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四ッ谷見附の桜

四谷見附側から外濠公園の土手
四ッ谷駅に行くと、外濠公園も桜が目に入ります。満開です。四谷見附の石垣の近くに行くと、レンギョウやの黄色とかムラサキハナナの紫とか色のコントラストがとてもきれいです。、
四ッ谷駅近く 外濠公園
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目黒川沿いの桜

目黒にも行きました。
駅で、駅の人が地図を貼り、「目黒川に行く人は確認して行ってください」とマイクで声をかけていました。
晴天で、厚かったです。
まさに満開の目黒川の桜です。平成27年3月30日(月)
雅叙園から目黒川を望む。
雅叙園から目黒川の桜
太鼓橋から下流を。
太鼓橋から下流を
太鼓橋から上流を。
太鼓橋から上流を
小さな枝からしっかりした花。
小さくてもしっかりと
ふれあい橋から上流を。清掃工場の煙突もりっぱ。
ふれあい橋にふれる桜
ふれあい橋から下流を。
ふれあい橋から下流を

飛鳥山公園の花見

今年のソメイヨシノは早かったです。開花宣言があって5日もしたらもう満開です。
飛鳥山公園へ行ってみました。
王子駅から飛鳥山公園
王子の駅からまず音無川の方へ。音無川は、王子付近の石神井川を、吉宗が紀州ゆかりの音無川と命名したものです。
川の流れは、なかなかの風情をかもし出します。
音無川の桜
音無川から、飛鳥山公園へ。
飛鳥山公園1
飛鳥山公園は、徳川吉宗が享保の改革の一環として整備・造成を行った場所として知られています。
吉宗の時代には、江戸近辺の桜の名所は寛永寺程度しかなく、花見の時期は風紀が乱れたと言われます。このため、庶民が安心して花見ができる場所を求めてここに桜を植えました。広重の絵にも名勝として描かれています。
飛鳥山公園、総面積7万3千平方メートルの敷地に、ソメイヨシノ、サトザクラなど約650本の桜が植えられており、現在でも都内有数の桜の名所です。
今回は写真のみで。撮影は、平成27年3月29日(日)の午前です。
飛鳥山公園 2
すでに大勢の人でした。
飛鳥山公園 3
王子神社を望みました。
飛鳥山公園から王子神社を望む
宴会の場所も取られています。
飛鳥山公園 4
詳しくはまた。

愛日小学校立て替え地の遺跡見学

牛込神楽坂の駅近くの愛日小学校が今、立て替え工事をしています。そこで今年に入ってその用地の発掘調査がなされていて、見学させてくれるというので見に行きました。
愛日小学校の住所は、新宿区北町26番地なので「北町遺跡」になります。今回は2次調査です。
調査現場
遺跡調査現場
遺跡は、江戸時代中心ということでしたが、古墳時代の住居跡も発見されていました。
この付近は、江戸時代初期には、下級の幕臣の屋敷がありました。
江戸初期の周辺図
江戸時代初期の調査地周辺『御府内沿革図書』。細かく区画され「小屋敷」と書かれた御家人屋敷が並んでいます。
となりは「天竜寺」です。天竜寺は、現在区新宿四丁目にあります。天和3年(1683年)に火事にあい、現在地へ移転しています。
将軍秀忠の生母西郷の局の実父戸田忠春の菩提寺として幕府の手厚い保護を受けていました。
この天竜寺が移転した火事から50年後、享保10年(1725)の大火の大火で、この「小屋敷」は消えています。そして、延焼をふせぐための「火除明地(ひよけあけち)とされています。
さらに、江戸時代後期に入ると、ここは大名屋敷になります。
寛政年間の周辺図
寛政4年(1792)から弘化2年(1845)は、萩野山中藩大久保家(1万3000石)の下屋敷です。
安政2年(1855)から明治維新までは、丹波薗部藩小出池(2万6000石)の中屋敷になります。
今回の調査では、江戸初期の御家人の屋敷跡に作られた(掘られた)地下室や生活道具、江戸時代後期の大名屋敷の礎石と生活道具があります。
大名屋敷のゴミ捨て場だったような大きな穴もありました。
出土したお金
地下室は、やはり火事がいった時の用心にものを地下にしまい込んでおく穴蔵だったのでしょう。火事がくると、上から蓋をして火が回らないようにしていたようです。
地下室
また、池跡がありました。回りが木があった穴が確認されているので、中庭だったのでしょう。この池には、2つの小型の甕(かめ)が埋め込まれていました。これは、池の魚の越冬を助ける役割をしていたものだと説明を受けました。
池跡
そして、もう一つ、注目されるのは古墳時代の、今から1600年前(3世紀から4世紀にかかけて)の竪穴住居跡です。
竪穴住居跡
この竪穴住居跡には、焼けた木がたくさん出てきていました。火事だったのでしょうか、中央に向けて木が並んでいます。
古墳時代からここに古墳時代から人が住んでいたのかと、その思いが強かったです。
そのほか井戸もいくつかありました。メンコから人形まで、いろいろな小物も楽しかったです。
井戸跡
出土品

「ジュール・パスキン展」

ジュール・パスキン(1885-1930)という画家の絵に魅了され、その個展を見たのが、平成11年(1999)の4月、大丸ミュージアムでした。(そういえば当時、大丸ミュージアムには、よく行っていたなと思います。)
よほど気に入って、「パスキン展」のカタログを買っています。
今年1月から、汐留ミュージアムで「ジュール・パスキン展」が開かれています。やっと見に行くことができました。
汐留ミュージアムもすてきで、とても感動しました。
<ポンピドゥー・センター、パリ市立近代美術館、ヨーロッパ個人コレクション…珠玉のセレクションによるパスキンの回顧展>ということで、個人コレクションも多く、もうこのような展覧会は見ることができないかもしれません。
今年は、生誕130年ということです。
ジュール・パスキン「モデル」(1912年)グルノーブル美術館
パスキンはブルガリアの裕福なユダヤ人家庭に生まれました。10代後半、ミュンヘンの美術学校で学び、その後パリに移ります。
《ミュンヘンの少女》1903年 パリ市立近代美術館蔵
第一次大戦が始まると、戦火を逃れアメリカに渡り、冬場はアメリカ南部のフロリダやキューバに滞在して過ごします。
戦争の終結した、1920年、パスキンは、パリに戻ります。そのパリでパスキンは、円熟の域に達し、世界中からパリに集まった異邦人画家のグループ「エコール・ド・パリ」の中で、もっとも活躍した一人になります。
©ジュール・パスキン ≪幼い女優≫
パステルカラーで夢見るようなはかない女性を描き、第一次大戦後のパリで活躍したジュール・パスキン。
ピンクやブルー、白やグリーンなどさまざまな絵の具がちりばめられ、重なり合う。真珠のように輝く虹色を帯びた色彩は「真珠母色(しんじゅぼしょく)」と呼ばれ、高い人気を誇り時代の寵児となります。
しかし、パスキンは、パリを飛びだし、アルジェリア、チュニジア、エジプトなど各地を旅して歩きます。そして、絵は飛ぶように売れ、有力画商とも専属契約を結びます。
そんな矢先、アトリエで自ら命を絶ってしまいます。
父親との確執から、ピンカス(Pincas)の名前をスペルを入れ替えて、パスキン(Pascin)と名乗ったり、妻(エルミヌ・ダヴィット)と愛人(リュシー)と並ぶ写真を撮ったり、カフェで羽ぶり良く仲間たちにおごったり、写真などで、破天荒な一面を見せています。
《テーブルのリュシーの肖像》1928年 個人蔵
愛人リュシーに振り向いて欲しく、血文字で「ADIEU LUCY」と書いて絶命したジュール・パスキン。
知れば知るほどその絵に惹かれます。

岩国と佐々木小次郎

慌ただしく動いたので、見逃しているのですが、岩国には、佐々木小次郎ゆかりのものがあります。
このブログ、宮本武蔵を気取って「作州浪人」と名乗っているので、書いておくべきだろと思いました。今回、下関の遊覧船で見学した、巌流島にも繫がります。
錦帯橋を渡って左すぐにあったのが、「巌流ゆかりの柳」です。
「祖先以来、岩国の住、姓は佐々木といい、名を小次郎と親からもらい、また剣名を”巌流”とも呼ぶ人間は、かくいう私であるが・・・」吉川英治の小説「宮本武蔵」にあります。
そして、解説によると、
<吉川英治は、錦帯橋-柳の木―つばめーつばめ返しー巌流ーと連想して、「佐々木小次郎が、錦帯橋畔で柳の枝が燕を打つのを見て「燕返し」の術を得た」と、岩国に来て自ら創作し、剣聖「宮本武蔵」の背景を見事に写し出したものである。
これにちなんで、錦帯橋の袂の柳古木を「巌流ゆかりの柳」としたということです。
勤怠橋を渡って、右に歩き、「吉香公園」の端に行くと、佐々木小次郎の銅像があります。

あらためて、調べてみると、佐々木小次郎という人はよく分かっていないのですね。
だいたい、佐々木小次郎と言う名前も怪しいようです。
出身についても
1)豊前国田川郡副田庄(現福岡県田川郡添田町)の有力豪族佐々木氏のもとに生まれたという説
2)熊本藩の豊田景英が編纂した『二天記』には、越前国宇坂庄浄教寺村(現福井県福井市浄教寺町)とあり、秘剣「燕返し」は福井にある一乗滝で身につけたとされています。
岩国は、どうも吉川英治の創作のようです。
吉川英治の小説『宮本武蔵』で、小次郎が「燕返し」を編み出した場所としている錦帯橋ができたのは、「巖流島の決闘」の60年後と言います。

佐々木小次郎は、安芸国の毛利氏に仕えていましたが。武者修業のため諸国を遍歴し、「燕返し」の剣法を案出、「岩流」と呼ばれる流派を創始し、小倉藩の剣術師範となります。
慶長17年(1612)、宮本武蔵と「舟島」で決闘し、これに敗れて死にます。
この決闘時の年齢は、宮本武蔵が20代で、佐々木小次郎が60歳近くだったというのが真実らしいです。映画などでは、武蔵と同じ20代ですが。
気分的には、吉川英治の『宮本武蔵』の世界にいていいかなと思っています。

岩国市内を少し見学

錦帯橋から少し先に行ってみました。
岩国錦帯橋付近案内図

吉川広嘉公銅像
吉川広嘉公銅像
錦帯橋を創建した岩国藩三代藩主吉川広嘉公の銅像です。
どうしたことか、二代藩主から十一代藩主までの肖像画が残されていなかったとかで、初代藩主と、子孫の方の肖像画と写真を合成して作られたとか。

吉香公園
吉香公園は、旧吉川氏の居館跡を明治維新後に整備し、後に旧岩国高校跡を含め、昭和48年(1973)に現在の城山を背景に公園となりました。
吉香公園 梅が咲いている
梅がとてもきれいでした。大放射噴水も迫力があります。
吉香公園

香川家長屋門
香川家長屋門
香川家は、岩国藩五家老の一家で、この長屋門は、1693-1694年(元禄6,7年)頃、香川正恒が建てたものです。岩国市の建造物としては最も古いものの一つで、当時の様式をよく残しています。
総建坪40坪、門扉から屋根瓦にいたるまで結構を極め、特に瓦には1個1個家紋を刻し、その宏壮な建築は江戸時代の武家造りの粋を極めたものと称せられています。

旧目加田家住宅
旧目加田家住宅玄関 と梅
この建物は、江戸時代中期の建物とみられ、簡素ながら本格的な中級武家屋敷として当時のままの姿をよく保存されていて、全国的にも数少ないものです。
昭和49年(1974)に国の重要文化財に指定されました。
屋根瓦は、江戸時代、岩国地方だけに製造されていた珍しい「両袖瓦」が使われています。
旧目加田家住宅

錦帯橋

長い旅行の記録になってしまいました。それだけ内容のある所を巡ったということでしょうが。
670キロ、2泊3日の旅行の最後の見学地は、岩国・錦帯橋でした。
日本三名橋のひとつ「錦帯橋」は日本三名橋のひとつで、清流錦川に架かる木造五連のアーチ橋です。延宝元(1673)年、岩国藩主吉川広嘉によって創建されました、大正11年(1922) 、国の名勝に指定されています。橋の長さは、橋面にそって210m、直線で193.3m。また幅5m、橋台の高さ6.64mです。
錦帯橋 1
反り橋の構造は、頑丈な組木の技法により、橋上からの圧力で更に強度が増す仕組みとなっています。経間35mを無脚で渡した技術は、現代の橋梁工学からみても非のうちどころがないと言われます。左に山の上にはお城が見えます。
錦帯橋 欄干
錦帯橋 側面
錦帯橋 橋下
錦川の河原から錦帯橋の裏面を見上げると、精緻な組木を巻金と鎹 (かすがい) で補強したダイナミックな構造美を見ることができます。
錦帯橋 2>
流線型をした橋台は、水の圧力を軽減する効果があり、橋台周囲に敷きつめられた敷石が橋台の根元を補強しています。

「平家物語」に記された厳島神社にまつわる逸話

厳島神社の狛犬
壇ノ浦に続いて、安芸の宮島も「平家物語」に関わります。
厳島神社は、1168年清盛が50歳のころに20年もの歳月をかけて造営した荘厳な海の中にそびえる神社です。
その宝物殿には、1164年に清盛をはじめ重盛、経盛、教盛、頼盛らが写経して奉納した絢爛豪華な平家納経が収められています
「平家物語」に記された厳島神社にまつわる逸話は、おおよそ次のようです。
平清盛が安芸の守であったころ(1145~56)、高野山の根本大塔の修理を命ぜられます。
清盛は、6年かけて修理を終え、高野山に登り、大塔に参詣、さらに奥の院に進むと、どこからともなく、眉が霜のように白く、額には波のように皺のよった老僧が現れます。そして、「大塔の修理は終わりました。ところで安芸の厳島社は荒れ果てています。このついでに奉上して、修理なさいませ。そうすると、きっとあなたの官位昇進は肩を並べる者がないほどになるでしょう」と告げて消えてしまいました。
この老僧は、弘法大師と思われます。
清盛は帰京して、早速厳島神社を修理します。
後日、厳島神社に参詣したとき、角髪(げんずみ)を結った天童が現れて、
「私は大明神の使い、これをもって天下を鎮め、朝廷の守りとなれ」と言い、銀(しろがね)の蛭巻(ひるまき)をした小長刀を授けます。
その通り、現実にその小長刀があったというのです。
さらに、明神から「かつて老僧とした一門の繁栄の約束は、悪行をすれば、子孫までは栄華はおよばないという託宣もあったと言います。
(「平家物語」大塔建立)

厳島神社社殿

3日目は、安芸の宮島へ行きました。ここも大変興味深いことば多いのですが、写真を中心にしたいと思います。
安芸の宮島は、広島湾に浮かぶ厳島(宮島)の北東部、弥山(標高535m)北麓に鎮座しているので、正式には、厳島、一般的に「安芸の宮島」と呼ばれています。厳島(宮島)は「神に斎く(いつく = 仕える)島」が語源で、古代から島そのものが神として信仰されていたと考えられています。
大鳥居が見えてきた
厳島中央の弥山(標高535m)山頂には巨石が連なっているようです。
世界遺産 厳島神社の入り口、宮島桟橋。
船が着く
歩いて厳島神社へ。
鳥居の方へ歩く
厳島神社へ入る。
拝殿
結婚式もしていた
花嫁御寮も
末社豊国神社本殿(千畳閣)の屋根と五重塔が見えます
五重の塔と千畳敷が望む
神社から見た大鳥居
満潮時、海に立つ朱塗りの大鳥居(重要文化財)。高さ16m。日本三大鳥居の1つです。
満潮時の朱塗りの鳥居
狛犬なども見事です。
狛犬などもすばらしい
本殿です。
本殿
平舞台
平舞台
総延長が百八間(約200m)あるという長い回廊。
長い回廊
振り返ると五重の塔が見えた
内待橋~長橋、反橋などの橋が掛かりこれら全ての建造物は回廊で繋がれています。各建物は、浅い海底に地上の建物と同様に礎石を据え、杭(束)を立て、その上に板床を張っているだけの構造です。木製の杭は満潮時には海水に浸かるため腐食をまぬがれず、定期的に点検を行っているとのことです。
こちらは能舞台
海上に建つ能舞台
木のアーチが美しい反り橋
木のアーチが美しい反り橋
回廊とそり橋もきれいに繫がっています
能舞台の後ろ側から。五重の塔も見えます。
能舞台の後ろ側から
すねてを写真に撮れていませんが、本社本殿・幣殿・拝殿(以上1棟)、本社祓殿(はらいでん)、摂社客神社本殿・幣殿・拝殿(以上1棟)、摂社客神社祓殿、東廻廊、西廻廊の計6棟が1952年に国宝に指定され、高舞台、平舞台、左右門客神社、左右楽房は国宝の「附」(つけたり)指定扱いとなっています。さすが圧倒されます。

「北前船」が走った。

関門海峡を行く
関門海峡について、司馬遼太郎の『街道をゆく』から次の箇所を引用させてもらいます。
<江戸時代、大阪湾から蝦夷地(北海道)にゆくのに太平洋航路はきけんであった。おそらく難所は、遠州灘(寄港地なし)と調子から北のほうの鹿島灘、そらに最大の難所は三陸沖(宮崎、岩手、青森の3県の太平洋岸)だったであろう。
このため「東まわる」といわれる太平洋コースよりも、多くは日本海航路がとられた。大阪湾を中心に考えれば、ここから下関へゆき、ぐるっと北へまわって日本海岸の港々に寄りつつ欧州へゆき、蝦夷地にいたる。この航路や船のことを、
「北前船」という。>
北前船が日本を動かした、ということになります。
北前船は、江戸中期に始まっています、北前航路は、当時の流通の大動脈です。
蝦夷地の方からみれば、蝦夷地で買い集めた海産物などを積んで日本海を下って関門海峡に入り、瀬戸内海を通って大阪や江戸へ物資や文化が運ばれました。
その日本海側と瀬戸内海側を結ぶ航路の要"が関門海峡でした。
また、下関は北前船の本航路だけでなく、地方と地方を結ぶ「地廻り廻船」の発着港にもなっていました。長崎を結ぶ長崎航路にも直結しています。
こうして商業都市へと発展していった下関は、長州藩の利益になります。この財力が、維新のエネルギーにもつながっていくのです。
長州藩は、下関、倉庫を建て、北前船の積み荷を預かり、荷を担保に金も貸し出します。北前船相手にもうけたお金は、長州藩の革新を志す維新の志士らを支えていったのです。
また、坂本龍馬は廻船問屋の伊藤家に滞在していた時、関門海峡を基盤に新しい経済活動をやろうと考えていたようですが、龍馬は暗殺され、その夢は実現しませんでした。
この関門海峡のもつ歴史は深いです。

関門海峡を船で巡る。

関門海峡周遊船の上のデッキから見た関門海峡からの風景を並べてみます。
門司港を離れる
<関門橋をぬけた
和布刈神社は九州最北端に位置する神社で、社記によると、仲哀天皇9年(西暦200年)に創建されました。
社名となっている和布刈(めかり)とは「ワカメを刈る」の意で、毎年旧暦元旦の未明に3人の神職がそれぞれ松明、 手桶、鎌を持って神社の前の関門海峡に入り、海岸でワカメを刈り採って、神前に供える和布刈神事(めかりしんじ)が 行われます。
和布刈神社
大きな貨物船が行く
壇ノ浦
関門橋の下を通る
赤間神宮が見えます。ここには「安徳天皇阿弥陀寺御陵」、平家一門の墓「七盛塚」、「耳なし芳一」の木像、貴重な史料を所蔵する宝物殿などがあります。
赤間神宮
壇ノ浦2 マーケットなど過ぎる
高くそびえるのは、全長153mの「海峡ゆめタワー」です。平成8年(1996)7月に関門海峡のランドマークとして誕生しました。
ゆめタワーが見えた。
巌流島は、正式名は「船島」です。慶長17年(1612)4月13日に武蔵と小次郎がこの島で決闘し、敗れた小次郎の「巌流」という流儀からこの島は巌流島と呼ばれるようになったと言われます。
巌流島だ!
武蔵と小次郎の像が小さく見えます。
巌流島 武蔵と小次郎の像が小さく見える
ぐるっと回って、そろそろ終わりです。寒くてたまらなからったので、この先で下の部屋に降りました。
そろそろ周遊が終わる

「関門海峡周遊船」 壇ノ浦の戦い

秋芳洞から角島に行き、関門海峡へ向かいました。
実はこの旅行で、最も楽しみしとしていていた場所です。
<私は日本の景色のなかで馬関(下関)の急潮を最も好む。>
司馬遼太郎の『街道を行く』の「長州路・壇ノ浦付近」の冒頭の言葉です。旅に行くとき、いつも手にするのは『街道を行く』です。
今回の旅で一番こころに響いたのは、この「壇ノ浦付近」と「海の道」でした。
ここでは関門海峡周遊船がオプションであったので、ぜひ船に乗ろうと思っていました。
話に入る前に、「馬関」ですが、それには次のように書かれています。
<下関は、正しくは赤間関といった。しゃれて赤間関とも書き、転じて儒者好みに馬関とよばれたのが、この港町の呼び名になった。>
馬関海峡、ほんとうに良い響きです。
乗った遊覧船
「関門海峡周遊船」は、門司港から関門橋の下をくぐり周防灘を折り返し、下関側の壇ノ浦、赤間神宮、下関市の海峡ゆめタワー沖を通り、佐々木小次郎と宮本武蔵の決闘の巌流島を回って門司港へ帰ります。(写真の船の上に乗って周遊しました。寒かったです。)
まずは関門橋
馬関海峡、一般的に言えば関門海峡を前にしてみれば、九州と本州は近いです。海峡の最もくびれた部分でもわずか700メートルほどだそうです。そこは関門橋の架かっている辺りで、そこが、源平最後の合戦「壇ノ浦の戦い」の場にあたります。「壇ノ浦」を眺めながら船は進みました。
源平最後の合戦、壇ノ浦の戦いが行われたのは文治元年(1185)3月のこと。
平家総帥の平宗盛は、一ノ谷・屋島での合戦で相次いで源氏軍に敗退。長門国彦島(現在の下関市彦島)に陣を敷いていた平知盛の元まで落ち延び、起死回生を賭けた地が、関門海峡でした。
源氏軍が現れたという知らせが入るや、平知盛は門司にしつらえた仮御所から数え年8歳の安徳天皇や平家全員を船に乗せ、海峡へ出て行きます。戦船は両軍合わせておよそ千数百隻。戦いは初めこそ平家が優勢でしたが、源義経の奇襲作戦により形勢は逆転。最期を覚悟した二位尼は孫の幼い安徳天皇を抱いて海へ飛び込み、女官や平家の武将も次々と入水して、戦は悲劇的な終幕を迎えたのでした。
「平家物語には、帝の言葉が。「尼前、われをばいづちへ具してゆかんとするぞ」
二位尼はいろいろ言ったあと、
<「浪の下にも都のさぶららふぞ」と慰め奉つて、千尋に底へぞ入り給ふ>
安徳天皇を祭神とする「赤間神宮」も船から望みました。

松陰神社の境内にあった石碑

松陰神社の境内にあった石碑を少し載せて置きます。
碑「親思ふ・・・」
▼碑「親思ふ・・・」
吉田松陰は親孝行でした。「親思ふこころにまさる親ごごろけふの音づれ何ときくらん」、松陰先生が安政6年(1859)10月20日付けで家族に宛てた遺書の中で詠われた有名な和歌が彫られています。昭和37年(1962)、萩国際ライオンズクラブの承認を記念して奉納、建立されました
「孝行竹」
▼その石碑の後ろには「孝行竹」という竹があります。
こちら東南アジアの竹だそうですが、この竹は地下茎で伸びるのではなくて、親竹の周りにたけのこがぐるっと生えるそうで、親を守る子供のように見えることから「孝行竹」と言われて言われます。
吉田松陰は親孝行であり竹を愛した記録もあり、記念として寄贈された。
碑「明治維新胎動之地」
▼碑「明治維新胎動之地」
昭和43年(1968)、明治維新100年を記念して建立されました。揮毫は故佐藤栄作元首相です。
碑「薩長土連合密議之處」
▼碑「薩長土連合密議之處」
土佐藩の坂本龍馬、薩摩藩の田上藤七、そして長州藩の久坂玄瑞が、文久2年(1862)、このあたりにあった鈴木勘蔵の宿屋で一堂に介しました。
そしてここで、国事を語り合ったことを記念して「明治維新胎動之地」の碑と同じく昭和43年(1968)に建立されました。揮毫は故岸信介元首相です。

萩・松陰神社・松下村塾

萩に泊まって、2日目の午前の見学は松陰神社でした。吉田松陰は今NHK大河ドラマ「花燃ゆ」で、今登場しています。
その活躍の松下村塾の建物も見学するので楽しみでした。
山口県では、多くの人が吉田松陰を松陰先生と湛えます。探訪番組で<松陰先生の「草莽崛起論」>という話をされます。草莽とは、草むらのことで、<やぶの意味から転じて仕官しないで民間にいる在野の人>をさすようです。幕末の安政期には吉田松陰らが政治的決起論としての草莽崛起論を唱えたことにより、各地に志士が輩出して、明治維新を迎えることになります。
吉田松陰については、もっと勉強しなければいけないのですが、今回は、走って見学をします。
松陰神社鳥居
▼松陰神社
明治23年(1890)、松下村塾出身者などの手により松下村塾の改修が行われました。このとき松陰先生のご実家、杉家の人々の手で松陰先生の御霊を祀る土蔵造りのほこらが建立されましたが。これが松陰神社の前身となります。明治40年(1907)、松下村塾出身の伊藤博文や野村靖が中心となって、このほこらを公の神社として創建しようと、山口県に請願書が提出されます。同年10月4日に、当時の社格制度の中で県社の社格をもって創建が許可され、土蔵造りのほこらを松下村塾南隣に移して本殿としました
松陰神社拝殿
現在の拝殿は昭和30年完成したものです。学問の神様として、年始には勧学祭(合格祈願祭)が行われます。
昭和31年(1956)には、旧社殿を新社殿北隣に移し、松陰先生の塾生、門下生を御祭神とする末社・松門神社が建立されました。
境内には、松下村塾や吉田松陰幽囚ノ旧宅などがあります。
松下村塾
松下村塾 部屋の中
▼松下村塾
吉田松陰が安政4年(1857)年主宰した私塾。移築ではなく、当時からこの位置に建っていました。高杉晋作や伊藤博文など幕末維新に活躍した多くの逸材を輩出しました。木造瓦葺きの平屋建てで、国の史跡に指定されています。
松下村塾 講義室外観
松下村塾 8畳講義室
講義室だった8畳の部屋には吉田松陰が像と机が置いてあります。
ここでから、明治維新を成し遂げた、数多くの人材が育ちました。
吉田松陰幽囚ノ旧宅
▼吉田松陰幽囚ノ旧宅
吉田松陰が伊豆下田で海外渡航に失敗し、江戸伝馬獄から萩野山獄へ収容された後に預けられた実家・杉家旧宅です。この家で謹慎して読書と著述に専念し、やがて松下村塾で教えるようになりました。

萩の 夏みかん

萩を歩くと、武家屋敷の土塀や生垣の中にたわわに実る夏みかんが目に入ります。黄色が輝いています。
夏みかんは、夏に実がなるのではないのかな、と思いながら、たくさんのたわわに実る夏みかんを眺めました。
屏にのぞく 夏みかん
城下町の武家屋敷の所が多かったので、観光のため実を取らないでいるのかなと思いながら眺めましたが、萩では夏みかんを年を越して夏になっても収穫しないでおくという話を観たことがあったと思いだしました。
いろいろ探してやっと一つ、取ってはいけないという記事がありました。そしてそこには、実を取らないでいると、翌年同じように実がなり、その様子から代々続くという意味でも「夏代々=夏ダイダイ」と名付けられとありました。確認は取れません。
ダイダイについては<「だいだい(漢字表記の場合は代々)」という名称には、維新後の四民平等のあおりを受けて生活に困窮した萩の士族達が末永く代々続くようにとの願いも込められていた。一方、大阪はじめ関西地方では、中風のことをヨヨと呼んでおり、「代々」が「ヨヨ」と読めることから、夏に「夏代々」を食すと「中風になる」という、誤った俗説が流れ、夏みかんの売上が下がったため、大阪商人は改名を勧めたという>(Wikipediaより)ということで夏みかんになったと説明がありました。
原産は日本で、江戸時代に山口県の青海島で西本於長氏が海から流れ着いた柑橘の種を育てたのが最初と言われています。今でも山口県萩市で多く栽培されています。
夏みかんの原樹は、江戸中期に萩の隣の長門市仙崎大日比(青海島のオオヒビ)で発見され、昭和2年(1927)に国の天然記念物に指定されています。
萩の夏みかん
萩の城下には、文化年間(1804~18)に入って、ゆずの代用として利用されていたのが、幕末近くに夏に収穫したところ、美味であったため、「ナツダイダイ」と呼ばれ、夏に食べられるようになったといわれています。
萩は、毛利氏36万9千石の城下町として繁栄していました。しかし明治維新の廃藩置県により士族の生活も困窮がひどくなり、諸所に空地が見られるようになりました。
旧藩士 小幡高政は士族救済の一対策として藩政時代には萩地方各所に散在するにすぎなかった夏みかんを増殖させることに着目しました。
明治10年ごろに1万本の苗木を士族達に配布、武家屋敷のあとの空地に植え、10年後には町村はほとんど夏みかんでうまったといわれています。
夏みかんは萩市の経済に関係の多い特産物となり、今現在も萩のシンボル的存在として全国に知られています。
大正15年、当時の皇太子だった昭和天皇が萩にお見えになった時、「この町には香水がまいてあるのか」といわれたほど、夏みかんの栽培が盛んで、夏みかんの香りがおもてなしをしたと言われました。
そして、平成13年に全国の「かおり風景100選」に選定されています。
香りは残念ながらそれほど感じませんでした。

「萩城下の古き雛たち」

ちょうど。萩で代々受け継がれてきたひな人形を展示する「萩城下の古き雛たち」開催していました。
「萩城下の古き雛たち」は、旧久保田家住宅をメイン会場に、地元の家庭で受け継がれてきた雛飾りを萩城城下町を中心に市内各所で展示されるものです。
萩のおひなさま 内裏様2つ
見学したのは、旧久保田家に展示されていた雛です。
御殿雛や享保雛をはじめ、手作りの“さげもん”など江戸期から現在のお雛様約
400点も展示されていました。
久保田家は、初代庄七が江戸時代後期に近江から萩に移って呉服商を開き、2代目の庄次郎から酒造業に転じたと伝えられます。以来明治30年代まで造り酒屋を営業していました。
内裏びな
内裏雛です。長寿寺蔵となっていました。寺伝によると、このお雛様は、家光とその奥方お江様ということです。
享保時代のおひな様もありました。
享保雛
あと写真を載せます。部屋を少し暗くしていたので、はっきり写っていない所もあります。
掛け軸になっている押し絵のおひなさま
市松人形などもならぶ
屋台が載るお雛様飾り
たくさんのお雛様

萩城城下町周辺

津和野から1時間半で萩に行きました。萩は城下町周辺散策です。
萩城城下町案内板
案内板の上から下へと歩きます。まず、江戸屋横町に入りました。
江戸屋横町
▼江戸屋横町は、黒板塀がつづく風情ある道です。
円政寺
▼円政寺
月輪山円政寺は真言宗の寺院で、建長6年(1254)山口に創建された大内氏代々の祈願所でした。慶長9年(1604)頃に山口から移転され、毛利氏の祈願所となりました。高杉晋作が子供のころにはよくここで遊んだとか。また、伊藤博文は、少年のころ小僧として預けられ、住職から読み書きを習い、また、といわれています。
青木周弼旧宅
▼青木周弼旧宅は、修復工事中
周防大島出身の青木周弼は、大阪や江戸、長崎で蘭学を学び、藩医に登用され、藩校明倫館に西洋医学所を設けて後進を育成しました。
木戸孝允旧宅
▼木戸孝允旧宅
天保4年(1833)萩藩医和田昌景の長男として生まれ、後に桂家の養子となり桂小五郎の名でも知られています。嘉永5年(1852)に江戸に出るまでの約20年間をこの実家和田家で過ごしました。
菊屋家住宅
▼菊屋家住宅
毛利家の御用商人を務めていた豪商・菊屋家です。屋敷は江戸初期の建築で、現存する商家としては最古の部類に属し、400年の歴史があります。主屋をはじめ5棟が国指定重要文化財に指定されています。
旧久保田家住宅
▼旧久保田家住宅
久保田家は、呉服商・酒造業を営んでおり、建物は江戸時代の後期に建てられました。意匠・構造・技術に優れ、酒造業で繁栄した往時の状況もよく伝えており、史跡萩城城下町を構成する重要な建物です。久保田家では「萩城下の古き雛たち」を観ました。これは別項目で。
菊屋横丁
▼ 菊屋横丁
菊屋横町はそのものずばり菊屋の横の通りです。
どこまでも続く屋敷の壁。蔵部分の壁はなまこ壁と呼ばれます。
江戸時代の町並みが残る城下町を代表する道で、「日本の道百選」に選ばれています
田中義一の生誕地の碑
▼田中義一の生誕地の碑
田中義一は昭和恐慌で総辞職した若槻礼次郎内閣の後を受けて首相になった人物です。
昭和2年(1927)金融恐慌の時に内閣総理大臣となり、支払猶予緊急勅令(モラトリアム)を発行し、銀行取りつけ騒ぎを沈静化しました。昭和3年(1928)、第1回普通選挙法を施行。同年、奉天で張作霖爆殺事件が勃発。昭和4年(1929)、責任を問われて総辞職したあと急死しました。
高杉晋作誕生地
▼高杉晋作誕生地
幕末の風雲児・高杉晋作の生まれ育った家。中に入れませんでしたが、敷地内には、晋作ゆかりの品や東行と号した句碑・産湯の井戸などがあるそうです。
高杉家は広島時代から毛利家に仕えてきた譜代の臣で、家格は大組で、幕末の家禄は200石でした。
晋作広場・高杉晋作立志像
▼晋作広場・高杉晋作立志像
高杉晋作誕生地の近くにある晋作広場。こちらに平成22年10月に「高杉晋作立志像」が建立されました。また、広場には晋作が好きだった梅の花も植樹されています。
銅像は、晋作が明倫館や松下村塾に通っていた20歳頃をイメージしているとのことです。
久坂玄瑞進撃像
▼久坂玄瑞進撃像
駐車した中央公園に、今年の1月24 日に除幕式が行われた。久坂玄瑞の銅像がありました。
禁門の変から150年=久坂玄瑞没後150年にあたる昨年から制作されていたのだそうです。
「花燃ゆ」で久坂玄瑞役をしている東出昌大さんも式典に出席してようです。

津和野のお菓子「源氏巻」

津和野の案内は、旅行社と契約した菓子屋さんの人がしてくれました。寅さんの映画のロケの時の話など入れて、なかなか楽しい案内でした。
最後はお店で、津和野銘菓「源氏巻」を試食、お薦めくださいました。
津和野のお菓子「源氏巻」
その「源氏巻」の紹介で、「賄賂菓子」ということを言われました。それで、思い出したのが「忠臣蔵」です。
確か、いつかの江戸検定に出ていた。
『仮名手本忠臣蔵』に出てくる桃井若狭介とその家老、加古川本蔵が、津和野の殿様亀井茲親(これちか)と家老であった多胡真蔭(たごさねかげ)だということです。
実は、元禄時代、津和野藩主亀井茲親は、元禄3年、元禄7年、元禄11年と3年おきに3回も勅使饗応役を勤めています。
元禄11年、まさに「忠臣蔵」の播磨赤穂城主浅野内匠頭長矩と一緒です。
さて、亀井茲親は、いつの時か分かりませんが、指南役の吉良上野介に教えを請いましたが、吉良上野介は接待の方法を教えず、むしろ辱めたというのです。そこで短気な亀井茲親は吉良を切ろうと決心し、藩の家老で多胡真蔭にその旨伝えます。(多胡家の門は見ました。)
多胡は反対しませんでしたが、吉良上野介に小判を進呈して機嫌を取ります。
そのことで、吉良上野介から勅使の接待の方法を伝授することが出来、騒動を回避することができました。
この話を『仮名手本忠臣蔵』に取り込んで、多胡真蔭が加古川本蔵となり、亀井茲親が桃井若狭介となったというのです。
『仮名手本忠臣蔵』初演から30年ほどたってですが、あの牛込の狂歌師・大田南畝が、桃井若狭介、加古川本蔵のモデルは津和野藩の殿様であると初めて指摘したと言います。
これも個人的には興味があります。
さて、その「小判を進呈」ですが、箱の底に小判を隠し、その上にお菓子というのでなく、「小判を包んだ形のお菓子」を進呈したようです。そして、その後小判の代わりに餡を包んだお菓子となり、津和野を救った縁起のよい菓子として親しまれるようになった、というのが津和野の銘菓「源氏巻」です。
その名称については次のような話が伝わります。
「文久年間(1861~1864年)の頃、津和野藩主亀井家の御用菓子職人の財間善一郎が黄金色の外皮に紫色の餡を包んだ菓子を作って献上した際、藩主亀井茲監の夫人に、雅趣ある名称をつけて欲しいと願い出ました。
この求めに応じて、源氏物語の若紫の歌「手に摘みていつしかも見む紫の根に通ひける野辺の若草」を参考に「源氏巻」と名づけたといわれています。」
(光源氏の独詠歌。手に摘んで早く逢いたいものだ、紫草の根に通じたところのある野辺の若草を。紫草がその色から藤壺を暗にさし、それと根がからまりあう関係にある若君を思う。古今集の「紫の一本ゆえに武蔵野の草はみながらあはれとぞ思ふ」を念頭においての作か。 新日本古典文学大系ー岩波書店 源氏物語一註より)
東京で売っていないということで、お土産に買っ帰りました。

津和野町 殿町通り

津和野で歩いたのは、殿(との)町通りを大橋までした。(短かったです。残念)
殿町通りは、藩校養老館跡(右側の建物)や町役場・多胡家老門など、むかしの門構えとなまこ塀の家が並んでいる、まさに津和野のメイン通りに違いありません。「道沿いの掘割には、しょうぶが咲き、錦鯉が群れています」と案内にあります。
ところが残念、堀割の修理をしていて、水が濁り、期待の鯉の姿は見られませんでした。
鯉が見られない
武家屋敷が並ぶ殿町通りでひときわ異彩を放つ建物が目に入ります。
カトリック教会です。
カトリック教会遠景
カトリック教会
1931年(昭和6年)に建てられたゴシック様式の石造建築で、荘厳な雰囲気を醸し出しています。しかし、内部の礼拝堂は和風で、畳が強いてありました。
順次、見学の所を載せます。
▼藩校養老館跡・津和野町民俗資料館
天明6年(1786)亀井8代藩主矩賢(のりたか)が創建した藩士の子弟の教育をした藩校です。 儒学、国学、医学、数学(和算)、礼学、兵学、武道等多彩な教科をもち、文豪森鴎外や先哲西周をはじめ多くの俊才を生んでいます。
現在残っている養老館は門より左が剣術教場・居合柔術教場、右が槍術教場であ正面奥の土蔵は御書物庫でした。
現在は、建物の一部を民俗資料館として活用されています。
養老館の全景
養老館 門
▼津和野川(錦川)と大橋
津和野の町を南北に分けている津和野川とその川に架かる大橋です。鯉がいるそうですが、大水で流されて、少なくなったとかで、ここでも姿をみかけませんでした。橋のたもとには鷺舞のモニュメントが立っています。 
津和野川と大橋 橋の近く
鷺踊りのモニュメント
川の向こうは郷土館です。
▼旧津和野藩家老 多胡家表門
旧津和野藩家老 多胡家(たごけ)表門
藩の筆頭家老・多胡家の屋敷の表門です。石積みの基礎の上に漆喰の壁で、窓や土塀は武家屋敷の風情をしっかり残しています。
旧津和野藩家老 多胡家表門

萩・津和野・安芸の宮3日間の旅

萩・津和野・安芸の宮3日間の旅という広告はかなり前から見ていましたが、このコースでは、とても3日での観光は無理と思っていました。しかし、いずれも行きたいところだったので、いずれはと、思っていたのですが、ないなかそのいずれかが来ないので、思い切ってこの3日観光に申し込んでみました。
とにかく安いです。どうしてこの値段でできるのだろうと思っていました。
結果は思っていたよりずっと満足でした。ただ、萩・津和野・安芸の宮は、やはり滞在最短1日は必要だと思います。
バス走行、約660kmという旅の様子を少し写真で載せてみます。
(ちなみに、東海道、江戸日本橋から京都三条大橋までの距離は約492kmです。それより170kmも長い距離です)
まず、初日は、羽田空港から岩国錦帯橋空港は飛び、そこからバスで津和野へ行きました。(下の写真は津和野川です)
津和野川と大橋
萩と津和野はよくセットになります。しかし、萩は山口県、津和野は島根県です。
その島根県は、以前出雲国と石見国に分かれていました。津和野は石見の国です。
津和野から見ると萩は山岳の高い位置にあります。萩からは、津和野の町が見下ろせるということです。津和野は萩を常に意識せざるを得なかったと思います。
津和野は「つわぶきの生い茂る野」という意味です。
遠い昔、この地に住みついた人々は、群生する「つわぶき」の可憐な花に目をとどめ、その清楚な風情に魅せられ、自分たちの住む里を「つわぶきの野」・・・ 「つわの」と呼ぶようになったと言います
津和野のつわぶき
役場の入り口に「つわぶき」がありました。
私は、かつては森鴎外のふるさととして意識し、その後は安野光雅さんのイメージで、ふんわりメルヘン的に包まれた町を思いました。
津和野にあった鴎外の詩

北の丸公園で見た花花

あいにくの雨でしたが、北の丸公園へ行きました。そこで見た、春を告げる花花です。

寒緋桜 カンヒザクラ
寒緋桜 カンヒザクラ
釣り鐘状の花が特徴です。主に沖縄県で野生化し、沖縄で「桜」と言えばこのカンヒザクラのことを言います。
河津桜 アップ
河津桜 カワヅザクラ
伊豆で咲いたと話題になったのは、少し前。ここでは、今が満開でした。花期が長いですね。名前は、1955年に飯田勝美が静岡県河津町で原木を偶然発見したことによります。
ミツマタ
三叉 ミツマタ
和紙の原料としてよく知られています。花びらに見える部分は筒状の萼で、実際は花びらをもちません。花は下向きに咲き、ちっちゃな蜂の巣のような雰囲気があります。色は外側が白で内側が黄色になります。開花時期はまだ葉っぱが出ておらず、花が葉っぱで隠れることがないので樹全体が色づいたようになり、キレイです。
まんさくの花
満作 マンサク(「万作」とも書く)
春に他の花に先駆けて咲くので”まず咲く花”ということでだんだんと”まんさく”になっていったと言われます。
細長いひも状のちぢれた花。黄色が鮮やかです。
土佐水木 トサミズキ
土佐水木 トサミズキ
名前のようにミズキの仲間に似ていますが、マンサク科です。早春に葉に先立って、穂状の花序を出し、春の到来を告げます。花弁はヘラ形で5枚。雄しべは5本で、葯は紅色です。

玉川上水・江戸市中を歩く⑪ 玉川上水、麹町大通りの分水

四谷から赤坂 麹町周辺の切り絵図
東京の江戸探索まち歩きに必携なのは、江戸切り絵図です。上の図は、私がよく持ち歩いている人文社「もち歩き江戸東京散歩」あら麹町わいわい、四谷御門から半蔵門までと永田町をスキャンしたものです。
この中の麹町六丁目をアップしています。大横町の左に、「切エズ板元金鱗ドウ」とあります。これは「尾張屋清七(金鱗堂)」のことです。
麹町六丁目 切り絵図
この麹町六丁目は、現在は麹町三丁目になっていて、この南側の交差点は東京三菱銀行麹町支店です。ここは、江戸時代、「切り絵図」の板元「尾張屋清七(金鱗堂)」があった所です。
尾張屋はそれまで売られていた切り絵図を、よりカラフルにし、武家屋敷に家紋を入れたり、寺社を色刷りにしたりして見やすい切り絵図を発売して一躍、尾張屋清七の切り絵図として有名になりました。この資料の「切り絵図」はこの尾張屋のものです。「尾張屋清七(金鱗堂)」はきちんと自分の場所を書き入れています。
玉川上水 麹町大踊りの樋筋
玉川上水関係で言えば、その金鱗堂の横の大横町に図のように4本の桝がありました。四谷見附から麹町通りに通じていた木樋は3本ありました。そのうちの南側が武家、町家への本管でした。そして、ここで玉川上水が分水されていたのです。下の図のように4本の桝で分水された玉川上水の樋は永田町の方へ向かいました。
そして、このうちの1本が、赤坂御門前の前、現在衆議院議長公邸になっている松江藩(島根県)松平出羽守の屋敷(上段切り絵図の13の番号がついている場所)へと流れていました。その屋敷には庭園があり、上水はその庭園で滝になって落ちて評判だったと伝わります。ほかは、紀州德川家、福岡黒田藩、そして町屋にそれぞれ流れました。もちろん、麹町通りの3本の本管の樋は半蔵門へ向かいます。

玉川上水・江戸市中を歩く⑩ 玉川上水と甲武鉄道

外濠公園 四谷駅
玉川上水に、明治3年(1867)から明治5年(1872)にかけて、通船許可がおりたことがあります。
多摩川から羽村の水門を通って内藤新宿まで、石灰・薪炭・野菜・織物などを運ぶ船が最盛期で100隻以上行き来したと言われます。          
しかし、明治5年(1872)5月「上水不潔ニ至リ」という理由で玉川上水の通船は停止になります。
そこで、船の持ち主たちは、馬車鉄道会社を設立し、鉄道の創業を願い出て、明治22年(1889)4月に新宿~立川間、同8月に立川~八王子間を(当初は馬車の申し出でしたが、馬車でなく)機関車での開通にこぎつけます。これにより玉川上水への通船の問題は 解決されました。
ちなみに、甲武鉄道という名前は、甲府のある「甲斐国」(現・山梨県)と羽村のある「武蔵国」の頭文字をとっています。(鉄道の希望として当初は甲州街道を想定していました)。
そして、明治28年(1895)には、新宿~飯田町(現飯田橋駅の南側にある貨物駅)間を開通して、都心部への乗り入れを果たします。
甲武鉄道 四谷付近
写真の鉄道は、濠奥の高台に陸軍士官学校(元尾張家上屋敷・現防衛省)が写っています。四谷濠です。ですから撮影されたのは、明治28年以降です。四谷壕は、復々線工事で埋め立てられました。
そして、明治39年(1906)、日清・日露戦争の勃発に起因する鉄道の国有化にあって、甲武鉄道は国有化となり、現在の中央線になっていきます。
このように甲武鉄道、中央線の開通と玉川上水は深いつながりがあります。

玉川上水・江戸市中を歩く⑨ 四谷門の玉川上水の懸樋

四谷門前まで来た玉川上水は、3系列の懸樋で四谷門前の橋を渡ります。そこから江戸城に向けて半蔵門へと進みます。
四谷門前の懸樋
江戸時代のこの四谷門の回りは、四谷見附についての千代田区の案内板に絵図が載っています。
江戸時代の四谷門界隈
玉川上水は、麹町十一丁目や十二丁目の間の通り(現在の三栄町通り)をまっすぐ来ています。橋を渡る懸樋の屋根の写真も同じ案内板にあります。左が懸樋の屋根です。
明治の写真・四谷見附の橋 
現在の四谷門までを辿ってみます。
四谷駅前 四谷門へ
四谷門へ
四谷見附門跡の石垣
懸樋を通って、四谷見附を抜け、玉川上水の基本の樋は麹町へと流れます。
麹町の通りへ

玉川上水・江戸市中を歩く⑧ 玉川上水の配管

四谷御門付近の配管図
新宿通り(甲州街道)を来た玉川上水の樋は、麹町十三丁目通りの所で、1本は左に折れます。これは、四谷見附が甲州街道の北側にあるから、そこを目指すには、折れなくていけないわけです。まっすぐの樋はそのまま四谷の壕まで進みます。
新宿通り 麹町十三丁目通りの所から
麹町十三丁目元桝跡の通り
麹町十三丁目通りを入るとすぐに右に折れる樋ともう少しまっすぐ行って、現在の三栄通りで右の折れる樋があります。
三栄通りが、四谷見附に通じています。
江戸時代、四谷側にも麹町がありました。麹町十一丁目 麹町十二丁目 麹町十三丁目です。
寛永13年(1636)に外濠と、四谷門ができるので、その工事区内にあった町屋が四谷側に移されたものです。
麹町は、徳川家康の江戸城入場後に城の西側の半蔵門から西へ延びる甲州街道沿いに町人町が形成され、半蔵門から順に、一丁目から十三丁目までありました。
外濠が出来て、十丁目までが四谷見附の東側(千代田区側)に、十一から十三丁目までは外濠をはさんだ西側(四谷側)になりました。
明治当初、東京15区ができたころは、麹町区に編入され、明治13年(1880)四谷区に編入替えしました。
四谷大横町跡
三栄通りを少し行って、少し広い道に交差しますが、そこが大横町 (おおよこちょう)と呼ばれて場所です。
大横町は“広い道の横丁”の意味で、ここは、通称「四谷大横町」と言われ、明治・大正の頃、昼も、夜も賑わう、山手屈指の繁華街・盛り場でした。

玉川上水・江戸市中を歩く⑦ 荒木町 策の池

四谷三丁目を過ぎると、路地左側は荒木町になります。
現在の荒木町のほぼ全体は、江戸時代は、松平攝摂津守(せっつのかみ)、美濃高須藩(たかすはん)3万石の上屋敷でした。
摂津の守の名は、このお屋敷の面していた通りの名を「津の守(かみ)通り」、その通りの坂の名を「津の守坂」として残っています。
明治時代に入ると庭園は払い下げらます。庭の池の一角に天然の滝があったことから明治初期には茶屋が出来、名所となりました。滝は落差4mほどあったということですが、周囲の急速な都市化で明治後期には既にほとんど枯れていきました。
一方で町自体は歓楽街として発展し、数百人の芸者を擁する花街となりました。
明治になってからの地図にも池が描かれています。
荒木町明治の地図
策の池_edited-1
かつての花街としての雰囲気を、夜になると色濃く残す四谷荒木町界隈。町は、深いスリバチ状の窪地になっており、その谷底の一角に「策(むち)の池」と呼ばれる池が佇んでいます。現在は長さ10m弱、幅5m弱の小さな池ですが、かつては長さ130m、幅も20〜40mある大きな池でした。
荒木町 策の池
徳川家康が、このあたりに鷹狩にきたとき、立ち寄ってその湧き水で馬の策(むち)の汚れを落としたと伝えられています。「策(むち)の池」は、それからついた名前です。
この池には、甲州街道を通る玉川上水の水が補給されていたと言われています。

玉川上水・江戸市中を歩く⑥ 湯屋横丁・石切横丁

旧甲州街道、現在の新宿通りを玉川上水の石樋が通っていました。四谷四丁目から四谷駅の方に歩きます。
閉鎖したお風呂屋さん
四谷四丁目の田安稲荷神社から通りを1つ行った所に、昨年9月に閉じた、お風呂屋さんが、まだ残っていました。かつてのお風呂屋の雰囲気を残しています。風呂屋さんは少なくなります。
湯屋横丁 石切横丁
この通りから少し四谷三丁目の方に行った所に、湯屋横丁(ゆやよこちょう)があります。
四谷 湯屋横丁
玉川上水が建設されていた時、この横丁に住んでいた、酒商の安井屋三左衞門が、この横丁に風呂釜を並べて、湯を沸かし、玉川上水の工事の人夫たちに、無料で入浴させたという言い伝えがあり、湯屋横丁と呼ばれます。
「四谷塩町二丁目書上」に、湯屋横丁のいわれが記されています。そこには次のように書かれています。
「上水工事中,泥だらけになった石工たちの入浴場所がなくて困っていたとき,この町の酒屋安井屋三左衛門が,店頭に据え風呂を並べて,人夫や石工たちを無料で入浴させた.この三左衛門に相続人がなく,家族は本家に引き取られたが,その後長左衛門というものがここで湯屋を始めて大いに繁昌したという」.
新宿通りをさらに進み、四谷三丁目を過ぎ、車力門通りを過ぎ、津之守坂(上の図ではアラキヨコチョウ)に出ます。
その斜め向かいの通りの右側の横丁が石切横丁(いしきりよこちょう)と呼ばれる横丁です。
石切横丁
玉川上水を麹町の方に配水する石樋を埋設する時、石材の集積場になっていたのがこの横丁です。玉川上水の工事が終わってからも、この横丁に住み着いた人もいたようです。
玉川上水石切の図
「四谷伝馬町新一丁目書上」には,石切横町と呼ばれたいわれが書いてあります。
「玉川上水の市中給水工事の進行中,この部分の埋設管は石樋だったので,道筋には石材がたくさん置かれ,毎日石工が集まって数カ月も石切工事に従事していた.工期が長いので石工の中にはこの付近に借家をした者もあり,工事が終わっても、ここにいついてしまった者もいて,いまもってこの辺には石屋が多くあることから,俗に石切横町の名がついたという。上水工事中は、四谷大通りに面した商店は,商売に支障をきたすことがあったが,上水が入るというので,不平をいう者もなく,かえって工事に協力し,ある者は進んで住宅を提供し,ある者は店先で湯茶の接待などをした.このため,上水完成後,この1カ町の左右に分水井戸(石樋から水を引いた水道井戸)5個所を設けることが許された」
今、その横丁には、湯屋横丁、石切横町の案内看板はありません。案内があっても良いのではないかと思っています。(カット:小坂克信著『玉川上水と分水』から )
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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