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羊山公園 芝桜いろいろ

それぞれの芝桜もすてきでした。
マックダニエルクッション
芝桜 マックダニエルクッション
多摩の流れ
芝桜 多摩の流れ
モンブラン
芝桜 モンブラン
オータムローズ
芝桜 オータムローズ
エメラルドクッション
芝桜 エメラルドクッション
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羊山公園「芝桜の丘」

羊山公園の芝桜
羊山公園(ひつじやまこうえん)は、埼玉県秩父市大宮にある公園です。
4月末になると、テレビで美しい、花の絨毯が映し出されます。
見てみたいと、思い立って出かけました。
「羊山」の名は戦前に埼玉県の綿羊種畜場が設けられていたことによります。今でも羊が飼われているようですが、今回は、芝桜の見学だけでした。
一面に芝桜が植えられた場所は「芝桜の丘」と呼ばれています。
色とりどりの芝桜がデザイン化され植栽されています。
植栽面積は約17,600m2、9種類、約40万株だそうです。
ほぼ満開。きれいだなと感動しました
みごとな芝桜
きれいな文様ができています。
芝桜の文様
芝桜の文様2
たくさんの人が来ていました。それも一つの風景です。
羊山芝桜の丘 たくさんの人


ビルのあいまに頭を出したゴジラ。 吠えるか。

新宿は歌舞伎町、かつてのコマ劇場があった所に「新宿東宝ビル」が17日グランドオープンしました。
ゴジラが出現したというので見に行きました。
靖国通りから歌舞伎町に入ると、みんなが、スマホを上に向けています。
ビルに手をかけたゴジラの頭の部分が見えます。
歌舞伎町にゴジラ1
ホテルにゴジラ
8階の場所ですから、小さいですが、ゴジラです。
まさか「ゴジラ」を作るとは想像もしていませんでした。
コマ劇場が無くなって、シネコンとホテルが出来ると聞いて、正直あまり期待していませんでしたが、こんな手があったのかと、少しびっくりしました。
「新宿東宝ビル」1階は飲食・物販店舗、8階から30階までがホテル。そして3階から6階は都区内でも有数の規模を誇るシネマコンプレックス TOHOシネマズ 新宿です。
このゴジラについては、次の解説がありました。
「ビル8階の屋外テラスに設置されたゴジラヘッドは、『ゴジラvsモスラ』(1992年)の撮影で使用し、保管してあったゴジラ原型を3Dスキャンで起こしたものだ。設置面積258㎡、重さ80トン。高さはテラス床面から12m。ホテルの高さ約40mを加えトータルで52m。昭和のゴジラとほぼ同じ高さになる。造形を取り仕切った責任者に訊いてみた。『観客動員が平成ゴジラシリーズ最多の420万人という記録を誇り、あらゆる年齢層に訴えかける“モスゴジ”を選びました』
日比谷にある『ゴジラ』の銅像を始め、東宝が手がけるオブジェはこれが3体目となるようですが、
ゴジラそんなに人気があるかな、と思ったのですが、8階のゴジラが見られるカフェは、何時間も満員でした。
シネシティ側のゴジラ(映像)
コマ劇場は、株式の券があって、一時毎月通っていました。
コマ劇場の地下に東宝の映画館があって、これにも、よく行っていました。ゴジラ映画も見ました。毎回楽しみに行ったのが、「座頭市」。「悪名」シリーズ、「黒の・・・」シリーズもよく見ました。
そんな風に懐かしい場所、どうなっていくのかな、と思います。
こちらもゴジラか

光前寺の本堂の興味深い彫刻

光前寺本堂
光前寺の本堂は、嘉永4年(1851)に再建されたということですが、彫り物も見事です。左右2体の彫り物が目に入ります。遠くから見ると猿かなと思ったのですが、
カメラのズームでねらうと、「童子」という感じです。
背中に背負っているのは、龍のしっぽと思ったのですが、本堂の前から撮った写真では、頭はどちらかと言うと獅子頭のようです。でも龍でしょうね。
すべて不明ですが、とても気になった彫刻なので、載せておきます。
不思議な彫り物 右
不思議な彫り物 右
本堂の不思議な彫刻 左

霊犬早太郎伝説

光前寺は、長野県駒ヶ根市にある天台宗の別格本山の寺院です。平安時代に開山されたと伝えられています。
武田・羽柴等の武将の保護を受け、徳川からは地方寺院としては破格の大名格を与えられていました。
明治以降は、多くの末寺等も廃寺となりましたが、今なお樹齢数百年の杉の巨木に囲まれた境内には、十余棟の堂塔を備え、長野県屈指の大寺で、南信州随一の祈願霊場として広い信仰を集めています。
そして、霊犬早太郎説話が伝わります。本堂に霊犬早太郎の木像が、境内には墓と石像があります。
早太郎の木造 正面
大変興味深かったので、少し長くばりますが、その伝説を引用します。
<霊犬早太郎伝説>(伊那毎日新聞社「伊那の伝説と昔話」より)
今からおよそ700年ほど前のお話です。
光前寺というお寺の下で、山犬が三匹のかわいい子犬を生みました。
それを知った和尚さんは、毎日おいしいご馳走を、たくさん運んでやりました。
月日がたち子犬はだんだん大きくなり、 母犬といっしょに、お寺の庭をかけ回って楽しく遊ぶようになりました。
ある日、母犬は三匹のかわいい子犬を連れて帰ろうとしたとき、 一番利巧そうな子犬を一匹お礼としてお寺へ残していきました。
その子犬は、灰色をしていて、強そうで、走ることがとても早かったので、和尚さんは「早太郎」と名前をつけてかわいがっていました。
ある寒い日の夕方のことです。
お寺のうら山へおそろしい怪物が出てきて、遊んでいた子どもをさらって逃げようとしました。
それを見つけた早太郎は、風のような速さと、すごい力で、怪物と戦い、子どもを助けました。
そのことがあってからは、村の人たちも、
やさしく強い早太郎をみるとだいたり、なでたりしてかわいがってやりました。

そのころ、遠州(静岡県磐田市)では、秋祭りの晩になると、かわいい女の子のいる家に、白い矢がとんできて屋根にささり、矢のささった家では、女の子を、白木の箱に入れてお宮へ供えなければなりませんでした。
それをしないと田畑の作物が一晩のうちに荒らされてしまうのでした。
とうとうお祭りの夜がやってきました。お坊さんが、白い木の箱に入れた女の子の様子を見ようと、太い木の陰に、そっと隠れて見ていると「今宵、今晩、信州信濃の早太郎はおらぬか。このことばかりは早太郎に知らせるな。」
と何回もうたいながら、大きい怪物が現れ、白い木の箱の中から、女の子をわしづかみにすると、ものすごい早さで消え去って行きました。
その様子を見たお坊さんは、おそろしい怪物のうたったうたを忘れることができず、 一日も早く信州信濃の早太郎を捜そうと思い、 旅をしている六部という人に頼んでみました。
頼まれた六部は「信州信濃の早太郎はおらぬかい。」「信州信濃の早太郎はおらぬかい。」と早太郎捜しの旅に出かけました。六部は毎日あちら、こちらと捜し回って、やっとのことで、宮田のお茶屋にたどりつき、
ひと休みをしてお茶を飲んでいるとお茶屋のおばあさんが、 早太郎の話を聞かせてくれました。
話を聞いた六部は、喜びいさんで、お茶もそこそこに光前寺へ行き、早太郎を貸してくださいと、和尚さんに頼みました。
霊犬早太郎の木像
六部から怪物の出る話を聞いた和尚さんは「早太郎がんばっておいでよ」
と犬の頭を優しくなぜなぜ六部に渡しました。
早太郎を借りた六部はおおよろこびで遠州(静岡県)へ帰っていきました。
さて、冷たい風が吹くお祭りの夜のことです。かわいい女の子の身代わりに早太郎を白い木の箱に入れて、
神様の前に供えておき、お宮のえんの下のすみでじっと様子を見ていると、
大きい怪物が待ちかねたように、太い杉の木から飛び降り、あたりをキョロキョロ見渡して、「今宵、今晩、信州信濃の早太郎はおらぬか、このことばかりは早太郎に知らせるなよ」とうたいながら、白い木の箱に近づいて行きました。
怪物がふたをあけたとたん、早太郎は箱から飛び出して怪物にとびかかっていきました。
怪物も負けずに「ウワー、ウワー」と、すごい叫び声をあげて早太郎にとびかかりました。
しかし、早太郎はうなり声ひとつあげずすごい速さと力で闘い続けました。怪物は体中、血だらけになりだんだん弱っていきました。
早太郎も少しけがをしていましたが、最後の力をふりしぼって、怪物ののどにかみついていきました。 怪物は「ギャー」といってばったりたおれ、
動かなくなってしまいました。
お祭りの夜があけたので、村の人たちが、おそるおそるお宮へ行ってみると、早太郎の姿は見えず、年とったヒヒ(猿)が血まみれになって死んでいました。
早太郎は、血まみれのまま、遠い遠い信州の光前寺までやっとのことでたどりつき、えんがわにいた和尚さんの顔を見ると「ワン」と一声ほえ、ばったりたおれて死んでしまいました。
和尚さんは、死んだ早太郎の体を、やさしく、やさしくなでながら「早太郎よくたたかった。強かったな。」とほめてあげました。そして、太い杉の木にかこまれた本堂の左横に穴を掘り、永い永い眠りにつかせてあげました。
霊犬早太郎の墓
<注>
▼「早太郎」の名称
光前寺の伝説では「早太郎」とされていますが、伝承地である見附天神では「悉平(しっぺい)太郎」あるいは「疾風太郎」と呼ばれています。
▼見附天神
静岡県磐田市にある矢奈比賣神社が正式名称。隣接地には早太郎を祀る霊犬神社がある。一実坊はこの神社の社僧であり、実際に早太郎を探しに信濃へ行ったのは「一実坊」という、この神社の社僧であったという伝説もあります。
また見附天神での伝説では、大怪我を負った早太郎を村人が介抱し、それから光前寺に送り返したとされています。
●また、駒ヶ根市と磐田市はこれを縁にして、姉妹都市を結んでいます。
霊犬早太郎の石像

長野県駒ヶ根市の光善寺の桜

高遠から、最近しだれ桜で名を馳せる長野県駒ヶ根市の光善寺(こうぜんじ)に行きました。
境内全域約6万7000平方メートルは国の名勝に指定され、参道脇の石垣は珍しいヒカリゴケの自生地になっています。最近はしだれ桜で有名で、それで連れて行ってもらったのですが、ときどき雨模様の空も晴れて、本当にすばらしい桜の風景でした。
光前寺
晴れると嬉しい。山も見える。
しだれザクラと山と空
遠くの中央アルプスの山に雪が。
光前寺の門前近くの桜
名物しだれ桜
名物しだれ桜
紅色の桜が拡がる。
紅色の桜
いろいろな色の桜。
いろいろな桜
下には水仙も。
水仙も咲いている
少しアップで。
少しアップで

高遠城址公園 タカトオコヒガンザクラ

春が来ると、早めに咲く少しピンクかかったつややかな「タカトオコヒガンザクラ」を毎年楽しみしています。
高遠の江戸時代藩主であった、内藤家の屋敷が、今の新宿御苑にあった縁で、新宿御苑や新宿中央公園には、長野県の天然記念物である「タカトオコヒガンザクラ」が咲きます。
それで、ぜひ高遠で「天下第一の桜」と呼ばれる「タカトオコヒガンザクラ」を見たいと思い、4月17日に出かけました。
今年は、桜が早かったので、散ってしまったのではと心配していましたが、少し散りかけていましたが、大丈夫でした。
タカトオコヒガンサクラがいっぱい
明治4年、廃藩置県によって高遠城は取り壊しとなり、城内の樹木は競売にかけられ売り払われたため、荒地となっていたそうです。
それを見かねた旧藩士たちは、明治9年(1876)、城の対岸にあった馬場からさくらの木が移植され、現在のさくらの名所の礎が築かれたのでした。見事な桜風景でした。いっぱいの桜。たくさんの人。こころが波打ちます。思っていたより広くない園内には約1,500本もの桜があります。
桜雲橋。まさに桜の雲の中に見える橋です。
桜雲橋
人がっこくて問屋門の屋根しか撮れません。
問屋門
問屋門の所から下を見ると池が見え、桜の花びらが浮いていました。
池があった
若返りの桜の案内と老木の桜がありました。
若返りの案内
老木の若返り
太鼓櫓。明治期の建物のようです。
太鼓櫓
天守閣とかそういう建物は無かったようです。本丸から町の方を望みます。
本丸から
二の丸の桜です、ここは散っていますね。
二の丸
登録有形文化財の高遠閣も明治の建物。赤い屋根が印象的です。
登録有形文化財 高遠閣
高遠閣前

もう一度、文庫を読んで「津和野」を思う

もっと若い頃、旅行に行くとき、内田 康夫 の浅見光彦シリーズを読んで行きました。遠野、軽井沢、天城、倉敷、小樽、若狭などなど。
津和野行ったので、なんとなく、内田康夫(昭和59年10月初版)の『津和野殺人事件』(光文社文庫) を読んでみようと思い、買ってきました。
津和野殺人事件
このところ小説が読めなくなっているので、どうかな、と思ったのですが、やはり、なかなか物語に乗れなかったのですが、津和野については、いろいろおもわせてくれました。
最近は、まち歩きの資料としての本をつかみ読みをしている状態で、この小説でもそのような読み方です。
最初に染井霊園がでてきますが、この部分も歩いてみようという思いで読みました。
津和野で興味深いのは「乙女峠とキリシタン」です。原爆で有名な永井隆の本からの紹介という形で分かりやすく書いてあります。
残念ながら、今回の旅では、乙女峠には行きませんでした。殿町の津和野カトリック教会(写真はその中)でその話を少しだけ聞きました。
教会の中
私は、津和野に行ってから、<神仏分離>のイデオロギーがこの津和野の人から出たと言うところに、引っかかっています。
大筋で書くと次のようです。
明治の新政府は、御一新を「王政復古」と規定し神祇官を太政官より上位に置いて、<祭政一致>という古代の幻想を政治に敷こうとしました。
この新政府の王政復古イデオロギーの準備と確立に加担したのが、実は津和野藩でした。
津和野藩には、これは見学した養老館という藩校があり、嘉永期から国学が重んじられていました。とくに幕末には大国隆正や福羽美静といった平田国学直流の門下生が教授となっていました。
そうした空気ができあがっていたなか、藩主の亀井茲監は「封内衰類ノ仏寺ヲ廃合シ、釈侶ノ還俗」を敢行し、総霊社を設立して葬祭を神社主導でとりしきることを決めた。これは全国にさきがけた祖霊社のモデルとなりました。
そうした津和野のグループが打ち出したのが、神仏分離で、実際に行われたのが廃仏毀釈という愚行で、キリスト教を邪教視する姿勢でした。
『津和野殺人事件』の背景になっている、36名もの殉教者を生んだ<乙女峠の切支丹殉難事件>もこの<祭政一致>の思想がなければ、起こらなかったことでしょう。
観光地としての美しくどこか懐かしい町並みの津和野の影に、一抹の幽愁が漂うのです。
『津和野殺人事件』の次の言葉も感慨深いです。
「津和野は過疎で困っているんです。以前は1万何千人いたのに、今は8千人しかいないのですから」「店があっても後継者がいないんですね。町を歩いていても、子どもの姿が少ないでしょう。若い夫婦がいないんです」
「でもいいところなのに」
「外からくるといいですけど、中にいるとやっぱ、田舎だから。それに、津和野はまじめな町だし」
これは、多くの町にあてはまります。私のふるさともまさにそんな感じです。
「観光」というのは何かな、とそれも考えてしまいます。
文庫本の表紙は、本に出てくる赤いトンネルこと、太鼓谷稲荷神社の鳥居です。これもまだ行ってません。

新宿に縄文人現る

それは、ちょっと驚きのニュースでした。
「縄文人の骨が12体ほど出たようだ!」
新宿区の市谷加賀町二丁目遺跡(市谷加賀町二丁目7)から、約4,000年前の人骨と縄文土器がまとまって発見された、というのです。
縄文人調査地点の地図
市谷加賀町二丁目遺跡では、平成14年の10月16日から共同住宅建設工事に伴い発掘調査が行われていました。そして平成14年の11月13日に人の脚部の骨が発見されました。
発掘調査の写真
警察も来たようです。現場検証が行われました。どうも最近も骨ではないということで、事件性はない。おそらく江戸時代のものだろうということでした。
その後、周辺を発掘したところ、頭骨を含む複数の個体が確認されます。
足ふくらはぎの後ろ側にある腓骨という骨が太いので、これは、古い時代のものだということで、放射性炭素年代測定を行ったところ、約4、5,000年前、縄文時代中期~後期のものであることが分かりました。
「海から離れ貝塚もない新宿で縄文人の骨が見つかり驚いている。当時は縄文人に暮らしやすい、緑や水にあふれた場所だったのだろう」
そいう意見が掲載されていました。
新宿区の縄文遺跡図
縄文海進で海岸まで4~5㎞。台地で、谷間に川も流れていました。
海にも出かけ、山の動物の狩りもしていました、そして当然植物も食べていたでしょう。その生活の様子が想像復元図として描かれています。
縄文時代の暮らしの様子
これまで関東ローム層などの火山灰のつもる土中では100年から200年程度で骨が酸性土により溶けてしまうことから、アルカリ性になりやすい貝塚、石灰岩の洞穴、湿地など、特別な条件の場所からしか古い時代の骨は発見されていません。
会場には、まず出土した数々の土器や石器が並べられていますが、注目すべきは、竪穴住居内に埋葬されていた縄文人骨に関する展示です。12号人骨と付けられて人骨は、住居の中央部に仰向けで手足を伸ばした姿勢で横たわっています。
発掘された縄文人の白骨
発掘された縄文人の骨
これは本物です。
頭部に縄文土器の深鉢を被ったような形で検出されました。
頭部は、鈍器でたたかれたような頭蓋骨陥没跡がありますが、これは治っているのだそうです。
歯のすり減り具合を検査すると、前歯と奥歯がすり減っていて、砂など硬いものを噛んだだけでなく、皮なめしなど歯を道具として使ったと考えられています。
また、肩や手の骨から「肩関節症」や「頸椎症」にかかっていたことも分かっています
足の骨にはネズミにかじられた痕も残っていました。
腰元にはマイルカの頭骨を加工したものが見つかっており、装身具の一種であった可能性が指摘されています。
この人骨の主は、40歳代男性で、推定身長は161.2cm、当時としてはやや大柄でした。
頭骨はいくらか細かく砕けていましたが、クリーニング後に破片を接合して修復が行われ、このレプリカを基に生前の容貌が復元されました
復元された縄文人の顔
復顔に際しては、粘土を骨の上に貼り付けていくのですが、今回、皮膚や筋肉の厚さについてはアフリカ・アジア・ヨーロッパ人の解剖学上の平均データを採用していのだそうです。
そこで、どちらかと言うと、日本人できない顔立ちをしています。
なかなか渋いいい男で、床屋のでも行ったばかりのようにさっぱりしています。これは、まぁ、髭を伸ばしたり、髪をばさばさにするリアルさを避けて展示してあるからのようです。
また、展示会場には、骨片に含まれるコラーゲンの炭素・窒素安定同位体比から生前の食性を復元する結果調査や、歯から抽出されたミトコンドリアDNAに基づく系統分析なども紹介されています。
残っていたコラーゲン組織の中の窒素・炭素同位体分析からは亡くなる前の10年間の食べ物が海産物の多いグループと草食動物など山沿いで生活していた人に分けられるようです。
DNAを検出できた骨の持ち主の遺伝子タイプは、その祖先はバイカル湖周辺から列島にやってきたらしいと記されています、
新宿縄文人の図
結局、市谷加賀町二丁目遺跡からは、16体の骨が発掘されています。縄文中期が4体。後期が10体。不明が2体です。
このそれにしても骨が溶けやすい酸性土のローム層の中からよくもこのように。人骨が残っていたものです。
この場所は、貝塚ではないのですが、土壌に少量ですが、貝があったこと、そして、この土地で、その後も、(弥生時代は一時途切れたようですが)、その後の期間ずっと生活してきたことで、水などの浸透が少なかったことなど様々な理由があげられています。
調査はこれからも続けられます。

強い風、桜が散った目黒川

今日も目黒川へ行きました。時に霧雨、そして、強い風。桜が舞いました。目黒川の桜の花びらの漂うに酔いました。
目黒川 散った桜 1
目黒川 散った桜 2
目黒川 散った桜 3
 目黒川散った桜4
目黒川 散った桜5
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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