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沖田総司終焉の地 千駄ヶ谷の池尻橋

沖田総司の亡くなった場所については、2ヵ所の説があります。
ひとつは、浅草の今戸八幡(現・今戸神社)です。ここにはりっぱな石の碑があります。
新選組隊士の永倉新八の「同志連名記」に、江戸に引き上げた時、沖田総司の肺の病はかなり進んでいて、薩長軍の江戸入りに際して、総司を含む患者たちは今戸神社に収容されたとあります。松本良順が、今戸八幡に寓居して患者の治療にあたっていました、
旧池尻橋
もう一つは、千駄ヶ谷の池尻橋(新宿区大京町)にあった植木屋平五郎の宅で亡くなったというものです。
終焉の地を千駄ヶ谷の池尻橋とした最初は、子母澤寛の『新選組始末記』(中央公論社版)です。
「新選組の一番隊長を勤めた沖田総司は、新宿御苑の前通りになっている千駄ヶ谷池尻橋の際にあった植木屋の平五郎と言う納屋に隠れていたが、慶応4年5月30日、年25で、この納屋で死んだ。宿主の平五郎は、本所辺りの旗本屋敷へ出入りして、多少の扶持米を貰い、裕福な暮らしであった。」
沖田総司逝去案内板
『新選組始末記』には、沖田総司と黒猫の話も書かれています。
この逸話は現在もファンに熱く語られているようです。
新選組の一番隊長を勤めた沖田総司は、今新宿御苑の前通りになっている千駄ヶ谷池橋尻の際にあった植木屋の平五郎というものの納屋に隠れていたが、慶応四年五月三十日、年二十五でこの納屋の内で死んだ。
      (中略)
総司は死ぬ三日程前、俄かに元気になって、お昼頃、突然庭へ出て見たいという。いつも介抱に来ている姉のお光が、新徴組にいる婿の沖田林太郎と一緒に、御支配の庄内へ行った留守で、後を頼んで置いた老婆がいたが、心配して頻りにとめるけれども、きかなかった。いいお天気の日で、蝉の声が降るようだ。丈の高い肩幅の広い総司が、白地の単衣を着て、ふらふらと庭へ出る。すぐ前の植溜の、梅の大きな木の根方に、黒い猫が一匹横向きにしゃがんでいるのを見た。「ばァさん、見たことのない猫だ、嫌やな面をしている、この家のかな」と訊く、そうじゃアなさそうだと答えると、「刀を持って来て下さい、俺アあの猫を斬って見る」という。(略)
(それから総司は、猫を斬ろうとするけれど、「ばアさん、斬れない 、ばアさん、斬れないよ」と言って黒猫を斬ることを諦めるのです。次の日も猫は居て、総司は斬ろうとする。でも斬れない。
その翌日のこと。)
「ばアさん、あの黒い猫は来てるだろうなア」といった。これが総司の最後の言葉であった。息を引取ったのは夕方である」
平成16年(2004)に、NHK大河ドラマで「新選組!」が放映され、藤原竜也演じる沖田総司とともに植木屋平五郎を島田順司が演じていました。
この年に新宿区では、市谷柳町に天然理心流剣術の道場である「試衛館跡」碑が建設され、そこには多くのファンが来訪しました。(現在は大きな建物が建ち、奥の方へ移っていますが)。
そして、そのファンの多くから沖田総司の終焉の碑を求める声が多く、有志が、平成21年(2009)8月に新宿区議会へ標題の碑の建立の陳情を提出し、平成26年(2014)4月14日に新宿区大京町の池尻橋のそばに、やっと設置されたのです。
「沖田総司逝去の地碑」は、いかにも小さいです。草の上に置かれた案内の紙のようです。
渋谷川 池尻橋下の流れ跡
下に四谷大木戸にあった玉川上水の余水吐けから流れていた渋谷川の暗渠があります。
渋谷川は、道(現外苑西通り)を潜って、対岸の深んど(深み)に出て、四谷第六小学校沿い脇を通って、JR中央線を潜り、外苑側に流れます。
池尻橋から見た渋谷川暗渠

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懐徳館、懐徳園

江戸時代、現在の本郷キャンパスには加賀前田藩の上屋敷がありました。
前田藩の家紋が入る石灯籠
明治になり、その敷地の大半は東京大学のキャンパスとなりましたが、前田家も本郷キャンパスの南西隅に屋敷として、和館(明治38年竣工)、西洋館(明治40年竣工)を構えました。
前田家は明治以後も加賀藩邸の南西の隅に屋敷を構えていました。現在、医学部一号館や理学部二号館などがある地区が前田家のお屋敷でした。
天皇行幸を強く願った前田利嗣(15代当主)の遺志を継いだ利為(16代当主)が明治38年に日本館、明治40年に西洋館を竣工させ、その後天皇行幸の内示を得て、前田家の庭師であった伊藤彦右衛門に明治43年1月に作庭を依頼し、同年5月に完成したものです。
完成した本邸と庭園をもって、明治43年に明治天皇行幸、昭憲皇太后、さらに皇太子殿下・同妃殿下の行啓を迎えており、それを記念した臨幸碑が今も築山に残されております。さらに大正期には各国の要人が訪れ、外交の舞台として重要な役割を果たしました。
大正15年に、駒場の土地(現在の駒場公園)との敷地交換に際して、西洋館・和館も大学に寄贈されます。その後、「懐徳館」と命名され、迎賓館として使用されることになります。ちなみに、この名前は、論語の「君子懐徳(くんしはとくをおもう、立派な人間は徳を修め磨くことを心掛けるという意味)」から名づけられました。
しかし、懐徳館は昭和20年の東京大空襲によって焼失してしまいます。(東京大空襲では懐徳館以外の本郷キャンパスの建物は被害を免れました。
玄関側からも懐徳館
庭から見た懐徳館
現在の和風の建物は昭和26年に建築されたものです。
そして、平成27年3月10日付けで、文化財保護法の規定により懐徳館庭園(旧加賀藩主前田氏本郷本邸庭園)が国の名勝に指定されました。
玄関前の飾り松
総長の迎賓施設である木造和風建築の懐徳館が建ち、その南に明治後期の旧加賀藩主前田氏本郷本邸に起源を持つ庭園が広がっています。普段は公開されていませんが、ホームカミングデー等の行事の際には、一般の方も入ることができます。
庭の池は、石でした。見事の石が並び、水の見立は丸い石でした。
石の池
石の流れがある
石の流れと橋
瀧のような石組みがありました。どこから運んだのでしょう。瀧の音が聞こえるようです。
上の瀧
上にある瀧も石
滝壺
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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