井の頭街道の碑

甲州街道と井の頭通りが交差する松原交差点の角に立つ和泉給水所に碑が建っています。その碑には、「井の頭街道」と書かれ、「文麿」の落款があります。荻窪に住んでいた近衛文麿が議会へ通うのに利用していた水道道路に、「井の頭街道」の名前を付けたようです。

ちなみに、この碑は、昭和13年(1938)10月に府会議員吉野豊次郎の寄付により杉並区が建てたものです。現在、この道は、「井の頭街道」とは言わないで、「井の頭通り」と呼ばれています。
和泉給水所のそばには、まだ、「水道横丁」というバス停もあります。
杉並風土記によると、「大正13年に境浄水場から、世田谷区松原に有る和田堀給水場まで約10.7キロの間に、直径1.9メートルの送水管が施設され、次いで、昭和8年に第二送水管、同34年に東村山浄水場と朝霞浄水場から第三送水管が施設され、城西地区の水道の大動脈となった」とあります。
つまりは、境浄水場から和田堀給水所までの間に水道管を敷設するための施設用地、つまり交通には使わなかった道を交通道路に転用したために、以前は水道道路と呼ばれていたところが、後に近衛文麿元首相によって「井の頭街道」と命名され、その後東京都によって井ノ頭通りと改められた、ということです。
最近まち歩きが重なって、時間余裕を無くしていて、このブログも休みがちですが、実は、この前、下落合を歩きました。その下落合一帯は、明治から大正にかけて、広大な近衛邸敷地があった所です。しかし、文麿の父、篤麿が莫大な借金を残して伝染病で死んでしまったため、近衛文麿は大正11年ごろから、下落合の広大な近衛邸敷地を売りに出し、昭和13年ごろ、荻窪の「荻外荘(てきがいそう)に移り住んでいます。つまり、そのことで、荻窪の家から車で議会に通う道として、それまで、車を通していなかった水道道路を、「井の頭街道」と命名して、車の通れる道路にしたようです。
いろいろ歩いていると、どこかで繫がってくるものです。
前回の「ウィリアム・メレル・ヴォーリズ」も、若葉町から下落合に繫がりました。今回、近衛文麿で、「下落合散策」と「水道道路を歩く」が繫がりました。
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