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荻窪散策 大田黒公園

大田黒公園 i入り口
大田黒公園は、日本の音楽評論の草分け的存在であった大田黒元雄の自邸跡地です。
大田黒元雄の「公園にしてほしい」という遺志により、遺族によって区に寄付された土地を杉並区が日本庭園として整備しました。広さは約8,900平方メートルに及びます。できる限り当時の原形を保時した園内に池が再現され、イチョウ並木をはじめとしたアカマツなどの巨木が茂っています。
大田黒の父、大田黒重五郎は、日本の水力発電の先駆者で、芝浦製作所(現東芝)の経営を再建し、財をなしましたが、江戸時代には徳川幕府の御家人で、小牧(こまき)が本姓でした。元熊本藩の大田黒惟信(-これのぶ、砲術家)の次女・らくと結婚し、以後大田黒姓を名乗ることとなりました。
大田黒元雄は、戦後、NHKのラジオ番組『話の泉』のレギュラー出演者となり、茶の間の人気を博しました。
『話の泉』は、昭和21年(1946)12月3日から約18年にわたりNHKラジオ第1放送で放送されたクイズバラエティ番組です。
司会は、私が聞いていたころは、2代目の高橋圭三でした。
解答者には、山本嘉次郎、サトウ・ハチロー、徳川夢声、渡辺紳一郎、春山行夫、堀内敬三、そして、大田黒元雄といった当時の有名人でした。
あの、大田黒元雄さんは、こんなすごい家に住んでいたのかと驚きでした。
太田黒公園を散策しました。
•檜の門と石畳
檜の門と石畳 正
総檜、切妻づくりで、屋根は棧瓦ぶき。左右に築地塀のあるどっしりした構えになっています。
門を入ると白い御影石を敷いた園路がまっすぐにのびています。
その長さは70メートルあり、左右は樹齢100年を経た大イチョウの並木です。
•休憩室と茶室
管理棟は茶室、休憩所と事務室とを渡り廊下で結んだ一棟になっています。
•大木と芝生の庭園
管理室から

芝生の庭園
茶室の縁側から庭園が一望でき、目の前は広々とした緑の芝生で、前方の池までなだらかに傾斜しています。
芝生には数本のアカマツが高々とそびえ、根元はササでおおわれ、芝生の左手は、ナラやケヤキなどの木立です。
•流れと池
茶室・休憩所の裏の中庭に井筒があり、そこから細い流れがあります。
流れは茶室の周りを一周して、次第に幅を広げながら、木立の中を流れてこの庭園の中心的な施設である池にそそぎます。
池は筑波石と植込みで飾られ、ほとりにはあずまやが建っています。
池と黒松
•記念館
記念館
芝生の広場の西寄りに、大田黒氏の仕事場であったレンガ色の記念館が保存されています。 記念館は昭和8年に建てられたもので、当時としては珍しい西洋風の建築物です。
アカマツ

ここを訪れるのは、公孫樹と紅葉を見る、秋が一番良いようです。そのころはライトアップされるようです。
でも、人の少ない、冬も落ち着いた心底風景が癒やしてくれます。
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荻窪散策 西郊(せいこう)ロッヂング

西郊ロッヂング
長屋門から少し歩くと、角に回りとまったく違った洋風の建物が目に入ってきました。
右から「西郊ロッヂング」とあります。
これも、調べてみるしかありません。
下宿屋だったようです。
大正5年(1916)に下宿屋として、文京区本郷で創業し営業していて、関東大震災が発生したことで昭和6年(1931)に荻窪に本館を建築して「西郊ロッヂング」として移転とあります。このモダンな建物はこの時の竣工です。
昭和13年(1938)には新館を増築し、とあります。
その後、本館を旅館「西郊」として、新館を高級下宿洋館「西郊ロッヂング」として運営されるようになりました。
本館の旅館は現在も営業されているとのことです。
西郊(せいこう)ロッヂング
平成21年(2009)11月に国の登録有形文化財に登録さています。
建築主の 平間美喜松氏は 水道技師であり コーナーのドームの意匠は配水塔などを参照したと言われています。
何か面白い絵になるような建物です。

荻窪散策 「明治天皇荻窪御小休所跡長屋門」

昔昔ですが、一時阿佐ヶ谷に住んでいて、荻窪に知人もいたので、荻窪にはよく行っていました。何10年かぶりかで、荻窪をゆっくり歩いてみると、まるで何も知らなかったのだなと思いました。今でも、かつての「荻窪」が残っていたので、当時そういう意識を持っていたなら、良かったのにと悔やまれました。
「荻窪」の地名の由来として次のような話が伝わります。
奈良時代の和銅元年(708)に、観音像をおぶった一人の旅人がこの地に来た時、急に、観音像が急に重くなり、歩くことができなくなってしまいました。
旅人は「観音像はこの地に何か縁があるのではないか」と思い、一帯に自生していたオギ(荻)を刈り取って草堂を造り、観音像を安置しまし、草堂の名を「荻堂」と名づけたそうです。
その場所は、今も上荻にある光明院というお寺だそうです。
かつては、荻が茂った窪地だったのでしょうか。
大正から昭和初期にかけて、荻窪は、東京近郊の別荘地として西の鎌倉、東の荻窪と称され憧れの的だったとも言われます。
昭和2年(1927)に与謝野晶子・与謝野鉄幹が南荻窪に居を構え昭和 さらに昭和12年(1937)に内閣総理大臣の近衛文麿が別邸「荻外荘(てきがいそう)」を構えました。
その後、荻窪には、井伏鱒二、太宰治、棟方志功、阿部知二、戸川秋骨、 石井桃子、 恩地孝四郎、 尾崎喜八、 長谷川四郎、大田黒元雄、佐藤慶次郎、遠藤実、柴田翔、三宅榛名などの作家・芸術家、音楽家、評論家など多くの文化人が移住するようになりました。
「明治天皇荻窪御小休所跡長屋門」
荻窪駅東口から少し歩くといきなり、見事な長屋門が目に入ります。
しsて、その前に、大きな「明治天皇荻窪御小休所」の石の碑が建っています。 
調べてみると、この家は、旧下荻窪の名主、中川家の建物でした。
長屋門
明治16年(1883)に、明治天皇が埼玉県飯能の近衛師団の演習を高覧した際と小金井の桜を見物する際に、この家に立ち寄り休憩したということです。
それは、この年だけでなく、その後、小金井への花見に行く際には立ち寄ったという記載もあります。
さらに、江戸時代には、11代将軍家斉が鷹狩の際に同じくこの中田家を休憩所としていて、その際、将軍の威光を保つために、農家である中田家に、この武家長屋門が造られました。
小休所の建物
小休所の建物も長屋門の東側にありますが、非公開です。
もう一つ大事なことは、これらの建物はもともと、旧青梅街道沿いにあったとのことで、昭和62年に中田家の地にビルが建設されるということで、現在の場所に移築復元されたということです。

神泉苑

神泉苑の池の龍
二条城の南に神泉苑(しんせんえん)があります。
今は小さな神社ですが、元は平安京大内裏に接して造営された禁苑(天皇のための庭園)でしたが、現在は、東寺真言宗の寺院で。本尊は聖観音・不動明王・弘法大師です。
歴史をさかのぼってみます。
延暦13年(794)の平安京遷都とほぼ同時期に、天皇のための庭園、禁苑として当時の大内裏の南に接する地に造営されました。
もともとここにあった古京都湖(古山城湖)の名残の池沢を庭園に整備したものと考えられいて、当初の敷地は二条通から三条通まで、南北約500メートル、東西約240メートルに及ぶ池を中心とした大庭園でした。
善女龍王社から
池にまつわる善女龍王伝説があります。
天長元年(824)、干ばつが続いていたため
朝廷は“東寺の空海”と“西寺の守敏”に雨乞いを依頼したそうです。ライバル関係であった2人のうち、はじめに名乗りをあげたのが守敏です。 守敏の祈祷で雨は少し降りましたが、国中に雨を降らすことはできませんでした。
次に、空海が同じく祈祷をしましたが雨が降ることはありませんでした。
不思議に思った空海が調べたところ、空海を妬んでいた守敏が 呪力を使って雨乞いの神である“龍神”を水瓶に閉じ込めていたのです。
唯一、“善女龍王”が守敏につかまっていないことを知った空海は 北インドの無熱地(むねっち)という池から法力を使って善女龍王を呼び寄せると、3日間に渡り国中に大雨を降らすことができました。
それ以来、善女龍王は神泉苑の池に棲みつき、神泉苑の池はどんなに日照りが続いても枯れることはないという伝説になりました。
神泉苑の池の中島には空海が勧請した善女龍王社がありますよ。そしてこの雨乞い合戦により東寺は栄え 西寺は守敏とともに廃れていったと言われています。
また、源義経と静御前の出会いの話もあります。
平安時代末期長い日照続きで天下の人々は困っていました。
比叡山・三井寺・東大寺・興福寺などの高僧貴僧を招いて祈らせるも、何の効果もありません。
「この上は、神泉苑の泉のほとりで白拍子を舞わせたら、竜神が感激して雨を降らせてくれるかもしれません」そこで九十九人の白拍子に舞を舞わせるも…効果は無し。
後白河法皇は落胆しましたが、眉目秀麗で舞の上手と評判の白拍子・静という者舞わせてみましょう」と進言するものがあり、静が舞い始めると、愛宕山の方角から黒雲が起こり、雨が降ってきたとか。
源義経は賎のこの舞を見ていて、静御前を見初めたと伝えられます。

「法成橋」「善女龍王社」
善女龍王社には朱塗りの丸橋、「法成橋」がかかっています。神泉苑の中で、人気のパワースポットだそです。
1つだけ心に願いを念じながら「法成橋」を渡り善女龍王社へお参りすると、その願いは必ず成就すると言われています
「法成橋」案内

祇園祭の発祥の地になっています。
貞観(じょうがん)5年(863年)都に疫病が流行りました。
当時疫病は悪霊のしわざと考えられており、天皇以下天下万民恐れをなしました。
そこで、神泉苑の南端に66本の矛を立て、御霊会(ごりょうえ)を行いました。66は当時の全国の国の数です。そして祇園社(現八坂神社)からスサノオノミコトはじめ三台の神輿を迎え、厄払いをしました。
後には矛に車をつけ、飾り物を施して、京の町を練り歩く、祇園祭となります。
矛を立てた神泉苑南端は、現在三条通り商店街のど真ん中で、ここには八坂神社御供社(やさかじんじゃごくうしゃ)が建っています。
中世以降は荒廃し、慶長8年(1603)、徳川家康が二条城を造営した際には神泉苑の敷地の大部分が城内に取り込まれて著しく規模を縮小しました。神泉苑の水源も城の堀の水源の一つとして奪われました。
神泉苑「恵方社」
もう1つここの神社の特徴に「恵方社」という変わったおやしろがあります
恵方社の恵方は、今やすっかり2月の風物詩になった恵方巻の「恵方」の事です。その年の吉の方角を「恵方」と呼んでいます。その恵方に向かってここの「恵方社」は動きます。毎年向かう方向が違っているのです。そんな社があるのは日本でもここだけだと記載されていました。ちなみに今年の「恵方」は北北西」ということでした。
池にには鷺や鴨などが訪れるようです。そして3羽のアヒルがなかよく遊んでいました。
アヒルが三羽

上七軒歌舞練場

上七軒 空とすだれ
京都には、五花街(ごかがい)と呼ばれる花街があります。
上七軒・祇園甲部・先斗町・祇園東・宮川町だ。中でも、最も歴史が古いのが京都北野にある上七軒(かみひちけん)です。 上七軒は、京都市上京区真盛町から社家長屋町に位置する花街です。
室町時代の文安元(1444)年、一部が焼失した北野天満宮社殿を造営した際、残った資材を使って7軒の茶店を建てました。これが「上七軒」の由来といわれます。
天正15(1587)年には、豊臣秀吉が北野天満宮で開いた大茶会(北野大茶の湯)で秀吉の休憩所となり、名物の御手洗(みたらし)団子を献上したところ喜ばれ、みたらし団子を商う特権が与えられたとか。その際に山城国一円で法会茶屋株を国から与えられ、これがお茶屋の始まりになったと伝わります。
以来、上七軒では五つ団子の「つなぎ団子」紋章がつかわれています。
提灯
現在、上七軒には、お茶屋さんが10軒あるようです。
北野天満宮の東に上七軒歌舞練場があります。芸妓さんや舞妓さん(芸舞妓さん)が、日頃の稽古の成果を発表する場所です。
創建は明治35年、増改築を繰り返し昭和初期に現在の建物になっています。平成21年(2009)には、国と京都市より「歴史的風致建造物」に指定されました。現役では数少ない木造の劇場です
「光盛大明神」
歌舞練場のすぐ近くに小さな祠ですが「光盛大明神」があります。そのいわれは分かりません。
歌舞練場の中へ入ると、池庭あり。夏はここで、ビアガーデンやっていrのだとか。
上七軒歌舞練場 中庭池

上七軒歌舞練場 お庭

上七軒歌舞練場 舞台
劇場で、おどりを観て解説を聞き、終わってからお庭で、芸妓さんが並んで写真のお相手をしてくださいました。
芸妓さんたち
芸妓さん

上七軒の町をゆっくりと観たかったです。
上七軒路地

清水寺参拝ルート

奥の院から京都市街を望む
奥の院
奥の院は、清水寺の起こりとなった「音羽の瀧」の真上に建ち、開基行叡居士(ぎょうえいこじ)と、開山延鎮上人(えんちんしょうにん)が修行した旧草庵跡と伝えられています。
現在の建物は、本堂と同時期の寛永10年(1633)に再建されました。
寄棟造りの檜皮葺屋根は美しい反曲線を描き、随所に桃山様式の極彩色文様の跡を残しています。また、本堂と同様の舞台造りで、ここから望む本堂の舞台と京都市街の景観は、絵になります。
奥の院から京都市内
音羽の瀧(おとわのたき)
音羽の瀧
清水寺の開創の起源であり、寺名の由来となったのがこの瀧です。こんこんと流れ出る清水は古来「黄金水」「延命水」と呼ばれ、清めの水として尊ばれてきました。
3筋に分かれて落ちる清水を柄杓に汲み、六根清浄、所願成就を祈願するため、連日、行列ができるほどの人気の場所ですが、元は瀧行の場。開基行叡居士(ぎょうえいこじ)、開山延鎮上人(えんちんしょうにん)の伝統を守り、現在も水垢離が行われています。
3筋の滝 音羽の滝
その日も、この水を飲むために、3筋に流れる滝の前に大勢の人が列をなして並んでいました。
3筋の水は、右から『長寿』『健康』『勉学』に効くということですが、3つとも飲むとその効果はなくなると言われます。
石組みの石垣
石垣組もきれい
見事にきれいです。
その石垣を目にしながら先に進むと、再び仁王門に出会うことになります。
仁王門
仁王門から三重塔・西門→随求堂→本堂(清水の舞台)→地主神社→奥の院→音羽の滝を過ぎて、再び仁王門との参拝ルートも仁王門へと戻り、茶わん坂を下りて、バスに乗り、駅に向かいました。
参道も賑わう

清水の舞台

修理の杭と舞台
舞台は高さ約12メートル、幅約22メートル、奥行き約9メートル。
明治中期の大修理や1950年のジェーン台風で屋根が傷んだ際のほか、64~67年に本堂を修理した以来50年ぶりとなる今回は、主に屋根の檜皮(ひわだ)のふき替えや壁の塗り替えをします。(写真 奥の院側は修復中)
修復中です。
素屋根はまもなく組み立て始め、徐々に本堂が覆われ、春先にはほとんど見えなくなるということです。
そういうことあって、お参りしました。何十ぶりかのお参りでした。
清水の舞台は、錦雲渓(きんうんけい)の急な崖に、最長約12メートルの巨大な欅の柱を並べ、「懸造り」という手法で、釘を一本も使わずに組み上げた木造建築です。
本堂から張り出した「舞台」はちょうど4階建てのビルの高さにあたり、京都市街の眺望がすばらしいです。
舞台床に敷き詰められた桧板はおよそ410枚。これは100畳(約190平方メートル)に相当する広さです。高さ12メートルの舞台を支えているのは18本の欅の柱です。
「懸造り」 木の組み方
高さ10メートル、直径2メートルを超える太い欅の柱を渓谷の傾斜にあわせて並べ、その縦横にいくつもの貫と呼ばれる欅の厚板を通して接合しています。
懸造りと呼ばれるこの伝統工法は、格子状に組まれた木材同士が支え合い、崖などでも耐震性の高い構造をつくり上げることを可能にしています。
「懸造り」 小さな屋根
しかし、木材はなんといっても水に弱いです。水分はいずれ木材を腐食させてしまいます。
そこで木材を雨から守る方法が苦心されています。
舞台に雨が溜まらずに流れ落ちるように。舞台の床にほんのわずかに傾斜がつけられています。舞台そのものが実は屋根の役割を果たしています
また、よく見ると貫の上部に小さな傘のようなものがいくつも取り付けられています。これは舞台上から落ちてきた雨をさらに除けるために設置された部材です。

清水寺

清水寺 三重の塔
清水寺で、大切なことは、清水寺が建つあたり一帯は、鳥辺野(とりべの)と呼ばれる、葬送地だったことです。
鳥辺野は、化野(あだしの)、蓮台野(れいんだいの)とともに京都の3大葬送地に数えられていました。
奈良時代や平安時代は、疫病や飢饉が流行すると、多くの庶民が亡くなりました。
しかし、この時代は、庶民が墓を立てることを許されていません。庶民は、鳥辺野などの葬送地に葬られていたのです。
清水寺の下方には、現在は本願寺の広い墓地がありますが、実は当時から、清水寺のあたりは谷間になっていて、風葬や鳥葬の墓場だったのです。
鳥辺野
清水寺は懸崖造りの舞台で有名ですが、あのように高い舞台を造ったのには、それなりの理由があったといえます。つまり、あの舞台は、谷間に都の庶民の死体を捨てるために、棚を突き出して造ったものです。
鳥辺野の埋葬地は行基(668~749)が開いたと伝えられますが、
舞台から音羽の滝を望む
延鎮上人がそれらの魂を供養しようと、宝亀9年(778)に“音羽の滝”近くに庵を結んだのが清水寺の始まりです。
興福寺の僧侶であった延鎮(えんちん)が、夢のお告げに導かれるまま音羽山を訪れた所、そこには行叡居士(ぎょうえいこじ)という修行僧がいました。ところが行叡居士は延鎮に後を託すと述べると、姿を消してしまうのです。
延鎮は行叡居士が残した霊木に観音像を刻み、祀りました。
本堂へ
清水寺の本堂は、康平6年(1063年)に火災で焼けたのを皮切りに、現在に至るまで総計9度に渡って焼失し、その都度再建されてきました。
舞台から本堂を
今に残る清水寺の本堂は、江戸時代初期の寛永6年(1629)に起きた大火によって焼失した後、江戸幕府3代将軍、徳川家光によって、寛永10年(1633)に再建されたものです。
左右に裳階(もこし:軒下壁面に付いた庇状の構造物)をつけ、前方に両翼を出して廂および舞台がこれに付属した、桧皮葺・寄棟造りの建物です。
三重の塔と舞台
主殿と礼堂とその前面の楽舎とからなり、その東西両翼の間がいわゆる「清水の舞台」です。舞台の下は巨大な柱で支えられ、釘ひとつ使わずに組み上げられています。
幾度と無く再建されてきた建築ですが、その建物の規模や、崖上に舞台が伸びる構造は、平安時代の頃から変わっていません。

京都清水寺の「大黒天」と「福禄寿」

9日の成人の日に、京都清水寺へお参りしました。
本堂外陣の西側に入るとすぐに迎えてくださるのが、出世大黒天です。
出世大黒天
大きな黒頭巾と、左肩に宝物袋、右手に打出の小槌を持ち、米俵を踏む姿は、中世以降に固まった大黒さんのスタイルです。室町時代から伝わる像ですが、長年、出世・財福を願う参拝者からお賽銭をぶつけられ、漆が落剥、痛ましい姿になったいたのを 平成20年(2008)に修復され、文字通り輝く室町時代の姿が甦りました。
ここも七福神があるのかな、と思ったのですが、文政年間(1818~1830)に東山界隈で定められた「東山七福神」があってその中に入っていましたが、現在は巡拝されていないようです。それで無くても、拝観の人が多いので、七福神巡りはm無理かもそれません。
奥の院を過ぎ、音羽の滝へと向かう途中に、今度は、「傳福禄寿の石像 」がありました。
傳福禄寿の石像
そばの駒札に次のようにありました。
『この石像は、傳福禄寿と云われ清水寺縁起によれば、奈良時代宝亀9年(778)音羽の滝一帯を中心として修行中の行叡居士より、大和の子島寺僧延鎮上人が霊水を嘱され、観音像を奉納し祀ったことにより当山の草創がある。
この石像はその頃、修行中の行叡居士のお姿として伝えられ、当時の仏教修行者は道教の熟達であったことが十分想像される数少ない資料の一つである。
しかし後世では、宝冠に似た頭布と広袖の衣、長髪の顎ひげをたらし右手に持つ錫杖、左手の経巻などの形から、七福神の一人、福禄寿として信仰を集め祀られてきた。 」
清水で、二福神にお会いしました。

目黒不動尊「鷹居の松」

目黒不動尊は、天台宗で泰叡山瀧泉寺(たいえいざんりゅうせんじ)といい、大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれています。
徳川3代将軍家光が堂塔伽藍を造営し、それ以来幕府の保護が厚く、江戸近郊におけるもっとも有名な参拝行楽の場所となって、繁栄をきわめました。
江戸時代には、お堂が40もあり、諸願成就、多くの願いがかなう場所として人気がありました。現在、40のお堂のうちの1つ、「前不動」が残存しています。
仁王門を入ってまっすぐ奥に進むと高い階段が見え、その上が本堂です。
その石段下の左手に池があり、2体の龍の口から水が吐き出されています。
鶏の彫られた石
石段の右を観ると、石に鶏が掘り込まれていました。今年は酉年、ありがたいと思いました。
そしてその石の上に、鷹のモニュメントがありました。
実は、最近観たテレビの「ブラタモリ」に写って、どこにあるのだろうと気になっていました。
発見できて嬉しかったです。
鷹のモニュメント2
目黒は、鷹狩りの場所でした。三代将軍家光は、目黒での鷹狩りを好み、目黒不動にも参詣したようです。
落語「目黒のさんま」の殿様は鷹狩りに来たわけで、家光はその殿様のモデルの一人にもなっています)。鷹のモニュメント1
前に。「鷹居(たかすえ)の松」の案内版がありました。 
「鷹居の松」
「三代将軍家光公は、鷹丸という鷹をたいへん可愛がっていました。鷹狩りの途中、鷹丸をつれて瀧泉寺にたちよった時、鷹丸が行方不明になってしまいました。そこで不動の僧に祈らせたところ、格好の良い松の梢に無事に戻ってきたという話。喜んだ家光は不動を深く尊信し、幕府の保護が厚く、江戸近郊における有数の参詣行楽地となり、門前町もにぎわいました。鷹がおりてきた松は鷹居の松と呼ばれて長い間江戸庶民に親しまれてきましたが、二代目も枯れて今は小さな碑が男坂のぼり階段の脇の潅木のしげみの中にあるだけです 」
モニュメントの鷹は、おそらく家光の「鷹丸」なのでしょう。
酉年に縁起の良いお参りになりました。

元祖山ノ手七福神

元祖山ノ手七福神
江戸時代に開創したといわれる東京近郊では最古の七福神巡りの一つだという。
昭和に出来た新宿の七福神がやはり「山ノ手七福神」というので、元祖がついて元祖山ノ手七福神と言います。
目黒は江戸の鬼門にあたり、将軍が鷹狩の際に目黒不動尊に参詣したという由来があり、将軍参詣の道筋に沿って、七福神が祀らたと伝わります。とにかく江戸時代からの七福神巡りです。
こちらの七福神の特徴は、回る順番でご利益が違うということです。
目黒の寺院から白金の寺院へお参りすると「商売繁盛祈願」 白金の寺院から目黒の寺院へお参りすると「無病息災・長寿祈願」の御利益があると言われています。今回は「商売繁盛祈願」になってしまいました。
元祖山ノ手七福神 人形
こけしのような、かわいらしい七福神を購入しました。それぞれに、おみくじが入っています。その日の気分で明けて見ています。
まずは、目黒不動から。

■泰叡山龍泉寺(恵比寿神)
目黒不動
江戸の五色不動のひとつとしても有名な目黒不動 、瀧泉寺です。
龍泉寺は、不動明王をご本尊とすることから目黒のお不動さんとして、親しまれています。
七福神の恵比寿さんは、入り口左手の池のところに小さな社があり、そこに恵比寿様が奉られていました。
恵比寿神
恵比寿さまは、新宿山ノ手七福神で書きましたが少し詳しく。
恵比寿は神道の神様で、イザナギ・イザナミの2神が最初に生んだ水蛭子(ひるこ)神とも、大国主の息子の事代主命とも言われています。
水蛭子神(ヒルコノカミ)は、古事記では伊邪那岐神(イザナギ)と伊邪那美神(イザナミ)が天御柱(あめのみはしら)を立て、八尋殿(やひろどの)で新婚生活を始めたときに最初に生んだ神と記されています。
しかし、水蛭子(ヒルコ)の身体には骨がなかったので、葦の船に乗せて流されてしまいます。
日本書紀でも同じような文章として、「3歳になっても立つことができなかったので、天磐櫲樟船(あめのいわくすふね)に乗せて風のまにまに放ち棄てた」と書かれています。
葦の船で流された水蛭子は、摂津国(せっつのくに)の西宮に流れ着き、漁師の戎(えびす)三郎という人物に拾われます。そして以降は戎三郎という神となりました(源平盛衰記)。
つまり水蛭子は、戎神(恵比寿神・恵比須神)に昇華したのです。恵比寿様は、現在では大きな鯛を抱えたふくよかな容姿から、商売繁盛、家運隆盛の福神として人気を誇っています。

霊雲山称明院蟠龍寺(ばんりゅうじ)(弁財天)
蟠龍寺
目黒区教育委員会案内板によると、次のようにあります。
目黒行人坂付近にあった称明院(慶安元年1648年開創)を、増上寺の霊雲上人が浄土宗の戒律を復興するため現在地に移し、宝永6年(1709)霊雲山称明院蟠龍寺と改名再建されました。次いで、寛政6年(1794)律院となったが、「不許辛肉酒入山門」の結界石がその名残りを今にとどめています。
山手七福神の一つであり、江戸裏鬼門の鎮守として岩窟内に石造弁財天、弁天堂内に木造弁財天(八臂の天女像)が安置されています。
<岩屋弁財天>
岩屋弁財天
ここは、岩屋に弁天像が奉ってあるのが特徴です。本堂脇に弁才天を祭った社があり、その間の通路を奥に行くと、小さな岩屋があり、その中に八臂の弁財天が奉られています。
弁財天と言えば、琵琶を持った姿が一般的ですが、密教などでは八本の腕に、剣や弓、鈎、斧、笛などを持った姿で表されます。
元はインドの神で、サラスバディー川を神格化した水神で、言語の神ともされます。
日本でも水神として水辺に奉られることが多く、知恵・弁才・財のご利益があります。
江戸名所図会の蟠龍寺窟弁天祠(部分)
江戸名所図会にも描かれ、その絵によると、江戸時代の岩屋弁財天は、むきだしで人の背の2倍以上ある大きな岩穴にあったようです。(左上方の{窟」のところ)

■松林山大円寺(大黒天)
松林山大円寺
寛永年間のはじめ、湯殿山の大海法印が寺の前の坂(行人坂)を切り開き、大日金輪を祀って祈願の道場を開いたのがその始まりであると伝えられています。
明和9年(1772)2月、本堂から出火、江戸六百余町を焼き、多くの死者を出しましたが、その供養のために造られた釈迦三尊・十六大弟子、五百羅漢の像等の「大円寺石仏群」(都指定文化財)が建てられています。
ここには、三面大黒天が祀られています。

■誠瀧山妙円寺 (寿老人尊・福禄寿尊)
誠瀧山妙円寺
目黒通りを進み、白金台五丁目、自然教育園の近くに、妙円寺があります。
妙円寺は、瀧本院日忍(俗称瀧本采女)が開山となり創建したという。
瀧本采女が足利幕府に仕えていた時に足利義輝より拝領したという妙見大菩薩の他、山手七福神の寿老人尊・福禄寿尊が祀られています。
誠瀧山妙円寺
妙見菩薩は、北極星を神格化した菩薩です。
福禄寿と寿老人はどちらも中国の道教の神様で、南極星を神格化した神とされるので、ここでは北極・南極の星を奉っていることになります。

■紫雲山瑞聖寺 (布袋尊)
こちらには、昨年11月にお参りに来ました。本堂のことはそのとき記しました。
黄檗宗系単立寺院の瑞聖寺は、青木甲斐守重兼が開基、黄檗宗を日本に開宗した中国僧隠元の弟子である木庵性滔を開山として寛文10年(1670)創建したと伝わります。同派の東京宗務院です。
屋根は二重になっていて、その様式は黄檗派の典型的建築法を採つています。
瑞聖寺 (布袋尊)
大きな本堂ではお釈迦様が奉られていて、その脇に布袋様が祀られています。
布袋は、中国の実在の僧侶 契此(かいし)で、托鉢の際に頂いたものは何でも、持っていた大きな袋に入れてしまうことから、愛称として布袋と呼ばれました。
布袋尊

■最正山覚林寺 (毘沙門天)
覚林寺
小湊誕生寺十八世可観院日延が開山となり寛永8年(1631)に創建したと伝わります。可観院日延は、朝鮮の王族出身で、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に加藤清正に捕えられ、後小湊誕生寺十八世となり、当地に隠居、当寺を創建したといいます。
当寺では加藤清正を祀った清正公堂が著名で、毎年5月4日5日の両日に行われる清正公大祭には人生の苦悩に打ち勝つお守りとして「しょうぶ入り御勝守」が授与されます。
(毘沙門天)
毘沙門天を祀っています。
正面は清正堂で、有栖川宮熾仁親王の書かれた「破魔軍」の大額が掲げてある。
ここには加藤清正が祀つてあります。
午前10時半から、 迷いながら歩き、しかもゆっくり昼食もとったので、巡り終わったのはもう3時でした。

「新宿山ノ手七福神めぐり」

■浄土宗 霞関山太宗寺(布袋和尚)
太宗寺は、このあたりに太宗という名の僧侶が建てた草庵「太宗庵」がその前身で、創建は、慶長元年(1596)と伝えられています。
太宗は、近在の住民の信仰を集め、現在の新宿御苑一帯を下屋敷として拝領していた内藤家の信望も得、寛永6年(1629)内藤家第5代正勝逝去の際には、葬儀一切をとりしきり、墓所もこの地に置くことになりました。これが縁で、寛文8年(1668)6代重頼から寺領7396坪の寄進をうけ起立したのが現在の太宗寺です。
霞関山太宗寺
●布袋和尚(ほていおしょう)
七福神の中で、この布袋さんだけは中国唐代末に実在した禅僧がモデルです。物乞いをして全国を歩き、物品を入れる大きな布袋(ぬのぶくろ)を背負っていたので、布袋さんとよばれるようになりました。もちろんそれだけでなく、「土地、土地で天気を予測して的中」させ、「橋の欄干の上でひざを立てて眠る」といった逸話があります。
笑顔を浮かべた円満な容姿から癒やしを得られると親しまれています。<布袋の大量>

■稲荷鬼王神社(恵比寿)
もとは承応2年(1653)に戸塚の諏訪神社境内の福瑳稲荷を勧請したもので、天保3年(1832)に当地の百姓田中清右衛門が熊野から勧請した鬼王権現と合祀した神社です。(ただし、熊野には鬼王権現は現存していないようです)
また、この鬼王神社は、一説には平将門の霊を祀っていると言われます。鬼王とは将門の幼名「鬼王丸」に由来します。ここの節分は「福は内、鬼は内」と唱えられます
稲荷鬼王神社恵比寿
●恵比寿
日本古来の神様です。伊弉諾(イザナギノミコト)と伊弉冉(イザナミノミコト)の3男、蛭子神(ヒルコノカミ)だという説が有力です。幼いとき、親の手を離れ、九州日向から摂津(兵庫)の武庫の港まで流されたという悲しい話もあります。
また、大国主命の子息、事代主命(コトシロヌシノミコト)が恵比寿神であるという説があります。福を表す「鯛」と、その福を釣る「釣り竿」を手に持っており、海の守護と商売繁昌の神様と言われます。
釣竿は「釣りして網せず」すなわち暴利をむさぼらない、清い心を象徴しているといわれており、そこが商売繁盛の神様として人気を集めたようです。恵比寿は清廉(正直)です。

■日蓮宗 春時山法善寺(寿老人)
日蓮宗寺院の法善寺は、日相上人(貞享4年寂)が創建しました。境内に安置してある七面明神は、池上本門寺に帰依していた鳥取城主池田家4代綱清から献上されたもので、法華宗独特の七面信仰江戸進出の最初のものです。
春時山法善寺
●寿老人
中国出身です。福禄寿と同士で、「南極老人星」と呼ばれている星を人格化したものです。中国では皇帝の寿命を支配する星と考えられました。そういうことで、同一の神と言われることがあります
しかし、寿老人の方が長身で、頭にキャップをかぶり、杖をついています。それに、鶴亀が好きな福禄寿に対して、寿老人は鹿を従えていることが多いです。寿老人の福は長寿です。

■曹洞宗 大久保山永福寺(福禄寿)
万治2年(1659)の創建と伝えられる禅寺です。永福寺の山門を入ると、 金銅の如来像と地蔵菩薩が迎えてくれます。
大久保山永福寺(福禄寿)
▼福禄寿の由来
嘉永年間(1848-1854)、豊玉村の植木屋である鈴木源蔵が、信州善光寺に参詣した帰り道、犀川の岸辺で福禄寿に似た奇石を拾いました。源蔵はたいそう喜んで家宝とし、毎日礼拝して供養して、そのおかげか日ごとに家は栄えました。昭和の初め、「山之手七福神」を作るにあたり、世の人びとのために、この秘宝を公開することにして、豊香園(植木屋)より永福寺にその福禄寿を移転し安置しました。
●福禄寿
中国出身。南極星の化身で、高くつきだした頭に特徴があります。身の丈3尺で、頭と胴体がほぼ同じというスタイルです。年令も数千年を越すほどといわれ、寿老人と同じく長寿の神として親しまれています。
また、その名前にあるように中国人が大事に考える福<幸福>、禄<身分>、寿<寿命>を備えた神です。福禄寿の人望。

■厳嶋神社<抜け弁天>(辨財天) 
◆源義家が後三年の役で奥州に向かう途中ここに立ち寄り厳嶋神社に祀って戦勝を祈願し、勝利の後、お礼にこの社を建てたと伝えられています。
境内が南北に通り抜けでき、また義家が苦難を切り抜けた弁天様であることから「抜弁天」といわれています。
厳嶋神社(抜け弁天)
■辨財天
七福神唯一の女性です。大黒天や、毘沙門天と同じくインド出身で、水の神です。仏教に取り入れられ、わが国では技芸の神としても受け入れられました。水の流れの音をイメージして、琵琶を手に持っています。(弁才天)
田畑の農作物にとって、重要な水を供給するので、五穀豊穣の守り神ともいわれています。
また弁舌に長けていて、名前に「財」がつくように、富貴の神としても庶民の人気を高めました。弁財天の愛敬

■日蓮宗 大乗山経王寺(きょうおうじ)(大黒天)
経王寺は、尊重院日静大徳が慶長3年(1598)市ヶ谷田町に創建。外濠造成に伴い川田久保へ移転、天和3年(1683)当地へ移転したと言われます。
大乗山経王寺
●大黒天
大黒天堂に奉られる大黒天像は、日蓮上人の高弟・日法(にっぽう)上人作と伝わり、静上人が身延山から経王寺に安置したと伝わります。この大黒天像は、度重なる火災から焼失を免れたため、「火伏の大黒天」とあがめられました。
大黒天は、もとインドで破壊を意味する暗黒の神、破壊神です。密教では、大自在天の眷(けん)族として三宝を守護し飲食をつかさどる神となり、忿怒(ふんぬ)相を示し、寺の厨房(ちゅうぼう)などに祭られました。
七福神としては、米俵の上に乗り、頭巾(ずきん)をかぶり、打ち出の小槌を持ち、大きな袋を肩に担ぐ像で表されます。
手に持った打ち出の小槌は、ツチ(土)の宝=田から出るものといった意味があります。
日本では、大国主命と同一視されて広く信仰され、恵比須とともに福徳の神とされました。 大黒天の冨財

■日蓮宗 善国寺(毘沙門天)
善国寺は、徳川家康より天下安全の祈祷の命をうけて、日惺(にっせい)上人(二條関白照實の子、後の池上本門寺十二世)が麹町6丁目に文禄4年(1595)創建。寛政5年(1793)当地へ移転しました。
善国寺毘沙門堂の毘沙門天は、像高30cm、木造の毘沙門天像。製作時期は不明。開山の日惺上人が池上本門寺へ入山する際、関白二条照實より贈られたとされます。
虎は千里を走るという諺から金銀を早くためるようにと、寅の日が縁日とされました。
明治末期には境内に出世稲荷があることから午の日にも縁日を開くことにしたので、「神楽坂の毘沙門様」と呼ばれ、たいそうにぎわいました。
善国寺(毘沙門天)
●毘沙門天
インドの財宝福徳を司り、インドの北を守る善神。 仏教に取り入れられてから仏法の守護神とされました。
毘沙門天は、またの名を多聞天と称し、増長天・持国天・広目天と共に天の四方を守護する四天王のひとつであり、北方を守るとされます。 右手の槍は敵と闘う「宝棒(ほうぼう)」左手のツボのようなものは「宝塔(ほうとう)」と呼ばれ、人々に福徳を与える意味を持ちます。
善国寺の毘沙門天は江戸の3大毘沙門※と呼ばれ、多くの参詣者を集め、特に明治・大正期には東京でも有数の信仰地として賑いました。毘沙門天は威光です。

「新宿山ノ手七福神めぐり」

●七福神めぐり
「新宿山ノ手七福神めぐり」
七福神の信仰は、遠く室町時代中期『仁王般若経・下巻』にある「七難即滅・七福即生」という言葉に源を発すると言われ、人間の七福を七神にあてたものです。
江戸時代には「幸福を招く信仰」として、広く庶民の間に広がりました。元旦から七日までの間に、1年の福を招来するため、七福神を安置する神社・仏閣に参拝し、開運を祈る行事です。
●七福神めぐりの流行
江戸時代の初め、天海僧正は徳川家康から富国繁栄の方法を聞かれ、『仁王般若経』(仁王経)の「七難即滅 七福即生」をもとに、「家康公の徳」として、次ぎのような話をしました。
「公は長寿、冨財、人望、清簾、威光、愛敬、大量の七徳を備えたまい、困難な天下統一の大業を果たされ、平和な国土を築かれた。これは、寿老人の長寿、大黒天の冨、福禄寿の人望、恵比寿の清廉(正直)、弁財天の愛敬、毘沙門天の威光、布袋の大量の7徳すべてを兼ね備えたものと言うべきでしょう」
德川家康は大いに喜び、狩野探幽に宝船に乗った七福神の絵を描かせましたが、これを模写したものが各地に広まり、縁起が良い、おめでたいということで、七福神はしだいに民間信仰となって拡がってゆきました。
「七難即滅 七福即生」
七難とは太陽の異変、星の異変、風害、水害、火災、旱害、盗難です。
七福とは長寿、冨財、人望、清簾、威光、愛敬、大量です。
この七福は、七福神がもたらします。
7つの福(徳)を備えていれば、どんな荒波も乗り越え、目的地に着けるということです。
再度言えば、寿老人の長寿・大黒天の冨財・福禄寿の人望・恵比寿の清廉(正直)・弁財天の愛敬・毘沙門天の威光・布袋の大量です。
その徳を祈って七福神めぐりをしました。
まず、「新宿山ノ手七福神」
「新宿山ノ手七福神」は大正年中、布袋屋呉服店(ほてい屋百貨店)人形研究家有坂与太郎の発案とも、昭和9年、大久保の人中村正策の発案とも言われています。

博物館に初もうで

新春恒例の「博物館に初もうで」、「東京国立博物館」、へ行きました。入り口前でh神楽と獅子舞、恵比寿さんもいました。
東博入り口 神楽
新春特別展示「酉・鳥・とり」、カレンダーの作品クイズを手にまわりました。
そこの錦絵から2点。
▼湯上り美人と鶏  政信
奥村政信 「湯上り美人と鶏」
湯上がりの女は浴衣を肩にかけて濡縁に立ちます。そこに一つがいの鶏がいて、雄がみとれて「コ、コ、コ」と鳴くという風情です。少しエロっぽいのですが、なんだか和やかな空気が良いです。
▼「諌鼓鳥」柳々居辰斎
「諌鼓鳥」柳々居辰斎
これは勉強になりました。
『中国の伝説上の聖天子堯、舜、禹が、その施政について諌言しようとする人民に打ち鳴らさせるために、朝廷の門外に太鼓を設けました。これを諌鼓(かんこ)と呼びます。しかし、善政を行ったので太鼓は鳴ることもなく永年の間に苔むし、鶏の格好の遊び場となっていたといいます。つまり諌鼓に鶏が止まっているのは善政が行われて世の中がうまく治まっているということで、まさに「天下泰平の象徴」であると言われています。』
「閑古鳥」が鳴くというのは、悪い表現ですが、こんな話があったのですね。
諌鼓鶏の山車が有名です。広重の名所江戸百景「第51景 糀町一丁目山王祭ねり込」にはしっぽの羽が描かれています。神田祭には諌鼓鶏の山車が減殺もでています。山王祭と神田祭は、天下祭りとも呼ばれた将軍家の上覧祭ということで、江戸時代には山車は江戸城内にまで入っています。諌鼓鶏を乗せたのは一番町の大伝馬町の山車でした。「お上の政治が正しくて世は泰平、諌鼓も鳴かず、鶏も平穏に止まっておられます」といういみあいだったということだったのですね。
もう一つ、 ▼闘鶏香(十組盤の一つ)が良かったです。
闘鶏香
東京国立博物館には東福門院和子の香の盤が10組収蔵されていて。写真の闘鶏香、鷹狩香、相撲香、花軍香、龍田香、舞楽香、六義香、蹴鞠香、呉越香、吉野香があるいうことです。
東福門院和子2代将軍秀忠の娘で、後水尾天皇の女御となった人です。香道に熱心であったと伝わります。
『无上法院殿 御日記』の寛文12年10月27日条に、「この日、禁裏のお茶の口切りで、法王と東福院のほか、女性皇族が内裏に集まった。このおり、霊元天皇と明正上皇、東福院、品宮、それに六人の女房衆で、十種香を行ったところ、東福院だけが十点満点だったというのである。」(『徳川和子』久保貴子著 日本歴史学会編 吉川弘文館)

今年も良い年でありますように。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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