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『ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展』

「世田谷美術館」に『ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展』を見に行きました。
「ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展」
大変勉強になる美術展でした。
この展覧会では、日本の主として浮世絵に影響をうけて西洋画と、その影響をしかに与えた浮世絵がセットで展示されていて、その類似点などを丁寧に解説されているので、とてもわかりやすかったです。
浮世絵も普段見るとは少し違った印象を受けました。
正直に言えば、なかには「これこじつけではないのかな」とちょっと思うようなセットもありましたが、ほとんどが納得のいくものばかりでした。
また、絵画だけでなく、工芸品なども展示されていて、見ていて飽きないです。
「ボストン美術館所蔵の絵画、写真、工芸など約150点を紹介し、西洋の芸術家たちが、日本の美術から何を学び、新たな美を創造したのかを様々な角度から検証します」と案内にありましたが、150点もボストン美術館から来ているとは思えませんでした。それだけ、密だったということです。
今回の展覧会のポスター、チラシにあるモネの「ラ・ジャポネーズ」は、修復に一年をかけ、色鮮やかに蘇った後の最初の展覧会だということでした。
作品も大きく、日本趣味がたっぷりと描かれて、圧倒されます。
ゴッホもロートレックもムンクもありますが、モネ作品がとても充実しています。ごてごてのジャポネズリー(日本趣味)からしだいに、その精神に日本が取り組まれて、にじみ出る「日本」としての睡蓮の作品へ向かったという流れもつかむことができました。
これも引用になりますが、浮世絵のもつ力にいっそうの興味を持ちました。
「浮世絵はすばらしい着想源でした。彼らを驚嘆させた浮世絵師たちの奇想天外な工夫―極端な俯瞰構図、対象の切断、前景の遮蔽による遠近法、平面性、明るい色彩、ぼかし、藍の多用など―と、それを取り入れた近代絵画の成果を作品の対比によって探ります」
展示されている浮世絵がボストン美術館から来ているというのにも、ボストン美術館の奥深さを感じます。
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浅草に出た、そして「駒形どぜう」

海の日、昨年も行った「勝海舟フォーラム」今年は2014に行きました。
勝海舟フォーラムチラシ
テーマは『江戸無血開城 命の大切さ』。彰義隊から、幕末を少し勉強しようとしているので、大変興味深かったです。
浅草に出たので、これも恒例、「駒形どぜう」に行きました。
昔は苦手だったのですが、今は、積極的に「行こう!」です。
徳川11代将軍、家斉公の時代、初代越後屋助七が18歳の時に江戸に出て奉公した後、
この地にめし屋を開いたのが始まりです。創業は、享和元年(1801)です。
本来「どぢやう」と表記すべきところを、縁起のいい奇数文字の「どぜう」としたのも初代の発案と言います。
座敷に座って、畳に直接鍋を置いて食べるスタイルを継承しているのも良いですね。
ただ、私どもは、足を痛めて座れません。地下の椅子席でいただきました。
看板料理は「どぜう鍋」。
どぜう どじょうなべ
どじょうを酒に漬けて酔わせ、江戸甘味噌仕立ての汁で煮たものを平鍋に入れ、鰹出汁のきいたタレでさらに煮込んで刻みネギを載せて食べます。
私は、まだ丸はなんとなく苦手感がり「柳川鍋」です。
でぜう 柳川定食
開いたドジョウと笹掻きにしたゴボウをみりんと醤油の割下で煮て、卵とじにしています。
「柳川鍋」の名前はどこから来たのかなと思っているのですが、この鍋を創始した店の屋号が「柳川」であったから、とか、鍋にドジョウを並べた姿が柳の葉に似ているから、あまりおもしい説はありませんでした。
浅草に来たという思いで帰りました。

「徒然草―美術で楽しむ古典文学」展

 「徒然草―美術で楽しむ古典文学」展を見に、サントリー美術館へ行きました。
『徒然草』といえば、若かりしころ「つれづれなるままに、日ぐらし硯に向かひて……」の冒頭を、なとか覚えたいとがんばったものです。
展覧会としては、それほど期待していなかったので、おしまいになる前日に行きました。
サントリー美術館へ入ると、ちょうど学芸員の方の「展覧会のみどころ」の話があることで
話を聞きました。
これが良かったです。このところ古典と遠ざかっていたので、ありがたかったです。
まず驚いたのが、「鎌倉末期の随筆『徒然草』を記したのは誰?」というクイズでした。
私は、吉田兼好と思っていました。「吉田兼好と答える人はは、かなりのお歳ですね」と言われました。
正解は、卜部兼好か不明でした。一般的には、兼好法師という言い方になっているようです。
家に帰って、『徒然草』関連の本を引き出してみると、どれも吉田兼好とは書いていません。
思い込みだったのです。思い込んで、『徒然草』は吉田兼好と疑いもしていなかったのです。
兼好法師は、吉田兼好と言われていたことが訂正されて、下級貴族の卜部氏出身と言われていたとのことです。そして、出家し『徒然草』を書く前は、後二条天皇の身辺の世話をする「六位蔵人(ろくいくろうど)」になり、その経験が随筆に生かされたとされたということでした。
しかし、近年の研究で、卜部氏の系図は信頼が置けず、兼好の出自も同時代の史料に記されていないということで、その出自はまだ不明ということのようです。
『兼好法師図』 尾形乾山 筆 
もう一つそうなのかと思ったのは、『徒然草』は成立後、約100年は注目されることがなかったというのも、考えてもいなかったです。
江戸時代に入ってから広まり、今回サントリー美術館が「徒然絵」と呼ぶ絵画作品が登場したのだそうです。そこでこの展覧会は「美術で楽しむ古典文学」です。
「江戸時代に入り庶民にも読まれるようになると、『伊勢物語』、『源氏物語』同様に大変な人気を博すことになります。そして画帖や奈良絵本、そして絵巻や屏風に絵になる段落が絵画化されて行きました。」
俄然おもしろくなり、展示をじっくり3時間かけて観ました。
展示構成は次の通りです。
第1章 兼好と徒然草
第2章 〈徒然絵〉の諸相
第3章 徒然草を読む
第4章 海北友雪の画業における「徒然草絵巻」
徒然草を読むで、「徒然絵」と意訳がならべて出ていましたが、思い出す文面も多く、また、この年だかれすごく感銘する言葉も多く、これはぜひ『徒然草』をしっかり読まなくてはいけないと思いました。

東京ミッドタウンにゴジラ

東京ミッドタウン
今年は、ゴジラが誕生して60年になります。NHKのBSでその第1作を見ました。子どもの時に興奮して見ました。アメリカから帰ってきたアメリカ版も見ました。どうしたわけかそちらを、よく覚えています。覚えていると言っても全体でなく部分ですが、満員の映画館とともに光景が浮かびます。1作目はメッセージもあり、よくできています。
1954年、昭和29年なのですね。
公開されるハリウッド映画版「GODZILLA ゴジラ」とコラボレーションした特別企画ということで、東京ミッドタウンの庭で全長108メートルの実物を7分の1に凝縮した6.6メートルの「ゴジラ」が、その偉容な姿を見せています。
ゴジラ2
ゴジラ3
ゴジラ全身
実物大の足跡も見られます。

額の上に銀製の三日月をもつ三日月不動

15日、お盆の日に新宿の太宗寺へ行くと、閻魔堂だけでなく、不動堂も扉があいていました。
不動堂に入ってみました。
三日月不動
額の上に銀製の三日月を持った火焔に包まれ憤怒の形相の不動明王、「三日月不動尊」が安置されています
案内によると、銅造で、像高は194cm、火炎光背の総高は243cm。江戸時代の作ですが、製作年・作者などは不明。ということです。
寺伝では、「この像は高尾山薬王院に奉納するため甲州街道を運搬中、休息のため立寄った太宗寺境内で、盤石のごとく動かなくなったため、不動堂を建立し安置したと伝えられています。」
そばで拝顔しました。額上の三日月は光っていました。この光は「弦月の遍く照らし、大空をかける飛禽の類に至るまで、あまねく済度せん」との誓願によるものといわれます。
このために、像の上の天井をくり抜いて穴を開け日光や月光がお不動さまの三日月に当たるように工夫されています。
不動明王は、悪魔を降伏するために恐ろしい姿をされ、すべての障害を打ち砕き、仏道に従わないものも無理矢理にでも導き救済するという役目を持っておられます。そして、真言宗の教主「大日如来」の使者ということです。
三日月不動尊像
確かに、怖い顔をしておられますが、人を救済しようとするやさしい慈悲にも満ちている像です。
三日月は、なんとなく縦と思っていたのですが、横になってついていました。
頭の方へ三日月は、なんとなく、月光仮面と旗本退屈男を思い出します。
月光仮面
月光仮面は、人気が沸騰しているころまだ家にテレビがなく、うわさやマンガが優先しています。
月光仮面の原作者の川内康範の実家が日蓮宗の寺だったとかで、三日月の発想は薬師如来の脇に侍する月光菩薩だったようです。お不動さんではないです。
写真を探して見ると、ターバンの前面に、三日月があります。
「これは月の満ち欠けを人の心になぞらえ、『今は欠けて(不完全)いても、やがて満ちる(完全体)ことを願う』という理想と『月光は善人のみでなく、悪人をも遍く照らす』との意味が込められている。」という解説もありました。
旗本退屈男
旗本退屈男は、市川右太衛門のはまり役。こちらは映画を見ました。
姓は早乙女、名乗りは主水之介で、人呼んで「旗本退屈男」。剣術の達人で「諸羽流(もろはりゅう)青眼(せいがん)崩(くず)し」という無敵の剣の技を持っています。
トレードマークは額に受けた三日月型の「天下御免の向こう傷」。将軍より天下御免の御墨付きを受けていました。
強い不動尊の三日月、何か夢が感じます。
三日月不動像、写真はうまく撮れませんでした。残念。来年を待ちます。

御先手組同心の田宮家の稲荷社

田宮稲荷神社 境内にある小さい稲荷
お岩さまの幸運にあやかろうと、稲荷社にお参りに来たという話については、『新釈 四谷怪談』(集英社新書)で小林恭二氏が、御家人の暮らしの大変さについて言及しています。
田宮稲荷神社跡は、新宿宿左門町にあります。左門町の名の由来は、寛永の頃、御先手頭の諏訪左門が組屋敷を設けたことによります。御先手組は御先手弓頭と御先手鉄砲頭とに分れ、戦時の先備えとしての歩兵隊でした。若年寄の支配で、火付盗賊改を兼務します。
この左門町に住まいしていた田宮家は、御先手組に属していたと考えられます。
そこで、御先手組同心・田宮家の経済状況を考えてみると、家禄は30俵3人扶持ぐらいです。これは年棒として30俵の玄米と3人分の食料が与えられるというものです。
小林恭二氏は、現在の金額にして年収170万ぐらいとしています。とても厳しい生活です。
同じく新宿区の大久保百人丁に住まいしていた鉄砲隊百人組もだいたい同じような家禄でしたが、年収120万から150万くらいだったと言われます。
大久保の百人組は、植木を内職としていました。有名なのは、つつじです、それは明治になってからも、大久保地域は引き続きつつじ名所として見物客でにぎわうほどでした。
そのほか、下級武士の内職としては、こおろぎ、鈴虫といった昆虫飼育、傘張り、凧張り、小鳥の飼育、竹細工などいろいろあったようです。
左門町の御家人は何をしていたのでしょか。とにかう、内職でもしないと生活はできなかったのではないかと思われます。
そういう社会状況の中で、田宮家の邸内稲稲荷である於岩稲荷は、御家人の内儀たちの熱心な信仰を集めました。
お岩さまは自分たちと同じ境遇でありながら、奉公に出て、生活苦を克服しました、そんな賢婦人であるお岩さまに救いを求めたのです。
そこにはお岩さまが、同性であるということも寄与していたろうと、小林恭二氏は書いています。
お岩さまは、夫の浮気相手を病気にしてくれた。
憎い札差しに災難を与えてくれた。
口うるさい姑を殺してくれた。
夫をこらしめてくれた。
・・・・そんな願いをかなえてくれたという噂が広まっていきました。
そのような、於岩さまにお願いをするという信仰は、於岩さまの亡くなった元禄期から、『東海道四谷怪談』が上演された文政期まで、百年以上も続いていました。
「それに目をつけた鶴屋南北は、渾身の怪談の主役に抜擢しました。南北の目論見は図にあたり、いやそれどころか南北の目論見などはるかに越えて、お岩さまは、我が国最大級の祟り神として君臨することになったのです。その力の厳選が御家人とその家族の深甚なえんさにあったのはいうまでもありません。」(『新釈 四谷怪談』集英社新書)
以前、この於岩稲荷にお参りに来た時、お参りしてもいいのかな、どうなるんだろうと、心配する人がいました。こうした歴史を知ると、お参りの気持ちも定まってきます。
ただ、祟りということでは、『東海道四谷怪談』に出演する役者に及ぶことがあります。
当初は出演した役者が挨拶程度に参拝していましたが、そのうち上演前に参拝しないとその役者が病気になる、事故が起こるといった話にまで発展していきました。
今でも、出演が決まるときちんと、お参りされているようです。
於岩稲荷の役者名
ちなみに、私がしっかりと見た最初の歌舞伎は、六代目中村歌右衛門の『東海道四谷怪談』でした。

お岩さんの真実と『東海道四谷怪談』

『お岩さまの損実』と『東海道四谷怪談』を比べてみます。、
<お岩さまの真実 貞女説> 
江戸初期です。四谷左門町に、田宮又左衛門という御家人がいました。その娘のお岩と夫の伊右衛門は人も羨む仲睦ましい夫婦でした。
しかし、田宮家の家計が苦しいので、お岩は奉公に出ることになります。お岩は熱心に働き、また。その奉公している屋敷内の稲荷の社に日参して、一日も早く夫婦がいっしょに暮らせることが出来るようにと祈願していました。その結果、田宮家を再興することができました。
これも日ごろ信ずる稲荷大明神の霊験であるというので、お岩は自分の屋敷内にもその稲荷を勧請して朝夕に参拝しました。それを聞き伝えて、近所の御家人の奥さま方が、お岩の幸運にあやかろうとたくさん訪れるようになりました。お岩はそれを拒まずに誰にもこころよく参拝を許しました。その稲荷は、誰が云い出したともなしに「於岩稲荷」と呼ばれるようになりました。
「お岩さん」 葛飾北斎「百物語」より
<鶴屋南北『東海道四谷怪談』の登場>
江戸の後期になります。歌舞伎作家、四代目鶴屋南北は、100年以上もたつのに「お岩稲荷」が根強い人気あることに注目しました。そして「お岩」という名前を使って歌舞伎にすることを思い立ちますが、お岩が、善人では面白くない。そこで南北は江戸で評判になったいろいろな事件を組み込んだ話を造ります。例えば、ふたりの下男が主人殺しをしてはりつけになったとか、旗本の妾が中間と密通したため戸板に釘付けされて神田川に流されたとか、江戸の人間なら、だれでも記憶にある事件を盛り込み台本を書き上げました。それが『東海道四谷怪談』です。鶴屋南北71歳の作品でした。
『東海道四谷怪談』は文政8年(1825)7月、江戸中村座での初演。初演時にはこの作品は『仮名手本忠臣蔵』と交互に上演し、2日かかりで完了する興行形式を取りました。
上演された文政8年(1825)ごろは、江戸文化が最も華やかで、文化爛熟といわれた時代です。歌舞伎は大当たりをします。
お岩は三代目尾上菊五郎、伊右衛門は七代目市川団十郎で、『東海道四谷怪談』は江戸中の話題をさらいました。
ちなみに、『東海道四谷怪談』では実在の田宮家をはばかり田宮を「民谷」とし、四谷を雑司ヶ谷四谷町に変えています。雑司ヶ谷に四家という地名はありました。

田宮稲荷神社の案内が変わった。

東京では、今お盆です。お盆なのでお岩さま、閻魔様、しょうずかのお婆さんなど訪ねてみようと思いました。
田宮稲荷神社に行ってみると、神社の 東京都教育委員会の案内が変わっていました。
田宮稲荷神社
新しい案内は、お岩さま善人説をとっています。
その掲示を写真でみてもらいます。建設は、2年前、平成24年の3月でした。
田宮稲荷神社案内
以前の案内では次のようになっていました。
「都旧跡 田宮稲荷神社跡
所在 新宿区左門町十七番地
指定 昭和六年十二月二日
文化文政期に江戸時代は燗熟期に達し、いわゆる化政時代を出現させた。歌舞伎は民衆娯楽の中心になった。「東海道四谷怪談」の作者として有名な四代目鶴屋南北(金井三笑の門人で幼名源蔵、のち伊之助、文政12年(1829)11月27日歿)も化政時代の著名人である。「東海道四谷怪談」の主人公田宮伊左衛門(南北の芝居では民谷伊右衛門)の妻お岩を祭ったお岩稲荷神社の旧地である。物語は文政10年(1827)10月名主茂八郎が町の伝説を収録して、町奉行に提出した「文政町方書上」にある伝説を脚色したものである。明治5年ごろお岩神社を田宮稲荷と改称し、火災で一時移転したが、昭和27年再びここに移転したものである。
昭和43年3月1日 建設 東京都教育委員会」

ここでは、お岩さんと田宮伊左衛門とがどう状態だったかは、記されていませんが、「文政町方書上」のそれまで地元に伝わっていたとされるお話を、鶴屋南北が脚色したと記しています。これだと『東海道四谷怪談』の筋立てと同じということになります。
「文政町方書上」は、あまりにもお岩さまが歌舞伎で有名になったもので、幕府が町の様子報告させたものです。届けた年号を見ても分かるように『東海道四谷怪談』に大きく影響されています。
それはだいたい次のようなお話です。
お岩は御先手組同心田宮又左衛門の娘で疱瘡を患って片目がつぶれ醜かったのですが、摂州浪人伊左衛門という夫がおりました。この伊左衛門に、与力伊東喜兵衛が自分の妾お琴を子どもができたため、伊左衛門押し付けようとします。伊左衛門は喜兵衛らと策謀してお岩をさんざんにいじめ、離縁し、家から追い出します。その後の気が狂ったお岩の行方は知れなくなります。しかし、伊右衛門の周囲に次々と不思議な事が起こり、関係者は次々と死んでしまったと言います。
ここではお岩は幽霊としてその姿を現してはきません。しかしその事件がお岩の怨念のせいだということは明らかなのでした。そこで、田宮家にあった稲荷とお岩を合祀し、供養することで、その後怪異はなくなったということでした。
それがしだいに、お岩さんと伊左衛門とはそんなひどい仲では無かったと言われようになり、東京都教育委員会の案内もすっかり変わりました。

「全生庵(ぜんしょうあん)」(東京・谷中)

朝日新聞に大きく出ていましたが、安倍晋三首相は東京・谷中の全生庵で、座禅を組んだそうで、全生庵は座禅体験者がいっぱいのようです。
「安倍晋三首相の参禅以来、山岡鉄舟(1836~1888)ゆかりの禅寺「全生庵」(東京・谷中)に関心が集まっている。一度は病気を理由に政権の座を降りた安倍氏が座禅を通じ立ち直ったとも伝えられるからだ。座禅会はいつも満員。現住職の近著は4万部超の売れ行きをみせる。」(2014年7月8日 朝日新聞)
全生寺
全生庵は山岡鐵舟が幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために、明治16年(1883)に建立したお寺です。本尊は、かつて江戸城の守り本尊であった葵正観世音菩薩です。山岡鉄舟は晩年、禅を修め道場としてこの寺を建てました。
山岡鉄舟の墓
もちろん、山岡鉄舟の墓はここにあります。明治21年(1888)7月19日53歳で死去しました。基壇上にある有蓋角塔の正面に「全生庵殿鉄舟高歩大居士」とあります。
山岡鉄舟 墓碑銘

三遊亭円朝の墓
そして、近くに、三遊亭円朝(1839~1900)の墓があります。三遊亭円朝は,山岡鉄舟の導きによりよく参禅し,その淵源を極めたと言われています。明治33年(1900)8月11日62歳で亡くなりました。円朝の墓石には、鉄舟の筆により「三遊亭円朝無舌居士」とあります。辞世の句 「耳しいて聞きさだめけり露の音」 も刻印されています。この句の意味は、耳が聞こえなくて、やっと露の葉から落ちる音が聞こえたといったもので、禅の奥深いものからの思いなのでしょうか。
円朝 墓石と辞世の句
毎年、命日にちなんで8月には、全生庵で圓朝まつりと奉納落語が行われます。また、円朝が集めていた幽霊画の展示もあります。
また、墓にある円朝の紹介の中に、次の文章がありました。
三遊亭円朝は、「建築、作庭にも秀で、自らの設計監督によって内藤新宿に、数寄屋造の家屋や茶室、更に新宿御苑を借景とした百坪余の枯山水の平庭を完成させた」と言われます。
ここにある内藤新宿は現在の新宿1丁目、花園公園があるところです。今は公園の前に「三遊亭円朝旧居跡」の碑があるだけです。明日、その近辺に行く予定でいます

上野 花園稲荷神社(穴稲荷)

上野にはよく行きますが、まだ立ち寄ってない場所があります。そのひとつが、通称、「穴稲荷」と言われる花園稲荷神社です。
彰義隊の戦では、「穴稲荷門の戦」ということで、最後の激戦地として有名です。
今回幕末、上野戦争をテーマに歩いていたので行ってみました。
花園稲荷神社 鳥居
花園稲荷神社は上野公園の東側、五條天神社とほぼ同じ境内にあります。
花園稲荷神社は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を祭神としていますが、もとは弥左衛門狐を祀った「穴稲荷」が中心だったようです。忍岡(しのぶがおか)稲荷が正式名称ということです。
御創祀の年月は不祥ですが、古くからこの地に鎮座し、石窟の上にあった事から穴稲荷と云われました。
天海僧正が、上野の山一体を寛永寺造営するにあたって、この地に生息する狐の居場所が無くなるとかわいそうだということで、祠を造ったという言い伝えがあります。つまり、この穴は徳川家ご公認の狐の住みか、というわけです。
承応3年(1654)、天海大僧正の弟子、本覺院の住僧、晃海僧正が、霊夢に感じ、お社を建て、上野の山の守護神としました。
明治6年に岩堀数馬、伊藤伊兵衛等の篤志家によって再興され、花園稲荷と改名、五條天神社が現地に御遷座になるに及び、社殿も南面して造営されました。
鳥居をくぐって、左に回ると洞窟があります。入ると、穴稲荷がありました。
「穴稲荷」
その左奥にあるお社は、古書に弥佐衛門狐と記されています。
花園稲荷神社
社地は約2,000坪(約6,600㎡)ありましたが、明治の上地により、現在は五條天神社と併せて約1,000坪になりました。
洞窟に入るので、通常とは違った印象を受けます。こうした場所も残し、上野の山はまだまだ興味深いです。
お稲荷さん

上野戦争 清水観音堂

上野『本能寺合戦の図』 清水観音堂前
『本能寺合戦の図』・上野戦争、 清水観音堂前の場面です。
<清水観音堂は、天海僧正が京都の清水寺の観音堂を模して寛永8年(1631、)背後の摺鉢山に建てましたが、元禄11年(1698)に焼失したので、その後、この地に再建されました。
上野山戦争の戦火、関東大震災、東京大空襲には奇跡的に焼けずに残った貴重な建物です。
ここから眺める不忍池は、比叡山から眺める琵琶湖に見立てられています。
清水観音堂 鰐口
お堂入り口の上に鰐口には、弾丸の穴、痕跡が残っていました。しかし、この鰐口は、宝物庫に収納され、現在は新鰐口が架けられています。
写真を見せてもあらったのですが、表に5箇所、裏に2箇所の、合計7箇所の弾痕があるとのことです。
これは戦闘の最中の弾痕ではなく、戦いの後にでも戦勝自慢かあるいは腕自慢か、鰐口めがけて撃ったものかもしれません。 
清水観音堂 絵馬に弾丸
入口を入った所に、上野戦争の図が銃弾付きで掲げられています。右上の所です。これは新政府軍の不忍池越えで発射された弾丸の実物だそうで。長さ15cm位の大きさがあります。

上野戦争 黒門の攻防

上野 『本能寺合戦の図』
上図のタイトルは『本能寺合戦の図』となっていますが、上野戦争の図です。上野寛永寺の戦闘を描いています。袴姿の兵が彰義隊、洋装の兵が官軍です。なお赤熊(しゃぐま。赤毛の長髪カツラ)は土佐藩兵です。
右側の図が黒門、中央の図が清水観音堂、左側の図は上野寛永寺境内の吉祥閣が炎上しているところです。
絵師は歌川芳盛(天保元年~明治18年)です。歌川国芳の門人で、武者絵や明治の風俗を得意としていました。
上野 『本能寺合戦の図』黒門
右側黒門の図を見ます。5月15日早朝から激しい戦闘が開始されました。天気は雨でした。まさに泥沼の激戦模様です。黒門口は初 手から激しい戦闘となり、正面を突破しようと薩摩藩軍が突撃し、彰義隊も主力部隊を黒門口に集結させており、激しい攻防戦が続きます。
戦闘の前半は彰義隊が黒門口に新手の部隊を次々と投入したことから、彰義隊優勢となり薩摩藩軍を押し返す勢いも見せましたが、ちから及ばず、新政府軍により黒門口は突破されます。
彰義隊からは、逃亡者が相次ぎ、これを見た新政府軍は一斉突入に踏み切り、防戦しきれなくなった彰義隊は敗走します。

彰義隊の結成から上野戦争まで

慶応4年(1868)の彰義隊の結成から上野戦争までを日付順に記してみます。日付は旧暦です。
慶応4年(1868)<2月11日>
徳川慶喜。京都鳥羽伏見で戊辰戦争勃発のあと恭順意思を示す。
<2月12日> 徳川慶喜、上野山寛永寺内の「大慈院」で謹慎。
一橋家ゆかり者ら17名 が雑司ヶ谷鬼子母神の門前にあった酒楼「茗荷屋」に集まり、徳川慶喜復権や助命ついて話合う。
<2月17日>
四谷鮫ヶ橋(新宿区須賀町)にあった円応寺(現・廃寺)で第2回会合34名が参加した。
<2月21日>
同じく鮫ヶ橋の円応寺で第3回会合。この会合には、一橋家に仕えた人物だけでなく、幕府支持する有志を求め、67銘の同士が得られた。血誓書を作成。
<2月23日>
会場を浅草の東本願寺に移し、130余名が参加する。ここで、彰義隊と命名。これは「大義を彰(あきら)かにする」という意味が込められている。そして、頭取には渋沢成一郎、副天野八が投票よって選出される 。
2人の人物は大きく違っていました。渋沢成一郎は落ち着いた理論派の風で、天野八郎は豪傑のような雰囲気を持っていました。
投票では天野に人気が集まったようですが。天野は、「頭取には渋沢さんがいいです。私は副頭取につきましょう」と言ったと伝わります。
彰義隊は、熱心に幕府上層部へ働きかけ、慶喜警護の役目を任されることに成功します。
この彰義隊を認可したのは、江戸城留守居の松平斉民(まつだいら なりたみ)でした。
松平 斉民は、11代将軍徳川家斉の十四男で、12代将軍徳川家慶の異母弟で、津山藩の第8代藩主でした。彰義隊を利用して江戸の治安維持を狙っていたとも言われます。
<4月3日>
寛永寺で謹慎する德川慶喜を警護するということで、浅草本願寺から寛永寺へ拠点を移動する。
本営は、徳川慶喜の謹慎する大慈院の南方にある寒松院に置きました。寒松院は、現在の上野動物園のあたりにありました。明治21年(1888)現在の寛永寺の裏手に、境内360余坪の寺院として移りました。しかし昭和20年(1945)には太平洋戦争の戦火に遭い再び焼失、博物館の裏手あたりに小さく再建されています。
それまで、慶喜の警護は、山岡鉄舟らが率いる精鋭隊と見廻組があたっていましたが、彰義隊がこの任に加わったことになります。そして、上野を拠点に置き、江戸市中の取り締まりを勤めます。こうして、彰義隊の名が知れると彰義隊に入隊する者が日増しに増え、ついには3000人以上の大所帯を形成していきました。
<4月11日>
江戸城が無血開城して、慶喜はこれを契機に水戸藩へと旅だちます。
ここで彰義隊内部は2つに分断します。
渋沢成一郎たちもと一橋家家臣たちは、慶喜を警護する ために江戸を離れ、水戸に向かうべきことを主張。これに対し、天野八郎らは、徳川家霊廟守護を名目に寛永寺拠点と江戸残り続けることを主張。
渋沢成一郎は 、同志ともに飯能の仁寺で「振武軍」を結成し独自活動を展開した。
こうして、渋沢成一郎たちが去った彰義隊は、好戦的な天野八郎らが主導権を握り、上野でますます盛況振りを現した。
<5月1日>
新政府自身が彰義隊の武装解除に当たる旨を布告。軍務局判事として江戸着任していた大村益次郎の指揮で武力討伐が決定。
<5月14日>
彰義隊討伐の布告が出される。
<5月15日>
未明、大村益次郎が指揮する政府軍は寛永寺一帯に立てこもる彰義隊を包囲し、雨中総
攻撃を行う。
新政府軍は上野を正面の黒門口と背後の団子坂、側面の本郷台の三方向に布陣し、東の三河島方面だけは、逃げ口として空けていました。逃げ口を設けることで、敗走者が江戸に舞戻ることを防ぎ、探索の手間を省くという目的でした。
本郷台には、佐賀藩が誇るアームストロング砲が設置されます。このアームストロング砲は、軍艦に設置する大砲であったが、これを佐賀藩が陸戦用に改造し、この上野戦争ではじめて実戦使用しました。
後方の団子坂には長州藩・大村藩・佐土原藩の三藩軍が設置され、長州藩軍には最新式のスナイドル銃が装備されます。そして、この上野戦争で最も激戦が予想される正面の黒門口には、薩摩藩・因州藩・肥後藩軍が配置されていました。
政府軍は、1日で彰義隊を撃破、寛永寺も壊滅的に破壊されました。
天野は江戸市中で潜伏中に捕縛され、⒓月21日、獄中で没しました。

彰義隊士の墓

上野の西郷さんの後ろ側、西郷さんが背を向けた位置に、彰義隊の墓があります。 (写真の右奥です)
上野西郷さんの像
江戸幕府15代将軍徳川慶喜は、大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に戻ります。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されますが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応4年(1868)2月に同盟を結成(のちに彰義隊)します。
そして、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもっていました。
慶応4年(1868)5月15日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃しました、彰義隊は同夕刻、敗走してしまいます。
上野戦争です。
戦闘後、彰義隊の200名を超える遺体は上野山内に放置されたままでした。
5月15日は旧暦です。今の暦で言えば、7月4日になります。暑い梅雨時です。
徳川家の菩提寺であった芝増上寺や縁故者等が引き取りを申し出たりしましたが、東征軍はこれを容れませんでした。
三ノ輪(現荒川区)の円通寺の23世仏麿和尚と上野で出会った神田旅籠町の錺(かざり)職人(任侠の人あるいは寛永寺の御用商人であったとも言う)の三河屋幸三郎が、この惨事を見兼ねて大総督府に願い出、戦死者をどうにか荼毘に付すことができました。
山王台の大きな塵だめの大きな穴を使いました。この場所が今の墓所です。
野ざらしになっていた遺体は223体(266体とも)言われます。その遺骨は円通寺に運んだと言われます。円通寺には五輪塔があります。
上野の彰義隊の墓
正面の小墓石は、明治2年(1869)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職たちが「彰義隊戦死之墓」と刻んだ墓碑を秘かに付近の地中に埋納したものと言われます。現在の墓が建立されるとき発掘されたのだそうです。
脇に小さく、「発願回向主沙門松国」と刻まれているそうです。これは僧たちの寺、寒松院、護国院から1ずつとっています。
明治7年(1874年)元彰義隊士小川興郷などの願が許可され、上野に彰義隊の墓が建立しました。当初は銅製の墓碑でしたが、建立の借金の方の
謝金のかたに持ち去れました。
明治14年(1881)に山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」を碑銘とする石の墓碑が新たに造られました。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、改府をはばかって彰義隊の文字は使われませんでした。
山岡鉄舟「戦死之墓」
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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