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目黒元富士跡

目黒川沿い東側の崖線は、爺々が茶屋が富士を望む展望台であったように、富士山がよく見渡せる高台でした。この目黒の崖線には、江戸時代に2つの富士塚が並ぶようにありました。そして、歌川広重の「名所江戸百景」に、それぞれ独立した題材として描かれています。 
残念ながら、今は、その2つの富士塚はありませんが、そのあった場所を訪ねみました。
まず「名所江戸百景」第25景に描かれた「目黒元不二」。
広重 目黒元富士
文化9年(1812年)に目黒村の富士講メンバーが築いたと言われており、この地域の富士講のマークが、丸に旦の字であったことから、丸旦富士と呼ばれました。
高さ12メートルで、山頂には浅間神社が祭られていました。
そこに作られた富士塚の頂上から見る本物の富士山は、さぞ格別であったに違いありません。 
目黒元富士は現在の上目黒一丁目、目切坂上にありました。
中目黒駅近く 目黒川
中目黒駅から桜咲く目黒川を過ぎてしばらく行くと、「目切坂」に出会います。
「目切坂」の名前の由来は、「この付近にうすの目切りをする石工が住んでいたので目切坂とよばれるようになったといわれる。また、斜め切り通しなので目切坂とよばれるようになったともいわれる。」(目黒区教育委員会案内より)とありました。
目切坂下
その坂を登ると、やがて右側にキングホームズという高級マンションがあります。その入り口に「目黒元富士」の案内板が2つありました。
目切坂上 目黒元富士の碑
目黒元富士があった所

目黒元富士跡 上目黒1-8
江戸時代に、富士山を崇拝対象にした民間信仰がひろまり、人々が集まって富士講という団体が作られました。富士講の人々は富士山に登るほかに、身近な所に小型の富士(富士塚)を築きました。富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、
山頂には浅間富士を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。マンションの敷地にあった富士塚は、文化9年(1812)に上目黒の富士講の人々が築いたもので、高さな12mもあったといいます。文政2年(1819)に別所坂上(中目黒2-1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになりました。この二つの富士塚は歌川広重の『名所江戸百景』に「目黒元不二」「目黒新富士」としてそれぞれの風景が描かれています。元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社(大橋2-16-21)へ移されました。 平成22年12月 目黒区教育委


少し進むと、左手に、旧朝倉邸の門があり、道を挟んだ一角にお地蔵様がありました。
台座には、「右大山道、南無阿弥陀仏、左祐天寺道」と刻んであります。
地蔵・道しるべ
<地蔵・道しるべ>の案内が詳しかったので引用しておきます。
[地蔵尊が現世と来世の間に出現して死者の霊を救済するという信仰は、民衆の間に広く信じられてきました。また、小児の霊の冥福を祈る意味でも地蔵尊が造立されました。道の辻などに建てられた場合には、道路の安全を祈ることのほかに、道しるべになることもあります。この地蔵尊は、文政元年(1818)の造立で、その台座正面には、「右大山道、南無阿弥陀仏、左祐天寺道」と刻んであります。地蔵堂背後の坂道は、目切坂または暗やみ坂といい、この坂道を下って目黒川を渡ったあと、南へ進むと祐天寺方面に達し、北へ進むと大山道(国道246号)に達します。また,堂前を進むと並木橋に達します。。江戸時代には、人家もまばらな、さびしい道で、旅人はこの道しるべを見て安心したことでしょう。] (渋谷区教育委員会)

ところで、この目黒元富士のあった場所は、明治時代、公家の岩倉具視が別荘用地として購入します。そのため、一般の人は富士塚に参拝はできなくなってしまします。そこで、丸旦富士講のメンバーは、近所にこの富士塚を新設することにし、探しました。その場所が、大山街道(現246号線)沿いで、目黒川に架かる大橋(池尻大橋)手前の右にある小高い丘を選びこれを富士山に見立てることにします。ここには、古くから上目黒氷川神社があり、今も敷地内に新元富士の碑が残るとのことです。だから、明治には、目黒に富士塚が3つあったことになります。
今度、その大橋の氷川神社(大橋2-16-21)へ行ってみたいと思います。
大正時代の建物として国の重要文化財になっている旧朝倉家住宅にも入ってみましたが、落ち着きのあるすばらしい建物でした。これも、ツツジの時にゆっくり行ってみることにします。


旧朝倉家住宅
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羽村で、玉川上水の取水堰を観る

羽村に、玉川上水の取水堰を見に行きました。この時期行ったのは、桜見物と思ったのですが、もう少し早かったです。
取水口には二つの水門がつくられ、それぞれ一の水門・二の水門と呼ばれました。一の水門で水を取り入れ、二の水門で水量の調節をします。
羽村取水堰・第一水門
羽村堰第一水門部です。明治44年にコンクリーの水門となった第一水門は、多摩川の水を玉川上水に取り入れるための水門です。大水の時などはこの第一水門を閉めて土砂などの流入を防ぎます。
第二水門からの玉川上水
第一水門から少し下流に第ニ水門があります。第一水門で取り入れた水を一定の水量にし、玉川上水に流すための水門です。余水は、脇の小吐水門から多摩川に戻しています。先は玉川上水になります。
この水門で取水された上水は、現在、羽村堰から小平監視所までの間のおおよそ12kmが上水路として利用されています。
小平監視所より下流は、昭和40年、新宿・淀橋浄水場の廃止により長らく空堀の状態でしたが、昭和59年、都の清流復活事業により、昭島にある多摩川上流処理場で高度処理された下水を、小平より前言橋まで下流へ流し、現在の「玉川上水」の清流れを保っています。
多摩川対岸に拡がる草花丘陵や、河川敷、固定堰、投渡堰など、取水部の風景をしばし眺めました、
投渡堰
投渡堰は、投渡木(なぎ)と呼ばれる丸太を横に渡し、そこへそれより細い丸太や木の枝、砂利などをあてがってつくってあります。大水のときは、取水口へ水が集まり過ぎて水門や土手を壊してしまうので、この投渡木を外して堰を取り払い、水を多摩川に流すことで上水をまもりました。
土手の桜
対岸の羽山市郷土博物館へ。郷土博物館の前ではソメイヨシノが咲いていました。
羽村市郷土博物館
昭和60年開館のこの施設には、多摩川や玉川上水、中里介山に冠する資料などが展示されています。
屋外には旧田中家の長屋門、旧下田家の民家が移築されている。旧下田家は19世紀中頃の農家の面影を今に伝えています
赤門の桜
この赤門は、中里介山の大菩薩峠記念館の正門でした。
もとは三ヶ島(現在埼玉県所沢市)の徳川幕府に仕えていた眼科医鈴木家の門でした。昭和10年(1935)12月に介山がこれを譲り受け、記念館の前に移築したもので、現在こちらに移築されています。
その後、福生まで玉川城址沿いを歩きました。
玉川上水遊歩道の桜_edited-1

皇居乾通りの春の一般公開・桜並木の通り抜け

3月25日(金)から3月31日(木)までの7日間「皇居乾通りの春の一般公開・桜並木の通り抜け」が開催されています。
いつも、長蛇の列のニュースが流れるので、春はあきらめていたのですが、今年は、それでも一度歩いてみようと行ってみました。
東京駅から歩いて、列の流れにまかせて、坂下門前の検査を待つ所で、待つこと約40分。入りました。
ソメイヨシノはまだまだ、大半が一~二分咲き程度。ようやく、三分~五分咲きのソメイヨシノもちらほらほら見られる程度でした。
でも、天気だったので、春を迎えてみどりもきれい。石垣も輝いて、楽しい散策でした。
坂下門から入ります。
坂下門から入ります
宮内庁庁舎横の桜
宮内庁庁舎
長屋門と桜
長屋門の桜
下道灌濠と桜
道灌濠の桜
富士見多聞と桜
富士見多聞と桜
乾 濠と桜
乾堀と桜
乾通り、たくさんの人人人。先に乾門が見えます。
乾通り たくさんの人
赤みの強いエドヒガンザクラ
赤い桜
乾門近くの桜
乾門近くの桜

本郷の犬と猫の像 そして三四郎池

本郷を歩きました。
東大農学部正門の左に、「上野英三郎博士とハチ公の像」があります。
「上野英三郎博士とハチ公の像」
東大にハチ公と上野博士の像を作ろうと発案したのは、動物と人との関係を研究テーマにしている、文学部・人文社会系研究科の先生だったようです。上野博士は農学部の先生。
2012年1月に「ハチ公と上野英三郎博士の像を東大に作る会」が結成されました。
寄付を集めて、ちょうどハチ公没後80年にあたる昨年の2015年3月8日に除幕式がありました。
ハチ公と上野英三郎博士
上野英三郎博士に飛びついていかにも嬉しそうです。
渋谷のハチ公はいつまでも待っています。
うちにいた犬を思い出します。
今は猫が人気です。
漱石旧居跡石碑
文京区向丘、日本医大の裏手あたりに明治36年(1903)3月から3年10ヶ月居住していた夏目漱石の暮らした場所がありました。
東京帝国大学で教職にあった漱石が「吾輩は猫である」や「坊っちゃん」を執筆した場所です
「吾輩は猫である」の舞台になったことから“猫の家"と呼ばれていましたが、家屋は愛知県犬山市にある「明治村」に移築されました。
猫の家の猫の像
その跡に題字「川端康成書」の漱石旧居跡石碑が建ち、そばの屏の上に猫がいます。
漱石がロンドン帰国したとき、家族は夫人の実家(牛込区矢来町)の離れに住んでいたので、漱石は毎日、借家探しに出かけ、探し歩いたようです。その結果、探し当てたのが千駄木のここでした。
本郷区千駄木57番地の斎藤阿具という漱石の大学時代からの知り合いの家で、その当時、斎藤は当時仙台の第二高等学校の教授であったため空屋になっていました。
この家には森鴎外も明治23年(1890)10月から1年少し住んでいました。明治25年(1892)1月に千駄木21番地に転居しました。漱石は、明治39年(1906)12月本郷区西片十番地に移転しています。
その後、漱石は、明治40年(1907)9月29日西片町から早稲田南町7番地の当地に転居し、 大正5年(1916)12月9日、 亡くなるまで、早稲田、通称「漱石山房」で暮らしました。
三四郎池
漱石の小説ゆかりの場所ともなればたくさんありますが、東京大学の「三四郎池」もその一つです。
「三四郎池」にも行きました。小説「三四郎」の舞台となり、主人公の三四郎とヒロイン美禰子が出会った地です。この池、正式に言えば、加賀藩前田家上屋敷にあった庭園「育徳園」の心字池です。

ボッティチェリ展 2つの聖母子像

東京都美術館で開かれているボッティチェリ展に行きました。
その作品は多くが板に描かれ、きわめて繊細であるため、まとまった数の来日はこれまでできなかったのですが。今回は、日伊国交樹立150周年記念で、20点以上も来ているということで、観たいと思っていたのですが、遅くなりました。
最終日が近いこともあり、会場は大変な人でした。
今回は、多く描いた聖母子像の中でも特に傑作と名高い「聖母子(書物の聖母)」が目玉になっています。
なんとなく想像していたより小さい作品でしたが、観て、とても感動しました。
あの≪ヴィーナスの誕生≫と同じ1480年代前半に描かれた名品です。
「聖母子(書物の聖母)」
ボッティチェリ『聖母子(書物の聖母)』
まずマリアの衣装の深い青色に引き込まれます。ボッティチェリの衣装はとても柔らかく豪華です。
なにより、マリアの頭にかかるベールの透けた描写がすごい。細密に描かれている金色の後光。本当に描かれたものなのだろうかと思います。金の星が肩に描かれています。
無垢な表情の幼子イエス。両手は母マリアの上に重ねられて、背後には天国の果物の象徴サクランボ。
右手の先には本が置かれています。イザヤ書といわれていますが、はっきりしないそうです。字ははっきり書かれているのですが。
この予言書を読みこれから起こりうることを知り、受難が待つ息子に、慈愛に満ちた眼差しを向ける母マリア
きれいです。
もうひとつ、聖母子「薔薇園の聖母」。
「薔薇園の聖母」
ボッティチェリが初期に描いた、幼子イエスを抱く聖母像です。悲しげなまなざしをむけ、手に石榴を持っています。聖母マリアの後ろには庭があり薔薇の花が咲いています。薔薇は聖母マリアのシンボルとして使われる花です。
石榴は何だろうと気になりました。
というのは、2日前、鬼子母神にお参りして、鬼子母神が持っている石榴の話をしたばかりだったからです。人を食べていた鬼子母神が、人を食べるため、その味が似ている石榴を食べた、それで、手に石榴を持っている、とよく言われるのは、間違いで、多産、安産の象徴として果実が多い石榴を持っているのだという、説明が最近はされているというものでした。
ここでの石榴は何だ、と思いました。
画集の解説には、「復活」の象徴とありました。
あと、調べていたら、聖母が手にし、イエスが食している石榴は『「多産」「王権」の象徴で、実の色が赤いことから血を連想させイエスの受難も表している』と出ているものがありました。
イエスは石榴を食べているのですね。少し落ちています。「受難」というのは分かる気がします。
安産、子育ての神となった鬼子母が、石榴=多産はありうるとは思うのですが、ここで「多産」で描く理由が少しわかりにくいです。やはり「復活」なのですかね。

清澄庭園

泉水
清澄庭園は、東京都江東区清澄にある都立の回遊式林泉庭園です。
元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられる所ですが、享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となっていました。
明治に入って、荒廃していましたが、明治11年に岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手します。
明治13年に竣工し、深川親睦園と命名されます。
彌太郎の亡きあとも、岩崎弥之助が庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、明治24年に回遊式築山林泉庭園としての完成を見ました。
その後、大正12年に発生した関東大震災で庭園は大きな被害を受け、邸宅も焼失してしまいました。
その後もいろいろありましたが、庭園は、昭和54年3月31日に東京都の名勝に指定されました。
ただいま園内自由広場に4本あるカンヒザクラが見ごろとなっております。
濃いピンク色の華やかな色の花が咲いていました。
カンヒザクラ
カンヒザクラ アップ
▼富士見山  ツツジとサツキで覆われ、別名を「つつじ山」とも。園内で一番高く大きな築山となっています。
富士山
▼富士山の麓の大きな紀州青石は滝を表現しています。
◆当時、岩崎家が自社の汽船で全国の名石を産地から集め、近くの隅田川から園内に配しました。代表的な伊豆磯石・伊予青紀州青石 富士山麓の滝
石・佐渡赤玉石・備中御影石・加茂真黒石・京都保津川石・讃岐御影石などがあります。敷石や磯渡りの石を含め、無数の石が配置されていて、まさに「石庭」の観を呈しています。
▼これも大きな仙台石の石橋
仙台石 石橋
▼公園入り口にある、「なつめ水鉢」 摂津御影です。
摂津御影 なつめ水鉢

村上隆の五百羅漢図

村上隆の五百羅漢図、少し写真に撮った羅漢や聖獣を載せてみます。
炎を吐いて恐ろしい羅漢
真っ赤な炎の中の羅漢。火を吐いているよう。足下にもたくさんの羅漢。
炎の中で散華する羅漢
その炎の中で散華する羅漢。その頭にも羅漢がいる。
東西南北をつかさどる聖(神)獣がいます。
白虎
西方の白虎です。
青竜
東方の青龍です。
朱雀
南方の朱雀です。
玄武は、雲山で象徴されていました。
オリジナル霊獣
村上隆オリジナルの聖獣です。中国の獅子舞、九尾の狐などがインスプレーションの下地になっているようです。
赤鬼
これは分かりやすい赤鬼。右の上を向いて祈る羅漢をアップにします。優しいです。
優しい感じの羅漢も
小さく描かれた羅漢は、どこかとても人間くさいです。
小さい羅漢も

村上隆の五百羅漢図展

はっきり言うと、村上隆氏に対して、一般的な関心しか持っていませんでした。
•世界では大変高い評価をされている。
・それに対して、日本では、キライという感じを持っている人が少なからずいる。
•変わったフィギュアをつくってそれが、16億円という高額で落札されたとか
ところが、このところ、「村上隆」がやたらと、目に入ってきました。
それは、村上隆のおよそ14年ぶりと言われる、国内での個展六本木、森美術館の「村上隆の五百羅漢図展」と膨大なコレクションを展覧していう横浜美術館の「スーパーフラット展」が同時に開催されていることにあります。
その展覧会の紹介のテレビを見ていて、しだいに、これは、見なければと思うようになってきました。
「五百羅漢図」は、数年前、江戸博で開催された、狩野一信の「五百羅漢図」にすごく衝撃をうけました。
実は、当初「村上隆の五百羅漢図展」はその亜流という印象をなんとなく思っていたのですが、確かに狩野一信からインスプレーションを受けているということをはっきり明言し、そこから、というか、その他ものろもろから触発され、「村上隆の五百羅漢図展」を描いたということです。しかも、かつての工房のように多くの制作者がいて、その人達との共同制作でした。そこには、厳しい村上隆の「指示書」があるのですが。
とにかく、この展覧会を見た人がみんな圧倒され、観ておかないと後々絶対に後悔するよと言います。
なんとか行ってみようと思いながら、終了が近づいてきました。夜も深夜まで開いていると聞いたのですが、夜は出かけられず、最後の最後、3月6日に観に行きました。
村上隆 お迎えがこれ
会場入り口、このお迎えにまず驚かされます。
黄金の彫刻と村上隆らしい作品群と人
誰かが言っていましたが、観るというより、「全身で感じ取る」という感じです。
羅漢図と人1
高さ3メートル、全長100メートルもの超大作、なかなか、会場を去ることができませんでした。
羅漢像2
羅漢像 2体ぷらす
五百羅漢図以外の作品も、いちいち手が込んでいて、見ごたえがあります。
これぞ村上のアニメ風
達磨太子
さらに、作品以外でも、すごいと思ったのは<会場内は何と写真も動画も撮影可能>ということ。村上隆氏がインスピレーションを受けた、長沢芦雪や狩野一信の「五百羅漢図」の作品、その他が出品されていること。
「ニッポン絵合せ」
また、今回の五百羅漢図制作のきっかけとなった美術史家・辻惟雄との「芸術新潮」誌上でのシリーズ企画「ニッポン絵合せ」の概要も、一部図解で、さらに、工房において制作の前に多くの羅漢図を調査したり、背景画の技法を皆で習熟したりと、指示書まで含めた膨大な資料から制作のメモ、記録も展示され、そうした作品をとりまく情報ごとの展示そのものが、新しいです。これからの展示は、こうでなくてはと思いました。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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