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小泉八雲の妻、小泉節子の『思い出の記』

富久町案内図
赤の現在地が、小泉八雲の富久町の旧居跡です。その東(図ではすぐ右上)に自證院圓融寺があります。江戸時代には大きな境内がある「瘤寺」と呼ばれた寺院でした。明治の初め、明治維新政府の社寺上地令により境内地と墓地の一部を残して寺領の大半は、没収されてしまいました。
それでも、八雲が住み始めたころはまだ、たくさんの木が残っていたようです。
自証院入り口
小泉八雲の妻、小泉節子が著した『思い出の記』があります。
文中、ヘルンさんとあるのが小泉八雲さんです。独特の語り口で、例えば、ヘルンさんの会話の表現など、ヘルンさんの声が聞こえてくるようです。
『思い出の記』から富久町のころの話を引用させてもらいます。

 「 神戸から東京に参りましたのは、二十九年の八月二十七日でした。大学に官舎があるとか云う事でしたが、なるべく学校から遠く離れた町はずれがよいと申しまして、捜して頂きましたけれども良いところがございませんでした。
 この時です、牛込辺でしたろう。一軒貸家がありまして、大層広いとの話で、二人で見に参りました事がございました。二階のない、日本の昔風な家でした。今考えますと、いずれ旗本の住んで居られたと云う家でしたろうと存じます。お寺のような家でした。庭もかなり広くて大きな蓮池がありました。しかし門を入りますから、もう薄気味の悪いような変な家でした。ヘルンは『面白いの家です』と云って気に入りましたが、私にはどうもよくない家だと思われまして、止める事に致しましたが、後で聞きますと化物屋敷で、家賃は段々と安くなって、とうとうこわされたとか云う事でした。この話を致しますと、ヘルンは『あゝ、ですから何故、あの家に住みませんでしたか。あの家面白いの家と私思いました』と申しました。
 富久町に引移りましたが、ここは庭はせまかったのですが、高台で見晴しのよい家でございました。それに瘤寺と云う山寺の御隣であったのが気に入りました。昔は萩寺とか申しまして萩が中々ようございました。お寺は荒れていましたが、大きい杉が沢山ありまして淋しい静かなお寺でした。毎日朝と夕方は必ずこの寺へ散歩致しました。度々参りますので、その時のよい老僧とも懇意になり、色々仏教の御話など致しまして喜んでいました。それで私も折々参りました。
 日本服で愉快そうに出かけて行くのです。気に入ったお客などが見えますと、『面白いのお寺』と云うので瘤寺に案内致しました。子供等も、パパさんが見えないと『瘤寺』と云う程でございました。
 よく散歩しながら申しました。『ママさん私この寺にすわる、むつかしいでしょうか』この寺に住みたいが何かよい方法はないだろうかと申すのです。『あなた、坊さんでないですから、むつかしいですね』『私坊さん、なんぼ、仕合せですね。坊さんになるさえもよきです』『あなた、坊さんになる、面白い坊さんでしょう。眼の大きい、鼻の高い、よい坊さんです』『同じ時、あなた比丘尼となりましょう。一雄小さい坊主です。如何に可愛いでしょう。毎日経読むと墓を弔いするで、よろこぶの生きるです』『あなた、ほかの世、坊さんと生れて下さい』『あゝ、私願うです』
 ある時、いつものように瘤寺に散歩致しました。私も一緒に参りました。ヘルンが『おゝ、おゝ』と申しまして、びっくり驚きましたから、何かと思って、私も驚きました。大きい杉の樹が三本、切り倒されて居るのを見つめて居るのです。『何故、この樹切りました』『今このお寺、少し貧乏です。金欲しいのであろうと思います』『あゝ、何故私に申しません。少し金やる、むつかしくないです。私樹切るより如何に如何に喜ぶでした。この樹幾年、この山に生きるでしたろう、小さいあの芽から』と云って大層な失望でした。『今あの坊さん、少し嫌いとなりました。坊さん、金ない、気の毒です、しかしママさん、この樹もうもう可哀相なです』と、さも一大事のように、すごすごと寺の門を下りて宅に帰りました。書斎の椅子に腰をかけて、がっかりして居るのです。『私あの有様見ました、心痛いです。今日もう面白くないです。もう切るないとあなた頼み下され』と申していましたが、これからはお寺に余り参りませんでした。間もなく、老僧は他の寺に行かれ、代りの若い和尚さんになってからどしどし樹を切りました。それから、私共が移りましてから、樹がなくなり、墓がのけられ、貸家などが建ちまして、全く面目が変りました。ヘルンの云う静かな世界はとうとうこわれてしまいました。あの三本の杉の樹の倒されたのが、その始まりでした。 (後略)  青空文庫より
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小泉八雲 オープンマインド「 樹木に魂が宿る」

NHK・Eテレ(教育)「100分de名著」で小泉八雲の『日本の面影』が取り上げられていました。
小泉八雲が日本に来たのは、明治23年(1890)です。
そのころの日本は西欧化一辺倒でした。どんどん「日本らしきもの」は消えて行っていました。その失われていく日本に心惹かれ、この『日本の面影』を著し、『怪談』を書きました。
番組で講師をつとめられた小泉八雲の研究者、池田雅之早稲田大学教授は、八雲がそうできた理由を、「アイルランド人の父とギリシア人の母の間で自らのアイデンティティを引き裂かれながらも、世界中を旅することを通じて、どんな土地にでも溶け込んでしまえる『オープンマインド(開かれた心)』を獲得するに至ったからではないか」と話されていました。
そして、新宿歴史博物館で開かれた講演会「小泉八雲を現代に活かす」で、島根県立大学短期大学部教授・小泉八雲曾孫の小泉凡氏も八雲の『オープンマイン(開かれた心)』の大切さを語られました。
「日本」をきちんとその「オープンマインド」で捕らえています。
現在は「グローバル化」が叫ばれ(これは、ほとんどアメリカになろうとしているようですが)、「オープンマインド」を持つことは大切になっています。
でも、よく考えると、日本が消えて消えていっているようで、「日本を深く知るために」小泉八雲に学ぶ必要があるように思います。小泉八雲は、これからますます、注目されるなければいかないと思いました。
例えば、「オープンマインド」に関して、八雲が書いた次のような文章があります。
樹木に魂が宿る―宇宙の真理
「木に少なくとも日本の木に魂があるということは、梅の花と桜の花を見たことのある者には不自然な幻想などと思えない。こうした信仰は、出雲でも他の地方でも広く行われている。仏教哲学とは一致しないが、ある意味で、「人間の用に立つべく創造されたもの」という西洋古来の正統的な樹木観と較べて、はるかに宇宙の真理に近い、という印象を与える」。
「日本の庭」『知られぬ日本の面影』(仙北谷晃一訳)より
自然との共生、そのこころを呼び覚まさないといけない、と思います。

『怪談』に「青柳ものがたり」があります。
能登の国に友忠という武士がいました。20歳の時に主君畑山義統(よしむね)の使者として京に向かいました。出発したのは、冬の寒い日でした。旅の途中、吹雪にあい、老夫婦の家に泊まらせてもらう事になりました。その家のそばには、大きな柳の木があり、家にはたいそう美しい娘がいました。 武士はその娘に一目ぼれをしてしまいます。名前は青柳(あおやぎ)と言いました。
友忠は老夫婦に頼みこんで、嫁にするということで、青と一緒に京に向かいことになりました。
京都に着くと、使いの相手である細川候に、美しい青柳は目をつけられてしまい、連れていかれてしまいました。
友忠は、死ぬ覚悟で、娘に思いを込めた漢詩を書いた手紙を出します。
その手紙を見た細川候は、友忠の青柳に対する気持ちと覚悟に感動し、青柳を友忠に返し結婚を許してくれました。
夫婦になった二人は幸せに暮らしていましたが、5年後のことです。突然青柳がにわかに苦しみだします。
そして告白しました。
「わたしは、人間ではございません。わたしの魂は、木の魂、心は木の心でございます。柳生(しょう)がわたしのいのちなのでございます。それをたれか、いまの今、私の元木を切り倒しています。わたしは死なねばなりません」
青柳は苦しみながら消えて亡くなってしまいます。
友忠は仏門に入り、老夫婦の家を訪ねますが、そこには、3本の柳の木切り株があるだけでした。友忠は、その柳の切り株のかたわらに、お経を刻んだ碑を建てました。
概略そんな筋立てです。
木が伐られて、それがどうしたちいったことは書いてありませんが、印象に残ります。
「100分de名著」で池田雅之氏は、『怪談』は八雲の自叙伝だということを話しておられました。
そして、自叙伝ということで言えば、この「青柳ものがたり」は、
東京、富久町に住んでいた時の自証院でのエピソードは思い出されます。
小泉八雲が、東京帝国大学文科の英文学講師とし東京に出てきたのは、明治29年(1896)のことです。住んだのは新宿区富久町でした。
現在、成女学園校門向かって右側に小泉八雲旧居跡の碑があります。
高台の小泉八雲旧居跡の碑
(碑のそばに近づけなくなっているのですが、少し無理して登って撮りました)
小泉八雲 旧居跡の碑(富久町)
ここから東京帝国大学まで人力車で通ったようです。
自然をこよなく愛した小泉八雲は、すぐ隣の自証院の風致を特に愛し、いつも自証院のあたりを散歩していました。
自証院
八雲が住み始めたころは、たくさんの木がありましたが、そのうちに、経済的な困難もあり、墓地は中野区上高田に移転、改葬が行われ、広大な寺域も樹木の伐採が行われます。そして、八雲は、木が伐られることに心を痛め、明治35年(1902)3月、5年間住みなれた富久町から、武蔵野の面影がまだ残る豊多摩郡大久保村大字西大久保(現・大久保1丁目)に居を移したのでした。

太宗寺の十王図の閻魔大王と奪衣婆

7月15日、今年も太宗寺に行きした、夜の盆踊りの準備もきちんと出来ていました。
太宗寺境内
もちろん、閻魔堂の閻魔像と奪衣婆像にもお参りしました。
今年は、本草の地獄・十王図の閻魔様、奪衣婆さんを記録しておきます。
地獄の十王は、仏教と共にインドから中国に伝わり、中国固有の信仰と結びついて、冥界の住人の裁判官である十王を誕生させました。
そして、この十王の審判が七日ごとに行われるために、七日ごとの法要があります。
この審判の日に遺族が供養することによって、その善行が故人にも及び、故人の魂が少しでも早く極楽に行くことができるという信仰があります。
十王の名前とその役割、そして、「本地仏」を記しておきます。こ「本地仏」とは、その姿が本来の姿で、十王に姿を変えてそれぞれの役目を果たしているというものです。
初七日 泰広王 しんこうおう(不動明王) 殺生について取り調べる。
 二七日 初江王 しょこうおう(釈迦如来) 偸盗(盗み)について取り調べる。
 三七日 宋帝王 そうていおう(文殊菩薩) 邪淫の業について取り調べる。
 四七日 五官王 ごかんおう(普賢菩薩)  妄語(うそ)について取り調べる。
 五七日 閻魔大王 えんまおう(地蔵菩薩) 六道の行き先を決定する。
 六七日 変成王 へんじょうおう(弥勒菩薩) 生まれ変わる場所の条件を決定する。
 七七日 泰山王 たいざんおう(薬師如来) 生まれ変わる条件を決定する。
 百箇日 平等王 びょうどうおう(観音菩薩) 遺族の貪欲の罪を戒める。
 一周年 都市王 としおう(勢至菩薩)遺族が各法要を心から行うと罪が許される。
 三周年 五道転輪王 ごどうてんりんおう(阿弥陀如来) 
閻魔大王が十王の中で特に有名な理由は、前の四王の取り調べと合わせて、亡者(もうじゃ)が六道、つまり地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6つの世界の何処に生まれ変わるかを決定するという一番大事な力を持っているからです。
それで、興味深いのは、閻魔大王の「本地仏」が地蔵菩薩だということです。
十王図の閻魔像の絵に中にも。左上と右下に地蔵尊が描かれています。昨年思いした京都の珍皇寺などで閻魔様として、お地蔵さんが祀られていました。
閻魔様
地蔵菩薩とは、釈迦が没したあと、弥勒仏が出生するまでの無仏世界で、濁悪の世界からすべての人間を救済することを仏にゆだねられた菩薩です。
また六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)に落ちた者を救済することでも知られています。地蔵菩薩は様々な姿をとり、人々を救おうとするのです。
その地蔵菩薩はが、閻魔王に化身しているのです。
ここらあたりは複雑です。
六地蔵がよく祀られますが、六道にそれぞれ、お助けにでかかえるわけです。
奪衣婆
太宗寺の十王図では、奪衣婆は二七日の初江王(しょこうおう)の所に描かれていました。
奪衣婆は、三途の川の所にいるのですが・
一般的な奪衣婆の役割が次の通りです。
そこには、衣領樹 (えりょうじゅ)という木があり、木の下には奪衣婆がいて、木の上には、懸衣翁 (けんえおう)というお爺さんがのっています。が着ている奪衣婆が衣類を脱がせ、木の上のお爺さんに渡し、木の枝に掛けると、その重みで枝が垂れる、その枝の垂れ方で生前の罪の軽重が分かる仕掛けです。
でも、懸衣翁はあまりでてきません。ここの絵でもいないです。鬼は鬼です。
そして、よく言われるのは閻魔様と奪衣婆は夫婦だということです。
太宗寺の閻魔堂には、閻魔と奪衣婆しかいません。
どうなのでしょうか。
新宿中央公園から太宗寺
この後、後ろの新宿公園へ行きました。長く下水関連の工事をしていましたが、きれいになっていました。江戸時代は、ここは太宗寺の御庭だったとか、ちょうどこの時期開放されて、内藤新宿のお女郎さんとお客さんが散策したと言われます。大きな池があり、かに川の水源にもなっていました。写真は、新宿公園から太宗寺を望んだものです。

「勝海舟フォーラム2015」 ウォークラリー

勝海舟の像の前で
毎年、海に日に開催されている「勝海舟」を検証する『勝海舟フォーラム2015』。(主催:(勝海舟顕彰会)に今年も参加しました。会場は、吾妻橋近くの「すみだリバーサイドホール」(墨田区役所)。今回は、フォーラムの前に行われているウォークラリーにも参加、隅田川沿いに、牛島神社、弘福寺、三囲神社などを歩きました。
隅田川と桜橋
▼桜橋(さくらばし)
台東区と墨田区の姉妹提携事業として昭和55年(1980)に創架が始まり、昭和60年(1985)に完成しました。隅田川唯一の歩行者専用橋です。形状は平面のX字形の特異な形をしています。
牛島神社
■海舟、剣の修行 牛嶋神社
勝海舟像から隅田川沿いを少し上流に行くと隅田公園があります。この隅田公園の中に牛嶋神社があります。
海舟(当時は勝麟太郎)が10代後半の頃、この牛嶋神社の境内で剣の稽古をしていました。
『氷川清話』に「毎日王子権現にいって夜稽古をした」と書かれています。
牛嶋神社は別名・牛の御前王子権現と呼ばれていたそうです。
その頃海舟は浅草新堀の島田虎之介の道場に寄宿して剣の修行をしていましたが、毎日島田道場での稽古が終わった後、夕方から王子権現に行って夜稽古をしていたとのことです。
現在は隅田公園内にありますが、当時はもう少し上流の弘福寺の近くにあったようで。関東大震災の際に焼失し、移転しました
弘福寺「咳の爺婆尊」
■海舟、禅の修行 弘福寺
島田道場での修行の傍ら牛嶋神社(王子権現)で剣の練習をしていましたが、『氷川清話』によると、ある師匠の島田虎之介に剣の奥意を極めるには禅を始めよと勧められたので、19か20の時に、弘福寺で禅を始めたと書かれています。
「こうして4年間、真面目に修行した。この座禅と剣術がおれの土台となって後年大層ためになった。」と語っています。
あいにく改装中で、テントが張られていました。
境内に「咳の爺婆尊」と呼ばれる一対の石像が祀られた小さなお堂がります。風外和尚が自分の両親の姿を像に刻み、朝夕の供養を怠らなかったと伝えられる像で、風邪除けのご利益があると言われています。
三囲神社
▼三囲神社(みめぐりじんじゃ)
勝海舟との直接の関連は出ていませんが、きって海舟も寄っていると思います。
神社の由来によると、「文和年間(1352~1356)近江国三井寺の僧が巡礼中に当地で荒れた祠を見つけ、修復しようとしたところ、地中から壺に収められた白狐にまたがる神像を得ました。すると何処からともなく白狐が現れ、この神像の回りを三度回って消えたという」ことから、三囲神社が誕生したということです。
三囲神社 お狐さま
この三囲神社も、本来は元の牛島神社の隣にあったようですが、洪水で一度流され、河岸に堤が築かれることになった際に南へ少し移動したようです。
隅田公園となっている水戸藩下屋敷
▼隅田公園にもどりました。牛嶋神社の先です。
ここは、昔水戸藩の下屋敷だった場所で、水戸藩らしく小梅御殿と呼ばれていたくらい梅の名所だったようです。
幕府に睨まれ隠居謹慎させられた9代藩主・斉昭に連座し謹慎した藤田東湖は弘化2~4年(1845~47)、ここに幽閉されていました。
明治維新後はもとの敷地の西半分、現隅田公園のあたりが水戸徳川家の本邸となり、最後の藩主だった徳川昭武はこの地で亡くなったと言われます。明治8年には明治天皇などの訪問を受けています(その碑が建てられています)
その後関東大震災であたり一帯が消失。昭和6年(1931)隅田公園が造営されるとき公園に取り入れられました。
明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯
▼明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯
その水戸藩の屋敷跡のあたりから隅田川の方を観ると、碑があります。
{この碑の建つ場所は、明治年間に幾度も明治天皇のレガッタ視察のために玉座をしつらえた場所です。現在は堤防が整備されて隅田川の様子があまり見えませんが、かつては土で造った堤防に桜が植えられ、たいへん風情がある光景でした。そうした場所で、明治15年11月21日、同26年6月3日、同27年4月2日、同29年12月18日の4度にわたりレガッタを天覧したのです」(碑分より抜粋)
(
(「花火大会」が近いので、隅田川の土手には柵がめぐわされていました)

清和文楽「雪おんな」

新宿区が熊本と手を結んで、協働企画展「熊本と新宿をつなぐ作家 漱石・八雲」を新宿歴史博物館で開催しています。これは、夏目漱石の生誕150周年に向けての「プロジェクトSOSEKI」の始まり企画です。
八雲と漱石は、時期は異なりますが、熊本で数年を過ごし、新宿でその生涯を終えました。
2人とも旧制第五高等学校(現・熊本大学)で教鞭をとり、熊本で家庭を持ち、そこで初めての子どもを授かっています。
作品や考え方など、共通点も多く、非常に興味深いですが、そのことはまた、機会があれば書きたいと思いますが、今回は、関連企画として、開催された清和文楽「雪おんな」のことを少し。
文楽人形4
清和文楽についてまったく知らなかったこともあり、期待をしないで観たのですが、すばらしかったです。
清和とは、熊本県山都町清和地区(旧清和村)のことです。文楽の村と言われているようです。
嘉永年間(1850年ごろ)と言いますから、今からおおよそ160年前の江戸時代の末期、淡路島から巡業に来た人形一座から村人たちが人形の操作を教わり、農作業の合間に習い覚えて、春・秋の奉納芝居として上演したのが始まりだと説明されました。
その後、村人の間で親から子へと受け継がれ、明治の終わりには一時衰退、その後も幾多の危機があったようですが、平成4年、清和文楽の伝承と地域の活性化を目的に九州唯一の人形浄瑠璃専用の劇場「清和文楽館」が建設され、平成6年には太夫・三味線が復活。その後毎年200回前後の公演を行っておられるようです。
C清和文楽人形
清和文楽は、淡路の人形浄瑠璃と同じように人形の手振り身振りが大きいのが特徴です。それは、舞台ではかがり火やロウソクなどの明かりが少なかったため、観客が見やすいように人形の身ぶり手ぶりを大きくするための工夫をすることになったのだそうです。
清和文楽 大2
「雪おんな」は平成14年に発表された、半藤一利氏の清和文楽オリジナルの脚本。その昔、清和村も物語の舞台同様に雪深い土地だったそうです。
清和文楽人形A
物語はよく知っているので、人形の振りをじっくり堪能しました。
顔の表情など、認容には、いろいろな仕掛けがあり、思わず声が出ます・
昨年は、小泉八雲没後110年記念事業「オープン・マインド・オブ・ラフカディオ・ハーン:西洋から東洋へ」の一環として、ハーン(小泉八雲)の生誕地ギリシャのレフカダ島でこの「雪おんな」を上演したそうで、本当にすばらしい、演目でした。
最後にに人形に触らせてくださり、顔の表情を変える動きなど体験しました。
(あいにく、写真機を持ってなく、なれないスマホで撮ると、ピント外れになっていました)。

羽村の駅近くの「まいまいず井戸」

羽村に行って来ました。
<まいまいず井戸>
羽村のまいまいず井戸
羽村駅に近い五ノ神神社の境内に「まいまいず井戸」と呼ばれる古い井戸があります。まいまいずとはカタツムリのことで、その名のとおり地面から渦巻き状に掘られています。直径約16m、深さ約4m。
まいまいず井戸の中央
まいまいず井戸の創始については、大同年間(806-10)との伝説がありますが、形状や板碑から鎌倉時代の創建と推定されるといいます。筒状井戸を彫りにくい砂礫層地帯に井戸を設ける必要からかたつむり(まいまいず)状に掘削、昭和35年(1960)まで使用されていたといいます。
五の神村(羽村駅周辺)には、ここにしか井戸がなかったようで、当時は、このらせん状のスロープに、村人たちが行列をなしていたのかもしれません。
まいまいず井戸とはかつて武蔵野台地で数多く掘られた井戸の一種です。東京都多摩北部地域から埼玉県西部に多く見られ、同様の構造を持つ井戸は伊豆諸島や群馬県の大間々扇状地などにも存在しています。
井戸の所まで下りてみました。
井戸のところ
<五ノ神社(ごのかみしゃ)>
五ノ神社
『新編武蔵風土記稿』などによると、熊野社と呼ばれていたことがわかります。五ノ神の村名は、集落内に「熊野社」「第六天社」「神明社」「稲荷社」「子ノ神社」の神社があったことに由来するとされています。
祭神は、天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、素盞鳴尊(すさのおのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、伊佐那美命(いざなみのみこと)、事解能男命(ことさかのおのみこと)です。
こちらは、絵馬です。中央はまいまいず井戸なのでしょうか。
五ノ神社の絵馬

誕生寺・客殿と方丈庭園

誕生寺本堂の右側には、客殿と方丈庭園(法楽園)があり、そこは拝観できます。
客殿 方丈
顔鶴の間、唐獅子の間、表上段の間と続き、それぞれの部屋の襖絵や屏風絵を見ながら廊下を歩きます。
鷹の間の襖絵には『あまりにも上手に描かれたため生命を受けて飛び去った』と案内がありました。
鷹の間の襖絵↓
襖をじっと眺めると、なんとなくシミのように見えるところ、そこが、飛び去った鳥の跡かな、と考えました。
廊下から入って来た門のところにある鐘楼と本堂の屋根も見えました。
鐘楼と本堂
さらに歩くと法楽園といわれる庭園へ出ます。
方丈庭園
しっとりとした落ち着きを感じさせる庭園でした。
また、客殿正面玄関口近くには、いろいろなものが展示されていました。
片目魚
まず、片目川の魚です。本当に片目の魚はいたのですね。
人肌のれん木
これは、人肌のれん木↓
法然上人の肌の温かさを保ち続けている木だそうです。
誕生寺の参拝は、法然上人をズッと身近に感じる事が出来、伝説もあり、津山の森家も出て来て関心が深まり、法然、浄土宗をもっと知りたいと思いました。それに本堂にあったらしい八百屋お七関連のものや、誕生寺七不思議のいくつかとか、見落としも多いので、できえば再度訪れたいと思っています。

誕生寺境内散策

誕生寺 山門
山門は、正徳5年(1716)に建造されたもので、付帯する筋塀は安政4年(1857年に)伏見宮家より寄進されたものです。
この門を入ると、すぐ目の前に大きな銀杏(イチョウ)の木があります。↓
逆木の公孫樹
久安3年(1147)15歳の勢至丸(法然上人)が、比叡山に旅立たれる際、高円菩提寺より杖とされた銀杏の枝をこの地にさされたところ生育し、根が上に伸び『逆木の公孫樹』(さかきのいちょう)といわれます。
本堂
本堂である御影堂には『誕生律寺』の扁額が掲げられています。御影堂は二度の損壊の後、現在のものは元禄8年(1695)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。
本堂扁額
御影堂に位置は法然上人が幼少9歳まで御両親とすごされた場所です。
御本尊は法然上人43才の御自作像で、熊谷入道が上人61才の時、師の命により上人御両親の墓前に安置されたもので、その後、後光と蓮台をそえ御本尊として祀られています。(現地説明板より)。
本堂に向かって左側には、旅立ちの法然像と法然の無事を祈る母の像があります。
旅立ちの法然像
右奥へ進むと、観音堂がありました。↓
この観音堂は、津山城を作った森忠政が建立したもので、境内最古の建物だそうです。
観音堂
この観音堂そばには、小さな川が流れていました。
片目川
この川は“片目川”というそうです。
夜襲にきた 明石源内武者定明が、幼い勢至丸(法然)によって片目を射られた時に、この川で目を洗った後、この川に片目の魚が出現するようになったそうです。この片目川にかかる橋が、無垢橋↓
無垢橋
この無垢橋を渡ると、勢至堂があります。↓
勢至堂案内
勢至堂
勢至堂の裏手には、法然の産湯の井戸があります。
法然上人の産湯の井戸
ここは、法然上人の御両親の御霊廟です。両親の供養塔もあります。
法然の両親の墓
勢至堂入り口前に戻り、さらに緩やかな石段を上っていくと奥之院である浄土院六角堂があります。
浄土院六角堂

誕生寺へ 「熊谷入道の念仏橋」

誕生寺道標
熊谷直実 (1141-1208)は、武蔵大里郡(埼玉県)熊谷郷の人です。平家方から源頼朝の配下に転じ、一ノ谷の戦いで平敦盛を討つなどの活躍をしました。建久3年(1192)伯父久下直光との領地争いに、頼朝がくだした裁定を不服として出家して法然の門に入ります。法名は蓮生(れんせい)。
その熊谷直実が、建久4年(1193年)法然上人法然上人の生まれ育った地に寺院を建立しました。
蓮生は、法然の生まれた家が望めた時、感無量、思わず涙を流しました。
坂東の荒武者、熊谷次郎直実が、念仏を唱えながらあたりを憚らず大泣きに泣いたのです。
誕生寺へ向かう途中、古い道標があり、さらに進むと、「熊谷入道の念仏橋」が架かっていて、左手に案内板があります。
念仏橋
念仏橋の由来版
説明書によると、蓮生(熊谷直実)は法然自作の木像を背負って自らの弟子数人と、はるばる上人の生まれ故郷にやってきた。
そして、心から敬愛する法然が生まれ、幼き日々を過ごしていた家を目の当たりにすると、やっと到着した喜びと幼少の上人への思いに、感激にむせ号泣します。そして、橋の上で、天地も裂けんばかりに念仏を唱え続けた。
以後、この橋を「熊谷入道の念仏橋」と言うとか。
小さな、橋とも言えないような、そんな橋ですが、誕生寺を前に望んで、とたも感慨深いものがありました。
薬医門

誕生寺 法然上人の誕生の地

津山駅から津山線に乗って5つ目が「誕生寺」という駅です。津山駅管理の無人駅です。降り立つとだれもいませんでした。1日の乗降客数は50人~70人程度だそうです。その駅から約1キロのところに誕生寺があります。
久米神社から
(上の写真は誕生寺への途中、山の中腹にある久米神社の境内から町を撮ったものです)

法然上人(1133~1212)は、久米の豪族、漆間時国(うるまときくに)、秦氏君(はたうじのきみ)の間に生まれました。時国は久米の押領使(おうりょうし、その地方の治安の維持を任務として役)でした。
法然上人(幼名勢至丸)は、長承2年(1133)の4月7日に生まれました。
法然上人絵伝
上の竹馬遊の絵は、その久米で親子揃っての幸せなひとときを描いたものです。「法然上人絵伝」の一場面です。子どもたちが庭で竹馬遊びをしていて、その様子をおとうさんとおかあさんが暖かく見守っています。
ところが、保延7年(1141)のことです。漆間時国は日頃より土地争論に関連し、反目していた明石源内武者貞明の夜襲にあい、非業の死を遂げます。その臨終の時に、時国は少年の勢至丸(法然上人)を呼び寄せ「決して仇を討ってはいけない。仇は仇を生み、憎しみは絶えることがなくなってしまう。それならばどうか、全ての人が救われる道を探し、悩んでいる多くの人々を救って欲しい」と言い残しました。勢至丸9歳のことでした。
勢至丸は、母の弟である菩提寺の住職、観覚得業(かんがくとくごう)のもと(岡山県と鳥取県の県境にある那岐山の中腹)に引き取られます。観覚は勢至丸の才覚が凡人でないことを知り、京都の比叡山に登って修行するように勧めます。やがて15歳に成長した勢至丸は比叡山での修業を決心、久安3年(1147)の春、母に別れを告げるために里へ帰り、比叡山へと向かいました。
旅立ちの法然さま像
法然の無事を祈る母の像
法然上人は、比叡山で修行し、戦乱の続く時代の人々を救うためにはどうしたらよいかを考え、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という念仏を唱えることによって、阿弥陀如来に救われ、極楽に生まれ変われるという浄土の教えを広めました。
法然上人は、念仏の教えを嫌う人たちの圧力によって、一時讃岐国(香川県)に流されましたが、そのほかはずっと京都にいて、建暦2年(1212)に亡くなるまで、都の貴族(きぞく)や民衆に浄土の教えを広めました。
法然の弟子となり出家し法力房蓮生と名乗った坂東武者・熊谷直実が、建久4年(1193年)法然の徳を慕い、法然上人法然上人の生まれ育った地久米に寺院を建立しました。

赤穂義士・神崎与五郎と幕末の洋学者・箕作阮甫は親類.

津山で最も尊敬されている人物を一人あげよと言われれば、箕作阮甫(みつくりげんぽ)なるでしょう。津山駅前にはその阮甫の像が建っています。
箕作阮甫の像
また、昭和50年に箕作阮甫の旧宅が国の史跡に指定され、解体復元されたことをきっかけに、郷土ゆかりの洋学者を顕彰しようと、全国的にも珍しい洋学を専門にした津山洋学資料館が開館しています。
箕作家は津山藩の医者でした。阮甫は西新町で生まれ、江戸へ出て宇田川玄真について洋学を学びました。洋学の翻訳にも力を注ぎ著書や訳書がたくさんあります。
さて、こちらは知る人ぞ知るといった感じですが、忠臣蔵の神崎与五郎も津山の生まれです。
神崎与五郎は、寛文6年(1666)津山城下の生まれ、貞享元年(1,684)津山藩士として森家に仕えましたが、貞享3年(1,686)赤穂藩に仕えました。5年後の元禄15年(1702)の吉良邸討ち入りに参加し、半弓を手に華々しく闘い、翌年、江戸の岡崎藩主水野忠之の屋敷で自刃しました。享年38でした。
赤穂四十七士と言えば、他に美作の地から参加したのは、芳野和助(河辺)と横川勘兵(美作)がいます。
愛染寺
ところで、その神崎与五郎の生母の墓が、西寺町の「愛染寺」にあります。
神崎与五郎御母堂の墓
神崎与五郎の母の墓

さらに。徳森神社には、討ち入り前に詠った歌碑が建っています。
神崎与五郎歌碑
「海山は中にありとも神垣の隔てぬ影や秋の夜の月」
ところで、なぜ、箕作阮甫と神崎与五郎の2人を出したかということですが、この2人は親戚だったのです。
箕作家で最初に医師になった貞辨(丈庵)は、神崎与五郎のいとこにあたります。
この話「忠誠後鑑録」にみえ、箕作家の所伝にもあって、信用できるようです。
津山箕作家初代は義林で、津山藩森家2代長継に召しだされたのが津山藩との関わり始まりです。
備前和気群片上村(今の備前市片上)の藩士だった神崎林範の息子が与五郎の父で又市です。又市は森藩に仕えていました。又市には娘がいて、この娘が嫁いだのが箕作義林でした。
義林の次子貞辨は、箕作家ではじめて津山で町医を開きました。
その後、阮甫まで5代ありますが、系図的に記しておきます。
貞辨の子政辨は医業を嗣がなかったので、娘のみきの婿養子貞隆が家督を相続しています。貞隆の実家万波(まんなみ)家は和気郡塩田村の郷士で、同郡藤野村の大庄屋万波家の分家になります。
その子貞固は名医の評判が高く、天明2年(1782)、当時の津山藩主松平康哉に藩医として召し出されています。しかし、44歳という働き盛りで世を去り、その医業を継ぐ予定で修行をはじめた長男豊順も17歳で早世し、貞固の3男阮甫(幼名貞一)が家督を相続することとなりました。
神崎与五郎と箕作貞辨(丈庵)のエピソードが残っています。そのうちの一つ。
丈庵には、「ほお切れ丈庵」とうあだ名がありました。これは、丈庵が13歳のころ刀鍛冶の子どもと遊んでいて、その子が差していた脇差しを見て、、だれが打ったのかのかと聞くと、親父が打ったと答えたので、丈庵は「切れはすまい」とからかったところ、これに怒った相手が脇差しで、丈庵のほおを傷つけました。丈庵は泣いて家に帰ったところ、武術見習いのため、箕作家に同居していた与五郎が、それを見て、切った子どもを追っかけて捕らえ、丈庵に切らせたというものです。
神崎与五郎と箕作家が親戚だったという話は、津山の人もあまり知らないでしょう。
愛染寺に神崎与五郎の墓を愛染寺に訪ねてくる人も年に1人か2人しかいないようです。
箕作阮甫も神崎与五郎も、もっと知られてほしいです。
(参考資料下山純正津山洋楽資料館長「美作洋学あれこれ48」山陽新聞)
最後に、ホテルから見た津山城。
津山城

津山のあじさい寺・あじさい

岡山県津山市の「金光山長法寺」は「あじさい寺」と呼ばれています。6月の土曜日だったので「あじさいまつり」が開催されていて、たくさんの人が訪れていました。
長法寺 境内下
長法寺は、佐良山三座の一つ神南備山の山麓に、天平の開基以来、天台宗の古刹として知られています。
明治6年の津山城のとりこわしと同時に城内の紫陽花の描かれた腰高障子を当寺の本堂に移したのがきっかけで境内に紫陽花が植えられ、あじさい寺の名前で知られてきました。
大きな公孫樹の樹がありますが、この公孫樹を見て、明治34年、薄田泣菫が、「公孫樹下に立ちて」の詩を作っています。
公孫樹の下で
鐘楼がありますが、明治のころ、夜の明ける時、必ず百八つを撞かれていたといわれます。当時の津山人はその鐘の音で起き出で、鐘を聞いて旅立ったといわれています。
今年は、少し花の勢いが弱い感じがしました。
長法寺 参道
あじさいが咲いて
この本堂の左側奥に紫陽花の描かれた腰高障子があります。
長法寺

倉敷の夜と朝

倉敷は、昔から一度とんまってみたいと思っていた倉敷アイビースクエアホテルに泊まりました。
倉敷アイビースクエア
ホテルに入る前に、屋根にたくさんの犬が置いてある家がありまそた。かつてビクターのものを老いてる楽器屋さんの前にあったあの犬です。
日が暮れて、鎌倉美観区域へ出かけてみました。
夜の倉敷館
すてきな情緒です。人もたくさんいたのが、観光案内もしている倉敷館です。
入って見ると、今テレビでやっている「天皇も料理番」がロケに来ていたのですね。それらしき場面確かにありました。でも倉敷で、とは思いませんでした。
大原美術館も明かりで照らされていました。
夜の大原美術館
朝はまたすてきです。まだそんなに人が来ていません。
浅の倉敷
左が夜入った倉敷館です。
倉敷川もすてきです。
朝の倉敷川
泊まった倉敷アイビースクエアの蔦、ここの場面は朝ドラ「マッサン」に登場しました。「マッサン」もロケに来たのですね。
アイビースクエア
倉敷は、やはり蔵造りが似合います。路地の風景、お気に入りです。
倉敷の路地

倉敷は、念願の倉敷アイビースクエアに泊まりました。

歩いた道のマンホール

今回、姫路から倉敷に行って泊まり、翌日津山へ行って用事をすまし、帰りに法然上人ゆかりの誕生寺へお参りしました。
その道筋で目にしたマンホールのフタを並べてみます。
▼姫路市
姫路 マンホール
姫路市の花・シラサギ模様入りのマンホール蓋です。
姫路城が入った模様もあるようですが、今回は気づきませんでした。
▼倉敷市
倉敷 マンホール
泊まりに行ったので、夜と朝、倉敷美観地区しか歩きませんでした。
その美観地区で目にしたフタです。何の模様か何のフタかはわかりませんが、波紋ですかね。倉敷の下水マンホールには倉敷市の花藤がデザインされています。
▼津山市
マンホール 津山
津山城の石垣と、カッパが描かれています。このカッパは、宮川(吉井川とも言われますが)に住むと言われる伝説のカッパで「ごんご」と呼ばれています(私が子ども頃は聞いたことがないのですが)
肩に「作州津山」と書かれたのぼりをかついでいます。最近は「作州」「美作(みまさか)」が使われ、作州は珍しくなりました。ふたの上の方には、市の花であるサクラが描かれています。
▼誕生寺
むめなん マンホール
岡山県久米南町です。
久米南町は川柳での町おこしを実施しています。こちらも描かれてているのは津山と同様、河童ですが、名前は「かっぴー」。
「かっぴー」です。 デザインは河童の「かっぴー」が、ボールとグローブを持っているいるもので、 周囲には町の花「ツツジ」が描かれています。

姫路城の「お菊井戸」と「皿屋敷伝説」

姫路城の本丸下、上山里と呼ばれる一角に、「お菊井戸」と呼ばれる古い井戸があります。この井戸は「播州皿屋敷」のヒロインお菊が責め殺されて投げ込まれたといわれる井戸で、もとは釣瓶取井戸と呼ばれていました。
お菊の井戸
お菊が登場する「播州皿屋敷実録」は、次のようなストーリーになっています。
『播州皿屋敷』
永正年間(1,500年頃)小寺氏が姫路城主であった時代のことです。その第9代城主小寺則職の家来の青山鉄山は、小寺氏を滅ぼし、いつか自分が城主になりたいと 野望を持っておりました。 衣笠元信という忠臣がこれを知り、腰元のお菊をスパイとして青山家に潜入させておりました。
そして、元信は、青山が増位山の花見の席で則職を毒殺しようとしていることを突き止めます。
この知らせを聞いて元信は、花見の宴で城主を毒殺しようとする鉄山の陰謀を阻止することができました。その後もお菊は、鉄山の屋敷で動向を探り続けていました。
そんな折に、戦が起こり小寺氏に敵対する大名の味方をした青山鉄山は小寺氏を瀬戸内海に追い出し、自分が姫路城主となり、小寺氏の家の宝10枚揃いの『こもがえの具足皿』を奪います。
そして、自分に力を貸してくれた近くの土豪を招いて 宴の折 この皿を用意するように、お菊に命じます。
鉄山の家来の中の一人 町坪弾四郎(まちつぼだんしろう)は かねてお菊に惚れておりましたが、
鉄山の家来の中の一人 町坪弾四郎は、かねてお菊に惚れておりましたが、
相手にされないと その10枚の皿のうち1枚を隠しお菊が疑われる様に致しました。
鉄山は怒り、お菊を責めますが弾四郎がなだめすかし お菊は弾四郎家へお預けとなります。
ここでもお菊に思いを伝えますが、これでもお菊は相手にせず 怒った弾四郎は、お菊を庭の松に吊し上げ 散々責めた挙句に井戸へ投げ込んでしまいます。
 それからというもの夜ごと井戸の底から悲しげな女のか細い声で
 「一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚、七枚、八枚、九枚・・・・・」
と皿を数える声が聞こえるようになりました。
そのお菊が投げ込まれた井戸がお菊井戸だと言われています。
やがて小寺則織が巻き返して姫路城を奪い返し 青山鉄山は討ち死にし
町坪弾四郎は家宝の皿 10枚を返して命乞いをしますが、則織は許さず、
お菊の妹二人に 仇討ちをさせたそうです。以上 「姫路城史」より。
これが『播州皿屋敷』のもとになった お話しです。 
お菊の井戸アップ
これとよく似た話を思い出します。
夜な夜な枕元に聞こえる不気味な声。
「いちま~い、にま~い…」
こうくると思い出すのは、『番町皿屋敷』です。
実は、『番町皿屋敷』は、大正時代に『播州皿屋敷』を元に岡本綺堂が書いた物語だと言われています。
番町皿屋敷 お菊 月岡芳年
しかし、もともと、千代田区番町に、そうした伝説があったと言われます。
番長の「皿屋敷伝説」は、江戸番町の旗本、青山主膳が南京絵皿を誤って割ってしまったお菊を責め、その結果お菊が井戸に投身自殺した事件で、江戸の街でその真相を巡って噂が広がり、ついには怪談話になったということです。
千代田区五番町と九段南4丁目の間に「帯坂」という坂があります。
この坂の名称は、番町皿屋敷のお菊が髪をふり乱し、帯を引きずってにげたという伝説によります。お菊の井戸はありませんが、坂にお菊が存在しています。
なお、岡本綺堂の青山の名前は、「青山播磨」になっています。『番町皿屋敷』を意識していたことは確かです。
平塚にも同じような話があるようです。
ここのお菊さんは、江戸時代の宿場町「平塚」の「真壁家」という役人の娘で、江戸番町(現在の東京都千代田区一番町から六番町)の青山家に奉公に行っていて、元文5年(1,740)、家宝の皿を割った、という濡れ衣をきせられ、殺されてしまいます。その後、お菊さんの幽霊が恨みを晴らそうと、毎夜青山家に現われたというものです。 平塚駅近くの「紅谷町児童公園」という小さな公園の中に、「お菊塚」というものもあるそうです。
「皿屋敷伝説」は各地にあったようです。
北斎 さらやしき
歌舞伎の「皿屋敷伝説」を元にしたものは、人形浄瑠璃として元文6年に豊竹座でされ、嘉永3年(1,850)に中村座で初演された『播州皿屋敷』があり、大正時代からは岡本綺堂の『番町皿屋敷』が演じられました。
また、落語にも「皿屋敷伝説」を元にした江戸落語「お菊の皿」、上方落語「皿屋敷」があります。
昔は、子どももよく「いちま~い、にま~い…」 とやっていましたが、最近はあまり聞きません。
カット上は、月岡芳年の<お菊「番長皿屋敷」>
下は 北斎の「さらやしき」
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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