両国界隈散策

江戸最大の火事、明暦3年(1657)の大火の時、隅田川に両国橋は架かっておらず、そのうえ浅草見附の橋が通行止めになったため、行き場を失い川で溺れ死んだ者や焼け死んだ市民は、10万人8千人にも達したといわれています。そして、亡くなった無縁仏を供養するため建てたられたのが回向院で、回向院に参詣するためとこうした惨事が再び起らないようにと架けられた橋が両国橋です。当時は、大川(隅田川)が、武蔵国と下総国の国境であったから、両国橋と命名されたと言われています。
元禄(1688)時代からの本所深川開発以降、現在の両国である旧下総国側(墨田区側)を東両国(あるいは向う両国)と呼ぶようになります。
橋の両側には、火除地としての広小路が作られました。火除地としての機能から,広小路には恒久的な建造物は建てらませんが,床みせと呼ばれた移動可能な店舗施設が置かれ,また大道芸や,矢来(やらい)と葭簀(よしず)で囲んだ仮設の小屋で芝居や講釈など各種見世物の興行も行われました。
両国の北に隣接する柳橋も含め、両国は江戸屈指の歓楽街として栄え、特に両国橋西詰の両国広小路は見世物などの小屋が立ち並んで賑わいました。


回向院の山門は今は北(京葉道路沿い)にありますが、昔は西(隅田川の方角)にありました。 現在両国幼稚園のあるあたりに、回向院の正門跡の高札がたっています。
両国橋を渡ると広場があり、その先の参道をまっすぐ行ったつきあたりに回向院の正門があったのです。両国橋がまるで参道のようになっていたということです。

広小路跡から前の道を真すっぐいくと、両国幼稚園があり、その前に、高札の案内があります。
振り返って隅田川の方を望みました。右のお見せは、天和(元禄になる少し前)創業とという軍鶏鍋の「ぼうず志やも」というお見せです。

この道は、広小路の賑わいと回向院の境内で行われた出開帳、勧進大相撲といったにぎわいとをつないだ道です。両国、江戸一番の繁華街であったことを偲びたい場所です。
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