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東京都庭園美術館が約3年間の改修を終えて

白金台の東京都庭園美術館が約3年間の改修を終えて、リニューアルオープンしました。
東京都庭園美術館は、昭和8年(1933)に建設されたアール・デコ様式の旧朝香宮邸、それにその回りの緑豊かな庭園との調和が、とてもすばらしい美術館です。
美術館として開館したのは、昭和58年(1983)です。
今回のリニューアルで、建物は、朝香宮邸創建当初に近づいたということで、じっくりと建物を観ることができました。
今回の展示は、リニューアルオープン記念展と題して、建物公開展『アーキテクツ/1933/shirokane アール・デコ建築をみる』と企画展『内藤 礼 信の感情』が同時開催されていました。(展示は25日で終了しています)
建物の鏡や窓などに内藤 礼の小さな彫刻の人が立っていました。とてもすてきで、いつのまにか一所懸命その人を探していました。
写真機を持って行かなかったので、スマホで、撮ってみました。
庭園美術館 1
庭園美術館 3

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外から望んだ皇居の秋

天皇陛下の傘寿を記念して皇居で行われた皇居・乾通りの「秋の一般公開」も7日で終了しましたた。
宮内庁によると「3日からの5日間で合計34万9500人が、普段は入れない皇居内の坂下門-乾門間約750メートルで紅葉を楽しんだ」ということです。行きたかったのですが、たくさんの人のニュースを見てあきらめました。
でも、「江戸城探索」を計画していて、北詰橋を調べるため、乾門の所を通りました。
外からの皇居、秋の観賞です。
半蔵壕です。
a href="http://blog-imgs-46.fc2.com/u/z/o/uzo800/20141207233541649.jpg" target="_blank">半蔵壕
代官町通りから吹上御所の方を望みました。
吹上御所の方面の銀杏
3時半ごろでしたが、乾門からたくさんの人が出てきていました。
乾門の混雑
乾門近くの紅葉です。入ったつもりで。
乾門近くの紅葉

淀橋庚申堂

西新宿五丁目、方南通りを少し入った所、先に記した和泉川の暗渠の近くにに淀橋庚申堂があります。
淀橋庚申堂
もともとは、寛文4年(1664)に造られた庚申堂でしたが、戦時中の空襲で焼けてしまい、昭和29年に淀橋庚申講の方々によって建て替えられたものです。石像が並んでいます。
淀橋庚申堂の像
中央にあるのが 駒型庚申塔です。日月・青面金剛・邪鬼・三猿・蓮華が刻まれています。
青面金剛
青面金剛は、合掌六手像で邪鬼の上に立っています。その下部に三猿が浮き彫りされ、中央の「いわざる」が正面を向き、左の「きかざる」と右の「みざる」が向かい合ってあっています。こういう形の三猿は珍しいです。
三猿
三猿の上の両端には、蓮華が浮き彫りされていますが、これも珍しいです。
通常、板碑型塔では蓮華が下部にみられ、笠付型塔では両側面に刻まれます。
右側面には「淀橋庚申講世話人一同・昭和二十九年九月建之」の銘文が刻まれています。
右端には光背型の猿があります。でも、はっきり猿とは分かりません。
光背型 一猿
左横にある石塔は、これはまるでわかりません。
後ろの壁面に、「庚申待の由来」の板が掲げられています。
<庚申堂は庚申の日、人々集まりて三猿を祭り 一切の邪念を払う処で、庚申塚は三猿を刻み 或るは文字を鐫りて、萬人の交通安全を祈り また里道の目標としたものです。 俗間では道祖神(猿田彦命)と混同されています 当所の庚申塚は昭和六年の調べでは三基の石碑 は寛文四年(西記一六六四年)等の文字が刻ま れてありましたが当今ではその文字も磨滅して 判読しかねる程で、まことに遺憾に存じます。>
かつてこのあたりは、田んぼ水田でした。庚申の日に集まり、みな何を話したのでしょうか。今も近所の人が花を手向けています。

神田川笹塚支流・和泉川 暗渠探索

<和泉川の暗渠>
あやめ橋と相生橋の間、神田川の右岸側護岸にぽっかりとあいた矩形の穴。その上から歩きます。渋谷川などと同様、川の流路は暗渠化する時に、下水道に転用されます。
合流口の上は、かつての流路を覆うコンクリートの上に、植え込みが置かれています。ここから暗渠を遡ります。
<暗渠の児童遊園>
少し進むと、暗渠は遊具が置かれた児童遊園となります。暗渠化された川は、緑道として、その道筋を残すか道路に転用されるかですが、昭和30年代ころ子どもが多かったころは、児童遊園がつくられたりしています。少子化などに伴い児童遊園も撤去されているようですが、和泉川下流部にはまだかろうじて遊具が残っています。
しばらくカラフルな車止めと動物オブジェが続きます
動物のモニュメント
<長者第一號橋>
一号橋付近
橋があります。よく字が読めませんが、昭和13年(1938)竣工の長者第一號橋。神田川笹塚支流の暗渠上に現存する橋はこれが神田川合流前の最後の橋ですが、以前は神田川の近くに長者第二號橋があったようです。
暗渠を横切る道路に、多くの橋の遺構が残っているのが、和泉川の暗渠の特徴です。
和泉川の長者橋です。
<羽衣橋>
羽衣橋
こちらは字がはっきり読めます。橋の渋谷側にスーパー銭湯「羽衣湯」があります。モダンな建物です。「羽衣」の名前は、どこからきたのかなと思います。
このあたり、新宿区と渋谷区、中野区の3区が接近しているおもしろい地域です。
<柳橋>
柳橋 遊具
柳橋
「柳橋」は昭和7年(1932)に架けられた橋です。橋を通る通り沿いは、懐かしい感じの商店街となっています。
この柳橋を過ぎると、児童公園は終わり、川筋は道の中程に花壇が置かれるなど、遊歩道といった趣となる歩道になります、住宅地の中を抜けていきます。
柳橋より先の暗渠道
<榎橋>
榎橋の支柱
榎橋は大正13年(1924)3月、の竣工となります。関東大震災直後です。支柱の文字はかろうじて読めるといった状態です。かなり痛んでいます。
橋の下の水もなくなり、欄干は切断され、それでもこうして、超高層ビルに新都心のそばにこうして残っているのは不思議です。
榎橋
<方南通り(栄町通り)都営大江戸線西新宿五丁目駅(清水橋)>
水路は通りを横切り、都営大江戸線西新宿五丁目駅中を抜け、通りを渡ります。
かつて、交和橋と呼ばれる橋があったとか言われます。
都営大江戸線西新宿五丁目駅は、その下に(清水橋)とあります。
清水橋は、和泉川南流が山手通りと交差することころに架かっていた橋です。
山手通りと方南通りの交差点にその名を残しています。
駅名
清水橋の由来は、清水橋交差点を少し北東に入ったところに二軒家公園がありますが、そこにあった湧水池の清水によると言われます。
都営大江戸線西新宿五丁目駅の少し先です。和泉川の川筋は、駅の裏側を回ります。現在そこは、自転車置き場となっています。
五丁目駅裏の川筋
西新宿界隈を中心に見た、和泉川・神田川笹塚支流の暗渠探索はここまでにします。

神田川笹塚支流 ・ 和泉川

西新宿を神田川の方に歩くと、古い少し壊れたコンクリートの小さな橋があります。橋ですが川はありません。先般亡くなった赤瀬川原平さん風に言えば、これも超芸術トマソン橋と言えるのではないかと思います。
以前から、橋は気になっていたのですが、玉川上水の跡を歩いていて、笹塚のあたりで、川の存在をしりました。
「神田川笹塚支流」です。
神田川の支流の中では比較的大きな支流であったのですが、正式な河川名がはっきりしていません。よく使われるのは、「和泉川」です。戦前に編纂された中野区の歴史書にこの名前が出ているようです。
現在の正式名称は「東京都下水道局十二社幹線」です。昭和30年代に暗渠化され、下水幹線になっているのですね。
淀橋浄水場ができた時、淀橋浄水場へ水を送る玉川上水の新水路が作られましたが、その起点、杉並区の和泉、現在の和泉給水所あたりを源流点としています。源流から、2流に別れ甲州街道と南台・弥生町の台地に挟まれた窪地を流れ、幾つもの窪地からの細流を集めながら渋谷区本町あたりで1本になり、神田川に注ぐ川でした。
江戸時代には、玉川上水の幡ヶ谷村分水で養水され、幡ヶ谷・笹塚で灌漑用水となっていたと思われます。
明治時代後半に玉川上水新水路が造られたあとは水量が減少しました。そのため偽装工作をしています。
それは、弁天池を掘り、その弁天池のほとりに地元にあった弁財天を移設して、その弁天池の底を玉川上水と連結することで上水の水を湧き水のように偽装して導水するというかなり凝ったものでした。そして、この取水口(弁天池)から和泉川へ流下するまでの道水路は、玉川上水とは逆に流れていたことから、地元では逆さ川とも呼ばれていたということです。
今、淀橋あたりの神田川を歩くと、あやめ橋と相生橋の間、神田川の右岸側護岸にぽっかりとあいた矩形のおおきな穴があります。これが、かつての神田川笹塚支流・和泉川の合流口です。
神田川と和泉川の合流点
神田川笹塚支流・和泉川を遡ってみます。暗渠散歩です。
新宿5丁目 神田川周辺地図
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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