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岡山 東山

従兄弟が急逝し、葬儀で、岡山へ行きました。
路面電車東山本線で東山という所からタクシーに乗りで斎場へ向かいました。
岡山 東山
その東山です。離れて見ると、電車が次々入ってきて、昔の趣があります。車庫もありました。しばらく見とれていました。
東山 市電車庫
タクシーが止まっている奥に、玉井宮東照宮がありました。鳥居の入り口には、りっぱな阿吽の狛犬がありました。階段が長く、時間がなかったので、お宮へはお参りはできませんでした。
玉井宮東照宮 狛犬
玉井宮は、もともとは岡山市小串にありましたが、応徳2年(1085)に今の地に鎮座されました。正保2年(1645)に池田光政公が、ここに徳川家康公を祭神とする東照宮を造営することにしました。氏神様として地元の人に崇敬されていた玉井宮を一段下の広場に移し、その跡に大きな東照宮を造りました。
岡山の町から本殿が良く見え金色の金具が夕陽に映えて輝いている様は絶景であったとか伝えられているようです。こんどゆっくり来てみたいと思いました。
従兄弟とは1つ違い。子どもの時、岡山でよく遊びました。それがどこだったのか思い出せませんが。
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天竜寺の境内に池があって、それは渋谷川の源流でした。

江戸切り絵図 天竜寺・内藤新宿 周辺
江戸切り絵図を見ると、天竜寺に池がありそこから川が流れています。この流れが、
渋谷川(穏田川)の源流のひとつです。
かつては境内に池があったわけです。現在も地下水が豊富という調査もでていますが、今、池は跡形もありません。
渋谷川は、正式には、渋谷区の宮益橋(穏田川・宇田川合流点)から天現寺橋までの2.6kmを流れる二級河川です。その先に古川があります。古川は天現寺橋下の笄川合流点から浜崎橋先の河口までの4.4kmの二級河です。
天竜寺から御苑の中を流れるこの流れは、その元で言えば穏田川です。
穏田川は、新宿御苑方面から宮益橋へと流れる渋谷川支流ですが、古地図などではその名が見えず、かわりに渋谷川と書かれている場合が多いです。
したがって、渋谷川は新宿御苑付近から始まるということになります。
また、新宿御苑の大木戸近くで、玉川上水の余水がこの渋谷川(穏田川)に流れ込みます。
(地元では余水川と呼ばれたとも言われます)
渋谷川は、玉川上水ができる前は流量の多い川ではなかったようですが、玉川上水完成(1653年)後、四谷大木戸(現在の四谷四丁目)の水番所から上水の余った水を渋谷川へ流すことで、流量が飛躍的に増えました。
これにより、水車を掛けることが可能になり、渋谷川には幾つか水車が作られました。
北斎の富嶽三十六景の「穏田の水車」は、原宿穏田村付近(現在の神宮前三丁目)の渋谷川の水車小屋を描いたものです。
広重富岳三十六景「穏田の水車
また、余水として出てきたばかりの所にも水車があり、それは明治時代ですが、日本で初の鉛筆の製造に役立てていました
玉川上水の明治のころの様子を描がいた図があります。
天竜寺のそばを玉川上水は流れていました。天竜寺橋があります。そして、高遠藩用水分水、現在の新宿御苑へと流れる分水が天竜寺の脇のありました。屋敷内で農業もあっいぇいたので、その用水でしょうか。もう一つ、高遠藩用水分がもう少し下流にあります。高遠藩下屋敷の庭園の玉藻池へへと流れた水だと思います。天竜寺の前にjは門前町屋もあり、天竜寺橋のそばに高札場があります。その図には、描かれていませんが、近くに一里塚もありました。
天竜寺墓地の水琴窟
天竜寺の墓地に、水琴窟(すいきん‐くつ )があります。
水琴窟は、庭や茶室の外に仕組み、水滴が落下して発する、かすかな水音を楽しむ装置です。その仕組みの説明は次のとおりです。
「縦穴を掘り、穴底に水盆と排水口を作る。素焼きの瓶の底に小さな穴を開け、瓶口を下に縦穴の中に置く。瓶の周囲と瓶底の上に小石を敷き詰める。小石の隙間を通って瓶の穴から水盆に落ちた水滴が反響して琴のような音が響く」。
試してみましたが、とても気持ちの良い音が響きました。

新宿 天龍寺

JR新宿駅南口から高島屋にむかった、明治通りの。  南口を出て新宿4丁目を右に曲がった明治通り沿いに、東京とは思えない豪華な山門があります。天竜寺です。
天竜寺の門
境内に入ると、広々として、新宿にいることを忘れます。
もとは遠江国(現在の静岡県掛川市)にあり、法泉寺と称しました。法泉寺は徳川家康の側室である西郷局(於愛の方)の父、戸塚忠春(戸田忠春とも伝わる)の菩提寺でした。西郷局が後に第2代将軍となる徳川秀忠を産んだことから、家康の江戸入府にともない牛込納戸町・細工町あたりを寺域として拝領し、寺名も遠江国の川、天龍川にちなんで天竜寺と改名しました。寺地も一万二千坪余を拝領して、拾万石待遇の格式を許された曹洞宗寺院でした。その後、天和3年(1683)2月の大火によって類焼したので、替地を現在地にもらって移転してきました。
牛込、つまり神楽坂です。今、天龍寺という大きなお寺があったと話しても信じてもらえません。ほろ新宿高島屋の近くにある、あのお寺、と話しても分かる人は少ないです。もったいない気がします。
牛込から移転してきた当時は、鉄砲隊百人組の頭、久世三四郎の与力屋敷があったのみで、まだそれ程の町並化はしていませんでした。ですから宿場町の内藤新宿との関係は、当初は直接の交渉は少なかったようですが、門前町屋が49軒となり、内藤新宿も発展・拡大するにつれ、一体化していきました。このお寺の門前町が旭町になりました。
天竜寺の「時の鐘」
境内の左手鐘楼にある「時の鐘」があります。
新宿区教育委員会の説明板では次のように説明してあります。
『天竜寺の鐘は、元禄13年(1700)牧野備後守成貞により寄進されたもので、内藤新宿に時刻を告げた「時の鐘」である。現在の鐘は、銘文により元禄13年の初鋳、寛保2年(1742)の改鋳につづく3代目のもので明和4年(1767)の鋳造である。』
上野寛永寺、牛込市谷八幡の鐘とともに、江戸三名鐘のひとつと称せられました。
『時の鐘、天竜寺の鐘楼にて、もとは昼夜鐘を撞きて時刻を報せり。此辺は所謂山の手にて登城の道遠ければ便宜を図り、時刻を少し早めて報ずることとせり。故に当時は、天竜寺の六つで出るとか、市谷の六つで出るとかいいあえり。新宿妓楼の遊客も払暁早起きして挟を分たざるを得ず。因て俗に之を追出し鐘と呼べり』(東京近郊名所図会)
山の手というより、ここは、四谷大木戸の外、つまり府外にあったので、登城する武士も時間がかかることから登小半時、30分早く時を告げたのでしょう。
それにしても、「時の鐘」はどのように時間を計ったのだろうと思います。
やはり時計があったようです。ここには、鐘と同じく牧野備後守が寄進したオランダ製のやぐら時計がありました。四脚の上に時計が乗っている形がいかにも櫓といった姿であった。時の鐘を撞く合図として明治の中頃まで使用されていた、ということです。
天竜寺 やぐら時計の案内板
りっぱな山門は、意外に新しく、昭和12年(1937)から18年(1943)までの歳月を費やして作られています。戦前の実現しなかったオリンピック開催に向けて、先代の住職が造ったということです。
それには、『きっとマラソンの選手が走るだろう。世界中の新聞記者もそれについてくるであろうし、・・・日本の伝統を盛り込んだ立派な山門を造ったら一つの東京名物ができるだろうと思い立ち』造ったそうです(野村敏雄『新宿裏町三代記』)。
 今は明治通に山門がありますが、もとは追分けから直接玉川上水を橋で越えて入るようになっていました。その入り口の脇に、成覚寺に移された「旭地蔵」がありました。

国木田独歩の『武蔵野』の雑木林「独歩の森」

独歩の森 空
桜橋、そして境浄水場の近くに、武蔵野市立の雑木林公園「境山野緑地(さかいさんやりょくち)」があります。地域住民の強い声により守られ、武蔵野らしい雑木林の原風景を残そうとしている場所です
平成17年(2005)4月、武蔵野市立の緑地として開園し、かつてこの地域が武蔵野村大字境字山野(さんや)であったことから、「境山野緑地」と名付けられました。
そして、国木田独歩が恋人信子と訪れ、『武蔵野』にも記されていることから、公園の南側半分は、地元では「独歩の森」と呼び、「雑木林」を保全する手入れがされています。
コナラやクヌギといったドングリのなる木を中心とする武蔵野本来の雑木林は、武蔵野市内ではほとんど姿を消し、今ではこの境山野緑地が唯一の存在とも言える貴重な存在になっています。
国木田独歩は『武蔵野』で、それまでかえりみられることの少なかった落葉樹の雑木林の良さを説き、農家や林や野が入り混じり、自然と生活が密接して存在している郊外の風情を語り、武蔵野の散策をすすめました。
『武蔵野』に次のような有名な一節があります。
「昔の武蔵野は萱原のはてなきをもって絶類の美を鳴らしていたように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といってもよい。すなわち木はおもに楢の類で冬はことごとく落葉し、春は滴るばかりの新緑萌え出ずるその変化が秩父嶺以東十数里の野一斉に行なはれて、春夏秋冬を通じ霞みに雨に月に風に霧に時雨に雪に、緑陰に紅葉に、さまざまの光景を呈するその妙はちょっと西国地方また東北の者には解しかねるのである。」
『武蔵野』によって雑木林の自然や風情は、人々に広く認識されるようになり、多くの武蔵野愛好家が生まれた。
よく「武蔵野の雑木林」という言葉が使われますが、これも独歩の影響力が強いと言えます。ただ、雑木林は、自然のままにしてできた林とか森とは違います。
武蔵野に多く見られるナラや、クヌギなどの木は、実は、江戸で大量消費される薪炭用に植林された近世の人たちが作った植林です。
薪炭用の雑木林は、薪炭が燃料として使われなくなるにつれ、次第にその意義を失い、伐採されていきました。関東大震災の後は、震災で家を失った東京市民などが、大挙して郊外に移住し、武蔵野の林や畑は、急速に新興住宅に変わっていきます。
さらに、東京大空襲、戦後の高度経済成長、それに伴う全国からの人口の大量流入により、武蔵野はすっかり住宅化されて、「雑木林」は消えてしまいます。
独歩が信子共に訪ねた桜橋付近の林は、土地所有者の厚意で『武蔵野市境山野公園:通称独歩の森』として往時の面影を留めるように「武蔵野の森を育てる」会の人たちを中心に手入れをして保存されています。
そこでは、定期的に下草刈りをし、大きくなった木を切るという作業があります。ここでも高齢化で、そういうことができる人がだんだん少なくなってきているとか。また、散策にこの公園に来た人が樹木の下の土を踏みしめるので、それが木の成長に影響を及ぼすとか、いろいろと取り組む問題があるようです。
境山野公園:通称独歩の森』
独歩が歩いたころの武蔵野の雑木林は、コナラ、クヌギなどを育て、薪炭材、薪などに利用するために定期的に伐採され、そのヒコバエからまた森林が再生する「雑木林更新」を繰り返して維持されてきました。
武蔵野はその昔はススキを中心としたいわゆる萱原でした。「カヤ類」は萱葺きの原料になるので、定期的に刈り採りや、また火入れによって新たに焼き畑が営まれることもありました。
ごく近世まで武蔵野の民家はほとんどが萱葺きであって萱の需要は多かったと思われます。明治以降は、茅葺き家屋が減り、萱の需要が減るとともに、すすき野に手が入らなくなり落葉の雑木の平地林が増え、かくして国木田独歩の「雑木林」が成立したと考えられます。
雑木林は、ほっておいたらいけない。手入れが必要なのだということを「武蔵野の森を育てる」会の人が強調されました。

三鷹駅北口に「国木田独歩詩碑」

三鷹駅北口左奥に「国木田独歩詩碑」があります
I三鷹駅北口にある独歩の詩碑
碑面には武者小路実篤の筆による「山林に自由存す」と彫られています。独歩を象徴する詩といわれています、
碑文に次いで、「叙情詩」はこのように続きます。

 山林に自由存す 
 われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ
  嗚呼山林に自由存す
 いかなればわれ山林をみすてし
 
 あくがれて虚栄の途にのぼりしより
 十年の月日塵のうちに過ぎぬ
 ふりさけ見れば自由の里は
 すでに雲山千里の外にある心地す

 眦(まなじり)を決して天外を望めば
 をちかたの高峰の朝日影
 嗚呼山林に自由存す
 われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ

 なつかしきわが故郷は何処ぞや
 彼処にわれは山林の児なりき
 顧みれば千里江山
自由の郷は雲底に没せんとす

国木田独歩のレリーフ
独歩の碑に、上半身レリ-フもはめこまれています。独歩の次男で彫刻家の佐土哲二の制作によるものです。佐土哲二は独歩が亡くなった3か月後に生まれています。

国木田独歩の碑 1

国木田独歩は、辞書風に簡単に記すと、明治4年(1871)8月30日(7月15日)~明治41年(1908)6月23日)。千葉県銚子生まれ、広島市に育つ。小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者。自然主義の先駆者。また「婦人画報」の創刊者。代表作に『武蔵野』がある。
独歩と言えば『武蔵野』とその結びつきが強いです。
武蔵野市内には国木田独歩の碑が、玉川上水の桜橋のたもと三鷹駅北口前の2ヵ所にあります。
桜橋の碑は『武蔵野』第6章の書き出しが刻まれています。
「今より三年前の夏のことであった。自分は或友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、其処で下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある」
独歩の碑面
この碑は、昭和32年10月、独歩五十年忌に、柳田國男 野田宇太郎 丹羽文雄らが世話人となり、武蔵野保存会の手によって建立されました。
『武蔵野』の本文の続きを、さらに、追ってみます。
「・・・小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋がある、この茶屋の婆さんが自分に向て『今時分、何しに来ただア』と問うた事があった。 自分は友と顔を見合わせて笑て、『散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ』と答えると、婆さんも笑って、それもばかにした様な笑いかたで、『桜は春咲くこと知らねえだね』と言った。・・・  茶屋を出て、自分等は、そろそろ小金井の堤を、水上の方へとのぼり初めた。ああその日の散歩がどんなに楽しかったろう。・・・」
実際に独歩が桜橋の所に来たのは、明治28年8月11日のことです。独歩は恋人佐々木信子とともにこの道を歩きました。そして、桜橋付近の林で熱い思いを打ち明けた、と独歩の日記『欺かざるの記』記されています。 現在もその林は土地所有者の厚意で「武蔵野市境山野公園ー通称独歩の森」として残されています。
独歩と信子は、信子の親(日本橋の佐々城病院長、母は矯風会副会長)に、職も安定しないと結婚に反対されていました。 当時24歳だった独歩と17歳の信子が将来を誓い合ったのが、この日、この場所だったのです。
しかし、この二人の結婚生活は、すぐに破局を迎えています。
信子に無言で失踪されて、狂気のように探し回りますが、あきらめて離婚を決意し、独歩は渋谷に引っ越します。
この渋谷で書き上げたのが『武蔵野』でした。
「昔の武蔵野は萱原(かやはら)のはてなき光景を以て絶類の美を鳴らしていたように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といっても宜(よ)い。則ち木は重に楢の類で・
 武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩くことによって始めて得られる。・・・これが実に又た、武蔵野第一の特色だろうと自分はしみじみ感じている。
 ・・・林と野とが斯くも能(よ)く入り乱れて、生活と自然とがこの様に密接している処が何処にあるか・・・。」
明治31年1月~2月に「今の武蔵野」が「国民之友」に連載されました。 

東京都水道局東村山浄水管理事務所境浄水場

玉川上水ウオークの途中、境浄水場を見学させてもらいました。表題が正式名称です。
境浄水場
原水は村山貯水池(多摩湖)及び山口貯水池(狭山湖)から引き入れています。ただ、玉川上水上流の羽村導水ポンプ所からは村山・山口貯水池へ送水されているので、境浄水場の何割かの水は、羽村堰から取り入れられた玉川上水の水ということになります。
境浄水場は大正13年(1924)3月30日通水したもので、緩速濾過方式の浄水場としては日本最大規模です。
“緩速濾過方式”というのは、細かい砂などから作られた層に、原水(処理される前の水)を 時間をかけて通過させ、ゆっくりゆっくりと濾過する方式のこと。
砂の層の表面には微生物によって膜ができ、濁りや細菌、藻類、油やアンモニア生窒素、有機物や異臭味、鉄やマンガン・・・あらゆる物質が効果的に除去されるのだそうです。
最近は、狭い敷地で大量の水を処理できる“急速濾過法”が主流で、そういう意味でも貴重な浄水場見学になりました。
総面積92,600m²、水深2,500mm、標準ろ速4.000m/日で、甲群及び乙群が各々10池で20池あります。
緩速濾過池の断面模型
緩速ろ過池の断面模型が展示されていました。原水をろ過池に流し込み、この砂や砂利の層をゆっくりじっくりろ過されておりてくる。時間をかけてじっくりろ過するので、匂いのない自然な水が出来上がるということでした。
濾過池へ
大開渠から取水口を経て、ろ過池へ流れ込む水です。レンガづくりで半円形の意匠とか美しいです。レンガが隙間を開けて積まれている部分から流れ込んでいくのだそうで、このレンガを積む技術を持つ人がもういないのだそうです。
ここの水は、武蔵野市では使われなくて、和田掘給水所へ送水していて、そこから家庭に送水されています。
貯水池

玉川上水跡を歩く 武蔵野市

玉川上水の碑
都道7号線は通称「五日市街道」と呼ばれます。德川家康入府の後、秋川筋の五日市(現在、あきるの市)や檜原から木材や炭などを江戸に運ぶために整備されました。都道123号線が五日市街道にあたるところに玉川上水に架かる境橋があります。
旧千川上水分水口跡
その境橋の近くに旧千川上水分水口跡があります。
●旧千川上水分水口跡
千川上水は江戸六上水のひとつで、元禄9年(1696)徳川綱吉の時代に開削された水路です。
そもそもの目的は江戸の小石川御殿、湯島聖堂、上野東叡山、浅草寺に水を引くことでした。享保7年(1722)に玉川上水、神田上水だけを残し、千川上水をはじめ、青山上水、三田上水、本所上水(亀有上水)の4上水を廃止しました。
明治以降は、水車による精米・精麦、製粉が行われるようになったほか、紡績所や製紙会社、印刷局などの工業用水としても利用されました。
千川上水は、境橋で玉川上水から分かれ、五日市街道に沿って北東へ向かいますが、標高64mの境橋から、標高28mの巣鴨まで30キロ弱を尾根筋に沿って武蔵野台地を下って流れます。
境水衛所跡
●境水衛所跡
境水衛所と千川分水口
境橋の下流に境水衛所跡が残っています。 明治32年(1899)淀橋浄水場が竣工するのに先立ち、同27年に設けられた8ヵ所の水衛所の一つで、分水口の管理や水路の点検、芥・不用物の除去など江戸時代に水番人がやっていた仕事を受け継ぎ、敷地内に住まい、常駐していました。
昭和40年(1965)淀橋浄水所の閉鎖にともない、小平監視所から下流の水衛所は閉鎖又は統廃合された。閉鎖された境水衛所跡にはかつて芥留めに使用されていた鉄製の柵が残っています。
独活の碑
●うど橋の「独活うどの碑」
上水右岸の橋詰めに、碑文があります。読みにくいですが次のように彫られています。
「...今から180年位前より、この土地の人々は...落葉の温熱で軟化独活(なんかうど)を栽培して生活していた。近年栽培法がいろいろと改良されて早期に大量出荷され、 全国に東京独活特産地として有名になった。このたび由緒ある玉川上水への橋をかけるにあたって、特産地の名をとどめるため独活橋と命名されたものである」
このあたりは東京独活(うど)の特産地でした。昭和40年代には生産量3000トン。全国生産の4割を占めていたと言われます。

小金井市文化財センター(旧浴恩館)

玉川上水跡を、小金井公園正面口から三鷹駅前まで歩きました。
浴恩館公園の小金井市文化財センター(旧浴恩館)に行きました。
浴思館
今は小金井市文化財センターとして使われている建物は「浴恩館」と呼ばれ、昭和3年(1928)、京都御所で行われた昭和天皇即位大嘗祭の神職の更衣所を「日本青年館」が譲り受け移築したものです。
日本青年館の設立理事だった田澤義鋪(たざわよしはる)は、昭和8年(1933)、故郷佐賀の後輩で無二の畏友だった下村湖人(しもむらこじん)を、浴恩館に開かれた青年団講習所の所長として呼び寄せて、実践教育に当たらせました。
下村湖人は、小説『次郎物語』の作者として知られています。
しかし、全国から有為の青年が集まる浴恩館は、軍事教練に格好の場として軍部に目を付けられました。下村湖人は、昭和12年(1937)に講習所所長を辞任します。以後、浴恩館は戦時体制に組み込まれます。
戦後、再び青年教育の場として、また、ユースホステルとして復興しますが支えていた農村の青年が減少していき消滅してしまいます。
維持困難に陥った日本青年館は、教育の場として運用してもらうことを条件に、昭和48年(1973)に小金井市に売却します。
小金井市は青少年センターとして開館、平成5年(1993)に、小金井市の郷土資料を展示収蔵する文化財センターとして開館しました。昔のままの部屋も一部残されています。
文化財センターは小金井市内の考古資料・古文書・民具をもとに、小金井市の歴史や生活について展示しています。
縄文時代は土器を中心に発掘されていますが、弥生時代のもはありません。府中あたりでもそうだということで、それは驚きでした。
小金井桜の資料は充実していました。小金井桜を有名にしたのは、多く小金井桜を描いた広重ですが、広重はおそらく小金井には来ていない、と説明を受け、これも興味深く思いました。
空林荘のあったところ
下村湖人の『次郎物語』はここで執筆されたということです。園内に「空林荘」という宿舎がありそこで、執筆しました。ところが、その空林荘は、昨年のこと、平成25年(2013)2月23日夜、全焼しました。付け火だったようです。残念です。
『次郎物語』は子どもの頃、確か映画で見ました。内容は覚えていません。
一人の少年が青年へと成長する姿を、家族や教育、道徳など近代日本のかかえる様々な問題をからめて描いた作品です。特に『次郎物語』の第5部は「浴恩館」がモデルとなって「友愛塾」として登場しています。そこに登場する朝倉先生が下村湖人だと言われています。
空林荘の案内
戦後、中学校教科書にも採録され、映画化もされました。題名だけは、頭に残っています。

『道三堀のさくら』 「水売り」

山本一力の『道三堀のさくら』((角川文庫)の冒頭にこのような記述があります。
「道三堀のさくら」
「銭瓶橋は、道三堀の堀口に架かる橋である。橋の両岸には番所があり、荷を積んで行き交う船を1杯ずつ吟味している。御城で使う物資といえども、素通りは許されなかった。
ただひとつ、吟味をされにとどまっていられたのが、水船である。
銭瓶橋たもとの両岸には、水道の余り水を吐き出す「吐き樋(とい)」がある。この樋から流れ出る水を汲み入れるのが、水船だ。
元旦の朝、6ツには何杯もの水船が銭瓶橋のたもとに集まっていた。
御濠をへだてた一石橋にも同じような吐き樋がある。銭瓶橋とは取水の鑑札が異なるが、この橋の周りにも何杯もの水船が群れをなしていた。」
『道三堀のさくら』に描かれたのは,「水売り」の仕事を生業とする龍太郎の生き方です。
江戸には,神田上水と玉川上水を主流とする水道が張り巡らされていました。
ところが,大川(隅田川)を隔てた本所深川まではその上水を伸ばすことができませんでした。井戸を掘っても,その水は塩分が多く飲めません。そこで必要とされる仕事が「水売り」だったのです。上水の末端から堀に流れ落ちる水を船で受け止め,その水を売り歩きました。
上水は江戸市中を給水された後、日本橋に近い日本橋川に架かる一石橋や 銭瓶橋脇で余水を排水していました。
私は、玉川上水の余水が銭瓶橋の所で落ち、一石橋は、神田上水だと思うのですが、「一石橋脇で玉川上水の余水を日本橋川に滝のように排水していた」という記録の方が多いです。
玉川上水は、四谷見附橋で、半蔵門の方へ進む流れと、堀を渡らす、赤坂に向かう流れに分かれます。赤坂に向かう流れは、溜池を抜け。虎ノ門で堀を渡り、桜田門から和田倉門へと進み、道三堀とは少し離れて進み、最後は銭瓶橋の所に来ます。
神田上水は、小石川後楽園を抜けて、水道橋懸樋を通り、神田橋でひとつは日本橋川にそって一石橋へ、ひとつは、神田橋を越えて銭瓶橋の方へと流れています。
銭瓶橋は、両方の上水の水が流れていたのかもしれません。
水売りにも二通りあります。『道三堀のさくら』の龍太郎のように自分の水船を持って、水仕入れ代のみを元締めに納める者と、水船を借用し元締めに水仕入れ代と借用代の両方を支払っている者です。龍太郎は、親が苦労して、資金を溜め、大枚のお金を支払い手に入れた70荷(役3,220㍑)の水が運べる中型船を持っていました。1度の水汲みで20軒も多くのお得意に売ることができました。
「水船を深川各町の船着き場に横付けしたあとは、担ぎ桶に汲み入れて売り歩く。天秤棒の前後に堤げた、細長い水桶ふたつで1荷である。」「
「水売りから買った水を、長屋の連中は始末して使った。洗い物などには井戸水を使い、買った水は飲み水と料理用に限った。どれほど貧しい家にも一荷入りの水がめがあり、数日おきに水を買った。というのも夏場なら二日、冬場でも四日しかもたないからである。使い残したとしても日が経つと水が傷んだ。急場の折は川の水を煮沸して使うとか、水の中のゴミを白木綿の水こしで除くなど、江戸時代の庶民は自分の五感で判断するという智恵に加えて数々の工夫を凝らしていたのである。」
鈴木春信《水売り》
鈴木春信の絵暦「水売り」です。天秤棒の前後に堤げた「水売り」の姿です。
左側の看板のところに明和2年(1765)の大の月を表しています。
もうひとつ、道三堀に桜並木があったとのことですが、これは作者の創作なのかもしれませんが、小説のイメージにもマッチして、とても鮮やかです、
「掃除の行き届いた道三堀の道は、端から端までが桜並木だ、いずれも元禄初期に植えられた桜で、文化時代のいまではkすっkり古木になっていた。」
「道三堀の桜は咲いたとき以上に、散り際の見事さで知られていた。」 
ちなみに『道三堀のさくら』は、文化9年のお話です、あったのだろうなと思います。

小石川後楽園の花菖蒲田

小石川後楽園へ花菖蒲を見に行きました。660株の花菖蒲が植えてあるそうです。
小石川後楽園は江戸時代初期に水戸徳川家が神田上水の分流を引き込み、明代の儒学者の指導を仰いで造られた庭園です。
小石川後楽園の菖蒲園
後楽園の花菖蒲
「後楽園」の園名は岳陽楼記の「国家の憂いは人より先に憂い 楽しみは人の後に楽しむ」に由来しています。後楽園は昭和27年3月、文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定されています。
この地は小石川台地の先端にあり、神田上水の分流を引入れています。
井の頭の池を源水とする神田上水は、途中善福寺池から流れ出る善福寺川,妙正寺池から流れ出る妙正寺川の2流を合わせ,淀橋で玉川上水の助水を入れます。そして、目白下大洗堰で上水と余水(江戸川)に分水されます。井の頭池から5里ばかりです。
分水された神田上水の流れは、水戸屋敷へと流れます。
小石川後楽園 神田上水跡_edited-1
水戸屋敷に入った上水は邸内の飲料水や生活用水及び庭園の池水に使われ屋敷を出ます。
水戸屋敷を出た上水は御茶ノ水の懸樋(水道橋)で神田川を横切り、まず神田の武家地を給水するのです。
小石川後楽園の園内に、神田上水の跡の流れがあります。

呉服橋界隈

道三堀と銭瓶橋があった場所
一石橋の近く、道三堀のあった通りです。少し先に銭瓶橋がありました。
その先へ行くと呉服橋です。
広重が描いた東京名勝図会「呉服橋見附門」の絵があります。
広重「呉服橋」東京名勝図会より
呉服橋付近の切り絵図を借ります。北町町奉行所も近くです。
呉服橋御門北町奉行所の入った切り絵図
呉服橋門は寛永6年(1629)に陸奥国または出羽国の大名によって枡形門が築かれました。
呉服橋門は濠の外域に幕府御用達の呉服商が多く住んだことで名付けられました。
枡形のすぐ近くに、館林の秋元家や熊本の細川家の上屋敷、北町奉行所などがあります。さらにまわりのは、大名の上屋敷が並んび、この城門の内側が呉服橋御門内と言い、大名屋敷が立ち並んでいたころから大名小路とも呼ばれます。
一石橋、銭瓶橋、道三堀も確認しておきたい所です。
大正3年(1914)に、東京停車場より東京駅が開業しました。戦後になって外堀が埋め立てられ、昭和29年(1954)に呉服橋も撤去されます。昭和37年(1962)には八重洲口広場拡張工事によってビルが立ち並びます。
東京駅から八重洲を望む
まだ、外濠が残っているころの東京駅の絵があります。呉服橋、八重洲橋がまだしっかりとあります。
バラのグリーンカーテンのパソナビルの近くに呉服橋跡説明板があります。
呉服橋の案内板
「御府内備考(ごふないびこう)」という史料の「呉服橋御門」の項には、橋の由来が次のようにあります。
『古くは後藤橋といへり。【寛永中江戸絵図】呉服町へ出る御門なれば呉服橋と唱へ来れりと。【江戸紀聞】今按に、寛永の頃後藤橋と称せしものは、御門外に呉服師後藤が宅地あるよりの私の呼称なるべし。(後略)』
これによれば、呉服橋と呼ぶのは呉服町へ出る門に架かるためで、また寛永(1624~43)頃に後藤橋と呼んだのは門外に呉服師の後藤家の屋敷があったためとしています。
なお、外堀が昭和二十九年(1954)頃から埋め立てられたため、呉服橋も含め外堀沿いの橋は次第に姿を消していきました。平成9年3月 千代田区教育委員会》

一石橋の「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」

♪しとしとぴっちゃん しとぴっちゃん しとぴっちゃん
ご存知、『子連れ狼』、萬屋錦之介主演のテレビドラマ主題歌です。
作詞・小池一雄 作曲・吉田正で、橋幸夫が歌いました。
大ヒットしたので、『子連れ狼』と言えば、「しとしとぴっちゃん」になりますが、この歌の前に、バーブ佐竹が歌った『ててご橋』がありました。
♪ててごとははごと ごとごとと いっこくばしでまてばよい
ててごとははごと ごとごとと いっこくばしで まてばよい
まいごになったら どこでまつ
ててごとははごを どこでまつ
ててごとははごと ごとごとと いっこくばしでまてばよい
作詞・小池一雄 作曲・渡辺岳夫です。
ててごと ははごと ごととごと
五斗と五斗とで 一石じゃ 一石橋で待てばよい
一石橋の「満よひ子の志るべ」正面
一石橋の南詰めに、「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」と書かれた石標があります。
江戸時代、このあたりは大繁華街で、迷子がたくさん出たようです。
当時は、迷い子は町内が責任を持って保護するという決まりがあり、付近の有力者が世話人となり安政4(1857)2月に「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」が建てられました
一石橋 「満よひ子の志るべ」右面
右側には、「志(し)らする方」、左側には、「たづぬる方」と彫り、上部に窪みがあります。利用方法としては、左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙をはり、通行人の中でそれを見て、知っている場合は、その人の特徴を書いた紙を窪みに貼って迷子や尋ね人を知らせたということです。
「満よひ子の志るべ」は浅草寺境内や湯島天神境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に設置されたようですが、現存するものは一石橋のこれだけです。
そういう石標が建っている一石橋。まいごになったら・・・・。
♪まいごになったら どこでまつ  ♪いっこくばしでまてばよい

「八ツ見のはし」こと「一石橋」と「銭瓶橋」

道三堀が外濠にかかるあたりの風景を広重の絵で偲んでみます。
もちろん、今は、川の上は高速道路が走り、道三堀は、埋め立てられて銭瓶橋の案内もないし、ビルに囲まれ、江戸城はもちろん見えません。
かつてそうした橋が8つ見えたということで、「八ツ見のはし」と呼もばれる「一石橋」から見てみましょう。
歌川広重画「八ツ見のはし」
歌川広重画「八ツ見のはし」(名所江戸百景より)
一石橋は日本橋川と外堀、道三堀が交差する場所にあり、「八見橋」の通称のとおり、一石橋自身を含めて八つの橋を見ることができたといいいます。
それは、外濠の常磐橋・呉服橋・鍛冶橋、日本橋川の一石橋・日本橋・江戸橋、道三堀の銭瓶橋・道三橋が見渡せたのです。江戸の名所のひとつで、一石橋は、「八つ見橋」や「八橋」とも呼ばれていました。
広重の絵にも、一石橋の先には外堀が左右(南北)に交差し、奥は道三堀が続いています。江戸城内に物資を運送する際に使用したという道三堀に架かるの、手前が銭瓶橋です。その左側(南岸)には、大名小路に面する熊本藩細川家上屋敷などが見えます。江戸城と大名屋敷、行き交う舟、水都といわれた江戸の様子を見ることができます。
一石橋の名前の由来としては次の2つがあげられます。
ひとつは、北岸にある後藤庄三郎の金座と南岸の後藤縫殿助の呉服所との中間にあったことから、二つの後藤(五斗)を合わせて一石橋という橋名になったというものです。
もう一つは永楽銭一貫文を米一石と交換したため橋名としたというものです。
永楽銭一貫文は、幕府が通用禁止の発令を出して、このあたりで米1石と交換したのでしょうか。
ここで、少しそれて、すぐそばにあった、銭瓶橋の名前の由来を千代田区の案内から引用します。
「昔ここに堀があり、そこに架かっていた橋を銭瓶橋といいました。堀(道三堀)を掘った時、地中より銭の入った瓶を掘出したので橋の名となったともいい、又一説には、この辺で永楽銭の引換えをしたので、銭替橋といったとの説もあり、あるいはここで両替をするものが市をなしていましたが、あまりに多くなり仲間をきめて、両替をしたので銭買橋といったともいわれています。又夜中、江戸城の奥女中が城外に出るには通行切手がなくては外に出られなかったが、”銭かいばしを玉曼ぬけ”という句があるように、この橋の下からは切手なしで船でぬけ出られたので、この名がついたという説もあり、『そぞろもの語』(寛文18年〔1664〕印本)に天正19年(1591)伊勢与市という者が銭瓶橋の近くで風呂屋を開業、永楽1銭の代金をとったとかかれています。明治42年(1909)に埋立てられ今は濠もなく橋もなくなり銭瓶の名だけ残っています。昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会」
「永楽銭の引換えをした」というのが、どちらの橋にも関わっているのが興味深いです。
広重「一石橋」(富士三十六景より)
広重にはもう一枚「一石橋」があります。「富士三十六景」のシリーズです。
この絵は広重が没した安政3年(1858)に下絵のみは完成していましたが、色指定までは出来ていなかったようです。弟子たちが完成させ、翌年に刊行しtということです。
絵の手前に一石橋がきちんと描かれ、次に見えているのが道三堀の銭瓶橋、その向こうに小さく道三橋、さらに江戸城が望めます。

和田倉門から道三堀

現在の和田倉門橋近くに「辰之口」がありました。「形ち龍の水を吐出すが如くなれば」と「御府内備考」は名前の由来を記しています。
江戸図屏風の和田倉門あたりを見ると図のようになっています。
和田倉橋、和田倉門あたりの絵図
辰の口辺りには評定所や勅使接待のための伝奏屋敷(でんそうやしき)もありましたが、ここから現在の永代(えいたい)通りに出てほぼその道筋を東流し,常盤橋下手で外堀と合流していた道三堀が流れていました。
この道三堀が開削されたのは、德川家康のお国入り直後です。
この堀は、家康最初の堀川開削工事とされ、『東京市史稿 市街篇』では、天正18年(1590)8月18日の『天正日記』に記されている「御城下はしぶしんはじまる。ふないりぼりふしんはじまる」ここには船入堀とありますが道三堀のこととしています。
そして、道三堀と合わせ、その延長上の水路(現日本橋川の一石橋、日本橋、江戸橋部分)も合わせ開削、平川をそちらに付替えた、とも言われます。
堀は荷揚げ施設を考慮した水路を江戸城の正面に導き、食料や資材などを運んだり、その他、戦略上大きな役割をもった運河でした。
道三堀の入った切り絵図
古地図をみると、辰の口から道三橋にかけて北側に 「小普諸方定小屋」「作事方定小屋」などがみえます。
道三堀の名は、幕府の典薬頭、今大路道三の屋敷があったことから来ています。
堀には「道三橋」「銭瓶橋」がかかっていました。
そしてこの堀の両岸は諸国からの商人が集まって来て店を構え、日増しに繁盛し、城下町を作っていきました。このあたりに遊女屋まででき、柳町とよばれたこともあります。
日本初と言える銭湯もこの流れの先、銭瓶橋のほとりにできています。
『慶長見聞集』(三浦浄心)に、天正19年(1591)の夏頃、伊勢出身の与一という男が銭湯を建てたという記録が残されています。 
おもしろい話として、この水路を利用した人に江戸城御用下掃除人で大奥不浄物を一手に引き受けた葛西権四郎という人がいます。葛西権四郎は、道三堀を利用して糞尿を舟に積み込み葛西の農村部に運び込んで財を築きました。江戸時代は農地の肥料として下肥即ち糞尿は貴重なもので江戸の街には各地の農民が汲み取り権を持ち、舟に積み込み農村に回漕して利用しました。
なお、道三堀は明治43年(1909)に埋め立てられてしまい今はまったくその痕跡もありません。
道三堀は江戸前島の根元を開削、隅田川東岸の小名木川に連続、旧利根川河口、房総方面の物資(行徳の塩など)を江戸城和田倉に集積する運河の機能を担いました。
この和田倉の地には当初、蔵があったので「蔵の御門」と呼ばれ、元和6年(1620)枡形門が築かれました。
この門は関東大震災で崩壊しましたが、橋は残りました。その後、橋の腐朽が進んだため、昭和28年(1953)に、橋脚は現在の鉄筋コンクリートのに架け替えられましたが、橋は木橋を復元しました。橋を渡り、和田倉門を入ると、枡形の石垣がきれいに残っています。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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