FC2ブログ

姫路城の石垣を見る。

石垣と天守
姫路城は石垣に注目して見るのも面白いです。
◍秀吉時代の石垣も残っています。下山里丸の石垣です。
上山里下段石垣
大手門を入ってまもなく右に行くと、見られます。
上山里下段石垣は、天正8年(1580)~9年に羽柴秀吉によって築かれた石垣と考えられています。秀吉は、毛利攻めのため、黒田官兵衛の城だった姫路城を拠点とし、当時としてはめずらしい三重の天守を持つ新しい城郭を築きました。
当時、秀吉が黒田官兵衛に宛てた書状(黒田家文書)によると、秀吉は最も頼りとする重臣で地域の事情に精通している官兵衛にも築城を命じており、この石垣も官兵衛が関わっています。
以下見学順でなく、今回出会った石垣を載せます。
◍「扇の勾配」
「扇の勾配」
この石垣の上は櫓や土塀が無くなっていますが、備前丸です。
「扇の公配」は、石垣の角度を、扇の開いた形に湾曲させてあることからそう言われていますが、こうした反りをつけることによって、攻め手がよじ登りにくい効果があり、また、この形で高く石を積むことができるのだそうです。
なお、姫路城の石垣は殆どが「野面積」(のつらづみ)で、角の部分は長辺を交互に積む「算木積」(さんぎつみ)という積み方をしています。
「野面積」というのは、自然石を積むものですが、その石は表面に見える大きさの2倍半以上の奥行きがあり、その奥には2mないし5mもの厚みをもって栗石がいれられています。だから、上に櫓や塀を築いても崩れません。
◍継ぎ目のある石垣
継ぎ目のある石垣
この石垣は、リの一渡櫓とリの二渡櫓を支える石垣で、リの二渡櫓の下に石垣の角部が線(継ぎ目)になってみえています。この線から南側(右手)が秀吉、北側(左手)が池田輝政の時に築かれたものです。積み方に違いが見られます。
姫路城の建物は西の丸をのぞき、多くが池田輝政によって築かれました。しかし、縄張り(曲輪の配置など)や一部石垣は、羽柴時代のものを引き継いでいるので、この石垣のように池田時代になって増築された場所に、新旧の石垣の継ぎ目が生じたのです。(現地の案内看板より)
Vの字に継ぎ目のある石垣
同様の石垣の継ぎ目は、三国堀の北にも見ることが出来ます。こちらは、堀をせき止めて池にしたために出来た継ぎ目だそうです。Vの字になっている部分がそれです。これはVの字部分が秀吉が城主だった戦国時代の空堀で、江戸時代になって埋められました。
◍「姥が石」
老婆が差し出した石
「ほの門」をくぐった右手に、有名な「姥が石」があります。石臼です。金網で保護されています
この石は、秀吉築城の時、城下で餅を焼いて売っていたおばあさんが、秀吉が石垣に使う石が足りなくて困っているという話を聞き、自分が使っていた石の臼を差し出して秀吉を喜ばせたという伝説があります。そして、このおばあさんの話が伝わると領民たちがわれもわれもと労働や資材の提供を申し出て、工事が順調に進んだ、となっています
ただ、秀吉時代のエピソードでありながら、石臼が使われている石垣は池田輝政時代のものです。
◍石棺を使った石垣
備前門石棺
備前門に向かって右側に大きな石棺が使われています。
これは、石棺をやむなく石材として使ったのではないかと言われます。築城の時、石材の確保、運搬が難しかったのです。
姫路城が築かれる前、この場所は姫山と呼ばれていて、昔から有力者の古墳などが周辺にあった事から、築城時に掘り起こされて、石棺が石垣に利用されたという説もあります。
備前丸から上山里丸へ向かう道沿いの石垣にも、かつて石棺がはめ込まれていた場所があります。いまは外されて、かわりに同じ大きさの石材がはめ込まれています。上方の大きな長方形の石がそうです。元お棺の入っていた石垣
スポンサーサイト



姫路城の紋瓦

大天守から瓦をみていると、下に揚羽蝶の家紋、上に大きな桐紋が目にはりました。
揚羽蝶は池田氏のものです。桐は、羽柴秀吉のものかと思ったのですが、違うようです。池田氏や本多氏、榊原氏など、秀吉以外の大名も桐紋を使用したことがあるということした。したがって、揚羽蝶は小さいですが、池田氏のものと思って良いのかもしれません。
桐と揚羽蝶の家紋入り
軒丸瓦に家紋の意匠を施すのは安土桃山時代からですが、お城には城主の家紋が使われます。
姫路城では、池田輝政以降、城主の交代がたびたび行われたので、瓦の家紋もふき替えごとに異なるものが交じり、たくさんの紋があります。
ひとつ池田氏の揚羽蝶にしても、デザインの異なるものが5種類はあるそうで、本格的に調べると、その種類はすごい数になるでしょう。
池田輝政の家紋揚羽蝶の入った瓦
ついでながら、現在の姫路城を築いた池田輝政は、いわば幸運の武将だったと言えます。
池田輝政は、織田信長の乳兄弟であった池田恒興(つねおき)の次男として生まれました。信長に仕えます。信長亡き後、羽柴(豊臣)秀吉に仕える事になった父、恒興とともに、輝政も秀吉配下になります。
その後、天正12年(1584年)に起こった小牧長久手の戦いで、父の恒興と兄の元助を同時に失ってしまいます
父と兄の死を受けて、池田家の家督を継ぐことになった輝政・・
亡き恒興の功績を高く評価していた秀吉は、翌・天正十三年に、輝政に美濃(岐阜県)岐阜城を与え、その領地も10万石としました。
さらに、その3年後には、「豊臣」の姓を名乗る事も許されます。
さらに、文禄3年(1594年)には、秀吉の仲介で、かつて北条氏直に嫁いで、今は未亡人となっている徳川家康の娘・督(とく)姫と結婚します。
と、この結婚が輝政の運命を変えます。
このことが,家康から優遇され,池田家繁栄の基盤を築く背景となりました。
慶長5(1600)年関ケ原戦には東軍に属し,織田秀信のこもる岐阜城を攻略。決戦には先陣を務めた。戦後その功により播磨姫路52万石に封ぜられます。
姫路入城後,城郭の大規模な改築に着手することとなるのです。
(ちなみに、池田輝政が52万石、弟長吉が因幡鳥取6万石、次男忠継が備前28万石、3男忠雄が淡路6万石を与えられ,一族の合計所領高は92万石にもなりました)
ほかに、本多家の立ち葵。
本多家の家紋立ち葵が入った瓦
酒井家の剣酢漿(けんかたばみ)も気になりました。
(けんかたばみ) 酒井氏

大天守から下を望むと。

大天守からふきかえられた屋根の瓦を見ました。白いお城の元です。
吹き替えられた瓦
鯱と河原の文様、いろいろな家紋が少し見えます。
鯱も見ました。
菱の門を見ました。
大天守から菱の門
お城の天守の風格が見られます。
大天守から西の丸方向
まっすぐ伸びる道の先に姫路駅があります。
大天守~姫路駅方面

姫路城 大天守へと向かいます。


菱の門から天守に向かいます。菱の門
菱の門は、三の丸から二の丸へと通じる大手口を固める櫓門です。火灯窓(かとうまど)が見事です。

菱の門から天守を望ます。
菱の門から天守を望む
はの門へ。天守へ至る「上道」途中に建つ櫓門。
はの門へ
石落としを外から見るとこのような形状になっています。「筋交」(すじかい)と呼ばれる構造材で1~2階に通して入れられています。
石落としも見える
しだいに上にあがって、いろいろな門が見えてきます。
トの門あたり
今来た道や西の丸もよく見えます。
今来た道、西の丸も見える
いよいよ大天守へ入ります。
写真は、大天守1階と二の渡櫓を結ぶ扉で、大天守に入る4つの扉のうちのひとつです。大天守への出入口の扉はすべて二重扉になっていて、この二重目の扉は、外面を鉄板で覆われており、大天守内側からカンヌキがかかるように造られています。
西小天守へつながる二重扉 天守1階

姫路城・西の丸を歩く

西の丸から
姫路城の西の丸には「西の丸長局(百間廊下)」と「千姫化粧櫓」があります。
化粧櫓は、徳川秀忠と江の長女として生まれた千姫のためにつくられたものです。
千姫は、若くして豊臣秀頼に嫁ぐのですが、大阪夏の陣で秀頼と死別し、その後本多忠刻と再婚して、姫路城で約10年間を過ごします。
化粧櫓の内部
その千姫がこの櫓を休息所としたので、この櫓を「化粧の間」、または「化粧櫓」と呼んでいました。写真は、化粧櫓の内部です。
また千姫に仕えた侍女たちが居た場所を西の丸長局(百間廊下)と呼んでいますが、千姫は、天満天神を信仰していて、姫路へ来てからは、西方の丘男山にこれを祀り、毎朝この百間廊下から男山を拝んでいたと伝えられています
男山には本多家の繁栄を願って中腹に男山千姫天満宮が祀ってあります。
男山天満宮
忠刻と千姫の夫婦仲は睦まじく、姫路に来てから相次いで勝姫(のち池田光政室)、幸千代の2児をもうけ平和な日々を送っていましたが、幸千代を3才で亡くし、忠刻も寛永3年(1,625)に31才の若さで世を去ってしまいました。
千姫は、その年、落飾して天樹院と号し、悲しみのうちに姫路を去り江戸、德川家に帰りました。
百間廊下は、見学者が多く写真が撮れなかったのですが。いくつかの部屋があり、窓からは本丸を望むこともできました。
侍女たちの部屋のひとつでしょうか。
西の丸の部屋の様子
窓から西の丸の櫓が見えます。
部屋から西の丸の櫓が見える
反対側に天守もこんな風に見えました。
西の丸から望む天守

姫路城を見に行きました。

白鷺が羽を広げたような優美な姿から「白鷺城」の愛称で親しまれる姫路城。
2009年からスタートした姫路城の「平成の大修理」が今年(2015年)の3月に完了。3月27日にオープンして多くの人が訪れました。
私もやっと行って来ました。
三の丸広場から天守を望む
現在の姫路城大天守が完成したのは慶長14年(1609)。関ヶ原の戦いの後、豊臣恩顧の大名の多い西国に睨みをきかせるため、姫路を任されたのが池田輝政です。慶長6年(1601)から8年掛け完成させたものです。
ただ、この時にはまだ、西の丸はありません。西の丸は、池田家の後に入城した本多家が元和4年(1614)に造営しました。
姫路城は姫山と鷺山と呼ばれる2つの山の上に造られています。
本丸は姫山の上にあり、鷺山の上に造られたのが西の丸です。
少し雨模様 天守を望む
本丸側では小さな曲輪をひな壇のように造営されているのに対して、西の丸では、平坦地を作り上げ、鷺山の外周に沿って櫓や渡櫓で構成した一つの大きな曲輪となっています。そうした違いが歩くことでしっかり感じ取れます。
白鷺城 天守
3月にオープンして以来、一番話題になったのは、姫路城が白すぎるということでしたが、行って見ると想像していたほど白くは感じませんでした。もう写真などで見慣れたせいか、あるいは少し雨が振っていたからかもしれません。
その白さは、約7万5千枚の瓦をふき直したことによるということで、屋根もしっかり見てこなくては、と思っていました。
姫路城の天守は江戸時代のままの姿で現在まで残っている12の現存天守の一つで、その中で最大の規模を持っています。歩いて見ると、確かにその規模の大きさに驚かされます。
まず西の丸へ行って、大天守へと廻りました。
西の丸へ

歌声喫茶

今年の4月⒓日のことですが、新宿区立新宿文化センター 大ホールで「第14回ともしび春の大うたごえ喫茶」が開かれました。
これに行ったのですが、会場は満杯。まさに全国のうたごえ喫茶ファンが、一堂に会する「1100人のともしび春の大うたごえ喫茶」でした。
まだ学生だった、昭和40年代、「うたごえ喫茶」は流行っていました。何度か誘われて行ったことがあります。あまり好きではなかったので、どんなだったか、もうすっかり忘れていますが、
喫茶とありますが、食事も出ていたような気がします。
けっこう明るかったです。本を渡され、みんなと一所に歌いました。バンドは訛ったと思います。カラオケはまだ登場していませんでした。
その後、何十年もたって、うたごえ喫茶で歌った、ロシア民謡、あれはどこに行ったのだろう、が話題になりました。
そうだな、すっかり歌う人と出会わなくなっていました。
それが、この圧倒される人たちで、ちゃんとロシア民謡も歌われます。
カルチャーセンターのパンフレットを見ていたら、うたごえ喫茶の講座がきちんとあります。読売と朝日、マスコミ系にカルチャーセンターです。
よみうりカルチャー荻窪の内容紹介です。
「肩を組み、腕を組み、皆で歌った懐かしいロシア民謡、童謡、唱歌、民謡…そして叙情歌。新宿を中心に一世を風靡した『歌声喫茶』が、アコーディオンの伴奏に乗って今よみがえります。みんなで歌えば怖くない”。さあ、青春時代にタイムスリップ、明るく楽しいひとときを思いっきり歌って過ごしましょう。」
なるほど、青春時代に帰ってみようというわけです。
そして、思い出に浸りたい人がたくさんいるということです。
そもそも、歌声喫茶が誕生したのは、西武新宿駅にあった「灯」というお店でした、
灯びる
今行ってみると、1階がセブンイレブンで2階には喫茶ルノワールが出ていました。
歌声喫茶生まれたエピソードとして次のような話が伝わっています。
昭和29年、西武新宿駅前にロシア人の経営するロシア料理店「アガニョーク」が誕生しました。。
しかし、この店は、経営不振となり廃業してしまいます。
これを地主の息子で早稲田大学を出たばかりの柴田伸という人が引き継ぎ、丼物50円均一の大衆食堂に改装しました。店名は。「アガニョーク」を直訳した「灯」でした。
その店はでは、BGに前の経営者が残したレコードを流していたのです。
あるとき、食堂に流れるロシア民謡に合わせて1人の客が歌い出しました。その時柴田には、ひらめきがありました。唄える店を作ろう。「これが『美声と音痴の店 灯』誕生のきっかけでした。
昭和30年代に入ると、労働運動、学生運動の高まりがあり、その連帯感を生む歌声喫茶として人気は急上昇していき、ブームが訪れます。
最盛期には都内20軒、全国で100軒を超える店があったということです。。
今も場所は違いますが、「ともしび」は近くにあります。先の「第14回ともしび春の大うたごえ喫茶」その「ともしぎ」です。
定年を迎えた団塊の世代が歌声喫茶を懐かしみ、<古巣>に戻ってきているということです。
歌声喫茶が生まれて60年。発祥の地とされる新宿で、団塊世代から拡がっているようです。

昭和40年代に「スタジオ・ゼロ」があった。

新宿中央公園の西北の角に交番があり、その前が十二社通りの交差点になっています。その交番の斜め向かいの角に、昭和40年代に「スタジオ・ゼロ」が入っていたビルがありました。
十二社通り スタジオゼロ跡
「スタジオ・ゼロ」は、昭和41年(1966)、鈴木伸一、石森章太郎、つのだじろう、角田喜代一(つのだじろうの兄。電通勤務)、藤子不二雄(安孫子素雄、藤本弘)らにより、「トキワ荘時代よ、もう一度」というふれこみでできた漫画家集団でした。主たる目的としては、アニメ作りに取りくむといことでした。
またこのビルには、赤塚不二夫も引っ越してきます。 これが「フジオ・プロ」の始まりです。
とにかく赤塚不二夫の活躍は目を見張るものがります。
赤塚は、昭和40年(1965)に「おそ松くん」で第10回小学館漫画賞を受賞しています。
昭和42年(1967)、この年は十二社に引っ越してきていますが、『週刊少年マガジン』で「天才バカボン」、『週刊少年サンデー』で「もーれつア太郎」の連載を開始しています。
アニメでいえば、昭和40年(1965)「おそ松くん」がテレビ放映。
昭和44年(1969)「ひみつのアッコちゃん」と「もーれつア太郎」が、昭和46年(1971)には「天才バカボン」がテレビ放映されています。
しかし、その昭和41年(1971)に「スタジオ・ゼロ」が解散しています。
「スタジオ・ゼロ」が解散し、各プロダクションが引っ越した後も市川ビルにはそのまま「スタジオ・ゼロ」の看板が平成15年(2003)9月の解体されるまで掲げられていたようです。
昭和42年の記念写真を見たのですが、屋上にたくさんの人が並んで、手を振っていました。
赤塚不二夫は、この十二社から大きく羽ばたき、藤子不二雄の作品には「この近辺の風景をモチーフにした漫画が出てくる」そうです。
一つの漫画、アニメの聖地と言えます。
何か記念碑が欲しいです。
少し、大江戸線の新宿五丁目の駅ほ方にいくと、台湾料理の「山珍居」があります。ここには、赤塚不二夫を初めとして、多くの漫画家が通っています。お店には、その人たちが描いた色紙がたくさん飾ってあります。
そういた色紙も飾って、十二社の記憶を呼び覚ましたいものだと思いました。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR