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蟹川と大村邸と尾張屋銀行の頭取峯島喜代女

歌舞伎町花道通り
蟹川は、歌舞伎町の花道通りをうねりながら、流れていました。この道が川であったことはよく知られ、その水源は、歌舞伎町の元コマ劇場のあたりにあった「大村邸の池」だと長く思われていました。この池は、鴨の猟場として知られていました。
歌舞伎町 花道通り 付近ん明治の地図
新宿のこの近くには4つの、鴨の猟場がありました。新宿御苑の池。浜野邸の池、前田家の池、そしてこの大村邸の池です。写真で見たのですが、すごい数の鴨がやってきます。びっくりします。大村邸の池は、90mと80mの四角い池でした。小さな島が2つあります。
弁財天のある所は、どうやら、その島の一つです。
大村邸は明治30年代に尾張屋銀行の頭取峯島喜代女が土地を買い取って、「大村の山」と言われていた森林を伐採し、池も、淀橋浄水場の開設で掘り上げた土で埋めたてました。
それ以後「尾張屋の原」と呼ばれるようになります。
このことは、
このことはすでに書いています。http://uzo800.blog.fc2.com/blog-entry-153.html
淀橋浄水場の土で埋め立てた時、池の底から蛇がたくさん出てきて、工事をしていた人がその蛇を空樽に入れて地下に深く埋めたのですが、工事を請け負っていた三谷という人の夢枕に苦しんでいる蛇が出てきたというのです。三谷は、頭取の峯島喜代女にそのことを話します。峯島喜代女は巳年だったこともあり、急いで上野不忍池の弁財天を勧請して歌舞伎町弁天を建てたということです。
歌舞伎町弁財天
弁財天公園の尾張屋銀行の銘
十二社の池にも中野長者にまつわる大蛇の伝説があり、歌舞伎町にも、蛇伝説ということで、
深く信じていたんですが、この話は、現地の案内や、新宿区の案内には出てこないのですね。
いろいろ調べていたら、この弁財天は、もともとから大村邸の池の時からあった、という解説もありました、
私は、葉が善次郎著『新宿の散歩道』を参考にしました。この本では。『淀橋誌』を参考と出ていました。
お話として、私は、池を埋めるとき、たくさんの蛇が出てきて、と方が、歌舞伎町に似つかわしいきがします。
大正9年、峰島喜代女は、土地を提供して、ここに府立第五高等女学校ができます。
戦災でこのあたり一帯は焼け、学校は農園があった、富士見町へ移転しました。
そして、焼け野原になったこのあたりを銀座と浅草の良さを取り入れた庶民的は娯楽センターにしようと、町会長だった鈴木喜兵衛が中心となって、地域の人たちが立ちあがります。
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蟹川の流れと西武新宿線

蟹川をたどると、西武新宿駅の土手にあたります。蟹川が流れていた時は、もちろんこの土手はありませんでした。
西武新宿線
西部新駅がここにできたのは、昭和23年(1948)です。高田馬場駅から新宿駅まで延伸したのです。ただこのときはまだ仮設でした。新宿駅まで延長することを予定していました。
駅の周辺は、当時、角筈と呼ばれた地域でした。都営バスの新宿車庫がありました。
昭和39年(1964)、国鉄新宿駅東口に「新宿ステーションビル」が完成し、その2階が、西武線乗り入れを考慮した構造となっていたのですが、輸送量が増加していた西武線にとって必要なスペースが確保できず、乗り入れ計画は中止されました。
そのため、西武新宿駅だけが、少し離れた今の場所に駅があるのです。
しかし、この駅のおかげで、歌舞伎町が繁栄したと言えます。
さて、蟹川ですが、この西武新宿駅の地下を通ることになります。下水道の道になってしまっています。
「埋設物碑」
西武新宿線を越えて、歌舞伎町の花道通りに近くに「埋設物碑」があります。ここの軌道敷の下には、次のように埋設物があるという表示があります。
埋設物の種類 
 下水道管法91㎝X140㎝
埋設の位置
 放射号線寄り200m
施工年度
 大正15年
施工
 東京都豊多摩群大久保町
放射6号線は、青梅街道・靖国通りのことです。これを見ると、蟹川の流れが西武線の下を潜り花道通りへと流れていた可能性が高いと言えます。
碑のある道をよく見ると、凹んでいるのが分かります。以前はこのあたりが、蟹川の源泉と言われていました。

蟹川(金川)の源流として、策の井

まち歩きに人気があります。一時「坂」が注目されました。坂の人気はまだ続いていますが、このところ目立つのが、「スリバチ地形」や「消えた川」を探して歩く、です。どれも土地の高低を感じながら歩く所に共通点があります、
「消えた川」を歩きました。そては、今は消えた、かつての水の都江戸を偲びながら歩くということです。歴史的に、川が生まれる土地の断層の歴史から探れば、それは縄文時代にまで遡ることになります。けっこう勇壮なまち歩きです。ここで大事なのはイメージ力です。
さてその川は、日本最大級の繁華街と言われる新宿歌舞伎町を走っていた、蟹川(金川)です。
蟹川の水源を、新宿西口の、昭和50年ごろまで、名水の誉れ高く、江戸時代、德川家康も鷹狩りで立ち寄り、その水を愛で、持っていた策を洗ったということで、「策の井」と銘々された場所に見立てました。
エルタワーの新都心高層ビル側の植え込みの中に「策の井」の碑があります。
策の井の碑
「江戸時代このあたりは、美濃高須藩の松平摂津守の下屋敷がありました。上屋敷は、荒木町の所にありました。その屋敷にどんな日照りでも涸れない湧き水が出ていました。德川家康が、鷹狩りに出て、立ち寄り、美味しいと言われるその水を飲み、手にしていた、策を水で洗いました。それで、この湧き水は、「策の井」と呼ばれるようになります。「策の井」に関しては、荒木町の池にも同じ伝承が伝えられています。瀧があって、大きな池もあったので、そちらは「策の池」と言われます。
その湧き水は、明治になっても、涸れませんでした。
明治時代、ここには、精華学園という学校ができました。明治16年の加藤敏子という人が「女子独立学校」を作加藤敏子の死後、内村鑑三が校長を務めるなどして、「精華学園」になりました。女性のための働きつつ学ぶ精神を持った学校で、美空ひばり、吉永小百合などが学んだと言われます。
その校庭に大きな井戸があり、それが、策の井でした。この学校では、飲み水としては、決して水道の水は飲まなかったと言います。水道の水はくさくて不味かったのです。この学校のそばには、明治31年から淀橋浄水場ができます。少し皮肉です。
精華学園は、精華高等女学校になり、昭和44年に北新宿に引っ越します。
あと明治生命ビルなどが建ちます。それでも、水は涸れず、美味しいということで、GHQへのお土産になったりもしました。
さらに、駐車場の下になりますが、ポンプで表の方へ引き出し、飲めるようにしていました。
しかし、西口の都市化は進み、昭和60年にはさすがに湧いてこなくなります。そこで東京都が、記念碑を建て、名水を偲ぶことになります。ピラミッド型の碑です。案内坂が左にあります。読めないので、同じ内容で、奥のビルの駐車場入り口の壁にも取り付けられています。
このあたり、武蔵野台地を構成する、淀橋台地の北端で、歌舞伎町、大久保、早稲田へと口をひらく谷頭になっています。そういうことでおそらく策の井だけでなく、湧き水があったとみられます。
そこで、蟹川の源流をこのあたりとみたてたわけです。
ここから少し進むと、青梅街道と靖国通りをつなぎ位置の大ガードがあります。そこは、窪地になっていて、川の生まれがイメージできてきます。」

クリーブランド美術館展「蔦の細道図屏風」

上野の東京国立博物館へ「クリーブランド美術館展─名画でたどる日本の美」と「日本伝統工芸展60回記念 人間国宝展 ―生み出された美、伝えゆくわざ―」に行きました。
クリーブランド美術館は、米国オハイオ州にある巨大な美術館ですが、そこには日本美術の一大コレクションがあるようです。日本画のコレクションは、館長であった故シャーマン・リーがGHQの美術顧問を勤めていた関係で体系的に蒐集されたものが土台になっています。
今回は、深江芦舟筆 「蔦の細道図屏風」に興味を持ちました。並べての展示はされていませんが、同じテーマで、東京国立博物館にもあります。比べて見ました。
「蔦の細道図屏風」は「伊勢物語」第九段の場面を描いた作品です。
クリーブランド美術館展- 蔦の細道図屏風

 駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人に逢わぬなりけり

都から関東地方へ下った在原業平が、駿河の宇津の山にさしかかったところ(蔦の細道)で、 偶然、顔見知りの修行者と出会います。
喜んだ業平は、その修行者に、都の愛する人に宛てた手紙を託しました。
画面は手紙を託された修行者が出発したところです。
名残惜しそうに背中を見つめる業平の周りを、赤く染まった蔦が彩ります。
笈を背負ったのが、修行者です。
東博の「蔦の細道図屏風」
深江蘆舟(1699-1757)は尾形光琳に師事したとされる、琳派の画家です。
クリーブランド美術館の方は、右下が水の流れになっていますが、東博は、山です。従者と馬の形が違います。一番大きな違いは、在原業平が去りゆく修行者を見つめる、その修行者の姿です。背中しか見えないのが、東博。大丈夫かなといった切迫感があります。クリーブランド美術館の方は余韻を感じました。

展覧会会場に入るとすぐ、この展覧会でよく紹介されている「雷神図屏風」があります。「伊年」印により宗達工房の作と考えられているものですが、なるほど、雷神の顔は、通常イメージしていたものと違い、どこか獣のような、それでいて愛嬌を感じる顔で、楽しい作品でした。

芝公園の梅

芝のホテルで宴会があり、芝公園を通りました。
芝公園 銀世界と東京タワー
芝丸山古墳の麓に「銀世界」という梅園があります。約70本の梅林は、もうかなり花を咲かせていました。「銀世界」は江戸時代から明治にかけて、新宿角筈、現在パークハイアット東京があるあたりにありました。明治41~42年頃にこの芝公園へ移植したものです。
銀世界 白梅
銀世界 紅梅
「梅」の字音の「め」が変化して 「うめ」になったと言われます。
中国が原産です。奈良時代の遣隋使または遣唐使が中国から持ち帰えりました。人気で、「万葉集」に百首以上納められています。この時代は、どちらかと言えば白梅が人気で、平安時代になると紅梅がもてはやされました。また、「古今集」では梅の香りが詠まれますが、「万葉集」では香りの歌は出てきません。
わが苑に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも  大伴旅人
実は梅干しになります。その実は梅雨の頃に収穫します。「梅雨(つゆ)」の名の由来は、そこにあります。
江戸時代には、各藩が非常食として梅干を作ることを奨励したため、梅林が全国で見られるようになりました。
梅の字は「母」の字を含みますが、実をたくさん実らすことにつながっています。また、中国では、つわりのときに梅の実を食べる習慣があるとも言われます。
梅干しの種の中身は、正式名称を「仁(にん)」、俗称を「天神様」と呼びます。
「天神様」は菅原道真が梅を愛していたことに由来します。
ついでながら、種の中身で「仁」と言えば、アンズの種の中身は「杏仁」と言います。アンニンドウフのアンニンです。
この日行ったホテルの食事は中華でしたから、杏仁豆腐がでてきました。
最近の杏仁豆腐はほとんど「杏仁」ではなく「アーモンド」が使われているようです。
梅とは関係ないのですが、気になるので、ウィキペディアで調べてみました。
「杏仁豆腐にはJAS規格がないため、製造、表示方法に関しては明確に定められておらず[1]、現状では原材料に杏仁が含まれていない商品に「杏仁豆腐」の名称を使っても違反にはならない。また、アーモンドの現代中国語訳が杏仁であるため話がややこしい。実際、殆どの一般的な中国人はここで述べる杏仁ではなくアーモンドを使った豆腐状のデザートだと思っている。」
梅が終わる頃には桃や桜が咲き 始めます。雪がふりましたが、春遠からずです。

樹木の漢字 木偏の木の名

あるイベントで、子ども対象に「木偏の漢字の木」というカードを作り、遊んでもらおうと思いました。
作りながら、高学年でないと無理だなと気づきました。
それが、小学3年生ということになり、木の名前の漢字の話をすることにしました。
春夏秋冬は習っていますか、と聞くと、大丈夫ということでした。
そこで「春夏秋冬」に木偏がつくとどんな木になるか考えてみてください。
春は椿・ツバキです、夏は榎・エノキです。秋、これが難しいです。調べると、ヒサギとよむのだそうです。
江戸時代に貝原益軒が編集した「大和本草」のなかで「楸は ヒサキといい、またカシワと呼ぶ・・・」という説明があるようです。
そして、アカメガシワの古い言い方が、ヒサギだったという説が有力です。
楸はヒサギで、アカメガシワのことになります。
冬は柊・ヒイラギです。催しが2月1日だったので、これは節分にむすびつけて話せ良かったです。
2月の節分では、柊の枝葉を戸口に立てて、その葉っぱの とんがりで鬼を追い払うとか、
イワシの頭を柊の枝の先端に刺してその匂いで鬼を退散させる、といった風習があります。
子どもにこの話をすると、家でやっているという子がいました。良かった。
この春夏秋冬は、後の方でしたことです。
スケッチブックに1枚1つの漢字を書いて、それで説明しながら実施しました。
まず、木という字はどうのようにして生まれてか。枝と葉と茎と根、その形から生まれた話。
木が2つ集まると。そう林です。木が3つ集まると、森ですね。
それでは、「杜」。この字、見たことありますか。ない。これも実は「もり」です。
鎮守の杜、というときにこちらの杜を使います。神様がいる「もり」がこの漢字の杜です。
木偏に神さまがつく木があります。榊「サカキ」です。神様にささげる木で、神社に行くと神殿の中で見られます。「サカキ」を頭の隅に入れといてね。
「松」これは、知っていますね。お正月に門松を立てます。そこに松があります。なんで松かというと、神様が、お寄りになる木だからです。そしておめでたい木です。松竹梅。一番最初のでてくる木です。
これは「杉」、花粉症の子いますか。少ないな。良かったね。
花粉症で、今、杉は悪者のようになっていますが、日本特産の木で、古くから、日本で切っても切れない木です。家の柱にしたり、お酒を入れる樽にしたり、いろいろ使われています。
杉・スギは、真直ぐに伸びるから、「すぐの木」→「すぎ」、あるいは、上へ進み上る木だから「進木(ススギ)→スギ」と呼ばれるようになったといわれています。まっすぐの方が覚えやすいですね。
さて、2月に咲くのは、梅ですね。もう少し咲いていますね。木偏に毎の字。毎の中の母の字が隠れていますね。梅は、実がたくさんなります。それを母で表しています。
3月は何でしょう。そう桃の節句ですね。桃。「兆」は二つに割れる形の字です。桃がパカッと割れてうまれたのは、誰でしょう。そうです。「桃太郎」です。みんな知っていますね。桃から生まれた桃太郎。
昔話に「さるかに合戦」がありますね。このお話の中に、3つの「木」が出てきます。なんでしょうか。
柿、そうですね。お話の発端は柿の種だったですね。ほかには、「栗」と実は「臼」です、栗も臼も動いて活躍しますね。柿はただ実をつけるだけですね。ちょっと気になります。
でもこの柿の実を猿が奪うのですね。実。
「桃、栗3年 柿8年」という言葉があります。覚えておいてください。
それぞれ、芽を出して、実をつけるまでの年数です。柿は8年もかかるのです。
このお話には、栗が出てきます。栗の字は、木が下についています。木の上の字は西に似ていますが、2本の線がまっすぐです。西ではありません。実はこれがかごです。栗のイガを表しています。木の上の実が入ったイガがある。それが漢字になっています。
臼はもとの木はなんだったでしょうか。堅い木で、ケヤキかもしれません。
木偏に堅いという漢字の木もあります。樫(カシ)です。この木は農機具になります。
さて、4月はサクラです。3月から咲きますが、4月にはいろいろな種類のサクラが咲きます。サクラは、本来は「櫻」と書きます。貝殻の飾りを2つつけた女の人をイメージしてください。華やかな、女性と木、それがサクラです。今使われるサクラの漢字は、貝が3本の点になっています。書きやすいようにそうなりました。
いろいろ漢字を見てもらいましたが、植物の名前は、今では、ほとんどひらがなかカタカナで書かれます。難しいし、同じ木でもいろいろな漢字が使われて、複雑なので、漢字をあまり使いません。
でも、漢字があるのです。木偏の漢字、見て、どうしてこの木は、こんな漢字なんだろう、
と考えてみるとおもしろいと思います。漢字も覚えましょうね。

今年は少し早い梅の開花ー大雪の翌日

雪の翌日は晴れ。梅も元気です。
しだれ梅
今年は早い梅の花

大雪の日

2月8日は、16年ぶりだとか、20年ぶりだとか、50年ぶりだとか、とにかく、積雪が27センチの大雪でした。
積もった雪 窓辺から
とうがらしがかかえた雪
梅にかぶった大雪
家にいて、家から写真を撮りました。

ツタの木といぬざくらの冬芽

自然教育園の植物からもう2つ。
ひとつは、ツタに占領されていた木。高く伸びて、それにツタの歯葉茂っていました。
つたに占領された木
もう一つは、いぬさくらの冬芽。きれいなえんじ色でした。
いぬざくら 冬芽

自然教育園 シモバシラ セツブンソウ ハリギリ ツチグリ

昨日は寒かったです。雪も降りました。今日は晴天。しかし、風の強い日でした。自然教育園へ行きました。
●シモバシラ(霜柱)
しもばしら
寒さで、少し「霜柱」見られました。
枯れた茎が吸い上げた水分が外気で凍りつき、茎のまわりに霜柱のような氷柱を作ることで、この名前がつきました。
これは茎の維管束の中の水が凍って茎の外へと伸びだしたもので、持ち上げているのは茎の表皮です。
●セツブンソウ(節分草)
せつぶんそう
関東地方以西に分布する、高さ10センチほどの小さな多年生草本です。
ちょうど節分のころ花を咲かせるのでこの名前があります。
セツブンソウは地下の1.5センチほどの塊茎から、数本の茎を伸ばし、不揃いに分裂した苞葉をつけます。
花茎の先に2センチほどの白色の花をつけますが、花弁に見えるのは、実は萼片です。花弁自体は退化して黄色の蜜槽となり、多数のおしべと共にめしべの周りに並んでいます。
●ハリギリ(針桐)は、太いとげでびっくりさせられる木でした。
針桐の木
はりぎり冬芽
幹は直立し、高さ10-20m、大きいものは30mになるそうです。
若木は枝や樹幹にとげがあるが、老木になるに従い鋭さを失い瘤になるようです。幹の樹皮に深く縦に入った筋(裂け目)がこの樹木を特徴づけています。冬芽は可愛らしかったです。
葉は、カエデのような姿で径10-25cmと大きく、天狗のうちわのような形をしていました。
●ツチグリ(土栗)
つちぐり
これも珍しい植物です。
ツチグリはとてもユニークな形状をしており、幼菌時は土に少し埋もれ、大きさは2~4cmほどで形は球型、白色~灰褐色をしています。成長するとヒトデのような形に外皮が開き、6~10つほどに分かれ、ツチグリらしい特徴的の形になります。
開いた外皮は硬くて厚みがあり、表面には地面にできるひび割れのような模様がでます。押さえると煙のように菌が舞います。

将門伝説と豆まき

今日は節分。お昼ごろ、大久保に用があって、鎧神社に寄ってみました。
鎧神社の節分は古来伝わる追儺式をそのままに、鬼追いの儀を行うと聞いているので、一度見たいと思っているのですが、午後3時からで、まだとても静かでした。
鎧神社
この神社には平将門の伝説があります。
天慶三年(940)、関東に威をとなえていた平将門は藤原秀郷によって討たれました。
その後、藤原秀郷が病を患い、それはきっと将門の祟りだろうと、薬師如来を本尊とする円照寺に参詣し、将門の鎧を埋め、祠を建ててその霊を弔ったところ、 病気はたちまち治ったと言われます。
それを聞いた人々はその御神徳に、村の鎮守として祀ったということです。「鎧」の社名はこの故事によります。
明かり火
もう一つ、(このところ毎年、節分の儀式の行っている)鬼王神社にも将門伝説があります。
この鬼王神社という珍しい名前の由来の一つに、大久保の百姓、田中清右衛門が熊野にあった鬼王権現を勧請してきたのが始まりであると言われます。ただ、現在熊野に鬼王権現は存在せず、神社で鬼王権現が祀られているのは全国でここだけだそうです。
実は、この“鬼王”という名は、将門の幼名<鬼王丸>から来ているというのです。
織田完之『平将門故蹟考』(明治40年刊行)という書に「将門の霊を祀り、その幼名『外都鬼王』を以って社号とす」と出ているということです。
しかし、このいわれは、正式には出てきません。おそらく、将門信仰を隠した神社だろうと言われています。
5時すぎ、鬼王神社に行き、6時からの節分追儺式を今年も見ました。
この鬼王神社では、鬼を「春の神」とみなし、この神社では節分の豆まきに、「福は内、鬼は内」と唱えます。「福よ来い。春よ来い」です。
前にも書いたので今回は写真だけにします。
鬼王神社節分会 弓取り
鬼王神社 神主さんの豆まき
鬼王神社 年男女豆まき

「あかりに利用された植物」

自然教育園でミニ企画展「あかりに利用された植物」が開催されています。
昨年、国立科学博物館筑波実験植物園で同様の企画展が開かれていて、見たいなと思っていたので、近い自然教育園へ出かけました。
展示コーナーでは、あかりとして使用された油や蝋などの原料や、火をつけるための火口などに利用された植物が紹介されています。
そして、関連の木がどこでみられるか、園内マップがありました。
あかりに利用された植物のチラシ
古代 から近代までの日本の歴史をとおして見ると、植物性油は、あかり(燈あるいは灯)と食用に広く利用されてきました。
縄文時代の遺跡からも、しばしばアサやエゴマの果実(あるいは種子)が見つかっています。どちらも、種子にはたくさんの油が蓄積されていて、油を採るための植物として使ったのではないかと言われています。
っしかし、多くの一般の人が、生活の中で「あかり」を使うようになったのは、やはり江戸時代です。
屋内用の行灯や燭台、小型の小さなあかり「ひょうそく」や大広間に上から吊るす八間(はちけん)、携帯用の小型の手燭や提灯など、生活のさいいろいろな場所で使う「あかり」が工夫されていました。
イヌガヤ
イヌガヤ説明
とにかく、石油、ガスや電気が登場する以前は、動植物からとった油や蝋(ろう)に火を灯し、あかりとしました。
昔の油の原料としては、クルミ・アサの実・ツバキ・ゴマ・イヌガヤ・エゴマなどがあります。
蝋は漆や櫨(はぜ)などの実を原料にした木蝋です。
ハクウンボク
これら燃料となる油や蝋や火をつけるために必要な火口(ほくち=火打ち石で発火させた火を移し取るもの)、などに多くの種類の植物が利用されました。
かつて「あかり」に使われていた植物は百種類を超えると言われます。
油になったイヌガヤとヤマツバキ。火口としてヒメガヤ、和ろうそくのハクウンボクを載せます。
つばきヒメガマ

プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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