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小石川後楽園のしだれ桜

小石川後楽園へ桜を見に行きました。久しぶりの小石川後楽園でした。こんなに広くきれいだったかなと思いました。
小石川後楽園
小石川後楽園は、德川家康の十一男で、水戸家の祖となった徳川頼房が、寛永6年(1629)、幕府(三代家光)より、小石川台地の突端にあるこの地一帯、約25haを拝領したことから始まります。
最初中屋敷でしたが、明暦3年(1657)の大火で江戸城吹上の上屋敷が焼失したので、小石川のこの地が上屋敷となりました。
南向きの台地の突端という絶好の敷地条件を活かし、明るく眺望に優れ、しかも神田上水を引き入れて豊かな水による景観を造りだしました。
後楽園の名前は、中国の「岳陽楼記」の中の「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに遅れて楽しむ」から名付けられました。
小石川後楽園のしだれ桜
園内にはしだれ桜が6本あり、入口正面のしだれ桜が特に見事です。さらに、このしだれ桜や大泉水を囲むように咲く20本以上のソメイヨシノが、庭園を春色に染め上げます。
ソメイヨシノは咲き始めたばかりでしたが、しだれ桜は見事でした。
小石川後楽園 桜
後楽園の桜の花びら
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新宿歴史博物館のお庭のタカトオコヒガンザクラ

新宿歴史博物館の庭にあるタカトオコヒガンザクラ
新宿歴史博物館のお庭のあるタカトオコヒガンザクラです。
満開でした。

歴博のタカトオコヒガンザクラの花びら

稲城市 穴澤天神社

よみうりランド前の駅から歩いて数分の所にある穴澤天神社に行ってみました。
創建は孝安天皇4年(紀元前423年)3月とされます。三沢川沿いの多摩丘陵の中腹が境内となっています。サクラは2分咲きといった感じですが。本殿の後ろ、そして、ガラスに映っているサクラを撮って来ました。ソンメイヨシノですかね。
稲城市 穴澤天神社
ガラスに映るサクラ

新宿中央公園のタカトオコヒガンザクラ ハクモクレン

タカトウコヒガンザクラ
あいにくの小雨でしたが、新宿中央公園のタカトオコヒガンザクラが満開でした。
タカトオコヒガンザクラは、旧高遠町、高遠城の桜です。 
旧高遠町は平成合併で、平成18年(2006)3月31日、隣の長谷村と共に伊那市に編入され伊那市高遠町となりました。
新宿区との関係は、江戸時代、現在の新宿御苑一帯が高遠藩主内藤家の下屋敷であったことによります。旧高遠町とは、昭和61年7月12日に友好提携を宣言しました。そのきっかけになったのは、この新宿中央公園にタカトオコヒガンザクラを移植したことです。
新宿中央公園のタカトウコヒガンサクラ
平成18年7月2日には、新宿区と伊那市は改めて友好提携を宣言しました。
タカトオコヒガンザクラは、長野県の天然記念物で、門外不出と言われますが、伊那市との友好関係で、この新宿中央公園と、新宿御苑、そして新宿歴史博物館、新宿文化センターにあります。
写真、タカトオコヒガンザクラの向こうに見えるのは、淀橋浄水場跡にあった、唯一残る遺跡、六角堂です。
高遠のコヒガンザクラとして有名ですが、高遠の桜は木も、花のサイズもコヒガンザクラより少し大きいです。
その白さがまぶしいくらいに感じられるのは、ハクモクレン(白木蓮)です。
新宿中央公園で映えるハクモクレン
花の咲く向きは上向きで、全開せずに半開状(開ききらない状態)で咲きせます。 花色は、花弁の内側、外側とも白く、花弁は6枚、萼片は3枚です。しかし、どちらも白いので見分けられません。
新宿中央公園ハクモクレン

上野公園で見た桜、赤葉桜・小松乙女・大寒桜

上野に「世紀の日本画」を見に行き、早咲きの桜も見ました。
赤葉桜(アカバザクラ)
赤葉桜(アカバサクラ)です。別名は紅葉李(ベニバスモモ)、紅李(ベニスモモ)です。
実はスモモのようです。でもバラ科 サクラ属ということでした。
赤紫色の葉と五弁の白花を同時に咲かせています。
小松乙女と小松宮の像
小松乙女(マツオトメ)
バラ科サクラ属です。
名前は、上野公園の小松宮銅像の前に原木があることから小松、かわいいから乙女です。
エドヒガンの栽培品種。ソメイヨシノによく似ています。ソメイヨシノより少し濃いです。咲き始めの花弁の先は濃いピンクが残りますが、開花が進むにつれて白色になってソメイヨシノのようになっていきます。
このコマツオトメとオオシマザクラの交配の結果生じたものが「ソメイヨシノ」であるという説もあります。普通、「ソメイヨシノ」はエドヒガンとオオシマザクラが親と言われますが、コマツオトメのようなエドヒガンの一種です。コマツオトメも含むエドヒガン系が一方の親ということが正しいようです。
小松乙女 

五条天神社での大寒桜
大寒桜 (オオカンザクラ)バラ科サクラ属の落葉高木です。樹高は5~10メートルくらいになります。埼玉県の安行にあった桜で安行寒桜とも呼ばれます。
寒緋桜(カンヒザクラ)と山桜(ヤマザクラ)、ないしは寒緋桜(カンヒザクラ)と早咲きの大島桜(オオシマザクラ)の雑種と考えられています。
普通の寒桜(カンザクラ)より大輪で、開花時期も遅い。
花は色が濃く、半開状で、下を向いて咲きます。とても目立ちます。

近藤勇と板橋・ 平尾宿

近藤勇墓所看板
JR板橋駅前に近藤勇の墓という、近藤勇の墓と言われる場所があります。
新撰組隊長近藤勇について少し見ておきます。
鳥羽伏見の戦闘で敗退した新撰組は満身創痍、大阪城に撤収しました。そのときは、すでに徳川慶喜は軍艦開陽で江戸に逃亡しており、幕軍将士は置き去りにされていました。
近藤勇は狙撃を受けて重傷を負っていましたが、土方歳三らと共に慶応4年(1868)1月14日幕府軍艦で江戸に帰還しました。
1月18日、徳川慶喜は江戸城で近藤勇、土方歳三と拝謁し、近藤を若年寄、土方を直参旗本寄合席格に任じ、徳川家功臣の姓、近藤には大久保、土方には内藤を贈り、新撰組には江戸大名小路(丸の内)に屯所を与えました。
2月12日、慶喜は突如上野寛永寺大慈院に蟄居謹慎し、新政府に対し泰順、助命嘆願の書面を提出します。
3月1日、近藤は勝海舟の許可を得て甲陽鎮撫隊を結成し、新政府東山道軍に将軍慶喜の泰順の意を伝え、衝突排除を旨として、甲府へと新撰組総数130名と出発します。しかし、甲府はすでに新政府軍の手に落ちていました。
3月6日、再び江戸にむけ敗走。
3月11日、永倉新八、原田左之助ら有力隊士は神田医学所で近藤に会い、会津藩を頼り抗戦するよう求めますが、認めらず、彼らは近藤勇と袂を分かちます。
4月1日夜、近藤勇ら一行は流山に向け出発。近藤は大久保大和守剛、土方は内藤隼人正義豊と名乗り、流山の味噌醸造業長岡家に本陣を置き、光明院など寺院に分宿して訓練を始めます。
4月3日、新政府東山道軍は流山の新撰組を包囲して武装解除と指揮者の同道を求めました。近藤勇は、大久保大和として越谷の東山軍本営に出頭したのですが、官軍隊員により身分が暴露されてしまいます。
4月4日、近藤の身柄は板橋宿の新政府東山道軍総督府へ移送されて行きました。
取り調べの後、近藤勇は平尾宿脇本陣の豊田家の屋敷に預けられます。
土方歳三は上京し、近藤救出のため、勝海舟や幕臣大久保一翁(大目付、若年寄。五代東京府知事)を訪ね、助力を懇願します。そして、6名の新撰組隊士と共に宇都宮へと行きます。
4月25日、近藤勇は平尾一里塚の板橋処刑場処刑場に運ばれ斬首されます。行年35。
近藤勇像
JR板橋駅前に近藤勇の墓という、近藤勇、土方歳三や新選組隊士の墓所というか供養の場所があります。
平尾一里塚付近で、斬首された近藤勇の首は京都に移送され、三条河原で梟首されましたが、胴体はここに埋葬されたと伝えられています。そこで墓所となっているのかもしれません。
近藤勇・土方歳三の碑
中央の細長い碑は、高さ3.6mあり、正面には「近藤勇 冝昌 土方歳三 義豊 之墓」と刻まれています。近藤と意見が合わず袂を分かった永倉新八が、協力者を得て建てたものです。ただ、近藤勇の諱(いみな)の「昌冝(まさよし)」が「冝昌」と逆に彫られています。
豊田家 平尾町脇本陣跡
近藤勇が処刑される前の20日間を過ごした平尾宿脇本陣豊田家の屋敷跡に碑が立っています。
豊田家幽閉だれていた近藤勇を慰めてくれたのは、豊田家の娘トミだったと伝えられています。大河ドラマ「新撰組!」にもそうした場面がありました。
近藤は、自分の娘タマと同じ年頃のトミを膝の上にのせて、かわいがっていたと伝わっています。トミは大きくなってからも、近藤の命日には墓参りをかかさなかったとも言われています。
豊田家は、德川家康が江戸に出てきたとき、三河から江戸へ移った家です。代々市右衛門を世襲し、名主も兼ねました。
江戸時代に見世物となったペルシャ産のラクダがこの家に逗留したこともあります。
豊田家の古文書はほとんど残されていませんが、加藤玄亀という板橋宿在住の文人が書いた「我衣」に、文政8年(1824)、長崎から運ばれてきたラクダ一対が江戸に入る前日、ここ脇本陣豊田家で観覧に供され、宿場始まって以来の大騒ぎになったと記されているようです。

観明寺の赤門と稲荷神社

平尾追分の先、観明寺には、加賀前田家下屋敷なごりの施設が2つ移転されています。
一つは、通用門として使用されていた赤門。もう一つは稲荷神社です。
観明寺 赤門
赤門と言えば、今や東大を象徴する「赤門」を思い出しますが、あの赤門はもと加賀藩前田家上屋敷の御守殿門です。文政10年(1827)、将軍徳川家斉(いえなり)の娘溶姫(ようひめ)が前田家に嫁いだ時に建てられました。当時、三位以上の大名が将軍家から妻を迎えた場合、その人・居所を御守殿と称し、表通りからその場所へ出入りする朱塗りの門を御守殿門と呼びました。赤門というのは、表門の黒門に対して呼ばれた呼称です。
観明寺で、赤門と呼ばれている観明寺山門は、元加賀藩下屋敷内の通用門であったとされています。
観明寺 稲荷社
境内に鎮座する稲荷神社は、もと加賀藩下屋敷内に祀られていた三稲荷の内の一社で、明治になって陸軍造兵廠が建設された際、当寺へ遷座されました。この神社の軒には、左甚五郎作と言われる龍の彫刻があるのですが、よく見えませんでした。

宇喜多秀家と前田藩

東光寺には、宇喜多秀家供養塔があります。
宇喜多秀家像
宇喜多秀家は、豊臣政権下の五大老の一人です。備前・美作(岡山県)57万4,000石の大名でした。
元服した際、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ、父親の直家の「家」とあわせて、秀家と名乗りました。秀吉の寵愛を受け、猶子となり、天正14年(1586)には秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室としました。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦です。秀家は西軍の副大将として石田三成、大谷吉継らとともに、西軍の主力となります。
伏見城攻撃では総大将として参加し積極的に戦いますが、同じ豊臣一門である小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅します。
秀家は伊吹山中に逃れた後、薩摩国の島津義弘などを頼って落ち延び、牛根郷(現在の鹿児島県垂水市)にかくまわれました。
しかし「島津氏が秀家を庇護している」という噂が広まったため、慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって家康のもとへ身柄を引き渡されます。
島津忠恒、並びに縁戚の前田利長の懇願により罪一等を減じられて死罪は免れ、駿河国久能山へ幽閉され、慶長11年(1606年)、八丈島へ配流となります。
その間に豪姫は備前岡山城より娘と数名の家臣を伴い、兄の前田利長のもとへ戻されました。
当時の金沢はキリシタン大名として名高い高山右近が客将として住み、多くの藩士がその影響を受けていた。日本中でも有数のキリシタン信者の町金沢で、豪姫も家臣と共に洗礼を受けていたと伝えられています。
豪姫は生涯、八丈島に配流となった秀家案じ続けました。
そして、夫の身を案じて悲しい思いをしている豪姫を哀れに思い、加賀三代藩主・前田利常(豪姫の弟)は幕府と交渉し、1年おきに八丈島に米などの物資を送ることが許されます。
つまり、前田藩は、秀家存命中はもちろんのこと、死語も、2年毎に白米70俵と35両の現金、衣類、薬品、雑貨などを仕送り続けました。それは、幕末まで、前田家から八丈島の秀家子孫に対する援助が続けられたのです。
寛永11年(1634年)豪姫は金沢城鶴の丸でその数奇な運命を閉じます。享年61。法名は「樹正院殿命室寿晃大禅定尼」。葬儀は宇喜多氏の菩提寺、浄土宗大蓮寺 で行われまれました。
八丈島の宇喜多家は、長男秀高(孫九郎)から2家が、次男秀継(小平治)から5家が分かれ、加賀前田家の援助を受けながら島で存続しました。
徳川幕府が滅び、世も明治と改まった翌年(1869)の4月、明治政府より八丈島の宇喜多一族赦免の布令が発せられました。明治3年(1,870)8月、宇喜多一族71名は前田家のさしまわした便船に乗り、東京へ向かいました。
品川に入港した宇喜多一族は、一時本郷の法真寺に50日ほど滞在ののち、前田家より板橋の加賀藩江戸下屋敷内に移ることができました。
宇喜多秀家 供養塔
明治6年(1,873)、明治政府は宇喜多家に加賀藩下屋敷跡地に約2万坪の土地を与えました。
秀家の供養塔は当初その宅地内に建立されましたが、区画整理や戦災の影響で東光寺境内に移され、現在に至っています。
<宇喜多秀家供養塔>
板橋区登録有形文化財(歴史資料)平成11年3月10日登録 
供養塔は小松石製で、「秀家卿」の文字が隷書(れいしょ)で彫られていることや、両脇の梵字が本式の薬研彫(やげんぼり)で彫られているなど、腕の良い職人によって造られたことがうかがえます。
秀家供養塔の「秀家」の彫り

加賀前田家 江戸藩邸

板橋宿 地図
板橋宿を散策するのに忘れてならないのは、加賀藩下屋敷です。
加賀藩の江戸藩邸は、慶長10年(1605)、3代藩主前田利常が家康より和田倉門外の辰口に屋敷を賜ったのが始まりです。元和2~3 年(1 617~8) 頃には、本郷に屋敷地を拝領してこれを下屋敷とし、辰口邸を上屋敷と定めています。ちなみに中屋敷は、市ヶ谷門外の牛込邸でした。
その後、明暦3年(1657)・天和2年(1682) の大火により屋敷が焼失するなどにより拝領・上地(拝領した土地を幕府へ返上すること)を経て、天和3年(1863) に本郷邸を上屋敷、駒込邸に中屋敷、平尾邸を下屋敷と定め、幕末まで定着します。
大名屋敷について言えば、江戸幕府成立初期は、大名は将軍からもらった土地に屋敷を建てました。三代将軍家光の時に参勤交代が制度化すると、それに即した屋敷にする必要に迫られ、再配置を行います。そして明暦3(1657)年に起こった明暦の大火(振り袖火事)で、幕府は、基準を設け、大名屋敷を配置し直します。
上屋敷、下屋敷、中屋敷、この区別基準ですが、簡単に言えば、江戸城から見た距離を指します。つまり、江戸城に一番近いものが上屋敷となります。 そして。ここに大名とその家族が暮らしました。
上屋敷の敷地は幕府から拝領したもので、当然、居住のための屋敷のほか庭園などを備えていて、江戸での役職施行のためのお役所であり、さらには江戸在住の家臣の住む長屋なども設けられていました。
中屋敷は、上屋敷と下屋敷の中間に位置する屋敷ですが、これも江戸城近いところの外壕外に配置されました。ご隠居、嫡子が住む屋敷として機能していきます。また、国元から参勤交代で殿様に従ってきた人たちが居住しました。その人たちは勤番と呼ばれ、だいたい半年~1年の任期で滞在しました。
下屋敷は、だいたい郊外に建てられた大名の別荘(別邸)でした。下屋敷には、上屋敷などの食料を運ぶために菜園が設けられていました。
板橋 前田藩下屋敷図
加賀前田家の下屋敷は、平尾(板橋)です。江戸の下屋敷中でも最大級の広さでした。
東大の赤門で有名な本郷の上屋敷は、もともとは下屋敷としてスタートしましたが、その当時の上屋敷が火災で燃えたこともあり、またかなりの規模があったことから、上屋敷になりました。
加賀前田家は、この上・中・下のほか、江戸で売買・消費する米を収納した「蔵屋敷」を深川黒江町に持っていました。この蔵屋敷は、幕府から拝領した土地ではなく、町人などの地主から藩が買い上げたもので、これを抱屋敷と言います。
各屋敷の広さは下記の通りです。
上屋敷 本郷 10万3882坪
中屋敷 駒込   2万0660 坪
下屋敷 平尾(板橋) 21万7935 坪余
蔵屋敷 深川 2668 坪

下に「板橋区教育委員会」の下屋敷の案内を引用します。
平尾邸は、通常は藩主と家族のための別荘として使われており、かれらが保養や散策に訪れ、時には鷹狩や花火などが行われました。
また、幕末には園遊会も催され、その席に招かれた松平容保をはじめとする会津藩の人びとは、邸内の様子を「まるで桃源郷のようだ」と表現しています。
なお、当邸が中山道板橋宿に隣接していることから、参勤交代時に前田家の藩主が休息をとり、江戸へ出入りする際の装束替えの場としても利用されました。また、その家族や家臣による送迎の場にもなっていました。 
邸内には与力を筆頭に50人ほどの詰人がおり、その大半は定番足軽と呼ばれ、ここを管理していました。彼らは代々平尾邸に在番し、板橋宿や蓮沼村をはじめとする板橋区周辺地域の名主などの娘と婚姻関係を結ぶ人もいました。なかには板橋宿の寺子屋の師匠として、地域の教育にあたるなど、地元板橋との密接な関わりが見られます。
幕末になると、加賀藩も世情の影響を受け、邸内でオランダ式ゲベール銃を使った調練を実施しています。また、石神井川の水流を利用して大砲の製造を行っています。明治期以降には、平尾邸の大半は、同じく石神井川の水流を利用し火薬を製造する、板橋火薬製造所(後の東京第二陸軍造幣廠)となります。
なお、現在、平尾邸の面影は、わずかにここ加賀公園に残る築山の一部だけとなっています。
              平成21年(2009)3月  板橋区教育委員会
加賀公園
現在かろうじて、その遺跡を残しているのは、加賀公園です。
築山が残されました。
図を見ると、広大な敷地内には、大きな池が配された庭園として形作られています。江戸時代末期には、時代を反映し、その広大な敷地を利用して大砲や火薬が作られ、軍事調練や砲術稽古も行われていました

中山道 板橋宿

板橋宿を板橋駅から「縁切り榎」まで歩いてみました。
板橋宿 案内板
板橋宿は、中山道の江戸からの第一の宿場です。中山道は、江戸幕府によって設置された五街道の一つです。
中山道と言われる前に「東山道」と呼ばれる古代から中世にかけて東と西を結ぶ重要な道がありました。中世になると、鎌倉に武家政権が誕生、御家人たちが「いざ鎌倉」と駆けつける鎌倉と結ぶ道、鎌倉街道が生まれます。
戦国時代には、武将が、例えば武田氏が木曽路の伝馬の継立を行うなど街道や宿駅を設けていました。
中山道は、そうした古代からの東山道を軸に、鎌倉街道や戦国時代に設けられた道を改修し造成されたと言えます。
中山道は、別に「中仙道」とも書いていましたが、江戸幕府は正徳6年(1716)、公式に中山道と記すことが命じられました。東山道もトウセンドウとも言われていました。
中山道はこの板橋宿を経て、木曽路を通って京の三条大橋に至る69次(「次」とは宿場のこと)、134里(約536km)と、最も距離のある街道でした。
参勤交代で東海道を利用する大名は159家、中山道は34家、奥州道中は37家、日光道中は6家、甲州道中は3家でした。
五街道のうちでも、天皇のいる京都及び経済の中心である大阪を結ぶ東海道と中山道は特に重要視されていました。
平尾宿跡 平尾交番
追分から中山道
板橋宿は、平尾宿、仲宿、上板橋宿とに区切られます。
長さは20町9間(約2.2km)、うち町並地は長さ15町49間(約1.7km)で、南北に通じています。北側には、前田藩の広大な下屋敷があり、南には、千川上水の流れもありました。
宿内人口は2,448人、宿内家数は573軒。 本陣は仲宿に1軒、脇本陣は各宿に1軒ずつ計3軒が設けられ、旅籠は総計54軒でした。
『木曾街道 板橋之驛』
渓斎英泉筆の浮世絵『木曾街道 板橋之驛』天保6- 8年(1835-1837年)です。画面の左端、道の中央に「是從板橋(これより いたばし)」と記されているであろう傍示杭が建っているとされています。「平尾一里塚」は埼京線板橋駅の踏み切りから60メートル程にあったとされています。今は家が建って、何も残っていません。

千鳥ヶ淵から北の丸公園へ

千鳥が淵
江戸城千鳥ヶ淵から北の丸公園へ行きました。
桜の季節ともなるとたくさんの人が来るのですが、雨の日で寒くだれもいませんでした。
千鳥が淵の土手の感じは、江戸時代のままです。江戸時代には、桜でなく、榎やタブノキなどが植えられていました。
かが梅
白加賀の花が咲いていました。梅干しに使う梅として有名です。加賀というから、加賀藩、金沢です。
江戸城ですから、加賀藩献上だったかな、と思いました。ちなみに加賀藩主前田氏の家紋は梅鉢紋です。
前田家 家紋
少し歩くと北の丸公園。椿がいっぱい咲いている林がありました。
北の丸公園 椿
東京の中心とはとても思えない自然が残る江戸城跡です。
田安門の所のお濠には、平家ボタルが生息しているのだそうです。源氏ホタルのようには舞わないので、見付けるは難しいようですが。
ミツマタの花も咲いていて、もうすぐ桜の季節です。

小金井橋の桜の絵など

小金井川堤 江戸名所図会
江戸名所図会の小金井橋です。
それには、次のように出ています。
「小金井橋は、小金井邑の地に傍うて流るるところの玉川上水の素堀に架すゆえに、この名あり。岸をはさむ桜花は数千株の梢を並べ、落英繽紛たり。開花のとき、この橋上より眺望すれば、雪とちり雲とまがひて、一目千里前後尽くる際をしらず。よって都下の騒人遠きを厭わずして、ここに遊賞するもの少なからず。橋頭、酒を暖め茶を煮るの両三店あり。遊人あるいは憩いあるいは宿す。
春の夜はさくらにあけてしまへけり 芭蕉」(江戸名所図会) 

 江戸近郊八景之内小金井橋夕照_edited-1
広重の「江戸近郊八景之内小金井橋夕照」です。絵が小さくなったので、解説を入れます。
桜と上水と富士がきちんと描かれています。小金井橋のたもとには馬が繋がれています。馬子は煙管をくわえています。客を待っているのでしょうか。
橋を渡りおえたか、脚絆に草鞋履き尻を端折った旅人風の男と、饅頭笠に背をまるめて杖を引く老人が馬子の前を通りかかります。
堤上には床几が出してあり、手前の二人は酒を酌み交わし、川沿いの茶屋からは、酒と肴が運ばれています。桜並木の彼方なる富士に見とれて煙草をすっている男がいます。
橋の上の人は小手をかざして、両岸の桜花を眺めています。

文化・文政時代は町人文化が隆盛した時で、出版技術が向上したこともあり、元文2年(1737)に川崎平右衛門が植えた玉川上水の桜並木が全国的に知られるようになりました。この時代の小平は、花見客のお陰で川崎平右衛門が企てた村興しの経済効果が上がりました。小金井橋のたもとには「柏屋」というこのあたり一番の花見茶屋がありました。(現在もその流れの人が住んでいる家があります)。
花見の時期には酒・醤油・寿司・川魚・卵・野菜などをたくさん仕入れ、30人もの人を雇って営業をしていました。

風俗画報・小金井名所図会 明治39年・山本松雲画_edited-1
風俗画報・小金井名所図会 明治39年・山本松雲画です。
橋の手前の桜の大木の下には水神の祠、対岸の2階建の建物は花見茶屋の柏屋です。
その左手の堤の上には明治35年(1902)に植えられたまだ若い「行幸松」と「行幸松の碑」を見ることができます。

海岸寺-小金井桜

玉川上水の沿道に海岸寺というすてきなお寺があります。
臨済宗妙心寺派で、芝増上寺の末寺です。天明3年(1783)頃にこの付近の農民の要望で建立されたとあります。
萱葺き山門は、建築年代は不明ですが、鎌倉様式を取り入れた六脚門ということです。
海岸寺 山門 境内から
説明によると、「天明時代に鈴木新田の長谷部大工の家に寄寓していた渡り大工の作と伝わる山門。間口(本柱真間)3メートル。 左右の本柱の前後に各2本控え柱を備えた六脚の門です。」『郷土こだいら』(小平市教育委員会)より (行った時が2月22日だったので雪をかぶっています)。
海岸寺 松と山門
門を入ると、まず、大きくてりっぱな松が目に入ります。本堂は昭和32~33年にかけて建て替えられています。
玉川上水が整備されると、武蔵野地域でも新田開発が進められました。その功労者である川崎平右衛門定孝が、8代将軍・徳川吉宗の命を受けて玉川上水の小金井橋周辺に6キロに渡って植えたことは前回記しました。
嘉永年間(1848~1853)には田無村名主・下田半兵衛によって大規模な補植が行われ、明治16年(1883) には明治天皇が訪れ、その記念樹である 「行幸松」が海岸寺の山門前、玉川上水北側遊歩道にあります。
海岸寺の前には、天皇の行幸を記念して植えられた「行幸松」があります。
海岸寺には、「小金井桜」の由来を伝える石碑があります。その解説を載せます。
小金井桜の碑の案内

、小川水衛所跡と『小金井桜』の境界石

小松橋から50メートルほど下流には、小川水衛所跡があります。
江戸時代の芥揚げ・水番所に代わり明治27年、羽村~四谷大木戸間に8ヵ所設けられた水衛所の一つです。上水の 監視と分水口の開閉、ゴミ不要物の除去などが水衛の主な仕事です、小平監視所の開設に伴い統合されましたたが、芥揚げの鉄柵は現存しています。
小川水衛所跡近く
小金井桜は元文2年(1737)、武蔵野新田世話役であった川崎平右衛門定孝が幕命によって植えたといわれます。小金井橋を中心に玉川上水の両岸6㌔にわたって、山桜約2000本が植えられていたようです。
小金井桜 名勝の区切りの碑
小金井桜1番の櫻
大正13年、国の名勝に指定された『小金井桜』の境界石が小川水衛所跡敷地内と玉川上水左岸にあります。
サクラ博士として高名な三好学理学博士の調査研究により、小金井橋を中心に東西6キロが名勝に指定されることになり、その指定区域を示す石柱です、桜には番号がふられ、最後の番号は1120番でした。
小金井桜の起点 案内
小金井桜 最期の番号 NO1112

玉川上水 小平地区

国分寺駅から西武国分寺線で2駅目の「鷹の台駅」から小金井公園までの玉川上水を歩きました。
江戸時代に徳川御三家のひとつ、尾張徳川家の鷹場だったため、武蔵野エリアには三鷹など「鷹」という地名や通りの名前がありますが、この鷹の台も、そのひとつです。
駅のすぐ隣には小平中央公園があります。ここは前回歩きました。この公園の樹木が切られ、道路になります。今回はその先です。
小平中央公園近くの玉川上水
玉川上水が整備されると、武蔵野地域でも新田開発が進められました。
武蔵野の土地は稲作には適していませんでした。水が乏しく肥料分の少ない畑地でした。、凶作が続き、飢え死にしたり、逃げ出す人もました。そうした中、川崎平右衛門という人が武蔵野の新田世話役として活躍しました。
武蔵野新田の農民たちは、人馬で、江戸へ作物や薪炭を運んでいました。
江戸時代も後半になると、輸送力のある船で荷物を運びたいという願いが出てきていましたが、上水であるためそれはかなわず、明治に入って、明治3年(1870)から5年の間、船による輸送が実現しました。その船着き場もこのあたりにありました。
その当時の船の長さは10.9m、幅は1.6mで、荷物は2トンぐらいまで積むことができました。四谷大木戸までの行きは、流れに沿って下ります。野菜、炭、まき、茶、たばこ、さらに砂利などを運びました。
帰りは、米、塩、魚類などをのせて、船に綱をつけ、人が岸から引っ張りながら上っていきます。
この通船が2年間で禁止(きんし)されたのは、船が増えて上水がよごれるという理由からです。
なんとか、有効な運送手段を持ちたいという思いは、鉄道を通す運動になっていきます。それが実現したのが、明治22年(1889)開通の甲武鉄道(今のJR中央線、新宿~立川間)でした。
さらに、明治27年(1894)に国分寺駅~東村山駅の間に川越鉄道が開通し、小平最初の駅として小川駅が設けられました。
鉄道で言えば、この先鎌倉橋の近くでは、JR武蔵野線が、地下で玉川上水を横切っています。トンネルの作業口が、建っています。
武蔵野線が下を通る

函館の坂

元町は函館山の麓ということで坂の街です。入船町から青柳町まで、18の坂めぐりができるそうです。その中から歩いた坂、3つ。
チャチャ(爺々)登り
「チャチャ」はアイヌ語で、お爺さんのことです。
ハリストス正教会横から函館山に向かって伸びる急坂で、この坂を登るとき、だれもが老人のように腰をかがめることからチャチャ(爺々)坂の名前がつきました。坂と言わないで、「登り」と言うのも、気に入りました。
チャチャ坂
八幡坂
かつて、この坂の上に八幡宮があったことから八幡坂と呼ばれます。
八幡宮は明治11年(1878年)の大火で焼失してしまいました。
まっすぐ港に向かう坂で、真正面に連絡船桟橋跡と旧青函連絡船摩周丸が見えます。
このロケーションからテレビCMや映画などにも利用されているようです。多くの坂を持つ函館の坂の中で最も有名な坂といえます。
八幡坂の上には北島三郎が通った、北海道函館西高等学校があります。
函館で最も有名な八幡坂
基坂(もといざか)
かつて函館から札幌に向かう函館本道の起点であり、里程を図る道路元標が置かれていたことからこの名前が付きました。きれいな石畳の坂です。
坂のそばには、元町公園があります。行政の中心地であったことから、「御役所坂」「御殿坂」とも呼ばれていたことがあるとのことです。
基坂

函館 元町

旅に出る時、必ず見るのが、司馬遼太郎の『街道をゆく』です。今回はパック旅行なので思う所には行かれないことは分かっていましたが、『北海道の諸道』を読みました。
今回のコースに、函館元町を歩く、があったので、本に出ていた「ハリストス正教会」を期待していました。
町を歩くと「ハリストス正教会」だけでなく、元町は、見るだけでもとてもすばらしい町でした。港も山も望め、坂があって、建物は、ほどよく異国情緒にあふれ、ゆっくりと歩きたいなと思いました。
今回はそのホンの一部を載せておきます。

函館元町
元町公園のペリーの像
ペリー来航に伴い締結された日米和親条約では下田と共に箱館(函館)の開港が明記されています。函館は日本で最初に開港した街です。これによって、函館奉行所が置かれ、各国の領事館や近代的な洋館、また、西洋文化の象徴とも言える教会などが建ち並びました。箱館奉行所は前回書いたように五稜郭に移設されましたが、元町公園に箱館奉行所跡の碑がひっそりとたっていました。
箱館奉行所跡の碑
さてハリストス正教会です。もちろん今回は、玄関先しか見られません。司馬遼太郎さんは、当時中に入れなかった教会を紹介者があって訪問しています。
ハリストス正教会と函館山
「せまい坂をのぼると、左手に柵があり、柵の向こうの曇った空に、水色がかったビザンチン風の会堂と塔がそびえていた。塔の屋根はあざやかに緑青が吹いた銅ぶきでその上に玉葱型の冠がのっかり、最先端に十字架がかかげられている。」
ハリストス正教会
ハリストス正教会は安政6年にロシア領事館付属聖堂として建てられたのが始まりです。
名前のハリストスとはキリストのロシア語発音のことで、江戸末期、ロシア主教ニコライによって日本で初めてギリシャ正教、ロシア正教が伝導され、ロシアの領事館及び礼拝堂として建てられた教会です。国の重要文化財に指定されているロシア風ビザンチン様式の優美な建物です。
お茶の水のニコライ堂を、見なければと思いました。
旧函館区公会堂
旧函館区公会堂
この建物の色には驚きました。桟瓦葺の屋根に、外壁がブルーグレーとイエローの建物。
大火によって焼失した住民の集会所だった「町会所」を再建しようと、豪商相馬哲平氏や住民からの寄付などを元手に、明治42年に起工し、翌年43年9月に竣工した、洋風のみごとな建築物です。ここも中に入って見なければいけません。
本館は昭和49年5月に、附属棟は昭和55年12月に国の重要指定文化財に指定されています。

以上2件を元町の建物の代表とします。

函館 五稜郭(ごりょうかく)

よく見る 空からの五稜郭
「五稜郭」のよく見る写真です。きれいです。形が良いです。
今回函館に行きたいと思った目的の一つは「五稜郭」を見ることでした。
五稜郭跡の碑
五稜郭は、江戸時代末期の安政4年(1857)、幕府により箱館の防衛のため、徳川家定の命により築造された洋式城郭です。ヨーロッパの城を参考に設計し、五つの稜を持つ星型であることから「五稜郭」と呼ばれています。その外周は約1.8km。25万㎡の広さを持っています。
蘭学者の武田斐三郎(たけだあやさぶろう)が設計し、8年の歳月をかけて建設されました。城内には箱館奉行所や砲台が置かれていました。
箱館奉行所は、安政元年(1854)の日米和親条約に箱館が開港されたことから、当初現在の元町公園付近に設置されていましたが、北方の防衛のためには軍事的に不利な場所であることから五稜郭へ移転することになったのです。
五稜郭は、慶応4年(1868)におこった戊辰戦争で、幕府軍榎本武揚らによって短期間占領された後、新政府軍によって平定されます。
タワーから五稜郭を見る
函館奉行所は天守閣のない、平坦な建物でしたが、それは、砲撃による被害を最小限にするためでした。戦火による焼失は免れましたが、明治4年(1872)に開拓使本庁が札幌へ移転することになって、その資材として大半が解体され、堀だけが残されました。
とにかく、箱館戦争の舞台となり、土方歳三、榎本武揚を筆頭に幕末の男たちの壮絶な戦いがくり広げられた場所です。
正式名称は「亀田役所土塁」と言い、「五稜郭」は通称です。柳野城とも言います。
上空から撮られた五稜郭の写真は、緑に縁取られた星の形がとても美しいです。写真だけでなくぜひ一度見たいと思ったのです。
タワーからの五稜郭 2
ここで一番有名なのは、土方歳三でしょう。
新選組副長・土方歳三は鳥羽伏見の戦いの後、新選組を率いて各地を転戦北上し仙台で旧幕府軍副総裁榎本武揚率いる脱走艦隊と合流しました。
箱館戦争で榎本軍が次々と敗退する中、土方歳三が守った二股口(大野町・平成18年2月から北斗市)は最後まで陥落しませんでした。二股口の戦いは台場山砲台を中心にして16時間におよぶ大変な激戦であったと言います。明治2年(1869)5月11日箱館は既に新政府軍の手に落ち、五稜郭攻撃が開始されます。
この時、土方歳三は箱館奪回を目指し50名の兵と共に五稜郭を出て箱館の市中に向かい、旧箱館と亀田村の境界にあった一本木の関門を抜け、敢然と切り込んで行くのですが銃弾を浴びて生涯を閉じました。35歳でした。
死を覚悟していた土方は辞世の歌を残しています。
土方歳三
「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ」。
また「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん」とも伝わっています。
明治2年(1869)箱館戦争の終了後、五稜郭は明治政府兵部省が管理することになりました。同年に開拓使が設置され、新政府による北海道の統治が始まりましたが、五稜郭を役所として利用することはありませんでした。
このころ、「箱館」は「函館」へ、「蝦夷地」は「北海道」へと名称が改めらました。

青函連絡船 青函トンネル

あけぼの の表札
聞こえます。阿久悠作詞「津軽海峡冬景色」。
♪上野発の夜行列車 降りた時から
この列車は、今で言えば、寝台特急「あけぼの」という感じですが、イメージとして、寝台車ではないという意見に与したい気がします。
♪青森駅は雪の中 北へ帰る人の群れは
♪誰も無口で 海鳴りだけをきいている。
青函連絡船は、1908年明治41年(1908)から昭和63年(1988)までの間、青森駅と函館駅を結んでいた鉄道連絡船です。航路の名称は青函航路、営業キロ上の距離は113.0kmで、津軽海峡を横断していた沿海航路でした。
青森を出発した地点は青森駅の近くにある、ねぶたの家ワ・ラッセルから眺めました。
到着する、函館の到着点は、バスの中から、熊の像と新島襄の像があるあたりということで
しっかり、見ました。そして、青函連絡船として活躍していた摩周丸もその外観を眺めました。一度乗って見たかったです。
津軽海峡 青森
青函連絡船 摩周丸
青函トンネルは、津軽海峡下の海底部延長23.3kmを含み,全長53.85kmです。
トンネルの中にあった竜飛海底駅は、一般公開が昨年の11月10日で終了しています。もう一つの吉岡海底駅もずっと前に見学は終わり、両駅とも今年の3月で廃止されます。
これは、2016年開業予定の北海道新幹線の運行に両駅のホームが支障をきたすことから、消えていきます。
また新幹線優遇です。早い、便利で、どんどん、鉄道が変わっていきます。
「ゆっくり」から失うものがあるのにと思います。
特急スーパー白鳥

夜行列車は、超豪華の「ななつ星in九州」のような列車だけになっていきます。
青函トンネルを走りながら、椅子の前の図を見ながら、こんな海の底のトンネルが、できたことが、驚異でした。
青函トンネル案内図

寝台特急「あけぼの」で青森へ

のりものに酔うので、あまり執心していません。でも、内田百閒とか、宮脇俊三とかの鉄道に関しての本は読みます。最近も酒井順子さんの『女流阿房列車』(新潮社)を読みました。この本の最後に出てくるのが、夜行寝台の「あけぼの」。この「あけぼの」が、3月15日で廃止が決まりました。
この「あけぼの」で函館に行くツアーがあったので、函館に行ってみたいと思い、それに懐かしの寝台列車に乗るのも良いかなと思って申し込み乗りました。
上野発、9時16分。青森には翌日の9時52分に着きます。乗車時間、12時間36分です。『女流阿房列車』の最後は、この「あけぼの」に乗って、強風のため大幅に遅れ、車内で「対談」をしています。
上野駅ホームに入る「あけぼの」
上野の駅、「あけぼの」が入る13番ホームには、「あけぼの」の写真を撮ろうと来ている人がたくさんいました。中には写真を持って来て、見せています。見てもらいたいようです。自信作。顔見知りの人に会って話がはずんでいる人もいました。私も写真撮りたくなりましたが、どう撮ったらいいか、どこを撮ったらいいか、よく分かりません。
学生のころ、帰省に夜行列車「銀河」に乗っていました。京都で降りて、京都を歩くのを楽しみにしていました。もっとも朝早く、お店が開いてなくて、うろうろしたことも覚えています。あのころ寝台、3台あったような気がするのですが、2段だったのですかね。
あけぼの車内
「あけぼの」はB寝台の上段でした。下はいっしょに来たつれ合いです。
6時1分着の羽後本庄で、寝台はかたづけてくださいと言われ、早く寝ようと、10時過ぎには横になりました。なかなか眠れないです。寝ようと思うとよけい寝むれないものです。
がたがた、ごとごと、ガッタン。テレビがないのが良いです。いろいろ考えました。考えるからまた、眠れません。ときどき窓を見るのですが、外はよく見えません。
でもうとうとしたのでしょう。5時にはっきり目が覚め、起きようと思いました。
トイレに行ったり、顔を洗ったり、浴衣や布団の片付けなどしているうちに、6時近く。
6時には係の人がカーテンなどきちんと取り付けたりしました。
寝台車なのに寝させてくれないんだな、と言う人がいました。
6時から9時52分、車窓を眺めての東北の旅でした。
そして、私の頭にたびたび聞こえてくるのは「上野発の夜行列車 降りた時から青森駅は・・・・」でした。
青森駅での「あけぼの」
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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