が実は手で描き込んだことも分かってきており、また、水流の部分には一面に銀が残存し、黒色部分より硫化銀が検出されたことから、銀箔を硫黄で硫化し黒色に変化させたことが推測されています。そして、下のように、水紋はもっとはっきり浮き出ていたようです。
「紅白梅図屏風」A

最期にもうひとつ、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」との関連について記しておきます。
のちに皆が「琳派」と呼ぶ、画風の流れの先に「俵屋宗達」がいます。
『風神雷神図屏風」俵屋宗達
俵屋宗達の「風神雷神図屏風」の絵を、100年後に尾形光琳が、その又100年後に酒井 抱一が、それぞれに模写をしました。
そして、もっと興味深いのは、「風神雷神図屏風」をさらに深く追求して、別の作品を仕上げていることです。
光琳の、この「紅白梅図屏風」がそれです。
左の雷神を受けて白梅を、右の風神を受けて紅梅を配してみせたのです。重ねて観るとよく分かります。
なお、酒井 抱一左は、雷神を受け、その右側に風雨による川の流れを、右の風神を受け、左側にはその風に揺れる草花を配して『夏秋草図屏風』を描いています。
、『夏秋草図屏風』

『MOA美術館』 作品コレクションより

手鑑「翰墨城」
『MOA美術館』の内装が昨年から11ヶ月かけて、大幅にリニューアルされましたが、設計を手掛けたのは、現代美術作家・杉本博司氏と、建築家・榊田倫之氏による「新素材研究所」です、
その方針を語られているものから引用してみます。
「近代以前の日本の美術品は、電灯ではなく自然光や蝋燭の光で見られることを前提に制作されています。作品が作られた当初の状況を再現するには、自然光を取り入れればよいのですが、美術品は紫外線に弱く、展示室に窓をあけるわけにはいきません。
そこで利用したのが、色温度や明るさをコントロールできる、最新のLED照明です。近代以前の状況を作り出すために、現代の最新技術が必要なのです
免震台にもなっている展示ケースの床の台には、樹齢千年を越える屋久杉の柾目の板や、畳が使用されています。近代以前、掛け軸は基本的に床の間に飾るためのもので、屏風は室内の仕切りでした。畳の上に作品を置くことで、本来の使用目的に合った姿が想像しやすくなります。」
本当に納得できる考え方です。
とにかくびっくりさせられるのは、展示ケースのガラスケースの透明さです。
展示室で見てもその存在が、わからないこだわりの低反射ガラスです。
畳ですが、実は紙で作った畳だそうです。い草だと色が変わるとか、その他にもいろんな理由があり、紙で作られています。そして、この畳と屋久杉の板が最新鋭の免震台になっているのです。
畳の上に展示して
もう一つ嬉しかったのが、リニューアル後は、フラッシュをたかない撮影については原則、自由となったことです。どんどん撮ってください、と言われました。嬉しくてたくさん撮ってきました。

「紅白梅図屏風」は後にして、展示作品を少し。
異様な存在感を放つモノリスのような物体、これも黒漆喰仕上げの展示室で、中に、国宝、野々村仁清『色絵藤花文茶壺』が展示されています、黒漆喰の小宇宙の天まで届く低反射ガラスのその中に『色絵藤花文茶壺』が浮き上がっています。
黒漆喰仕上げの展示室

野々村仁清の作品が

『色絵藤花文茶壺』

「翰墨城」
これも国宝 手鑑「翰墨城」
このページトップの写真もその作品です。 聖徳太子、紀貫之などいろいろな人の書いたものを集めた本です。
聖徳太子立像
重要美術品 聖徳太子立像 鎌倉時代
阿弥陀如来及両脇侍坐像
阿弥陀如来
重要文化財 阿弥陀如来及両脇侍坐像
「樵夫蒔絵硯箱 」
重要文化財 「樵夫蒔絵硯箱 」伝 本阿弥光悦
「月下紅白梅図」
こちらは、特別展示の杉本博司氏の作品「月下紅白梅図」。
光琳の「紅白梅図屏風」を高感度のカメラで撮影し、月夜の梅の表現に処理した作品です。
NHKの日曜美術館で、「紅白梅図屏風」の撮影の所を観ました。

光琳屋敷

光琳屋敷

光琳屋敷案内版
光琳屋敷は、尾形光琳が自ら描いた図面と大工の仕様帖、茶室起し図が含まれる小西家文書と呼ばれる資料(重文)に基づき、数寄屋建築研究の権威、堀口捨巳博士の監修により復元した屋敷です。光琳は、正徳2年(1712)頃に京都の新町通り二条下ルの地に屋敷を建て、最晩年の5年間を過ごし、2階の絵所(アトリエ)で光琳晩年の最高傑作、国宝「紅白梅図屏風」を描いたと考えられています。
間口7間半、奥行13間ほどの敷地に、建坪約90坪の数寄屋造で、江戸時代の町屋建築を伝える貴重な資料です。
書院です。
書院
書院の掛け軸は、尾形光琳が自ら描いた図面でした。
光琳屋敷の図面_edited-1
わかり安い図面も入れておきます。
光琳屋敷図面


書院の襖。京都の家では白のまま、時に気が向くと描ける状態だったっとか。ここでは、光琳の波の図です。
光琳の波の襖
この商事も光琳好みです。外の風情を障子に移します。鳥が来たとか。人が通ったとか。
光琳窓
光琳が使った3畳の茶室です。にじり口が中央にあります。
光琳の号「青々」にちなんで「青々庵」と名付けられ、扁額は日本画家・奥村土牛氏によるものです。
茶室 にじり口が中央
部屋から茶室へはこの廊下を通ります。
茶室の中のにじり口から書院の方を望んでみました。
茶室の中にじり口から
左の階段は、光琳が2階の画室へ行く階段です。急な階段です。
上 画質 右茶室
これが、光琳が「紅白梅図屏風」を描いた「画室」です。けっこう広いです。
2階画室
居間で奥、壁が赤です。
次から居間へ
台所の天井の方です。(紐の説明を聞いたのですが忘れました
台所の上
仏壇もあり、光琳の位牌も祀られていました。
仏壇

MOA美術館のお庭

熱海の海を見下ろす高台にあるMOA美術館は、世界救世教・教祖の岡田茂吉(1882 - 1955)が創立者で、彼のコレクションを基盤に、国宝3件、重要文化財66件(2016年現在)[1]、重要美術品46件を含む約3500件を所蔵している美術館です。その中に尾形光琳の代表作である国宝「紅白梅図屏風」があります、その関係だと思いますが、昭和60年(1985)に開館3周年を記念して京都にあった光琳の二条新町屋敷、光琳屋敷、が敷地内に復元されています。
この光琳屋敷が置かれた”茶苑”と呼ばれる一画には、由緒ある茶室や片桐門などが移築されて「茶道」の空間が立体的に展示されてもいます。
竹林
光琳屋敷へ向かいました。庭に出ます、そこは、斜面に沿って、竹林がありました。また、こしかない桜もあるようです。
「唐門」
庭園の入り口にある門は、「唐門」で神奈川県大磯町の三井家別邸の城山荘内にあったものです。
「茶道」の立体的空間として、茶の庭 -茶室「一白庵」、茶室「樵亭」、「光琳屋敷」(復元)、「片桐門」などが、京都の町屋のように点在しています。
植栽が美しく、まだ梅が咲いていましたが、桜、新緑、紅葉と、四季折々の風情を楽しむことができると解説されました。
茶室「樵亭」
茶室「樵亭」です。新しく敷かれた萱葺きの屋根です。 備前池田藩の筆頭家老の、伊木忠澄(1818〜1886)は、晩年三猿斎と号し、茶の湯三昧の余生を送り、岡山の荒手屋敷には20に余る茶室が設けていたようです。そのうちの「大爐の間」と呼ばれた茶席を、後楽園から移築したものです。
「片桐門」
「片桐門」です。昨年の「真田丸」にも登場した 豊臣家の重臣、片桐且元が薬師寺の普請奉行をつとめた際の宿舎の正門です。当時且元は馬上のまま此処を通行したといわれています。大蕨手形(おおわらびてがた)の金具が付けられています。
今年は梅の開花が1週間も早く、梅園の花も咲き終わってしまっているようですが、お庭の梅はまだ咲き誇っていました。
白梅

紅梅
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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