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MOA美術館 2

本館
本館は3階建てで、展示棟とロビー棟が連絡ブリッジを挟み左右に連なっています。相模湾を前に、みどりとのの環境との調和を考慮し、外観は極めてシンプルなデザインを採用し、外壁は、格調の高さを考慮しインド産砂岩の割肌仕上げとしています。
インド産砂岩の割肌仕上げ

階段の上
そして部屋に入ります。
美術館メインエントランスの高さ4メートルもある漆塗の自動ドアです。
漆塗りの扉
今回新調されたもので、蒔絵の人間国宝、室瀬和美さんによる作品です。
漆塗りの扉 2
高さ4mもある巨大なステンレスに、漆が塗られました。その着想は、東大寺に伝わった根来塗のお盆から得たそうです。
根来塗は、表面の朱漆がこすれて下塗りの黒漆が透けてくる、その味わいを楽しむ漆器です。
この扉がどのように経年変化するのか楽しみです。
根来塗の扉

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MOA美術館

熱海市の高台に建つMOA美術館。約11カ月の改修工事を終え、現在、リニューアル記念名品展が開催されています。テレビで紹介され、前々から観たいと思っていた、尾形光琳の紅白梅図屏風を観に、MOA美術館へ行きました。
美術館入り口前

長いエスカレーター
美術館へ入り、長いエスカレーターを上っていくと、万華鏡の鮮やかな光が目に入ります。
直径約20m、高さ約10mの巨大なドーム型の円形ホールです。
青と緑の万華鏡

赤の万華鏡 
世界最大の万華鏡フェスティバル「ブリュースター・カレイドスコープ・ソサイエティ」において、日本人としてはじめて2年連続グランプリ(2005、2006)を獲得した依田満・百合子夫妻の万華鏡が映写されています。
また、この万華鏡のために作曲家・中村由利子氏が新たに制作した音楽とが流れています。しばし、この場が離れられません。
「円形ホールのドームいっぱいに全天周の太陽系惑星イメージを投影し、宇宙を連想させる音を発しながら周回する惑星たちが共鳴し、宇宙の調べをイマーシヴに音像化した迫力の体感!」といった解説がありました。
なるほど、宇宙を感じます。
縦長で万華鏡
そこから、とびらを抜けると、本館前のムア広場 です。
彫刻と本館
20世紀彫刻家の第一人者、ヘンリー・ムアの「王と王妃」が設置されています。(ムーアで覚えているので、ヘンリー・ムーアとします)
ムーアの王と王妃
彫刻のタイトルは「王と王妃」。確かに、気品が感じられます。
横から「王と王妃」
ムーアは彫刻を野外に展示することを好みました。「彫刻の置かれる背景として空以上にふさわしいものはない」と語っています。
本館に入ります。
本館の中から観たムア広場です。
館内から観た ムア広場

落合・中井のイベント「染めの小道」

大正橋から
新宿区落合・中井で恒例となった「染めの小道」が、今年は9回目で、2月24日開催されました。行ってみました。
「染めの小道」は、街全体をギャラリーとして見立てて、染め物を展示するイベントで、川、妙正川には反物を架ける「川のギャラリー」展示を、そして商店街のお店の軒先には、染色作家が各店のために作った暖簾を飾る「道のギャラリー」を展開します。
川のギャラリーです。
寺斎橋と川のギャラリー

横からの眺め

大正橋から幼稚園生と

染色工房「二葉苑」で
二葉苑ののれん

二葉苑で


林芙美子記念館

林芙美子は、昭和14年(1939)に中井にある四ノ坂の中腹に、島津家の所有地だった土地を買って家を建て、昭和16年(1941)8月にその新居へ移りました。それが現在の「林芙美子記念館」で、この家が彼女の終の棲家でした。
設計は山口文象。
山口文象は、明治37年(1902)、浅草で、大工の子として生まれ、中学校も行かせてもらえず、職工徒弟学校を出て清水組へ就職しました。
当時の建築家は、東京帝国大学の出身者中心でしたから、なんのつてもなく、一流の建築家になったのは、よほど努力したのだろうと思われます。
山口文象は芙美子より1歳若いだけ、しかも貧困生活から自力で、第一人者になったという経歴に似たところがあります。
そんな山口文象に共感をもって設計を依頼したのかもしれないなとおもわれないこともありません。
購買と屋根
北側の小山をあがると、見事な瓦の屋根が 一望できます。
画家だった夫・緑敏のアトリエ棟の屋根の造りはユニークです。モダニズム建築家・山口文象ならではのデザインと言えるでしょう。
ちょうど、梅が満開でした。林芙美子記念館の梅とアトリエの屋根

西落合、「自性院」の節分会

今年の節分は、西落合の自性院に行きました。
自性院は、秘仏「猫地蔵」を安置し、ねこ寺として有名です。そして、そのご開帳が節分の日だけなのです。しかも、豆まきは七福神がするとのこと、ぜひにと思って出かけました
真言宗豊山派の寺院で西光山自性院無量寺といい、寺伝によると弘法大師空海が日光山に参詣の途中で観音を供養したのが草創ということです。
七福神が来た
七福神は、お寺の周りを練り歩き、2時ごろ豆まきと調べて、それでもと、1時に行って見ると、七福神は境内にすでにいました、そして、住職といっしょに地蔵堂に入っていき、護摩が焚かれ、読経が始まりました。
七福神の豆まき1
30分ほどで、読経が終わり、みんな、外に出て来て、お坊さんから豆をまきが始まりました。
話に聞いていた、猫のぬいぐるみを来た子どもや、鬼はいませんでした。
お寺の周りを歩くのも無かったのかもしれません。それで時間が早くなったのかも、と早く来て良かったと思いました。
この近くの中井御霊神社の節分祭にも、恵比須・大黒が登場するようですが、豆まきにと七福神のつながりはどこにあるのかな、と思いました。 
勢揃い 七福神・道灌、神主
猫地蔵尊 全体

豆まきが終わると、地蔵堂が開き、秘仏の猫地蔵のご開帳です。
猫地蔵の縁起は、文明9年(1477)、太田道灌が豊島左衛門尉と、江古田ヶ原で合戦した時のことです。道灌が夜道に迷っていた時に、一匹の黒猫が現れ、自性院へと導き、危難を救ってくれました。道灌は、その猫が死んだとき、猫の地蔵像を造り奉納しました。その地蔵は「道灌招ぎ猫」と呼ばれます。
そして、もう一つ、明和4年(1747)、江戸市中の評判となっていた、金坂八郎治の妻(覧操院孝室守心大姉)のために、牛込神楽坂で鮨商を営む彌平という人が、貞女の誉を後世に伝えたいと、一体の猫面地蔵尊を石に刻んで造り、猫の地蔵尊を祀っている自性院に納めたというものです。こちらは、「猫面地蔵」と呼ばれています。
2体とも秘仏となっており、毎年2月の節分の日だけ開帳されるわけです。
2体の猫地蔵が、招き猫や猫のオブジェに囲まれて鎮座していました。
地蔵堂奥の左は太田道灌奉納の「道灌招ぎ猫」(写真上)。右が「猫面地蔵」(写真下)です。
「太田道灌奉納の猫地蔵」
「猫面地蔵」
堂内には奉納された招き猫がたくさん並んでいます。
猫好きの人が自性院の猫にまつわる噂を聞いて奉納したようです。
猫の人気ますます上り調子、今後も人気の行事になるでしょう。
最後に、入り口の石の招き猫です。
入り口の招き猫

荻外荘 (旧 近衛文麿邸)

近衛文麿邸として、有名な荻外荘(てきがいそう)です。
荻外荘公園
今は公園になっていますが 木々生い茂る池だったのを杉並区が埋め立てて 公園にしました。
公園の向こうに木々があって その奥に邸宅が少し見えます。
現在は 邸宅 は調査中で 近づけません。
調査中の建物
公園の公開は、平成27年3月14日からでした。
平成24年(2012)、この公園とその奥の邸宅部分、約6000平方メートルの敷地を、近衛家の親族と協議のうえ、杉並区が取得・保全することになったのです。
荻外荘は、昭和2年(1927)に、天皇の侍医でもあった入澤達吉の住宅として建てられました。
設計は、伊藤忠太です。湯島聖堂の時に書きましたが、築地本願寺や大倉集古館、両国の震災祈念堂などの設計をしています。
昭和12年(1937)に、近衛文麿が買い取って別荘としました。
元老西園寺公望が「荻外荘(てきがいそう)」と名付けました。
近衛文麿は昭和12年より第34代、38代、39代と3回に渡って総理大臣を勤め、日常をここで暮らしていました。
「東亜新秩序」の建設を確認した昭和15年(1940)7月19日の「荻窪会談」や、対米戦争の是非とその対応について協議した昭和16年(1941)10月15日の「荻外荘会談」などの特別な協議はもとより、時には定例会合の五相会議までをもこの荻外荘で開かれています。
また、連合艦隊の山本五十六が、日米が戦ったらどうなるかを近衛から問われ、「初めの半年や1年は大いに暴れてご覧にいれますが、2年、3年は確信もてません」と応えたのもこの荻外荘です。
昭和20年(1945)12月6日に、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが決定し、近衞は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の12月16日未明に、荻外荘で青酸カリを服毒して自殺しました。54歳2ヶ月でした。
なお、戦後、吉田茂は近衛が自殺した部屋でしばらく寝泊りをしていたという。
戦後、昭和35年に玄関部分を中心とした、建物の3分の1強が巣鴨の天理教に譲渡されて、駒込にある天理教の東京総本部に移築されました。
その部分が奇跡的に 良い状態で今日も残っています。もしこの2つが荻窪の地で合体すれば、さらに価値 が高まるだろうと思われます。
公園の向こうの建物
「別邸」についての覚え書き。
近衛文麿の父、近衛篤麿が下落合に2万坪とお言われる広大な敷地を購入したのは、明治33年(1900)のことです。学習院院長をしていて、下落合が便利だったことも下落合を選んだ理由のひとつだったと言われます。
近衛家とは、摂関家すなわち公家のトップとして明治期に活躍した貴族政治家、近衛篤麿のことです。
明治37年(1904)にその篤麿が没します。その大邸宅とともに莫大な借財を継いだのが息子の近衛文麿です。
その文麿の手により、大正11年(1922)より、邸宅が「近衛町」と銘打ち分譲されます。
大正13年(1924)9月、近衛文麿は麹町の敷地に建て坪のべ250坪の新たな邸を建設しています。
大正11年(1922)からの東京土地住宅(株)による「近衛町」開発がスタートする以前、近衛旧邸が解体された直後から計画されていたようですが、写ったのは大正13年でした。しかし、その麹町の家は、わずか3~4年でイヤになり、また下落合に帰ってきています。
昭和初期の段階では麹町にあった大きな屋敷を、近衛文麿は周囲に「本邸」と位置づけていたはずです、下落合に建設した新邸は、「別邸」とされていましたが、麹町邸にはその後もどっていないので、下落合の近衛新邸が実質の「本邸」となっていました。
昭和12年に荻窪の「荻外荘」を<別邸>として入手し住むようになると、本邸はどこになっていたのでしょう。
実質、昭和12年から住んでいて、亡くなったのも荻窪の「荻外荘」でした。

杉並区立角川庭園

幻戯山房
日本文学研究者で角川書店の創立者である角川源義の自邸を整備し、平成21年(2009)5月に開園しました。その11月には国の登録有形文化財に登録されています。
昭和30年竣工の木造二階建て 桟瓦葺きの戦後住宅です。
書 「幻戯山房」
敷地内には、近代数奇屋造の邸宅があり、幻戯山房~すぎなみ詩歌館~と名付けられて、展示室、詩歌室、茶室として利用されています。
角川源義は富山県に生まれ。早くから「講談倶楽部」「キング」など年長者向けの雑誌を読みふけりました。学校では漢文で抜群の素質を見せたか。
東京市立一中(現・東京都立九段高校)に通い、昭和20年(1945)に角川書店を設立。昭和24年(1949)に角川文庫を創刊。
お茶室
邸宅内の茶室です。すっきりとシンプルに作られ、窓から 庭の景色が大変広く見えます。
庭の梅が花をつけていました。
紅の梅とだんだん

白梅
管理運営の受託者であるすぎなみ学びの楽園の人が常に「心がけている点」として書いていました。
「角川庭園は杉並の貴重な文化財でありますので、庭園も建物も始めの形を変えないということに細心の注意を払っています。たとえば、庭園の植物ひとつ何も足さない、何も引かないということをルールにしております。来園者の方々の中には、お庭に良い植物があるから、と、株分けして持ってきてくださる方もいらっしゃるのですが、丁重にお断りさせていただいております」
こうした姿勢は本当に大事だと思います。お庭に咲く花々も、角川源義のが大きさは違うかもしれませんが、見たであろう花々なのでしょう。俳句が出来ると良いですね。
水仙も
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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