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明治神宮

鎮守の杜(もり)
明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后をお祀りする神社です。
まわりの森は、神宮御鎮座にあたり、全国から献木されたおよそ10万本を植栽した人工の森です。
明治神宮が出来る前はこの辺り一帯は南豊島御料地(皇室の所有地)で、現在の御苑一帯を除いては畑がほとんどで、荒れ地のような景観が続いていたそうです。
「永遠の森」を目指して、大正4年から造営工事が始まりました、
全国から献木が集まり、北は樺太(サハリン)から南は台湾まで、また、日本だけではなく満州、朝鮮からも届き、全部で約10万本の木が奉献されました。
当時その種類は在来種等を含め365種でしたが、東京の気候にそぐわない種類もあり、現在では234種類になっています。
今や、東京ドーム15個分の杜は、まるで古から続く、自然林のようのようです。
□原宿駅から歩いて、南参道の鳥居。
原宿側の鳥居
原宿、若い女性でいっぱいでしたが、こちらに来る人は少ないです。外国からの人が多いのに驚きです。
□明治神宮の日本酒菰樽(こもだる)
日本酒菰樽(こもだる)
これは、全国の酒造家・メーカーから献納された清酒の菰樽(こもだる)とのことです菰樽とは、元は運搬時の破損を防ぐために酒樽へ菰(マコモや藁を粗く編んだむしろ)を巻いもので、正面にはブランドをアピールする特徴的なデザインがあしらわれています。
□献上されたワインの酒樽
ワインの酒樽
ワインの酒樽も奉納されています。
実は明治天皇は大変ワインお好きだったようです。
ワインの奉納は明治天皇がワインを嗜むと知ったブルゴーニュ東京事務所代表がブルゴーニュの醸造元に呼びかけ、平成18年から始まったそうです。
□大鳥居
大鳥居
南参道と北参道の出合い口のところにある鳥居です。高さ12メートル、幅17.1メートル、柱の太さが直径1.2メートル、重さが13トン、とか。
これは木で作られています。木造の明神鳥居としては日本一の大きさを誇っています。今ある大鳥居は二代目です。
一代目の大鳥居は明治神宮御造営の時に台湾総督府より献木された樹齢1200年と言われるヒノキでした。ところが昭和41年に雷が落ち破損。そこで二代目の鳥居が作られました。こちらも台湾から贈られたヒノキで、樹齢は1500年だとか言われます。
□本殿
本殿
参道を歩いて行くと、曲がり道の先にあらわれるのが本殿です。
結婚式が執り行われていました。
結婚式もあった
□鎮守の杜
まさに大きな森です。でも、木の向こうに、新宿の高層ビルの姿などが垣間見えます。やはり都会の杜です。
新宿の高層ビルも見える
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今年正月に観た熊本城

今年の正月、旅行して、その雄姿に感動した熊本城が崩れているニュースを見ます。
熊本地震によって、櫓や門など重要文化財に指定されている13の建築物全てで深刻な被害が出ました。
大天守も屋根瓦が剥がれ、しゃちほこも落下。
往事の姿を残す飯田丸五階櫓は石垣の崩壊が続き、櫓がいつ落下してもおかしくない状態となっているとか。
そのとき撮った写真はこのブログにも載せましたが、別のカメラで撮ったものがあるので、それも載せておきます。
とにかく、まず地震がおさまりますようにお祈りします。
熊本城 入り口

熊本城 天守

熊本城 小天守

熊本城 石落とし

熊本城 やくら

熊本城 空堀と石垣

クマガイソウ(熊谷草 )

クマガイソウ 普通
目白庭園で見つけました。クマガイソウ(熊谷草 )です。
葉は丸っこい扇状で縦じわが何本も走り、表面に凹凸ができ、つけ根の部分で重なるよう前後に2枚つきます。その中心部分から花茎を伸ばして先端に1輪の花を付けます。
花の袋状のところを、熊谷直実(くまがいなおざね)が背負った「母衣(ほろ)」に見立てクマガイソウと名付けられました。
「母衣(ほろ)」とは大きな風船のようにふくらませた布で、弓矢を防ぐ役割があります。 一の谷の合戦で敗れた平家を追って、熊谷直実は、自分の息子と同じ年ごろの平敦盛の首を討ち取らざるを得ず、
その後、その霊を弔うために出家しました。
母衣(ほろ)を背負っているような似た花に、その平家の敦盛にちなんだ、アツモリソウがあります.。

下落合 薬王院の牡丹

今日もう一度、下落合の薬王院に牡丹を観に行きました。少し雨模様でしたが、そのため人が少なく、たっぷり豪華な花を堪能しました。
薬王院 牡丹 清水舞台

薬王院 牡丹多数

薬王院 牡丹白

薬王院 牡丹ピンク

薬王院 牡丹くれない

下落合・目白 牡丹と森の散歩

薬王院 牡丹
牡丹の季節、下落合のまち歩きを試みました。
下落合駅(集合)→西坂→下落合弁財天→薬王院→聖母坂 ・聖母病院→新宿区立佐伯祐三アトリエ記念館→目白の森→徳川黎明会の門→目白庭園「赤鳥庵」→目白駅(解散)
■西坂
下落合 西坂
豊多摩郡誌』に 「西坂、 新宿道、 字本村と字不動谷との間にあり」 とある。 坂名の由来は、この坂が字本村の西に位置するからだという。 かつて坂上に尾張・徳川家の分家、徳川義恕(よしくみ)の大屋敷がありました。明治期に建てられた徳川邸は、当初は別邸でしたが、大正末あたりから本邸となっていたようです。邸内には、東京のボタン名所として多くの観光客を集めた静観園があり、ボタンの時期に一般公開されこの坂あたりも賑わったそうです。
■下落合弁財天 (下落合横穴古墳群)
下落合弁財天
小さな鳥居に小さな社です。鳥居は昭和3年(1928年)に御大典記念として奉納されています。
この裏手で、下落合横穴(おうけつ)古墳群が発見されました。
瑠璃山と呼ばれる山麓を昭和41年(1966)7月に宅地開発をしていて、パワーショベルで斜面を削ったところ横穴が発見(最終的には4横穴)され、人骨や鉄刀が出土しました。
■薬王院
薬王院山門の脇に大きな石標があり、「東長谷寺 瑠璃山薬王院」と刻まれています。
薬王院は真言宗豊山派瑠璃山東長谷寺と称し、奈良・長谷寺の末寺です。
手入れの行き届いた境内には、約1,000株の牡丹が植えられており、牡丹の寺として知られています。
薬王院の牡丹
清水寺を模した舞台前、枝垂れサクラもまだ見られます。
薬王院の牡丹と桜
上の墓地の桜の花はまだ残っていました。l
薬王院のお墓の桜
■聖母坂 聖母病院
聖母病院
昭和6年(1931)12月、第三文化村の東端に「マリアの宣教者フランシスコ修道会」によって国際聖母病院が建設されました。平成15年(2003)新病棟の改築と時、強固な基本構造をそのままに、外観も当時のように再現しました。、薄茶色のタイル張りの外壁とL字型建物の頭頂部にある二つの塔が特徴的です
下落合の発展にとって、この聖母病院の存在は大きかったようです。
■新宿区立佐伯祐三アトリエ記念館
佐伯祐三アトリエ記念館
佐伯祐三が下落合に住んだのは大正10年(1921)で、住んだのはわずか5年間でしたが、佐伯がアトリエを構え、創作活動拠点とした日本で唯一の場所であり、大正期のアトリエ建築を今に伝える建物が残されている貴重な場所です。昭和43年(1973)に新宿区が土地建物を購入し、「佐伯公園」(約600平方メートル)として保存しています。
■目白の森
目白の森 トンボ池
平成6年(1994)にこの辺りの緑地にマンションを建設しようとする計画が発表されましたが、地元の人々の強い要望で緑地として保存されることになり、平成9年(1997)公園として開園されました。写真はサクラの花びらを浮かべた「トンボ池」です。
■徳川黎明会(とくがわれいめいかい)
德川黎明会 門
昭和7年11月、尾張徳川家が目白に大きな邸宅をたてました。その西端に現在徳川黎明会が建っています。
公益財団法人徳川黎明会は、尾張徳川家所蔵の美術品などの管理・一般への公開などを目的としています。
■目白庭園
<六角浮き見堂と枝垂れサクラ
目白庭園の外側は、長屋門と築地塀(ついじべい)で囲まれています。もと教員の保養所だった場所に、平成2年に作られた回遊式の庭園です。庭園内には、童話雑誌「赤い鳥」を由来にした木造瓦葺平屋建ての数寄建築「赤鳥庵」があります。
庭園で咲いていたハナカイドウ。中国で牡丹とともに最も愛好される花です。
ハナカイドウ

伊良部島(下地島)の通り池

石の碑
通り池は、伊良部島(下地島)の西海岸にあります。「下地島の通り池」として国の名勝及び天然記念物に指定されています。
通り池は直径約60mの円形の池が2つ並んでいます。
外海に通じている
右の通り池
池の大きさは内陸のほうが直径約55m、推進40m。海側の池が直径約75m、水深約50mです。 外海と地下洞窟で結ばれていて、外海からは、高さ45m、幅約20mの巨大なトンネルを通って池に入ることができます。
<通り池の伝説>
昔、下地島の「通り池」付近に木泊村という小さな村がありました。この村は漁をして生計を立てていました。
ある晩、漁師が漁をしていると7匹のユナイマタ(人魚)が泳いでいました。漁師はそのうちの1匹を捕らえ、家に持ち帰りました。漁師はユナイマタが大きいので、村人にも分けて食べようと隣り近所に分け与えました。
その晩遅くのこと、寝ていた子供が急に泣き出し伊良部島へ行こう、と何かにおびえるようにしがみつくため、母親も怪しく思っていました。するとはるか海の方から『ユナイマタ、ユナイマタ、早く帰っておいで・・・』という声が聞こえてきました。
しばらくして島の方から『私は体の半分を食べられてしまって、とても動くことができません』と悲しそうな声でユナイマタが答えているのが聞こえます。
『それなら、大きな波を送るので、それに乗ってきなさい。』と海の方から怒っているような声が響きました。
ユナイマタは『1回では波に乗ることができないので、3回、大波を送ってください』と悲しそうな声で言いました。母と子は、身の毛もよだつほど恐ろしくなり、急いで伊良部島へ逃げていきました。
しばらくすると、沖の方から轟音とともに大波が1回、2回、3回と押し寄せてきました。
木泊村はみるみるうちに大波に呑まれてしまい大波がさった後、ユナイマタを捕らえてきた漁師の家の跡には大きな穴が2つできていたのでした。
通り池 左側
通り池右側

(伊良部観光協会HPより引用)

この伝説中の大波は、木泊村を壊滅させ、帯岩や佐和田の浜の巨岩を運んできた1771年(明和8年)の明和の大津波だったのかな、と思えます。しかし、通り池が実際に明和の大津波でできたか、しっかりした確証はないようです。
でも、自然の偉大さ、不思議さなど感じられ、とても印象に残りました。

下地島 通り池

佐和田の浜

佐和田の浜
海に転がる無数の大岩が独特な風景を創り出している佐和田の浜です。
遠浅の浜に多数の巨岩が点在し、独特の風景を呈する海岸風景です。これらの岩は、1771年4月24日(明和8年3月10日)に起きた八重山地震の津波(明和の大津波)で運ばれてきたものと言われています。
佐和田の浜 砂場にも岩
佐和田の浜ズッと遠くまで岩

伊良部島のフナウサギバナタ展望施設

宮古島から伊良部大橋を渡り、伊良部島のフナウサギバナタ展望施設に行きました。
サシバ 前から
フナウサギバナタとは、船ウサギ(兎)と勘違いしてしまいそうですが、伊良部島の方言で「船を見送る岬」という意味があります。
伊良部の佐良浜は漁師町で、遠く南方の方まで漁に出ていきました。見送ったのですね。
大きな鳥が展望台そのものになっています
展望台乗り口へ
後ろから見た写真。鳥のお尻にあたる部分が階段で、お腹の部分にある展望スペースへの入り口となっています
サシバ 全体像
サシバ左から全容
横から見てみると、今にも丘の上から空へと飛び立つような勇ましい姿を見ることができます。足の先まで実にリアルに再現されています。
サシバ展望台からくちばし
この鳥は実在する「サシバ」と言う鳥の形をしています。
サシバとは毎年秋になると島へ飛来する渡り鳥で不思議な事にその大部分が沖縄の中でも伊良部だけにやってくるのだそうです。
展望台からは水平線まで雄大に広がるコバルトブルーの海を見渡せます。あいにく行った日がどんより曇りの日だったので、海の色はイマイチでした。でも雄大で気持ち良かったです。
展望台から海を

石垣市の観音崎の唐人墓

2日目に泊まった石垣島のホテルに近かったので、唐人墓(とうじんばか)に行きました。
正面からの唐人墓
唐人墓は、沖縄県石垣市の観音崎にある墓地です。
咸豊2年(1852年)のロバート・バウン号事件で犠牲になった中国人苦力の慰霊のため、昭和46年(1971)に建立されました。
1852年2月福建の厦門(アモイ)で集められた約400人の中国人が、米国のロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途中で暴動を起こし、船長ら7人を殺害してしまいあした。
船は台湾に向かう途中に石垣島の崎枝村沖合で座礁。380人が下船しました。
八重山の役人たちは崎枝村の赤崎に収容所を設け、中国人を収容しました。
しかし米英の船が収容所を砲撃し、武装兵が上陸して中国人を銃撃・逮捕しました。捕縛を免れた中国人は琉球王国に保護されました。
ところが、疫病などで亡くなるものも多かったと言います。
結局、翌年9月に生存者172名を琉球の護送船2隻で福州に送還し、事態は収束しました。
これがロバート・バウン号事件と呼ばれる出来事のあらましです。唐人墓はこの事件によって亡くなった中国人を弔うために1971年に建てられたものです。

一般的には、このような説明になっていますが、間違っているという説を主張する方々もいます。実際に英米兵に殺害されたのは3人のみで、ほとんどは帰国までに疫病にかかって亡くなったということです。
真偽はともかく、このお墓の建物には目を奪われました。
唐人墓正面 狛犬
左の狛犬

上の3仙人はあだれだ

ドラゴンと人物

後ろもすごい

龍の下の濠もすごい

魅力あふれる竹富島

竹富島(たけとみじま)へ行きました。
竹富島は、八重山の中心地である石垣島からは、高速船で約10分程(約6km)の距離です。人口は361人、戸数165戸(2015年10月27日現在)。人口は微増ですが増えているとのことです。
竹冨島の家と屏
周囲約9kmの小島ですが、赤瓦屋根の民家に様々な表情のシーサー達、真っ白なサンゴ砂の道に色鮮やかな花々と昔ながらの沖縄の原風景が残り、国の重要伝統保存地区にも指定されています。
昔の沖縄の家
竹富島は、町並みや文化を保存するため、「売らない」「汚さない」「乱さない」「壊さない」、そして、伝統文化や自然・文化的景観を観光資源として「生かす」の基本的な5原則を含む「竹富島憲章」を昭和61年(1986)に制定しました。
確かに、誰もが想像する竹富島には、沖縄の風景があります
星砂の浜
海や浜は美しく、星砂の浜とも言われ、手のひらに砂を付けて星砂を探す人がたくさんいます。
集落は、小路が碁盤の目のように作られ、赤瓦の平屋の家が並んでいます。家はどれも落ち着いた雰囲気をもっていて、沖縄をたっぷり感じました。
石垣と赤い屋根
小路には海岸で目にするような白い砂が敷き詰められています。
小路は水牛車が1台通れるくらいの細い路です。
「マイヤシ」、「ヒンプン(屏風)」_edited-1
家の門の少し内側にある壁のようなものはマイヤシというそうです。
マイヤシは魔除けのためのものです。魔物は真っ直ぐにしか進めないので、マイヤシで魔物が入って来るのを止める意味があるのだそうです。
なお、石垣は。珊瑚石を積んだもので、グックというだそうです。
時間がなくて、ザッと歩いただけでしたが、深く印象に残りました。今度は水牛車に乗ってまちを観てみたいと思いました。
水牛もいる竹冨島

由布島と水牛

水牛車 遠望
由布島は、西表島の沖合わずか400mのところにあり、西表島の与那良川から流れ出た砂が堆積して出来た島です。
西表島へつながる海は、遠浅で、満潮でも1mほどしかなので、水牛車で海を渡ってゆくのが名物となっています。
由布島は、周囲2.15km、海抜1.5mの小さな島です。
島の広さは約4万坪、島全体が砂によってできており、深さ1.5m以内を掘れば、真水が湧き、それ以上掘ると海水が湧きだします。
水牛車 やや近い
西表島と由布島の間の海は遠浅で、 通常で大人の膝くらい、大潮の満潮時でも腰丈程度の深さです。
由布島へ渡る方法は2通りあります。
水牛車に乗るか自分で歩いて渡るかのどちらかです。
この小さな島の歴史は、昭和初期に黒島や竹富島から季節農家の人々が西表島与那良で稲作を営むためにやってきたことから始まります。
当時西表島で恐れられていたマラリアの害から逃れるために、昼間は西表島の田んぼで働き、夜は蚊のいない対岸の由布島に住み始めたのだそうです。
人々は住まいを由布島に持ちながら、対岸の西表島にある水田まで海を歩いて通勤していたそうです。
由布島の重要な観光資源となっている水牛車の水牛は、元々台湾から連れて来られた雄の「大五郎」と雌の「花子」のひとつがいの水牛が繁殖して現在に至ると云われています。
水牛は水牛車を引くために2歳からトレーニングを始め、3歳頃から本格的に車を引っ張るようになります。水牛は、非常におとなしく、飼い主の言う事をよく聞きます。
おとなしい水牛たち
水牛たちは、農耕だけでなく干潮時にも大活躍しました。当時由布島へ就航していた石垣からの船は干潮時には沖合に停泊せざるを得ませんでしたが、そんな時に水牛車が船と島の間を行き来して人や物資を運んでいたのです。

iいよいよ水牛車に乗りました。
水牛の背中
蛇味線で沖縄民謡を歌ってくださいました。
牛の背中と蛇味線
由布島で出会いました。「水牛の池」にいるのは、休憩中や非番の水牛たちです。
島の水辺で休んでいる水牛たち
由布島からの帰りです。
水牛車の中から水牛の背中

サキシマスオウノキ

仲間川では、板状の根で有名な日本最大の「サキシマスオウノキ」を観ることができました。
サキシマスオウノキ 大きいのです。
サキシマスオウノキ 案内
サキシマスオウノキは次世代への財産として残すべき樹木として「森の巨人たち百選」に選定されています
写真がサキシマスオウノキで、特徴は板状の根です。昔はこの根で船の舵やまな板に利用したそうです。
サキシマスオウノキ 根本が気になる
平成12年4月に林野庁の「森の巨人たち百選」に選ばれました。
樹齢は400年、幹周りは360cm、樹高は20mもあります。
サキシマスオウノキ 太い根
サキシマスオウノキ 見事

この仲間川流域は、特別天然記念物のイリオモテヤマネコやカンムリワシをはじめ、マヤプシキなどマングローブ種とサキシマスオウノキ、ヤエヤマヤシ、リュウキュウアカショウビン、ミナミトビハゼ、テッポウウオ、シレナシジミ、ノコギリガザミ、ミナミコメツキガニやシオマネキ類..な、珍しく貴重な動植物の宝庫になっています。
写真は、大きなシジミ、シレナシジミです。
シレナシジミ

西表島 仲間川 マングローブ林

仲間川 マングローブ林
西表島(イリオモテジマ)で、遊覧船に乗り、仲間川をマングローブを観るためにクルーズしました。
船長さんが、船を操りながらユーモアを交えたお話で、丁寧にガイドしてくれました。沖縄の人のガイドは、どの人も笑わせます。
原始の姿を残す仲間川は全長約17.5km。マングローブ林の広さは約158ha(ヘクタール)、マングローブ構成種数とも日本最大の規模を誇っています。
マングローブ林 1
川から内陸に向け順に種ごとに配列するマングローブ林は熱帯のそれに匹敵するものです。短い川の距離に配列している様子は世界的にも珍しいのだそうです。
仲間川は3つの国の天然保護区域に指定されています
1)保護すべき天然記念物に富んだ区域として 文化庁仲間川天然保護区域
2)亜熱帯独特の原生的な天然林として 林野庁森林生態系保護地域保存地区
3)亜熱帯を特徴づける自然として 環境省西表石垣国立公園特別地域
こういう船で見学
マングローブとはある植物の固有名称ではなく、熱帯や亜熱帯で海の干満により水位の変化を繰り返す“潮間帯”という特殊な環境に生育する植物の総称です。沖縄では「漂木(ひるぎ)」「ヒルギ」と呼ばれたりします。
潮間帯というのは潮の満ち引きで水位が変動する海岸域のことです。
マングローブ林は主に川の河口付近の真水と海水が混じりあう場所(汽水域といいます)に形成されます。
一般的に,植物は塩分の含まれている海水では育ちません。
生きるために吸収し続けなければならない水に,細胞や組織に障害をもたらす塩分が沢山含まれているとしたら,これは植物にとって致命的です。
マングローブ林 2
マングローブ植物の体内の塩分濃度は根の外の塩分濃度よりも低くなっていることが分かっています。
海水や汽水で育つことができるという点はマングローブ植物が他の植物と大きく異なるところです。
樹木を観ていると、黄色の葉が見えます。これは、実は、樹内にある塩分を排出するため葉に塩分を凝縮させているもので、落葉します。
マングローブ 黄色の葉塩分濃度が上がった葉は黄色に変色し、散るわけです。
また、根の部分に、塩水中から真水だけを吸い上げるような仕組みになっているものもあります。
さらに、地表面に気根と呼ばれる根が張り出し、満潮で冠水しても呼吸できるようになっているものが多く見られます。気根の組織は隙間があって、空気の通りやすい構造になっていて、地下部にまで空気を送ることができます。
枝が伸びている樹
マングローブで思い出すのは、エビです。
日本人は、特にエビをよく食べる国で、世界1です。2位がアメリカ 3位がカナダです。そして、この3つの国でなんと世界の漁獲、養殖されたエビの70%を消費しているらしいです。そしてエビの輸出国である東南アジアの国国はエビを確保するため、養殖エビを増やしました。
東南アジア、南アジアの沿岸を覆っていたマングローブ林が消えていった主な理由は、最初は燃料確保のための木の伐採と水田への転化に思われてきましたが、実は、そのエビ養殖のために作られるエビ池のためマングローブが大量伐採されていることによることが、分かっています。

戸山公園の箱根山

桜の季節に訪れればそれは圧巻だ、と言われる戸山公園の箱根山へ桜を観に行って来ました。
箱根山とサクラ
この箱根山は、山手線内で一番標高が高い人造の山(築山)です。山頂にある水準点の標高は44.6mです。
もともとこの地は尾張徳川家の「戸山荘」と呼ばれた広大な回遊式庭園を備えた下屋敷跡で、明治に入り陸軍が接収して軍用地にしていました。
満開の桜に包まれて、見事な箱根山をぐるり一周して、登頂しました。
陸軍戸山学校跡地記念碑
陸軍戸山学校跡地記念碑です。「箱根山」と彫られています。
意外と岩がたくさんあります。
岩の多い箱根山
桜に抱かれた箱根山です。
箱根山を包むサクラ
さて、登ってみましょう。
サクラの箱根山を登る
箱根山頂上から満開の桜を望みます。
鉾根山頂上から満開の桜
桜の間から、高層ビルが見えます。昔は富士山が見えました。
箱根山頂上から高層ビル
少し散っています。たくさん散ったら、花びらに埋まった箱根山になるのしょうか。
少し散っているさくら
この道を下りました。すてきな景色の花見でした。
箱根山 登山道

サンゴ礁から生まれた石垣島鍾乳洞

シャコ貝の化石
サンゴ礁から生まれた美しい鍾乳洞。20万年の時をかけて自然が造り出した石垣島鍾乳洞です。
石垣島鍾乳洞はあまり知られていませんが、必見の価値はあります。 全長が秋芳洞に並ぶ3.2kmあるそうで、その中の660mほどが公開されています。
案内
とにかく密集度が高く色彩・形とも変化に富み、まるでサンゴ礁を見ているようです。
サンゴ礁からなる石灰岩が溶け出して、またサンゴ礁を作ったという状態です。
キラキラ光る鍾乳石、鍾乳洞イルミネーションの幻想的な輝き、水の音を楽しむ水琴窟、トトロの鍾乳石など見所がいっぱいです。
コーナーごとに「乙姫御殿」「長寿の湖」「夢と民話の広場」「神々の彫刻の森」といった神秘的な名前がつけられていました。
鍾乳洞 3

鍾乳洞 4

鍾乳洞 6

鍾乳洞 トトロ

石垣やいま村

石垣やいま村
石垣やいま村は、石垣島の名勝「名蔵湾」を一望する丘にあります。
豊かな自然を背景に古き良き八重山の家並みを再現した日本最南端のテーマパークです。
村内には水牛の池、カンムリワシ保護ケージ、リスザル園があり、なかでも小さなかわいいリスザルへのえさやりが大人気です。
リスザル 4匹
リスザル一匹
沖縄らしさを感じる屋根瓦と「シーサー」を載せます。
石垣やいま村 屋根瓦の美しさ
屋根のシーザ
「獅子」を沖縄の方言で「シーサー」といい、沖縄では「魔除け」や「守り神」だけではなく「福を呼び込む縁起物」として屋根や玄関などに「シーサー」が据え付けられています。
一般的に2匹で1つとされている「シーサー」ですが、口の開いた「シーサー」がメスで、福を招き入れ、口を閉じた「シーサー」がオスで、災難から守ってくれるとされていますが、口の開閉によるメスオスの区別については諸説あり、明確な区別はされていません。
「シーサー」メスか
「シーサー」オスか?
これも「シーサー」?
これもシーサーか

石垣島 川平湾

2月に沖縄の島巡りをしたのですが、なかなかまとめられずいるのですが、なんとか載せておこうと思います。
まず、石垣島に行きました。石垣島の市街地から車で約40分。島の北西部に位置する川平湾は、有名スポットの一つです。
川平湾
海がとてもきれいなブルーです。いろいろな透き通るブルーです。
ここから見る景色はとても印象的で、しばらくその場を立ち去らずに眺めていたくなります。
川平湾の海
ここで利用できるグラスボートは船底がガラス張りになっているので、そこから透き通った美しい海中を眺めることができます。色とりどりのサンゴ礁や熱帯魚が泳ぐ姿を気軽に堪能できたので、たくさん写真を撮ったのですが、観たようには写っていませんでした。
グラスボード
この海辺にくるまでに、川平公園がありその中に神社?がありました。
川平観音
短い参道を歩いて登っていくと小さな祠がありました。
海に近い 川平観音
その向こうが川平湾です。注連縄のある建物が祠なのでしょうか。屋根瓦は琉球瓦で、やはり沖縄の神社です。
川平観音の案内板_edited-1

目黒川のサクラ

「江戸百」で目黒を歩きましたが、目黒川のサクラを撮った写真、少し載せておきます。
目黒川のサクラ 4

目黒川のサクラ 5

目黒川のサクラ 1

さくらの茶会

目黒川のサクラ 3

目黒川のサクラ 2

茶屋坂と爺々ヶ茶屋

目黒川の桜
目黒川のサクラは満開で、たくさんの人でした。
その混雑から少し外れて、名所江戸百景 「目黒爺々が茶屋 」へ行ってみました。
落語「目黒のさんま」の出所はここだとも言われています。
田道橋を渡り、清掃工場の前の道を登ると茶屋坂に出ます。
「街かど公園」という小さな公園があり
茶屋坂ふれあい公園
「街かど公園」に、「茶屋坂の清水」の碑があります(この碑は元々写真の右側の道の突き当たり辺りあったものです)。
茶屋坂湧水の碑
茶屋では、湧き出る清水でたてた茶を出していたようです。この清水は、東京大空襲の際に、消防用水、炊事用として付近の人々の命を救ったというのですから昭和の時代にはまだ湧いていたのです。残念ながら、今は涸れてしまっています。
その「街かど公園」の左側の道が茶屋坂です。
茶屋坂 下から
坂を100mほど登り交差点を越えたところに茶屋坂の案内があります。さらに登った角に目黒のサンマ発端の“爺々が茶屋”跡の表示があります。
その表示から、説明します。
茶屋坂は江戸時代に江戸から目黒に入る道の一つで、大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂で富士の眺めが良い所でした。
この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって、三代将軍家光や八代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休みました。
家光は彦四郎の人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたので、「爺々が茶屋」と呼ばれました。
以来将軍が目黒筋へお成りの時には立ち寄って銀一枚を与えるのが例であったということです。また十代将軍家治が立ち寄ったときには団子と田楽を作って差し上げたと古文書にも書き残されています。
こんな事から「目黒のさんま」の話が生まれたのではないだろうかと言われているわけです。
茶屋坂の碑
ところで、爺々が茶屋の子孫は、現在もおられ、坂の下に住んでおられます。島村さんと言います。明治維新で世情が混乱のころには、茶屋場はたびたび泥棒に見舞われ、島村家は坂下の村の方に移ってくることになったということです。
すごいことです。
茶屋坂上から 三田用水
坂をさらに登って、下を眺めました。
ここの所は、三田用水が流れていました。下の道に橋がかかり、写真のサクラの側からこちらに水を送っていました。
明治時代には、この三田用水の豊富な水利に着目して現在の恵比寿ガーデンプレイスの地にヱビスビール(後に大日本麦酒に合併)の工場が開設され、この地域を発展させたということもありました。
目黒爺々が茶屋
とことろで、広重「江戸百」目黒の絵の改印は安政4年(1857)4月となっています。
安政4年(1857)4月に目黒を描くきっかけは、目黒不動のご開帳があったことによると言われます。
目黒不動のご開帳は、安政4年の2月28日から60日間にわたって行われました。
江戸時代のご開帳は、今の美術館にフェルメールの作品が来たような感じで多くに人が押し寄せたと思います。
それでは、目黒不動でも良かったのに、富士塚とか茶屋だったのでしょう。
目黒はお不動様だけはないですよと言いたかったのでしょうか。

四谷 外濠公園のサクラ

江戸時代、外濠は、防護障壁でした。明治になっても外濠はそうした位置付けでしたが、しだいに「土手公園」として解放され、サクラが植えられて、サクラの名所になりました。
満開の声を聞いたので、四谷の土手を少し歩きました。
四谷駅前から四谷見附跡を北へ向かうと、すぐに土手上に並ぶ桜の美しい景観が目に飛び込んできます。
四谷見附のサクラ
まるでサクラが踊っているよう。
サクラの乱舞
道路側から見てもきれい。
六番町から
四谷駅に帰り、上智大学の方へ行ってみます。
上智大学とサクラ
木の曲線とサクラ
グランドの上の土手jは、江戸時代からの松があり、その対比も見事です。
松と桜
ソメイヨシノの花びら。
ソメイヨシノ花びら
こちらは山桜かな山桜かな

目黒新不二跡

次は広重「名所江戸百景」に描かれた「目黒新不二」です。
目黒新富士は丸旦富士(目黒元富士)に遅れること7年、文政2年(1819)に、幕臣の近藤重蔵が、目黒崖線の三田村鎗ヶ崎の邸内に築いたものです。
武士が屋敷内に作った富士塚という点で、この目黒新富士は、ユニークな存在でした。
目黒新富士の山開きには多くの文化人も集まり、太田蜀山人が狂歌「もののふの新たに築く富士の根は一番鎗が先と言うらん」を祝いに送ったと言われます。
目黒に新しい富士塚ができたことから、一般に丸旦富士は目黒元富士、そしてこの富士塚は目黒新富士と呼ばれるようになったのです。
近藤重蔵は火付盗賊改方の与力などを経験し、長崎奉行手付出役、関東郡代付出役などの役職を歴任して、御家人としては、異例のエリートコースを歩んでいます。
そして、文化4年(1807)にロシア人の北方侵入(フヴォストフ事件、文化露寇)に伴い松前奉行出役となり蝦夷入りして、幕府公式の蝦夷調査隊として、千島列島や択捉島(えとろふ)を探検し、そこに「大日本恵土呂府」の木柱を立てるなどの功績をあげました。
文化5年(1808)には、江戸城紅葉山文庫の書物奉行となっています。
しかし、近藤重蔵はそうした有能な人物であった半面、自信過剰で粗野な面があり、幕府での評価は必ずしも高くなかったようです、文政2年(1819)に大坂勤番御弓奉行に左遷されます。それはちょうど、目黒の高台、三田村鎗ヶ崎(現在の中目黒2-1)にあった自邸内に立派な富士塚を富士講中の手を借りて完成させた時でした。
近藤重蔵は大阪へ出向きます。三田の屋敷と富士塚の管理は、長男の近藤富蔵に任せていました。
めぐろ歴史資料館パンフ
この富士塚は、目黒新富士、近藤富士、東富士などと呼ばれて参詣客で賑い、門前には露店も現れます。富蔵は、博徒あがりの町人(農夫とする説も)塚原半之助に頼まれ、蕎麦の露店用の土地を貸します。
ところが、家賃を払ってくれません。文政9年(1826)とうとう、塚原半之助と地所境界で争いになり、富蔵は、塚原半之助とその妻や母親、子供計7名を殺傷し、その罪から同年に伊豆諸島の八丈島に流罪になります。俗に言う「鎗ヶ崎事件」です。
そして、父の重蔵も連座して近江国大溝藩(おおみぞはん)に預けられますが、
文政12年(1829)6月亡くなってしまいます。享年59。(死後の万延元年(1860)に赦免されています)。
一方、富蔵の方は、流人生活の間に、「八丈実記」72巻(清書69巻)を著しています。
明治13年(1880)2月、明治政府より赦免を受け53年間の流人生活を終えるのですが、2年後の明治15年再び八丈島に帰島し、その後一観音堂の堂守として、島で生涯を終えました。
その著作は「八丈島の百科事典」とも呼ばれ、この地域の研究者にとって貴重な資料となっています。
この目黒新富士は、なかなか過酷な運命を背負っています。
前置きが長くなりました。広重の「名所江戸百景」第24景に描かれた「目黒新不二」
広重 目黒新富士
春です。目黒新富士の手前の川は、目黒川でなく玉川用水を水源とする三田用水です。昭和初期までは用水として使われていました。
三田用水は、前回、記した旧朝倉家住宅の方から、渋谷区と目黒区の区界の尾根沿いに流れ、新富士の麓を通って三田へ流れていました。
この用水は江戸時代から昭和50年迄、農業用水や恵比寿のビール工場の雑用水に使われていましたが廃止になりました。
富士塚は、昭和34年まで残っていましたが、今日では石の碑が残るだけです。
目切坂から歩いて、別所坂へ行きました。
別所坂 向かいがマンション
別所坂は目黒区の東北部の高台、淀橋台から目黒川の谷に面した急斜面を切り割った、いわゆる切通しで、渋谷区境から中目黒1丁目、2丁目境を目黒川田楽橋に下る、折れ曲がった長い急坂です。
坂の由来については、郷土目黒誌によると「この坂を下ったところに別所と呼ばれた地名のところがあったからである」と記されており、かつては江戸の人びとが麻布辺りから行楽の地、目黒に入る近道として重要な交通路でした。
坂上は富士のながめの良いところで、目黒新富士・近藤富士などと呼ばれた築山を造り、目黒元富士とともに江戸名所のひとつとして、行楽客に親しまれました。
テラス恵比寿の丘という高級マンションの前に案内の碑があり、右側の壁の所には、庚申塔が並んでいました。別所坂l庚申塔
坂を下って、別所坂の途中から、別所児童公園へ階段で登りました。後から歩いてみると、マンションから公開通路で、階段を登らなくても行けました。坂の上と同じ高さに児童公園はあります。
児童遊園から西方向を望みました。
画面左寄りの高層の建物は、中目黒駅近くに出来た「中目黒アトラスタワー」です。
児童遊園から西方向
目黒新富士の案内板がありました。
児童公園のにある案内
山腹にあったとされる石碑は、五合目 小御嶽 烏帽子岩ですか。 「南妙法蓮華経」「小御岳(こみだけ)」「文政二年吉日戌申」などの銘のあるそうです。 「南妙法蓮華経」「ははっきり読めます。
三つの石碑
テラス恵比寿の丘という高級マンションが出来る前、平成3年(1991)に、富士講の遺跡や遺物が発掘されて話題になりました。そのマンションの前、別所坂を上がった所に案内があり、そこに下記のことが書いてありました。
胎内の案内
<平成3年秋、この近くで新富士ゆかりの地下式遺構が発見された。遺構の奥からは石の祠や御神体と思われる大日如来像なども出土。調査の結果、遺構は富士講の信者たちが新富士を模して地下に造った物とわかり「新富士遺跡」と名づけられた。今は再び埋め戻されて、地中に静かに眠る。>
富士塚にはどこでも下の方に「富士山御胎内」というのがあります。ただ、普通その穴はただ富士の洞穴を模して空けているという感じで造られていますが、ここにあった目黒新富士(近藤富士)は本当に洞穴を作っていたということです。目黒区めぐろ歴史資料館に、その胎内遺跡が再現されていて、大日如来像もあります。
大日如来坐像

プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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