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輪王寺宮落ちろ

森鴎外が輪王寺宮のことを書いた作品があるようようですが、「能久親王年譜」というものもあります。
一部引用します。
明治元年(慶応4年)戊辰、22歳。初め江戸におはし、中ごろ北国にさすらひ給ひ、後京都におはす。是より先き慶喜大阪より江戸に還る。朝廷慶喜を討たしめ給ふ。慶喜東叡山に入る。
2月21日能久親王慶喜の請ふによりて京都へ立たせ給ふ。親王駿府に至らせ給ひ、大総督宮有栖川熾仁親王の命によりて駕を回めぐらし、
3月20日東叡山に帰り入らせ給ふ。
慶喜東叡山を出でて水戸に赴く。大総督宮江戸城に入らせ給ふ。能久親王を城に迎へまつらんとせさせ給ひしに、障さはりありて果させ給はず。
5月15日官軍東叡山を囲みて彰義隊を討つ。能久親王東叡山を出でさせ給ふ

5月15日。彰義隊が襲われ、銃弾が輪王寺宮のおられる本坊の屋根の瓦をかすめるようになります。等覚院や林光院へと移りますが、寛永寺からの落ちのびるしかなくなります。
折からの豪雨で、洪水のようになった中を、逃げまどうことになるのです。
まず、根岸(台東区)にのがれて、泥道を三河島へ(植木屋紋左衛門宅)そこから上尾久村(江川左十郎宅)そして、翌日、下尾久村へ。
それらの地、三河島や尾久方面の村々は、寛永寺の寺領だったり、縁の深い村だったために逃げてこられたわけです。
しかし西軍による追及は厳しく、それならいっそのこと江戸市中の寛永寺関連の「東光院」に隠れようということになり、下谷中村、根岸、三ノ輪、入谷を経て、浅草の東光院に逃げ込みます。手厚いもてなしを受けたというが、しかしやはり、上野に近いこの場所はいかにも危険でした。ここには1泊したのみで翌日には新宿区の富久町にある「自證院」に移ることにします。
「自證院」は、寛永寺との縁も深く、建物も大きく堅固でした。また、家光の息女千代姫が、尾張藩に嫁ぎ、その千代姫が母の供養ため建立したいわば尾張藩の祈願所でもありました。
尾張藩に仲介の労をとってもらおうという思惑もあったのかもしれません。
「自證院」には、10日ほど滞在していましたが、結局、江戸を離れる方が良いということで、品川沖に待機していた幕府海軍副総裁の榎本武揚の艦隊に属する「長鯨」という輸送船で、福島の平潟港に行くことになります。
しかし、東北に逃れた輪王寺宮の方はますます難しい立場に追い込まれます。
官軍の横暴に対抗すべく仙台藩(伊達氏)や会津藩(松平氏)米沢藩(上杉氏)など31藩で結成された「奥羽越列藩同盟」の盟主にされてしまうのです。
ここには旧幕府の重臣達(老中だった備中松山5万石の板倉勝静、将軍家茂と和宮との婚儀を整えた時の老中だった陸奥磐城平3万石安藤信正など)も集まってきており、一時は相当な抵抗勢力となりましたが、北上してきた官軍に次々に撃破されて敢えなく降伏してしまいます。
森鴎外の「能久親王年譜」の続きです。
5月25日、親王長鯨丸に乗りて江戸を発せさせ給ふ。これより仙台、白石等に留まらせ給ふ。
9月20日書を白河口なる総督四条隆謌に致させ給ふ。
10月12日仙台を発せさせ給ふ。
11月19日京都に着かせ給ひ、朝命によりて伏見宮邸に謹慎せさせ給ふ。
明治2年己巳、23歳。京都におはす。10月4日謹慎を解かれ、伏見宮に復帰せさせ給ふ。

輪王寺宮は許されてプロシヤの陸軍士官学校~陸軍大学に留学し、帰国後は陸軍の幹部将校になり、名前も北白川宮と変り、明治28年に近衛師団長に任命され、日清戦争の台湾における反乱平定を命じられます。そして無事に任務は終えたもののマラリヤに罹り明治28年10月に現地で病死。その数奇な人生を終えた
輪王寺・開山堂・両大師
輪王寺(開山堂・両大師)、ここに輪王寺宮の墓があります。
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慶喜と輪王寺宮

寛永寺旧本坊表門から中を見ると「輪王宮展」という葬儀など行うホールのような建物が見えます。
その名前にある「輪王寺宮」のことを少しメモっておきます。
慶応4年(1868)2月12日徳川慶喜は江戸城を出て、上野寛永寺内の大慈院に向かいました。警備にあたったのは、寺社奉行の内藤正誠(まさのぶ)以下、精鋭隊70名、見廻組50名で、新撰組は沿道に潜んで警戒にあたりました。
上野に到着した慶喜はまず寛永寺に参拝し、次いで輪王寺宮に参拝して朝廷への絶対恭順の意向の伝達を依頼します。その後、大慈院の4畳半の間に入って謹慎生活を始めます。
寛永寺の住持は代々「輪王寺宮」と称されます。輪王寺宮は、天皇の皇子がお寺の管理をするということです。
江戸時代前期の承応3年(1654)後水尾天皇第3皇子の守澄法親王が寛永寺の第3代貫主となり日光山主を兼任しました。翌年の明暦元年(1655)には天台座主を兼ねることとなります。同年、日光山の満願寺は後水尾上皇の院宣により輪王寺と改称し守澄法親王が住持となります。
そこで、守澄法親王は、天台座主、寛永寺貫首、日光山主の「三山管領宮」となり「輪王寺宮」または「輪王寺門跡」と呼ばれます。以後、幕末まで皇族が関東に下向し輪王寺宮となりました。
その幕末に、結果的に、最後のの輪王寺宮となる、公現法親王が就任しました。
公現入道親王は德川慶喜の依頼を受けて東征大総督・有栖川宮熾仁親王を駿府に訪ね、新政府に徳川慶喜の助命と東征中止の嘆願を行います。しかし、助命については条件を示されたものの東征中止は熾仁親王に一蹴されてしまいます。
慶喜は、大慈院の4畳半の間に入って謹慎生活を送っていました。月代も髭も剃らず、ひたすら恭順の姿勢を示していたのです。
西軍が江戸城総攻撃をする日が3月15日に決まりました。
3月13日、14日と勝海舟は江戸城総攻撃の回避と、徳川家の存続に尽力を尽くします。
4月4日、徳川処分の発表があって、慶喜の水戸退去が決定します。
4月11日、慶喜は大慈院を出て水戸へと向かうこととんなります。
徳川慶喜は水戸に移されましたが、彰義隊はそのまま上野を本拠地に置き、江戸の治安維持に当たっていました。
慶喜がいなくなっても彰義隊が上野の山に残ることは、輪王寺宮があたかも彰義隊の後ろ盾のような立場になってしまいます。
西軍側からは、再三にわたって彰義隊の解散や輪王寺宮が上野の山から退去することを求めますが頑なにこれを拒否しています。
輪王寺宮としては、駿府城での会見で有栖川宮に冷たくあしらわれたことに対する意趣返しのような気持ちがあったのではないかとする意見もあります。

寛永寺旧本坊表門

江戸時代、現在の上野公園には、寛永寺の堂塔伽藍が、整然と配置されていました。
現在の噴水池周辺(竹の台)に、本尊薬師如来を奉安する根本中堂があり、その後方(
現、東京国立博物館敷地内)に、本坊がありました。
そこには、東叡山の山主である輪王寺宮法親王が居住していました。
寛永寺本坊の規模は3500坪(約11.5ヘクタール)でした。
慶応4年(1868)5月の上野戦争で焼失し、表門のみ焼失を免れました
現国立博物館の右の方に向かうと、黒い門があります。これがその焼け残った「寛永寺旧本坊表門」です。
寛永寺旧本坊表門
明治11年、帝国博物館(現、東京博物館)が開館すると、正門として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するのにともない、現在地に移建されました。
旧本坊表門
門の構造は、切妻造り本瓦葺、潜門のつく薬医門です。
薬医門とは、本柱が門の中心線上から前方にずれ、本柱と控柱を結ぶ梁の中間上部に束をのせ、その上に切妻屋根を乗せた門を言います。
なお、門扉には、上野戦争時の弾痕が残されていて、当時の戦闘の激しさがうかがえます。
銃弾の跡 玉の穴

新宿の「岩倉具視邸」

諏訪神社の隣に、元・別当「玄国寺」岩倉具視邸があります。これは、岩倉具視邸が移築されたものです。
玄国寺の岩倉具視邸
岩倉具視については、よく知りませんが、幕末、西軍の公家の立場から、大きな役割を果たし、明治政府の最高指導者の地位にありました。
明治神宮外苑にある成徳記念絵画館に明治天皇が岩倉具視の病気を見舞う「岩倉邸行幸」があります。
当時、岩倉具視邸は馬場先門の所にあり、明治天皇はそこにお見舞いにおいでになったのです。明治16年(1883)7月19日のことです。岩倉具視は、胃がんのために病臥(びょうが)していました。
聖徳記念絵画館壁画「岩倉邸行幸」の絵は、天皇が岩倉をお見舞いになる光景です。
「岩倉邸行幸」明るく
起き上がることのできない岩倉具視は、布団の上に袴を置いて礼装の代わりとし、天皇をお出迎えしました。4箇所に置かれている氷塊が酷暑の1日であったことを物語ります。
ちなみに岩倉が死去したのは、翌20日のことでした。59歳でした。
玄国寺に移築された岩倉具視邸は、庫裏(くり=僧侶居住の場所)ということです。玄国寺で使われていて、内部は、洋間とそれに続く和室の書院をもつ和洋折衷つくりになっています。
そして「成徳記念絵画館(明治神宮外苑)に展示されている明治天皇が岩倉具視の病気を見舞う図は、この書院が舞台になっている」といった説明も以前うけたことがあります。
しかし、それはどうも違うようです。
岩倉具視が馬場先門の所に住んだのは、明治3年秋から明治16年の13年間でした。
明治天皇がお見舞いに行かれて屋敷ということで、死後も岩倉具視邸は残されたようです。
その場所はよく分かりませんが、玄国寺では霞ヶ関から移設されたと説明さされているので、霞ヶ関のどこかに移されていたのでしょう。
そして、移設されたのですが、本命の書院は、関西にあるようです。
場所は、兵庫県西宮市「西宮神社」です。そこに「旧岩倉邸 六英堂」として保存されています。
六英堂は、岩倉具視の私邸が、明治新政府を担った三条実美、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文の6人六英傑が度々会合を重ねたことから、「六英堂」の名が付けられたと言われています。
こちらは、昭和52年、西宮神社に移築されたとあります。行って見ていないのでなんとも言えないのですが、和風の建物のようです。
しかし、岩倉具視は、明治4年「岩倉使節団で、1年10ヵ月の欧米の旅をし、帰国して、家を洋風にしたという記事があるので、その建物が、玄国寺に来たのではないでしょうか。
と、推測で書くのはよくないです。
はっきりしているのは、新宿駅西口に岩倉具視の別邸があったことです。
もと間部下総守の下屋敷の所にあったということで、間部下総守の角筈下屋敷は現在の京王デパート西側で、甲州街道側に門を構えていました。
芳賀善次郎著『新宿の今昔』に次のように書かれています。
「今の(新宿)西口広場は、松平摂津守などの下屋敷だったが、維新後に新宿駅寄りが岩倉公の所有となり『華竜園』という閑雅な庭園となった。庭には、西郷隆盛の征韓論で激論した時の建物を移して『隣雲軒』と名づけていた。ここには大正天皇がまだ東宮のころ、しばしばご遊覧なされたということである。明治30年ごろ、同地は新宿駅構内拡張のため『華竜園』はとり払われた。」

西早稲田の諏訪神社の伝説

諏訪神社
諏訪神社にお参りしました。江戸時代、諏訪の森と言われたほど緑あふれた鎮守の杜だったようです。
ご由緒には次のようにあります。
「創建は、弘仁年中(西暦810~820)小野篁朝臣が、大国主命、事代主命を祭祀すと云われます。 当時当神社は、奥羽街道の一部松原街道に面しておりましたので、松原神社と称されておりました。」
諏訪神社が創建されたのは、およそ1180年前に小野篁によって大国主命、事代主命を祀ったことに始まるというのです。
こんな所にも小野篁がいたのかとびっくりします。
今年の夏は京都に小野篁を訪ねました。
小野篁は、法律に明るく政務の方面でも優秀だったようで、承和14年(847年)には参議として公卿に列しました。 一方、篁は、夜毎井戸を通って地獄の閻魔庁に赴き、閻魔大王の下で裁判の補佐官も務めていたという伝説があり、その伝説を訪ねたのです。
東京のここに篁の伝えがあるのはどうしてなのだろうと思いますが、分かりません。
ただ、「若い頃は父に従って陸奥国に赴いて弓馬を得意とした」という記載があるので、東北への松原街道に沿って存在する諏訪神社ですから、その縁かなと考えました。 
小野篁が神社を創建して、まもなく、在原業平がここに寄ったという伝説を残しています。在原業平は、妻と共に東国へ下って、二人はこのあたりで道に迷って離ればなれになってしましました。探したのですが暗くなってしまい、お互い心配しながら一夜を大木の下で過ごします。
夫は妻を思い、妻は夫を慕い、その思いが神に通じたのか、夜が明けると2人は、すぐそばにいたのです。二人とも、お互い気がつかず、杉の大木下に休んでいたのでした。
これに因んで、このあたりの森を「思いの森」「恋の森」と名付けられたといいます。
諏訪神社2
現在、宮神輿庫に、杉の枯れた株があるそうです。
それは、およそ二百年ほど前の紀行文『遊歴雑記』に「在原の業平の卿手植の杉というあり、太さ三抱へ余り根より上一丈四五尺にして、枝夥(おびただ)しく四方へなだれ上に延たる立樹は半枯たり、この樹に注連(しめ)を張りて崇め置きぬ」と書かれている、杉だということです。何年前にまで、なんとか、立っていたようですが、切られて、一部が保存されているようです。
在原業平の妻は、紀有常女です。東下りは、
平安時代の歌物語として有名な『伊勢物語』の主人公は、在原業平です。その業平が東下りする場面は、『伊勢物語』に描かれています。
しかし、妻紀有常女と一緒ではありません。ここでは、在原業平が東国に来たということが大事だったのでしょう。
やはり、街道です。松原街道、あるいは鎌倉街道がそれです。東下りの遺跡の多い川越方面へ向かっています。少し先の神田川に面影橋があり、その橋と混同されますが、近くに姿見の橋があり、その名前に由来に、在原業平が姿を写したという伝説も残っています。
諏訪神社は、それだけ由緒ある神社ということです。

源兵衛村の源兵衛さん

戸塚を歩きました。
早稲田通りに子育て地蔵の赤い幟が立つ場所(西早稲田2-18)があります。そこの子育地蔵は源兵衛地蔵とも言われます。
子育地蔵(源兵衛地蔵
このお地蔵さんの解説では、「源兵衛」とは元禄末に当地を開墾した人で、その2,30年後の享保11年(1726年)、彼とその仲間の供養のために地蔵尊を安置したもの、とあります。
源兵衛という人がいて村を起こしたというのです。
戸塚村は、かつて富塚とも言われ、江戸時代初期に戸塚村・源兵衛村・諏訪谷村に分村し、やがて戸塚村は上戸塚村と下戸塚村に分かれました。地域としては、現在の西早稲田と高田馬場の範囲に相当します。
源兵衛さん関係では、少し神田川、面影橋の近くにある天祖神社が、この神社を創建したと伝えられています。
天祖神社
神社の由来には、「豊臣の遺臣、小泉源兵衛がこの地に隠れ住み、土地を耕し、源兵衛村を起こし、正保2(1645)当神社を創建した」と記されています。
もう一つ、この天祖神社の近くに、源兵衛共同墓地(西早稲田3-24)があります。
小泉源兵衛は、元和元年(1615)豊臣が大阪夏の陣の戦いに敗れると、鈴木喜右衛門、関口新、醍醐兵左衛門とともにやって来ました。
源兵衛共同墓地
その仲間との共同墓地です。現在まで縁者が埋葬されているようです。
されに、少し先の神田川の橋に源水橋という橋があります。
この名前の由来はかつてこの橋の付近にあった源兵衛村と水車のはじめの「源」と「水」
を取ったと言われています。
源兵衛が付近を開墾したというがつながっているのだと思います、
そして、源兵衛さんたちは、火薬の番や鉄砲の弾も作っていたと伝わります。
豊臣の残党が、鉄砲、そんなわけはないという人がいますが、源兵衛村には、江戸時代鉄砲の塩硝を調合していた記録が残っています・
それはどうしてかと言えば、源兵衛村とか諏訪村など、この地域は、御鉄砲玉薬方同心大縄給地だったのです。
徳川家康は、江戸に入った時、鉄砲の必要性を強く感じ、榊原小兵衛に命じて鉄砲と火薬に通じた専門集団(鉄砲玉薬同心)を掌握させ、四谷(四谷箪笥町)と大久保(大久保箪笥町)に集団住宅地(大縄地)および大久保周辺に六ケ村(給地)を与えたのです。
その一つが源兵衛村だったです。
豊臣の家臣だったので、戸塚に「隠れ住んだ」と言われていますが、それはあまり関係無かったのではにか、と思います。

小石川後楽園内を歩きます ②

◆円月橋
円月橋
橋が水面に写る形が満月になることからこの名がつけられました。
朱舜水の設計と指導により名工駒橋喜兵衛が造ったと伝えられます。
後に八代将軍吉宗が江戸城吹上の庭に造ろうとしたが遂に果たせなかったといわれています。
右に行くと神田上水 左に行くと大泉水
▼神田上水がここを流れていました。この円月橋を流れ出るところで、二手に分かれ、流れに向かって左手が本流で東に向かい、右手は白糸の滝を経て大泉水へと至ります。
◆神田上水
神田上水の流れ
園内を、西から東へ流れていた神田上水の跡です。神田上水は、文京区関口にあった関口大洗堰から、小日向台の裾を通り、小石川後楽園を貫き、水道橋下流の掛樋で神田川を渡って江戸市中へ水を供給していました。現在、跡が残っているのは小石川後楽園の中だけとなっています。
神田上水の庭園からの出口へ
◆稲田
稲田
園の北側地域は、梅林、稲田、花菖蒲、藤棚の田園風景が展開します。庭園の中に稲田があるのは、後楽園だけでしょう。これは農民の苦労 を、水戸光圀が彼の嗣子・綱条の夫人に教えようと作った田圃で、現在は毎年、文京区内の小学生が、5月に田植え、9月に稲刈りをしています。
◆大泉水
白糸の瀧から大泉水へ
神田上水の一方の流れは、現在修復中の白糸の瀧から大泉水へと流れます。
そして大泉水は、この庭園の中心的景観です。蓬莱島と徳大寺石を配し、琵琶湖を表現した景色を造り出したもので、昔はこの池で舟遊びをしたといわれています。この日は水鳥が遊んでいました。
大泉水のはしに

小石川後楽園内を歩きます ①

小石川後楽園を歩きます。
◆小廬山
小廬山
オカメ笹におおわれきれいな形の小山です。
中国の名勝地廬山に似ているということで、林羅山が命名しました。
◆ 大堰川、渡月橋
大堰川、渡月橋
ここの水は、江戸時代、両岸に蛇篭を伏せ、神田上水の水を暗渠により引き入れ清き流れを作っていました。そして、その流れは、南側の竜田川、木曽川を経て、神田川に落としていました。
大堰川は、 京都の嵐山の下を流れる大堰川になんだもので、 三代将軍家光がしばしば来園し、大泉水の設計と共に種々助言を与えたと言われています。
屏風岩
家光が来た時にその前に立ったと言われる屏風岩です。
◆西湖堤
西湖堤
西湖堤は、中国の名所です、8世紀頃、杭州は、海外とも通じる南の起点として交通の要所でした。人口増加にともない飲料水の確保が問題となり、822年、杭州刺史(しし)として赴任した白居易(白楽天)は、西湖一帯を調査し、北部に一条の長堤を築いて湖水を二分しました。これにより蓄水と放水の調節に成功し、この堤は「白堤」と呼ばれます。1089年、もう一つ長い堤が蘇軾によってつくられました。2人は共に、大詩人であり、西湖の美しさを詠ったばかりか、その水を守った立て役者でした。
この後楽園の西湖堤以後、日本各地の大名庭園に、池を横切る堤と、アーチ型の橋とともに、作られるようになります。
▼大堰川の左手台上には、かつては清水の舞台を縮小した観音堂、清水観音堂が建っていました。
◆通天橋と音羽の滝
通天橋と音羽の滝
京都・東山東福寺の「通天橋」にならい、大堰川の渓流に朱塗りの紅橋をかけたものです。
音羽の滝は、京都・清水の「音羽の滝」にならって名づけられました。もとは萱門外の水車により神田上水の水を汲み上げ樋により小廬山の側に流していましたが、元禄の地震のとき水流が破壊され岩組だけが残されました。現在は水を循環させて滝を復元しています
▼通天橋から見た大堰川と渡月橋
通天橋から見た大堰川と渡月橋

水戸徳川家の江戸上屋敷

小石川後楽園の入り口前に「小石川御邸の図」という手書きの屋敷図があります。
それを少し見ながら、水戸藩の屋敷を想像してみましょう。
江戸 小石川 御邸の図
小石川邸は、大きく三区画から構成されています。
東側の現在の東京ドームのところは、小石川流域を宅地造成したもので、「表御殿」が置かれていました。
北側の小石川台上には「台御殿」が設けられ、その南側のところは、回遊式庭園(小石川後楽園)が造られました。
神田上水は、小石川台を迂回することなく東に抜けています。
御邸の図 部分
目につくのは「大下水」です。この「大下水」は、小石川を排水路化したものです。
表御殿に向かった神田上水の流路は、表御殿のほぼ中央を斜めに横切り、大下水と交差しています。
大下水の幅は9尺程で、その上を上水は懸樋で越えていました。
「小石川 ・・・・流末は水戸殿屋敷内を通し仙台橋下を流れて神田川に落入れり 」
これは寛文6年(1666)の町触の一節です。
文中の仙台橋というのは、図には出ていませんが、水戸屋敷を出てすぐの、現外堀通りに架かっていた橋で、万治年間の神田川拡張の際、仙台藩が工事用に改修したことから、この名で呼ばれるようになったのだそうです。
この図では、肝心の神田上水の大下水から先がよくわかりませんが、明治時代の地図を見ると今の東京ドームの前は軍施設があって、水戸屋敷後はこの軍施 設内を開渠のまま横断して、白山通りに達し、そこから石樋に入り(点点の線)、水道橋の袂で直角に左折します(赤い線)。
小石川 明治の地図より
昭和62年(1987)に神田上水の石樋(現在水道歴史館裏にある)が発掘されたのはこの袂でした。そこから仙台堀の岸沿いに神田上水懸樋に むかって石樋が埋設されていました。
もう一度神田上水を整理しておくと、
水戸屋敷に入った神田上水は邸内の飲料水や生活用水及び庭園の池水に使われ、水戸屋敷を出ます。そして、懸樋で神田川を横切り、まず神田の武家地を給水しました。
そこから三手に分岐し、一つは神田橋を経て、道三堀北側の大名屋敷に、もう一つは神田川北岸の武家地に、そして最後の一手は神田川南岸の武家地及び町人地に給水します。
町人地に向かう水は二手に分かれ、一方は日本橋北側・内神田を、もう一方は日本橋南側を給水していました。
神田上水が流れ込んでいた地点
写真は、神田上水が水戸屋敷に流れ込む手前の場所です。図で見ると、水戸藩邸当時は裏長屋のあったところですが、現在は野球グランド中心の区立後楽公園になっています。正面の先には東京ドームがあります、そこには、表御殿がありました。

小石川後楽園

水戸家の祖となった徳川頼房は、家康の11男でした、その頼房が寛永6年(1629)、家光より、小石川台地の突端の地、7万6坪強の地を拝領しました。
徳川頼房
頼房は「山水好き」で、ぜひにとこの地と頼んだという説もあります。
『後楽園記事』に、徳大寺左兵衛に命じて、良い場所を探させたところ「小石川本妙寺吉祥寺の辺、山水のいとなみ然るべき地形なり」ということで、家光に願い出たというのです。そして、本妙寺、吉祥寺を移転させて屋敷としたと記載されています。
蓬莱島の徳大寺石
徳大寺左兵衛は後楽園の造園に深く関わった人です。回遊式泉水庭園の中心をなす大泉水の中央に蓬莱島と「徳大寺石」と命名されたりっぱな石が今もあります。
ただ、本妙寺、吉祥寺の移転は明暦の大火以後のことですので、水戸藩のせいで移転したというのは違うと思います。
寛永6年(1629)の9月に邸宅は完成し、江戸城内吹上にある上屋敷に続き、中屋敷としました。その後明暦3年(1657)の大火で江戸城吹上の上屋敷が焼失したのを契機に小石川が上屋敷となります。
頼房は敷地の約3分の1を占める地所に、徳大寺左兵衛を造園の代表として、江戸で初めての廻遊式庭園を築きました。
南向きの台地の突端という絶好の敷地条件を活かし、明るく眺望に優れ、しかも神田上水を引き入れて豊かな水による景観を造りだしたのです。
造園にあたっては、家光も直接指揮を執って支援し、さらに伊豆御用山の自然石を多数贈ったともいわれています。
頼房の時の庭園は、「和」風趣味です。大堰川、竜田川、松原、八つ橋など、和風、和歌の趣味によってその造形、名前が設定されています。
その後、庭造りは、頼房の3男、光圀に引き継がれて完成します。
德川光圀
光圀(義公・水戸黄門)は6歳の時、世継ぎと定められて後、この地で頼房とともに暮らしました。
光圀33歳のとき、頼房が亡くなります。
築庭を受け継いだ光圀は、自身が信奉する儒学思想を基調とした庭造りを行いました。
明の遺臣で我が国に亡命していた朱舜水の意見を聞いて、造園工事を進め、西湖堤や円月橋など、中国趣味豊かな景観づくりをました。
朱舜水
また、庭園の名称も朱舜水に相談し、宋の范仲淹(はんちゅうえん・文正)の『岳陽楼記』の、「士当先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」(士はまさに、天下の憂に先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ)から命名されました。
なお、後楽園は昭和27年3月、文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定されています。特別史跡と特別名勝の二重指定を受けているのは、都立庭園では浜離宮とここの2つだけです。

江戸の水道 小石川上水から神田上水

徳川家康が江戸に入ったのは、天正18年(1590)のことです。その時の最大の事業のひとつが上水道を設けることでした。
まず、小石川から上水を引きました。それを命じられたのは、大久保藤五郎忠行です
藤五郎は、小石川の流れを利用し、この水を小さな堀割で駿河台方面へと流しました。
これが、小石川上水と言われるものです。
大久保藤五郎は、そのほうびに、家康から「主人」という名前をもらいます。この「主人」は普通「もんど」と呼びますが、水が濁ってはよくない、と家康の指示で「もんと」と濁らず呼びました。
大久保主人は、後に日本橋に菓子屋を出しています。
しかし、江戸も人口はどんどん増えていきます。
三代将軍家光の頃には、江戸は数十万の人口を抱えるようになり、上水設備の拡張工事が行われるようになります。それで出来たのが神田上水です。
神田上水の水源は武蔵野の井の頭池で,途中善福寺池から流れ出る善福寺川,妙正寺池から流れ出る妙正寺川の2流を合わせ,淀橋で玉川上水の助水を入れました。
そして、目白下関口に設けられた堰、関口大洗堰まで流れてきた水を左右に分脈し、左側を上水に使う水として取水して、堀割を伝わって小石川の水戸屋敷へと導かれます。 その後、地中の導水管へと導かれ、現在の水道橋近くあたりで掛樋となって神田川を渡り、日本橋、京橋、大手町地区に供水していきます。
右側は、余水として江戸川となり、船河原橋(現在の飯田橋付近)に流れ、そこより下流を神田川と呼びました。
江戸川橋から下流の左岸には、かつての神田上水の流れた跡が道路として残っています。
当初は開渠の水路でしたが、明治になって暗渠化され、その上が一般道路となりました。
そのときの暗渠に石が巻いてあったので、この道路のことを巻石通りと呼びます。
明治17ごろの小石川後楽園
江戸時代の神田上水は図のように水戸屋敷(現在の小石川後楽園の地)を通し、現在の水道橋東側で神田川を懸樋(かけひ)で渡し、神田・日本橋方面に給水します。
関口大洗堰が設置された年代はわかってはいなませんが、『水戸紀年』によると水戸藩邸に上水が寛永6年(1629)とあるので、それ以前に建設されたものとされています。
図は、明治17年の小石川後楽園付近の地図です。この庭園(後楽園)の池泉に神田上水の水が導水されています。
そして、当時の神田上水の構造は,大洗堰から水戸邸を抜け、白山通りに至るまでは素掘りの開渠でした。

小石川後楽園の築地塀の石垣

今年は小石川後楽園へ何度か行きました。少し調べると、大変興味深い大名庭園で、少しはまっています。
今回は、しっかりと神田上水の関係で歩いてみようと思っています。
その前に、入り口横の築地屏の石垣を見ました。
すぐに案内板があります。
<江戸城外堀石垣材再利用>
築地塀の一部は、江戸城鍛冶橋門北側外堀趾(千代田区丸の内1丁目)から出土した石垣の石材を使い、本園の作られた江戸時代初期(17世紀初頭)の「打ち込みハギ」と呼ばれる石積の技法で再現した。
石材には、備中(岡山県)成羽藩主山崎家の山をはじめ石垣を築いた大名を表す「刻印」や石割の際の「矢穴」が残っている。
築地屏下の石垣の説明板
岡山の成羽藩、どこだろうと調べてみると、備中国成羽郷(現在の岡山県高梁市成羽町)周辺を領有した藩とあります。高梁市ですか。あの高い松山城がある。
山崎 家治(やまざき いえはる)という人が城作りで、有名だったようです。
文禄3年(1594)、山崎家盛の長男として生まれる。慶長19年(1614年)10月、父の死去により跡を継いだ。慶長20年(1615)の大坂夏の陣で活躍。
元和3年(1617年)、大坂の陣の戦功により因幡若桜3万石から備中成羽3万5,000石に加増転封された、とあります。
築城の名手であったようで、元和6年(1620)の大坂城築城工事において、天主・本丸・二の丸の石垣構築に携わったようです。
寛永13年(1636)、江戸城外堀普請は行われました。
そのとき、石垣方を西国大名61藩、掘り方を東国大名51藩が担当しています。
石垣方の組頭は、金沢藩前田家、福井藩松平家、熊本藩細川家、岡山藩池田家、福岡藩黒田家、佐賀藩鍋島家の6家でした。
そのうちの、岡山藩池田家の組頭以下13家に成羽藩が入っていました
鳥取藩池田家、山崎藩松平家、赤穂藩池田家、松山藩池田家、新宮藩池田家、徳野藩平岡家、林田藩建部家、三田藩九鬼家、周藩中川家、成羽藩山崎家、真庭藩戸川家、新庄藩桑山家、佐伯藩毛利家の13家です。
成羽藩山崎家は、鍛冶橋門を担当したのですね。
小石川後楽園の屏下の石垣
小石川後楽園に築地屏の石垣には、山◯の山崎候の刻印がずいぶんあります。
大阪城にも、山◯の刻印はあるのでしょうか。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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