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落合・中井を「染めの小道」

のれんで
新宿の地場産業として「印刷」と「染色」があります。どちらも、区内を走る神田川にちなんでいます。
染色は、江戸時代、神田紺屋町が有名だったようですが、神田が賑やかになり、川が使えなくなると、早稲田や落合に移って来ましたが、昭和初期~30年代ごろには、東京の神田川・妙正寺川流域には300軒を超える染色関連業が集積していたと言われます。
いまでも「落合・中井」界隈には、その技術を受け継ぎ、新しい染色を提案する職人・作家たちが集まります。
26日から、落合で、「染の小道(そめのこみち)」が開催されました。
妙正寺川 1
『落合・中井を「染めの街」として再び日本や世界へ発信すること、そして、地域が大切にしてきた価値や環境を多くの方々に直接体験していただき、地元の活性化につなげることを目的とした、住民主体のイベントです』。
妙正寺川 2
「染の小道」は、2009年にギャラリー、染色工房、湯のし店など地元有志が始めて今年で8回目です。
妙正寺川 3
メインの一つは妙正寺川約300メートルにわたって反物が架かる「川のギャラリー」。これは昭和30年代まで行われていた染めた反物の糊(のり)を水洗いする作業「水元(みずもと)」の風景を再現したものです。
もう一つは「道のギャラリー」。染色作家が「友禅」「紅型(びんがた)」「藍染め」などの染色手法を使って思い思いに染め上げたのれん100枚が、抽選で選ばれた商店街の店舗の軒先を飾っています。
のれん
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横浜・山下公園のカモメと「赤い靴」の像

横浜へ行って、山下公園で一休みしました。
一羽のカモメ
かつてこのあたりはフランス人居住地区だったことから、当初フランス波止場と言われたようです
大正12年9月1日に起きた関東大震災のときは、建物などの残骸の集積場とされたこともあります。山下公園と指定されたのはその大正12年の11月15日で、開園したのが昭和5年の3月15でした。
カモメが舞っていました。
飛んでいるカモメ

かもめの水兵さん
ならんだ水兵さん
白い帽子 白いシャツ 白い服
波にチャップ チャップ うかんでる

かもめの水兵さん
かけあし水兵さん
白い帽子 白いシャツ 白い服
波をチャップ チャップ 越えてゆく


山下公園の中にこの歌の碑があるようですが、カモメを見ていると武内俊子作詞「かもめの水兵さん」を思い出します。
メリケンとは、アメリカン(American)の古い日本語表記で、現在ではあまり使われません。
山下公園ですぐ気がつくのは、赤い靴の女の子の像です。
赤い靴の女の像
今、横浜土産には、赤い靴をデザインしたものがとても多いです。

赤い靴(くつ) はいてた 女の子
異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった

横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった


野口雨情の作詞の童謡『赤い靴』をはいていた女の子にはモデルがいました。
明治37年7月15日静岡県清水市宮加三(旧二見村)に生まれた「岩崎きみ」という女の子です。
「きみ」私生児だったようです。私生児を産んだことで白い目で見られた母かよは、逃げるようにして北海道に渡りました。北海道の厳しい生活。そしてまだ2歳になったばかりで病弱な「きみ」は、養女を探していたアメリカ人宣教師夫妻に託くことにしました。
宣教師夫妻は「きみ」を実の子どものように育てていましたが、母国アメリカから帰国命令が来ました。
実はこのとき「きみ」は不治の病におかされていたのです。
宣教師夫妻は病の「きみ」を船に乗せることができず、孤児院(当時麻布十番にあった鳥居坂教会の孤児院)に残して旅立ちます。「きみ」は、その孤児院で、亡くなってしましました。わずか9歳でした。
一方、北海道へ渡った母かよは、死ぬまで自分の娘「きみ」は、宣教師夫妻と一緒にアメリカで、元気に暮らしているものと信じていました。
かよは、北海道で、鈴木志郎と結婚しています。その鈴木志郎が札幌の新聞社へ入社して、同じ頃この新聞社に勤めていた野口雨情と知り合い、宣教師夫妻とアメリカへ行っただろう「きみ」の話を聞いて、この詩を書いたということです。
現在「赤い靴の女の子」の像は一番古いのは昭和54年に設置された山下公園の像ですが、「きみ」にゆかりのある地に合わせて各地にあります。
生まれたふるさとを望む日本平。北海道の開拓野上のあった北海道虻田郡留寿都村。一時一緒にすんでいた小樽。「きみ」が亡くなった孤児院のあった麻布十番。
さらに新しく、初めての北海道の地に立った函館。鈴木志郎の故郷である青森県鰺ヶ沢町にもあります。
また、横浜には、こじんまりしていますが、横浜駅中央通路に。
この横浜駅の像を入れると国内に全部で8つの像があることになります。
これだけではありません。横浜開港150周年と銅像建設30年、横浜市とアメリカサンディエゴ市の姉妹都市50周年(2008)をきっかけに、アメリカ、サンディエゴ市の海辺の公園にも設置されました。
このアメリカの像も入れるときみちゃんの像は全部で9もあるのです。
「赤い靴の女の子」は、異人さんに連れられて行っていないことが分かったのは昭和53年のことでした。
童謡「赤い靴」が世に出たのは、大正11年のことです、
赤い靴の像
そして山下公園に「赤い靴の女の子」像が造られたのは、連れられて行っていないことが分かった次の年、昭和54年なのですね。
1979年、横浜山下公園に『赤い靴はいてた女の子の像』が作られた。これは純粋に雨情の詩のイメージをモチーフにしたもので、赤い靴を愛する市民の会(後に赤い靴記念文化事業団と改称)から寄贈されている。また同会は、この像のミニチュア版(999個制作されたうちの1個)を1982年8月に横浜駅へ寄贈、当初は同駅南口に設置されていたが駅改良工事に伴い1998年に撤去となり、その後は保管されていた。2010年12月に同駅自由通路(中央通路)に移設されている[4]。
山下公園の少女像は、あくまで野口雨情の詩のイメージから生まれたものだそうです。
そして、横浜駅とサンディエゴ市の像は、この山下公の像と同じ型のものだそうです。
そしてあとの6つの像は、前述の話から作られた像でした。
調べてみると、なかなか奥の深い、「赤い靴」でした。

文京シビックセンター25階 展望ラウンジ

文京シビックセンターに「文京区新収作品展―書、絵画、工芸 」を観に行きました。
その後、展望ラウンジ(文京シビックセンター25階)に久しぶり登ってみました。
小石川後楽園
下の方を見ると、東京ドームの屋根の端が見え、右に小石川後楽園が見えます。
小石川後楽園は江戸時代の屋敷跡で、全国で9箇所しかない文化財保護法に基づく特別史跡・特別名勝の重複指定を受けている施設となっています。その右側には東側と同じく地下鉄丸ノ内線が通っています
スカイツリーと上野
東側は東京スカイツリーがしっかり見えます。その左側が上野、浅草で、上野の森も確認できます。
新宿 高層ビリ方面
西方向は新宿方面で、新宿副都心の高層ビル群が林立しています
池袋方面 と小石川植物園
少し北の方へ行くと池袋方面、サンシャインのビルなどが見え、ずっと右のみどり群は小石川植物園です。
とにかく、ビルがたくさん建っていてしかも高層なものが多いのに、少し驚きました。
あえて、みどりを探して写真を撮ったのですが、どこにあるのかよく分かりません。
地形の起伏などもぜんぜんわかりません。
でも、ミクロ的な観察だけでなく、マクロ的な展望の大切さも思いました。

圓照寺と右衛門桜

鎧神社の別当寺であったといわれる圓照寺に行きました。
江戸名所図会 圓照寺 鎧神社
圓照寺は、真言宗豊山派の寺院で、医光山瑠璃光圓照寺といいます。もと鎧神社の別当寺であったといわれています。縁起については定かではありませんが、『江戸名所図会』などによれば、次のような経緯を経て、藤原秀郷によって建てられたと記されています。
圓照寺の石樋
天慶3年(940)、藤原秀郷が将門を討伐するため軍勢を率いて出陣して来ましたが、ところがこのあたりで病にかかり伏してしまいました。
ここには、醍醐天皇の時代に、理源大師の弟子、貞崇僧都が薬師如来像を安置した場所でした。
伏したとこで、霊示があり、それに従って祈ったところ、苦痛はたちまちなくなりました。将門討伐の祈願もして出陣し、その願いも達成されます。
喜んだ秀郷は、凱旋の後、ここに堂塔を建立し、圓照寺としました。
また一説では、旧地頭の柏木右衛門佐頼秀の館跡であったとも伝えらます。そして、境内にその由来にもとづく右衛門桜が植えられていて、名木として有名だったようです。
上の名所図会にも圓照寺の境内の柵に囲まれて右衛門桜が描かれています。
圓照寺本殿
現在、その右衛門桜の子孫が境内にあるとのことですが、それがどの木かよくわかりませんでした。よく目立つのは本殿前の枝垂れサクラですが、これは右衛門桜ではありません。
無縁仏などがある近く(写真の左)の木がそうだとも言われますが、はっきりしたことは分かりませんでした。
境内 無縁仏

右衛門桜の伝説について、簡単に記してみます。
昔、京の都で宮仕えをしていた、右衛門という男が、、天皇の催した「蹴鞠の会」で三宮という美しい女性を見初め、やがて、相思相愛の仲になりました。しかしその恋は許されないもので、右衛門は武蔵野国へ流され、この柏木の地住み着きました、やがて、三宮が男の子を産んだといういう知らせが風の便りにありました。右衛門は、喜び、京から桜の苗木を取り寄せ、、庭に植え、それに子どもの成長を託しました。
右衛門は病に倒れ、「来年はもっときれいな花を咲かせるだろう。、我が子もこの桜に負けないで年々成長してくれるだろう」と言いながら息を引き取りました。
村人たちは、誰いうとなく、その桜を右衛門桜と呼ぶようになりました。
▼付け加えると、「右衛門」というのは、本来は、平安時代の役所の一つで、門の出入りを管理する右衛門府のことをさしていました。

以下参考のために、江戸時代のいろいろ書かれた右衛門桜を集めてみます。
まず、「江戸名所図会」の右衛門桜。
江戸名所図会 右衛門桜
●江戸時代前期に浅井了意によって著された「江戸名所記」には、右衛門桜について、「源氏物語」の登場人物である、柏木右衛門督(右衛門督は右衛門府の長官に相当する官職名)が、女三宮との許されざる恋の結果として武蔵国に流された時に、この桜を植えたと記しています。
もちろん、この話は事実ではないのですが、江戸時代の初期には、謡曲や芝居などで演じられた物語の内容が、事実として受け止められる土壌があったと言えます。
また、右衛門桜の名は、右衛門佐頼(より)季(すえ)(右衛門佐は右衛門府の次官に相当する官職名)が植えた事に由来するという説があります。
●「江戸名所花暦」や「続江戸砂子」には、この桜が衰えていたのを惜しんだ武田右衛門が、接ぎ木をして復活させたことから、右衛門桜の名が出たとし、場所が柏木村であったので、「源氏物語」の柏木右衛門(柏木右衛門督)に因んで名高い桜になったという説が記されています。
●江戸時代、文化・文政期(1804年から1829年、化政文化の時期)に編まれた武蔵国の地誌「新編武蔵風土記稿」には次のようにあります。
「右衛門桜。薬師堂の前にあり。古木は枯て後に植つきしものなり。正保改の国図にも載たれは、其頃既に名高かりし事しらる。往昔後一條院の御宇柏木右衛門左頼季と云人あり。始は乙葉三郎季長元3年上総介平忠常、陸奥権介忠頼兄弟を追討せる賞として角筈、柏木の地をたまはり、即此処に館を構へて住居せし「右衛門桜物語」と云ものに載たり。されと此記は後人の手に成て事を工に綴りしなれば、元より證となすへきものにはあらんとのみ記したれは、天和の頃傳への造ならさりしこと知らる。或日、此地近き処に武田右衛門と云人ありて、この桜の古木となりしを憂へ、接木となし栽つきしゆへ此名ありしと、兎角拠とすへきものなし。萬冶、寛文頃は木も盛りにして遊賞の者多かりしと云。(新編武蔵風土記稿より)
●同じく文化年間、江戸小石川に住む十方庵敬順が書いた「遊歴雑記」には、ここを訪れて右衛門桜のことを記しています。
「武州柏木村の衛門桜は大久保の西、淀橋の北八町にあり、寺は密宗にして釣鐘の銘に武州豊島郡柏木村醫光山圓照寺と見えたり、境内西に表して本堂と薬師堂との間に名だたる衛門さくら存す。但し古来の名木は枯朽てその根茎より若木生長し、今四方へ繁茂する事、およそ四五間、竹の埒垣を構えて側へ寄らしめず。又、本堂の前正面にも桜木一株あり、花盛は立春七十四五日をよしとす。惜しむらくは土地辺鄙にして、神田、下谷より先の人は噂にのみ聞て到らざるは恨というべし。」
今年の春は、右衛門桜を少し調べてみようかと思っています。

鎧神社の節分祭

新宿区北新宿の鎧神社へ節分祭を観に行きました。古式鬼追いの儀があるということで、ぜひ一度と思ったのです。
式は午後3時からでした、
20分くらい前だったので、まだ参詣の人は少なかったです。
「鎧」の字を白く抜いた、青の半纏を着た氏子さんが準備をされていました。
社殿内には入れないので、とにかく前にと思って、賽銭箱の横に陣取りました
法螺の音が響き追儺式の始る
午後3時、法螺貝を拭いて、開会が宣せられます。
儀式は修祓に始まり玉串奉奠まで続きます。これが結構長いです。拝殿の奥は少し暗いし、よく見えません。
修祓、祝詞奏上
祝詞が続き、玉串奉奠になりました。玉串奉奠は拝殿に参列した氏子が全員行います、ずいぶんたくさんの人が並んでいたようです。奉奠が終わると、豆やみかん、お菓子などが入った枡をそれぞれが受けていもどります。みる境内を見るとは参詣人で溢れています。子どもが多いです。それぞれ、豆をいただく準備をしています。
追儺式(ついなしき)、鬼追いの儀が始まるアナウンスがありました。
赤鬼、青鬼が、神楽殿の上に現れます。そこから、拝殿に歩いて来ます。
鬼が拝殿へ
拝殿に入ると、神官が扮した鬼追い役、四つ目の方相氏と鬼達の調伏問答が始まります。
方相氏(ほうそうし)は、古代中国の伝承に登場する鬼神です。追儺式(鬼やらい)の時に先陣を務める異形の神ということです。残念ながら、お姿は見られませんでした。
いろいろ資料をあたると、「黄金で出来た四つ目の仮面を被り、玄衣(黒い衣)に朱の裳(もすそ)を着用し、手には鬼を斬る大きな刀や矛・盾を持つ」とあります。
まず赤鬼が、問答で、調伏された鬼が「鬼は外」と豆に打たれながら、するめと酒を持って退散します。
続いて青鬼が入り、調伏され、赤鬼より多くの豆を浴びました。
福の神の登場
そこに登場するのが福の神です。恵比寿さまでした。
鬼は退散
鬼が退散します。
福の神にも豆
拝殿の氏子たちは「福は内」と言って、やはり豆を撒きます。
福の神は鈴を鳴らしながら参列者に福を授けて廻ります。
参列者に福を
こうして追儺式は終了し、拝殿で追儺式に参列していた人全員が拝殿廊下と神楽殿に出て境内に溢れた参詣者に福豆をまきます。豆ばかりでなくみかんやお菓子類も撒かれて、特に、子供達の嬉しい叫び声が境内に響きました。
鎧神社 豆まき
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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