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玉川上水・江戸市中を歩く⑤ 鉛筆の碑 多武峯内藤神社

玉川上水余水吐きの流れがそんなに遠くに行かない、まだ新宿御苑の範囲内の所にも水車がありました。明治時代、内藤家が持っていたようです。その一つを使ってここに日本最初の鉛筆工場がありました。
鉛筆の樋
多武峯内藤神社のそばに「鉛筆の碑」が建てられています。
その案内に次のように書かれています。
『この地(多武峯内藤神社西方付近)は、明治20年(1887)に佐賀藩出身の眞崎仁六が眞崎鉛筆製造所(現・三菱鉛筆株式会社)を興し、鉛筆の製造を始めたところです。30年後の大正5年(1916)に品川区東大井に移転するまで、ここで鉛筆製造を行っていました。
創業時は玉川上水の分水であり、現在は暗渠となっている渋谷川を利用した水車を動力にして、ここで鉛筆が造られていました。 平成18年10月』
鉛筆工場の水車
眞崎仁六は、明治11年(1878年)にパリで行われた万博で鉛筆を初めて見て、感動し、なんとか日本で鉛筆をつくりたいと思い立ちました。
そして、ここで日本初の鉛筆工業を作り、明治34年(1901)に、「逓信省(現:総務省)御用品」として採用されたのが最初の日本製の鉛筆『局用鉛筆』です。玉川上水の余水は常には水量はそれほどなかったようで、雨の時など、夜を徹して水車を回して作業していたようです。
多武峯内藤神社
多武峯内藤神社は、家康の家来として江戸に来た内藤清成が現在の新宿御苑あたり一帯を屋敷地として拝領した時、屋敷内に家祖である藤原鎌足公を祀り、内藤神社を草創したことに始まます。藤原氏の氏神である奈良の春日大社より、経津主神、武甕槌命、天兒屋根神、姫神の分霊を勧請合祀しています。
明治19年(1886)に新宿御苑の地から現在地へ移設、遷座されました。当初は「武州多武峯神社」と称していましたが、昭和42年(1967)に多武峯内藤神社に改称されました。
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玉川上水・江戸市中を歩く④ 玉川上水余水吐き

四谷大木戸・上水最終地点 玉川上水事典
昭和60年初めごろは、まだ玉川上水に水が流れていたようで、写真はそのころの大木戸付近のものです。
今残っているのは、玉川上水余水吐きの流れの跡です。水はありませんが、堀のようになっています。かつてこのからの流れは渋谷川に入っていました。
玉川上水 余水吐け 隠田川
新宿御苑から見た余水吐けの道_edited-1
現在、その水路は暗渠化し下水道の千駄ヶ谷幹線となっています。
渋谷川は、玉川上水ができる前はそれほど流量の多い川ではありませんでしたが、新宿御苑、明治神宮の湧き水等の源水のほか、この余水を流すことで、流量は飛躍的に増えました。 これにより、水車を掛けることが可能になり、渋谷川には多くの水車が作られていました。
広重富岳三十六景「穏田の水車
北斎の富嶽三十六景に「穏田の水車」という渋谷川の水車小屋を描いた絵があり、その場所は、ズッと先の現在の神宮前3丁目あたり、かつては原宿穏田村と呼ばれていた地域が描かれています。
ここの渋谷川の上流は穏田川と呼ばれていたようです。

玉川上水・江戸市中を歩く③ 内藤家・田安家 下屋敷かかり(分水)

御苑の梅
玉川上水は、江戸に入る前、大木戸の近くで、信州高遠藩主内藤家の江戸下屋敷と、徳川御三卿の一つ田安家下屋敷へ、取り込まれています。
江戸時代には、信州高遠藩主内藤家の江戸下屋敷であり、玉川上水の水を利用した日本庭園のある景勝地でした。明治5年(1872)に官営農業試験場となり、同12年には宮内庁に移管され新宿植物御苑になり。明治39年(1906)に現在とほぼ同じ形の新宿御苑が完成しています。
昭和24年(1949)には国民公園として、一般公開されました。
大木戸門を入った突き当たりにある玉藻池を中心とする日本庭園が、内藤家の屋敷跡です。その場所に、安永元年(1772)、玉川上水の余水を利用して、庭園『玉川園』がつくられました。その桂城は変わってしまっていると思いますが、源氏も池が残っています。
新宿御苑 玉藻池
玉藻池のカモ

田安家は、8代将軍徳川吉宗の次男宗武が享保14年(1729)田安家の家祖となり江戸城北の丸に居を構え、宝暦6年(1756)に江戸城西の要である「四谷」の地、四谷大木戸の北側に下屋敷をつくりました。
現在そこには、田安稲荷神社が残されています。
田安稲荷神社
明治4年(1871)5月に、下屋敷は明治政府に上納するため撤去されましたが、稲荷神社だけは残されました。翌年、跡地に町屋が出来、四谷永住町と名づけられ、以来代々この町に住む人達が大事にお守りしてきました。
玉川上水の遺跡ではありませんが、田安家の跡として、田安稲荷神社にお参りしました。

玉川上水・江戸市中を歩く② 玉川上水の流れの今

四ッ谷大木戸の水番所までの様子は、歌川広重「名所江戸百景」第42景 玉川堤の花 安政3年(1856)2月 改印に描かれています。
歌川広重「名所江戸百景」  第42景 玉川堤の花_edited-1
この絵は「玉川堤の花」とあって「内藤新宿の玉川上水」と書かれていません。以前は桜だから小金井の場面と言われていたことがあります。しかし、小金井には、宿場はありません。これは、高遠藩内藤駿河守の下屋敷(現新宿御苑)の北側の玉川上水です。
玉川上水は高遠藩内藤駿河守の屋敷内を流れていました。広重の絵のように一般人が歩ける場所としては少し限られます。
桜が描かれていますが、この桜については、短期間だったという話があります。
安政3年(1856)2月、上水沿いに、大久保から移植した古木を中心に、大小の苗木と合わせ、約75本の桜を植えました。そこには、安政の地震で被害を受けた吉原などから、被害が少なかった内藤新宿へお客を呼び込もうという思惑がありました。 
しかし、その時、権威付けをしたかったのか、この桜の木に許可を得ず「御用木(幕府が植えた木)折取べからず」という看板を掲げてしまいました。 
このことが、官林の諸事一般を掌る御林奉行 (おんはやしぶぎょう)の耳に入り、結局、老中の指示でこの植えたばかりの桜を、撤去されてしまうことになったのです。
「玉川堤の花」には、安政3年(1856)2月の印があります。つまり、これは一種の宣伝ポスターだったようです。
でも、このよな、玉川上水の流れを想像したいと思います。
現在は、暗渠。遺構も残っていません。
現風景を拾います。
▼新宿御苑(高遠藩内藤駿河守の下屋敷)の北側の道が、かつての玉川上水の水路です。
新宿御苑 大木戸門前 玉が上水の水路跡
▼四谷地域センターの裏側、このあたりに、水番所がありました。
四ッ谷地域センターの裏 水番所跡あたり
▼「四谷大木戸跡」の碑です。この石は玉川上水の石樋を使っています。石樋の蓋の部分でしょうか。
四ッ谷大木戸の樋
▼大木戸跡の交差点です。写真中央あたりが、「四谷大木戸跡」です。日本橋から、7kmです。
四ッ谷大木戸跡 

玉川上水・江戸市中を歩く① 四ッ谷大木戸水番所跡

玉川用水跡を羽村から江戸城まであしかけ2年かけて歩きました。全体をまとめるにはもう一度歩かなければできませんが、四ッ谷大木戸から江戸城に向けての江戸市中水路について少し載せておきたいと思います。
玉川上水は、承応3年(1654)、江戸市中への給水を目的として、武蔵国多摩郡羽村(現羽村市)の多摩川に取水口を設け、江戸の西の入り口にあたる四谷大木戸にいたるまでの約43kmを、自然流下により導水する施設として掘削された素掘りの開渠水路です。
江戸市中に入った上水は、石樋・木樋などの暗渠水路で江戸城・武家屋敷・庶民の居住地などに配水され、飲料水のみならず、防火用水・泉水用水・濠用水などに使用されました。
四ッ谷大木戸は、現在の四谷4丁目交叉点付近に置かれていました。その大木戸の石塁の(江戸から見て)後ろあたりに、水番所がありました。
四ッ谷大木戸 水番所
水番所には、水番人一名が置かれ、水門を調節して水量を監視したほか、ごみの除去を行い、水質を保持しました。
水番所構内には次のような文面の高札が立っていました。
   定
一此上水道において魚を取
水を浴びちり芥捨へからず 
何にても 物あらひ申間敷井両側
三間通に在来候並木
下草其外草刈取
申間敷候事
右之通於相背輩有之者
可為曲事者也
元文四巳未年十二月  
奉行
元文4年(1739)に出された高札は羽村堰水神の前の2枚をはじめとして各所に建てられました。
四谷大木戸 水番所の図
大木戸にも、田安下屋敷懸かりの右側に「水神」の文字が見えます。
上水のゴミをとめるあくたとめ(芥留)、余分な水を流す「吐水門」もあります。「吐水門」は内藤家の下屋敷(現新宿御苑)の側に設けられており、その水路跡が現在も残っています。「吐水門」の大きさは、「大内法高7尺5寸、幅7尺」とあります。
(上図は、比留間博氏著『玉川上水 親と子の歴史散歩』より)

横浜美術館開館25周年「ホイッスラー展」

横浜美術館開館25周年「ホイッスラー展」に行って来ました。
‘灰色のアレンジメント 自画像’(1872年 デトロイト美)
ホイッスラーという名前は聞いたことがあるという程度の知識で観に来ました。
19世紀後半の欧米の画壇において、最も影響力のあった画家の一人であるホイッスラーはアメリカ人なのですね。イギリスという印象があったのですが。
カタログなどで、簡単に紹介すると、次のようになります。
「ロンドンとパリを主な拠点として活躍し、クロード・モネなど印象派の画家たちとも親交がありました。また、構図や画面空間、色彩の調和などに関して、日本美術からインスピレーションを得て独自のスタイルを確立したジャポニズム
の画家として世界的に知られています。」
展覧会の構成はシンプルです。
第1章:人物画「色彩と構図の調和が生み出す静謐なる人物像」  
第2章:風景画 「始まりは正確な自然描写、やがて詩情奏でる表現へ」
第3章:ジャポニズム「日本の美に魅了されて創出した新たな美」 
そして ピーコック・ルーム
展覧会にはエッチング(版画)がとてもたくさん出ていていました。これがとてもすてきで、小さな作品なのですが、会場が思ったよりすいていたので、じっくり見ることができました。
ジャポニズム、今回も例えば、歌川広重『名所江戸百景』のうち《京橋竹がし》とホイッスラーの「ノクターン:青と金色-オールド・バターシー・ブリッジ」が並べて展示してあり、浮世絵との関連が一目瞭然で嬉しかったです。
そして、浮世絵への関心がますます大事だと思いました。
ピーコック・ルームは、ホイッスラーによる現存する唯一の室内装飾で、パトロンであるフレデリック・レイランドのためにデザインしたダイニング・ルームです。フレデリック・レイランドが留守中にホイッスラーが勝手に造り変えてことでけんか別れになったようですが、部屋は、そのまま残していたのですね。現在はフリーア美術館(アメリカ)に移築されているこの部屋を大型映像で紹介されていました。
ホイッスラー《バルコニーの傍で》
癌に侵された最愛の妻、ビアトリクスの療養中の姿を描いた「バルコニーの傍で」です。妻の衰弱が受け入れられなかったホイッスラーは、試し刷りをしただけで原版を壊してしまったらしいです、このリトグラフは4点しか現存が確認されていないという大変貴重なものだということです。

後楽園周辺でらんの観賞と梅見

世界ラン展会場
後楽園の東京ドームで開かれている「世界らん展日本大賞2015」に行きました。らん展観賞の後、もう一度小石川後楽園と牛神社へ梅見に行きました。
世界らん展です。
世界ラン展 日本大賞2015
世界ラン展
小石川後楽園の梅林です。ずいぶん咲いてきました。
小石川後楽園の梅と空
小石川後楽園の梅林
牛天神です。
牛天神の梅
ひさしぶり、ゆっくり散策しました。

太田神社・高木神社

小石川の牛天神(北野神社)の境内に「太田神社・高木神社」があります。牛神社との関連性はよく分かりません。摂社とか末社とかは、つながりがあるのですが、こういう存在はどういう言い方をするのか、わかりません。とにかく、祠が存在しています。
大田神社 高木神社
この神社、現在では、芸能の神・天鈿女命と道の神・猿田彦命、この2神は御夫という関係で祀られています。それに宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)という神様もお祀されています。
関心を持ったのは、太田神社の方は、明治のころまでは、貧乏神を祀っていたということです。
どの貧乏神には、きちんと名前があって、それは、黒闇天女(くろやみてんにょ)といいます。いかにも恐ろしげなお名前ですが、この貧乏神は、弁財天の妹とか吉祥天の妹とかいわれています。
しかし、この貧乏神さまは、ある貧乏な旗本の貧乏を救ったという話がここに伝わっています。
太田神社の御由緒によると、次のようないきさつです。
「この近くに住んでいたある旗本は、不幸でなくとも貧乏でしたが、ある晩夢の中に貧乏神が現れ、「わしはこの家に住みついている貧乏神じゃが、居心地が良く長い間世話になっておる。そこで、お礼をしたいのでわしの言うことを忘れずに行うのじゃ…」と告げました。
そのお告げとは、『毎月、1日と15日と25日に赤飯と油揚げを供え、わしを祭れば福を授けよう…』。
旗本はそのお告げを忘れず、実行しました。すると、万事よいことづくめでしだいに豊かになりました。旗本は神像を彫り牛天神に納めたと伝わります」
ということです。
さらに、この「福の神になった貧乏神」ということで、この話は江戸中に広まり、多くの人々が参拝に訪れるようになった、ということも伝わっています。
いろいろ関連を調べていたら、貧乏神のお参りの仕方があることを知りました。
それはどうするかと言えば、貧乏神のおられる神社に参り、「永々ご厄介になりましたが今日はお礼に参りました」と唱えて、そこでお札をいただいてくるのだそうです。体の良い、縁切りをするのですね。これまでは、貧乏神様に可愛がられてきましたが、それは今日限り、お別れに参りました、という意味ですか。
明治のころこの太田神社には多くの人がお参りに来たようです。
「今や地主の牛天神に倍する収入あり・・・前年までは天神の縁日に商人等の貧乏神近く店張りするさえ厭いしに今は貧乏神のために縁日も立つほどという」と新聞にも記載されていたそうです。牛天神を凌ぐ人気を集めていたというわけです。
みんな豊になって、貧乏な人がいなくなったので、別の神様がお入りになったのでしょうか。
合祀の高木神社の方は、旧・第六天町(現・小日向1丁目)にあった第六天社を、道路拡張に伴い、ここに移したもの、との案内がありました。
第六天という神様も、「魔王」とか言われる怖い神様だったはずです。
今は、牛天神のそばで、おだやかに、芸能上達、開運招福のご利益を願ってお参りする神社になっています。
そばに梅を形作ったおみくじ結びがありました。
おみくじを結ぶ

牛天神・北野神社

後楽園の近くにある牛天神・北野神社へ行きました。
高い石段にまず驚きです。石段の途中では梅が咲いています。
牛天神 石段
縁起によると、源頼朝が、寿永元年(1182)東征の際に、ここの入り江の松に船をつなぎ、波風が静まるのを待つ間、夢に菅神(道真公)が牛に乗って現れ、2つの吉事があると告げます。そして、武運達成の後は、社を営むべしと告げ、夢から覚めると、そこに牛の形をした石があったと言います。
その後、頼家が生まれ、平氏を討つことができ、源頼朝は、ここに社殿を造営しました。
北野天神 願い牛
牛天神境内にある、なで石(自然石)は、源頼朝公が、夢を見た、牛に似た石を御神体とされ、大宰府天満宮より御魂を勧請されたと伝えられていますが、その石牛です。江戸時代は神社の外、牛坂の下あたりにあったようです。
撫でるとねがいが叶うと言われています。
なで方の案内が出ていました。
【先ず願いながら真心を持ってねがい牛の頭の部分を撫でさすり、心に念じつつ何事も唯々誠心誠意純真な気持ちを持って夫々にお願いをしてください。天神様は、聞きとどけて下さるでしょう。】
小石川 牛天神本殿
境内の牛石もなかなかりっぱです。
菅原道真と牛との関係は深く、菅原道真は承和12年(845)丑年のご生誕であり,延喜3年( 903)2月25日の丑の日に薨去されました。
また「大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った」とか「その左遷の道中、牛が刺客から道真を守った」とか「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在していて、これにより牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされ臥牛の像が決まって置かれているのです。

春を迎える小石川後楽園

小石川後楽園の梅見を案内する予定があって、梅が咲いたか心配だったので、下見に行ってみました。
あいにく雨が降って来ましたが、早咲きの梅が咲いていてホッとしました。三分咲き咲きということでした。
立春を過ぎるとまた寒くなりました。でも春は確実に来ています。
冬から春への過渡期、雪吊がまだ見られます。
一つ松の雪吊
後楽園一つ松の雪吊。金沢の兼六園のように、本当に雪から守る意味でではなく、観賞用ということで、縄は5㎜の小舞綱を使っています。帆柱と呼ばれる杉焼丸太を心棒にして、その先端には「わらぼっち」と呼ぶ錺をつけ、160本の小舞綱を下ろして「ぶち」とよぶ唐竹(真竹)を割ったものを縁取りにしたものにつるしています。今回りが改修中なので、少し風情に欠けます。
内庭の雪吊はきれいでした。
内庭_edited-1
大堰川にセキレイがいました。
せきれい
竹生島と名付けられた場所の石には鴨が羽を休めていました。
竹生島
早春の梅林。
後楽園梅林
そしてその梅林の下には福寿草が咲いていました。
福寿草
雨の延段はまたすてきです。
延段(のべだん)
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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