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緑のカーテン ゴーヤー

今年も暑い夏でしたが、月末になって、10月の気候になっています。薄着をしているので、少し寒いと感じることもあるほどです。
この夏、緑のカーテンを見るまち歩きをしました。いろいろな育て方、見て楽しかったです。一部写真を載せます。
東京 榎町で見た緑のカーテン
緑のカーテンとは、主としてツル性植物を窓の外側に育て、室内に入る夏の日差しを遮る、いわば、植物をカーテン代わりにする手法です。
新宿の小学校の緑のカーテン
ル性植物は、ヘチマや朝顔などありますが、昨今の主流はゴーヤーです。
和名は「ツルレイシ」です。イボに覆われた果実の外観と、完熟すると仮種皮が甘くなるという2つの形質が、ムクロジ科の果樹であるレイシ(ライチ)に似ていることから来ています。
実際には、ツルレイシという言い方はあまり聞きません。ニガウリが多いですね。
果肉が苦いため「ニガウリ」と言われます。
沖縄料理がブームとなって、ゴーヤー、もう誰でも知っています。
でもなんとなく「ゴーヤ」と言っていました。沖縄本島では「ゴーヤー」です。だからゴーヤーが正式な言い方のようです。
屋上のゴーヤ_edited-1
緑のカーテンですが、例えば、ヨシズの場合は熱を反射しないのに対し、緑のカーテンは熱をほとんど反射します
エアコンの消費電力ですが、「緑のカーテン」のある方の消費電力が少なくなっています。
節電に効果ある。これは実績として証明されています。
そのほか、緑のカーテンの効用を記してみます。
CO2を吸収してくれる。そして酸素を供給してくれます。
緑は、いるだけで何となく心が癒されます。
そして、どんどん伸びてくる葉に、毎日の変化が楽しめます。
ゴーヤーなどは更に収穫して食べる楽しみがあります。
もちろん、毎日、きちんと水をあげないといけないとか、掃除をきちんとすべきだとか、
外の様子が見えなくなるとか、デメリットなこともあります。
我が家のゴーヤーもそろそろ終わりです。実がならなくなりました。葉っぱが黄色くなってきました。また暑くなるからもう少しがんばってほしいな。
最後は、京都でみかけたゴーヤーです。
京都で見た緑のカーテン

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京 島原と新撰組

島原からまっすぐ北上すると新選組の当初の拠点になった新徳禅寺があり、そしてのちに隊士の屯所となった前川家、八木家があって、新選組の兵法調練場に使われ、武芸や大砲の訓練が行われたと壬生寺へと続きます。
新撰組の拠点の地と島原は近いのです。そこで、角屋には新撰組隊士がよく訪れていました。
玄関横の柱には「新選組の刀痕」があります。
新撰組の刀傷
角屋で太夫を呼び遊興出来たのは、豪商、大名、主要藩士等でした。中には、国事を司る人も多く、重要談合の場としても利用されていました。
新選組も、活動資金を得てからはこの島原で遊興し、時には反目する者などとの対峙があり、また、仲間同士の酒乱や乱行もあって、角屋に残された刀痕はその時のものとされています。
柱の痕跡
角屋へは、帯刀せず遊興するのが常道で、刀箪笥や刀掛等がそのために設備されていました。
しかし、市中見回りで料亭等に立入特権を持ち、武士の誇りを自負する新選組隊士等に、その慣習は通用せず、帯刀して遊興したばかりか、家財を損傷する蛮行を犯したりもしたようです。
刀痕ですが、こうした玄関脇柱や、他にも2階の床柱に有るそうです。
文久3年(1863)6月、新撰組初代筆頭局長芹沢鴨は乱暴狼藉を働き、角屋主人に7日間の閉店を申し付けています。慶応2年(1866)には、新撰組が代金も払わなかったため、10代徳右衛門は一か月間の営業休止を行いました。
「新選組掛売禁止の古文書」というものが残されています。慶応2年(1866)9月に新選組調役が出した掛売禁止の達しです。
新撰組 掛売禁止の達し
これまでの未払い金すべてを支払った上で、今後一切掛売りを認めないこととし、付けを無理強いする隊士がいれば届け出るように、といいた内容です。
角屋も新撰組にはそうとう手をやいていたのだと思います。
さて、文久3年(1863) 9月16日には、松の間で新撰組が、筆頭局芹沢鴨を囲んで大宴会を行い、その後、芹沢鴨が壬生の八木邸に帰宅後暗殺されるという事件がありました。
芹沢鴨が最後に見た景色は、角屋の松の間から眺めた庭園の景色だったのでしょう。9月16午後6時頃、いったん散会して角屋を出、今度は屯所の八木邸で芹沢鴨、副長助勤の平山五郎、平間重助、土方歳三の四人で酒宴を催しました。芹沢鴨はすっかり泥酔しお梅と寝込んでいました。平山は酔いつぶれ、下間へ女とともに寝かし、平間は別間で寝ること となりました。
深夜。雨が降る闇のなか、黒装束の男たちが八木邸に入っていきました。まず、平山五郎を仕留めます。次に芹沢鴨の寝所に入り、屏風を倒し、屏風ごと一斉に刀を突き立てました。芹沢とお梅の二人は悲鳴をあげ、芹沢は枕元の刀をつかむも、さすがに抵抗らしきことも出来ずに即死しました。その煽りでお梅も斬られ、ほどなく亡くなりました。
翌日、芹沢たちの検死が新撰組によって行われ、犯人は長州藩の仕業と断定されました。
西本願寺侍臣(じしん)で尊王攘夷派の西村兼文が後に書き残した「新撰組始末記」によると、犯人として土方歳三のほか、沖田総司、山南敬助、原田左之助の名を挙げています。
輪違屋には、前に書きましたが、近藤勇の書の屏風が残っています。
長州の久坂玄瑞をはじめとする尊攘派志士たちも島原をよく利用していましたが、新撰組が出来てからは遠ざかるようになりました。

角屋 台所と松の間

角屋の台所を案内してもらいました。
広さ五十畳の広さです。本来は3本の太い柱で台所を支えていたそうです。
中央の大黒柱は一尺八寸(54cm)角の松の木です。この大黒柱と正面及び左側の小黒柱との三本で広い台所を支えていたわけです。昭和54年(1979)に中央に二本の補強柱を入れられました。
神棚
神棚が、各所にありました。稲荷大明神五社、猿田彦大神、秋葉山対権現、大黒天、天満天神、城山善神、稲荷大神など、全体で11の神棚が祀られているそうです。
箪笥階段と神棚
大黒天
昔の人の信心深さには頭が下がります。箱階段があり、そこにも神棚です。
玄関側には刀箪笥を置いてありました。
刀箪笥
まだいろいろあるのですが、松の間に。
北西端の「松の間」は広さ43畳。角屋の大座敷です、残念なことに大正14年(1925)、一部を焼失しました。翌年すぐに再建し、旧態に戻ったのですが重文指定にはなっていません。
前の庭に臥龍の松があります。
臥龍の松
初代は昭和22年(1947)に吉井勇の八幡寶青庵より移植されました。その後、10年ほどで枯れたため、3代目が昭和35年(1958)に新たに移植されましたが、平成6年(1994)に4本のうちの1本が枯れ、現在は3本の木でつないでいます。
初代の松は、樹齢300年、大正14年(1925)頃に枯死し現在は株のみが残ています。
3本の松の幹を用いて初代の形に似せています。
初代の 臥龍の松
この庭に面して茶席が3席あります。こちらは、全て国の重要文化財に指定されています、
向かって右手(上の写真の右)の茶席は「曲木亭」と言い、今からおおよそ300年前に造られたそうです。三角形の茶室 前に囲いがありません。これは、太夫が手前する姿を松の間にいる客が見えるようにということです。

なお、「松の間」は、新撰組の芹沢鴨の最後の晩餐の部屋でした。

京島原 角屋

角屋(すみや)は、島原開基以来連綿と家督を維持してきた、揚屋です。
角屋の通り
角屋へ向かう道に出ると、その通りは、昔の風が吹き抜けています。特に幕末ですね。新撰組が向こうからやって来そうです。
角屋は、揚屋です。
揚屋の基本構造としては、だいたいが1階を台所と居住とし、2階を座敷にしていました。ちなみに、2階座敷へ客を揚げたことから「揚屋」と呼ぶようになったと言われています。
これも何度も書いていますが、揚屋とは遊郭ではなく、置屋から太夫(たゆう)や天神(てんじん)を呼んで、宴会を催した高級料亭で、茶会、歌会、句会などが頻繁に開かれる当時の文化サロンにもなっていまいた。
宴は昼間に始められていました。茶室で茶を嗜み、庭を愛で、俳諧などに興じる。日暮れに食事が運ばれ、饗宴となり、太夫の舞いが始まります。
揚屋は「一見さん」を迎えず、支払いは「つけ(掛売り)」になっていました。
角屋は、寛永18年(1641)島原開基以来連綿と続く、唯一の大型揚屋の饗業遺構です。贅を尽くした材を用い、部屋ごとに繊細な意匠で変化させ、細部に至るまで技巧を凝らしています。
角屋の建物は、揚屋建築唯一の遺構として昭和27年に国の重要文化財に指定されました。
 敷地はほぼ四方形ですが、建物は増改築され雁行状につながっています。
 角屋の外
間口は16間(31m、当初は10m)、最南端以外は総二階、屋根は、現在は桟瓦葺、1階2階ともに京格子造(出格子)、道に面して駒寄せが続きます。瓦の複数種用いられています。
角屋の暖簾
戸口には、茶地に白抜き家紋の蔓三つ(つるみつつた)の暖簾がかっています。
そして、戸口の両脇に出世を意味するという樹齢200年の槐(えんじゅ)の大木2本があります。その周囲には釣瓶落としの石の井桁井戸、家紋が入った用水桶(天水溜)、袴腰の辻行燈などが置かれています。
樹齢200年の槐(えんじゅ)の大木2本
 右手(北)に来客用の玄関があり、その前までやや斜めに敷石が付いています。(写真の手前側)
 江戸中期の島原には、俳壇が形成され、中でも角屋の六代目、七代目の当主は蕪村、太祇らを師として俳壇の中核として活躍していました。
幕末には新撰組が、壬生の屯所から近かったこともあり、角屋で新撰組局長級の宴会もたびたび催されました。
西郷隆盛、久坂玄瑞などの勤王志士達が、軍用金調達のため、時の豪商を角屋へ招いて会談を行ったところであり、又、彼らを探し求めた新選組が乱舞した場所でもあった。
この様に角屋は、江戸時代の社交遊宴文化の場であった揚屋文化を今に伝える貴重な遺構です。

島原 輪違屋(わちがいや)

島原 輪違屋(わちがいや)
輪違屋 外観
輪違屋は太夫や芸妓をかかえていた由緒ある置屋で、元禄元年(1688)創業の現存最古の置屋の遺構 です。
安政3年(1856)に焼失しましたが、翌年に再建されました。その後明治4年(1871)に改造されて現在に至っています。
現在も揚屋と置屋を兼ね備えた現役の店で、日本で唯一「太夫」がいます。そして太夫の教育と宴席の場として営まれています。
輪違屋廊下と庭
暗い廊下を抜けると、左手に広がる庭園と、「主の間」と呼ばれる座敷があります。
この部屋も襖に貼られているのが、当時の太夫が常連さんに宛てた手紙です。お客を招くための歌が、きれいな草書で書かれています。
襖に貼られて芸妓の文_
座敷の奥には、もう一つの庭園があります。よくキリシタン灯籠と言われる「織部型石灯籠」が置かれていました。
その前に、新選組の近藤勇の書が屏風に仕立てて置いてありました。
近藤勇の書が屏風に
その部屋で、島原の歴史と、置屋の仕組みなどの話を聞きました。
太夫を抱えているのが置屋です。太夫は、御所において天皇による謁見を賜ることも可能であったそうです。
伊藤博文の寵愛を受け、「維新の名花」といわれた輪違屋の桜木太夫は、明治42年(1909)博文がハルビンで安重根(アン・ジュングン)によって暗殺された後に尼となっています。
それから、階段を上がり2階へと向かいます。
残念ながら2階は撮影禁止でした。この2階こそが最大の見どころなので、まことに残念でした。
「紅葉の間」では、壁に本物の紅葉を塗りこんで乾燥後に取り出し、顔料で着色した紅葉したモミジと青モミジがいくつもかたどられていました。
その向かいにあるのが、太夫が控える「太夫の間」で、綺麗な打ち掛けが掛けてありました。
「傘の間
そして最後の部屋が「傘の間」です。銀箔の襖に本物の大きな道中傘が張られています。
太夫道中の際に使用される「道中傘」 を襖に貼ったものだそうです。部屋の襖を全て閉めると4本の傘が部屋を彩るようになっています。今回は2本しか見られませんでした。今回の京の夏の旅の宣伝でその写真は、メインに使われていました(ここの写真はそれをお借りしています)。
床の間には桂小五郎の書が掛けられていました。
輪違屋は建築的に質が高く、また古い置屋の遺構として貴重であり、昭和59年(1934)京都市指定有形文化財に登録されました。

島原 大門 西門

島原大門
島原大門
寛永18年(1641)、今の地に開設された島原は、当初、掘と塀で囲まれ、東北角の大門のみでしたが、西の門ができ、明和3年(1766)には。島原の中央を東西に位置する道筋の東端である現在地に付け替えられています。
当初の門についてはよく分かっていませんが、享保14年(1729)に、冠木門で、その後塀重門、さらに腕木門となっています。しかし、それは嘉永7年(1854)の島原東半分の火事でこの大門も焼失していまいます。
大火後、簡易な冠木門で再建されましたが、慶応3年(1867)には、現在の本格的な高麗門として立て替えられました。
大門屋根
この門は、本柱上の屋根の他に後方の控柱(ひかえばしら)上にも小屋根をのせた高麗門です。
大門脇の案内に。幕末の女流歌人大田垣蓮月尼(1791~1875)が、島原大門の柳を詠んだ歌がでていました。
「嶋原のでぐちのやなぎをみて」の前書きがあり『なつかしき やなぎのまゆの春風に なびくほかげや さとの夕ぐれ』と出ていました。
門前の柳は通称「出口の柳」なのですね。この門は「出口」門なのです。

.島原西門
島原西門 碑
島原の入口は、当初は東の大門のみであったが、享保17年(1732)に西側中央部に西門が設けられました。
それは両側に門柱を立てただけの簡略なものでしたが、天保13年(1842)に現在の位置に移され、構えも高麗門型となったようです。
近年まで島原の西門として偉観を伝えていたが、昭和52年(1977)、交通事故によって全壊してしまいました。
3年後に一度、門柱のみが復元されましたが、平成10年(1998)に再度の事故に見舞われて、それも倒壊してしまいました。
現在は島原西門の由来と往時の形容を刻して石碑が立っています。碑にある歌は次の通りです。
「西口菜花」 花の色は いひこそ知らね 咲きみちて 山寺遠く 匂ふ春風 富士谷成章(国学者 1737~1779)

京の島原そして江戸の吉原

島原に行きました。バスを降りて、かつて西門があった場所から島原へ入りました。
西門の看板
島原は、豊臣秀吉が応仁の乱で荒廃した京都を再興するため、二条柳馬場に柳町の花街を公許しました。これが日本初の公許の花街です。
江戸時代になると六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、「六条三筋町」と呼ばれるようになります。
その後、京の町の発展に伴い、寛永18年(1641)、市街地の西にあたる現在地(当時の朱雀野)に移されました。
正式名称は「西新屋敷」でしたが、急な移転騒動が九州島原の乱の直後であったため、それになぞられて島原と称されたと言われています。
当時、島原は堀と塀で囲まれ、門はその東辺北寄りに設けられていましたが、その後、享保17(1732)年には西辺にも門が設けられました。
その門から入ったわけです。
島原は、江戸中期には和歌俳諧等の文芸が盛んになりました。島原俳壇が形成され 与謝野蕪村等によって文化サロンの場となり 賑わいました。
幕末には新選組等がよく利用し、いろいろ騒動がありましたが、維新胎動の地の一つとなりました。
また、幕末の女流歌人蓮月尼が島原を褒めた歌を遺すなど、女性にとっても親しいみのもてる町でした。
ここが、閉鎖的な江戸の吉原と大きく異なるところです。
島原の入口は当初、東口の一つでしたが、その後西口ができるとともに、島原内に劇場が開設され一般女性も入ることができました。
天保13年(1842)以降は土塀や堀(かき揚げ堀)もなくなり、老若男女の誰でも出入りができました。そのため島原は360年間、放火による火事もありませんでした。
それに対して、吉原は周囲に10メートル幅の堀を設け、入口を一つにして厳しい管理を行っていました。
したがって、吉原は都市構造上からも、業務上からもまぎれもなく「遊廓」ということになります。これに対して島原は「花街」ということです。
維新以降は、明治6年(1873)に歌舞練場が開設されるとともに、青柳踊や温習会が上演されましたが、立地条件の悪さのため除々にさびれてゆきました。
それでも。花街としての営業は昭和52年(1977)までなされ、京都の六花街の一つに数えられていました。
現在、揚屋建築の「角屋」や置屋建築の「輪違屋」が残り、高麗門の島原大門等が昔のなごりをとどめています。
揚屋建築と置屋建築が残されているのは貴重です。
島原では、宴席を開く揚屋と、太夫や芸妓を抱える置屋とに分かれる営業形態をとっていました。これを「送り込み制」と言います。
吉原などの「遊廓」は自ら娼妓を抱えて営業を行います。こちらを「居稼ぎ制」と言います。現在、祇園などの花街は、「送り込み制」をとっています。
島原で言う「太夫」と吉原の「花魁」についても、少しふれて置きます。
太夫は、舞や音曲のほかに、お茶、お花、和歌、俳諧などの教養を身に付ける必要がありました。
一方、花魁は芸を披露しないため、歌舞音曲を必要としていません。
単純に言ってしまえば、島原は芸妓さんで、吉原は娼妓さん、つまりどちらも芸達者ながら、島原では芸を売り、吉原は身を売るということになります。
もちろん、吉原の花魁の中には、簡単には体を許さなかったこともあったろうと思いますが。
もう一つ、吉原の関連でいえば、吉原でも有名な見返り柳は、この京都の島原遊郭の大門口の柳を模したということです。
「出口の柳」「さらば垣」

「六道の辻」 西福寺

六道珍皇寺そして西福寺、六波羅密寺がある一帯(西は鴨川東岸から、北は五条大路(現松原通)~南は七条大路一帯)は「六波羅」と呼ばれる地域になります。
六道珍皇寺 (珍皇寺)図絵
「六波羅」は、「六原」とも記されていて、その語源は、この地がかつて「轆轤原(ろくろがはら)」と呼ばれていたことによるという説があります。
「轆轤原(ろくろがはら)」という地名については、東山の山麓の原野「麓原(ろくはら)」に由来するとか、平安時代にはこの地域には人骨が散乱していたことから、髑髏(どくろ)の散乱した原、「髑髏原(どくろがはら)」と呼んでいました。江戸時代初期まではその「髑髏町」といわれていましたが、轆轤(ろくろ)挽職人が多く住む町だったので、京都所司代の命により轆轤町に変更されたと伝わります
ともかく、この六波羅の地は、嵯峨野の「化野(あだしの)」、船岡山西一帯の「蓮台野(れんだいの)」と並んで平安京の三大葬送地といわれる「鳥辺野(とりべの)」の入口に当たり、あの世とこの世の境界の地と考えられたことから、小野篁が冥府と現世を行き来したという六道珍皇寺、空也上人が創建した六波羅蜜寺などの寺院が建てられて、信仰の場となっていったのです。
六道の辻
珍皇寺門前の松原通に面する轆轤町と新シ町の間を南に抜ける丁字路が「六道の辻」として知られます。石碑が建てられていて、そのそばに建つのが西福寺です。(下手な写真ですが、「六道の辻」の碑が立つ角です)
西福寺
西福寺は弘法大師がこの地に地蔵堂を建て、自作の地蔵を安置したところから始まります。
西福寺の地蔵尊も、同じく冥府と現世の境界付近に祀られたことから、「六道の辻地蔵尊」、「六道の地蔵尊」と呼ばれて、信仰を集めてきたようです。
弘法大師に深く帰依していた壇林皇后(嵯峨天皇皇后)はたびたびこの地を参詣していました。そして皇子(後の仁明天皇)の病気平癒を地蔵に祈願したところ回復したため、この地蔵は“子育て地蔵”と呼ばれるようになったと伝わります。
西福寺で最も有名なのは、寺宝である江戸時代初期の平安時代の壇林皇后を描いたといわれる「壇林皇后九想図」です。
壇林皇后は、平安時代の人で、橘嘉智子(たちばなの かちこ)と言いました。橘清友の娘で。第52代・嵯峨天皇の皇后です。禅院檀林寺を創建したことから檀林皇后といわれました。空海に帰依し、六道の辻の地蔵堂をたびたび訪れました。そして、その死にあたって「風葬となし、その骸の変相を絵にせよ」という遺言を残したとも伝えられます。
それを実現した絵がこの「九想図絵」です。人が死に、死骸が朽ち果て、やがて土に還るまでを表しています。
西福寺の檀林皇后九相図
この絵は六道まいりの時期3日間公開されます。見てきました。
人の死をかなりリアルに描いてむごたらしい絵なのですが、人間のはかなさ、無用をしみじみと感じます。

六道珍皇寺 

六道珍皇寺は、今では「ろくどうちんのうじ」と読みますが、「ろくどうちんこうじ」と読まれていたと考えられているようです
臨済宗建仁寺派の寺院。山号は大椿山。本尊は薬師如来です。
この寺の創建については諸説あってはきりしていません。
奈良時代、東山阿弥陀ヶ峰山麓一帯に居住していた鳥部氏族の氏寺・宝皇寺(ほうこうじ)が前身という説があります。
また、延暦年間(782-806)に空海の師である、大安寺の慶俊が創建した宝皇寺(愛宕寺)を前身とするという説があります。慶俊は六道の辻に愛宕寺を建立し、寺は後に珍皇寺と念仏寺(愛宕念仏寺)に分かれたというものです。
さらに、空海(774-835)が興し、東寺末寺になったという説もあります。
六道珍皇寺 小野篁の像
しかし、ここでは、小野篁(802-853)が開祖で、篁が堂塔伽藍を整備したともいう説を採りたい気分でいます。
珍皇寺本堂裏にある井戸は、小野篁が冥土へ通った井戸という伝承があり、閻魔堂には、閻魔大王像とともに小野篁像が合祀されています。
井戸にとても興味がもたれます。
今回は、六道まいりで井戸は見られませんでしたが、境内東北に「小野篁冥土通いの井戸」は今でもあります。
小野篁は勢いをつけて井戸に飛び込んだとかで、井戸の前にある石に、くぼみができているとも言われます。
でも一説に、井戸の傍に高野槙があり、小野篁はその枝の穂先から冥途に入り、冥界の閻魔庁に通ったとも言われます。
小野篁 冥土通いの井戸
六道珍皇寺の井戸は入口専用で、「死の六道」と言われました。
出口は嵯峨野大覚寺門前六道町にあり、いまは廃寺になった福生寺(ふくしょうじ)、現在の嵯峨薬師寺にあり、こちらは「生(しょう)の六道」と呼ばれていました。
ところが、平成23年(2011)六道珍皇寺北側に民有地開発で、篁ゆかりのもう一つの井戸が発見されました。
こちらは、冥土からの戻り井戸とされ、「黄泉(よみ)がえりの井戸」と名付けられています。冥土から帰りの井戸もあるという言い伝えはあったのだそうです。六道珍皇寺には2つ井戸があるわけで、特別拝観の時に見に行きたいと思っています。
冥土へ通った井戸に高野槙がありましたが、高野槙は六道まいりの時に買って帰り、昔は井戸につるしたのだそうです。高野槙は“おしょうらいさん”の依代だったのです。13日に魂棚・施餓鬼棚・仏壇などに供え、門火を焚いて精霊を迎えます。高野槙の意味は大きいようです。
三界萬霊供養塔
六道珍皇寺では今回六道まいりに気を取られ、写真があまり撮れなかったのですが、これは、三界萬霊供養塔です。
多数の石仏、お地蔵様が集められています。室町時代のものもたくさんあるようで、冥土へ向かう幼子が迷わず行けるように祈願するのだそうです。
石仏、お地蔵様

千本ゑんま堂(引接寺)

千本ゑんま堂です。
正式には、引接寺(いんじょうじ)と言い、高野山真言宗に属する寺院で、寛仁年間(1017 - 1021年)、源信の弟弟子の定覚により開山されたと伝えらえています。
しかし、小野篁を開基に仮託する説もあるのです。
かつての京都の3大墓地と言われる化野(あだしの)、鳥辺野(とりべの)、蓮台野(れんだいの)。その蓮台野の入り口に建っています。
小野篁は、この風葬地の入口に自ら刻んだ閻魔法王を、祠(ほこら)を建てて安置し、死者の魂を弔ったと伝えられます。
引接寺は、一般には千本ゑんま(閻魔)堂の通称で知られています。引接とは、仏が我々人間をあの世に導いてくれるという意味のようです。
小野篁は、あの世とこの世を往来する神通力をもっていて、昼は宮中に、夜は閻魔之廟に仕えていました。あの世とこの世を行き来する篁が、閻魔大王から「お精霊迎え」の法を授かり、ここに堂を建て、自ら閻魔大王の像を刻んで安置したのが、千本ゑんま堂の始まりである、という言い伝えです。
寛仁元年(1017)に本堂が新しく建てられましたが、その後、応仁の乱でお堂と閻魔法王は焼失してしまいます。長享2(1488)年に閻魔法王は新たにつくられ、現在でも千本ゑんま堂は厚く信仰されています。
「千本」というのは、かつてこの地に桜が千本あったからとか、精霊供養の「千本卒塔婆」に由来して生まれたとかの説があります。
本堂 閻魔様
本堂には、2.4mの閻魔法王を中央に、右脇に司録尊、左脇に司命尊が安置されています
本堂を出てその奥へ、細い通りを抜けて行くと、流れ灌頂があります。そこが塔婆流しの場所です。
お地蔵さんの前に人工の川が流れていて、塔婆をこの川に流して供養するのです。
塔婆流しには、作法があるようです。
塔婆流し
水塔婆の上が頭、下が足です。 足を向こう側に向け、まず、ひしゃくで水をかけ、次にひしゃくに塔婆を乗せて静かに川に浮かべます
流れはじめたら、むこうへとひしゃくで送ります。
そして、お地蔵さんに水を掛けて、最後にお迎えの鐘を撞き。これで、先祖の方々が家へ帰ってこられることになります
紫式部供養塔
塔婆流しの近くに小さな庭園があり、圓阿上人が至徳3年(1386)に建立したと伝わる紫式部供養塔があります。十層の多重石塔で、国の重要文化財に指定されています。紫式部が亡くなって数百年後に供養のために建立されたものものです。
3体の像
流れの前のお堂には、開基定覚上人像、地蔵菩薩、そして小野篁の3つの像が並んで安置されていました。
地蔵菩薩は、本堂に本尊として祀られている閻魔大王と同一の存在だとされています。閻魔様はお地蔵さんと同一の存在だと、これはよく言われます。

長くなりましたが、もう2つ記しておきます。
1つは、萬倍椀です。
萬倍椀
賽銭箱の上に、閻魔様の萬倍椀というものが置かれていました。閻魔大王の湯呑み茶碗と言われます。大きいです。この茶碗に賽銭を投げ入れることができると1万日のお参りに相当するということです。
2つめは、「洛中洛外図屏風」です。
「洛中洛外図屏風」(米沢市上杉博物館蔵)は国宝です。天正2年(1574)に織田信長が上杉謙信に贈ったと伝えられ、京の名所と町衆の姿を描いています。
その左隻右上に千本ゑんま堂が描かれていますが、その境内では十重石塔、それに普賢象(ふげんぞう)桜とゑんま堂狂言「閻魔庁」を演じている様子が描かれています。「普賢象桜」「ゑんま堂狂言」、これにも興味があります。
この千本ゑんま堂は、奥が深いです。

六道まいり「迎え鐘」

「迎え鐘」は、盂蘭盆にあたって精霊を迎えるために撞く鐘です。
この鐘は、その音響が十萬億土の冥土にまでとどくと言われ、亡者はそのひびきに応じてこの世に呼びよせられるといわれています。
六道珍皇寺の迎え鐘
六道珍皇寺の迎え鐘
この鐘は六道珍皇寺の開基、慶俊僧都が造らせたものです。
あるとき、僧都が唐国に赴くにあたり、この鐘を3年のあいだ地中に埋めておくようにと寺僧に命じて旅立ちましたが、寺僧はその帰りを待ちきれず、1年半ばかりたって掘り出して鐘をついたところ、はるかに唐国にある僧都のところまで聞こえたので、僧都は「あの鐘は3年間地中に埋めておけば、その後は人手を要せずして暮れ六つになると自然に鳴るものを、惜しいことをしてくれた」といって大変残念がったという、言い伝えがあるそうです。
こうした話しは「今昔物語」にもみられ、このようにこの鐘の音が唐土にまでひびくなら、きっと冥土までも届くだろうと信じられ、「迎え鐘」となったというわけです。
千本閻魔堂[引接寺]の迎え鐘
千本閻魔堂の迎え鐘外観
千本閻魔堂[引接寺]の迎え鐘
この鐘にもいろいろ伝説があるようです。
そのひとつに、小野篁が寺を創建し鐘楼も建てたけれど鐘がなかった。そこで鋳造師に注文して出来上がった鐘は「土中に3年埋めてから掘り出して吊ると何もしなくても2時間ごとに鳴る鐘になります」といわれ、埋めたのですが、寺の別当が疑って3年満たずに掘り出して打ったため普通の鐘になったというものです。土中に置いておくのが待てないというのは、珍皇寺の鐘と同じです。
しかし、そうした霊験のある鐘ならあの世へも響くだろうということで、精霊を迎えるために撞く鐘としてその役割を果たしていると言えます。
また、六道珍皇寺とまったく同じ言い伝えもあります。
開基の慶俊(きょうしゅん)僧都が唐の国へ赴くときに鐘が出来上がり、「3年土中に埋めると、暮れ六つに鳴る鐘になります」といわれ土に埋めていましたが、小僧さんが掘り出して鳴らしてしまい、これもまた、唐にいる慶俊僧都にまで聞こえたといいます。同じですね。
六波羅蜜寺にも「迎え鐘」があります。
六波羅蜜寺にも「迎え鐘」
ここの「迎え鐘」地下洞につりさげられた鐘の綱を引くことで、精霊を迎えます。

六道まいり

京都では、8月、13日に始まり16日の五山の送り火に終る盂蘭盆(うらぼん)に、先祖の霊を祀る報恩供養が行われますが、その前の8月7日から10日までの4日間に精霊(御魂 みたま)を迎える風習があります。「六道まいり」です。
この「六道まいり」は、京都では主に2つの寺院で行われています。
六道の辻の碑
東山区の六道珍皇寺と上京区の千本閻魔堂(引接寺)です。さらに、その回りのお寺でも行われます。
六道珍皇寺のある松原通東大路西入ルあたりは、平安時代、墓所の鳥辺山の麓、俗に「六道の辻」と呼ばれた京の東の葬送の地であったことで、生死の界(冥界への入口)であり、お盆には、冥土から帰ってくる精霊たちは、必ずここを通るものと信じられていました。そこで、六道珍皇寺が精霊迎えの根本霊場となったのです。
一方、上京区の千本閻魔堂は、平安時代以来の北の葬送地、蓮台野(紫野)に近い場所にあります。この地は平安朝京洛の中心道路である朱雀大路(現千本通)頭に位置し、あの世へ通ずる処として亡骸をここから送ったので京の都ではお精霊迎えの根本霊場となったのです。
ご祖様の精霊を京都では「おしょらいさん」(精霊さん)と呼びます。
六道まいりには、お盆に迎える先祖の戒名を書いた水塔婆を用意し、槇の葉で水をかけ供養して、「迎え鐘」を突き、お精霊さんを迎えます。
六道珍皇寺
8日に六道珍皇寺にお参りに行ってみると、長蛇の列でした。みなさん水塔婆を手にして並んでおられました。
六道とは、仏教の説くすべての命あるものが生前の善悪の業によって死後必ずおもむくという六つの冥界で、 地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道です。この六つの世界に生まれ 死んだものは又いずれかの世界に生まれて輪廻していくとされます。
門前で槇の葉とミソハギを買って持ち帰ります。お精霊さんは槇の葉に乗って家に帰るとされています。
千本えんま堂
千本閻魔堂には7日にお参りしましたが、ここも多くの人が参拝に訪れていました。
このような埋葬地に近い二寺は、あの世との境界として、先祖の霊を迎える場所として京都では、古くから多くの人に信仰されてきました。
特に昔は、庶民は火葬されることなく、野に投げ、死体を雨風にさらす葬り方(風葬)をして、それが埋葬の儀式とされていました。そうしたことで、埋葬地の付近は冥途に行った人の霊が現れても不思議はないわけです。

京都迎賓館

京都迎賓館の見学を申し込んでみたら、当選しました。それで、今回京都に来ました。時間は8日の12時からでした。
少し早めに行ったのですが、入れてもらえました。
京都迎賓館は、海外からの賓客をお迎えし、日本への理解と友好を深めていただくことを目的に平成17年に建設されました。
もう9年になるのですね。
いろいろ規制がありましたが、ゆっくりと見て回りました。
玄関を入ってすぐが「聚楽の間」です。どちらかというと控室。次は部屋の東西の壁面に西陣織の装飾(比叡山と愛宕山)を施した「夕映の間」。
京都迎賓館藤の間
そして、正式晩餐会などが行われる『藤の間』です。最大120名の会食が可能なのだそうです。
その天井です。
藤の間 天井
「藤の間」という名称は、壁面装飾の綴織り「麗花」(れいか)の主要モチーフの藤の花言葉が「歓迎」であることに由来しています。
壁面を飾るのは、綴れ織りで 日本の草花39種類が描かれているそうです。
京都迎賓館截金
藤の間」の舞台扉に使ったのは、金箔と銀色のプラチナ箔です。截金の重要無形文化財保持者江里佐代子さんの制作です。江里さんは、フランスで平成19年に62歳の若さで亡くなっています。
当時の京都新聞の記事に江里佐代子さんの言葉が載っていました。
「 六枚の箔を熱で焼き合わせた「合わせ箔」を作り、竹刀を用いて一本ずつ切る。そうした下準備に約一年かかった。制作の場となったのは、南禅寺塔頭の光雲寺内に建てた仮設アトリエ。風の音や水のせせらぎ、鳥のさえずりを聞きながら、截金を施した。「清浄な空間で、あれほど集中できる環境はなかった。幸せをかみしめながら仕事をした」と振り返る。
京都迎賓館の建設に当たっては、数寄屋大工、左官、作庭、そしてこの截金など、京都を代表する伝統技能者の技が生かされていることをつくづくと感じます。
藤の間から見られるお庭です。
庭園
次は和食の晩餐室、『桐の間』です。
桐の間
「桐の間」という名は、部屋の主要な装飾モチーフが、日本国政府の紋章であり、京都迎賓館の紋章でもある「五七の桐」であることに由来しているそうです。
60畳の広さということです。ここは掘りこたつ方式だそうで 
舟遊びを楽しむ「和船」
池を跨ぐ廊橋(屋根付きの橋)をわたって最後の部屋へ。木船がありました。この木船は、ブータン国王夫妻がいらっしゃった時に この船に乗って 池でちょっとした舟遊びをされたそうです。
最後に 池の様子をもう少し。睡蓮が咲いていました
石像物の見事な池の風情
京都迎賓館は、日本庭園を取り囲むように大小の和風建築が連なる作りです。庭屋一如の思想が生かされた建築と評価されています。
赤坂の迎賓館とは違って、日本人が日本のもてなし方で外国の賓客をもてなす日本の迎賓館です。

「京の七夕」 堀川会場

「京の七夕」
「京の七夕」は、堀川会場と鴨川会場で開催されていました。二条城を出て、堀川遊歩道を歩きました。
写真では写っていませんが、友禅柄を使用した行灯に、京都に縁のある著名人から寄せられたメッセージを掲載している「メッセージ行灯」が並びます。
「メッセージ行灯」
光の友禅流し
幾重にも色が重なり表現される京友禅の華やかさが、堀川を流れる水と、そこを照らし出す光の演出により、水面に艶やかに浮かび上がっています。
光の友禅流し
ORI☆HIKO(出逢い星)
夜空の星たちが堀川の中に、流れ星たちに見守られ、「織姫」と「彦星」が出逢います。
ORI☆HIKO(出逢い星)
七夕のささと柳の並木の堀川遊歩道を行く。
ささと柳の堀川道
光の天の川
竹を使用したアーチとLEDで天の川を再現します。これも目玉です。真夏の夜に、。今年は川面から天へと続く光でロマンチックな雰囲気がかもし出されていました。
長い 光の天の川
光の天の川

「京の七夕」二条城 二の丸御殿ライトアップ

8月7日から3日間、台風情報を気にしながら、京都に行って来ました。
ちょうど、「京の七夕」をやっていたので、まず、二条城に行きました。
二の丸御殿と唐門に、築物の形状に合わせてプログラミングされた映像を投影する「プロジェクションマッピング」が催されていたからです。6時過ぎには門の間には、長い列がdきていました。7時に入って、前の方を陣取りました。待っている間もソフトな光があたって、
きれいでした。
7時30分。ライトアップ。荘厳な雰囲気に歓声が上がります。
二条城 日暮れ
二条城 もう少し暮れて
二条城 いよいよライトアップ
二条城 緑に映えて
二条城 光が踊る
二条城 さらにあでやかに


プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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