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学習院大学の「血洗いの池」

「血洗いの池」と聞いて、驚きました。しかも学習院大学の構内にある池だということで。
下落合の湧水について、少し調べていたら、学習院大学には湧水があり、「血洗いの池」
となっているというではないですか。
知らなかったので、早速行ってみました。
血洗の池
目白駅を下りて、学習院大学の西門を入り、構内の案内図を見て行きました。
たくさん学生がいるのに、「血洗いの池」の回りにはだれもいませんでした。
血洗いの池の橋
池には木橋が架かり、池畔をめぐる散策路にはかなり古い木製のベンチが各所に設置されていました。静かで、まったく人影はありません、水はさほどきれいではないですが、鯉が泳いでいました。
この「血洗いの池」という物騒な名前ですが、堀部安兵衛が高田馬場の決闘で、刀についた血をこの池で洗い流したことに由来するということになっていますが、これは大正時代に学習院高等科の文学青年たちが創作した話で、それが先輩から後輩へと受け継がれ、いつしか池の名前に定着したということです。
参拝から後輩へ、物騒な名前のまま引き継がれて行った、なかなかロマンがあります。
学習院大学の案内には次のようにあります。
<「血洗いの池」と呼ばれる池がある。元は湧水でできた用水池で、江戸時代には灌漑に使われており、水門・水路があった。学習院の構内になった後、赤穂浪士の1人堀部武庸が「高田馬場の決闘」において叔父の仇を討った血刀をこの池で洗ったという伝説が語られるようになった。この伝説は大正時代の学習院高等科生徒による創作で全く根拠はなく、史実ではないが、いつしかこの池を「血洗いの池」と呼ぶようになった。
これは何だ
「血洗いの池」は魚類やザリガニ・水生昆虫・水生植物等を保護するため自然のままに任せていたが、湧水の枯渇と雨水泥水流入等による水質汚濁や、護岸の崩れ等による周辺環境の悪化を改善するため、2001年に池の浚渫・護岸の整備・水質浄化装置の設置・植栽改善・電灯設置・木製八つ橋の架橋など整備工事が行われた。>
この案内によると、現在湧水はなくなってしまったようです。では、この池の水はなんなのでしょう。いくらかは、水が湧いているのではないかなと思います。
わき出ていないかな
おとめ山公園の池はまだ湧水が健在です。しかし水はそれほどきれいとは言えません。
ここもまだあるはずと、そういう思いで見て回ると、池の南東端付近の斜面からはちょろちょろと水が湧き出ているように見えました。
でも、まったく人が来ませんでした。人が来ない「血洗いの池」、少し不気味です。
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新宿御苑の樹木

日本樹木医会剪定の「健康優良樹」を見てみようと思い、新宿御苑に行って見ました。
新宿御苑 ユリノキ3本立て
広い御苑でひと際目立つ3本立ちのユリノキは、まさに、御苑のシンボルツリーです。
明治9年(1876年)に海外から輸入し植えられました。
全国のユリノキの母樹と言われ、街路樹でみられるユリノキの出身は新宿御苑です。
目通り幹周り4.5m 樹高34m 樹齢134年
ぐるっと3本立ちのユリノキの回りを見たのですが、「健康優良樹」の札はありませんでした。
新宿御苑のモミジバスズカケノキ
次は、新宿門の近くの モミジバスズカケノキ(プラタナス)です。
プラタナスの木も明治の初めに海外から移植され、研究開発た後に街路樹として送り出されて都市を緑で満たしてきました。
巨木:目通り幹周り6.6m 樹高11.5m 樹齢100年とあります。
樹齢はもっといっているのではと思うのですが。幹は本当に力強いです。
御苑 モミジバスズカケノキ
よく見ると実がなっていました。果実が、山伏が着る法衣「篠懸(すずかけ)」に付いている房に似ている、また、鈴がぶら下がっているように見えることなどから、「スズカケノキ」とも呼ばれます。
プラタナスの実
こちらにも。札はありませんでした。

そこから、有名な新宿御苑のラクウショウ(落羽松)を見にまわりました。
ラクウショウと気根
原産地を北アメリカ東南部からメキシコの湿地や沼地に生える木で和名は“松”ですが、スギ科。別名を「ヌマスギ」とも言います
根元の周囲に気根と呼ばれる呼吸根がタケノコのようにニョキニョキと・・・。なんだか仏像のようにも見えました。新宿御苑でも小川が流れる湿地に生え、根が呼吸するために根元から気根が地上にタケノコのように何本も伸びています。
この木のもう一つの特徴は、側枝に羽根状に生えた葉が秋にその枝ごと落葉することです。これが和名「落羽松」の由来です。
新宿御苑ではこの木の種子を明治初期に輸入したそうです。
ぐるっと回って、旧御凉亭から池を眺めめました。空とまわりの緑が池にはまっていました。
御苑の池の風景

「健康優良樹」

四ッ谷見附公園
「四谷見附公園」のプラタナス(モミジバスズカケ)に、「健康優良樹」の札がありました。
健康優良樹
かつて、「健康優良児」という制度がありましたが、それをもじったような「健康優良樹」、日本樹木医会の認定です。
その内容は、HPに次のようにありました。
「健康優良樹」とは、主として外観的な判断基準により、各地域に生育している代表的な優れた樹木を、所有者のご了解のもとに樹木医が推薦し、本会が最終審査を行って選定するというものです。この健康優良樹は、地域における樹木愛護、環境緑化等のための普及活動、観察会等に活用し、あわせて樹木医が樹木診断・治療を行うに当たっての指標木として観察や保全活動を予防医学的視点にたって続けていくこととしております。
平成21年度に選定したものは1件でした。別表(PDFファイル)のとおりお知らせします。

四ッ谷見附公園のプラタナス
東京都には新宿区区に3本ありました。モミジバスズカケが2本とユリノキ(3本立)です。ユリノキは3本だから、新宿御苑のシンボル的存在の樹ですね。もう1本のモミジバスズカケ、これも新宿御苑だと思います。
ちなみに、「四谷見附公園」のプラタナスは、この健康優良樹の認定によると、受高28m 幹周6.03mです。

芥川龍之介の『本所両国』

回向院を出て、駅側の国道14号線「京葉道路」を右に行き、バス停の少し先に「芥川龍之介生育の地」の案内があります。
芥川龍之介は、明治25年(1892)3月1日、東京市京橋区入船町8丁目1番地(中央区明石町)に牛乳搾取販売業耕牧舎を営む新原敏三・ふくの長男として生まれました。辰年、辰の刻に生まれたので龍之介と命名されたといわれます。生後7ヶ月で、当時本所区小泉町15番地(両国3丁目)に住んでいたふくの長兄、芥川道章に引き取られ13歳の時、芥川家の養子となりました。
そして、明治43年(1910)19歳で内藤新宿(新宿2丁目)に移転するまで、この両国に暮らしました。
芥川龍之介の生育地
芥川龍之介の『本所両国』という作品に「回向院」のことが書かれていて、鼠小僧の墓も出て来ます。
『本所両国』回向院 初出 昭和2年6月:「東京日日新聞」とありますから 関東大震災後の風景のようです。
「 今日の回向院はバラックである。如何に金の紋を打った亜鉛葺あえんぶきの屋根は反っていても、ガラス戸を立てた本堂はバラックという外は仕かたはない。僕等は読経の声を聞きながら、やはり僕には昔馴染みの鼠小僧の墓を見物に行った。墓の前には今日でも乞食が三、四人集まっていた。がそんなことはどうでもよい。それよりも僕を驚かしたのは膃肭獣(おっとせい)供養塔というものの立っていたことである。僕はぼんやりこの石碑を見上げ、何かその奥の鼠小僧の墓に同情しない訳には行かなかった。
 鼠小僧治郎太夫の墓は建札も示している通り、震災の火事にもほろびなかった。赤い提灯ちょうちんや蝋燭ろうそくや教覚速善居士の額も大体昔の通りである。尤もっとも今は墓の石を欠かれない用心のしてあるばかりではない。墓の前の柱にちゃんと「御用のおかたはお守り石をさし上げます」と書いた、小さい紙札もはりつけてある。僕等はこの墓を後にし、今度は又墓地の奥に――国技館の後ろにある京伝の墓を尋ねて行った。
 この墓地も僕にはなつかしかった。僕は僕の友だちと一しょに度たびいたずらに石塔を倒し、寺男や坊さんに追いかけられたものである。尤もっとも昔は樹木も茂り、一口に墓地というよりも卵塔場という気のしたものだった。が、今は墓石は勿論、墓をめぐった鉄柵にもすさまじい火の痕あとは残っている。僕は「水子塚」の前を曲り、京伝の墓の前へたどり着いた。京伝の墓も京山の墓と一しょにやはり昔に変っていない。ただそれ等の墓の前に柿か何かの若木が一本、ひょろりと枝をのばしたまま、若葉を開いているのは哀れだった。」

膃肭獣(おっとせい)供養塔は、鼠小僧の墓の真向かいにあります。膃肭獣はちょっと読めないです。膃肭獣が見世物になっていたとか言われています。
回向院の膃肭臍供養
ブラタモリで、この膃肭獣供養塔が紹介され、訪ねて来る人が多くなったようです。
京伝の墓
京伝、京山の墓はこれです。(柿の木はなかったと思います)
山東京伝。実名は墓に彫られているように、岩瀬醒(いわせ・さむる)です。江戸深川の質屋に生まれました。
京伝の職業は、浮世絵師、そして黄表紙作者であり、狂歌師、作詞家、洒落本作者、合巻(ごうかん)作者、読本(よみほん))作家、考証学者でした。多才です。32歳からは、京橋に店を構える喫煙具商でもありました。
山東京山は、京伝の弟で、岩瀬 百樹(いわせ ももき)が本妙です。やはり戯作者として活躍しました。

回向院の中の墓あ供養塔

回向院の墓
回向院の中の墓と供養塔をいくつか見ておきます。
◆「石造明暦大火横死者等供養塔」
石造明暦大火横死者等供養塔
明暦3年(1657)1月、江戸市中の繁華街を焼いた有名な明暦の大火による焼死者・溺死者をはじめとして、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者その他の横死者に対する供養のために造立されたものです。
もとは、回向院、三仏堂の前に立てられ、堂舎の位置がその後移転したにもかかわらず、この供養塔の位置はほとんど動いていないそうです。
総高3.05メートル、延宝3年(1675)頃建立されました。
◆「勢州白子三州高濱船溺死一切精霊」
「勢州白子三州高濱船溺死一切精霊」 1
白子・高浜の犠牲者7名を供養するため、寛政元年(1789)三河平坂の施主が建立した帆掛船形の碑です。
帆の正面には犠牲者7名の戒名と俗名が、帆の裏面には白子の大黒屋光太夫と高浜の弥兵衛船の死者が一切精霊としてあわせて供養されています。
「勢州白子三州高濱船溺死一切精霊」 舟形
大黒屋光太夫
大黒屋光太夫は有名です。ロシアに漂流して生きて買ってきました。
簿風にあって漂流したのが店名2年(1782)12月です。紀州藩の回米などを積んで伊勢湾白子港から船出し、駿河湾の沖にさしかかった時に暴風雨に出会いました。そして8ヶ月後に、アレウト列島のアムチカ島に漂着します。
そして、その4年後,カムチャツカ半島に渡り,のち帰国を願ってシベリアを西行し,1791年、首都ペテルブルグに行き,女帝エカテリーナ2世 (大帝) に謁見,寛政4 (1792) 年遣日使節 A.ラクスマンに連れられて帰国し,将軍家斉に謁見します。この碑を建てた時点では、亡くなったものと思い、名前が刻まれたのでしょう。
◆鼠小僧供養碑(鼠小僧の墓)
鼠小僧供養碑
回向院の墓碑の中でもひときわ立派な線香立てや賽銭箱を設置しているのが鼠小僧の墓です。
鼠小僧は、江戸時代後期に実在した盗賊で、武家屋敷ばかりをねらい、貧しい庶民の家には押し入らなかったことから義賊として歌舞伎や小説で取り上げられました。本当は、武家屋敷の方が泥棒に入りやすかったのですが。
鼠小僧を演じる役者たちは千住小塚原の刑場にお参りにいくには遠いため、刑場に建つ回向院別院の本寺である両国回向院の境内に供養碑を建てて霊を弔いました。明治時代に鼠小僧役を演じた役者が碑と供養料を寄付したとの記録があります。
手前の小さな石碑は「欠き石」と呼ばれ、鼠小僧の墓石を欠いて持つと、金回りが良くなるなどといわれたため、多くの人に本体を欠かれないように置かれたものです
◆猫塚
猫塚
鼠小僧次郎吉の墓の側に小さい三つの墓(塚)が縦に並んでいます。石の表面に彫られた文字がはげ落ちて判読は出来ず、どこにも猫塚の表記はありませんが、これが猫塚です。過去には「価善畜子」と彫られていたという。塚の台座に「木?由之助」とだけ読めます。
寺の言い伝えによると、「文化年間、日本橋に住んでいた時田半治郎が貧乏で困っている時に、飼い猫が小判をくわえて来た。以来、時田家の家運は隆盛に向かい、これを徳とした時田家の者が猫の死後に建てたのがこの猫塚」と言われる ようになったとあります。
◆水子塚
瑞子塚
陽の目をみずに葬られた水子の霊を供養するため寛政五年(1793)、時の老中松平定信の命によって造立されたもので、水子供養の発祥とされています。江戸市民に知られていたこの矩形の板石の塔は、正面に小作りながら端正なお顔の地蔵菩薩坐像が浮彫りされ、その下に「水子塚」という大字が刻まれています。

回向院

回向院、寺号は緒宗山無縁寺回向院です。
回向院案内板
回向院で有名なのは、まず、出開帳です。
全国の有名寺社の秘仏秘像の開帳される寺院として、境内は毎年のように参詣する人々で賑わいをきわめたと言われます。
回向院 出開帳
上の絵は「江戸名所図会」の回向院開帳の様子です
開帳といっても2種類あります。自分のところで開帳するのは「居開帳」で、他国から 江戸の寺院を借りて開帳するのが「出開帳」ですこのとき借りる寺は「宿寺」といい回向院、浅草寺、深川永代寺がトップ3でした
回向院での出開帳は、江戸期通じて166回もありました
その中でも人気のあったのが 京都嵯峨清涼寺の釈迦如来 善光寺の阿弥陀如来身延山久遠寺の祖師像 成田山新勝寺の不動明王で江戸出開帳の「四天王」と呼ばれました
そして、勧進相撲があります。
相撲は、江戸時代は主として公共社会事業の資金集めのための勧進相撲興行の形態をとっていました。勧進相撲興行の最初は、寛永元年(1624)に四谷の笹寺(長善寺)だと言われます。回向院境内で初めて行われたのは明和7年(1768)で、寛政年間を経て文政年間にいたるまで、勧進相撲興行の中心は回向院でした。
当初富岡八幡宮(深川八幡)で行われていましたが、蔵前の蔵前神社(蔵前八幡)やここ回向院でも興行し、天保4年(1833)からは、回向院が春秋2回の興行の定場所となり、明治42年の旧両国国技館が完成するまでの76年間「回向院相撲の時代」が続いたのです。
回向院で開かれた勧進相撲
「勧進大相撲土俵入り之図」豊国画 都立中央図書館蔵 回向院で開かれた勧進相撲広小路】です。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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