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諏訪町(現・高田馬場)に住んだ文学者

かつての諏訪町に住んだ文学者を訪ねました。
<太宰治の下宿先「常盤館」>
昭和5年、太宰治(明治42年~昭和23年)が、東京に出て来て、7ヶ月ぐらい住んでいた下宿屋常盤館は、高田馬場駅の近くです。
昭和5年3月、太宰治(この頃は津島修治)は、弘前高等学校から東京帝国大学に入学するため上京してきます。まず、本郷区森川町の下宿屋に宿を取ります。
本郷区台町一番地(現在の文京区本郷5丁目30番地付近)の小山とめ方です。
4月、東京帝国大学仏文科に入学。府下戸塚町諏訪(現在の高田馬場付近)の学生下宿常盤館に移ります。
それはまだ新しい大きな建物で、太宰の部屋は一番奥まった、離れのような広い部屋だったそうです。
太宰治が入った下宿屋があった。
(写真の少し先の左側辺りが戸塚町の常盤館が建っていた場所だろうと思います。現在の新宿区高田馬場1丁目26ということなので、再確認します)。
この後の11月、太宰は本所柳島の大工の棟梁の家の2階 (現在の墨田区東駒形)を借りています。この下宿は青森の初代と一緒に住むための下宿でした。
戸塚町諏訪では、高校の先輩、工藤永蔵の訪問を受けて共産党のシンパ活動に加わるとか、かねてから尊敬していた井伏鱒二に会い、以後師事するとかがありましや。
<志賀直哉 高田馬場旧居跡地>
高田馬場駅から南に歩いて、8分ぐらいの所に 志賀直哉旧居((現在・日本児童教育専門学校)があります。
志賀直哉(明治16年~昭和46年)はそれまで住んでいた奈良から次男直吉(長男は死去)の勉学のため、奈良から、ここに(当時は東京都淀橋区諏訪町226)越してきました。
児童教育専門学校
20回目の転居で、志賀直哉55歳の昭和13年4月から57歳の昭和15年5月まで住みました。
志賀直哉旧居跡の碑
庄蔵探検隊のblogに。志賀直哉の談話「転居二十三回」が載っていたので、少し引用させてもらいます。
「直吉の入った学習院に近い高田馬場の諏訪町に、知っている人の家があって、それを借りました。僕は見ずに借りたのですが、これが古い家で、家の中を風が吹き通るような嫌な家でした。僕は奈良から来てみたら戸外と同じように廊下を風が吹き抜けているのです。僕は風邪をひいてもつまらないと考え、すぐに一人だけ万平ホテルに行って了いました。でも、そこに少し手を入れ、三年余り居りました。そして世田谷に引越しました。志賀直哉:[談話]転居二十三回、志賀直哉全集 第十四巻、岩波書店、P.297、1974
遊具 諏訪公園
<諏訪公園の高田敏子の詩碑>
諏訪公園は、地下鉄高田馬場駅のすぐ近く、早稲田通りの裏通りの住宅街の中にある。(ちなみに諏訪の森公園は、諏訪神社の裏手にある公園です)。
この公園に、この近くに住んでいた詩人高田敏子(対象3年~昭和64年)の詩が刻まれた石碑があります。
諏訪公園 高田敏子詩碑
高田敏子 かくれんぼ
高田敏子「高田馬場に住んで」の文章から。
「私の家から二件目先の角を左に、小道の坂をのぼってゆくと、明治通りに出ます。
この小道の両側一帯は、戦前の古い家並みでした。
右側には『諏訪の湯』、その横の、体をはすかいして行くような細い路地をぬけると、諏訪神社の境内。
樫の木、銀杏などの大木が枝を支えて空をおおい、『諏訪の森』と呼ばれていました。
この森の梢は、私の家の窓からもよく見えて、モズの鋭い鳴き声が響いて来ました。
そして夜は、ふくろうの声、『ホー、ホー』と、その声は、ミシン仕事で徹夜にもなる私の耳に優しく響いて来るのでした。
朝夕に、家の窓から諏訪の森を見、また、明治通りのバス停に出る折は、この森を通って、ほんの少しの間にしても、足を止め梢を見上げるのが、そのころの私にとって、小旅行をするほどの楽しみなのでした。
春の芽ばえ、夏の日の木陰の風の涼しさ、そして秋から冬には、目もまばゆいほどの銀杏の金色、地に敷く落ち葉、冬の裸木も、その枝々の線が美しく、枝の間から見る空が、一層青く、澄んだ美しさなのです。」
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神楽坂を歩く ほおずきの鉢の風鈴

兵庫横丁
神楽坂へ行きました。
お店を見て歩いていると、いくつかのお店で、ほおずきの鉢と風鈴が吊り下げられていました。
毎年7月、毘沙門天善国寺の門前で、「ほおずき市」が開かれています。そのときのほおずきだと思います。
「ほおずき市」に一度来てみたいと思いながら、今年も来られませんでした。
毘沙門さま
「神楽坂まつり」の名残を味わって歩きました。
毘沙門前の鳥茶屋

料亭の玄関

料理屋さんの玄関先で

ウナギ屋の玄関
ほおずき風鈴



ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考でなければ、いけません

小泉節子の『思い出の記』の中で、とても感動するのは、つぎの箇所です。
「私が昔話をヘルンに致します時には、いつも始めにその話の筋を大体申します。面白いとなると、その筋を書いて置きます。それから委しく話せと申します。それから幾度となく話させます。私が本を見ながら話しますと『本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考でなければ、いけません』と申します故、自分の物にしてしまっていなければなりませんから、夢にまで見るようになって参りました。
 話が面白いとなると、いつも非常に真面目にあらたまるのでございます。顔の色が変りまして眼が鋭く恐ろしくなります。その様子の変り方が中々ひどいのです。たとえばあの『骨董』の初めにある幽霊滝のお勝さんの話の時なども、私はいつものように話して参りますうちに顔の色が青くなって眼をすえて居るのでございます。いつもこんなですけれども、私はこの時にふと恐ろしくなりました。私の話がすみますと、始めてほっと息をつきまして、大変面白いと申します。『アラッ、血が』あれを何度も何度もくりかえさせました。どんな風をして云ってたでしょう。その声はどんなでしょう。履物の音は何とあなたに響きますか。その夜はどんなでしたろう。私はこう思います、あなたはどうです、などと本に全くない事まで、色々と相談致します。二人の様子を外から見ましたら、全く発狂者のようでしたろうと思われます。」


『怪談』などの作品は、小泉節子との共作と言えるでしょう。
日本語があまりできない夫と英語があまり話せない妻、2人の生活はどうだったのだろうか、と思います。
でもこういう会話があって、作品に結晶されていったのdしょう。
私は、ときどき、まち歩きの案内をしています。そのとき思うのは、メモや資料を見ながらではダメだということです。
おそらく、資料を丸覚えしで話すのもよくないと思います。
そんなことを考えているので、『ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考でなければ、いけません』は身にしみます。
自分のものにして、やっと、人に話せる、そうなのだ、と肝に銘じなければと思うのです。
ブログでも自分のものになったいないと、アップしてはいけないでしょう。
反省の意味を込めて、小泉節子の『思い出の記』を引用、載せておきます。

小泉八雲終焉の地

小泉節子の『思い出の記』からもう少し。
「淋しい田舎の、家の小さい、庭の広い、樹木の沢山ある屋敷に住みたいと兼々申していました。瘤寺がこんなになりましたから、私は方々捜させました。西大久保に売り屋敷がありました。全く日本風の家で、あたりに西洋風の家さえありませんでした。
 私はいつまでも、借家住いで暮すよりも、小さくとも、自分の好きなように、一軒建てたいと申しますと、『あなた、金ありますか』と申しますから『あります』と申します。『面白い、隠岐の島で建てましょう』といつも申します。私は反対しますとそれでは『出雲に建てて置きましょう』と申しますから、全く土地まで捜した事もありました。しかし私はそれほど出雲がよいとも思いませんでしたから、ついこの西大久保の売屋敷を買って建増しをする事に、とうとうなったのでございます。」
小泉八雲は、明治35年(1902)富久町20から、旧板倉子爵邸を買い取って、西大久保に転居してきました
西大久保の家は残っていません。
大久保小学校にある、「小泉八雲終演の地」の碑
大久保小学校の所に碑があり、近くに「小泉八雲記念公園」があります。
小泉八雲記念公園
白い柱、壁を持つギリシャ風の公園です。平成元年に新宿区とハーン生誕の地ギリシャ・レフガタ町が友好都市になったのを記念して作られました。 
ギリシャ政府から送られた小泉八雲の胸像があり、その周辺のギリシャ風の古代柱と花壇などが普通の公園とはやや趣を異にした雰囲気をつくり出しています。
小泉八雲は、左の目が見えなかったので、写真では、左を向いた写真ばかりです。胸像は、まるごと見せているので、向かって右を見るのは、少し、気が引ける思いがします。
小泉八雲像
八雲の銅像の右には白い壁があり、八雲が幼少期を過ごしたアイルランドの育った家に掲げてあるプレートと同じものが駐日アイルランド大使から寄贈され掲げられています。(外国は家が残るのですごいです)
銘板
最後に、小泉八雲がこれからも、大きなメッセージを発信し続けるだろうといわれる、その一番大事な「オープンマインド」についてメモしておきます。
オープンマインドは、松江を拠点として、小泉凡氏など多くの人が、小泉八雲の精神を活かそうとした運動をされていますが、そのキーワードになっています。。
NHKテレビの「100分de名著」で、池田雅之氏が、オープンマインドについて次にように話されました。
開かれた心、開かれた魂ということですが、小泉八雲は次の3つを大事にしたと言われます。
1,「自分の五感を解き放す」
2,「他人に対して暖かなまなざしを持つ」
3.「他者への共感、共鳴」です。
「私たちは異なる文化に対して開かれた心を持ち、柔らかな視線を持つべきであるというメッセージ、そして、次に「共生」という考えがたいせつになってきます。国や、民族を越えて、ともに生きる。また人間だけでなく、塔辱物とも一緒に生きる。約物存在はと文学は、そういった共生のための視点を用意してくれていると思います。」(「NHKテレビテキスト」より)
グローバルな世界になっていこうとしている時、確かに、オープンマインドは大事だと思います。ただそれだけでなく、他者への思いやりといったことは、すべての場面において、とても大事だと思います。あまりにも、現代社会は利己的です。他人をおもいやる気持ちがないと、大げさに言えば、滅びの道をひたすら進むだけになると思います。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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