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『世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画』展

サンタリー美術館へ『世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画』を観に行きました。
小田野直武は安永9年(1780)秋田県角館に生まれています。
安永2年(1773平賀源内が鉱山開発の指導のため秋田藩を訪れた際、直武に出会い、西洋画の手ほどきをしたと伝えられます。
そのころ、前野良沢・杉田玄白らによる『解体新書』の翻訳作業が行われていました。『ターヘル・アナトミア』などの書から図を写し取る必要がありました。玄白と源内は親友で、源内の紹介によって、直武がその作業を行うこととなったと言われます。
杉田玄白ら訳、小田野直武画《解体新書》(部分) 
小田野直武は秋田藩の画家で『解体新書』の扉絵や解剖図の人です。32歳という若さで亡くなっています。
代表作は「不忍池図」。シャクヤクの鉢の向こうに不忍池が描かれています。江戸時代にこんな絵が、秋田の人によって描かれていたのは、驚きでした。花を描くのが目的だったのでしょうか。
小田野直武筆《不忍池図》 一面、江戸時代(18世紀)、
なかなか刺激的な展覧会でした。


帰りに、ミッドタウンのイルミネーションを観て帰りました。
六本木 イルミネーション

ミッドタウン イルミネーション2

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炭団坂から菊坂へ 樋口一葉

この奥に一様が住んでいた
炭団坂を降りて菊坂に出る手前の路地を左へまがり細い路地へ入ると、樋口一葉が暮らした家のあたりに出ます。
樋口一葉は東京に生まれ、住まいを転々とし、明治23年(1890)、この路地裏に引っ越してきて3年ほどここで暮らします。
この間、崖の上の常磐会の寄宿舎には子規が住んでおり、彼は炭団坂を降りて菊坂を右に曲がり学校へ通っていました。漱石も何度か子規を訪ねて崖の上の寄宿舎に来ています。
一葉はここを引っ越して、明治28年、『たけくらべ』や『にごりえ』を発表しています。森鴎外や幸田露伴はこれらの作品を絶賛しましたが、明治29年(1896)の11月、一葉は24歳の若さで亡くなってしまいます。
一葉の父は山梨の農民でしたが、借金をして八丁堀の同心の株を買い士族となります。明治になると東京府の役人となり、警視庁に勤めました。
その警視庁で、上司に漱石の父、夏目直克がいました。その関係で。樋口家の「お一葉を夏目家の嫁にはどうだろうかという話がもちあがったたことがあったようです。
その後一葉の父は警視庁を退職し、事業を興そうとしますが失敗、破産し、ついには病死してしまいます。18歳の一葉は全てを背負い、本郷菊坂に越してきました。
必死で生計をたて、小説を書き、評価されかけた矢先に病没してしましました。一葉22歳のときの日記にこのあたりことが一行で描かれています。
「我が家は、細道一つ隔て上通りの商人どもが勝手とむかい合居たり」
上通りとは菊坂の通りのことでそこに並ぶ商店の勝手口となる部分と向かい合った家であるということでしょう。
路地には井戸があり、一様が使ったと伝わっています。
樋口一葉が使った井戸

菊坂には、樋口一葉が通った伊勢屋質店がありました。
樋口一葉は本郷界隈に約10年間暮らしましたが、晩年は生活が貧窮し、亡くなる間際までたびたび伊勢屋質店に通ったことが日記に記されています。
旧伊勢屋質店
伊勢屋質店は昭和57年に廃業しましたが、今でも蔵や見世などの建物が跡見学園女子大学の所有になって大切に保存されています。明治40年建造の見世、明治23年建造の座敷棟、明治20年移築の土蔵が国登録有形文化財です。

炭団坂界隈の古い建物

諸井邸
炭団坂を南に春日通に向かうと、すぐに諸井邸がありります。秩父セメントを創設した諸井恒平氏が明治39年(1906)に建てた木造住宅がほとんどそのままの状態で現存し、今も後継者により住み続けています。現在北と西に残る煉瓦塀は恒平氏が勤めた日本煉瓦製造が明治39年に作ったものです。
諸井邸煉瓦塀

この通りの一本西側には右京山と呼ばれる本郷台地の西側の崖地があり、大正時代に住宅地が開発されました。東京市営真砂町住宅でオレンジ色のフランス瓦を使ったり、マンサード型の屋根をもち、中流階級を対象としたモダンな住宅地が出現していました。現在もその名残をとどめる住宅が数軒残っています。
真砂町住宅1

本郷真砂町 炭団坂〈たどんざか〉

高台から望む本郷
本郷は、江戸時代には大名屋敷が並んだ地域です。明治になり帝国大学ができたことで一変します。
帝国大学の教授たちが住む高級借家、職員や学生のための寮、下宿などが一挙にでき、専門書店、医療器具店をはじめ一般商店も増え、活気ある街並みができあがりました。
その本郷に、近代文学発祥の坂道と言われる炭団坂〈たどんざか〉があります。
文京区 炭団坂
本郷の台地より菊坂方面へ下る急な坂で、現在は53段の階段坂となっています。坂名の由来は、「往昔炭団を商ふ者多く居りしに因り」(『新撰東京名所図会』)、あるいは「切立てにて至て急成坂に有之候、往来の人転び落候故」(『御府内備考』)などの説があります。
炭団などを商売にするものが多かったことや、階段や手すりがない時代、切り立った坂で炭団のように転び落ちた者がいたことから付けられた坂名ということです。
この炭団坂上には、かつて坪内逍遙がくらし、明治18年、『小説神髄』『当世書生気質』を発表しました。
3年で、逍遙は転居しますが、その場所は、旧松山藩主久松家運営の寄宿舎「常盤会」となり、正岡子規・河東碧梧桐・高浜虚子など、後に日本の俳壇を担う人々が青春時代を過ごします。
炭団坂はまさに近代文学発祥の坂道ということになります
真砂町と炭団坂
真砂町の案内
日本の演劇学の父と呼ばれ、早稲田の文学部、特に、演劇学研究の学祖とも言われる坪内逍遥は、明治16年(1883)開成学校(東大の前身)を卒業と同時に東京専門学校(早稲田大学)の講師となりますが、逍遥の人柄にほれた銀行家、永富謙八により明治17年(1884)本郷真砂町18番地に寄宿学校兼住宅のような家を建ててもらいます。
炭団坂の西側台地にあるこの家を、逍遥は「はるのや(春廼舎)」という名前をつけました。
なお、当時まだ学生だった坪内逍遥は、東大の近くにあった根津遊廓の大八幡楼の娼妓・花紫、逍遙が数年間通いつめ、明治19年(1886)に結婚します。その妻・センとの新生活もここから始まりました。
逍遥はこの「はるのや」にいた3年間に『小説神髄』、『当世書生気質』を書き、そこへ訪ねてきた二葉亭四迷に言文一致の小説を書くように勧め、四迷は『浮雲』を書きます。
しかし、3年後逍遥はここを出て、近くの借家に住むことになります。
住んでいた寄宿舎は旧松山藩主久松家の育英組織の常磐会が買取り、旧藩出身の書生のための寄宿舎としました。
明治21年(1888)、そこへ正岡子規が入ります。子規21歳の時です。翌年、常磐会の機関紙「真砂集」に「家々の梅園を見下ろしいと好きなながめなり」と前書きして
   梅が香をまとめてをくれ窓の風
という句を載せています。
第一高等中学校(旧大学予備門)本科に進んだ年で、初めて喀血した年でもあります。
子規がここに住むようになり寄宿生の間に俳句熱が広まりました。子規はグループを作って古俳句を収集、分類し研究をします。子規の後も高浜虚子、河東碧梧桐などが出ています。
今はマンション
坂の左のビルが「はるのや」跡です。坪内逍遥や正岡子規がいた頃は、眼下に本郷菊坂エリアを一望し、眺めが良かったと思います。
階段状の炭団坂を降りて少し行くと菊坂へ出ます。

赤穂浪士ゆかりの地めぐり2 両国

神田川から隅田川へ
神田川の出口を柳橋から眺め、右に見える両国橋を渡りました。
●両国橋
名所江戸百景「第59景 両国橋大
広重の名所江戸百景「第59景 両国橋大川ばた」
両国橋を両国広小路方面から描かれています。明暦の大火(1657)は隅田川に橋がなかったために多くの死者を出したといいます。こうした惨事が起らないように、寛文元年(1661)に幕府によって、架けられたのが両国橋。橋が架けられたことにより、本所・深川方面の開発が進み、東西に設けられた火除け地の広小路は江戸一番の盛り場に発展しました。右の画像は両国広小路跡です。
両国は、「ももんじ屋」「与兵衛すし跡」「回向院」「旧国技館(大鉄傘)跡」「塩原太助炭屋跡」「芥川龍之介生育の地」なども見学しましたが、ここでは、「忠臣蔵」関係だけを抜き書きします。
■前原伊助住居跡
吉良邸図
(この図はお借りしました)
前原伊助住まい跡
前原伊助は、当初横山町で古着屋を構えていましたが、吉良家が屋敷替えで本所にうつると、吉良邸のすぐ裏手に「米屋五平兵衛」という名前で米屋を構え、邸内の情報を探ります。
●神崎与五郎も「小豆屋善兵衛」と称して裏門前に居住して雑穀やみかんなどの果実を商っていました。2人は共に吉良邸裏門を出入する人物に注意すると同時に、吉良の門長屋に住んでいる人々の情報を得るため、安売りをするなどして、いろいろと話を聞き出す事につとめました。
■吉良邸跡
吉良邸 屏と入り口
元禄15年(1703)当時、吉良邸は松坂町1,2丁目(現、両国2,3丁目)の内、約2,550坪もあった広大な屋敷でした。 吉良邸跡として残されているのは、この松坂町公園だけです。
母屋が318坪40室、東西南あわせて100人余が住む警備長屋426坪を新築していましたが、赤穂浪士たちによっ制圧されてしまいます赤穂浪士は、吉良邸の門前に来ると、2手に分かれます。表門組は大石内蔵助自らが采配を振う23名、裏門組は大石主税を名義上の主将とし、実際は吉田忠左衛門が指揮をとり、小野寺十内と間喜兵衛が補佐する態勢の24名でした。そして、赤穂浪士は両門から討入ったのでした。
吉良上野介の像アップ
今は、ほんの小さな敷地に吉良上野介座像、邸内見取り図、上野介の首を洗ったと言われる首洗い井戸、討死にをした吉良家家臣の碑、松坂稲荷神社があります。
討死にをした吉良家家臣の碑
上は元禄市の日の写真です。
首洗い井戸
毎年12月14日義士討入りの日には、地元義士会によって義士祭が、その日の午後には同じく吉良祭が盛大に行われています。「吉良祭」は、吉良上野介と討ち入りで亡くなった20名あまりの上野介家臣たちの供養祭として行われています。地元では吉良びいきの人も少なくないようです。
敷地内に鎮座する松坂稲荷は、もと兼春稲荷と称し吉良邸内にあったもので、さらに古く、この地がまだ宅地開発される以前から、この周辺の土地に祀られていたものです。
11日の日曜日に開催された元禄市では、地場産品の衣料品、物産展、お菓子などのお店がならび、多くの人で賑わっていました。
両国界隈では吉良びいきの人も少なくありません。 「いい殿様だったんだよ。地元では堤を作ったり、マメに領内を視察してまわったりして、いい殿様だっ」
実際、そういった記録は残されています。カッとなって前後を忘れて吉良上野介に斬りかかり、お家は断絶、多くの家臣を路頭に迷わせ、ついには切腹にまで至らしめた浅野内匠頭こそ、あまり褒められた主君ではないのかもしれません。
■回向院
回向院 名所図会
討ち入りが終わって、休息を取ろうとまず門を叩いたのが回向院でした。追っ手の上杉家がせめて来るかもしれず、ここで待とうとしたという説もあります。しかし、「明六つ」(午前6時)前の出入りを禁ずる法を口実に、回向院では開門をしてもらえませんでした。
■赤穂浪士休息の碑
赤穂浪士休息の場 看板
そこで一行が休息場所としたのが、両国橋東詰めの広場でした。赤穂浪士は両国橋は渡らず、ここから隅田川沿いに下りながら、永代橋を渡りました。
■大高源五の句碑
大高源吾の句碑
赤穂浪士の大高源吾の「日の恩や たちまちくだく厚氷」という句碑が両国橋東詰にあります。
「おかげさまで、長年の恨みも氷が溶けるようにとけました」という意味でしょうか。
討ち入りのあと、近くの酒屋に飛び込み「死骸の始末をしてくれる方々への酒代」として金2両を与え、この句を詠んだとか、吉良邸の隣家に「通報もせず見守ってくれた」と謝辞の意味で送ったとか言われています。
●元禄15年(1703)12月14日 早朝、大石内蔵助良雄を首班とする赤穂浪士の一行が、本所松板町(墨田区両国)の吉良邸討入りをし、四十七士(寺坂吉右衛門は密命を受け、歩いたのは46名)たちは、浅野家の墓がある泉岳寺まで歩きます。(およそ12キロを約2時間)。

赤穂浪士ゆかりの地めぐり1 江戸城から

12 月は赤穂浪士特集ということで、「赤穂浪士ゆかりの地めぐり」を8日と11日と14日の3回行いました。
まずは、8日、晴れていました。
12月8日の皇居本丸
■松之大廊下跡
松の廊下の碑
江戸城内にあった大廊下の一つで、本丸御殿の大広間から将軍との対面所である白書院にいたる全長50m、幅4mほどの畳敷き廊下でした。廊下に沿った襖に松と千鳥の絵が描かれていたことから「松之大廊下」と呼ばれました。
元禄14年(1701)3月14日午前10時頃、赤穂藩主で勅使饗応役であった浅野内匠頭長矩がこの廊下で高家肝煎の吉良上野介義央に切りつけた場所がこの松之大廊下です。 この事件により、浅野内匠頭長矩は切腹、御家取り潰し、そして、 赤穂四十七士による吉良邸討ち入りまでの元禄赤穂事件の始まりの場所です。
松の廊下の絵
吉良上野介の賄賂要求を浅野内匠頭が拒否した、あるいは上野介が内匠頭の妻に横恋慕した、それ故に上野介は内匠頭に嫌がらせを続けたのがこの刃傷事件の原因とよくいわれていますが、それらはすべてお芝居から来た話。松の廊下事件の動機がわかる史料はいまだ見つかっていないのです。
実はこのとき、松の廊下につづく白書院には江戸にやってきていた勅使と院使がいました。幕府から朝廷への年賀の挨拶の返礼に来ていたのですが、マザコンだった5代将軍徳川綱吉は、彼らを十分に接待してよい気分になったところで、母の桂昌院を従一位下の位階を授けてもらおうとお願いする気でいたといわれています。
こうした目論みがあったところが、白書院前の廊下で家臣たちがドッタンバッタン始めたものですから、綱吉はキレてしまい、刀を抜いて斬りかかった浅野内匠頭を即日切腹にしてしまったのです。
写真は皇居東御苑内にある「松之大廊下跡」の碑です。
■平河門
平川門あたり江戸切り絵図
午の下刻(午後1時頃)奏者番の田村建顕(陸奥一関藩主)の芝愛宕下にあった屋敷に 預けとなった浅野内匠頭長矩は一関藩士75名が網駕籠に乗せ、不浄門とされる平川口門より出て芝愛宕下の田村邸(現港区新橋4丁目)へと向かいました。
平川門
■北町奉行所跡
切り絵図 北町奉行書
東京駅八重洲北口近くにある北町奉行所跡。説明板には北町奉行所跡としか書かれていませんが、松の廊下事件が起こったときにはここが吉良上野介の屋敷でした。ここから本所へ移りました。
北町奉行所跡
■大石内蔵助が江戸で滞在した所
龍閑川 時の鐘
事件から1年9か月後の元禄15年11月に、大石内蔵助は江戸にやってきます。当時の江戸では赤穂浪士が吉良邸に討ち入るのではないかという噂が流れていて、そこへ大石内蔵助がのこのこやってくると大騒ぎになるということで、垣見五郎兵衛と偽名を名乗り、訴訟のために江戸に来たと偽って公事宿「小山屋」に宿を取りました。
今は天ぷらや
小山屋は江戸の時の鐘の中心だった「石町の時の鐘」の向かいにありました。碑も説明板もありませんが、現在は天ぷら屋さんがある場所が小山屋の跡です。
「時の鐘」は現存していて、小伝馬町牢屋敷の跡に移設されています。
●十思公園・石町時の鐘(こくちょうときのかね)(日本橋小伝馬町5-2 十思公園内)
小伝馬町の牢屋敷跡、十思公園になっています。ここは吉田松陰が処刑された場所といわれており、辞世の碑が建っています。
江戸で最初の時の鐘は、本石町3丁目(現在の本石町4丁目・室町4丁目の一部)に設置された石町の時の鐘であるといわれています。江戸市中に時刻を知らせた時の鐘は、市街地の拡大にともない、浅草・本所・上野・芝・市谷・目白・赤坂・四谷などにも設けられました。
十思公園・石町時の鐘
石町時の鐘は、鐘撞き役であった辻源七の書上によると、寛永3年(1626年)に本石町3丁目へ鐘楼堂を建てて鐘を撞いたことが記されており、鐘の音が聞こえる範囲の町からは「鐘楼銭」を集めて維持・運営が図られていました。
石町に設置された時の鐘は、何度か火災にあって破損したために修理や改鋳が行われました。現在の銅鐘には「寛永辛卯四月中浣 鋳物御大工 椎名伊豫藤原重休」の銘文が刻まれており、宝永8年(1711年)に鋳造されたことがわかります。
「石町は江戸を寝せたり起こしたり」と川柳にも詠まれた石町時の鐘は、明治をむかえて廃止されましたが、昭和5年(1930年)に本石町から十思公園内に完成した鉄筋コンクリート造の鐘楼へ移設されて現在に至っています。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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