「皇居乾通りの秋の一般公開」2
「皇居乾通りの秋の一般公開」。乾通りから右手を見ると、蓮池濠と見事な石垣です。

富士見多聞 。

「多聞」とは、防御を兼ねて石垣の上に設けられた長屋造りの倉庫のことで、多聞長屋とも呼ばれました。鉄砲や弓矢が納められ、戦時には格子窓を開けて狙い撃つことができました。本丸の周囲は、櫓(やぐら)と多聞で囲まれて万一に備えられていました。丸には十五棟の多聞が有りましたが、現在残っているのは、この富士見多聞だけです。
蓮池濠から富士見多門までの石垣は、高さが約20メートルにもなる長大な石垣で、東・南・西の三面いずれも激しく屈折しています。石垣下と石垣塁壁に取り着いた敵を攻撃する際、死角をなくすための工夫だといわれています。
紅葉山の麓にある塀と門。

こちらは「局門」。

下道灌濠です、大田道灌による最初の濠です。太田道灌の名前が付いた濠は、上・中・下の3つあるようです、

道灌濠の後ろは、紅葉山を控えています。

西桔橋(にしはねばし)
内濠(乾濠・蓮池濠)に架かる土橋で、皇居と皇居東御苑を結んでいます。江戸時代は、本丸大奥と吹上の通路になっていて、西桔橋門がありました。現在は石垣の一部が残っているだけです
乾濠。江戸城乾門の東側にある。濠の向こうは一橋・神田方面。

まっすぐ行くと乾門です。
皇居乾通り一般公開のコースは、皇居南側の「坂下門」から入り、宮内庁庁舎前を通って北側の「乾門」までの約750メートルを一方通行で通り抜けます。
途中の西桔橋を渡って皇居東御苑にも抜けることもできます。

富士見多聞 。

「多聞」とは、防御を兼ねて石垣の上に設けられた長屋造りの倉庫のことで、多聞長屋とも呼ばれました。鉄砲や弓矢が納められ、戦時には格子窓を開けて狙い撃つことができました。本丸の周囲は、櫓(やぐら)と多聞で囲まれて万一に備えられていました。丸には十五棟の多聞が有りましたが、現在残っているのは、この富士見多聞だけです。
蓮池濠から富士見多門までの石垣は、高さが約20メートルにもなる長大な石垣で、東・南・西の三面いずれも激しく屈折しています。石垣下と石垣塁壁に取り着いた敵を攻撃する際、死角をなくすための工夫だといわれています。
紅葉山の麓にある塀と門。

こちらは「局門」。

下道灌濠です、大田道灌による最初の濠です。太田道灌の名前が付いた濠は、上・中・下の3つあるようです、

道灌濠の後ろは、紅葉山を控えています。

西桔橋(にしはねばし)
内濠(乾濠・蓮池濠)に架かる土橋で、皇居と皇居東御苑を結んでいます。江戸時代は、本丸大奥と吹上の通路になっていて、西桔橋門がありました。現在は石垣の一部が残っているだけです

乾濠。江戸城乾門の東側にある。濠の向こうは一橋・神田方面。

まっすぐ行くと乾門です。

皇居乾通り一般公開のコースは、皇居南側の「坂下門」から入り、宮内庁庁舎前を通って北側の「乾門」までの約750メートルを一方通行で通り抜けます。
途中の西桔橋を渡って皇居東御苑にも抜けることもできます。
「皇居乾通りの秋の一般公開」 1
12月5日から始まった「皇居乾通りの秋の一般公開」に行きました。
乾通りの並木道の両側には、モミジ類計59本が植えられていて、皇居の紅葉を楽しむことができます。
皇居に近づくと、警視庁の乗馬警官が乗馬して警備していました。

こちらにも乗馬警官。向こうに見えるのは辰巳櫓。

皇居南側の「坂下門」から入り、宮内庁庁舎前を通って北側の「乾門」までの約750メートルを一方通行で通り抜けます。

乾通りに入ると、一気に彩りが増します

富士見櫓(ふじみやぐら)が見えます。現存の三重櫓は、万治2年(1659)の再建で、江戸城本丸の遺構として貴重な存在といわれています。

こちらが、宮内庁。

「皇居乾通りの秋の一般公開」は続きます。
乾通りの並木道の両側には、モミジ類計59本が植えられていて、皇居の紅葉を楽しむことができます。
皇居に近づくと、警視庁の乗馬警官が乗馬して警備していました。

こちらにも乗馬警官。向こうに見えるのは辰巳櫓。

皇居南側の「坂下門」から入り、宮内庁庁舎前を通って北側の「乾門」までの約750メートルを一方通行で通り抜けます。

乾通りに入ると、一気に彩りが増します

富士見櫓(ふじみやぐら)が見えます。現存の三重櫓は、万治2年(1659)の再建で、江戸城本丸の遺構として貴重な存在といわれています。

こちらが、宮内庁。

「皇居乾通りの秋の一般公開」は続きます。
春日部駅西口の「秋葉神社の夫婦松」
春日部駅を出て、タクシー乗り場へ急いだとき、「夫婦松」という碑が目に入り、,写真を撮りました。2本のイチョウの木があったので、それが夫婦かと思ったので、2本の木を入れて写真を撮りました、
家で調べると、『秋葉神社の夫婦松」という松とイチョウがひっついている木のことでした。
こんな風に出ていました。
「イチョウとマツの根元が一緒で、地上1メートルの所で分岐する珍しい樹木です。昔はこの場所に秋葉神社があり、神社の御神木でしたが、現在は夫婦松だけがこの場に取り残されています。」
もっとしっかり見て、写真を撮れば良かったのです。松がしっかり撮れていません。やっと、少し松の幹が見えるだけです。
確かにひっついています。今はイチョウが勝っていました。残念ですが、珍しいので載せておきます。

碑の写真の右に松が少し見えます。

『秋葉神社の夫婦松
天然記念物 昭和63年7月25日 市指定
秋葉信仰は、江戸時代の中頃、三河(現在の愛知県)の秋葉三尺坊という修験者が呪術により火災の厄を払ったことに始まり、その後、全国的な流行となったものといわれ、秋葉社は火防の神として現在でも多くの信仰を集めています。
この秋葉神社は、江戸時代に粕壁宿の名主多田次郎兵衛が個人的に祠を建てて祀ったものといわれていますが、東武鉄道の敷設により敷地が分断され、後に区画整理によって、神社は春日部駅南側の地下道横に移転し、神木としてのイチョウだけがそのままの姿で残されたものです。
このイチョウのうち南側の1本は、松が根元で一緒になっており、地上1メートルほどの所からそれぞれ分岐し別々の木となっています。その姿の珍しいことから、秋葉神社の夫婦松とも呼ばれ親しまれています。
この夫婦松は、形姿上、植物学上貴重であり、昭和63年7月25日春日部市指定天然記念物に指定されました。
平成元年3月 春日部市教育委員会 春日部市文化財調査委員会』
家で調べると、『秋葉神社の夫婦松」という松とイチョウがひっついている木のことでした。
こんな風に出ていました。
「イチョウとマツの根元が一緒で、地上1メートルの所で分岐する珍しい樹木です。昔はこの場所に秋葉神社があり、神社の御神木でしたが、現在は夫婦松だけがこの場に取り残されています。」
もっとしっかり見て、写真を撮れば良かったのです。松がしっかり撮れていません。やっと、少し松の幹が見えるだけです。
確かにひっついています。今はイチョウが勝っていました。残念ですが、珍しいので載せておきます。

碑の写真の右に松が少し見えます。

『秋葉神社の夫婦松
天然記念物 昭和63年7月25日 市指定
秋葉信仰は、江戸時代の中頃、三河(現在の愛知県)の秋葉三尺坊という修験者が呪術により火災の厄を払ったことに始まり、その後、全国的な流行となったものといわれ、秋葉社は火防の神として現在でも多くの信仰を集めています。
この秋葉神社は、江戸時代に粕壁宿の名主多田次郎兵衛が個人的に祠を建てて祀ったものといわれていますが、東武鉄道の敷設により敷地が分断され、後に区画整理によって、神社は春日部駅南側の地下道横に移転し、神木としてのイチョウだけがそのままの姿で残されたものです。
このイチョウのうち南側の1本は、松が根元で一緒になっており、地上1メートルほどの所からそれぞれ分岐し別々の木となっています。その姿の珍しいことから、秋葉神社の夫婦松とも呼ばれ親しまれています。
この夫婦松は、形姿上、植物学上貴重であり、昭和63年7月25日春日部市指定天然記念物に指定されました。
平成元年3月 春日部市教育委員会 春日部市文化財調査委員会』