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大田南畝の墓(本念寺)

お七の事件が有名になったのは、お七が処刑された3年後。貞享3年(1686)、井原西鶴によってお七が取り上げられたことによります。しかし、太田南畝の『一話一言』にお七が出てきますが、それが書かれた天明5年(1785)には円乗寺の墓は荒れ果てていたようです。
岡本綺堂の「夢のお七」(昭和9年10月)に大田蜀山人の「一話一言」のことが出てくるので、その所を引用します。
八百屋お七の墓
大田蜀山人の「一話一言」を読んだ人は、そのうちにこういう話のあることを記憶しているであろう。
八百屋お七の墓は小石川の円乗寺にある。妙栄禅定尼と彫られた石碑は古いものであるが、火災のときに中程から折られたので、そのまま上に乗せてある。然るに近頃それと同様の銘を切って、立像の阿弥陀を彫刻した新しい石碑が、その傍かたわらに建てられた。ある人がその子細をたずねると、円乗寺の住職はこう語った。
駒込の天沢山龍光寺は京極佐渡守高矩の菩提寺で、屋敷の足軽がたびたび墓掃除にかよっていた。その足軽がある夜の夢に、いつもの如く墓掃除にかようこころで小石川の馬場のあたりを夜ふけに通りかかると、暗い中から鶏が一羽出て来た。見ると、その首は少女で、形は鶏であった。鶏は足軽の裾をくわえて引くので、なんの用かと尋ねると、少女は答えて、恥かしながら自分は先年火あぶりのお仕置をうけた八百屋の娘お七である。今もなおこのありさまで浮ぶことが出来ないから、どうぞ亡きあとを弔ってくれと言った。頼まれて、足軽も承知したかと思うと、夢はさめた。
不思議な夢を見たものだと思っていると、その夢が三晩もつづいたので、足軽も捨てては置かれないような心持になって、駒込の吉祥寺へたずねて行くと、それは伝説のあやまりで、お七の墓は小石川の円乗寺にあると教えられて、更に円乗寺をたずねると、果してそこにお七の墓を見いだした。その石碑は折れたままになっているが、無縁の墓であるから修繕する者もないという。そこで、足軽は新しい碑を建立こんりゅうし、なにがしの法事料を寺に納めて無縁のお七の菩提を弔うことにしたのである。いかなる因縁で、お七がかの足軽に法事を頼んだのか、それは判らない。足軽もその後再びたずねて来ない。
以上が蜀山人手記の大要である。案ずるに、この記事を載せた「一話一言」の第三巻は天明五年ごろの集録であるから、その当時のお七の墓はよほど荒廃していたらしい。お七の墓が繁昌するようになったのは、寛政年中に岩井半四郎がお七の役で好評を博した為に、円乗寺内に石塔を建立したのに始まる。要するに、半四郎の人気を煽ったのである。お七のために幸いでないとは言えない。

この話は、幕末四谷の旗本石原治三郎が彰義隊に加わり、この円乗寺で、同じくお七の鶏を見たという話で興味深いのですが、今回は大田蜀山人、大田南畝がお七のことを書き、岡本綺堂がそのことを記したということで止めておきます。
というのは、白山神社の近くに大田南畝の墓があります。
大田南畝は、同時に天明期を代表する文人・狂歌師。牛込御徒町(人気の神楽坂の一帯)下級武士の子として生まれました。号は四方赤良、晩年は蜀山人。
墓があるのは、本念寺です。
日蓮宗寺院の本念寺は、信弘山と号します。本念寺は、玄等院日量上人(寛文11年1671年寂)が開基開山となり創建したといいます。
白山通りを北上して。白山4丁目の本念寺へ。門前に「大田南畝の墓」案内板があります。境内に入ると「ひと声掛けてからお入り下さい」の張り紙があったもで、ご挨拶をして入りました。奥に入って左に行ってくださいと丁寧にご案内いただきました。
「南岳大田亨之墓」
まずは大きな自然石加工の「南岳大田亨之墓」。これは末裔の画家にして文人。「まっ黒な土瓶つつこむ清水かな」の句と、大正六年七月十三日 行年四十五の碑文。
「南畝大田先生之墓」
その奥の巨石「南畝大田先生之墓」。こちらには一切の墓碑銘はありません。
遺族に墓碑銘を刻む経済的余裕がなかったとかとも言われていますが、みんなよく知っているからとも言えます。
「大田自得翁之墓」
 隣のお墓は「大田自得翁之墓」。南畝の父・吉左衛門さんのお墓でしょう。
裏にまわると小さな墓石が二つ。左は寛政五年「晴雲妙閑信女」の戒名で、側面に「不知姓賎為字・・・」の墓碑銘。「姓を知らず賎を字と為す…」で、南畝が吉原から身請けした三保崎さんこと「お賎(しず)さん」のお墓。
「お母さん」「お賎さん」の墓
その隣(右)は「信行院妙理日得大姉之墓」で教育熱心だった母・利世のお墓でしょうか。他に妻・里与、息子の定吉夫婦と子供たち、さらには南畝を看取っただろうお香さんの墓など多数あったはずも今はありません。
永井荷風は「礫川徜祥記」に「・・・われ小石川白山のあたりを過る時は、必本念寺に入りて北山南畝両儒の墓を弔ひ、また南畝が末裔にしてわれ等が友たりし南岳の墓に香華を手向くるを常となせり」と記しました。同随筆は大正13年に本念寺を訪ねた直後の記。
昭和16年10月27日の『断腸亭日乗』にば「…団子坂を上り白山に出でたれば原町の本念寺に至り山本北山累代の墓及大田南畝の墓前に香花を手向く。南畝の墓は十年前見たりし時とは位置を異にしたり。南岳の墓もその向変りたるやうなり」。
いいいろ動いて奥さんの鼻kなどは消えてしまったのでしょうか。
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駒込の大円寺 ほうろく地蔵

大円寺(嘉永七年1854年尾張屋刊江戸切絵図より)お七の墓のある大乗寺の近くに大円寺があります。大円寺の門
天和(てんな)の大火は、天和2年(1682)12月28日、その大円寺塔頭の大竜庵かから出火し、北西風により延焼、28日(正午ごろから翌朝5時ごろまで延焼し続けました。焼失した武家屋敷241・寺社95など。 死者は3500名余と推定されています。
お七の一家も焼け出されました。お七のゆかりでお七火事とも言われますが、お七が火付けした火事ではありません。八百屋お七はこの火事では被害者です。また、お七の火付けは小火で、すぐ消されています。
この大円寺には、ほうろく地蔵があります。
ほうろくの積まれるお地蔵さん
これは、お七の大罪を救うため、熟せられた胞賂を頭に乗せ、お七の身代わりとして、焼かれる苦しみに耐える地蔵として安置されたものだそうで、享保4年(1719)渡辺九兵衛という人がお七の供養にと寄進したものとされています。
ほうろく地蔵
ほうろく地蔵は、頭痛・眼病・耳・鼻の病など首から上の病気を治す霊験あらたかなお地蔵様として有名になりました。
ほうろくは「ごまなどを煎るための素焼の土鍋」です。
頭にほうろく お地蔵さま
1枚2000円。患部や願いを書いて供えます。
中国の殷の時代、「ほうろくの刑」とよばれる残虐無比な刑罰がありました。
炎の上に、油を塗った銅板をおき、罪人を歩かせるというものです。
熱いから飛び跳ねます、その姿が焙烙ではじけるゴマなどに似ていることで、ほうろくの刑と称されたとか。火で焼かれる刑は、日本では、火あぶりの刑。
そこから来たのかどうか、お七の罪業を救うため、熱したほうろくを頭に被り、自ら灼熱の苦しみを受ける、そういうお地蔵さまが、ほうろく地蔵です。
ほうろく地蔵の前にはほうろくが多数奉納されています。
大円寺本堂
大円寺は慶長2年(1597)の開創で、はじめ神田柳原にありましたが、慶安2年(1649)現在地に移りそれから「駒込の大円寺」と呼ばれています。墓域には、幕末の先覚者であり砲術家の高島秋帆、明治時代の小説家・評論家の斉藤緑(1868~1904)の墓があります。

目黒にも大円寺があります。この目黒の大円寺は、江戸三大大火の一つといわれる明和の大火(行人坂の大火1772年)の火元です。そして、この寺は、現在八百屋お七の情人吉三ゆかりの寺になっています。大円寺本堂の並びの「阿弥陀堂」があります。この中にお七地蔵とともに、西運上人(吉三の後の姿)の像が祀られているのです。
吉三は出家して西運を名乗り、大円寺の下(現在の雅叙園のところ)にあった明王院に身を寄せたました。
西運は明王院境内に念仏堂を建立するための勧進とお七の菩提を弔うために、目黒不動と浅草観音に1万日日参の悲願を立てます。往復10里の道を、雨の日も風の日も、首から下げた鉦しょうをたたき、念仏を唱えながら日参しました。そして、27年後に明王院境内に念仏堂が建立された。しかし、明王院は明治初めごろ廃寺になったので、明王院の仏像などは、隣りにあった大円寺に移されたのです。

「八百屋お七の墓」

「八百屋お七の墓と」言われている墓のあるお寺、円乗寺に行きました。円乗寺jは文京区白山1丁目34番地にある天台宗の寺です。寺伝によると、寛永8年(1631)、本郷から今の地へ移転したことになっています。
寺の前の浄心寺坂は、別名お七坂とも呼ばれています。その坂道に面して「八百屋於七地蔵尊」の赤い奉納旗がひらめく御堂がありますまた、この地の旧地名である「指ヶ谷」の説明板も建っています。
このあたりは昭和39年(1964)8月1日施工の新住居表示によって白山となるまでは「指ヶ谷町」と呼ばれていたのです。
旧指ヶ谷町の東北端に位置していたこの「南縁山円乗寺」は元和6年(1620)宝仙法印によって開山された天台宗の寺院です。
「八百屋於七地蔵尊」
円乗寺の入り口にある「八百屋お七」地蔵尊は、お七が在世のとき所持していた地蔵尊で、それを祀ってあるということです。地蔵の正式名は「南無六道能化八百屋於七地蔵尊」です。
円乗寺
「八百屋於七地蔵尊」をお参りして、その右の細い小道を入って行くと、突き当たりが本堂で、その左手にお七の墓があります。
円乗寺のお七の墓

八百屋お七の墓

八百屋お七の墓 アップ
墓碑は3基建っています。中央がお七の墓で、<妙栄禅定尼。天和3(1683)年3月29日寂>。右側は、寛政年間(1789-1801)に歌舞伎役者の岩井半四郎が、お七を演じた縁で建立した供養塔。左側は近所の人が270回忌法要のために建て供養塔です。
いつ行っても、墓石の後ろには沢山の卒塔婆並び、線香や花が手向けられていて、お参りの人が絶えないようです。
いわば蛇足
「八百屋お七」に真偽のことをとやかく言うのはある意味失礼ですが、円乗寺のお七の墓は、元々は天和3年3月29日に亡くなった法名妙栄禅尼の墓です。これがお七の墓とされていて、お七の戒名を「妙栄禅定尼妙」と記してあるものもありますが、それはどうかなと思います。
お七は火あぶりの刑に処せられたのですから、墓に葬られたということはおかしいと言えます。
もう一つ気になったこと。
指ヶ谷
この地蔵堂の前には、2つの案内板が設けられていますが、それぞれ異なった説明になっています。教育委員会の「八百屋お七の墓」の案内板では左兵衛と吉三郎は同人物になっていまが、「指ヶ谷」の案内板の文京区観光局のでは「お七は左兵衛という美少年に恋をし吉三郎にそそのかされて放火した。」となっています。
『近世江都著聞集』はお七と恋仲は山田左兵衛で、吉三郎は、八百屋に出入りしていたあぶれ者で素性の悪い人物で登場します。吉三郎は、自分が博打に使う金銀を要求する代わりに2人の間の手紙の仲立ちをしていました。やがて吉三郎に渡す金策に尽きたお七に「また火事で家が焼ければ左兵衛のもとに行けるぞ」とそそのかすわけです。
文京区観光局は、『近世江都著聞集』を取ったのですね。
◍他にもある「八百屋お七の墓」
千葉県八千代市の長妙寺と、岡山県御津町にもお七の墓とよばれるものがあります。
御津町吉尾(現岡山市御津吉尾)には次のように伝わります。「八百屋お七」は、恋仲の男に会いたい一心で、吉三郎の入れ知恵に従い自宅に火を放って処刑されました。吉三郎はこれを悔い、お七の分骨を持って諸国を行脚し、いつのころか野々口に留まり、後小山村で没した。村人はお七の分骨とともに手厚く葬ったと伝えられています。
あぶれもの吉三郎が、改心しての登場です。
千葉県八千代市の長妙寺のお七の墓は、「お七の養母が、鈴ケ森の刑場から遺骨をもらいうけ埋葬した」と寺の過去帳に記されているのだそうです。ここでは、養母が出てきます。
なお、恋人の吉三郎も、お七の処刑後、発心して「西運」と称し、江戸より巡礼の旅に出たということで、各地にお七の地蔵を建て、「西運」墓も伝わっています。

駒込の吉祥寺に「お七、吉三郎 比翼塚」

「お七、吉三郎 比翼塚」
駒込の吉祥寺に「お七、吉三郎 比翼塚」があります。
山門を入ると、みどりあふれた長い参道があります。向かって左は銀杏から。右側は、枝垂れ桜の並木のようです。桜が咲いた時ぜひお参りしたいものです。
その参道を進み、「茗荷稲荷」・があり、その横に「お七、吉三郎 比翼塚」はあります。
「比翼塚」というのは、愛し合って死んだ男女や心中した男女、仲のよかった夫婦を一緒に葬った塚、墓のことです。一緒になれなかった2人を死後、一緒に祭ってあげるというものが多いです、
この「お七、吉三郎 比翼塚」は紀行文学会がお七生誕300年記念に昭和41年(1966)に建立しました。
お七、吉三郎比翼塚 裏面
裏を見ると、平成19年(2007)に再建されています。
それまでの比翼塚はこれです。門に入ってすぐの所にあったように思います。
八百屋お七の比翼塚
ついでにもう一つ、お七生誕300年記念が昭和41年(1966)というkとになると、お七の生誕は寛文6年(1666)になります。それで処刑された天和3年(1683)は、18歳になります。正しくは、寛文8年(1668)です。これだと火あぶりにされた歳は、16歳になります。

八百屋お七の物語

井原西鶴の『好色五人女』は、お七の事件3年後に出版されました、
この作品の影響は絶大なもので、西鶴が設定した恋人の名を吉三郎、避難先の寺を吉祥寺とすることを受け継いでいる作品が大多数を占めることになります。
『好色五人女』「恋草からげし八百屋物語」
師走28日の江戸の火事で本郷の八百屋八兵衛の一家は焼けだされ、駒込吉祥寺に避難します。避難生活の中、寺小姓小野川吉三郎の指に刺さったとげを抜いてやったことが縁で、お七と吉三郎はお互いを意識するようになります。
本文の出会いの場面の描写は次のようです。
西鶴「好色五人女」挿絵「お七と吉三郎出会い」の場面
・・・母人の数珠袋をあけて、願ひの玉の緒手にかけ、口のうちにして題目いとまなき折から、やごとなき若衆の、銀の毛抜片手に、左の人差指にあるかなきかの刺の立ちけるも心にかかると、暮方の障子をひらき、身を悩みおはしけるを、母人見かね給ひ、「抜きまゐらせん」 と、その毛抜を取りてしばらく悩み給へども、老眼のさだかならず、見付くる事難くて、気の毒なるありさま、お七見しより、「我なら目時の目にて、抜かんものを」 と思ひながら、近寄りかねてたたずむうちに、母人呼び給ひて、「これを抜きてまゐらせよ」 とのよし、うれし。・・・(井原西鶴『好色五人女』より)

正月15日、寺の僧達が葬いに出かけ、寺の人数が少なくなりました。折りしも雷がなり、女たちは恐れるが、寺の人数が少なくなった今夜が吉三郎の部屋に忍び込む機会だと思ったお七は他人に構われたくないゆえに強がりを言い他の女たちに憎まれてしまいます。
井原西鶴「好色五人女」挿絵「吉三郎の部屋を訪れるお七」の場面
その夜、お七は吉三郎の部屋をこっそり訪れました。
訳知りの下女に吉三郎の部屋を教えてもらい、吉三郎の部屋にいた小坊主を物をくれてやるからとなだめすかして、お七はやっとのこと、吉三郎とふたり切りになることができました。
吉三郎せつなく「わたくしは十六になります」
お七「わたくしも十六になります」
西鶴「なんとも此恋はじめもどかし」というように十六歳の恋らしい初々しい契りだった。翌朝、お七は、吉三郎といるところを母に見つかり引き立てられます。
そうこうしているうちに、新宅ができ帰ることになります。
ふたりは会えなくなります。
雪の日、吉三郎は松露・土筆売りに変装して八百屋を訪ね、雪のため帰れなくなったと土間に泊まります。ちょうど。親戚の子の誕生の知らせで両親が出かけた後で、お七は土間で寝ている松露・土筆売りが実は吉三郎だと気がついて部屋に上げ、存分に語ろうとします。
しかし、そこに親が帰宅してきました。あわてて、吉三郎を部屋に隠し、両親に気がつかれないようにお七の部屋でふたりは筆談で恋を語りました。
大雪の日にお七を訪ねた吉三郎は、吉祥寺に変えるなり、倒れて寝込んでしまします。
そお七は、どうしても会えぬ吉三郎の事を思い、また、家が火事になればまた吉三郎がいる寺にいけると思い、火付けをしてしまいます。
しかし、近所の人がすぐに気が付き、ぼやで消し止めらられました。
その場にいたお七は問い詰められて自白し捕縛され、市中引き回しの上、火あぶりになります。
吉三郎はこのとき病の床にあり、お七の出来事を知りませんでした。お七の死後100日に吉三郎はやっと起きられるようになり、真新しい卒塔婆にお七の名を見つけ悲しみ、自害しようといしますが、お七の両親に説得され思いとどまり。出家して、お七の霊を供養したことでした。

落語にも八百屋お七物にはいくつか有ります
「八百屋お七」
お七は町内でも評判の美人、婿になりたがる男の行列が本郷から上野広小路まで並ぶほどである。
火事で店が焼けたためお七は駒込の吉祥寺に預けられ、そこで美男の寺小姓吉三(きっさ)と恋仲になる。
家が再建され寺を去るお七は吉三に「あたしゃ、本郷へ行くわいな」とあいさつする。以降の展開は多くのお七物と同じですが、幕府の老中土井大炊頭が可憐な娘を丸焼きにするのを気の毒がります。
当時の江戸では火付け犯は15歳を過ぎれば火あぶり、15歳未満は罪を減じて遠島の定めだったため、土井大炊頭はなんとかお七の命を救おうと奉行に命じ「お七、そちは十四であろう」と謎をかけさせました。
しかし、お七は正直に「十六でございます」と答えてしまったために火あぶりとなります。
そして、お七は幽霊となり人々を悩まします。その噂が拡がりますと、豪儀な武士が、拙者が退治いたそう、と名乗り出てきて、その武士に手足を切られて1本足になり、こりゃかなわんと逃げるとき武士が「片足でどこに行くか」と聞きます、お七の幽霊、答えていわく「片足ゃ、本郷へ行くわいな」
「お七の十」
火あぶりになったお七と悲しんで川へ身投げし水死した吉三があの世で出会って抱き合ったらジュウと音がした、火と水でジュウ(七+三で十)という落ち。
歌川国貞_櫓のお七人形振り

美空ひばりの「八百屋お七 」
作詞:野村 俊夫、作曲: 万城目 正。 ...

月を見てさえ 吉さま恋し
まして逢えなきゃ なおさらに
泣いて畳んだ 折鶴だいて
娘十六 恋ごころ

忍ぶ小路の 足音きけば
胸は早鐘 みだれ打ち
紅を散らした 顔のぞかれて
知らぬふりする はずかしさ

夢も七いろ 吉さま参る
醒めて悲しい 小夜嵐
娘ごころは 燃えてるものを
ままにならない 恋模様

本郷の八百屋娘お七は

駒込吉祥寺
駒込の吉祥寺です。
太田道灌が江戸築城のとき井戸を掘ったところ「吉祥増上」の刻印が出たので和田倉門の所に「吉祥庵」を設けたのがはじまりです。天正19年(1591)に今の水道橋近くに移りまし、ところが、明暦3年(1657)の大火、俗に言う振袖大火で類焼しお寺は現在の位置に移りました。しかし門前の町人達は居を失ってしまいました。
万治2年(1659)吉祥寺 の浪士、佐藤定右衛門、宮崎甚右衛門が土着の百姓・松井十郎座衛門と協力して現在の武蔵野市一帯を開墾し、吉祥寺門前の町人達を移住させました。
中央線の吉祥寺は、吉祥寺に愛着を持っていた住人たちにより誕生した地名です。
   ◍八百屋お七が避難したお寺
それから25年後の天和2年(1682)に大円寺裏方から大火が出、そのとき、本郷にいた八百屋の娘お七が一家で避難したお寺として、井原西鶴の『好色5人女」』(貞享3年(1686))では、駒込吉祥寺となっています。当時、駒込で有名なお寺だった吉祥寺は関西の読者にも理解されやすかったのでしょう。今回、吉祥寺から火元の大円寺の方へ歩いてみましたが、少し歩きごたえがあります。お七一家が家財道具を持って逃げるには吉祥寺は少し遠かったかもしれません。
お七の処刑後ほどなく出版された実録『天和笑委集』によれば、お七の一家は「天和の大火」で焼け出され「正仙院」という寺に避難、そこでお七は寺小姓と恋仲になっています。しかし「正仙院」という寺は見つけることはできません。ただ、延宝8年(1680)の『江戸方角安見図』では本郷森川宿の近くに「正泉院」という寺がある記録があり、これが、「正仙院」ではないかと言われています。
避難先を現在お七の墓がある円乗寺としている実録『近世江都著聞集』はお七の死の74年も後の成立です。円乗寺は八百屋の菩提寺だったということで墓が残っていますが、避難の寺かどうかは、はっきりしません
   ◍お七が恋い焦がれた人の名前
お七のお相手の名前も、『天和笑委集』では生田庄之介、『好色五人女』では小野川吉三郎、「近世江戸著聞集」では山田左兵衛、人形浄瑠璃「八百やお七」では安森吉三郎、落語では吉三(きちざ・きっさ)と、八百屋お七の恋人の名前もたくさん出て来ます。
   ◍「八百屋お七」事件とは
天和3年(1683)八百屋の娘、お七が火付けの科(とが)により、火炙りによって処刑されたという実話に基づいて、処刑からわずか3年で井原西鶴が『好色五人女』のなかで脚色され、「恋草からげし八百屋物語」として小説化されます。
多数ある八百屋お七の物語は、先に見たように、恋人の名や登場人物、寺の名やストーリーなど設定はさまざまです。
共通しているのは「お七という名の八百屋の娘が恋のために大罪を犯す物語」ということだけです。
井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられてから、浄瑠璃・歌舞伎などに脚色されていきます。
歌川国貞_櫓のお七2
歌舞伎では、お七は放火せず、木戸を開けるために、振袖姿で火の見櫓に登、半鐘もしくは太鼓を打ちます。(この半焼を打つのも大罪)。これは、火を極端に嫌ったからです。
歌舞伎や文楽では振袖姿のお七が火の見櫓に登る場面は、豪華な見せ場で、櫓の場面だけを1幕物「櫓のお七」にして上演する事が多いようです。私も、現市川猿之助が市川亀治郎だった時の「櫓のお七」を見てとても感激したことを思い出します。
一勇斎国芳の錦絵 八百屋お七(縦2枚)
月岡芳年 松竹梅湯嶋掛額(八百屋お七)

小石川後楽園で

国指定特別史跡・特別名勝の小石川後楽園で、少し除草のお手伝いを少ししました。
リュウノヒゲ(龍の髭
梅園のリュウノヒゲ(写真右側)を守るための除草です。ムラサキカタバミ、かわいい草花です。ドクダミ白い花、ではなくたしか総苞片(そうほうへん)と言ったと思いますが、白さがたくさん集まるとはっとさせられます。シダもきれいなみどりです。
それらを抜き取る作業です。
リュウノヒゲは、細く伸びた葉っぱが、竜の口ひげを連想させることから、リュウノヒゲという和名が付けられました。
季節を問わず、緑の葉っぱを茂らせている様子から、「変わらぬ想い」「不変の心」という花言葉がついています。
小石川後楽園を少し見て歩きました。
菖蒲が咲き始め
菖蒲が咲き始めています。これからが本番です。
睡蓮2
内庭の池では睡蓮がいっぱい。白い花を咲かせていました。
小石川後楽園の池 鷺が飛ぶ
大泉水はどうどう夏の輝きです。サギが飛び立ちました。
カモのお通り
カモが上がってきました。
今日は、今年一番の暑さでした。

エゴノキ

西武線、武蔵砂川駅を下りて、玉川上水縁を歩いていたら、白い花をいっぱい漬けた木に出会いました。
エゴノキ2
エゴノキでした。この名前は果実を口に入れると喉や舌を刺激してえぐい(えごい)ことによるとあります。。
有毒物質であるサポニンを含んでおり、その味が「えぐい」のです。
これを利用し、果実や根を水の中で叩き潰し、魚を麻痺させて採取することがありました、しかし、この漁法は、現在では禁止されています。
昔は若い果実を石鹸と同じように洗浄剤として洗濯などに用いました。
緻密で粘り気のある材なので、将棋のこまにしたり。。種子は硬い殻に包まれていて、お手玉の中に入れると良い音がするそうです。
エゴノキ1

宮城道雄記念館

宮城道夫記念館
大田南畝の住んでいた場所の隣りに、現在宮城道雄記念館が建っています。
筝曲の宮城道雄が最晩年を過ごしたところです。
以前は玄関の門ところに木があり、その向こうに瀟洒な日本家屋が見えました。
宮城道雄の元書斎で、昭和23年(1948)12月に完成し、「検校間」と名づけられていました。宮城道雄は、その最後7年間はほとんどここで作曲をしていたとのことです。
平成23年7月のことでした。NPO法人「粋なまちづくり倶楽部」と新宿区が中心になって、神楽坂地区の昭和20年代に建築された建物を、国の登録有形文化財に登録しました。
その登録された建築物は、矢来能楽堂、旧高橋建築事務所、横寺の家(鈴木家住宅)そして宮城道雄記念館「検校の間」でした。
「登録有形文化財」とは、保存及び活用についての措置が特に必要とされる文化財建造物を文部科学 大臣が文化財登録原簿に登録し、指導・助言・勧告を基本とする緩やかな保護措置を講じる制度です 。
従前からNPO法人では、美しいまちの景観を創出するために、神楽坂らしさを醸し出す文化資源 を保存することを呼び掛けていました。
「神楽坂界隈は第2次世界大戦時の東京大空襲で焼け野原となってしまったため、戦前の古い建物はほとんど残っていませんが、長い歴史的な蓄積を背景に、戦後の建物でも、文化的価値の高い建物は数多く残されています。    神楽坂では、神楽坂らしさを映し出す文化資源を多く見いだして、豊かな中身のある、美しいまちの景観づくりに役立てたいと願っています。」(”粋なまち””和のまち”応援団)
文化財ということであれば、簡単には壊されないだろうというと思いがあったと思います。
今、その「検校の間」は、玄関の門のところからは見えません。
一昨年の正月に、ここの前を通った時、たまたまその建物を解体しているとこでした。
平成27年1月解体中の検校の間
今マンションが建っています。
「検校の間」がどうなったのか、確認をしていません。
ただ、外から眺められた、豊かな風景はなくなってしまいました。
宮城道夫の記念館の建物

「大田南畝」覚書 

大田南畝の生涯をウィキペディアなどを参考に記してみます

寛延2年(1749) 江戸の牛込中御徒町で、70俵5人扶持の御徒の太田正智(吉左衛門)の嫡男として生まれた。
明和元年(1765)、幼少より学問や文筆に秀でたため15歳で、国学を内山賀邸に、漢学を松崎観海に学ぶ。
明和2年(1765)  16歳で父の跡を継いで御徒となる。
明和4年(1767) 平賀源内に序文をもらい、狂詩集『寝惚先生文集』を刊行。これが大評判となった
明和6年(1769) 「四方赤良」と号し、狂歌を主とした狂歌会を開催。江戸で大流行となる『天明狂歌』のきっかけを作り、自身も名声を得ることになった。
 <当時は田沼時代と言われ、潤沢な資金を背景に商人文化が花開いていた時代だったことから、南畝の狂歌は、当時の知識 人たちに受け、また交流を深めるきっかけにもなっていった。>
安永5年(1776) 落合村周辺で観月会を催す。
安永8年(1779) 高田馬場の茶屋「信濃屋」で70名余りを集め、5夜連続の大規模な観月会を催す。
安永9年(1780) 蔦屋重三郎を版元として『嘘言八百万八伝』を出版、
天明3年(1783)、35歳の時、『万載狂歌集』(『千載和歌集』のパロディ)を発表、翌年には小説で『頭てん天口有(あたまてん てんにくちあり)』を発表。
 <この頃から田沼政権下の勘定組頭土山宗次郎に経済的な援助を得るようになり、吉原にも通い出すようになる>
天明6年(1786) 吉原の松葉屋の遊女・三保崎を身請けし妾とし自宅の離れに住まわせるなどしていた。
天明7年(1787年) 寛政の改革が始まる。 
 南畝の経済的支柱であった土山宗次郎も横領の罪で斬首されてしまう。
 風紀に関する取り締まりが厳しくなり、版元の重三郎や同僚の京伝も処罰を受けた。幸い南畝には咎めがなかったものの、周囲  が断罪されていくなかで風評も絶えなかった。
 政治批判の狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」の作者と目されたことや、田沼意次の腹心   だった土山宗次郎と親しかったことで目を付けられる。
 南畝は狂歌の筆を置いてしまう、幕臣としての職務に励みながら、随筆などを執筆。>
寛政4年(1792)、46歳の南畝は「学問吟味登科済」が創設されたのを機にこれを受験し、当時小姓組番士だった遠山景晋とともに甲科及第首席合格となる。寛政8年(1796)に、支配勘定に任用される。
享和元年(1801)、大坂銅座に赴任。この頃から中国で銅山を「蜀山」といったのに因み、「蜀山人」の号で、狂歌を再開する。
文化元年(1804) 長崎奉行所に赴任。
文化9年(1812)、息子の定吉が支配勘定見習として召しだされる]も、心気を患って失職。自身の隠居を諦め働き続けた。
文化5年(1808) 堤防を調査する玉川巡視の役目に就き
文政6年(1823)、登城の道での転倒が元で死去。75歳。
 <墓は小石川の本念寺(文京区白山)にある>
狂歌を少し。
▼まず、地元の歌から。
大田南畝の住んだ牛込中御徒町の近くに光照寺があり、そこに行くには地蔵坂を通ります。
大田南畝はこの坂で子どもたちの前で転んでしまい、子供が手をたたいて喜び狂歌を作っています。
「子どもらよ笑わば笑へ藁店のここはどうしよう光照寺」
坂の途中に藁を商う店があったからとのことからこのあたりを「藁店(わらだな)」と呼ばれていました。
▼そして、辞世の句と言われている歌を2つす。
「今までは人のことだと思うたに 俺が死ぬとはこいつはたまらん」
「生き過ぎて七十五年食ひつぶし 限りしられぬ天地の恩」
どちらも身にしみる歌です。

大田南畝が暮らした牛込中御徒町の屋敷は?

牛込 御徒町
大田南畝は、御家人ですが天明期を代表する文人・狂歌師です。
生年は寛延2年3月3日(1749年4月19日)。没年は文政6年4月6日(1823年5月16日)。
では、大田南畝が生まれ住んでいた「牛込」の屋敷はどこだったのか。
かなり前に、私が神楽坂を歩いた時、教えていただいたのが、新宿区北町41番地の場所でした。
そして、今も町あるきで手にする『東京10000歩ウォーキング 神楽坂』(2006年)も大田南畝の住居跡は「新宿区北町41番地」で出ています。それで、私も、何年か、その場所を案内していました。
ところが、鈴木貞夫氏の『大田南畝の牛込中御徒町住所考』という本に「牛込中御徒町」が考証されていました。
それで訂正して、現在は「中町」を案内しています。
もともと、大田南畝の牛込御徒町の屋敷は、北御徒町とか中御徒町とか諸説がありました。
北御徒町とする説は『東京名所図会』の「蜀山人の故宅」に書かれています
「蜀山人の故宅」
北町四十一番地に、太田南畝(蜀山人)の故宅ありて、其孫南岳こゝに成長せ、後ち文豪故尾崎紅葉、南畝の舊宅と聞き、移て之れに住うす(自明治二十三年至同二十四年)其横寺町(前編掲載)に轉てんずるや、江見水蔭之れに代れり、庭砌遺愛の椿は再び明治の文學者の賞する所となれり、當年の寢惚先生、亦以で榮えいとす可きなり。水蔭居を移して後、幾度か主を異にし、故宅漸く傾き、今や其趾をとゞめずなりぬ。南岳は南宗派の畫家くわかにして、今の時に名あり、甞て十千萬堂に遊ぶもの、俳句はいくを能くす、四谷荒木町に住せり

これが北町説の根拠でした。尾崎紅葉も、この説で、北町も住んでいたようです。
それでは、『大田南畝の牛込中御徒町住所考』にはどう出ているでしょうか。
「蜀山人の故宅」では)北町四十一番地を南畝の旧居跡としている。筆者の山下重民は四谷に在住した人であり、同じ四谷の荒木町に住む南岳から話を聞いたものと思われる。ちなみに、南岳は名を亨、南畝から五代下る大田家の当主、金森南塘門下の画家として名をなし、大正6年7月13日に45歳で亡くなっている。
南畝は享和三年(1803)の由緒書の中で、住居を「牛込中御徒町」と書いているので、中御徒町に屋敷のあったことは確実であるが、以前に他の御徒組(例えば、北御徒町の西丸御徒二番組)から移ったとも考えられるので由緒書の祖父あたりから頭の系列(番組)を検討してみよう。
1.由緒書
高百俵五人扶持 本国生国共武蔵
内 七拾俵五人扶持本高 三拾俵御足高     支配勘定
大 田 直 次 郎
当亥五十五歳
拝領屋敷無御座候 当時牛込中御徒町 稲葉主税御徒組東左一郎地内借地仕罷在候   (省略)
2.(省略)
3.その他
『一話一言』の「車留の札」に、
「予がすむ所は、牛込中御徒町なりしかば……」(『全集』一三ー四七六)
とあります。
大田南畝氏は牛込中御徒町(現在は中町)に住んでいたことになります。

永井荷風の大正14年5月の『断腸亭日乗』によれば
五月廿二日。午後牛込仲町辺を歩む。大田南畝が旧居の光景を想像せむとてなり。南畝が家は仲御徒町にて東南は道路、北鄰は北町なりしとの事より推察するに、現時仲町と袋町との角に巡査派出所の立てるあたりなるべし。
巡査派出所は残念ながら、今はありません。

中町の通り
牛込中町を歩いてみます。この辺は切絵図絵図のように御徒組・組屋敷のあった地域です。
切絵図の北御徒町は、現・北町。中御徒町は、現・中町。南御徒町は現・南町です。
それでがでこかというと、中町にある「宮城道雄記念館」の右隣り「フル オン ザ ヒル」というおいしいプチキムチ肉まんを売っているお店のあたりです。
豚まんの店 昔大田南浦の生家
新宿区の案内はありませんが、そのお店が、案内を額に入れてつるしてくれています。
ここに大田南畝は、56歳まで暮らした家がありました。

大久保甚四郎 鈴木晴信 大小絵暦 錦絵

「逢坂」で載せた切絵図を見てください。切絵図の逢坂をあがって右に見える大久保甚四郎は、西ノ丸御書院番1600石の旗本でした。名前は忠舒(ただのぶ)で、後に甚四郎となり、拝命は巨川でした。享保7年〈1722〉~安永6年(1777)の人です。
1600石という比較的裕福な旗本の生まれで、さして多忙でもなく、自由に趣味が楽しめる立場にあった人で、俳句や絵筆の才能にも恵まれていました。そして、宝暦の終わりから明和の初めのころ、大久保甚四郎は、大小の会(連)の主催者として活躍していました。この巨川邸には、武家も町人も俳諧人や絵師も階層を問わず集まっていたようです。例えば、俳句連として、船河原橋先の旗本1000石の阿部八之進(俳名・莎鶏)や飯田町の薬種商・小松屋三右衛門(俳名・百亀)らが頭取となって集まっていました。
そうした連で、大久保巨川が主催する年始会で大小絵暦交換会が開かれました。
江戸時代の暦は『大の月』が30日『小の月』が29日と決められており、大久保たちは年始の挨拶状の代わりに毎年趣向を凝らした絵入り、図入りの暦を自費で出版し交換会もしばしば開催しました。
様々な趣味人たちが集まっていたわけですが、趣味人たちは誰もが、みんなを驚かせるような大小を作って、発表したい との熱意に燃えていたのです。
そうした中、大久保甚四郎は鈴木春信と組んで、多色刷りの絵暦の作成にチャレンジします。
彼らが編み出した新しい版画の手法は「見当法」といわれるものでした。複数の版木を作って、それぞれに別の色を塗り、それらを正確に重ね刷りするために、版木に「見当(けんとう)」と呼ばれる目印(四隅や四辺を合わせるための小さな彫り)を付けることを思 いついき、それを実践したのです。
また、この頃、複数回の刷りに耐えられるような丈夫な紙が普及 してきたことも、錦絵の誕生に大きく貢献しています。
巨川邸の近くで生まれた大田南畝(1749~1823)は、随筆集『金曾木』(文化6年12月記)の中で、次のように書いています。
<明和の初め、旗下の士、大久保氏、飯田町薬屋小松屋三右衛門らと大小の刷り物(絵暦)をなして、大小の会(絵暦の交換会)をなせしより、
その事、盛んになり、明和二年(1765)より鈴木春信吾妻錦絵というを描きはじめて紅絵の風一変す>
当時、大久保巨川が、同好の士の先頭にたって「絵暦」に関する技法、とりわけ色付き版画の開発に取り組んでいて、その『刷り物』が「錦絵(浮世絵)」版画の原点になったのです。
大田南畝の詩文集『寝惚先生之集』(明和4年刊)に序文を寄せた風来山人・平賀源内(1728~1780)も、大久保・鈴木の錦絵プロジェクトに非凡な想像力を携えて参加していたようです。
大小絵暦
浮世絵は、寛文10年(1670)頃に「浮世絵の祖」と称される菱川師宣により絵草子などの版本挿絵から独立させて風俗画や武者絵が作られ、墨一色で摺る浮世絵版画が誕生しました。
その後、丹絵や紅摺絵などが出てくるが多色刷りが登場するまで100年の歳月を要しました。
明和元年(1764)から翌2年にかけて巨川邸に集う頭取や好事家たちは、金に糸目をつけず、若手有望絵師の鈴木春信に下絵を描かせました。
鈴木春信は平賀源内の指導を受けながら版木の彫師や摺師など職人の協力を得て、豊富な資金源を背景に実験的な試みを重ねて新たな技法を開発して大小絵暦を制作させます。
牛込逢坂上の巨川邸は浮世絵の代表的名称となる「錦絵」の発祥地となったわけです。 
◆鈴木春信 夕立 大小絵暦 
鈴木晴信 夕立
浴衣に描かれた柄が、暦の月の大小をあらわしています。
干してある着物に、大、二、三、五、六、八、十、
 メ、イ、ワ、二、が描かれている
帯の部分に明和2年の干支、乙、トリが描かれている
◆鈴木春信 水売り 大小絵暦
鈴木春信《水売り》
看板の右側の看板文字は六、五、十、八で、
左側の文字は三、二で形作られており
明和2年(1765)の大の月を表している
◆鈴木春信  笠森お仙の美人画
笠森お仙の美人画(鈴木春信 画)
明和頃(1764~1772)中判錦絵
明和(1764~1772)頃、江戸の谷中(やなか)の笠森稲荷の前に、鍵屋という茶屋がありました。その茶屋には、お仙という、たいへん美しい看板娘がいました。お仙は明和の三美人の一人として名高く、当時の浮世絵によく描かれています。
絵師の鈴木春信は、谷中の笠森稲荷前の水茶屋鍵屋のお仙、浅草寺奥山の楊枝屋本柳屋のお藤など庶民の間で評判の美人を描き、大ヒット。春信に手によって錦絵は庶民の生活に浸透していったのです。

最高裁判所長官公邸

最高裁判所長官公邸
逢坂を上がって行くと、豪勢な築地塀(ついじべい)が続き、角を曲がると、りっぱな屋敷が少し見えます。門の扉に工事許可書がペタペタ貼ってありました。
ここは、最高裁判所長官公邸です。
最高裁判所長官公邸(若宮町39番)は、日本の最高裁判所長官の公邸でした。
昭和3年(1928)に富山県の廻船問屋として巨万の富を築いた馬場はるが、馬場家の牛込邸としてにより建築したものです。設計は吉田鉄郎です。
もちろん中には入れないので、書いてあるものから引用してみます。
「邸宅は敷地約4千平方メートル、木造2階建て延べ約千平方メートル。
日本庭園も広がる。大広間や応接室、居間など計22室を備えた和洋折衷の建築様式で、精巧な設計技術が随所に施されている。
馬場はるが邸宅を建てたのは、進学のため上京した長男の住まいとして、40万円(現在の約2億5千万円)を投じた。
設計を任された同郷の吉田鉄郎は、「東京中央郵便局」などを手掛けた近代日本を代表する建築家として知られている。
邸宅は、東京大空襲の戦火を逃れ、昭和22年(1947)に最高裁判所が買い取ったそれから最高裁判所長官公邸として使用されてきた。」
旧馬場家牛込邸は,東京に残された希少な大規模和風建築です,昭和初期を代表する和風建築として高い価値を有しています。
築90年近くになり、老朽化が指摘されていましたが、平成23年(2011)の東日本大震災によって倒壊の危険が出て、使用を中止しました。
そして、平成26年(2014)、「旧馬場家牛込邸」として国の重要文化財に指定されていました。
そして、今年、2016年3月7日、一部解体が始まりました。
工期は3月8日から6月30日までということです。
建物は一部解体後、耐震改修して最高裁判所の迎賓施設とし、同敷地内に新公邸を増築する予定と発表されています。
でも、何度か前を歩いたのですが、工事がされている様子はわかりませんでした。
馬場はるのことをメモしておきます。
▼馬場はる(明治19年~昭和46年)
富山の廻船問屋馬場家に嫁ぎ、1男3女もうけた。
大正8年(1919)馬場家9代目の夫道久が40歳で急逝、馬場はる(37歳)が北前船五大船主の一つ馬場家の家督を継ぐことになります。
江戸時代中頃から明治の末まで、北海道の海産物や木材等を載せて日本海諸港、下関、瀬戸内海諸港を経由して上方地域へ届け、上方からは、酒、塩、綿、雑貨等、さらに日本海側の米、藁加工品などを北海道へ輸送する船便を「北前船」と言います。毎年倍々の利益を生み出すことから「バイ船」とも呼ばれていたようです。
大正12年(1923)馬場家当主の馬場はるは、昭和天皇ご成婚の記念行事として、当時高等学校のなかった富山県に莫大な寄附を投じた基金で富山高等学校(現富山大学)を設立します。翌年にはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の蔵書コレクション「ヘルン文庫」を同校に寄贈しました。

この建物を今回注目したいと思ったのは、最高裁判所長官公邸、あるいは馬場邸であったということでは、実はないのです。
その前、明治時代は、住友の常務理事で、歌人として知られる川田順のお父さん
漢学者・文学博士川田剛(甕江)邸でした。
その川田順でもなく。江戸時代にさかのぼります。
江戸時代にこのあたりに寸でした大久保甚四郎(巨川)のことを偲ぼうと思っています。

華麗な「朝霞荘」。その地は、石川啄木の下宿先

逢坂の途中を左に曲がって進むと、超豪華な和風住宅が現れます。
「朝霞荘」です。黒川紀章設計。地下1階、地上2階、塔屋1階。昭和62年(1987)12月に安田火災の迎賓館として建てられました。
看板が見える「朝霞荘」
周囲の環境に調和するように設計されています。
敷地は前面道路より1.2m下がっています。このレベル差を利用し、各層の屋根を幾重にも重なるように設け、景観に広がりを持たせています。
落ち着きもある
高さをできるだけ低くし、繊細なイメージを醸し出しています。
屋根の形も美しい
駐車場の床 は、障子の組子および、花、鳥、風、月の各パターンを御影石にて表現しています。
外壁はベンガラ色、そして上部にアルミキャストの格子を組みこんだ、築地塀でとても美しいです。
駐車場 文様「花」

ベンガラ色が魅力
屋内は、見られませんが、仕上げの一部に金属またはシルバー色を利用してあり、「侘び」「さび」の中に華やかさをおりまぜ、異質なものあるいは意外性との共生を表現する「花数寄」の手法で作ってあるそうです。
「花数寄」は、黒川紀章が提唱している思想の1つだそうで、どんなものか見たいものです。
そのように、「花数寄」による数寄屋造りで、庭園も広く、建設当初は、安田火災の迎賓館として年に数回、海外の司法関係者らをもてなす場だったようです。現在は損害保険ジャパンの厚生施設ということですが、実は、老朽化で雨漏りや漏電が頻発し、耐震診断でも「大規模地震が起きれば倒壊の可能性が高い」ということで、現在人は住んでいないと言われています。年数的にはそんなにたっていないのですが、そうだとするとどうなるのでしょう。外観だけでもすばらしいこの建物よそ事ながら、心配になります。

後日行ってみると、扉が開いていたので、少しだけ中を覗かせてもらいました。
扉の中

なお、この場所は、明治37年に石川啄木の下宿先がありました。
石川啄木の書簡では
11月28日牛込より 金田一京助宛
本日左記へ転ず
牛込区砂土原町三丁目廿一番地 井田芳太郎方 石川啄木
堀合兄御同道にて近日中に御来遊如何。
金田一花明様
翌日は
廿一番地は廿二、の誤なり、兄がたづねたる埼玉学生誘掖会の隣り、大名屋敷の様な大きい門のある家は乃ち我今の宿也。一字の誤りにて大に兄を労せしめたる、罪万死に当る、多謝。明二日、日没頃より在宅。

明治37年10月31日は、石川啄木3回目の上京でした (18歳) 。
2回ほど転居して、11月28日、牛込区砂土原町3丁目22、井田芳太郎方に転居しました。
金田一京助が啄木を訪ねたことを書いています。
「12月の初めに(或は11月分の宿料が出ない為めに、屈託をしてではなかったとも思う)、『今度の日曜に、お逢いしたい、こんな所だから』と地図まで書いたハガキを貰ったようだった。それを片手に、小石川の砂土原町を尋ねて行った。坂を上った角が、埼玉学舎で、その隣の井田という家だった。」
啄木は、この井田芳太郎方に、明治37年11月28日~明治38年3月9日までいました。 
この家での啄木の生活は経済的にも心理的にも相当に追いつめられていました。詩集『あこがれ』の総まとめをしたていたようです。

切り絵図に「ナベヅルト云」

江戸後期の切り絵図で、この逢坂あたりを観ていると、おもしろい表記にあたりました。
逢坂近くの道に「ナベヅルト云」と出ています。
逢坂 ナベツル 切り絵図
そして、なるほど、囲炉裏に吊るす鍋の取っ手の形に似ています。
鍋
そこで「ナベヅル」と名付けたのでしょう。
逢坂が急坂なので迂回路としてあったのかもしれません。
今の「ナベヅル」の道はアンスティチュ・フランセ東京の裏庭に通じているだけで分断されていてその「ナベヅル」の形は味わえません。
残念です。

逢坂

堀兼の井の左横の坂が逢坂です。
逢坂
坂の案内には次ぎの解説があります。
「昔、小野美佐吾という人が武蔵守となり、この地にきた時、美しい娘と恋仲になり、のちに都に帰って没したが、娘の夢によりこの坂で、再び逢ったという伝説に因み、逢坂と呼ばれるようになったという。
平成19年3月    新宿区教育委員会」

これだけでは味気ないので、戸田茂睡『紫の一本』の巻一「逢坂」から少し膨らましてみましょう。

それは昔、奈良時代のことです。小野美佐吾という人が武蔵守になってやってきた。この地にはさねかづらという見たこともないような美女がいた。この女を好きになった美佐吾は嫁さんにして、片時も離れることがなかった。
月日が経って、美佐吾は天皇のお召しによって奈良の都に帰り、若草山の麓に住んでいたが、さねかづらのことは忘れることができなかった。日増しに思いは募り、死の間際になって「私が死んだら武蔵の国へ運んで、さねかづらが住む近くに葬ってくれ」と言い残し、ついに亡くなってしまった。
しかし、遠い場所なので遺体を運ぶことができず、若草山の麓に埋葬して、そこを武蔵野と名付けた。
さねかづらも明けても暮れても美佐吾を恋しく思い、「もう一度会わせてください」と神に祈っていた。
夢のお告げを信じて、この坂に来て待っていると、昔と変わらぬ姿で美佐吾が現れた。夢とも現実とも分からぬまま、しばらく語り合っていたが、やがて美佐吾は消えてしまった。それからはこの坂を逢坂というようになったという。
さて、さねかづらは生きていても仕方が無いと思い、この坂の下の大きな水に入って死んでしまった。土地の人は哀れに思い、水を流し去り遺体を取り上げて葬ったということです。

「名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな」
百人一首にもなっている『後撰集』の三条右大臣の有名な歌です。
「逢うという名があるなら、アネカズラの蔓を手繰り寄せるように、人に知られないようにあなたを連れ出せないものだろうか」といった意味です。
「逢坂山」は、大津市の西で、京都府と滋賀県との境にある山で、逢坂の関があったところです。
「さねかずら」はつる性植物の名前(マツブサ科)で、つるの粘液を整髪料にしたので、それを使って美男になったということから別名「びなんかずら」とも呼ばれます。
サネカズラ
ここの逢坂は、別名「大坂」 あるいは「美男坂」とも言われます。
「美男坂」は植物の「サネカズラ」の別名からきているのでしょう。
もともと、この坂は「大阪」(大きい坂、長い坂)でしたが、百人一首から派生した由来話をもってきて「逢坂」としたのだと言われています。
上から逢坂
横関英一『江戸の坂東京の坂』には「江戸っ子の先祖が付けた名はただの大坂で、何の理屈もないのである。大きい坂だから大坂なのである。それを後世、付会好きの閑人階級の詩人たちによって、まことしやかな物語が作り出されたわけなのである。」とあります。
確かに逢坂とsいてその後付けの話なのでしょうが、それはそれで面白いと思います。奈良の若草山の麓には、武蔵野という所もあるようで、さすがに美佐吾の墓はないですが、物語が生きてきます。
なお、坂の下に大きな「水」があってそこでさねかづら身を投げたということ、これは、地名の「舟河原町」は、やはりここ、「船溜まり」があったからのかなと思わせます。
なかなか急なきれいな坂です。

船河原町・築土神社・堀兼の井戸

神楽坂を市ヶ谷の方に行くと、市谷船河原町(いちがやふなかわらまち)があります。昔、日仏学院と言っていたアンスティチュ・フランセ東京がある坂のあたりです。
船河原という地名は「古く室町時代にはあったようで、船河原とは揚場河岸(揚場町)で荷揚げした空舟の船溜りの河原の意」です。
今の飯田橋駅の、水道橋の方向にかつて江戸川と言われた神田川が外濠に落ちるところに架かる橋は船河原橋といいます。
そこから神楽坂の方に行くと、神楽河岸(かぐらがし)跡があり、その前には軽子坂があります。そして地名は揚場町です。こちらは隅田川と結ぶ神田川の荷揚げしていました。
市谷船河原町も名前から見ると、荷揚げをしていたように見えますが
どうだったのでしょうか。
芳賀善次郎の「新宿の散歩道」には、逢坂を少し市ヶ谷に方に進んだ外濠あたりに船着き場があったから、船河原町という地名がついたとあります。つまり、外濠がまだ出来ていないころ、富久町から田町にかけて谷になっていて川が流れ、大きな沼があった。この川には日本橋の方に通じている船が通っていて、船着き場があったということです。
外濠通りから市谷船河原町に入ってみます。
筑土神社とアンスティチュ・フランセ東京
そこにはす、筑土神社の旗を掲げた小さな祠が目に入ります。右がアンスティチュン・フランセ東京で、左が逢坂です。
飯田橋駅の方の揚場町と似たところがあります。
揚場町には、神楽河岸があり、急な神楽坂に変わる荷物を運びやすい軽子坂があります。そして、その軽子坂の先には筑土八幡神社があります。
船河原町には、いきなりですが筑土神社があり、逢坂があります。逢坂は急な坂ので、少し右になりますが、ややゆるやかな新坂があります。
似ているなと思います。
少し<市谷船河原町?>にこだわります。
地名に関しては、船溜りの河原があったという説とは別に次のような説もありまsy、
「船河原は平川村にあり、江戸城がまだ日比谷入江だったころ、江戸湾から入ってくる舟の舟溜りで、江戸(平川口)にあった。今の大手町~一ツ橋の濠沿いだ。江戸城の築城で立ち退きを命じられ、現在地に移って元の「船河原」を名乗ったというもの。」
私は、こちらの方が納得がいきます。地名が移ってきたわけです。
築土神社の謂われをみてみましょう。 
筑土神社
「船河原町はもともと江戸城内の平河村付近(現 ・千代田区大手町周辺)にあったが、1589年江戸城拡張の際、氏神の築土神社と共に牛込見附(現JR飯田橋駅)付近へ移転。さらに1616年築土神社が筑土八幡町に移転後、同町も筑土八幡町近くの現在地へ移転した。ところが戦後、築土神社は千代田区九段に移転。他方で船河原町は現在地に留まったことから、地理的に神社から最も遠い氏子となってしまった。そこでここに飛地社を建て、築土神社の氏子であることを冠したものと思われる。」(平凡社 『郷土歴史大事典』など参照)。
少しごちゃごちゃしますが、船河原町と筑土神社はセットで移動しているようです。
神楽坂には筑土八幡神社があったのですがその隣に、元和2年(1616)当時は田安明神と呼ばれていた津久戸明神社が移転してきて、2つならんであったのですが、戦災で全焼して、戦後、津久戸明神社は千代田区九段北に移転し、築土神社として現在に至っています。その筑土神社の拝殿が、この船河原町に建てられたのでしょう。
昭和の初めのころのこのあたりの写真があります。
昭和初期の「堀兼(ほりがね)の井戸
筑土神社はありません。昭和初期ですから当然です。
そこにあるのは井戸です。「堀兼の井」という井戸がありました。
「堀兼の井」については次の説明があります。
史跡   堀兼の井
所在地 新宿区市谷船河原町九番地              
堀兼の井とは、 「ほりかねる」からきており、 掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、 皆が苦労してやっと掘った井戸という意味である。 堀兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが、市谷船河原町の堀兼の井には次のような伝説がある。
昔、 妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。 男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。 ところが、しだいにこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた。 息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、 とうとう精根つきて死んでしまったという。
          平成三年十一月  東京都新宿区教育委員会
昔もあったか児童虐待という感じで、なんだか救われない伝説です。
若宮町自治会の『牛込神楽坂若宮町小史』では「逢坂の下(現・東京日仏学院の下)にある「堀兼の井」は、飲料水の乏しい武蔵野での名水として、平安の昔から歌集や紀行に詠まれていたようです。これは、山から出る清水をうけて井戸にした良い水なので遠くからも茶の水として汲みに来たという事です」と書かれています。
なかなか掘れない井戸だったようですが、井戸は戦災で焼け落ちるまであったようです。
そして、よく見ると。その水は、防災井戸としていっぷう変わった形で残っていました。
防災井戸

波除神社 / 魚河岸水神社遥拝所

築地と言えば、築地市場、あるいは駅近くも偉容な建物の本願寺を思い出しますが、築地で最も古くからあるのは、波除(なみよけ)神社です。
波除(なみよけ)稲荷 鳥居
実は、徳川家康が江戸に入った 天正18年(1590)ごろは、この一帯は海でした。
江戸の増築にあたって、日比谷入江から埋めたてが始められ、江戸東南海面は埋立て行きました。
そして、明暦の大火(1657年)のあと元号の変わった万治2年(1659)に埋め立てが完成し築地が誕生します。
この埋め立て工事は、4代将軍家綱公が手がけた最後の埋立の工事でしたが、大変困難を極めました。長い一大埋め立て開墾工事で、海が荒れつづき、堤防を築いても、激波にさらわれてしまうのです。多くの人命も犠牲になったとの記録が残っています。
そんな時、海面に光りを放って漂うものがあります。人々は不思議に思って船を出して引き上げてみると、それは稲荷大神の御神体でした。そして、その像を手厚く祀ったところ、海は凪ぎ、埋め立てが完成したのです。
波除神社
それ以来今に至るまで、「災難を除き、波を乗り切る」 波除神社、波除稲荷様として、災難除・厄除・商売繁盛・工事安全等の神社として信仰を集めています。
鯉のぼり
皐月の幟
お参りに行くと、皐月の飾りが風にたなびいていました。
築地市場の中のもうひとつ神社があります。魚河岸水神社です。正式には遥拝所ですが。
太鼓たたいて
魚河岸水神社の歴史も古く、天正18年(1590)徳川家康公の江戸入府とともに移住してきた日本橋魚河岸の開祖・森孫右衛門ら摂津国の佃村・大和田村の漁師たちが、大漁・海上安全と子孫繁栄を祈願して「弥都波能売命」を祀った「大市場交易神」がその始まりといわれています。
水信者社殿
明治34年に、神田明神の境内に「水神社」本殿が建立され、日本橋魚河岸は関東大震災以後に築地市場に移転し、遥拝所が市場内に建立されました。
日本橋魚河岸から築地魚河岸に移動してきたわけです。
現在、築地魚河岸の敷地内、北の一角に「魚河岸水神社」の小さなお社があります。ここは遥拝所ですから、北の方角へおまいりすることで、遥かその方向にある神田明神境内の水神社本殿を拝めるようになっているわけです。
なお、現在のこの場所は、江戸時代は松平定信庭園跡で、明治維新後は海軍用地となっていました。境内にある「旗山」の碑は、日本海軍発祥のゆかりを記す史跡です。
旗山の碑
松平定信の庭園は浴恩園とよばれ、明治5年、海軍省が置かれ、浴恩園内の築山に海軍卿の旗が掲揚された為、旗山と呼ばれたようです。その後中央市場構内整理の時に旗山に立てられてあった記念碑をここに移したと云うことです
水神社から市場
今年、11月7日、「豊洲市場」が開場します。今年の11月、築地市場が豊洲新市場に移転します。そのとき、この魚河岸水神社の遥拝所も一緒に移転することになっています。(旗山の碑は移転しないと思います).その時も、神田明神の方へむかってお参りするように建てられるのでしょう。

平成28年度築地市場まつり

築地市場 看板
築地最後の市場まつりということで、平成28年度5月3日、行ってきました。
会場はもうすでにたくさんの人でした。
ありがとう築地
テーマは「ありがとう築地」。普段は魚を載せた運搬車が行き交う場内に、全国の特産品や名物料理を目玉にした出店が並び、多くの人たちが食べ歩く中、81年の歴史を振り返る写真展なども回されていて、約3時間近く楽しみました。
築地まつりすでに満杯
築地市場まつり会場 1
翌日のニュースによると、
“東京の台所”とも呼ばれる築地市場(中央区)で3日、「築地市場まつり」が開催され、約15万人(主催者発表)が来場した。今年11月7日から江東区豊洲に市場が移転し、81 年の歴史に幕を閉じるため、同所では最後となるイベント。普段、同所で働く仲買人や出入りの業者に加え、全国27都府県の自治体など約100団体が出店した。スポーツ報知
秋にはもう豊洲なのですね。
お店を見てまわりました。
お茶の売店
来ると食べていた茂助だんご、今回も、買いました。
茂助だんご
シジミを救っただけ、300円という安さ、たくさん救える見本を見えていただきました。
しじみつかみ
特設ステージには落語家の林家正蔵さんがゲストとして登場。していました。はるか遠くで、「目黒さんま」の落語についての話をしていました。
ステージ
普段は魚などを載せる円筒形の場内運搬車「ターレ」の試乗も人気で。長蛇の列ができていました。
運搬車「ターレ」の試乗 昭和から平成まで都民の食を支えてきた築地市場も開場から81年を経過し、惜しまれつつも本年11月2日に業務を終了します。そして、11月7日、次代を担う「豊洲市場」として開場します。

庚申塚と力石、賽の大神碑(根津神社)

庚申塔(六基・根津神社境内)
乙女稲荷神社と駒込稲荷神社の間に庚申塚と力石と賽の大神碑があります。
いずれもいわば道祖神です。つまり路傍の神です。集落の境や道の辻、三叉路などに祀られる神です。
しかたがって、ここにもともとあったものではないでしょう。
ここの庚申塔は珍しいものです。6基の庚申塔が1箇所に集められ、背中合わせで建てられています。
写真に照れたものを載せます。
庚申塔 青面金剛
青面金剛・猿・鶏・寛文八戌申 (1668)駒込村・施主15名
観音像・
観音像・庚申供養・施主12名
庚申塔 後ろ側
日月瑞雲・青面金剛・鬼・鶏・元禄五壬申 (1692)施主26名
寛永9年(1632)の建立
日月・青面金剛・鬼・猿・駒込千駄木町・施主10名・宝永六巳 (1709)
庚申塔のまわりに置かれた丸い石は力石です。左の力石には「五拾貫目余」、右の力石には「三十五メ目」と彫られています、

賽の大神碑
塞大神碑は、東大農学部前の本郷追分(中山道と日光御成街道分岐路)に祀られていました。
この追分には、日本橋から一里ということで江戸時代に一里塚がありました。
文政7年(1824)の火災で欠損し、明治6年(1873)、この賽の大神碑が建てられました。
そして、明治43年(1920)に道路拡張のため、根津神社に移されたということです。

根津神社の摂社「乙女稲荷」と「駒込稲荷」

根津神社拝殿
根津神社は大変な人でした。お参りするのも長蛇の列でした。
根津神社で興味深いのは、お稲荷さまです。朱塗りの鳥居千本鳥居は東京にいることを忘れます。
あいにく、行った日はたくさんの人で、写真が撮れなかったのですが、最期の方の鳥居を1枚。
千本鳥居
根津神社には、お稲荷さんは2社あります。
乙女稲荷神社と駒込稲荷神社です。
◍乙女稲荷     
乙女稲荷の舞台
千本鳥居の真ん中あたりにあるのが、乙女稲荷です。
稲荷神社に祀られているのは、ウカノミタマで、五穀豊穣の神様です。
乙女稲荷
農業国だった日本で、この神が広く信仰されるに至ったのはごく自然の成り行きですが、次第に五穀豊穣ばかりでなく、さまざまな現世利益を聞き届けて下さるようになっていきます。
稲荷神社の参道に立ち並ぶ朱塗りの鳥居は、その一本一本が、願ひを叶えて戴いた御礼にと奉納されたものです。
乙女稲荷のお狐さま
お狐さまは稲荷の神のお遣いです。狐は墓穴を出入りする性質があって、霊界と現世を行き来するものとも考えられていたようです。
◍駒込稲荷
乙女稲荷をもう少し先に進み、西参道口の方に建つのが駒込稲荷神社です。
駒込稲荷神社
御祭神は、イザナギ・イザナミ・ウカノミタマ・シナツヒコノミコト・シナトベノミコトです。
稲荷神社と言えばウカノミタマですが、この神様だけでなくシナツヒコノミコト・シナトベノミコトを祀っています。このシナツヒコノミコト・シナトベノミコトは、風雨を司る神で、元寇の時に神風を起こした風宮です。もともと風宮は風雨の災害なく農作物が順調に成育するようにと祈りが捧げられる社でしたが、元冦以来国難に際しても風宮にて平安祈願が行なわれるようになりました。
駒込稲荷は、ここがまだ徳川綱重の屋敷だった頃からあるそうで。綱重の息子・家宣が、5代将軍綱吉の後継者に選ばれた時、氏神の根津神社を千駄木の地からここに勧請し、この地にあった家屋敷は取り払われますが、このお稲荷さまは残さました。
社の前には沢山の狐の像が岩に戯れています。口元が風化してなんだか猫のようと思ったら、「あっ、猫だ」という声がかかりました。
お狐さま 1

お狐さま 2

お狐さま 3

根津神社のツツジ 「つつじまつり」

表参道 鳥居
今年は桜の開花も早く、3月下旬は初夏のような気候が続いたため、ツツジも早かったのでしょう。根津神社に行ってみましたが、もう盛りは過ぎていました。
ツツジ園
根津神社のツツジはいつごろからなのだろうと思います。江戸時代、ツツジは人気があったので、江戸時代にも、ツツジ見物に来たのでしょうか。
ツツジの花
大久保のツツジ、染井のツツジは錦絵にも描かれていますが、根津神社はみつかりませんでした。ゆっくり調べてみましょう。
赤いツツジの花
根津神社の創建年代は不詳ですが、古くより千駄木に創祀、文明年間(1469~1487)には太田道灌が社殿を奉じたと伝わります。
そして、今根津神社がある場所は、5代将軍綱吉の兄綱重(家光の第2子)の山手屋敷(別邸)でした。
そして、家宣(6代将軍)の産土神として、綱吉により宝永3年(1706)千駄木にあった根津神社ここに移して造営、社領500石の朱印状を拝領しました。
もとは、「根津権現」と呼ばれていましたが、明治初期の神仏分離の際に「権現」の称が一時期禁止されたために「神社」になっていますが、地元では現在も「権現様」と呼ばれたりしているようです。
夏目漱石の『道草』にも。「その人は根津権現の裏門の坂を上って、彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて、健三が行手を何気なく眺めた時、十間位先から既に彼の視線に入ったのである。」と権現になっています。
徳川家宣胞衣塚
境内を歩くと「徳川家宣胞衣塚」として、第6代将軍・家宣の胞衣(胎児を包んだ膜と胎盤)を埋めた塚がありますが、そのことは、甲府藩邸であった時に家宣が生まれたことを証拠だてています。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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