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中町公園藤と宮城道雄記念館のつつじ

南蔵院から宮城道雄記念館の方へ行ってみました。
このあたり、江戸時代、今、新宿高島屋の近くにある天竜寺がこの一帯の地所を持っていました。火事で天竜寺が新宿四丁目に移ったあと、幕府徒組屋敷となり、北側を北御徒町、中央部を仲御徒町、南側を南御徒町としました。
明治5年(1872)に「御徒」を略し、「牛込」を冠しましたが、 明治44年に「牛込」も略し、現在の北町、中町、南町となりました。
宮城道雄記念館は中町です。
宮城道雄記念館の後ろあたりが、大田南畝生誕の地だったと言われています。父親が徒組dした。
宮城道雄記念館の『検校の間』は、登録有形文化財(建造物になっています。記念館とこの建物には、入ってみたいと思っているのですが、まだ果たしていません。
宮城道雄記念館のつつじ
今日も道の散策だったので前の中町公園へ。
藤が見事に咲いていました。ここの藤と、宮城道雄記念館のツツジを載せます。
牛込 中町公園の藤の花
中町公園の藤の花アップ
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牛込神楽坂駅そばの南蔵院のミズキ

大江戸線の牛込神楽坂駅そばの南蔵院の境内に大きなミズキ(水木)の木があります。ちょうど白い花を咲かせていました。
南蔵院のミズキ
南蔵院 ミズキ 少しアップ
ミズキの名前は、樹液が多く、早春に切ると水が滴り落ちるからと言われます。
葉は互生ということですが、枝先に集まって輪生状に付くので、よく観察しないと互生とはわかりにくいです。花は、枝先に散房花序を出し、白い小さな花をたくさん付けます。花弁は4枚です。
ミズキの花
真言宗豊山派寺院の南蔵院は御府内八十八ヶ所霊場の22番札所です。
御府内八十八ヶ所霊場は、四国遍路(四国八十八ヶ所)を模して宝暦5年(1755)頃、多聞院に墓のある正等和尚(1703-1774)が開創したと伝えられます。
南蔵院は、牛込城主の牛込勝重が正胤法師に請い、元和元年(1615)吉祥山福正院と称して、早稲田に創建したと伝えられます。弁財天二体を上宮・下宮として祀っていましたが、延宝9年(1681)御用地となったため、牛込の統治へ移転、天谷山竜福寺南蔵院と改号しました。
 第二次大戦で焼ける前の南蔵院には、弁天堂、聖天堂、阿弥陀堂、稲荷社、寺薬王院、 書院と本堂と庫裏、絵馬堂、門番所などの建物があったようです。
その弁天堂があったことから前の道は弁天坂と言われ、今もその名前は残っています。
「南蔵院前脇から町内入り口への坂は南蔵院に弁財天が安置されていることから、弁天坂と呼ばれる。(町方書上)」

高野山奥の院へ参道の供養塔群

一の橋から続く奥之院参道には、鬱蒼とした杉木立の中に、戦国大名をはじめ、企業創業者など有名人、20万以上の供養塔が並びます。右を見ても左を見ても、名前を聞いたことがある人ばかりです。ついきょろきょろとしてしまいます。。
家康の二男の結城秀康の墓所
結城秀康の墓です。  
結城秀康は、その名前に秀吉の「秀」と家康の「康」を持つように、家康の次男で、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の養子(いわば人質)という二人の天下人を親に持ち、後に結城晴朝の養子となって名跡・結城家を継ぎ、関ヶ原の戦い後には越前藩主となった人物です。
どちらかと言うと、悲劇の人です。
母は正室の下女であったお万の方です。しかも双子だったと言われます。
『徳川諸家系譜』の史料では双子の片割れは生後すぐ亡くなったと伝えますが、生後すぐ知立神社に預けられ、のちに神官となる永見貞愛がそうであるという説もあります。
1579年、5歳の時に兄・松平信康が自刃させられます。この時点で秀康は家康の一番年上の男児となりますが、後継者にはなれませんでした。
秀康は多くの男子を残し分家を持ちます。兄弟順に津山松平家、福井松平家、松江松平家、前橋松平家、明石松平家の五家が分かれ、さらに福井藩から多くの分家を排出します。
津山藩10万石。森家の後を継ぎ、幕末まで続きます。
豊臣家の墓所
豊臣家の墓所です。
豊臣家の墓所は他の武将よりも少々広い敷地にあります。
現在名前が確認されているのは、母のなか、弟の大和大納言秀長夫妻、秀次の母である姉のとも、長男の鶴松、それに淀君の逆修碑(生前にあらかじめ用意されたもの)と推6基です。
忠臣蔵の 浅野内匠頭の墓所です。
浅野内匠頭墓所
浅野家は秀吉の妻・ねねの実家(養女)です。浅野長政は5奉行の一人でした。関ケ原の合戦では東軍につき、浅野本家は広島に入封、分家は赤穂に封ぜられました。
浅野内匠頭は吉良上野介を殿中で切りつけ、将軍徳川綱吉の命により即日切腹させられた、忠臣蔵の殿様です。赤穂47士供養塔もあります。
芭蕉句碑
芭蕉の句碑です。彫られた文字が気に入りました。  
「 父母のしきりに恋し雉子(きじ)の声 」 
45歳の時、金剛峯寺で詠まれました。 
行基の歌が下敷きになっているようです。
「 山鳥のほろほろと鳴く声聞けば 父かとぞ思ふ 母かとぞ思ふ 」(玉葉集) 
高遠 内藤家墓所
今の新宿御苑が下(中)屋敷だった信州高遠藩の内藤家の墓所です。
次回機会があれば、人物を決めて巡りたいと思います。

玉川の「流水灌頂」

灯籠堂へ向かう途中に、御廟橋があります。
流れる川は玉川です。奥の院裏の霊峰楊柳山から流れ出る清水だそうです。
御廟橋は、36枚の橋板で造られていて、全体を1枚と数えて金剛界三十七尊を表しています。それぞれの裏面には種子(梵字)が刻み込まれています。
御廟橋のすぐ上流の川床には卒塔婆が立てられていました。
水難や難産で死んだ人たちを供養するためのものだということで、「流水灌頂(りゅうすいかんじょう)」と言います。
御廟橋は、参詣する人たちを弘法大師が迎え、帰りには、見送る場所で、この橋の所で、必ず、御廟に向かって合掌をします。
I御廟橋から玉川を見る。

御供所から燈籠堂まで「お練り」

奥の院前でバスを降り、奥の院へ向かいました。
御供所に着いくと、まだ8時半。そのまま燈籠堂まで登り、お参りして、もう一度、御供所へと降りました。
高野山を開いた弘法大師・空海の入定が、旧暦3月21日。それに合わせ、20日夜から21日にかけて、空海の遺徳をしのぶ「旧正御影供」が営まれます。
そして、4月21日は、午前9時ごろ、僧侶約30人が、御供所から燈籠堂まで、約300メートルを歩く「お練り」が披露されます。
御供所の前には多くの信者の人が待っていましたが、なかなか出で来られませんでした。外国からの団体もたくさんおらます。
9時15分、お練りが始まりました。燈籠堂まで後ろをついて歩きました。
高野山 お練り 1
高野山 お練り 2
高野山 お練り 3
燈籠堂は、治安3年(1023年)、藤原道長によって、現在の大きさの燈籠堂が建立されたということです。 
堂内正面には千年近く燃え続けていると伝わる二つの「消えずの火」があります。
一つは祈親上人が献じた「祈親灯」で、もう一つが白河上皇が献じたといわれる「白河灯」です。
この祈親灯は、祈親上人のすすめで、貧しい家の娘が大切な髪を切って献灯したとも伝えられ、「貧女の一灯」とも言われます。それに対して白河灯を「長者の万灯」と呼ぶのだそうです。ここには、全国から献上された16000余りの燈籠がおさめられています。
お練りの僧侶の誦経の声が奥の院に響きわたります。

高野山は桜が満開

高野山に行きました。
こちらはやはり寒いのでしょう。桜が咲いています。今年2度目の桜見物です。
高野山 西室院
高野山 桜 南院
高野山で驚いたのは、旅人の多くが外国の人でした。大きなリュックで、元気です。
高野山での宿坊は龍泉院でした。
龍泉院
宿坊とは、宿泊施設を備えた寺院のことです。宿泊し、精進料理を頂いて、早朝の勤行を体験します。
朝の勤行、午前6時、明かりが抑えられた本堂で、住職の読経が始まります。声の響きはまさに荘厳です。体の奥まで響きます。
今日はお練りがあるから、9時前には奥の院に行った方が良いと言われ、8時過ぎに山門を後にしました。

司馬遼太郎記念館

司馬遼太郎記念館に行ってきました。やっと念願叶ったというところです。
大阪府東大阪市下小阪の自宅敷地に設立された大阪府の登録博物館です。
門を入ると、雑木林風の庭です。司馬遼太郎が好きだった雑木林のイメージでつくられています。緑豊かで、落ち着きます。
司馬遼太郎 居間
歩くと、書斎が見られます。机には万年筆や推敲に使った色鉛筆などがそのままに置かれています。
司馬遼太郎記念館の入り口付近
館内に入り、感動は、やはり大きな書架です。写真で見ていましたが、その部屋に立つときりっとしました。高さ11メートルの吹き抜け空間に、大書架がすてきなカーブで広がります。
自宅にある約6万冊の蔵書世界をイメージするため、約2万冊の蔵書を展示してあるということです。
この雰囲気で、本に囲まれて暮らす、すてきだなと思います。この豊かな安定感、安藤忠雄氏は、やはりとても大きな建築家だなとあらためて思いました。
ガラスの向こうに本棚が見える
その書架の奥のコンクリートの壁のシミ、確かに坂本龍馬のシルエットです。偶然だそうですが、できすぎ感があります。
庭に面したカフェからは木立の風景を眺められます。珈琲とサンドイッチを頂きました。
館内のカフェで珈琲とサンド
外に出て庭を歩くと、司馬遼太郎自筆の歌碑、花供養碑がありました。
司馬遼太郎 碑

小金井公園 桜の名所

新宿御苑、後楽園、六義園といった大きな公園は、大名の屋敷の庭園とか、屋敷そのものの跡地とかです。上野公園や、芝公園などのように寺社所有地の開放とか、清澄庭園のように財閥からの寄付などもあります。
小金井公園へ行きました。
砧・神代・小金井・舎人・水元・篠崎・駒沢・石神井といった公園は、昭和15年の2600年の記念事業で計画された緑地です。
小金井公園は、その後、軍の飛行機を飛ばすといった防空計画の名のもとに整備され、戦後、は、一時、東宮仮寓所に使用されていました。
昭和29年(1954)に都市公園として開園しました。
小金井公園の桜と菜の花
現在、面積が77haあります。日比谷公園の4.8倍、上野公園の1.4倍に相当します。
歩いて見てその広さにびっくりします。
ちなみに、国営昭和記念公園は、小金井公園の2倍近い大きさがあるどうでで、一度道に迷って、動けなくなったことがありましたが、それが東京都では一番大きな公園です。
小金井公園西側には南北に小金井街道(東京都道15号府中清瀬線)が、南側には東西に五日市街道(東京都道7号杉並あきる野線)が通っています。その五日市街道に沿って玉川上水が流れています。
園内には、1,800本の桜が植えられた花見の名所として人気があり、日本さくら名所100選に選定されています。
江戸時代、小金井の玉川上水の両岸の桜並木は名勝「小金井桜」として知られ、毎年春には観桜客でたいへん賑わいました。桜といえば、玉川上水の堤だったわけです。
明治22年(1889)に、甲武鉄道(後の中央本線)の新宿-立川間が開業しますが、小金井には駅がありませんでした。それでも、大正13年(1924)には、花見シーズンだけの仮乗降場が設けられるほどの人気でした。これが後に武蔵小金井駅となるわけです。
この玉川上水の桜並木は、元文2年(1737)に植えられたもので、大正13年1924)に史跡名勝天然記念物法により「小金井桜」として名勝に指定されました。
しかし、1950年代になると五日市街道が拡幅整備されるなどして交通量も増え、また桜並木も衰えて、かつての面影はすっかり消えていきます。一時は桜の木は少なくケヤキが多くなりました。
それに引き換え、玉川上水の目の前の小金井公園は。整備され、昭和29年開園すると、桜をはじめとする樹木も多く植えられます。
小金井公園の大きな大島桜
そこで、「桜の名所」の地位は玉川上水から小金井公園に完全に移ってしまいます
現在、玉川上水はの堤は、もう一度、かつての「桜の名所」の誉れを取り戻そうと、一部限定して、ケヤキの木を切って、桜を植える実験をしています。
玉川上水に新しく植えられている桜の木

天の川という桜

目黒川へもう一度行きました。目黒区民センターの5階へ行って窓から目黒川を見ました。
目黒川。上から見た桜
花びらが舞っていました。
そこから少し茶屋坂の方へ行くと、街路樹のひっつに天の川という桜がありました。
桜 天野川
桜の花は下を向いて咲きますが、この天の川だけは、上に向いて咲きます。枝もそうで、まっすぐ上にのび、樹形は細いほうき状になります。
天野川の枝

八百屋お七の伝承

お七の井戸
目黒雅叙園の入り口近くに「お七の井戸」があります。
この「お七」は、有名な八百屋お七です。
本郷駒込の八百屋の娘お七は、火事で焼け出された避難先で、寺小姓の吉三(あるいは吉三郎、正式には生田庄之介)と恋仲になり、吉三と引き離されたお七は「火事になればまた合える」と、自宅に放火し、捕らえられ、鈴ケ森で火あぶりの刑に処されました。
お七の火刑後、吉三は、目黒の明王院に入り、西運(さいうん)と名乗る僧侶となった、とここでは伝えられます。
明王院という寺院は、現在の目黒雅叙園エントランス付近から庭園に架け明治13年頃まであったお寺です。明王院境内には、念仏堂が建立され、そこには、お七供養の木彫地蔵が納められていました。そうした吉三とお七の伝承は隣の大円寺に伝えられています。
西運上人のお墓や念仏鉦も大円寺にあり、西運が行人坂を石畳の道にしたり、太鼓橋を架けたりをしたということも、大円寺に伝わります。
長くなりました。井戸のことです。
西運は、お七の菩提を弔う念仏堂を建立するため、明王院から浅草観音の間、往復十里(約40km)の道を、念仏を唱ながら隔夜一万日の行をなしとげたということですが、西運が念仏行に出かける前にお七の菩提を念じながら、この明王院境内の井戸で水垢離(みずこり)をとったその井戸だということで、「お七の井戸」と言い伝えられている井戸です。
雅叙園を目黒川の方に行くと、そこにはかつて太鼓橋が掛かっていました。 
この太鼓橋は。西運が念仏行の途中に多くの人々から浄財を寄進され、これを基金にして、行人坂に敷石の道を作るとか、目黒川に石の太鼓橋を架けるなど社会事業を行ったのだと伝えられます。
その前、行人坂、大円寺に入る前の道脇に、目黒区分化財になっている、目黒川架橋供養勢至菩薩石像がありますが、その台座、像両側面に、西運が、宝永元年(1704)に、目黒川に橋を架けたことが記されています。
このように、しっかりと、お七と吉三の伝承が定着しています。
このお七と吉三のことは、井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など様々な文芸・演芸において取り上げられました。
落語にもなっていて、火付けの話の展開はだいたい同じですが、裁判の話が出てきます。
老中土井大炊頭は、可憐な娘を火あぶりにするのはかわいそうだと思います。当時の江戸では火付け犯は15歳を過ぎれば火あぶり、15歳未満は罪を減じて遠島の定めでした。そこで土井大炊頭はお七の命を救おうと、奉行に命じ「お七、そちは十四であろう」と謎をかけさせます。しかし、お七は正直に「十六でございます」と答えてしまいます。それで、結局火あぶりとなってしまうというんのです。
これはもちろん後世の創作でしょうが、お七には数多くの伝承があるのが興味深いです。
目黒と同じ伝書が、例えば岡山の御津(みつ)町にあります。
そこにお七と吉三の墓があります。
ここでも、吉三はお七の供養の旅に出ています。そして、岡山のこの地、野々口 小山村で亡くなり、憐れに思った村人が、御津(みつ)町にお七と吉三郎のお墓を立てたということです。
東京では、白山の円乗寺にお七の墓があります。また、お七と吉三郎を共に祭る比翼塚が駒込吉祥寺にあり、これは有名です。
とにかく、岡山県にまで、お七の話があるということはもっともっと、八百屋お七の伝承は全国にあるのでしょう。とても興味深いです。

目黒川の桜並木

目黒川は世田谷区から 目黒区 品川区 を通って東京湾に注ぐ延長8キロの川。国道246号(玉川通り)にかかる大橋から目黒駅辺りまで約3.8キロの川沿い に約830本のソメイヨシノが植えられています。
目黒川の両面に桜
目黒川は、この橋から下流が開渠です。水は、新宿区の落合水再生処理場から高度処理水が放流されているということです。神田川もそうです。神田川は処理場の通っているので、分かりますが、目黒川には、どのように流れているのでしょうか。気になります。
太鼓橋から目黒川の桜
江戸時代に目黒川と記した絵図はないようです。江戸時代の絵図などでは、下目黒付近では「こりとり川」と記されています、「こりとり」は「垢離取り」の意味でこの川で身を清めてから目黒不動尊に詣でたことからきているようです。
目黒側の桜と川面

新宿御苑に花見

新宿御苑に花見に行きました。
御苑の桜満開
新宿御苑には、約65種1300本の桜が咲くと言われます。それも開花期が異なるので、長い期間色々な桜が楽しめます。
まずは、約420本と言われる染井吉野(ソメイヨシノ)を見に行きました。
もちろん、染井吉野以外の桜も咲いていました。
御苑の染井吉野
一般的には、染井吉野は、江戸彼岸桜と大島桜の交配種とされています。
江戸時代は、上野の山に吉野山の桜が移植され「吉野桜」と称されいましたが、上野精養軒前にあった吉野桜が他と少し異なるので文部省博物局の藤野技師が、新種として研究し、1900年に学会に発表したのが、駒込村の分村だった染井村から来た木だということで、「染井吉野」だということです。
御苑の大島桜
これが大島桜です。白いですね。新葉とともに咲く香りのある5弁花です。葉は塩漬けにし、桜餅(さくらもち)に使われます。
御苑の陽光
赤みが強いのは陽光桜(ヨウコウザクラ)です。
御苑のアメリカ
ほどよいピンク色の桜、「アメリカ」とありました。1925年にアメリカ・カリフォルニア州の農園から広まったといわれています。アメリカでは「アケボノ」とよばれていますが、日本では同名の品種があったため「アメリカ」と名づけられたということです。
御苑の太白
大きな白い花びら。太白(タイハク)です。一輪咲いていました。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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