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文京区立新江戸川公園内「松聲閣(しょうせいかく)」

文京区立新江戸川公園内にある、元熊本藩主細川家ゆかりの大正期の建物「松聲閣(しょうせいかく)」の改修が終わり、平成28年1月16日に開所式典が行われました。
その新聞記事を見ていて、近くへ行ったので、足を伸ばしました。
入り口へ行くと、「今熊本の工芸品を飾って、松聲閣の見学できますよ」というと声をかけられ、入ってみました。
松聲閣は木造2階建てで、のべ約500平方メートル。大正期の建造で、一時期は細川家の住まいとしても使われていたという、ということです。
松聲閣の部屋 (2)
江戸時代、この新江戸川公園あたりは武家地でした。幕末に細川越中守の下屋敷、抱え屋敷になり、明治15年(1882)からは細川家の本邸になりました。
その後昭和34年(1959)、都立公園として開園しますが、昭和50年(1975)4月、文京区に移管され、文京区立新江戸川公園となりました。
この公園の北隣りの台地上にある永青文庫は、細川邸の事務所でしたが、現在は美術館となっています。
なお、その北に現存する旧細川邸本館は、昭和10年建造の洋館で、東京都指定文化財であり、現在は和敬塾の本館となっています。
庭園は細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした回遊式泉水庭園です。素朴さの中に、江戸情緒が漂う回遊式泉水庭園です。
湧水を利用した流れは「鑓り水(やりみず)」の手法をとりいれて、岩場から芝生への細い流れとなり、その周辺に野草をあしらっています。
池はこの庭園の中心に位置し、広がりのある景観をつくりだし、池をはさんで背後の台地を山に見立てています。そのように目白台の地形の変化を巧みに利用し、名園と呼ぶにふさわしい景観を作り出しています。
「松聲閣」は、細川家の学問所でした。
部屋の一部です。
松聲閣の部屋 (1)
玩具という説明で飾られていました。
木三猿です。
3猿の玩具
羽子板です。
羽子板
2階の部屋から庭を眺めました。右手に梅が咲いています。真下に水琴窟があります。
部屋から見た御庭
部屋からお庭の池の向こうを見ました。(これは1階から)
新江戸川公園
庭に出て水琴窟を見ました。新しいものです。
水琴窟
そして庭から松聲閣を見ました。
庭から見た松聲閣
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「水 神秘のかたち」展

「水 神秘のかたち」展
サントリー美術館の「水 神秘のかたち」展を観ました。
絵画、彫刻などの<もの>だけでは観ることができない、精神性の展示。奥が深く、この企画、年頭を飾るにふさわしいものでした。
まず入ると、水流紋を施した銅鐸があります。銅鐸の水流紋の注目した視点にまず圧倒されます。
「水はその神秘性により、信仰の対象となった側面があります。流水文の銅鐸などは、水への切実な祈りが太古の昔からあったことを物語ります。」
「水」の水の神秘的な力を信じた歴史を観て、現代がそうした精神性を無くして、ただ節水、節水と唱えていることの貧しさを思いました。
井の頭公園に行った時、宇賀神の像を観て、すごく感動し、それ以来、弁天様と宇賀神には、注目しています。
今回、大阪・本山寺の秘仏「宇賀神像」を拝観でき、しばらくその場所から離れることができませんでした、
老翁の顔を持つ人頭蛇の宇賀神。 元々は日本の穀霊神でしたが、インドからやってきた水の神「弁才天」と合体(習合)し「宇賀弁才天」(宇賀神を戴く弁天さま)が誕生しました。
弁才天は、学問や音楽の神さまあるいは、商売の神様としてあがめられますが、元々は水の神さまです。
水の豊かな島国だから発展した精神性日本では自然崇拝と相まって水のもつ精神性が発展していった。
最後の締めにはサントリー美術館が集めに集めた「水関連美術」が「淡水系」のみならず『厳島三保松原図屏風』という「海水系」も。とにかく生きていくうえで欠くことの出来ない水をテーマにした展覧会。
古代から、島国であり、どちらかと言えば雨の国である日本は、元来かたちのない水に多くの「何か」を見出してきたのです。
今年も、「水」に目をやりたいと思いました。

東京国立博物館の1日

東京国立博物館へ特別展「始皇帝と大兵馬俑」 を見に行きました。
今から約2200年前に中国大陸に統一王朝を打ち立てた秦の始皇帝。その陵墓のほど近くに埋められた「兵馬俑」。中国で2回。日本でも来るたびに見ていますが、今回の展示は、現地を思い出すすばらしい展示でした。
東博 兵馬埇2
写真が撮れる、復元された兵馬埇です。
前には、射手。片膝を立てて、緊張した表情で前方を見ています。もともと右側には、弩弓を携えて攻撃命令を待っている姿勢と言われます。
東博 頼朝像
帰りに本館へ廻って、埴輪や仏像、干支の猿など見ました。
写真は、国の重要文化財「伝源頼朝坐像」です。
鎌倉鶴岡八幡宮に伝来したもので,江戸時代には源頼朝とされていました。
狩をする時の服装で烏帽子をいただくこの像のような姿は、武士の略式の正装です、頼朝歿後100年近く経過したころの作で同じ鎌倉にある建長寺の北条時頼像、明月院の上杉重房像と似ています。はたして頼朝か?
東博 椿
広場で、樹木の観察会をしていました。椿がきれいでした。
東博 わびすけ
こちらはベニワビスケという品種です。
東京国立博物館の外から「黒門」を見ました。
東博 黒門
この門はもともと旧丸の内大名小路(現丸の内3丁目)にあった鳥取藩池田家江戸上屋敷の正門でした。正式には「旧因州池田屋敷表門」と言います。
明治になって当時の東宮御所(現高松宮邸)の正門として移され、昭和22年(1942)大蔵省所管となり、さらに昭和28年(1953)に上野公園東京国立博物館構内に移築されました。左右に唐破風の番所を備え、国の重要文化財に指定されています。

イルカウォッチング

イルカウォッチングをしました。
看板 イルカ ウオッチング
イルカに会えるのは、天草の北に位置する天草五和町二江の沖です。
イルカ・ウオッチング 舟
漁船のような舟に、5.6人乗って、出航します。最初そんなに、見られないのではと思っていたのですが、たくさんのイルカが来ました。舟はそばまで行くのですが、怖がりません。飛び跳ねてくれます。
イルカ ウオッチング1
イルカ ウオッチング 3
でもどこかで、なんだかイルカを追い回している感じもします。
カメラを抱えていたのですが、写真はなかなかうまく撮れませんでした。
海豚参詣(いるかさんけい)が民俗学であります。
イルカ ウオッチング 2
イルカを漢字で書くと、「海豚」になるのですね。
海豚参詣とは、イルカが神社仏閣などの神仏に参詣するという日本の民話・伝承のことで、日本の各地に海豚参詣の伝承があります。
あいにく、この天草のものは見つかりませんでしたが、民俗学者の柳田國男は、『海上の道』の末尾に、『知りたいと思う事二、三』を書き残した中のひとつに「海豚参詣のこと」を記しています。
<この大きな動物の奇異なる群行動が、海に生を営む人々に注意せられ、また深い印象を与えたことは自然だが、その感激なり理解なりの、口碑(こうひ)や技芸の中に伝わったものに、偶然とは思われない東西の一致がある。それを日本の側において、できるだけ私は拾い集めようとしていたのである。或いは他の色々の魚群などにもあるかもしれぬが、毎年時を定めて廻遊してくるのを、海に臨んだ著名なる霊地に、参拝するものとする解説は、かなり弘く分布している。これも寄物(よりもの)の幾つかの信仰のように、海の彼方との心の行通いが、もとは常識であった名残ではないかどうか。>
柳田國男『海上の道』

また、折口信夫は「常世」(とこよ:海の彼方にある異世界)からやってくる「客人」(まれびと:この場合はイルカ)を通じて、共同体を再生させるというマレビト信仰が古くから日本にあったという論を出しています。
たくさんのイルカが、進んでいく様は、まさにそうしたイメージが確かなものと感じさせます。

熊本城 2

あと少し熊本城の写真を載せておきます。
大天守からの望んだお城と熊本の風景。
大天守閣から望む
本丸御殿から見た石垣の風景。
本丸から見た石垣
そして、
宇土櫓と天守閣

本丸北西端に建つ宇土櫓
熊本城の第三の天守、宇土櫓。宇土城の天守を移築したとも言われていますが、3層5階で最上階に高欄を持つ見事な櫓です。
そしてその櫓台の高さ、あわせて石組みの見事さ、そしてなにより焼失せず宇土櫓は創建当時の内部が残っています。
深い空堀もすてきです。
宇土櫓の下のお濠

熊本城の本丸御殿「昭君之間」

熊本城の本丸御殿は加藤清正によって創建され、行政の場、生活空間として利用されていましたが、明治10年の.西南戦争で焼失してしいました。
平成15年(2003)から復元工事がされ、大広間(対面所)、数寄屋(茶室)、大台所、そして「昭君之間」が創建時の姿を現しました。
若松之間
写真の手前は「若松之間」。藩主が家臣と対面しました。18畳。
開いた襖の奥が「昭君之間」です。下地に金箔を重ねて描かれた極彩色の障壁画が輝いています。床、棚、付書院を備え、障壁画には中国の故事「王昭君」の物語が描かれています。
「王昭君」は、中国の漢の時代のお話で、胡の国に送られた絶世の美女、王昭君の物語です。
昭君之間
この部屋には鶯張りの廊下や外へと通じる隠し通路があったともいわれ、豊臣家の有事に際し秀吉の子秀頼を密かに匿うために造られた部屋であったといわれています。
「昭君之間」の昭君は“しょうくん”はひらがなで書けば、将軍“しょうぐん”に繫がります。
熊本城を造った加藤清正は、秀頼に危機が迫った時は、この熊本城に秀頼を迎え入れ、徳川に背く覚悟があり、そのための部屋が「昭君の間」だったというのです。
大御台所の広間と天井部
また、昭君の間には抜け穴伝説もあります。
熊本城築城に携わった大工の棟梁善蔵(ぜんぞう)が語った「大工善蔵より聞覚控」という古文書が残されているそうで、それにも次のように記されているそうです。
「昭君の間のうしろに機密の間があつたこつも覚えとる。壁がめぐる仕掛けで、かべが一ちようきりつとめぐつと、ゆかの高さ六尺ばかりのところから、細かはしごで下におりつて、女の髪の毛でねりあはせたつなにすがつて下におり、それからつまるところはふじよう御門からあずき坂にでるやうになつておつた。」
熊本弁で書かれているのですが、つまり「昭君の間の後ろの壁が回り、床下の通路にはしごと縄で下りれば、そのまま門をくぐって城外へ出れるようになっていた」というわけです。
そうした、謎を秘めた昭君之間、とても輝かしい部屋ですがとても感動的です。
昭君之間の裏側には杉戸絵も展示されていました。
杉戸絵

熊本城の大イチョウ

熊本城は、別名、銀杏城(ぎんなんじょう)と言われますが、その「銀杏城」という名の由来になっているのは、本丸前に植えられたイチョウ(銀杏)の木からです。
本丸 とイチョウ
これは、篭城戦になった時の食料確保のため、築城時に加藤清正が直接このイチョウを植えたというi言い伝えがあります。
それは、加藤清正が朝鮮出兵での蔚山城籠城戦で食料不足に苦しんだ経験から来ているということですが、実は、この銀杏の木は雄の木で実がなりません。でもそういう噂がいまだにもっともらしく流れているは興味深いです。
また、加藤清正は「この銀杏の木が天守と同じ高さになった時にこの城で兵乱が起こるだろう」と言ったと言われます。
明治に入って、このイチョウの木は天守とほぼ同じ高さになっていましたが、明治10年に西南戦争が起こり、熊本の城下が戦場となりました。予言があたったということでしょうか。その西南戦争でイチョウは焼けて、今にその焼けたイチョウから芽が出たイチョウです。
熊野神社のイチョウ
(新宿区の天然記念物になっている幸国寺のイチョウも加藤清正が植えたという言い伝えがあり、とても興味を惹かれました)
なお、同様に篭城時の食料の確保に関しては、清正は城内の建物の土壁に干瓢(かんぴょう)を塗篭め、畳床には食用になる里芋茎を用いて備えていたと謂われています。
本丸とイチョウ
天守閣から見たイチョウです。

熊本城 1

熊本城へ行きました。
熊本城は、熊本市北区植木町の中心から南に伸びる舌状台地(京町台地)の尖端、茶臼山丘陵一帯に加藤清正によって築かれた平山城です。
加藤清正は、天正16年(1588)に、優れた土木・築城技術を発揮してほぼ現在の形を完成させました。
城郭周囲は5.3kmにおよび、面積は98万㎡。象徴の連立式大天守閣、小天守閣ほか、多数の櫓、櫓門、城門を備えた堂々たる城です。
加藤家の改易後、細川家が入封して約240年にわたって存続しましたが、西南戦争(明治10年)の際に残念ながら天守閣等が焼失してしまいました。
しかし、宇土櫓ほかの往時の櫓も残り、昭和35年(1960)には天守閣が復元され、平成20年(2008)には本丸御殿が落成され、今に至っています。
大天守と小天守
小天守と大天守
天守は、連結式望楼型、大天守は3重6階地下1階、「一の天守」とも呼ばれます。
小天守は3重4階地下1階、「二の天守」とも呼ばれ、「御上(おうえ)」という夫人のための建物です。
大天守は、一般に5重の天守として見られているが、2重目にあたる部分と4重にあたる部分のものは屋根ではなく庇とするので、正確には3重6階地下1階の天守です。
石垣
石垣は魅力的
熊本城の石垣は、加藤清正が近江国から率いてきた特殊技術を持つ石工集団、「穴太衆(あのうしゅう)」よって作られました。
大天守の石垣
熊本城の石垣は、地面付近は勾配がゆるく上に行くにしたがって勾配がきつくなる独特なもので、武者返し(むしゃがえし)や「清正流石組」などと呼ばれています。石垣の下の方は30度程度とかなり緩やかですが、上の方はほぼ垂直に近い絶壁になってます。
焼け跡の残る石垣
また、西南戦争で焼けて、その傷跡のある石垣もありました。
井戸
井戸と小天守
清正は水においても設計は手堅いものでした。朝鮮出兵における蔚山城籠城戦で、特に水で苦労したことから、城内に120箇所の井戸を掘り、籠城に備えています。どの井戸も規模が大きくて深く、しかも水量が豊かでした。
これらは江戸時代を通じ、そして西南戦争で官軍が籠城した際にも使われ、官軍の勝因の一つとなりました。

熊本県阿蘇市にある神社「阿蘇神社」

熊本へ行き、阿蘇山の麓をバスで走りました。
「阿蘇山」はひとつの山となんとなく思っていたのですが、阿蘇カルデラ内にあって活動を続ける中岳を中心とした広大な火山群全体を指していました。カルデラとは火口よりも大きな火山性の陥没地形のことを言います。
阿蘇カルデラは、南北25キロメートル、東西18キロメートルという大きな楕円形をしており、世界でも有数のカルデラといわれています。
そして、周辺に広がる外輪山山麓には森林がなく、はげ山のように土色だったのにすごく驚きでした。
目的地は阿蘇神社(あそじんじゃ)参拝でした。
正月の4日でしたが、参拝の車で、大渋滞。着いたらもう4時を過ぎていて写真がうまく撮れませんでした。
楼門
阿蘇神社は、式内社、肥後国一宮で、全国に約450社ある「阿蘇神社」の総本社です。
阿蘇神社のはじまりは紀元前282年です。
第七代孝霊天皇のころ。燃え盛る阿蘇山の開拓のために使わされた「健磐龍命(たけいわつのみこと)」を主神として、お妃の阿蘇都媛命(あそつひめのみこと)阿蘇初代国造の国造速瓶玉命(くにのみやつこはやみかたまのみこと)を含む十二神を奉り祀ったものです。
古代からの有力氏族である阿蘇氏が現在も大宮司を務め、現在の大宮司は阿蘇さんです。
阿蘇神社は、全国的にも珍しい横参道です。
「十二脚唐門様式」楼門
東向きに還御門、楼門、御幸門があり、境内には社殿が3棟あります。「日本三大楼門」に数えられる楼門は、高さが18mあり、神社では珍しい仏閣の様式で建てられた二層楼山門式です。
境内には願いごとを叶えてくれる「願かけの石」や縁結びにご利益がある「高砂の松」があります。
願かけ石
願掛け石 は 古代より神石として伝承保存されています。石を3回なでてから、願い事を唱えると願いが叶うということです。
縁結びの松
縁結びの松は、謡曲「高砂の松」に因んだ松です。男性は左から2回、女性は右から2回まわるとご利益があるとされます。
また、阿蘇神社の楼門前には神の泉という清水がつねに湧き出ています。
神の泉
不老長寿の御神水として街の人々に大切にされています。
横参道
すごく印象に残っているのは、阿蘇の伝説や神話です。
例えば、「阿蘇創造」の神話は、カルデラの湖の水が流れて豊穣の大地になったという歴史が、「健磐龍命(たけいわたつのみこと)」という神への信仰とともに語りつがれています。
●阿蘇創造
むかしむかし、阿蘇の火口原は満々と水をたたえた湖沼であった。日向の地から川伝いにのぼってきた健磐龍命は、これを干して稲の実る豊かな国をつくろうと考えた。外輪山の一番低いところを蹴ってみたが、頑固な上、峠が二つもあって容易にはこわれなかった。そこでその隣の立野を蹴った。すると、今度はすぐ
に壁が壊れ、水が流れ出た。湖の後には、みずみずしい大地ができた。
▼この神話の中で、健磐龍命がなかなか蹴破れなかった壁が「二重峠(ふたえのとうげ)」、蹴破って水が流れ出たところが、現在の「立野火口瀬(たてのかこうせ)」にあたるとされています。
●健磐龍命(たけいわたつのみこと)
阿蘇大明神とも呼ばれ、古くは、火口壁に立つ巨岩が神格化したものとされていましたが、次第に火・水・風の要素などが加わり、農耕神としての性格を強くしていきました。
阿蘇都媛命(あそつひめのみこと)と結婚し、阿蘇を開発したと伝わります。
阿蘇神社では、火振神事(ひふりしんじ)で有名な田つくり祭や、御田祭(おんだまつり)など農業に関わる行事が今でも毎年行われています。
空に飛行機雲が長く伸びていました。
飛行機雲

ユリカモメ 都鳥

不忍池にたくさんの都鳥
上野の不忍池に白っぽい鳥がたくさんいました。伊勢物語に出てくる都鳥、ユリカモメだと思いました。
ユリカモメの特徴は赤い嘴と足です。冬羽は全体に白っぽいですが、変はグレーっぽいです、夏羽では頭部が黒い頭巾をかぶったようになるということです。
 名にしおわば いざ事問はむ 都鳥 わが想う人は 在りや亡しやと(伊勢物語 第九段)
都(京都)という名を負っている鳥だから聞いて見よう、都鳥よ「私の妻は都で健在でいるだろうか」
伊勢物語では「都鳥」のことを「白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。」とあります、大きさや体の特徴、水面を泳ぎながら魚を食べている事などによって、この都鳥はユリカモメと推定されています。
そして、都鳥=都の鳥ということで、が昭和40年(1965)、ユリカモメは東京都の鳥に指定されました。
不忍池 都鳥
ところが、ミヤコドリという鳥はいるのですね。正式な種名が、カモメ科でなくミヤコドリ科の鳥です。
体の模様は白黒のツートンカラーが基本で、全身が真っ黒な種もいまるようです。日本にはカムチャッカ半島などから越冬のためにやってきます。
英名は「Oystercatcher」といい、その名の通りカキ(Oyster)などの二枚貝に、長くて薄い嘴を差し込み、嘴の先で貝柱を切り裂いて身を食べます。嘴は殻を叩いて割り、岩場に貼りついた貝をそぎ落とすためにとても丈夫です。
昔は全国に冬鳥として渡来していたと考えられていますが、今では定期的に群れが越冬にくる以外はとても稀な冬鳥ということです。
ユリカモメは、いまは京都の鴨川に沢山群れていますが、それはわりと最近にことだということで、奈良、平安のころには、ユリカモメは京都にはいなかったようです。
そうなると、なんだかややこしいですが、このユリカモメが、伊勢物語の「都鳥」といて覚えておこうと思います。

谷中七福神めぐり

七つの幸福を授かり、七つの災いを避けるという七福神めぐりは江戸時代にはやった風習だと言われますが、今も大変な賑わいです。
今回も、「谷中七福神めぐり」お参りするのに、どこも長蛇の列。15分から30分ぐらい待たなくてはお参りできませんでした。全行程、予定では2時間ぐらいのつもりだったのですが、3時間半かかりました。もっとも、少し横道に逸れましたが。
「七福神めぐり」は全国に数多くあり、京都の「都七福神」が日本で最古と思い数年前お参りに行きました。
でも、七福神めぐりの元祖はここ「谷中七福神めぐり」ということです、
その元祖たる由縁として、東叡山寛永寺をお開きになった天海僧正のお話があります。
<天海僧正の若かりし徳川家康公にお会いになり、天下を治める吉相と見抜かれ、のちに、経典仁王経の七難即滅、七福即生の文に基づいて、「公は長寿、富財、人望、正直、愛敬、威光、大量の七徳を備えたまい、困難な天下統一の大業を果たされ、平和な国土を築かれた。これは七福神の七つの徳全てを兼ね備えたものというべきである」と申し上げた。 家康公これを聞いて、大いに喜び、早速狩野探幽を召して七福神の画を描かせ、これが人々に崇敬されたという。>というお話です。
寛永寺は江戸城から見て鬼門(北東)の方向にあり、都市江戸を防衛するため、徳川家の菩提寺として「寛永寺」が配されました。そしてその裏手を固めるため、その子院が順次、立地していったわけです。
ところで、谷中とは、東はJR山手線、北は日暮里、道灌山通り、西は根津・千駄木、不忍通り、南は上野公園に囲まれた地域をさします。
上に延べたいきさつから「谷中七福神」巡りは、偲ばすの池弁天堂がスタート地点となっています。
しかし、今回は、田端から歩きました。
田端から。
1)東覚寺。
福禄寿
福禄寿(ご利益は人望と言われ、福と身分を示す禄と長寿を備えた長い頭で白ひげの神)を祭る。
2)青雲寺
恵比寿
恵比寿(ご利益は正直と言われ、釣竿と鯛を持つ漁業、航海の神。「釣りして網せず」といわれ、欲張らない清い心=正直を意味し、商売繁盛の神ともされる。)を祭る。
3)修性院
布袋様
布袋尊(ほていそん・・ご利益は大量「大いなる寛大な心」と言われ、大きな袋を持ち、いつも笑っている福徳の神)を祭る 。
4)長安寺
寿老人
寿老人(ご利益は長寿、知恵を授けてくれる神とも。お供に長寿の象徴と言われる鹿を連れ、難を払う団扇をもつ神)を祭る。
5)天王寺
毘沙門天
毘沙門天(ご利益は威光、元はヒンズー教の財宝の神で、仏に帰依し、仏教を守護する最強の守護神。武神、上杉信玄が本尊としたことで知られ、知恵の神とも。甲冑に身を固め右手に槍をもち、左手に宝塔を持つ)を祭る。
6)護国院
大黒天
大黒天(ご利益は富財、豊作を約束する農業の神、元はヒンズー教戦闘の神シバ神の化身と言われ、仏教寺院を守り、信者に穀類を供給する神として見られるようになり、大黒頭巾をかぶり、打手の小鎚をもち、大きな袋を肩にかけ、米俵に乗る五穀豊穣・財産・台所の神となる)を祭る
7)不忍池弁天堂
弁財天2
弁財天(ご利益は愛敬、七福神の中で唯一の女神、財産の神、音楽や芸能の神でもある。元はヒンズー教の河川の神=水の神、音楽の神とされ琵琶を弾く姿は妖艶ともいえる)を祭る上野公園の

そして、「酒悦」で福神漬を買って帰りました。
「福神漬」は「谷中の七福神」に由来しています。江戸時代創業の上野にある「酒悦」の野田清右衛門が大根、茄子、なた豆、蓮根、瓜、紫蘇、蕪の7種類の野菜を刻んで漬けて作りました。
野田清右衛門の碑が浄光寺にあります。
酒悦 福神漬の発見者の碑

新年明けましておめでとうございます。

年が明けました。今年も良い年でありますように。
谷中に行ってきました。谷中の正月風景で、新年のご挨拶です。
本行寺 山門
日暮里駅近くのゆるやかな御殿坂を登ると、長久山本行寺。今年行ってとても好きになったお寺です。一茶の句もあります。
諏方神社拝殿
谷中の総鎮守「諏方神社」。富士見坂を登ったらすぐです。大晦日の干支の灯籠をともしてすてきだと聞いています。その灯籠が残っています。今年は申年です。
谷中の諏訪神社_edited-1
実は谷中七福神巡りをしてきました。谷中七福神は、東京都台東区・荒川区・北区の7寺院に祀られている七福神で、最も古い歴史があります。
不忍池弁天堂
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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