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紫雲山瑞聖寺

白銀台に行ったので、紫雲山瑞聖寺にお参りしました。
元、宇治の萬福寺を本山とする黄檗宗寺院です。
寛文10年(1670年)に創建し、かっては江戸における黄檗宗寺院の中心的存在でしたが、第二次世界大戦後に黄檗宗より独立しました。
江戸時代には、「本山の光景を模擬する所にして、其経営頗る他に異なり、江戸黄檗宗寺院最初創建の伽藍」(『江戸名所図会』)として注目されていたようです。
瑞聖寺 大雄宝殿
大雄宝殿は国指定重要文化財です。延享の火災後の宝暦7年(1757)の建造です。宇治の黄檗宗大本山萬福寺の大雄宝殿と同じく裳階で重層に見える単層の仏堂です。
大雄宝殿 社殿
本尊は釈迦如来であり、脇士として阿難・迦葉が安置されている。
また、瑞聖寺は、山手七福神の一つで布袋尊像があります。
今度、七福神巡りで、ゆっくりお参りしてみたいと思います。
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大成殿

大成殿の屋根上には、鋳銅製の鬼犾頭(きぎんとう)・鬼龍子(きりゅうし)と呼ばれる守護獣が置かれています。
大成殿の屋根
●鬼犾頭(きぎんとう)。
聖堂 鬼犾頭(きぎんとう)。_edited-1
大成殿の屋根の両端に鎮座している鬼は、龍頭魚尾、二脚双角で頭を外側に向けて取り付けられていて、龍頭から鯨のように水を噴き上げています。
大棟の両端の鴟尾(しび)。通常虎頭魚尾ですが、ここでは龍頭魚尾で頭から水を噴き上げていています。
伊東忠太のデザインです。鬼犾頭は想像上の魚神。水の神として屋根の頂上にあって火を防ぎます。
こちらは、震災以前の鬼犾頭です。大成殿の中に展示されていました。
旧の鬼犾頭(きぎんとう)
吹き出している水ははめ込むようになるのでしょうか、東武にはめ込み用の穴が空いていました。
旧鬼犾頭 頭部分
●鬼龍子(きりゅうし)
聖堂 鬼龍子(きりゅうし)_edited-1
聖堂の大成殿の屋根の流れ棟(とう)の四隅角に鎮座していているのは、鬼龍子です。
狛犬に似た姿で、顔は猫科の動物に似て、牙を剥き、腹には蛇や龍のような鱗があります。
想像上の霊獣で、孔子のような聖人の徳に感じて現れるといわれます。
同じく伊東忠太デザインです。
伊東忠太は、「儒学の殿堂たる聖堂の附属物もそれに相応しいものでなければならない」としてこうした動物を作り出しました。
銅板葺の技術者が「伊東先生の求めるなだらかで繊細な屋根のラインに、職人もいい仕事で応えた」と伝えられています。
こちらも大成殿の中に展示されている鬼龍子がありました。
旧の鬼龍子
伊東 忠太(いとう ちゅうた)、1867年11月21日(慶応3年10月26日) - 1954年(昭和29年)4月7日) は、明治~昭和期の建築家、建築史家である。山形県米沢市出身。
伊東忠太は幸田露伴・尾崎紅葉・夏目漱石・宮武外骨・藤島武二と同い年です。
主な建築物としては、本願寺真宗保険会社(1912現在は布教研究所)、阪急梅田駅壁画(1923)、一橋大学兼松講堂(1927)、京都東山の祇園閣(1927)、赤坂ホテルオークラの大倉集古館(1927)、本所横網の震災記念堂(1930現在は東京都立慰霊堂)、靖国神社の遊就館(1931)、湯島聖堂(1934)、築地本願寺(1934)、など
大成殿内部
大成殿の中には、そのほか、大成殿の中には。孔子像の左右に孟子・顔子・曽子・子思の四賢人(四哲象)を祀ってあります。
孔子像は、朱舜水亡命時に携えて来たものが大正天皇に献上されていたものを御下賜された御物です。

入徳門・杏壇門・大成殿

入徳門(にゅうとくもん)
入徳門(にゅうとくもん)
入徳とは、「大学 朱熹(しゅき)章句」にある「子程子日、大学孔子之遺書 而初学入徳之門也。」によるそうです。
子程子曰、大学孔氏之遺書、而初学入徳之門也。於今可見古人為学次第者、独頼此篇之存。而論・孟次之。学者必由是而学焉、則庶乎其不差矣。
子程子(していし)曰く、大学は孔氏の遺書にして、初学徳に入るの門なり。今に於て(おいて)古人(こじん)学を為すの次第を見るべき者は、独りこの篇の存するに頼る。而して論孟(ろんもう)これに次ぐ。学者必ず是に由りて学べば則ちその差わざるに(たがわざるに)庶からん(ちかからん)。
入徳門
程明道・程伊川の先生がおっしゃった。『大学』は(偉大な)孔子とその門下の遺書のようなもので、初学者が徳の道に進もうとする時の門である。今にあって、古人のしていた学問の方法・順序を見ることができるのは、ただこの一篇の文章『大学』が残されているお陰なのである。そして、『論語』『孟子』はこれに続く書物である。学者は必ずこの『大学』によって学ぶのであれば、過ちを犯さないというのに近いだろう。
上野忍ヶ岡の林家の先聖殿創建時にも入徳門はありました。
曲阜の孔子廟には無いようです。
大正11年(1922)に、湯島聖堂は国の史跡に指定されました。
しかし、その翌年に関東大震災が起こり、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失してしまいます。
水屋
したがって、宝永元年(1704)建立で残っているのは、この入徳門と門の中の水屋だけです。聖堂内唯一の木造建造物です。
杏壇門(きょうだんもん)
杏壇門
「 杏壇門-杏壇とは、山東省曲阜にある孔子の教授堂の遺址のこと。宋の乾興のとき、大殿(大成殿)を後方に移し、教授堂(講堂)の跡地を瓦敷きにして壇(高台)とし、周囲に杏を植え、金の党懐英が「杏壇二字碑」を建立。のちそこに門扉が設けられ、杏壇門の名称が付けられました。」
少し難しいです。「荘子」漁父(ぎょほ)から。
孔子は黒々と茂った森林のなかで遊んだあと、杏(あんず)の木の生えた高台の上で休息して坐っていました。弟子たちは、書物を読み。孔子は琴を奏でて歌を唱いました。
そこから、孔子が学問を講じた壇のまわりに杏(あんず)の木があったところから。学問を教える所、学問所を、杏壇と言われるようになりました。
杏壇門から大成殿
大成殿(たいせいでん)
孔子廟の正殿です。
本瓦棒葺の屋根は緑青の緑です、壁は黒。かつてこの黒は黒漆でしたが、現在はエナメル黒塗装です。
屋上には、鋳銅製の鬼犾頭(きぎんとう)・鬼龍子(きりゅうし)と呼ばれる守護獣が置かれています。
大成殿
間口20メートル、高さ14.6メートル入母屋造りです。
大成殿の意味は、孔子廟の正殿の名称です。大成殿の中には。孔子像の左右に孟子・顔子・曽子・子思の四賢人(四哲象)を祀ってあります。

仰高門・孔子銅像・櫂の木

仰高門(ぎょうこうもん
仰高門
仰高門は、一般見学者用の入り口になる門で、平屋の鉄筋コンクリートでの切妻造りです。
「顔淵、喟然として歎じて曰わく、これを仰げば彌々高く、これを鑽れば彌々堅し。これを瞻るに前に在れば、忽焉として後に在り。夫子、循々然として善く人を誘う。我れを博むるに文を以てし、我れを約するに礼を以てす。罷まんと欲するも能わず。既に吾が才を竭くす。立つ所ありて卓爾たるが如し。これに従わんと欲すと雖ども、由なきのみ。 」
顔淵がああと感歎して言った、「仰げば仰ぐほどいよいよ高く、切り込めば切り込むほどいよいよ堅い。前方に認められたかと思うと、不意に又、後ろにある。うちの先生は、順序よく巧みに人を導かれ、書物で私を広め、礼で私を引き締めて下さる。
やめようと思ってもやめられない。もはや私の才能を出し尽くしているのだが、まるで足場があって高々と立たれているかのようで、着いて行きたいと思っても手立てがないのだ。」
上野林家の先聖殿創建時にはこの仰高門はありません。元禄3年、湯島移築の際に初めて見えます。
孔子銅像
孔子銅像
高さ4.75メートル総重量1.5トンの孔子銅像は、世界最大の大きさです。1975年に中華民国台北ライオンズクラブから寄贈されたものです。
近くまで行って見上げると、大きさが迫ります。今にも動き出しそうなほど、リアルな作りで、優しげな表情をしています。
櫂の木
櫂樹の木
楷は曲阜にある孔子の墓所に植えられている名木で、初め子貢が(孔子の墓所に)植えたと伝えられ、今日まで植えつがれてきています。枝や葉が整然としているので、書道でいう楷書の語源ともなったといわれます。
わが国に渡来したのは、大正四年、林学博士白澤保美氏が曲阜から種子を持ち帰り、東京目黒の農商務省林業試験場(現林氏の森)で苗に仕立てたのが最初です。これらの苗は当聖廟をはじめ儒学に関係深い所に頒ち植えられました。

斯文会(しぶんかい)

湯島聖堂の正門に入ると、斯文会館があります。
斯文会館
斯文会(しぶんかい)とは何か、その案内を引用します。
<斯文会は、明治13年〈1880〉、東洋の学術文化の交流を意図した岩倉具視が、谷干城らとはかって創設した「斯文学会」を母体とし、これが発展して大正7年(1918)公益財団法人斯文会となったもので、孔子祭の挙行、公開講座の開講、学術誌『斯文』の発行などを中心に活動を行ってまいりました。
関東大震災で消失した湯島聖堂についても斯文会が中心となって聖堂復興斯成会を組織し、全国に募金を展開して昭和10年〈1935〉再建を果し、その建物を国に献納、国はその管理を斯文会に委託いたしました。昭和31年〈1956〉、新たに制定された文化財保護法に基づき、改めて本会は史跡湯島聖堂の管理団体に指定されております>
会の名の「斯文(しぶん)」は、『論語』子罕(しかん)篇の中の孔子のことば「斯の文(このぶん)」(周の文王の時より伝えられた文化の意)から取ったものということです。
子畏於匡 曰
文王既 文不在茲乎 天之將喪斯文也後死者
不得與於斯文也天之未喪斯文也匡人其如予何
大意はこうです。
匡の人々が孔子に危害を加えようとした 孔子が言った
文王は既に亡くなっているが彼の始めた文化は私が受け継いでいる
天が彼の始めた文化を滅ぼすつもりなら私がそれを受け継げる道理が無い
私がその文化を受け継いでいる以上は 匡の人々が天に逆らって私をどうにかできるはずはない>
この文章には周の文化の継承者として、また、儒学を大成した思想家・教育者としての孔子の烈々たる気概が述べられています。
<「斯文」という名にはこの孔子の気概を心とし、伝えられた学問、文化を継承し現代に創造していこうとする本会の基本理念が託されています。
斯文会の事業活動の第一は、史跡湯島聖堂の歴史環境をいっそう整備し維持管理に万全を期するとともに、これを公開活用して江戸時代以降聖堂が果たしてきた役割を社会一般に認識していただくことにあります。>

斯文会会館の屋根の怪物
注目は、斯文会館の屋根上の守護獣です。また後で、まとめたいと思いますが、昭和10年(1935)の復興聖堂の設計を担当した伊東忠太の考案した棟飾りです。名前もなくその意味も今は分かっていません。

湯島聖堂

湯島聖堂は孔子廟です。 孔子廟とは、孔子の霊をまつる建物のことです。
孔子の故郷である魯(ろ)の昌平(しょうへい)郷:現在の山東省曲阜(きょくふ)に建てられた聖堂がそもそもおこりです。
湯島聖堂は、もと上野忍ヶ岡にあった幕府儒臣・林羅山の邸内に設けられた孔子廟(先聖殿)を、元禄3年(1690)、5代将軍綱吉が、儒学の振興を図るためこの湯島の地に、林家が先聖殿と言っていたのを大成殿と改称し、規模を拡大・整頓して建設しましたのが始まりです。
江戸名所図絵 湯島聖堂
この時からこの大成殿と附属の建造物を総称して「聖堂」と呼ぶようになりました。
そして、寛政2年(1790)、11代家斉の時、武士の学問を重視した老中松平定信は、儒学のなかで朱子学を正学とし、他の学派を異学とする寛政異学の禁を定めて、朱子学の振興をはかります。
そうして幕府の文教政策を担い、幕府儒官として活動する林家を補強するために、柴野栗山(りつざん)・岡田寒泉・尾藤二洲(じしゅう)・古賀精里ら地方の諸藩で朱子学に基づいて藩政改革を担った優秀な儒者たちを湯島聖堂付の儒官に任命して幕臣への講義に当たらせ、さらに一旗本に過ぎない林家の家格を上げて権威を持たせるために、美濃岩村藩主松平乗蘊(のりもり)の子の熊蔵・乗衡(のりひら)(後の林述斎)を林家当主信敬没後の養子とし、林家を継がせました。林家の中興の租と言われる林述斎の登場でした。
寛政9年(1797)、堂西隣の学寮・宿舎を建てるなど、施設の整備拡充をはかり規模をさらに拡大し、幕府直轄の「昌平坂学問所」を開設、幕府の正式の学校として、官学のとしての威容も整いました。林家以外からも教授が任命されて制度や施設が整備されました。
この時の設計は、かつて朱舜水(中国明朝の遺臣)が水戸徳川光圀のために製作した孔子廟の模型が参考にしました。また、これまで朱・緑・青・朱漆などで彩色されていたものを黒漆塗りとしたのです。
新板浮絵神田明神御茶の水ノ図
北斎の神田明神の絵ですが、後ろに湯島聖堂の屋根が描かれています。

そして、維新政府に変わった後は、湯島聖堂の構内に文部省、博物館(現在の東京国立博物館及び国立科学博物館の前身)、東京師範学校(東京教育大学を経た現在の筑波大学)及びその附属学校(現在の筑波大学附属小学校及び筑波大学附属中学校・高等学校)、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)及びその附属学校(現在のお茶の水女子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校)が開設されます。
後にそれぞれ、文部省は霞ヶ関に、国立博物館は上野に、東京師範学校は文京区大塚を経て現在茨城県つくば市に、東京師範学校の各附属学校は文京区大塚に、東京女子師範学校及びその附属学校は文京区大塚に(当初は湯島一丁目の聖堂内にあったため、お茶の水女子大学という)移転しました。

明治5年(872)3月に、大成殿で日本最初の博覧会「湯島聖堂博覧会」(文部省博物局主催)が開催された。これが後の東京国立博物館の始まりです。
           古今珍物集覧
一曜斎国輝によって描かれた「古今珍物集覧」という3枚組の錦絵があります。
画面手前には水槽に入れた山椒魚、中央に大きな黄金の鯱、正面の堂内には絵画・書跡・珊瑚・金工品、右の棚に剥製・骨格見本・額画、左の棚に染織品・漆器・楽器・陶器類などが網羅的に並べられています。
これがわが国における最初の博覧会の陳列風景でした。
この博覧会の陳列品は、翌年オーストリアで開催されるウィーン万国博覧会の参加準備も兼ね、広く全国に出品を呼びかけ収集しました。

大田南畝と昌平坂学問所

御茶ノ水 ソラシティ
御茶ノ水駅を聖橋側に出て、左を見ると、高層ビル御茶ノ水 ソラシティが見えます、
このソラシティからは、ニコライ堂がきれいに見えます。
ニコライ堂
その逆方向、神田川側に「蜀山人終焉の地」の史跡案内板があります。
大田南畝終焉の地の碑
大田南畝は牛込御徒町(現・牛込中町)から小石川・金剛坂近くを下った崖上に「「遷喬楼」( せんきょうろう )と名付けた屋敷に住んでいましたが、文化九年(1812)にここに移り住みました。
この住まいは「緇林楼」(しりんろう)と名付けました。
湯島聖堂に杏壇門がありますが、「緇林杏壇」(しりんきょうだん)という言葉あり、これは¥は学問を教える所、講堂の意です。「緇」は黒。「緇林」は黒染め布が集う所、寺院です。そういうことから大田南畝は、この住まいを「緇林楼」(しりんろう)と名付けたのだと思います。
ここからは湯島聖堂の甍と森が一望できます。
湯島聖堂 昌平黌を望む
その左側に東京医科歯科大学などの建物が見えますがそこに、昌平坂学問所がありました、
大田南畝は幕府の御徒組(おかちぐみ)に所属する小身の幕臣でした。松平定信の寛政の改革のとき、中国の科挙の制度にならった「学問の吟味」という選抜試験システムがつくられ、大田南畝も受験しました。
学問吟味が創設されるきっかけは、寛政3年(1791)7月27日の若年寄安藤対馬守から儒者たちへの通達です。おそらく柴野栗山と林大学頭(林述斎)による事前の根回しがあったのでしょう。通達の内容は、学力のある者を各部署の頭から推挙させ、湯島聖堂(寛政9年に昌平坂学問所に改称改組)において目付の立ち合いの上で儒者が試験をする、というものでした。
「寛政の改革」で仲間らが処罰された大田南畝44歳、一念発起で学問吟味に挑戦。その試験場が湯島聖堂の昌平坂学問所でした。
第1回は、寛政4年9月(1792)に実施されました、ただ、第1回学問吟味は目付と湯島聖堂儒者の間で成績評価基準の折り合いがつかず、また松平定信からも異論が出たため、285人が受験した第1回学問吟味は無効となりました。
第2回学問吟味は寛政6年(1794)2月に行なわれました。南畝も再度受験しました。
受験科目は経科・歴史科・文章科の3科がありました。
実質初回となった第2回学問吟味には237人が受験し、甲科及第者5人、乙科及第者14人、丙科及第者28人の結果でした。甲科及第者におけるお目見以上の首席は小姓組番士遠山金四郎(景晋 かげみち)、お目見以下の首席は徒衆大田直次郎(南畝)でした。
大田南畝は、狂歌で名前が知られていたこともあり、なかなか、その試験の評価を得られませんでしたが、やがて、享和1年(1801)、大坂銅座出役に、文化1年(1804)長崎奉行所出役などの役職をえることができました。

寛永7年(1630)に設置された林羅山の上野の忍岡(しのぶがおか)邸の学寮・聖廟が、大火があって焼けので、德川綱吉が、元禄4年(1691)、湯島に移して建設しました。その湯島に聖堂、学問所を建てました。ただ、当時の学問所はあくまで、林家の私塾でした。これを松平定信が、寛政の改革で、寛政9年(1797)林家の私塾と切り離し官制の学問所を設立しました。これが昌平坂学問所です。昌平坂の「昌平」は孔子の生まれた村の名前です。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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