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江戸名所図会 「四谷内藤新駅」 

江戸名所図会 内藤新宿
『江戸名所図会』より「四谷内藤新駅」です。 長谷川雪旦画 天保5~7年(1834~1836)刊になります。この絵は、師走の風景です。 
内藤新宿は、元禄11(1698)年、信州高遠藩主内藤家の下屋敷の一部に宿駅が設置され、元からあった高井戸宿に対して新宿と称しました。
本文によると、
「甲州街道の起点なり。此の地は舊(いにしえ)内藤家の弟宅なりしが、後町屋となる。故に名とす。日本橋から高井戸までの行程、凡そ4里あまりにして、人馬共に労す。依って元禄の頃、この地の府人官府に訴えて、新たに駅舎を取り立てる。故に新宿の名あり。然りと云えども、故ありて享保の初め廃亡せしが、又、明和9年壬申、再び公許を得て駅舎を再興し,今は、繁盛の地となれり。追分といふは、同所甲州街道、八王子通り及び青梅等への別れ道なればなり
絵を見ると、「和國屋」という旅籠があります。左の用水桶に名前があります。
江戸時代の大きな宿場は全てそうであったが、宿場全体が旅人相手の一種色町をなしていました。
この宿場女郎は、旅籠が抱えていて、表向き遊女とは呼べず、飯盛女(めしもりおんな)または食売女(めしうりおんな)と呼んでいました。
江戸四宿は、旅人相手だけでなく、江戸に近い分、多くの江戸市民の遊び場所になっていたのです。いわゆる岡場所というものです。
「和國屋」の奥には、鏡研ぎがいます。当時の鏡は銅製だったので、ときどき磨きをかけないといけませんでした。鏡研ぎという職人がいたのですね。
旅籠の前には魚を売る「ぼて振り」がいます。一人の男が手鑓の先にタコのようなものを引っかけて差し出しています。もう一人も威勢が良いです。江戸時代、このように籠や番台に魚をのせて売り歩いていました。
右手前の店は看板に書いてあるように味噌「お路し」の看、「味噌屋」です。
その前を大きな荷物が行きます。侍がついているので藩の公用なのかもしれません。
師走らしく、道の向こう側では、臼を置いて餅つきをしています。親子連れがその風情を見ています。餅つきは、お金持ちは自分の家で餅をつきますが、普通の家では、人足に餅つきを依頼し、臼や杵など持参で出張して餅をついてくれました。
ほかにも、馬に松をのせた農民、馬に乗った旅人、荷を担ぐ商人、慌ただしい歳末らしい風景が良く描かれています。
縞の合羽で馬に乗るは江戸を離れる渡世人か。爺さんが振り分け荷物で江戸に入る。座頭もきっと師走は忙しかったのでしょう。
さて、旅籠の「和國屋」の店先には、坊主が経を詠み、物乞いらしい一団が楽器を鳴らして、オカメの面を付けた男が面白おかしく踊っています。
これは「節季候(せきぞろ)」と言います。
節季候は日本古典文学全集の説明によると「(12月22日より)乞人、笠の上にシダの葉を挿(はさ)み、赤き布巾を以て面を覆い、わずかに両眼を出だし、2人或は4人共に人家に入り、庭上にて躍を催し、米銭を乞う」とあります。
『江戸名所図会』に、はせ越(芭蕉)句が添えられています。
「節季候(せきぞろ)の来てハ風雅を師走かな」。
『松尾芭蕉集』(日本古典文学全集)には「節季候の来れば風雅も師走哉」とあります。
「エ節季ぞろ、エ節季ぞろ、さっさござれさっさござれいぇ」とはやしたて騒いで銭を乞いました。年末いそがしい時期、早く行ってもらうため、銭をやったそうです。
「和國屋」の前に犬がいます。
江戸時代、町犬は、特定の飼い主のいない野良犬でした。犬を紐で繋ぐ風習は、富裕層の愛玩犬あるいは猟犬を除いて、一般庶民の間にはありませんでした。
「生類憐みの令」はこの絵の時期にはもうありませんでした。
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江戸名所図会 「四谷大木戸」

歴史探訪でまちを歩くとき、広重の絵や江戸名所図会をよく参考にします。でも考えてみると、それをそこまで読んでいるかは疑問です。と言うよりあまり読み込めてないのが現実です。
今度、部屋の展示で「まち歩き」をするので。内藤新宿と四谷大木戸を名所図会で語ってみようと思いました。
まず、「四谷大木戸」です。
名所図会 四谷大木戸
四谷大木戸は、元和2年(1616)、江戸幕府により四谷の地に、甲州街道における江戸への出入り口として大木戸が設けられました。
図に見られるように、地面には石畳を敷き、木戸の両側には石垣を設けています。
この木戸は、夜になると閉められていましが、寛政4年(1792)に木戸は撤去されました。
文政12年(1829)に描かれた「江戸名所図会」には、木戸撤去後の様子が描かれています。
石垣に関して言えば、明治維新後、石畳や石垣は交通の障害となるということで、明治9年(1876)に撤去されてしまいます。現在では何も残っていません。現在の新宿通り、四谷四丁目の交差点上がその位置にあたり「四谷大木戸跡」として東京都指定旧跡となっています。
左が江戸の府内で、右側が内藤新宿です。
絵図の手前の屋根は番屋の屋根です。本文に「ここの番屋は町の持ちなれども、突棒、指股、もどり等を錺置けり」とあります。かつては関所のように取り調べる番所があったと思われます。しかし、この絵図のころ、番所はすでに無くなっています。左の石垣の向こうは、高遠藩3万3千石内藤家の下屋敷です。
手前の石垣の所は、水番所です。前を流れているのは玉川上水です。羽村から43キロを堀割で流れ、ここで、地下に入ります。地下は四谷見附まで、石の樋を通って流れます。
水番所で水量が調節されました。水が増えた時、余水は近くを流れる渋谷川の支流に放流されていました。
その流れの前に、客待ちの籠があります。よつで籠と喚ばれる一番大衆的な籠です。籠には腰を下ろした男がキセルを加えて道行く人を眺めています。
その前を下女に荷物を持たせた集団がいます。反対から駕籠に乗っている女性は膝に赤ちゃんを抱いて、駕籠の上には風車らしきものを載せています。
絵図のずっと手前の3人組の男たちも、何やら同じようなものを持っています、お祭りが近くにあるのでしょうか。籠の前の人たちも祭か縁日に向かおうとしているのかもしれません。
左の石垣の前に「開帳」と記した高札があります。開帳は特定の日に、寺院の本尊や秘仏を拝観させることで、その宣伝の意味で、ここに掲示だれていたのでしょう。どこかの「開帳」に出向いたのかもしれません。
大木戸の角からは、武家の行列が出てきています。この駕籠は、引戸網代駕籠です。江戸城への登城なのかもしれません。
籠の話にもどりますが、大木戸の手前(内藤新宿側)の両側に駕籠屋があったとされています。しかも、この二軒は夜通し焚火をして表戸を開けっ放しにして、いつでも客の用に立つようにしていた、という記載をみたのですが、そうした建物はみつかりません。
でも籠が待っているので、籠はあったと見るべきだと思います。
ここの駕籠かきは江戸一の健脚で有名だたようです。
江戸市内の駕籠は、早いが長距離は走りません。土手八丁(日本堤-山谷堀の今戸橋から新吉原衣紋坂まで)を走るツバサ駕籠でも十町内外の距離である。これに対して大木戸から乗って江戸へ出る駕籠は一里半(約6㎞)から二里を平気で走ったそうです。
乗り物として馬という手もありましたが、馬は品物の運搬とかもっと別の役割に使われていたようです。
馬が3頭並んで、江戸から出ていこうとしています。積んでいる桶は、下肥です。
朝早くから農産物を積んで江戸に入り、契約している武家屋敷や町人の家などを廻って販売し、その帰りに下肥を積んで帰っていったのでしょう。
下肥は、江戸時代は農民にとって大切な肥料でした。
下肥は商品化し、大名屋敷では、入札にかける所もありました。そして、時には、高騰して幕府に訴え出たこともあります。それほど下肥を確保することは農家にとっては重要な事でした。
最後に「江戸名所図会」の上に句が書かれています。
「五十にて四谷をみたり花の春」嵐雪
これそのまま読むと、50歳になって初めて花の春に四谷を見たということです。俳人が本当にその歳まで四谷を見なかったのか、なぜこれが記載されているのか、これは謎です。

大黒天

大黒天は、インドのシヴァ神の化身の一つです。 最澄が「台所の神様」としてもたらしたとされています。
延暦7年(788))頃 最澄が比叡山延暦寺東塔大黒堂に、 大黒天・弁才天・多聞天(毘沙門天)の三天合一の三面六臂大黒天を祀りましました。
東博の大黒さま
東京国立博物館に、毎年お正月に、の快兼作の「大黒天立像」(重要文化財)が展示されます。
貞和3年(1347)、奈良東大寺の食堂に安置するために造られたものです。
彩色されていたのですが、顔は青黒く塗られた痕跡があり、七福神でよく観られる柔和な表情の大黒さま感はありません。
実は、大黒天はもとインドで戦闘(破壊)を意味する暗黒の神でした。
密教では、大自在天の眷(けん)族として三宝を守護し飲食をつかさどる神となり、忿怒(ふんぬ)相を示し、寺の厨房(ちゅうぼう)などに祭られました。
七福神としては、米俵の上に乗り、頭巾(ずきん)をかぶり、打ち出の小槌を持ち、大きな袋を肩に担ぐ像で表されます。さらに、中世以降になると、大国主命と同一視されて広く信仰され、恵比須天とともに福徳の神とされました。
東京国立博物館の像は、武神と福神との間という所です。
新宿山の手七福神に入っている経王寺の大黒天も室町期のものとされ、やや厳しい顔をされています。日法上人が慶長3年(1598)に甲斐国身延山より移されたと伝えらます。高さ12cmの木彫立像で、大黒頭巾をかぶり小槌と大袋を持ち台座に乗っている通常のスタイルではあるのですが。
江戸時代以降は、大黒天は、農産・福徳の神である大国主神と習合され、大変柔和な表情になり、庶民的な神様として親しまれます。
トレードマークの右手の打出の小槌は、米をはじめとする「土」の産物、恵みを産み出す「大地」を意味するとされています。左手には袋を持ち、米俵に立ち、鼠を使者とします。 幸運を運び繁栄をもたらす神です。

七福神めぐり

浮絵 七福神
その話のきっかけがどうだったのかは分かりませんが、上野・寛永寺の開祖、慈眼大師天海僧正が德川家康に語ったことが、七福神の信仰を広めたことになっています。
天海僧正は、德川家康と知り合った若いころから、この方はきっと天下人になられると思っていたそうです。
『仁王般若経』(仁王経)の「七難即滅 七副即生」をもとに、家康公にこう申しあげました。
「公は長寿、冨財、人望、清簾、威光、愛敬、大量の七徳を備えたまい、困難な天下統一の大業を果たされ、平和な国土を築かれた。これは、寿老人の長寿、大黒天の冨、福禄寿の人望、恵比寿の清廉(正直)、弁才天の愛敬、毘沙門天の威光、布袋の大量の7徳すべてを兼ね備えたものと言うべきでしょう」
家康公は大変喜び、早速、絵師の狩野探幽を呼び、宝船に乗った七副腎絵を描かせてそうです。そして、それを模した絵が江戸市中に広まり、七福神の信仰が広まっていったと言います。
「七難即滅 七副即生」、「あまたの災難はたちまち消滅し、多くの福徳に転ずる」 という転禍為福の考えから七福神への信仰が生まれたのです。
即ち、世の中の七つの大難はたちどころに消滅し、七つの福が生まれるということ。つまり「難を滅ぼし福を呼ぶ」というのです。
七難とは、太陽の異変、星の異変、風害、水害、火災、旱害、盗難のこと。
七福とは、寿命(寿老人)、冨財(大黒天)、人望(福禄寿)、清廉(恵比寿)、愛敬(弁才天)、威光(毘沙門天)、大量(布袋)です。
七福神巡りは、上記七徳を意識して巡らなくてはいけないと思います。
宝船の絵そのものは、後小松天皇(1382~1412年)が夢見て描かせたといわれていますが、その以前に伏見天皇(13世紀)の勅により描かれた宝船の記録もあるようで、かなり古くからのものです。
宝船には歌が書かれています。
 「なかきよの とおのねふりの みなめさめなみのりふねの おとのよきかな」
(長き夜の 遠の眠りの 皆目覚め 波のり船の 音の良きかな)
これは、上から読んでも下から読んでも同じ歌、「回文」です。この歌を3度となえて寝ると、縁起の良い初夢を見ると信じられていましたが、実はこの歌は、人々に早く煩悩から目覚め、悟りの岸へ渡る修行をせよと説いているとのことです。
<調子良く進む船が海を蹴立てゆく波の音は、夜が永遠に続いてしまうのではと思うほど心地よいので、思わず眠りも覚めてしまう。
長い世の中の遠い戦いの記憶から皆よ目を覚ましなさい。波に乗っている船にぶつかる音の状況はよいのだろうか>。
絵は葛飾北斎の「七福神」です、東京国立博物館で観たものです。

「博物館に初もうで」

新年恒例となる「博物館に初もうで」に今年も東京国立博物館へ行ってきました。
今年は未年、未(羊)を探してみようかなと出かけました。
入ってすぐ、羊の石像が2体あります。これは朝鮮半島の王の墓を守る石像として、立っていた物です。カンウォンド(江原道)の物で、18~19世紀のもだということです。
東博の前庭にある韓国の羊の石像
「初もうで」と言えば、これは、神社の狛犬にそうとうするかなと思いました。
本館前では、太神楽が演じられていました。ここでは、毎年、和太鼓の演奏や獅子舞など、お正月らしい伝統芸能がいろいろ見られます。
新春特別公開では、「ひつじと吉祥」の展示が目当てでした。やはり、羊のいない日本では、明治時代までほとんど「想像上の動物」のように思われていたようです。例年のようにはたくさんは出ていませんでした。
注目したのは、十二神将です。十二神将は、仏教の信仰・造像の対象である天部の神々で、また護法善神であるとのことです。十二夜叉大将、十二神明王ともいい、薬師如来および薬師経を信仰する者を守護するとされる十二体の武神です。
京都 浄瑠璃寺に伝わる、十二神将像の未神
まずは、京都府加茂町の浄瑠璃寺にあったと伝えられる十二神将像のうちの未神です。
13世紀初頭にさかのぼる,運慶系統の仏師の作ということです。残念ながら頭部の羊のかざりは無くなっていましたが、羊の毛並みを意識したような頭髪がまず目に入ります、現実感にとんだ表情や軽快な運動感に鎌倉時代彫刻の特色がでています。
1階の部屋で神奈川県の曹源寺の十二神将が揃って出ていました。これも鎌倉時代の作です。未神は奥の方で、やはり頭の羊は写っていませんが、撮影してみました。
曹源寺十二神将立像の未神
神奈川曹源寺の十二神将像(鎌倉時代
十二神将揃うと、迫力あります。それぞれの表情がおもしろいです。

未歳に因む江戸凧絵

新しい年の幕が開きました。今年は未年です・
干支の中で、未(羊)は、日本風にと思うとなかなか見つかりません。
ずいぶん昔になるのですが、いせ辰さんで手に入れた凧絵があります。
この凧絵についていた解説には、次のような解説がありました。
羊の出てく歌舞伎は「冨岡戀山開(とみがおかこいのやまびらき)」だけらしいです。
元禄のころ俗曲にも唄われて、広く知られていた玉屋新兵衛と三国小女郎の情事を扱ったもので、寛政10年(1798)正月に江戸桐座で初演されましたもともとは大阪にあったようですですが、舞台を江戸にし、二人の新兵衛が出てくる趣向で構成されていたようです。
最近は全く演じられていないので、詳しくは分かりませんが、話の中に羊が出てきて、羊と人間の角力を見せたり、大切な證文を羊が食べてしまい、事件が丸く収まったといった、趣向がもられていたようです。
今年が楽しい良い年でありますように。
江戸凧絵ー未歳ちなんで
絵を見ると、角と髭が見事です。どうも江戸時代は山羊を未として描いていたようです。今日お参りした神社で、江戸時代は山山羊を未とし、「羊のりっぱな角と髭は、『仁者』の徳と『賢者』の叡智を表し、富貴と健康長寿との象徴」と解説されていました。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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