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真言宗豊山派寺院の最勝寺

大江戸線中井駅近くに、真言宗豊山派寺院の最勝寺があります。
最勝寺門
最勝寺の創建年代は不詳ながら、江戸時代には中井御霊神社、下落合東山藤稲荷神社の別当寺を勤めていました。
歳勝寺 本堂
明治初年に廃寺となった内藤新宿花園神社の別当寺三光院の大師堂(御府内八十八ヶ所霊場24番札所)を吸収しています
弘法大師
外の道路に面して、弘法大師の石標が二基立っていますが、いずれも道標です。きれいな方が古く安政5年(1858)9月に建てられたもので、正面は大きな「弘法大師24番」の文字の両脇に「御府内八十八ヶ所」「土佐国東寺写」と刻んであります。最勝寺は御府内八十八ヶ所霊場の第24番札所にあたります。「従是四谷北町和光院ニ11町」
最勝寺石標の左側面には「従是四谷北町和光院ニ11町」、右側面には「従是新町多聞院ニ1町」とあります。これは、かつて内藤新宿花園神社の別当寺であった三光院にあったもので、明治初年に三光院が廃寺になった際、その大師堂が最勝寺に移された時、一緒に移ったと思われます。
三光院の大師堂
もう一つ、磨滅した石標は明治28年9月に建てられたもので、右側面に「右新井薬師(新井薬師梅照院) 新高野山」、左側面に「左中野宝仙寺 上落合福宝軒支店」とあります。
新しい弘法大師の石標
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小石川後楽園でレンゲショウマ

レンゲショウマ 横から
小石川後楽園で、レンゲショウマ(蓮華升麻9の班を見ました。絶滅危惧種で、山に咲く、日本特産の花なのですね。
花が蓮に、葉がサラシナショウマ(晒菜升麻)に似ているので、レンゲショウマ(蓮華升麻)の名がつけられたとか。[丸い蕾もいくつかあります。
レンゲショウマ 2
スマホで下から撮ったのですが、残念、ピンぼけでした。
近くに蓮の花も咲いていました。
小石川後楽園 山の下の蓮

中井御霊神社のクロマツ

林芙美子記念館は四ノ坂のところにあります。
中井2丁目には東から西へ、一ノ坂から八ノ坂まで、高台へむかって並んでいます。坂の下は妙正寺川へと向かいます。
八ノ坂
そして、一の坂から八の坂まで、すべて中井2丁目です。
落合地区で、中井という地名はどうしてついたのかと気になりました。
地名由来、やはり、諸説あるようです。
①.台地の中の井戸(湧水池・水源)のことだという説。
②.中井の中は上落合と下落合の中間、井は落合台地の麓に井戸が多かったことによるという 説。
③.上・下落合の間にあって仲良く暮らす意味の「中居」が転訛したな説。
この坂のある所は、妙正寺川によって削られた崖線で、バッケと呼ばれていました、おそらく湧水も多かったのでしょう。
ですから、2の中は、上落合と下落合の中間、井は落合台地の麓の泉で井だったからが妥当かと思います。
八の坂から望む後霊神社
その中井の総鎮守と言われるのは八ノ坂上にある中井御霊神社です。
ここは、賎かで樹木も多く、昔の鎮守の雰囲気を保っています、
訪れるといつも落ち着きます。神主さんの所で野菜も作っているようで、たくさんできたので、どうぞ持って行ってください、という箱が置いてありました。
3時すぎだったので、中は空っぽでしたが、良いなと思いました。
今年の3月、鳥居の近くのクロマツが新宿区の景観重要樹木に指定されました。
御霊神社のクロマツ
その指定の理由がなkなか良いので載せておきます。
「新宿区では、歴史性・文化性等を備える地域のシンボル的存在で、景観上の特徴があり、良好な景観形成に重要な役割を果たしていると認められる樹木を、景観法に基づく「景観重要樹木」に指定しています。」
まず、景観重要樹木について説明があります。
これまでの新宿区の景観重要樹木に指定された樹木は下記の3本です。
(1)第1号 幸國寺 イチョウ(雌木)
(2)第2号 幸國寺 イチョウ(雄木)
(3)第3号 薬王院 ケヤキ です。
(1)(2)は、新宿区の天然記念物にも指定されています。数年前、枯れてきているというので、枝がだいぶ切られて、寂しい状態になっています。
(3の薬王院には、牡丹を観に今年も行きました。
さて、クロマツです。
「今回、中井御霊神社(中井2-29-16)のクロマツ2本を景観重要樹木に指定しました。中井御霊神社は、古くから落合村中井の鎮守としてまつられています。
みどり豊かな境内のなかでも、推定樹齢100年超のクロマツは、八の坂通りの坂下から見上げた時に人々の目を引き、落合地域の坂道景観を特徴づけています。
備射祭絵馬
また、文政13年(1830年)に中井御霊神社に奉納された備射祭絵馬にも鳥居の近くにマツの木が描かれているなど、クロマツが備射祭の様子を現代に継承する歴史的・文化的価値の高い樹木であることが分かります。
この樹木を、先人から受け継いだ区民共通の資産として保全・継承し、地域の魅力向上に生かしていきます。」
景観重要樹木 中井御霊神社のクロマツ 1
八ノ坂からでなく、鳥居の前の坂からの眺めがすてきです。2本の松が、大きく空に伸びています。
大きな樹木と素朴な景色、少しくすんでいる感じがなんとも言えない雰囲気を醸し出しています。
縄文から奈良時代の遺跡も発掘され、土地の歴史の厚みもありがたいです。

林芙美子と落合

林芙美子は落合の地を愛し、昭和5年(1930)に杉並区から落合に移って以来、亡くなるまでの22年間、落合に住み続けました。
最初に落合に住んだのは昭和5年(1930)。そこは、現在の林芙美子記念館の場所ではなく、新杢橋から、少し上流で、川の流れが少し下がるあたり、当時の住所で上落合字三輪、現在表示では新宿区上落合3丁目でした。
妙正寺川 林芙美子旧居?
このあたりかなと思って写真を撮りました。
当時は妙正寺川は大きくカーブして、上落合を流れていたのですが、洪水が多く、川の流れを直線にしたので、その家のあたりは、川の中になってしまったようです。
妙正寺川 流れが低くなっている
こんな流れの中に入ってしまったのでしょうか。
林芙美子がここを引っ越したのは昭和7年(1932)、川の改修があったのは、その翌年の昭和8年でした。そこは、6畳が3間で家賃は12円でした。
▼林芙美子の『落合町山川記』に、そのころのことが書かれています。
  遠き古里の山川を 
  思ひ出す心地するなり
私は、和田堀(わだぼり)の妙法寺の森の中の家から、堰(せき)のある落合川のそばの三輪の家に引越しをして来た時、はたきをつかいながら、此様なうたを思わずくちずさんだものであった。この堰の見える落合の窪地に越して来たのは、尾崎翠おざきみどりさんという非常にいい小説を書く女友達が、「ずっと前、私の居た家が空あいているから来ませんか」と此様に誘ってくれた事に原因していた。前の、妙法寺のように荒れ果てた感じではなく、木口(きぐち)のいい家で、近所が大変にぎやかであった。二階の障子を開けると、川添いに合歓(ねむ)の花が咲いていて川の水が遠くまで見えた。」
「この下落合と上落合の間を、落合川が流れているのだが、(本当は妙正寺川と云うのかも知れぬ)この川添いにはまるで並木のように合歓の木が多い。五月頃になると、呆(ぼん)やりした薄紅の花が房々と咲いて、色々な小鳥が、堰の横の小さい島になった土の上に飛んで来る。

ここの借家時代に『放浪記』が書かれ、大評判になります。
その印税で中国や欧州を旅し、昭和7年(1932)には下落合4丁目2133番地の洋風の借家(西洋館)に転居します。それは「五の坂下」にありました。現住の居表示では、中井2丁目22-付近です。「COーPOみらい」が建っています。
林芙美子 落合二番目の住まいがあった場所
家賃は12円から50円に上がりました。また、それまで生活費を送っていた両親を呼び寄せ、一緒に住むようになったのですが、両親はやがて近くに越してしまいます。
行商の仕事をしていた両親には西洋館は居心地が悪かったのかもしれないと謂われます。
『落合山川記』に次のようにあります。
「私は吉屋(信子;注)さんの家に近い下落合に越した。落合はやっぱり離れがたいのか、前の家からは川一ツへだてた近さであった。誰かが植民地の領事館みたいだと云ったが、外から見ると、丘の上にあって随分背が高く見えた。庭が広くて庭の真中には水蜜桃のなる桃の木の大きいのが一本あった。井伏鱒二さんは、何もほめないでこの桃の木だけをほめて行った」
「私の家の出口には、中井ダンスホールと云うのがある。まだ一度も行った事はないが、なかなかさかっているのだろう。門を這入ると足のすれあっている音や、レコードが鳴っている。――私の家はかなり広いので、(セットの貧弱なのが心残りなのだが)、あんまり漠然としているので、そうそう旅をしなくなった。あっちの片隅かたすみ、こっちの片隅と自分の机をうつして行くのだが、こんな大きな家で案外安住の書斎がない。時に台所の台の上で書いたり、茶の間で書いたりして旅へ出たような気でいたりした。」
「ここの家からは中井の駅が三分位になり、吉屋さんの家が近くなった。近くなったくせに訪問しあうことはまれで、なかなかヨインのある御近所だと思っている。」
「私の仲のいい友達が、中井の駅をまるで露西亜ロシアの小駅のようだと云ったが、雨の日や、お天気のいい夕方などは、低い線路添いの木柵に凭れて、上落合や下落合の神さんたちや奥さんたちが、誰かを迎いに出ている。駅の前は広々としていて、白い自働電話があり、自働電話の前には、前大詩人の奥さんであったひとがワゴンと云う小さなカフェーを開いている。
自働電話に添って下へ降りると落合川だ。嵐の日などは、よくここが切れて、遠まわりしなければ帰れなかったのだが、この川を半分防岸工事をして、小鳥屋だの西洋洗濯屋だの麻雀荘と、もう次々に出来てしまって、この頃は夜々駅の横に植木市がたった。この植木市には時々見覚えの合歓の若木などが売りに出ている事がある。植木市と云っても本格的なものではなくてカアバイトの光と撒水きりで美しく粧おっている品物が多かった。でも値段が安いので、私は蔓薔薇(つるばら)や、唐辛子の鉢植えなどを買いに行った。
「まるで気絶したようなんね」
 と、冷やかすと、怒りながらまけてくれた。八分ごとに来る電車で、友達が来るのを待っている間に、待呆(まちぼうけ)を食って、花鉢を五ツ六ツも買わされた事もあった。」

今も、このあたり、多くの家で玄関前に植木をたくさん置いています。林芙美子も買っていたのかと楽しくなります。
妙正寺川の氾濫もたびたびあったのでしょうね。

林芙美子記念館 終焉の家▼そして、現在の林芙美子記念館に移ったのは、昭和16年(1941)です。
「四ノ坂」の中腹に、島津家の所有地だった土地を買って家を建てました。
「落合の町より外にそう落ちつける場所もなさそうだ。この住みよさは四年もいるのによるだろうが、町の中に川や丘や畑などの起伏が沢山あるせいかも知れない」と書いています。
こちらの話はまた別の機会にします。
『落合山川記』の冒頭に、「遠き古里の山川を思ひ出す心地するなり」とありますが、落合はよほど入っていたのだろうと思われます。
昭和16年(1941)から昭和26年(1951)に亡くなるまで住んでいた旧居が、林芙美子記念館として保存公開されています。
そして、『落合山川記』の再議には、
「家が古いので、一人でいると追いたてられるように淋しい時がある。そんな時は女中と二人で街へ飛び出して行ってしまう。いまのところ、落合の町より外ほかにそう落ちつける場所もなさそうだ。この住みよさは四年もいるのによるだろうが、町の中に川や丘や畑などの起伏が沢山あるせいかも知れない。」
川があり、坂があり、畑があり、そして、心の通う人がいる。古里のようなぬくもりもあって、落合が好きだったのだろうと思います。

最古に富士の写し「髙田富士」登頂

昭和30年ごろの元の
髙田富士の資料コーナーに飾られていた、昭和30年ごろの髙田富士です。移転前の本来の姿です。
富士塚を知ってそれを初めて見た時、黒い石の塊で、これが、あの富士山の写しとは、ななでだろうと思いました。白い雪をかぶった、なだらかな曲線、あの美しさを写さなかったのは、どうしてだろうかと。
最近は、「この山をのぼれば、冨士山の登ったのと同じ御利益がる」その信仰には、似合っているなという思いがしています。
また、富士塚は、黒ボク石で築いたために、いつ黒ボクを踏み落とさないとも限らないので、富士山に倣って山開きの時期を定め、そのほかの時期には登らせないようにした、ということで、1年に限られた日しか登れないのも、登山のありがたみが増します。
髙田富士は、そうしや富士塚の元祖だと言われます。植木職人髙田藤四郎らが、富士山から持ち帰った岩土で高さ10mほどの富士を作ったのです。
それを作った場所は、現在、早稲田大学の校舎になっています。昭和38年、早稲田大学が新しいキャンパスを作るために、髙田富士は現在の西早稲田2丁目に移転しました。
髙田富士案内板
最近の髙田富士に登れる日は、海の日とその前日の日曜日という2日間が設定されています。今年(平成28年)は7月17日と18日の2日間。17日に登ってみました。
入り口
髙田富士登山口の手前に設置されている資料コーナーがあり、丸藤講宮元講社の先々代先達の写真などが展示されていました。
入ると、すぐ登山口が待ち受けています。その左には浅間神社。狛犬もあります。
浅間神社
天狗のお面
一歩足を踏み出して左を見ると浅間仁社の横に大きな天狗の面の像。びっくりしました。
登山口から
石段は高からず低からず、長からず短からずで歩きやすい。
「小御嶽」
道を左に曲ると、次のカーブのところに「小御嶽」があります。富士塚には、中腹に必ず小御嶽石尊大権現が祀られています、
烏帽子岩
少し登ると、ありました、みごとな烏帽子岩・・・・・・。
烏帽子岩は、師の食行身禄が、31日間の断食をして、即身成仏した場所です。
その烏帽子岩は現在も富士山の8合目のところにあるようです。
烏帽子岩2
もう頂上が見えてきました。
頂上のお宮
山頂に、頂上のお宮と鐘があります。母屋は富士山の方を向いています。
山頂の鐘
一年の幸せを祈りながら、鐘をたたきます。
たたき方は「カーン カーン カン カン カン カン カーン」ということが書かれています。
下り道
頂上の石祠の横から下山すると着地点脇には「御胎内」があります。
「御胎内」も中を覗かせてもらいました。
「御胎内」
御胎内の碑
傍らには大正2年に建てられた「講祖日行藤四郎翁開發霊蹟・富士山北口胎内窟模造修築記念」という大きな石碑がありました。
講祖日行藤四郎翁開發霊蹟
短い登山ですが、なんとなくありがたみが感じられます。
国連教育科学文化機関(ユネスコ)は2013年6月26日、カンボジアの首都プノンペンで開催した世界遺産委員会で、「富士山」を世界文化遺産に登録しました。
富士山は古来、日本の象徴として日本人の山岳信仰や葛飾北斎らの浮世絵の題材にもなり、文化的意義が評価されたものです。
江戸時代に形作られた、富士と民衆との交流を体感できたような気にもなりました。

「山吹の里」 「面影橋」 「姿見の橋」

▼山吹の里というのは、文字通り山吹が咲いている里ということでしょうが、穴八幡宮や高田馬場あたりから南へ神田川一帯までは山吹の里だったと思われます。
神田川
昔は、神田川だけでなく、穴八幡や早稲田大学の近くを抜け神田川へ入るカニ川という川もあり、現在の甘泉園の泉もあったので、みどりは豊富で、山吹もたくさん自生していただろうと思われます。
その里に、太田道灌が鷹狩りに来ていて、雨にあい、里の農家に簔を貸してくれないかと願いに行くと、その家の娘が、咲いていた山吹を差し出します。太田道灌は、その意味が分からなく、後で、それは「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞかなしき」という古歌になぞらえて、簔がないこと言っていたのだと知ることになります。その逸話が残されていて、山吹の里が有名になったわけです。
太田道灌は江戸城を造ったということで有名ですが、その最期は、仕えていた扇谷上杉に殺されてしまいます。その最期が哀れなので、贔屓とするいろいろな伝承が、まちに残っています。
山吹の里の碑
神田川にかかる面影橋のたもとに、「山吹の里」の碑があります。元禄9年(1696)建立の供養塔を再利用して造られた碑です。
碑のある場所は豊島区です。でも、新宿区側にあってよいものです。
▼もう一度太田道灌の山吹の里伝説。
太田道灌が穴八幡近く、カニ川あたりに鷹狩りに出掛けました。その時、鷹が三島神社の方向へ飛んで行ってしまします。
この三島神社は、今の甘泉園公園あたりにありました。(前に書いたように現在三島神社は、小さな祠として水稲荷社の境内にあ残されています)。
太田道灌は鷹を追って、三島神社の方へやって来ました。
すると、雨が降って来ました。
月岡芳年画「山吹の里伝説」
そこで、近くの農家で少女に蓑を貸しほしいと頼んだわけです。
その時出てきた娘は何も言わずに山吹の枝を折って道灌に差し出しました。
(なお、この娘は、紅皿という名前があり、大久保の大聖院に墓が伝えられています。)
 娘が差し出した山吹は、八重咲きの八重山吹でなければいけません。
 山吹には、5弁から成る一重山吹と八重咲きの八重山吹の2種があります。
一重の山吹は黒い実がなりますが、八重には実がつきません。
▼甘泉園にはひょうたん池と呼ばれる大きな池があります。この池に泉として水を出していたのが山吹の井です。
池の後ろが高台になっていてここを三島山と言いました。三島陣社はここにありました。
▼面影橋
面影橋を通って南蔵院へと抜ける道、面影橋から高田馬場へと抜ける道、これは鎌倉街道で、交通の要衝でもありました。
広重 高田姿見のはし俤の橋砂利場
神田川にかかる橋でも、「面影橋」は最も名高い橋のひとつです。
「江戸名所図会」には「俤(おもかげ)の橋」と記されている。
歌川広重も『名所江戸百景』にに「俤の橋」を描いています。
面影橋の名の由来は、諸説あります。
由来の碑
在原業平が我が姿を水面に映した逸話からとの説、鷹狩りの折に将軍家光が命名したとの説、
そして、戦国の頃、この地に落ち延びた和田靱負(ゆきえ)の一人娘・於戸姫(おとひめ)が我が身の悲劇を嘆き、この川に身を映し詠んだ和歌によるとの説です。
於戸姫が、結婚を断った武士にさらわれ、気を失ったところを杉山三郎左衛門夫婦に助けられ、やがて近所の小川左衛門に嫁ぎますが、於戸姫の美貌から横恋慕した夫の友人に夫が殺され、その仇討ちは果たすのですが、自分の身に相次いで起こる不幸から、家を出て神田川の川辺でわが身を水に写し、亡き夫を想いながら川に身を投げて夫の許に急ぎました。
「変わりぬる姿見よやと行く水にうつす鏡の影に恨(うらめ)し」
「かぎりあれば月も今宵はいでにけりきよう見し人の今は亡き世に」
於戸姫の歌です。
夫の面影を偲ぶ於戸姫の心情を憐れんで、面影橋と名付けた、とか。
姿見橋
橋名自体も「俤(面影)の橋」とも「姿見の橋」とも呼ばれています。
江戸の頃の此の地の絵図には、大橋とその近くに小橋が描かれ、小橋が「姿見の橋」で大橋が「面影の橋」と記されたものがあるとか、いやいや於戸姫伝説で「変わりぬる姿見よやと。」と詠われる「姿見(の橋)」は。キッと大橋に違いないと諸説あります。
それが、「面影橋」一本となったのは、明治政府の地図に「面影橋」と記されたからだと言われます。「面影橋」の名は、なかなか風情のある良い名前です。

甘泉園 三島社 山吹の里

甘泉園の入り口の門
ここは、かつて御三卿の一つ清水家の下屋敷でした
当初、宝永7年(1710)下戸塚村(現新宿区西早稲田三丁目あたり)の畑地7千坪が尾張徳川家に与えられました。
2年半程して大草屋敷(現新宿区富久町西北部から余丁町にかけて)の一部と交換しで大草内記の屋敷となり、安永3年(1774)9月、御三卿清水家下屋敷になりました。
甘泉園案内
下戸塚の屋敷は清水家高田屋敷と呼ばれていました。ある時期には、北側の面影橋、神田川まで4700坪余を抱屋敷として入手して、屋敷地の一部に囲込んでいました。
その後いろいろあって、幕末、清水家の当主がいなくなっていました。 
当主不在の清水家は高田屋敷を田安家に渡しています。
明治3年4月、7代目として水戸家から徳川篤守を養子に迎え、やがて清水家本邸として高田屋敷が返還されます。
そして、明治34年7月、当主清水篤守は事業に失敗して、高田屋敷を相馬永胤(そうま ながたね横浜正金銀行頭取、元彦根藩士)に譲渡してしまいます。(甘泉園の相馬邸は、下落合の相馬家とは直接関係はありません。この時期に住んでいたのは、彦根相馬家の相馬永胤です)。
甘泉園 池
やがて、昭和12年2月、相馬家は屋敷を早稲田大学に譲渡します。
そして、戦後、昭和36年9月、早稲田大学は法商研究棟建設のため大学に接していた高田富士と水稲荷神社をこの高田屋敷と交換します。
昭和43年、水稲荷神社は庭園の大部分を東京都に譲渡。翌年、東京都は甘泉園を整備し、管理を新宿区に移管、現在に至っています。
甘泉園中の滝
「甘泉園」の名は、当地から湧き出ていた湧き水がお茶に適していたところからきたと言われています。
甘泉園のあたりはその昔、三島山と呼ばれていました。
切り絵図 清水家 面影橋あたり
古地図には小さく「三島社」とありますが、この場所に現在の水稲荷神社があります。下が「髙田の馬場」です。右下の小高い丘の上にあるのが、元の水稲荷神社です。現在の早稲田大学9号あたりです。
石橋山で敗戦した源頼朝が、房総から武蔵国に入ったこの地で軍勢を整えた際、三島神社を勧請したことからこの字名になった、と伝えらます。
後にこの神社は、東海道三島宿(現静岡県三島市)に移されましたが、現在、水稲荷神社境内に末社として祠(ほこら)が残されています。
その三島山の西に泉があり、山吹の井と呼ばれました。その一帯は山吹の里とも呼ばれ、大田道灌の伝説も残っています。
名所図会 山吹の里
「江戸名所図会」には「七重八重花は咲けども・・・・」の古歌にまつわる、太田道灌の伝説の地、「山吹の里」を「高田の馬場より北の方民家の辺をしか唱ふ」としたうえで、その付近の「三島山」に言及しています。「同所民家の後園にあり。古松四五株繁茂せる樹蔭に三島明神の禿倉(ほこら)あり、・・・・此山岸に少しばかりの甘泉あり。是を山吹の井と呼べり。土人或は三島明神の御手洗、又は頼朝卿の馬の冷し場なりともいひ伝へたり。」
甘泉園に、ひょうたん池と呼ばれる大きな池があって。この池に泉として水を出していたのが山吹の井だと言われます。
「江戸名所図会 山吹の井」にも描かれていますが、これた、洗い場となっていた道中風に描かれています。

現在の「水稲荷神社」

横からの水稲荷神社入り口
水稲荷神社の歴史を少し整理します。
天慶4年(941)鎮守府将軍俵藤太秀郷朝臣が、はじめて旧社地の富塚の上に稲荷大神を勧請された。はじめ富塚稲荷または将軍稲荷と呼ばれた。
文亀元年(1501)関東管領上杉朝良(うえすぎ ともよし)が夢を見た。老翁が現れ「天の戸を開きて江戸に稲荷なる富塚の里にいくよへにけり」と答えて夢がさめた。時に庭前に一老狐がおり、朝良を顧みて江戸の方に飛び去った。朝良はただちに家臣をして江戸、戸塚のあたりを探させたところ戸塚音信山に稲荷の古社があり、その傍の古塚に白狐が年久しく住んでいることがわかった。
朝良は社殿を造営し、戸塚一円を社領にした。
天文19年(1550)小田原の北条氏綱(北条早雲の子)の時代に牛込主膳時国が再興。
元禄15年(1702)に神主の夢想により、大椋の下に霊水が湧出。眼病を患う者がこの霊水で眼を洗うと霊験があるので「水稲荷」と呼ばれるようになった。
安永9年(1780)地元の髙田藤四郎の発起で水稲荷北側に高田富士が築造され、6月には山開きと称して参詣者が群集した。(「東京都神社名鑑」より)
昭和38年(1963)7月25日、早稲田大学との土地交換により、西早稲田三丁目の甘泉園内の現在の場所に移転。本殿 水稲荷神社
境内にあるおもなものを紹介します。
▼堀部武庸加功之遺跡碑
堀部安兵衛助太刀の場所の碑です。これはすでに紹介しました・
▼最古の富士塚である高田富士、
髙田富士の麓 浅間神社
安永8年(1779)に完成。これが身禄富士塚のはじまりと伝わります。
写真は、扉の間から見た、高田富士の入山口です。富士山信仰に関わる浅間神社の社があります。
▼茶室聴松亭
茶室聴松亭
清水徳川家由来ということです。もともと、ここにあったのでしょうか。
▼「駒繋松」
大田道灌こまかけ松
山吹の里伝説に結びつく、太田道灌が馬を繋いだという松の木。ただし、三代目です。
▼水稲荷神社の拝殿です。
お狐様と水神社
▼耳欠け神狐
耳欠け神狐
自分の身体で痛い所と同じ箇所を撫でさせて貰い その撫でた手で自身の痛い箇所を摩ると痛みが消えるそうです
▼冨塚古墳
冨塚古墳
社殿の真裏の小高い丘は、戸塚の町名の起源ともいわれている「冨塚古墳」です。
元々、早稲田大学9号館裏にあったものがここに移されました
▼「狐穴」
「狐穴」
木々が鬱蒼として薄暗い小山の中に、奥宮とそれを守るような狐の像が点在する光景が見られます。
ちなみにこの小山は、もともと早稲田大学構内にあった「富塚古墳」を移築したものです。
その富塚古墳には、横穴が空いています。この穴はお狐様たちが棲まうという「狐穴」です。
▼北野神社
天神様即ち菅原道真公をお祀りしており、牛込天神町から御遷座されましたが、早稲田大学創立者大隈重信は日々拝礼し、とても信奉の厚かった神社です。
▼三島神社
三島神社は水稲荷神社が移転する以前から当地にあり、甘泉園の旧所有者、清水家の守護神をお祀りしていました。「新編武蔵風土記稿」の収録する下戸塚村の字、三島上の由来となった神社で、現在は水稲荷神社の境内社となっています。
古く房総から武蔵国に入った源頼朝がこの地で軍勢を整えた際、勧請した神社です。
三島神社
▼高木神社
早稲田大学構内にあったものを移しました。その縁か近年特に早稲田大学入学御祈願の霊験があらたかとか。

「高田馬場の仇討」「堀部武庸加功之遺跡碑」

広重 名所江戸百景「高田の馬場」
広重「名所江戸百景」髙田馬場
この高田馬場を一躍有名にしたのは「堀部安兵衛の仇討」です。
元禄7年(1694)2月11日、伊予西条藩松平家に仕える菅野六郎左衛門と同藩の同僚村上庄左衛門とが些細なことから高田馬場で決闘をすることになりました。
中山安兵衛は世話になった六郎左衛門に助太刀をし、村上方を倒した。これが縁で安兵衛は赤穂藩の堀部家の養子に入り、堀部安兵衛武庸(たけつね)となって赤穂藩浅野家に仕え、のちに、主君浅野長矩(ながのり)の仇討をした赤穂四十七士の一人として有名になり、高田馬場の助太刀も「高田馬場の仇討」といわれ、いろいろ面白く潤色されて後世に伝えられています。
とにかく中山安兵衛は、髙田馬場に駆けつけてほしいです。
早稲田町と夏目坂が交わる地点に小倉屋という酒屋さんがあり、そこに、中山安兵衛が、助太刀に髙田馬場にかけつける途中、息つぎにこの小倉屋で、酒をひっかけたといわれます。そして、その時安兵衛が使った5合マスが小倉屋に残っていて、かつては、お店に家宝として展示もされていました。そういう証拠品からも、中山安兵衛は、走って、走って、高田馬場まで助太刀に駆けつけて来たわけです。
血煙高田の馬場 (決闘高田の馬場)
阪妻の映画「血煙高田の馬場」
ここで、安兵衛が「何処から高田馬場に駆けつけたのか」について、いろいろな説から、新宿区関連でまとめてみます。
安兵衛は事件後、堀部家の養子に入るについて『父子契約の末(てんまつ)』として事情を書留めるとともに「二月十一日高田馬場<出合喧嘩之事」を自ら認めた手記が、細川家に伝えられています。
中山安兵衛は、元禄元年(1688)越後新発田(しばた)から江戸に出てきました。そのとき、念流の同門で親密にしていた菅野六郎左衛門(新宿区若葉に住んでいました)を名目上の叔父として親類書を作り、納戸町に屋敷をもつ御徒頭(かちがしら)の稲生(いのう)七郎右衛門の家来速見重右衛門の口入れで、稲生家の中小姓になり、納戸町(牛込元天竜寺竹町)に住みました。
納戸町から高田馬場まで、2キロ少しです。安兵衛が高田馬場に駆けつけるのに困難な距離ではありません。
納戸町から高田馬場へ走ったと考えてもいいと思います。
ついでながら、高田馬場の決闘に、村上は弟2人、浪人村上三郎右衛門と中津川祐範に助太刀を頼み計5人、菅野は若党角田左次兵衛、草履取七助そして安兵衛の4人でした。
講談などでは、安兵衛は髙田馬場で、18人斬りをしたといわれていますが、そんなにもいませんでした。実際は4人、あるいは、1人という説もあり、はっきりしません。
なお「小倉屋」は、いまはローマ字で「KOKURAYA」になってています。
堀部安兵衛の碑
水稲荷神社の石段を登ったところに大きな堀部安兵衛助太刀の場所の碑があります。
もとは、茶屋町通りにあったのですが、昭和46年(1971)に水稲荷神社の現在の場所に移されました。
「堀部武庸加功之遺跡碑」です。
題額は、明治の終わりから大正の初めにかけて2度総理大臣を務めた西園寺公望(1849~1940)です。文章を書いたのは信夫粲(しのぶ・あきら)(1835~1910)、清書したのは、当時の最高の書家の1人、日下部鳴鶴(1838~1922)です。
漢文ですが、内容を少し見てみます。
「武庸(たけつね)、通称は安兵衛、本姓は中山氏。越後の新発田(しばた)の人なり。江戸に遊びて剣を堀内正春(まさはる)に学ぶ。会(たまたま)、舅(しゅうと)の菅野六郎左衛門、同僚と隙(げき)有り。期を剋(こく)して高田に決闘す。武庸に謂(いい)て曰(いわく)、往かざるは怯きょうに似たり、往けば則すなわち老は壮に敵せず。寧(むしろ)死に赴きて妻孥(さいど)を以て汝を煩わさん、と。武庸、固く従わんことを請う。」
「武庸、身を転じてこれを斫(き)れば、手に応じて斃(たおる)」とか「奮闘、まさに酣(たけなわ)なり」「各々、数創(すうそう)を被(こうむ)り、流血淋漓(りんり)たり」など、漢文ならではの名調子が続きます。
碑文全体には、史実としては間違いも含まれているようですが、そういう詮索はあまり意味がありません。この碑文の読みどころは、この碑を造った人のことです。
「戸塚村の住人、行田久蔵は、元禄時代(1688~1703)以来の旧家の人である。武庸が助太刀をした場所は、まさに彼の土地の中にある。かつての荒れ野原は、今は整地され、家々が軒を連ねている。高田の馬場の決闘ははるか昔のこととなり、このままでは場所がわからなくなってしまいかねない。そこで、私財をなげうってこの出来事を記した石碑を建てようと考え、私のところにやってきて文章の起草を求めた。私は、日ごろから赤穂の義士たちを崇拝しているが、中でも最も心を動かすのは、武庸の助太刀である。そこで、そのだいたいをかいつまんで、一文を記したのである。」
この碑は、行田久蔵が、明治43年(1910)に、自費で造ったものです。行田久蔵は馬場の管理をしていた人で、長く自分の家の前にこの碑は建ててありありました。跡継ぎの人も自分の土地に、しっかりと碑を守ってきましたが、昭和46年(1971)に現在地に移されました。
堀部武庸加功之遺跡碑の下回り

もう一つ余談ですが、「高田馬場駅」の名前は、この「高田馬場(たかたのばば)」から取ったものです。
地元では、当時の地名からとって「戸塚町駅」「諏訪町駅」「諏訪の森駅」を希望する声もあったのですが、堀部安兵衛でみんなに知られている「高田馬場」を取りました。
そのとき、駅名は「たかたのばば」ではなく「たかだのばば」と呼ぶようにすると約束したという話もあります。
駅前の西武線部分の架道橋 安兵衛助太刀の図
髙田馬場駅前の西武線部分の架道橋の絵「中山安兵衛の助太刀ち」
永井荷風は日記『断腸亭日乗』の中で「…秋葉ヶ原に停車場あり。これをアキハバラ駅と呼ぶ。鉄道省の役人には田舎漢多しと見えたり。高田の馬場もタカダと濁りて訓む」と記し、秋葉原を「あきはばら」、高田馬場を「たかだのばば」と読ませるのは、鉄道省の役人に東京の地名に疎い田舎者が多いからだろうと評しています。
「あきははら」は言いにくいですね。
高田馬場駅名等の浸透により、高田馬場も「たかだのばば」と呼ばれるようになってきています。ちなみに現地の案内板も、ふりがなは「たかだのばば」です。
徳川家康の6男である 松平忠輝は関ヶ原の戦いの後、家康の命を受けて慶長年間に越後高田藩に奉じたことにより忠輝の生母 茶阿の局は「高田の君」と呼ばれるようになって、その関連でここが、本来の地名で「戸塚の馬場」とするところを「髙田の馬場」になった、とすると、越後高田藩の高田は「たかだ」ななので、「たかだのばば」がもともとの呼び方だったと言えないこともないのでは、と思いました。

「髙田馬場」「茶屋町通り」

「髙田馬場」跡へ行ってみました。
切り絵図 髙田の馬場付近 清水家も
『絵本江戸土産』の「高田馬場」の文。
穴八幡の傍にあり、この所にて弓馬(きゆば)の稽古あり、また神事の流鏑馬を興行 せらすとあり、東西へ六丁南北二十余間、むかし頼朝記、墨田川よりこの地に至り勢揃ありしといひ伝ふ
江戸名所図会 髙田馬場
『江戸名所図会』の「高田馬場」の文。
追廻(おいまは)しと称して二筋あり、竪(たて)ハ東西へ六町に、横の幅ハ南北へ三十余間あり。相伝(あいつた)ふ、昔右大将頼朝卿、隅田川より此地に至里(いたり)軍(いくさ)の勢揃ありし旧蹟なりといへり。土人の説に慶長年間越後少将<忠輝卿>(家康六男で松平忠輝。越後高田藩主)の御母堂・高田の君(茶阿局)、遊望の儲(もうけ)として開かせらるゝ所の芝生なりしか。
寛永十三年に至り、今の如く馬場を築かせ給ひ、弓馬調練の所となさしめらるゝとなり。( )は注意書きです。
さらに、
<延宝天和の頃にて雑司ヶ谷群参(くんさん)の輩(ともがら)、此地にいたり賭的大的小的騎射其外(そのほか)能囃子、土佐外記(とさけき=浄瑠璃?)放下(遊芸人、大道芸人)の類出て賑ハしかりとなり>
この道は髙田馬場 茶屋町
馬場誕生から、鬼子母神参拝客がここで休憩したこと、大道芸人で賑わうことまでを記載されています。
馬場は見物客が多く、地元農家が茶店を開いてこの通りを「茶屋町通り」と言ったというわけです。
「茶屋町通り」は、古道・鎌倉海道(奥州街道)の道でもありましたで。
この高田馬場の東側には、和田戸山(尾張徳川家下屋敷方面=戸山ヶ原)へと抜ける古い鎌倉街道が通っていました。
髙田馬場の案内

「高田」の地名由来としては、上記引用文にもあるように、家康の6男、松平忠輝(越後高田藩主)の生母、高田の君(茶阿局)の遊覧地があった、ということからその名があると記載されています。しかし、これとは別に、中野区の上高田や豊島区の高田に及ぶ広域地名として、古くから存在したとの説もあります、こちらの「髙田」は、高台にある畑地の意の地形がその由来となっています。

「流鏑馬」は、定められた装束をした射手が走る馬の上から的を射る騎射の一種で、正方形の的を三箇所に並べ、走りながら連続してこれを射る競技ですが、儀式としての性格が大きいです。
江戸時代中期、8代将軍吉宗は武芸振興の一環として古来の流鏑馬を復興、それを改良、整備することを小笠原平兵衛に命じます。
寛永13年(1636)8月19日 高田馬場の開場式典
享保13年の「流鏑馬」の絵図
享保13年(1728)3月、長男家重(のちの9代将軍)の疱瘡(ほうそう)の快癒を祈願して、高田馬場で最初の流鏑馬が催されました。
2回目は元文3年(1738))竹千代(のちの10代将軍家治)誕生の祝いで開催しました。
まず、将軍の名代、射手16人が、穴八幡宮に参拝、八幡坂を登って馬場に到り、儀式に従って騎射が行われました。矢来を巡らした周囲には見物の群集があふれ、町奉行所の同心たちが警備に当たりました。
高田馬場での流鏑馬は江戸時代を通して11回行われ、いずれも小笠原家が師匠番を勤めました。

早稲田大学キャンパス内富塚跡

早稲田大学キャンパス内大隈重信像のあるところを左側に校舎の間にある階段のを上がって行くと富塚跡の地に出ます。
冨塚跡
富塚跡は現在樹木が数本植えられ、そこが古墳跡であることの説明書きが建っています。
昭和30年ごろの髙田富士
昭和30年ごろ撮影された水稲荷神社と高田富士(富塚古墳)の写真です。
前方後円墳の後円部の墳丘上を平らにして、その中心に水稲荷社を建立し、本殿裏の西寄りの位置に溶岩を積み上げて高田富士を造ったと言われています。
位置関係ははっきりわかりませんが、水稲荷神社は、早稲田キャンパス9号館にあたる場所にありました。
水稲荷神社の創設は天慶4年(941)、俵藤太秀郷が、「富塚」という古墳に倉稲魂大神(稲荷大神)を勧請したことに始まり、以来「富塚稲荷」、「将軍稲荷」と呼ばれて信仰を集めていきました。
「水稲荷」と言われるようになったのは江戸時代以降のことで。元禄15年(702)、境内にあった大椋の樹の下に霊水が湧き、その際「我を信仰する者には火難を免れしむべし」とのご神託があったことに由来します。
湧き出た霊水は「眼病に効能あり」と江戸市中で評判となったといいます。
この大椋は、昭和20年(1945)に戦災によって焼失しましたが、根元は残存しており、現在も移転した水稲荷神社で保管されています。(この木については、別の話がありますが、最後に記します)
前は早稲田大学キャンパス
白い建物が早稲田大学の9号館で、この建物が建っている場所から右手の宝泉寺墓地のあたりにかけてが、水稲荷神社の元社地で、富塚及び高田富士はもっと奥にあったようです。(説明板のところに、富士塚があったのではありません)。
冨塚の案内
冨塚の説明板の案内に<この付近に塚(古墳)が多く「十塚」・「百八塚」などと呼ばれた>とありますが、その「百八塚」とは、無数に存在する墳墓という意味で、多くの古墳がこのあたりにあったことを示しています。
そして、古墳の墳丘であったものに手を加えて、富士講の「○○富士」にしたり、庚申講の「庚申塚」にしたり、屋敷の庭園の築山にしたりと利用されています。高田富士も、前方後円墳だった富塚古墳の築山を利用して、溶岩を張り付けて造ったものだったと思われます。
右手に宝泉寺の墓地も望めます。
右は寶泉寺墓所
ここから、塚の遺構全体が、現在の甘泉園近くの場所に移転されています。
ここには、久しぶりに来ましたが、以前よりはずいぶんきれいに整備されていました。
なお、水稲荷の由来となった霊水が出た木は、芳賀善次郎の『新宿の散歩道』には、榎の木ということで、その写真掲載されています。また、その榎は、大田道灌の手植えの榎であったということです。
文明年間(1,469~86)大田道灌が山吹の里で狩りをした時、この富塚稲荷で休んだ時、ここに手頃な榎を探してきて植えたのだそうです。そして、元禄15年突然、この榎の空洞から水が出て来て、その水は涸れることが無かったと言います。
この榎も霊水で、眼病に効能ありと江戸市中で評判となり、「水稲荷」といわれるようになったと、稲荷社の名前の由来は同じです。
しかも、この榎、昭和5年に天延記念物に指定されています。そうすると、あの、椋の木の根はなんなのでしょうか。
と思いますが、大田道灌の山吹の里伝説も入っていて、私は、榎であって欲しいです。

宝泉寺 高田藤四郎(日行青山)のお墓が

穴八幡から、宝泉寺に行きました。
江戸切り絵図 髙田馬場 穴八幡
宝泉寺(寶泉寺)は、承平年間(931~938)、平将門の乱を平定した藤原秀郷が草創したと伝えられます。
江戸時代に入って盛隆を極め、なかでも境内南の高台に毘沙門堂があり、そこには藤原秀郷の念持仏「毘沙門天」が安置されていたことで有名でした。それに、3代将軍家光が名付けたという「守宮池;いもり池」もあり、梅や桜の名所で、時鳥でも有名でした。
また、江戸で最初に「富くじ」が行われた寺院としても伝えられています。
切絵図でも分かるように、境内約7千坪と広大な境内があり、現在の早稲田大学キャンパスの大部分が寺領でした。
明治に入り寺領が縮小され、そして第二次世界大戦の空襲により、建物などほとんどを消失してしまい、唯一残された梵鐘が往時の響きを伝えています。
梵鐘
梵鐘は、正徳元年(1711)に江戸鋳物師(いもじ)西嶋伊賀守藤原正重により鋳造された銅造の梵鐘で、新宿区登録文化財に指定されています。
梵鐘の案内

この宝泉寺の裏山といったところに、水稲荷神社(高田稲荷)があり、宝泉寺はその別当寺でした。
髙田稲荷 富士山 名所図会
『江戸名所図会』の「高田稲荷 毘沙門堂 富士山 神泉 守宮池 寶泉寺」の俯瞰絵図を見ると、今では想像もできない広さで、木々も多い田園風景です。
早稲田大学の校歌に「都の西北 早稲田の森に」があります。
作詞は相馬御風 (作曲は東儀鉄笛)です。
出だし
 都の西北 早稲田の森に
 聳ゆる甍は われらが母校
3番
 あれ見よかしこの 常磐の森は
  心のふるさと われらが母校
この歌のように、まさに森がありました。
しかし、早稲田大学は、昭和8年(1933)に相馬永胤所有の、後に甘泉園となる地を取得します。そしてその一部を昭和38年(1963)に水稲荷神社敷地と交換し、水稲荷神社跡地に早大9号館を建てました。
そのため、同地にあった水稲荷神社、高田富士などは甘泉園の地に縮小移転します。
そうして、校歌に歌われた「早稲田の森」は実は無くなっていったのです。
宝泉寺墓所 後ろ早稲田大学
宝泉寺には、その「高田富士」を造った、高田藤四郎(日行青山)のお墓があります。写真の背後にあるのが早稲田大学の9号館です。
日行墓全景
実は、富士塚の最初は、この髙田富士です。すなわち富士塚を最初に作ったのは、この高田藤四郎(日行青山)だったということです。
富士信仰、冨士講について少しふれておきます。
富士信仰のはじまりは戦国時代の行者、長谷川角行によると言われています。
角行没後60年して、享保年間、富士信仰は、角行の後継者ふたりによって発展します。ひとりは直系の村上光清、組織を強化し浅間神社新築などをおこないました。もうひとりは直系・旺心(がんしん)の弟子である食行身禄でした。そしてその食行身禄の弟子に、この高田藤四郎こと日行青山がいました。
食行身禄は村上光清と異なり孤高の修行を続け、富士に入定(即身成仏)します。そして、この入定が契機となり富士信仰は飛躍的に普及していくのです。
高田藤四郎は、宝永3年(1706)、但馬の国に生まれ、11歳の時に江戸に出、16歳で富士山に登り、食行身禄のもとに入門しましす。植木職人でした。
食行身禄の入定の3年後、高田藤四郎は江戸に「身禄同行」という講をつくりました。これが富士講の初めです。
安永8年(1779)に富士塚を発願し「富士山のうつし」つまり富士塚を水稲荷神社境内に完成します。これが富士塚の初めです。
その後も講は拡大し、文化・文政の頃には「江戸八百八講」と呼ばれるほどの繁栄を迎えます。それに伴い、富士塚も増えました。
藤四郎は、77歳で亡くなりますが、高田富士を見守るこの宝泉寺に葬られました。今は早稲田大学の校舎のあるあたりに、高田富士があったのです。ちなみに宝泉寺は天台宗のお寺です。
高田藤四郎は、行名を「日行青山」と言い、墓は、行名をとって「日行」となっています。
日行墓
ただ、高田藤四郎という名前は、後からつけたもので、元は「長四郎」でした。
文化・文政期に僧・十方庵大浄敬順が著した名所記『遊歴雑記』(文化11年(1814)序に、この富士塚のことが書かれていて、そこにも長四郎という名前で出ています。以下その内容から。
安永8年(1779)のこと、この近辺馬場下町に長四郎という者がおり、34回も富士に登山し、富士の黒ボク石を取って来、これを頂上に収め、富士を模して築いたのが髙田富士です。
富士山の登山は、婦人はもとより、心身の弱い男子もなかなか登りがたく、これを嘆いた長四郎が男女・老少ともに安心して登山できるようにと、築きました。
ところがこの富士山、黒ボク石ばかりで築いたために、いつ黒ボクを踏み落とさないとも限らないので、富士山に倣って山開きの時期を定め、そのほかの時期には登らせないようにしたそうです。
やがて「この山をのぼれば、冨士山の登ったのと同じ御利益がる」と言われるようになり、各地の富士講で、「富士山のうつし」、富士塚が造られて行きました。
大田南畝の親友で狂歌師朱楽菅江が記した 『大抵御覧』にもそのことが記されています。
「安永8回亥年戸塚村稲荷山の別当宝泉寺の境内に浅間大菩薩を勧請せんと思い立ち諸人の脱髪をここにうづみて2月3日より富士行者何がしらをはじめてかたはらの山をきりたいらげその土を以て新規に山ののかたちをきづく。山を領する御神には、中腹に小御嶽石尊大権現、麓に浅間大菩薩なり。頂上は乾の峰かがやく日尊ふしおがみ、弥勒が嶽の烏帽子岩・・・・・・
烏帽子岩は、師の食行身禄が、31日間の断食をして、即身成仏した場所です。
烏帽子岩は現在も富士山の8合目のところにあるようです。
この高田富士の山開きの日には、広く富士講の人が来て、たいそうなぎわいだったようです。

穴八幡宮(高田八幡宮)

穴八幡 正面の鳥居
久しぶりに穴八幡宮をお参りしたら、とてもきれいになっていました。『江戸名所図絵』に基づいた再建ということで、朱塗りの鼓楼など、見事でした。少し丁寧に穴八幡宮を観てみましょう。
穴八幡宮(あなはちまんぐう)、旧称は高田八幡宮です。
穴八幡の楼門
社伝によれば康平5年(1062)八幡太郎義家が前九年後三年の役で活躍、凱旋の帰途、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったと伝わります。
寛永13年(1636)に持弓頭松平五新左衛門直次の同心が的場を造営した際、傍にあった松に鳩が三羽ずつ宿ったことから瑞祥の兆しだとして、寛永18年(1641)に石清水八幡宮を勧請、神社を造営しようと山麓を穿ったところ洞穴を発見、銅製の阿弥陀仏があったことから本地佛として祀りました。以来、通称「穴八幡宮」と呼ばれるようになりました。
ちなみに、高田という地名は慶長年間、越後高田少将の母、阿茶局(あちゃのつぼね)の遊覧地であったことにちなんでいるという説があります。これについては、「髙田馬場」で書きます。
江戸名所図会 穴八幡宮 髙田八万宮
『江戸名所図会』の齋藤月岑による記述は、こう書き出されます。
「高田八幡宮」は牛込の総鎮守にして高田にあり。<世に穴八幡とよべり>。この地を戸塚と云う。別当は、真言宗にして光松山放生会寺と号(かう)す。<旧名は威盛院中之坊と唱(とな)へしとなり。祭礼は8月15日にて放生会あり。旅所ハ牛込神楽坂の中服にあり>。
また、社記云(しやきにいはく)寛永13年(1636)丙午(ひのえうま)、御弓隊の長(おさ)松平新五左衛門尉(さえもんのせう=官職のひとつ)源直次に与力の輩、射術練習の為、此地に的山を築立(つきたて)らる。八幡宮は源氏の宗廟(そうひやう)にして、しかも弓箭(ゆみや)の守護神なればとて、此地に勧請せん事を謀る。此山に素より古松2株あり。其頃、山鳩来たりて日々に此松の枝上に遊ふを以て、霊瑞(れいずい)とし、仮に八幡大神の小祠(こみや)を営みて、件(くだん)の松樹を神木とす。
これが「光松」です。
長谷川雪旦の挿図は、「高田八幡宮」として「別当」を含め、お山全景が詳細に描かれています。
『江戸名所図会』には、穴八幡社が描かれた境内の手前に、少なくとも3つの小塚が描かれています。
そのうちの左端の小丘には穴八幡の由来となった「出現地」の横穴が描かれ、中央の麓には放生池があり、小丘にもまた横穴(洞弁天) が描かれています

名所図会 穴八幡 別当 出現地
さらに、穴八幡の楼門へと上る階段の左手に、氷室大明神(オオナムチ)を奉った横穴が描かれています。
穴八幡から出現した横穴はいずれも境内の南側にあります。
名所図会 穴八幡 光松 氷室
実は、穴八幡の地は、もともと(全長150mほどの前方後円墳だったという説があります。その説でいけば、これらの小穴は、陪墳だったのではないだろうかと思われます。
放生寺

『江戸名所図会』の「出現所」の記載。
<・・坂の半腹絶壁にそひてあり。往古の霊窟も旧址なり。近頃迄其地に出現堂と号(なつ)けて九品仏の中(うち)下品上生の阿弥陀如来の像を安置せし堂宇ありしが~
寛永13年(1636)8月3日草庵を結ばんとして<山の腰に切開(きりひらく)時に、ひとつの霊窟を得たり。その窟(いはや)の中(うち)石上に金剛の阿弥陀の霊像一体たたせゐへり。「御長(みたけ)三寸ばかり」。八幡宮の本地にて、しかも山の号に相応するを以て奇なりとす。「穴八幡」の号ここに起れり>
このことが将軍の耳にまで達し、3代家光が御参拝になり、慶安2年(1649)良昌上人より寺社の由緒を聞かれ、「威盛院光松山放生會寺」の寺号を賜り、付近一帯は放生寺門前と称されました。
それ以来、徳川代々の祈願寺として葵の紋を寺紋に、また江戸城登城の際には寺格として独礼登城三色(緋色、紫色、鳶色)の衣の着用を許されました。
さらには、御遊猟の際に当山を御膳所に命ぜられるなど、徳川實記には放生寺と将軍家とのたびたびの往来が記されています。
また、同時に奉納された3基の神輿は、牛込36町の氏子から出された山車練物を従え、神楽坂の旅所に神幸を奏し、日枝神社・神田明神の大祭に次ぐ盛大な祭礼でした。
流鏑馬
8代将軍徳川吉宗は、享保13年(1728)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納します。
流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納され、穴八幡宮に伝わる「流鏑馬絵巻」には元文3年(1738)に奉納された竹千代(後の10代将軍家治)誕生祝いの流鏑馬が描かれています。
しかし、安政元年(1854)青山火事のために類焼してしまい、幕府から造営料などが奉納されましたが、仮社殿のまま明治維新を迎えます。
明治初年再建の社殿も明治末に焼失、大正から昭和初年までにおよんで、ようやく江戸期の盛時に近い社殿が完備しましたがフタ再び東京大空襲で、建物の多くを焼失してしましました。そ(昭和36年(1961)の御鎮座900年事業として本殿再建工事を開始し、さらそして、平成元年より始まった境内整備工事で、焼失した江戸期の壮麗な社殿の造営を行い、引続き寛永時代の江戸名所図絵に基づいた再建が行われました。
穴八幡 本殿
穴八幡宮の御利益としては、蟲封じのほか、商売繁盛や出世、開運に利益があるとされています。

●神木光り松。
「光松の碑」
その昔、戸塚原一帯は松樹の繁茂する森林地帯でしたが、人の増加とともに開墾が進み、木々が伐り倒されていきましたが、その中に2株(一説には1株とも)暗夜に瑞光を発する不思議な松があるというというので、誰もこれを伐る者がいませんでした。このためこの松を「光松」と呼び尊んだといいます。
また、持弓頭松平五新左衛門直次の同心が的場を造営した際、この松に鳩が3羽ずつ宿ったことから瑞祥の兆しだとして、よろこんだとも伝わります。
●石布袋手水鉢。
石布袋手水鉢。
布袋像の水鉢 がありますが、 新宿区指定有形文化財(工芸品)です。
慶安2年(1649)造立、区内最古の水鉢です(と言いますが、現在おかれているのはおそらくレプリカです)。
もと江戸城吹上御苑に置かれていたものが、徳川家光により奉納されたということです。
●穴八幡宮では、 毎年12月冬至から翌年2月節分までの期間に授与しているとても人気の御札「一陽来復」があります。
一陽来復とは、暗い冬が終わって、明るい春が来るという意味です。
穴八幡宮では、朝早くから、「一陽来復」のお札を配り、今では、節分の日までお札を出しています。
なお、放生寺では「一陽来福」と書いたお札で、どちらも年神のいる「恵方」の柱にはると、健康で家が栄えるとしています。

大阪城

大阪城反収 正面

天文元年(1532)戦国の戦乱で山科本願寺が消失、逃れた本願寺10世・証如らが、ここ大坂御坊を石山本願寺と改め、本願寺の拠点としました。
やがて、織田信長との間で10年に及ぶ合戦(石山合戦)の末、この本願寺を明け渡します。
交通の要所であり、水運に恵まれたこの場所に、信長は城を築きたかったのだ、とも言われますが、その夢が達成する事なく本能寺で亡くなります。
そして、次に天下を取る豊臣秀吉によって、この石山本願寺の跡地に「大坂城」が築かれるのです。
その後、德川の時代になり、2代将軍・秀忠と3代将軍・家光の親子2代によって、豊臣時代の石垣に土を盛り、すっぽりと覆って、まったく新しい、壮大な徳川時代の大坂城が建設されました。
豊臣と德川の天守
しかし、その5層6階の豪華絢爛な天守閣は、度重なる落雷で消失し、結局再建されないまま明治維新を迎えます
そして、せめて外観は、大阪の基礎を築いた太閤さんの天守閣を再現したいという大阪市民の希望により、黒田家に伝わる『大阪夏の陣屏風』に描かれている豊臣時代の大坂城の絵を参考にして、第3期の「大阪城」が再建されました。
それが、現在の大阪城・天守閣です。
天守1陸軍用地であった旧本丸一帯の公園化計画に伴って昭和3年(1928)に再建が提唱され、市民の寄付金により昭和6年(1931)に竣工しました。
建物は、徳川大坂城の天守台石垣に新たに鉄筋鉄骨コンクリートで基礎を固めた上に、鉄骨鉄筋コンクリート構造を吊り下げ工法を用いて建てた。
外観は『大坂夏の陣図屏風』を基に設計されました。
大阪城の天守は、豊臣大坂城と徳川大坂城のそれぞれで建っていた場所や外も異なります。
平成19年(2007)の外壁の塗り替えの際には、5層目の塗装がより豊臣時代に近いデザインになっています。
大坂城が大阪城と、坂から阪に変わった経緯ははっきりしていませんが、幕末に「坂は土に反る(返る)と書くので城として縁起が悪い」という意見が出、それで丘を意味する「こざとへん」の阪を使うようになったなどという説があります)。
天守幅広
で、大阪城をじっくり観ようとでかけたのですが、お昼過ぎにお城の着くと、すごい大雨でした。しばらく歩きました。雨に打たれる濠はすばrしいのですが、どうにも、先に進めません。あきらめていたら4時近くに雨が止みました。それから少し散策しました。天守閣に行くとたくさんの人がいました。
雨の大阪城
■乾櫓
乾櫓
千貫櫓とともに、現在の大阪城最古の建物。
西の丸の乾(戌亥)・・・つまりは、北西部分を守る重要な櫓で、L字型という珍しい建て方で昔は「三方正面の櫓」とも呼ばれていたそうです。

千貫櫓
◍左から千貫櫓・多聞櫓・大手門・・・外堀の正面玄関です
■千貫櫓
大手門から千貫櫓
徳川幕府による大坂城再築工事は元和6年(1620)に、当時の将軍徳川秀忠が石垣築造への動員を西国・北国諸大名に命じて始められました。建物で一番最初に棟上が行われたこの櫓は大手口を北側から守る隅櫓で、西・南側は西外堀に面しています。
■大手門 
大手門
大坂城の大手門は1628年(寛永5年)、徳川幕府による再建時に創建された枡形門で、天明3年(1783)に落雷により多聞櫓が焼失した際にも類焼を免れた貴重な建造物です。
■多聞櫓
多聞櫓 枡形
大阪城の南西に位置する大手門を入った所にあり、櫓門を持つ渡櫓と続櫓がL字状に接続された構造となっています。
この櫓は寛永5(1628)年、徳川幕府による大坂城再築工事によって建造されましたが、天明3(1783)年に落雷のため焼失しました。
●「見付石」
大手門枡形の巨石
これは「見付石」と名付けられた巨石で、大手門の枡形の内面にある。表面の広さが29畳敷きで推定重量が108トン。大阪城の石の中では4番目に大きいという。そしてこの石の左右にも、同じぐらいの石が並んでいるのだ
▼江戸時代の大坂城は、徳川幕府の天下普請によって再築された。
石垣石は瀬戸内海の島々(小豆島・犬島・北木島など)や兵庫県の六甲山系(遺跡名:徳川大坂城東六甲採石場)の石切丁場から採石された花崗岩である。
また遠くは福岡県行橋市沓尾からも採石されました。
■桜門
全体 桜門
徳川幕府による大坂城再築工事が行われていた寛永3年(1626年)に創建されましたが、慶応4年起きた明治維新の大火によって焼失し、明治20年(1887)に陸軍が再建し現在に至ります。
桜門の名前は豊臣秀吉が築いた大坂城以来のもので、当時二の丸に桜の馬場とよばれる場所があったことから、門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられています。
なお門の両脇に見える巨石は龍虎石と呼ばれ、雨が降ると右に龍の姿が、左に虎の姿がそれぞれ現れるといわれていました。
●蛸石
桜門内の巨石
桜門をくぐると、正面に蛸石(たこいし)があります。左の方にタコが寝ているようなシミがあるのでそう呼ばれています。表面積が大阪城内で一番広く36畳敷きです。
■空堀
空堀
内堀は寛永元年、徳川幕府再建の時に掘られましたが、南半分は当初から水のない空堀でした。また豊臣時代の内堀も「豊臣時代大坂城本丸図」によれば、やはり南面のこのあたりは空堀となっています。
■天守閣
天守と石額
やはり、岡山城を思い出します。秀吉つながり、ありますね。
■六番櫓
六番櫓
二の丸南側の石垣上には、2層2階でほぼ同規模の隅櫓(すみやぐら)が、東から西へ一番から七番まで建っていました。この櫓は東から六番目であることから「六番櫓」と呼ばれます。

石垣の優雅な流れが美しい濠の風景がとてお印象に残りました。

玉造に「真田丸」を探して

真田幸村の銅像
NHK大河ドラマ「真田丸」は高視聴率で、関連のテレビ番組も多く放映されました。
真田丸は、大阪冬の陣(1614年)に際して豊臣方の真田信繁(真田幸村)が大坂城唯一の弱点とされた城南方面(惣構南堀の外側)に新造した馬出(迎撃拠点)だったというのが、辞書的な説明です。
真田丸の所在地は、上町台地東端の旧字名「真田山」(現・明星学園付近)に存在したのではないかと推定されています。
「浅田文庫諸国古城之図」真田丸(摂津)
この絵図は『「浅田文庫諸国古城之図」真田丸(摂津)』です。
真田丸の当時の様子をリアルに伝える貴重な資料とされています。
地形を見ると真田丸は丘陵地の上にあり、北側には谷を挟んで丘がある事が分かります。また、堀が3つあり、南東の堀は空堀であり一部池になっているようです。

ということで、その真田丸があった場所、「玉造」に行ってみました。
■三光神社
三光神社 石鳥居
三光神社 石鳥居。三光神社は上町台地の高台の上に位置する「宰相山公園」にあります。
参道には真田六文銭のノボリがたなびいています。
本殿
石段の上が三光神社本殿です。
幸村像と抜け穴
真田幸村の銅像と後ろは抜け穴です。
鹿角前立兜をかぶり陣羽織を羽織った幸村公が采配を掲げている姿の銅像です。、実際は赤備えと言われた真っ赤の甲冑です。
銅像の土台に埋め込まれていた説明パネルには「昭和62年建立。台座は「真田石」で、真田家の菩提寺である信州長谷寺より取り出したもの」だとか。
そして幸村公の裏にあるのが「史蹟 真田の抜穴跡」。
ここから大坂城へ地下道が繋がっていたという伝説が残っています。
実際には大坂城に繋がっていたワケではなく、幸村伝説のひとつですが、幸村の家臣には忍者も多くいたといわれており、そこから生まれた伝説なのかもしれません。
抜け穴
現在では鉄格子がはめてあり、中に入る事はできません。
三光神社の西200m位のところに心眼寺というお寺があります。そちらに向かいました。
地図
心眼寺にむかう途中に善福寺、別名「どんどろ大師」があります。
「どんどろ大師」
お弓・おつるの像。歌舞伎で「どんどろ大師門前の場」に登場する場面だとか。
お弓・おつるの像
善福寺境内には「勝軍地蔵尊」というな巨大なお地蔵さまが鎮座していました。 日露戦争病死者記念仏として明治時代に開眼したということです
「摂津名所図会大成」巻3に拠れば、どんどろ大師の寺誌とともに、「真田丸」跡地の意味である「別堡(でまる)古趾 俗に大師山といふ」という記載があります。
■心眼寺
心眼寺
入口のところに真田幸村出丸城跡という石碑があります。真田丸の事です。
六文銭
心眼寺の定紋は真田家の六文銭です。六文銭は、死者が三途の川を渡るときに必要とされる六道銭に由来します。戦いに臨む武士の必死の覚悟を表す家紋ということです。
境内に入ると、真新しい石に「真田左衛門佐豊臣信繁之墓」とあります。
「真田左衛門佐豊臣信繁之墓」
この墓は400回忌にあたる平成26年(2014)に造られたものです。
また。「真田幸村」は生前は「真田信繁」で、幸村という名前は江戸時代中期頃から軍記物や講談等で呼ばれるようになったという説明がありました。
元和8年(1622)、白牟(はくむ)上人が真田信繁・大助父子の冥福を祈って、真田丸の跡地に、心眼寺は創建されたとされています。
心眼寺の前には心眼寺坂が通り、坂道を隔てて、大阪明星学園が建っています。
「真田丸顕彰碑」横から
「真田丸顕彰碑」正面
「真田丸」は大阪明星学園の場所にあったのはほぼ間違いないということで2016年2月、同学園に「真田丸顕彰碑」が設置されました。
このあたりは、東西2つの郭から成る真田丸の東郭跡にあたります。
1614年、慶長19年、真田信繁(幸村)は真田山に出城「真田丸」をつくり、ここで徳川の大軍を相手に勝利をおさめた。翌年、「大坂夏の陣」で幸村は討ち死にする。そして豊臣家は滅亡した。
「まんなおし地蔵尊」
なお、心眼寺境内には「まんなおし地蔵尊」があります。「まん」とは「間(ま)」のことで、「なんて間がよいのでしょう」などという「運」「巡り合わせ」の意味です。まんなおしとは不運を幸運に変える〝縁起直し”ということです。
戦前は、地蔵参りのお土産に「真田軍薬」なるものが人気であったとか。六文銭マークの袋に入れて売られていた黄色い粉末は、真田幸村が愛用していた傷薬であると、まことしやかに言われていたとか。
京都見廻組墓
なお、寺の境内には「幸村鎧掛の松の木」があったが、第二次世界大戦の大阪空襲で寺を焼失したときに、松の木も失われた。
もう一つついでなgら、心眼寺の本殿の前には慶應四年の銘がある古い墓碑が2つ並んでいます。幕末の京都見廻組「桂早之助」「渡邊吉三郎」の墓です。
説明板には、この2人は慶応三年(1867)の「近江屋事件(坂本龍馬・中岡慎太郎 暗殺事件)」の実行メンバーで、特に桂(見廻組肝煎)は龍馬を斬った本人と伝えられています。

観て歩いた岡山城

岡山城の後楽園側を半分しか歩いていませんが、少し載せてみます。
■天守閣、後楽園側
旭川からの天守閣
■廊下門
廊下門
門扉の上に敵を迎え撃つための部屋を備えています。部屋は本段と中の段を結ぶ城主専用の廊下としても使用され、廊下門と呼ばれました。
■不明門(あかずのもん)
不明門全景
本段御殿の正門。中の段から本段への上り口にある櫓門。本段御殿と表書院(中の段)の往来には北側の廊下を通ったため、この門は、閉じられていました。今はここを通って天守閣に向かいます。
階段を振り返りましょう。戦いが始まった時、門の前の部分に土を盛るようです。埋めてしまうのです。
そうすると、完全に明かずの門になります。埋門の作りです。写真は内側から撮ったものです。
埋門
■六十一雁木上門(ろくじゅういちがんぎうえもん)
六十一雁木
 本段から川手に通じる石段道の上にある門で、段が61段あったことからこう呼ばれました。写真は、門の中の石段です。
■天守閣
岡山城上面
宇喜多秀家が岡山城の象徴に建築した三層六階建ての望楼形天守閣で、城郭建築物に天守閣が出現して発展し始めた時期の構造的特徴を伝えていました。
■天守閣の様式
壮大な天守閣
 岡山城天守閣は、大入母屋造りの基部に、高楼を重ねた、「望楼型」と呼ばれる様式です。
外観を見ると、外壁に黒塗りの下見板を張っているため全体的に黒色が強調された姿をしており、それに金箔瓦が彩を添えています。
金の鯱というと名古屋城ですが、烏城 岡山城にも金の鯱があり、金の鯱や鬼瓦、軒瓦と黒漆塗りの外見板とのコントラストは、とても美しいです。
そういうことで、岡山城は「烏城」「金烏城」という名前でよばれます。
そして、この天守は、その形から、信長の造った安土城に似ていると言われています。
正面から見た時の、下層の大きな形、地形に沿っているのでしょうが、8角形の構造など、類似点があるようです。
■複合式天守閣
塩蔵と天守
一見ひとつの建物のように見えますが、岡山城天守閣の西側三分の一は、塩蔵と呼ばれる別の櫓です。このような渡櫓なしで直接櫓が天守閣に付属している形式を「複合式天守」といいます。
■月見櫓
月見櫓
2代目藩主の池田忠雄が岡山城の増改築に際して、本丸搦め手に備えて建てた江戸時代初期の隅櫓です。
2階の城内側は廻り縁側を設けて開け放した佇まいで、日常の生活にも使用できるような構造となっていて、名前のとおり月見にも適していました。国の重要文化財です。
月見櫓 横
■石垣
「野面積(のづらづみ)」
石垣に目をやると、現在広い範囲に残っている石垣の殆んどは、昔のままの状態で保存されていることで、全国的にもあまり例がないことです。
打ち込み接ぎ
そのような築城時の「野面積(のづらづみ)」そして江戸時代初頭「打込ハギ(うちこみはぎ)」、さらにその後の「切込ハギ(きりこみはぎ)」と各時期の石積みを見ることができます。
特に本丸本段の野面積による高石垣は、この時期の全国有数の遺構といえます。
天守の「野面積(のづらづみ)」
こうした石垣の石は、岡山藩の領土・犬島から運ばれて来ました。海を渡り旭川を上って来た石の数は、なんと2万8000個にも及ぶそうです。
旭川沿いの公園にその石を運ぶ筏と修羅の模型がありました。
修羅と筏の模型
修羅の案内

岡山城

戦災で焼ける前の岡山城の写真です。
戦災前の岡山城
岡山城は、備前国の宇喜多直家が築いた石山城が元となり、その子どもの宇喜多秀家が豊臣秀吉の指導のもとで築城したものです。
備前の国邑久の在だった宇喜多直家が、岡山の地・石山の城にいた金光宗高を亡ぼして城郭を拡張し入城したのは天正元年(1573)の秋でした。それまでは金川の松田氏に属する小城に過ぎなかったのですが、直家はこの城を本拠として城下町の経営に着手しました。
直家の子どもの宇喜多秀家は、豊臣秀吉の庇護を受け、直家の遺領である備前、美作のほかに備中の内の高梁川以東をも加え、57万石の大藩主となります。
宇喜多氏顕彰の碑
そして、秀吉の意見に従い石山の東に本丸を移し、城郭の拡張整備を行い、慶長2年(1597)、天守閣が落成します。
もう少し岡山城の歴史を辿ると、宇喜多秀家は、慶長5年(1600)の戦いで西軍の総大将となって出陣、戦いに敗れ、八丈島へ流されてしまいます。(上の写真は、直家入城400年を記念し、岡山市発展の礎を築いた宇喜多父子を顕彰するためこの碑を建立したものです)
戦いの跡、岡山城には、西軍を裏切った小早川秀秋が入城します。
小早川秀秋は、岡山城の拡充、城下町の整備を積極的に進めますが、がわずか2年足らずで病死し、跡継ぎがなかったので、小早川家は断絶してしまいます。
その後、慶長8年(1603)に姫路城・城主池田輝政の子、池田忠継に備前一国が与えられ、池田忠継が岡山城に入ります。
そして、寛永9年(1632)に忠雄の子・光仲と鳥取藩の利隆の子・光政(輝政の嫡孫)の間で国替えが行われ、光政が岡山城に入ります。以後明治まで光政の系統、つまり池田家宗家が岡山城主で岡山藩を治めました
宇喜多秀家による天守閣の築城は、現在天守閣の立つ場所「岡山」という名の小さな丘の上に、新しく旭川の流れをつけかえて、掘削した土砂を盛り上げ、上中下三段の地形を造成しました。そして天正18年(1590)から本格的な城づくりを開始しました。
途中、秀吉の朝鮮半島への侵攻には、総大将として出陣しましたが、帰ってくるとすぐに工事を継続し、慶長2年(1597)の天守閣の完成で一応城づくりの全工事を完了しました。起工以来実に8年にも及ぶ大事業でした。
昭和41年(1966年)に再建された岡山城の天守閣です。
後楽園の方から見た岡山城
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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